『ひたむきラグビー』一途に進む大西健監督。 大西監督の『楽志』をお読み頂ければおわかり頂けると思います。
京都産業大学世界問題研究所所報「世界の窓第7号 1991(平成3年)」より掲載
昭和48年4月、縁あって京都産業大学に奉職させて頂いた。その前年一年間は天理大学ラグビー部のコーチとして、体育学部の藤井主計先生の教えを受けていた。確か夏合宿を終えて9月頃に京都産業大学の話しがあったように記憶しています。その頃の関西大学ラグビー界は同志社大学と天理大学の二強時代に突入していた。京都産業大学は関西大学リーグで一番下位の三部リーグであった。
同志社独走に待ったをかけた熱血藤井ラグビーに心酔していた私にとって、京都産業大学へという先生の薦めに一も二もあろう筈がなかった。藤井先生は非常に研究熱心であり、また理論家でもあった。ラグビーのコーチ学勉強の為に単身でニュージーランドへ留学されたりしていた。当時ではめずらしいことであった。藤井ラグビーの柱に展開ラグビー・15人一体のランニングラグビーを強く提唱されていた。そのラグビー理論は現在、神戸製鋼を中心とした日本ラグビーが目指しているラグビーと奇しくも一致するものである。その藤井先生について学ぶことが出来た幸運に感謝するばかりである。
そして京都産業大学ラグビー部の挑戦が始まった。それは同時に私と学生との戦いの始まりでもあった。私にとって最初の主将が京都東山高校出身の林正人であった。彼とはよくラグビーの話をし、またチームの将来に思いを馳せて夢を語り合ったものだ。それは京都産業大学ラグビー部の出身であること、ひいては京産大を卒業したことが誇りとなるようなチームにしよう。具体的には次のようなことであった。
一、いつの日か同志社と互角に戦えるようなチームをつくろう。
一、いつの日か母なる国イングランドの芝を踏もう。
一、いつの日か1月15日の日本選手権に於いて国立競技場に立とう。
昭和50年一部リーグに昇格したものの、なかなか結果を出すことが出来ない。二部落ちは何とか免れていたものの下位を低迷していた。目標を見失いがちの毎日が続きこんな事件もあった。昭和56年度の公式戦での負け試合の後、4年生のレギュラー2人が京都産業大学ラグビー部に対する侮辱や中傷を受け、加えて自らの腹立たしさも重なって数人といざこざを起こしているではないか。それもチームエンブレムを付けたブレザーを着たままである。
私は2人を手の感覚がなくなるまで、殴り叱った。涙ながらに訴えた。
「歴史は浅くとも伝統校になれるという、プライドをもって進もうよ」
「胸のエンブレムに誇りを持とうよ」
「そんなチームにしようよ。 そんなチームを作ろうよ」
2人とも泣いていた。 後年彼らの結婚仲人をする事になった。
このようなことがあって、比叡山の明王堂に大阿闍梨・内海俊照師を訪ねた。あの千日回峰行という人間業とは思えない荒行を修行された天台宗の高僧である。私は一生懸命に足を運んだ。そして一心に教えを乞うた。「楽志」と云う言葉を頂いた。
毎日の早朝トレーニング・夜遅くまで続く練習、それに対する学生の不満、自らのラグビーに限界と苦痛すら感じていた私は、この言葉に本当に救われた。「らくし」と読むのであるが、これは山田恵諦天台座主が回峰行中の阿闍梨さんに励ましの言葉として贈られたものだそうだ。それを私ごときに頂けるなんて勿体なく恐れ多いことだと思った。 学生たちと阿闍梨さんとの交流も始まった。昭和57年度の主将は大分舞鶴高校出身の三原正也であった。三原は部員を引き連れて比叡山に登り一日回峰の30キロ山歩きに挑戦したり、毎月15日に阿闍梨さんが来られる赤山禅院に月参りとして出向いたりした。この山歩きと月参りは現在も引き継がれ続いている。
この年、関西第三代表ではあったが、初めて大学選手権に出場する事が出来た。私が京都産業大学にお世話になって10年目のことである。
昭和62年度にチャンスが巡って来た。その前年、4年生の練習ボイコット等、おそらくこれまでの人生で最も辛い時期を過ごした私にとって何としても打倒・同志社を果たさねばならない意地があった。正直なところメンバーは前年度の方が良かった。しかし、前田達也・三木康司・泉野
宣行・井川耕司といった元気者の1年生が入部して来たこと、なにより主将に大分舞鶴高校出身森迫政信を得たことは幸運であった。同志社大学との決戦前夜メンバーとのミーティングで私は勝利を確信するよう強く、そして心から訴えた。
「俺を信じろ、自分達のやってきたことを信じろ、チームを信じろ、いいか、お前達を待っているものは勝利の栄光だけだ」
「どんな感激か想像もつかないけれど、おそらく一生涯で二度と体験出来ない物凄いもんだと思う。それならこのメンバーでこのチームでその感動を味わいたい」
全員が涙ながらに勝利を誓った。
壮絶な試合になった。
