僕の住む街は1本の河を挟んで、天国と地獄に分かれている。
通称『一方通行の橋』を渡ると、地獄と呼ばれるスラム街だ。
橋のこっち側で落ちぶれると追いたてられるように橋を渡らされて帰って来ない。
帰って来ないのだから死んだのと同じ。
元のクラスメートにも橋を渡った連中は何人もいる。
誰も見送ったりしない。
借金を誤魔化す為にある日突然に橋を渡るから、交通事故でいきなり死ぬのと同じだ。
そして、僕達の話題は、死んでしまった友達のことじゃなくって、誰の親が幾らの借金を
踏み倒されたということになる。
損害が多ければ、それは次に橋を渡る可能性が高くなるということなのだ。
そして、誰からも相手にされなくなって結局は橋を渡る。
我が家だけは、そんな緊張感からは無縁だった。
それだけの資産があることは誰もが知っていたから。
でも、僕は感じていた。
街の連中は、僕に頭を下げているんじゃなくって、うちの財産に頭を下げているんだってことを。
僕が、そいつを初めて目にしたのは崩れかかった教会でだった。
もう何年も前に立派な教会ができたんで潰れてしまったボロ教会。
そこでホウキを持って一生懸命に掃除をしていた12.3歳の男の子。
僕と同じ年頃だけど、背はずっと低いし痩せこけている。
「おい、そんなところで何をしている?」
と僕は尋ねた。
「掃除してるようにみえない?」
そいつは、顔を上げもせずに答えた。
僕は、ちょっとムカついた。
よりによってこの僕に対して。
「ここは廃墟だぞ」
「昨日まではな」
手はまるで止まらない。
僕は、カッとしてホウキを取り上げた。
「何しやがんでえ!」
「答えろよ。なんで掃除なんかしてるんだ?」
僕は凄味を利かせた声で脅しをかけた。
「うちの神父様がこの教会を買ったんだよ」
「こんなボロ教会なんかどうするんだよ」
壁を蹴っ飛ばすとガラガラと崩れる。
ボガッ。
ぼ、僕を殴りやがった。
「俺達がどれだけ苦労してこの教会を買ったと思ってんだ!今度やったら殺すぞ」
「ちくしょう。こんなボロ教会なんかぶっ潰してやるからな!」
大騒ぎする僕達を仲裁する為に、『神父』が現れた。
すると途端に、あいつは借りてきた猫のようにおとなしくなった。
そして、神父に気が付かれないように俺にこう言った。
「この教会や神父様に何かしてみやがれ。俺は殺されたってお前を許さねえからな。
死んだ方がマシだって目に遭わせてやる!」
その声と顔は、酒場の用心棒の脅しよりも迫力があった。
スゴスゴと退散したフリをして、教会の中を覗き込む。
「ダメじゃないか。喧嘩はしないって約束したろ?」
「ごめんなさい。だってあいつ、壁を蹴って壊したんだ」
「それでも怒っちゃダメ」
「で、でも俺達がこの教会を手に入れる為にどんなに苦労したかと思うと……」
神父は男の子の頭を撫でた。
「お前が怒ってくれる気持ちは嬉しい。でも約束したろ?」
「う、うん。分かった……」
「よしよし、いい子だ」
「へへへ……」
「この教会を買えたのはお前のお蔭だからな。何かお返しを考えなくっちゃな」
「そんなのいいよ。俺はただ神父様の役に立てればいいんだから」
「何か欲しい物とかあるかい?」
「えーとね……神父様の心!」
「私は神に仕える身だからね」
「じゃあ、神父様の体だけで我慢しとく」
僕は、ゲーっとなりそうになるのを押さえて、バレないしてその場を立ち去った。
あいつらホモじゃねえか。
男同志で、なんて会話してんだよ。
でも、同時にお互いを大事にしている彼等がちょっとだけ羨ましかった。
僕も僕の知り合いも、他人の為に、あんな怖い顔をすることはできないだろう。
決めた!
