HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン |
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第8話 |
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Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI |
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至福への扉を閉ざしてしまったものは、 人の罪それ自体よりも、むしろ その咎に気づかぬ傲慢な心だったのです。 (ある預言者の手記より) 薄茶色の水面が微かに揺れる。 白いカップの中で、天井の明かりがゆらゆらと波打っていた。 淡い若葉で縁取られた素朴な器は、メイのお気に入りだった。彼女はそれをぼんやりと眺めながら、医務室の椅子にひとり腰掛けている。 先ほどシャリオが申し訳なさそうに出て行ってから、部屋にはメイの他に誰の姿もない。賑やかな看護助手フィスカ・ネーレッドや、時折クレドールにも乗り組むギルドの医師ピューム・エアデンも、今回は同行していなかった。 シャリオが入れてくれた薬草茶を、メイはそっと口に含んだ。カップを手にしたまま僅かに考え込んでいたが、やがて彼女らしく一気に飲み干す。 ほどなく後、医務室の扉の閉まる音がした。 廊下を進みつつ、メイは両掌で頬を軽く叩いていた。 「気合いが足らないな。あーぁ、でもちょっと腰が痛いんだ、これがまた」 独り言とは思えぬ大きな声である。疲れが少し取れたせいか、いつもの元気が彼女に戻り始めている。 メイは青紫のクラヴァットをふんわりと結んだ。歩きながらいい加減に巻き付けたようにも見えるが、襟元をさり気なく飾る結び方は、微妙な崩れ具合のおかげでかえってお洒落に感じられなくもない。 白いエプロンと三角巾をした中年の女性が、向こうの方からワゴンを押してくる。肉付きのよい大柄な女だった。彼女が手を振ると、メイもそれに応えて足早に歩み寄っていく。 「マイエおばさん! こんなときに後かたづけなんて大変ね。お疲れさま」 「そりゃ大変だよ。いっとき、明かりは消えるし……それに昼間の戦いの後だからね、エクター連中は大飯食らうし」 血色の良い真ん丸の顔に、大作りな目鼻立ちで笑っているのは、クレドールの料理長マイエ・エゼヴィルだった。名字から分かる通り、彼女はレーナの母なのだが、それにとどまらず船のクルー全ての母親役ともいうべき、太っ腹な貫禄を身につけている。 なお、平均的に早婚であるイリュシオーネにしては珍しく、娘と年がかなり離れているのは、マイエが再婚後にレーナを産んだからだった。 「大食らいって……どうせまた、バーンでしょ? 脳味噌は小さいくせに、胃だけは人の3倍ぐらいあるんだから。まったくもう」 メイのきつい冗談を聞くと、マイエは安心した調子で言った。 「いつものメイらしくなったね。あんたがずいぶん疲れてるだろうって、心配してたんだよ」 「ありがとう。私は、この通り元気……」 2人の後ろから靴音が近づいてくる。珍しく忙しそうな様子でランディが歩いていた。手だけで軽く挨拶して、通り過ぎようとしたランディ。だが彼は思い直したように立ち止まり、メイに尋ねる。 「おや、もう寝てなくていいのかい?」 「……」 いつものお調子者ランディとは、どこか感じが違う。語調も変に丁寧だ。 彼がやって来た途端、メイもぎこちない態度をとった。 気まずい空気が漂い始める。 メイはツンとした横顔を見せたまま、決して正面からランディに向き合おうとしない。 「大丈夫です。それじゃあ、マイエおばさん、頑張ってね」 あっさり言い捨ててメイは歩き去った。 遠ざかる彼女の背中を、残された2人が見つめる。 溜息の後、マイエが小声で言う。 「やれやれ。マッシアの若様も相変わらず嫌われたもんだねぇ。でも、あの子も本当は分かってるんだよ。頭では分かっていても……自分の気持ちにどう申し開きをしたらいいのか、迷ってるのさ。若様にとってはとんだ迷惑かもしれないけど、もうしばらく我慢してくれないかい。根はとても優しい娘なんだ」 「あぁ、俺の方としては構わないんだが。彼女……とことん頑固だからねぇ。いや、最近はさすがに《許す》だの《許さない》だの言わなくなったがね、それだけでも大した進歩だ」 彼の言葉に頷きながら、マイエは手鼻をかんだ。目が少し潤んでいるようにも見える。 「それは良かった。でもあの子、ご両親を目の前で殺されちまったんだろ。詳しく話してくれないけれど、お姉さんの件だってあるしね。そりゃ、いつまでも、あの《革命》を憎いと思い続けるだろうよ。あれからとっくに十年以上経つけど、あたしやカルだってさ、ゼファイアのことを忘れられないからね。今でも時々、可愛そうな王女様の夢を見るんだよ……」 ◇ ◇ 《中央管理室》 青白く、熱もなく燃える魔法の炎をかざすと、その部屋の名前が読み取れた。 他の場所に比べて頑丈な扉が、重々しい金属光を放っている。 「幸運なことに、このドアも《電気の鍵》や《言葉の鍵》を使っていないようですね。でもルキアン君、気をつけてください。何か仕掛けがしてあるかもしれません」 ルティーニの注意に従い、ルキアンはドアの周囲をじっと観察してみた。これと言って変わった点はなさそうだが、油断はできない。