フィフティーンは最初から凄い気迫のタックルとフォワードの頑張りで前半こそ3ー3で折り返したが、後半12分スクラムトライを奪い7ー3とリードした。しかし後半18分同志社猛攻撃のトライで7ー9と逆転された。烈しい攻防を繰り返し一進一退、観衆の誰もがやはりか、と思いかけた後半39分残り試合時間1分、自陣スクラムからライン攻撃、フルバック前田達也のライン参加から左ウイング愛須康一いっきの逆襲ハーフラインを大きく越えて10メートル付近まで達したとき、同志社ナンバー8宮本勝文君が思わず首への反則タックル。正面やや左40メートルのペナルティゴールを沖壮二郎が慎重に狙う。満員の観衆がまるで水を打ったように静まり返った。全観衆の目と神経が沖の動きとゴールポストに注がれている。なにか言葉にならないような異様な雰囲気である。私はとても見ていられなくて目を閉じた。やがて大歓声でゴールが成功したことを知った。まもなく試合終了の笛が吹かれた。「10ー9」。
勝った。 勝てた。
森迫が一番に私の胸に飛び込んできた。涙が溢れている。
私も泣いた。だれはばかることなく号泣した。
そして気がついたとき、学生の輪の中で私は宙に舞っていた。そこには京都産業大学ラグビー部員全員の手があった。
実はこの時森迫はジャージを着ていなかった。1年生とのレギュラー争いに敗れてゲームに出られなかったのである。彼がその辛さ苦しさを時に酒でまぎらわしたり、悩み抜いて阿闍梨さんの所へ通っていたこと、陰で他の部員の2倍3倍の努力をしていたことを私は知っていた。
放送のインタビューでアナウンサーが森迫にこんな質問をした。
「森迫君おめでとう。ゲームに出ないでチームを引っ張って行くのは大変なご苦労があったと思いますが、やはりグランドに出ていたかったですか。今どんなお気持ちですか」
「僕が試合に出ないことでチームが勝てるなら、こんなに嬉しいことはありません。苦労ですか、苦労はしていません」
きっぱりと答えた彼の笑顔が、とても爽やかであった。我が教え子ながら誇らしく思った。試合に勝てたことよりこんなに素晴らしい主将を育てられたことが本当に嬉しい。私にとって感慨深く忘れることのない京都産業大学15年目のシーズンであった。
そして私は学生を海外遠征に連れて行きたいと常々思っていた。それも最初の遠征は英国と心に決めていた。世界で最たる伝統校ケンブリッジ大学と試合をするのが夢であった。なぜなら英国はラグビー発祥の地であり、ラグビーを愛する人たちにとって、心の故郷でもある。それに私は伝統に挑戦していくことが、新しい伝統を築いていく上で大きな力になるものと思っている。ケンブリッジや
オックスフォードの伝統に実際に肌で触れることが、京都産業大学の伝統作りの礎になるであろうと信じている。このことは、歴史は浅くとも伝統校になれる、という私の考えにも由来している。
平成1年度主将杉本浩二の時、機は熟したと判断した。京都産業大学ラグビー部のテーマである、ひたむきラグビーが定着し、スクラム・モールというオリジナリティーが、チームに確立されたと思った。
準備は以前から始めていたものの、いざ具体的に動きだすと大変であった。手作りの遠征をモットーとしていたので遠征資金はTシャツ・ネクタイの販売により賄い、学生達はその目的に努力した。幸い京都産業大学同窓会が20周年記念事業として後援してくれることになり随分と助かった。問題は試合相手であるが、我々はケンブリッジかオックスフォードとの対戦を希望している為に非常に困難を要した。いろいろな角度からアプローチを試み、熊本のニコニコドーに勤めるマーブ氏に大変お世話になった。
そしてケンブリッジ大学のヘッドコーチ・ロジャーズ氏より対戦承諾の約束を頂いたと3月に連絡をうけた。丁度試合の1年前のことである。電話だけでは不安なので7月にマーブ氏にお願いして直接ロジャーズ氏に会いに行ってもらい正式な日程を決めてきてもらった。平成2年3月10日である。やっと実感として受け止められるようになった。
平成2年2月28日成田からロンドンに向かう、一行35名であった。
3月9日クラブハウスでの前夜祭に招待を受けた。学長がマント姿の正装であらわれ、明日の試合を楽しみにしている旨のスピーチがあった。伝統の重みと気品を感じさせてくれた。
試合当日、日本人も含めて多勢のひとが応援に来てくれた。神戸製鋼の林敏之氏も駆けつけてくれた。国際試合の経験豊富な林氏に試合前の檄を頼んだ。
「ケンブリッジと学生単独チームで戦うのは君たちが初めてだぞ、名誉だぞ、選手冥利に尽きるぞ。いいか、ボールは一つだ、体をはってボールを取るんだ、絶対に勝つんだ」
選手たちは勢いよく飛び出して行った。そして臆することなく勇敢に闘った。ノーサイドの笛がなった。
「24ー25」。勝つことは出来なかったが素晴らしいゲームだった。観客も全員立ち上がって、 “Congratulation”と言って拍手で祝福してくれた。闘い終わった選手たちが笑顔でお互いの健闘を讃え合っている。私も初めて「おめでとう」と言って学生達と握手した。英国へ来て良かった。連れて来て良かった。心からそう思った。
種々の積み重ねのお陰で、この年関西リーグを全勝で初制覇した。
19年前、林正人と夢として語り描いたことが、やがてチームの目標となり、そして二つのことが現実になったのだ。このことは、かかわった全ての人達にとって、今後の人生を歩んで行く上で、きっと大きな支えになる、と私は確信している。
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