僕は、あいつを苛めてやる。
いや、退治してやるんだ。
あいつは、人の良い神父のおっさんをたぶらかしている悪魔なんだ。
そうでなけりゃあ、あんな怖い顔で人を脅かせるもんか。
教会の神父に取り入る男の子に化けた悪魔。
お話のパターンじゃないか。
まずは、お父様にお願いして……
「ダメダメ、うちじゃよそ者は雇えないよ」
「悪いが人手は足りてるんだ」
あいつは何処に行っても仕事を回して貰えなかった。
そんなに蓄えがあるとも思えないから、すぐに干からびちまうだろう。
教会に足を運ぶ者も居なかった。
神父はいつも一人で神に祈っていた。
祈るだけじゃなんにもならないっていうのに。
あいつは、最後には相当に困り果てたようで街角で男の癖に売春をしようとまでしたらしい。
でも、お父様に「相手にするな」と命令された街の連中は誰も相手にしない。
何でも橋を渡ってきたらしいけど、また橋を渡らせてやるよ。
その前に、あいつのことはボロボロにしてやらないと気が済まない。
いや、僕は悪魔退治をしてるんだっけ。
程なく、オンボロ教会は我が家が買い取った。
「よお、まだここに居たのか。さっさと出ていけよ。ここは僕が買ってもらったんだからな」
「てめえ……」
あいつは、拳を握り締めて怒りの形相で僕を見詰めた。
神父に止められているから殴りかかれないのだ。
「何でもするから追い出さないでくれ!」
いきなりの土下座には、ちょっとビックリした。
「何でもするって言ったな?」
「何でもしますからお願いします!」
余程、悔しいのだろう目からは涙が零れ落ちている。
「じゃあ、服を全部脱げよ」
悪魔は素直にそれに応じる。
「勘違いするなよ。僕はお前と違ってホモじゃないからな。そうだな……
アソコの門柱にイヌみたいに片足上げてションベンしてみせろよ」
こいつ、神父に何されたんだ?
それともスラムの奴等にはプライドなんかないのか?
「ペットにして飼ってやってもいいんだけどよ。それじゃ部屋が汚れるからな」
僕は、奴を街で一番キツイと言われている職場に紹介してやった。
そこは炭坑掘りの現場で、1日中ひたすらに石炭を掘り続けている場所だ。
大人でも2時間に10分は休憩を取るし、3日働いたら1日は休む。
なのに、そいつは休まずに働いた。
やっぱり、12歳の男の子なんてのは大嘘だ。
僕は毎日、悪魔をいたぶりに行った。
「手を休めるなよ。そこの、そいつのズボンとパンツを脱がせろ」
棘の付いた鞭で叩いても声をあげるだけで手を休めようとしない。
「安心しろよ。特別手当で上乗せしといてやるぜ」
「坊ちゃん、もう私らはあんたの言葉には従えません。あの子を可哀相に思わないんですか?
あんなに一所懸命なんですよ。それなのにあんな酷いことをできるのは人間じゃない悪魔の所業だ」
ある日、炭坑の現場監督が言った。
僕は悪魔退治を気取って、毎日のように炭坑の中を鎖を付けて引き回したり、焼けた石炭を体に押し付けたりしていた。
街の連中の態度が一変したのは、それからだった。
誰も彼も僕の姿を見ると逃げ出すようになった。
悪魔は僕じゃない。
悪魔なのは、あいつの方なんだ。
「お前には感謝してるんだ」
僕と話をしてくれるのは、たった一人だけになっていた。
「あんな酷いことしたのにか」
嫌味を言われてるんだと思った。
「俺は産まれてからもっと酷い目に遭ってきたよ。あんなことぐらいで金が貰えるんら大歓迎だ」
そりゃあ、確かに特別手当は上乗せしてやったけど。
男の子は、彼の生立ちを語った。
「……で、今は幸せだとでもいうのかよ?」
「幸せだよ。神父様と一緒にいられるし役に立ててる自信もあるから」
「抱いてもらってるのか?」
「まさか、相手は神父様なんだぜ。それにそんなことをしないから俺は好きなったんだ」
「だったら……」
「体を求める奴にロクな奴はいなかった。心も欲しいって言った奴はもっと悪人だった。
……俺誓ったんだ。俺を初めて人間として扱ってくれた神父様に喜ばれるような人間になろうって」
僕は誰かに愛されているのだろうか?
誰かを愛しているのだろうか?
街の連中は僕を悪魔と言った。
悪魔を愛そうなんて奴はいないし、悪魔は誰も愛さない。
でも天使は、その逆だ。
実はこいつって天使だったんだな。
自分が辛い目に遭ってきたから優しさの価値が分かるんだ。
「一番でなくってもいい。いつか2番目になれるように頑張るよ」
僕は疲れて眠っている天使に気付かれないように注意しながら、そっとほっぺたにキスをした。
その台詞をかつて天使も神父に言ったってことをずっと後になって聞いた。
「なあ、どうしても行くのか?また橋を渡るのにどれだけ苦労するのか知ってるんだろ?」
あれから数年が経った。
僕のやろうとしていることは確かに正気のさたじゃないかもしれない。
でも、あの橋の向こうには大勢の天使が待っていると思うんだ。
だから、僕は橋を渡らないといけないんだ。
僕は、かつて橋を渡ってきた天使と神父に手を振ってコツコツと橋を渡り始めた。