山崎信一の今   


○働くということ

 私は34年間施設暮らしを余儀なくされた。その中で働くことは私の中で一人暮らしをしたらぜったい働こうと思っていた。
 私が
12歳のとき親に陶芸家になりたいと言ったら、おまえはアホかと言われた。今から思えば12歳で将来の設計を考えていたことは、すごいことだ。それから2年ぐらい陶芸の勉強をやった。今でも焼き物を見るだけで何の土からできているのか分かる。けど、今の障害の度合いでは陶芸は無理と思った。でもずっとこのままでいくんだったら働くことも考えていかんとあかんと思った。ただ、このままでは私の気持ちはまいってしまうし、若いころらしくもやもやとしてた。
 
14歳のときにある先生が私にタイプライターをすすめてくれた。はじめてこの手で字が打てた。手を脇にくっつけて、まるでミイラのようにぐるぐる巻きにしてタイプライターをやった。親はやめろと言ったけど、私の考えはいくらかっこ悪くても自分でやれたらいいやんかと言った。私にとって働くことはとても難しいことだった。
 あぁ、そうそう、
18歳のときに親にだまって広島の授産所に行って、はじめは見学のつもりで行ったのだけど、ものすごくよかったので面接を受けたら受かって、親に言ったら、また怒られて、アホと言われた。そこで一個、なんで私が怒られなあかんのか疑問だった。ついに私が親を連れて広島まで見学に行ってもらい、やっと納得してくれた。ところが、面接の返事が来たら、親の返事が変わって、やっぱりあかんと言った。私はどうしても働きたかったし、ご飯を一週間食べなかった。やっぱり食べなかったら力が出ないということが分かって、これではあかんと思った。障害がなかったら今ごろは働けたのに、と思った。
 私は叩いても叩いてもアスファルトから出てくる草のように私が納得いくまであきらめないとこのごろ思うようになった。とにかく人間はあきらめたらそこで終わりだから、障害者の中には働けない人はしょうがないとして、働く気がある人は少しでも就労を考えてもらいたい。
 私は今ワークス共同作業所で働き、また日本自立生活センターでいろんな運動に関わっている。私の基盤は働いて少しでも社会の役に立ちたいということだ。私はまだまだ未熟者ですが、忍耐だけはあるので、これからも長い目で見てほしい。私は本当に一人暮らしをして気持ちが楽になったし、他の障害者もどんどん社会参加をしてもらいたいと思う。