子供の頃、冒険者くずれの老人が自慢げに話すのを聞いた――不用意に触れた途端、こちらに向かって沢山の矢が飛んでくるような扉も、世の中には存在するのだと。 静寂の中でルキアンの深い呼吸が聞こえる。それに続いて短い詠唱があった。 「自在なる鍵をもって、我は開く……」 しかし錠が解ける音は聞こえない。 あれこれ考え込み、扉を眺め回す彼の後ろで、ルティーニが苦笑した。 「落ち着いて。もしかすると、もともと鍵が掛かっていないのではありませんか?」 ルキアンはそっと手を伸ばし、眉間に汗する心持ちでノブを回してみた。 手応えが軽い。そのまま最後までひねってみる。 「……そのようですね」 振り返ってルキアンも笑った。 「でもルティーニさん、どうしてよりによって、こんな大事な部屋に鍵が掛かっていないのでしょう」 「さぁ……そこまでは。しかし我々にとっては好都合です。入ってみましょう」 「はい。あっ?!」 ルキアンは何か堅い物につまづいた。突然のことで慌ててしまい、彼はそのまま暗い部屋の中に投げ出され、尻餅を付く。 「大丈夫ですか? ルキアン君」 「え、えぇ。のろまなわりに、そそっかしいんで……よく転けるんです。はは」 ルキアンの頭上あたりで、主から離れた魔法の炎がふわふわ漂っている。 思わず吹き出してしまったルティーニだが、彼はその明かりの下に、こんな場所にあろうはずもない物を目にした。 「ルキアン君……きみの足元、ほら……今、君が座っている下に……」 ルティーニの表情が一転して張りつめる。ルキアンはわけが分からず首を傾げていたが、起きあがろうとして床に着いた手の先に、件の物を見つけて飛び上がった。 「骨? 人の骨が?!」 緩慢な時の中で、物言わぬ躯はすでに白骨と化していた。今日まで人知れずうち捨てられていたのだろう。安らかな眠りと言うには無惨に過ぎる。 少し落ち着いてみると、次第に哀れみの情がルキアンの心に芽生えた。彼が最初に驚いたのは、別に骸骨を恐ろしいと思っているからではなく、あくまで突然に……しかも場違いにそれが現れたせいにすぎなかった。イリュシオーネでは、人の死は決して遠い世界の出来事ではない。道端の草むらに朽ち果てた髑髏さえも、日常の片隅に潜むひとこまなのである。 「これは、ただ事ではなかったでしょうね。言うまでもなく何らかの事故……いや、事件のせいで命を落としたのだと思います。明かりをもう少し近づけてもらえますか」 恐らく旧世界人のものと思われる遺骨の傍らに、いつの間にかルティーニがしゃがみ込んでいた。ごく冷静な彼の様子に多少の驚きを覚えつつ、ルキアンはおずおずと手を差し伸べる。魔法の灯火が床付近を照らし出す。 「クレドールに来る以前、私はある小さな国に召し抱えられていました。その頃、今よりもっと若僧だったにもかかわらず……オーリウムの大学で官房学とともに法学を修めた経歴を買われ、宮廷法院の末席に名を連ねたこともありましてね」 何くわぬ顔で肋骨の一本を手に取りながら、ルティーニは静かに呟いた。 「時流から取り残された小国のこと、役人の大半は世襲の無知な貴族で、ほとんど学識など持ち合わせていない。法に精通している人間はごくわずかでしたから、新参者にすぎない私までが、君主の宮廷で仕事をするかたわら、よく請われて地方の裁判所にも足を運んだものです。特に辺境の方はひどい有様でした。当局が無力であるのをよいことに、山賊や大規模な強盗団が好き勝手に横行して、一方的に事件が増えるばかり。こんなふうに、遺体の検分にも幾度となく立ち会って……」 ルティーニの背中はどこか寂しそうで、また何か言いたげにも見える。 何度も口ごもった後、ルキアンは彼に尋ねてみた。 「あの、失礼ですが、ルティーニさんはどうしてクレドールへ? あ、立ち入ったことをうかがってしまって……お気を悪くなさらないでください」 「さぁねぇ、なぜでしょう。実のところ私自身も、時々よく分からなくなる」 ルティーニは微かな笑みをもって応えた。これまでの堅苦しい表情や、鋭い眼光とはかなり違った印象を受ける。 「でも、どうしてそんなことを聞くのです?」 仰ぎ見たルティーニの目に、じっとうつむくルキアンの姿が映った。思い詰めた顔つきで、少年は何かを真剣に考えていた。 「いえ、その、何と言ったらよいのでしょう……未来について、色々と迷ったりしているものですから」 「迷っている、と……。そうですか。でも結論は急がない方がいい。私の場合、強いて言えば、官職を捨ててクレドールに走ったのは、自分のわがままのせいだったのでしょうね」 ルティーニは立ち上がって、今度は薄暗い室内の様子を探り始めた。 飛空艦のブリッジでよく見かける、多数の計器類を備えたコンソールが並ぶ。入口の正面に当たる壁際に1列、少し間隔を開けてさらに2列。そして人の背丈よりも大きな鉄製の棚が、部屋の両サイドを埋めている。 ルキアンは人骨の方がとても気になっていたが、ここはひとまず、ルティーニの手元を照らすために一緒に付いて回った。 「わがまま、ですか?」 「そう。獅子の尻尾になることを潔しとせず、かといって、小さな鳥のくちばしになってみたものの、手狭な世界に限界を感じた……中途半端で勝手な男の、わがまま、あるいは些細な理想のためだったのです」 すぐには言葉を継ぐことができず、様々な思いを巡らすルキアン。 そんな彼に、ルティーニがこう言った。 「でもね、ひとつだけ確かなことがありましたよ。ある事件の関係で、初めて……偶然にクレドールの皆さんと行動を共にしたとき、私はなぜか思ったのです。《やっと会えた》ってね。理詰め人間の私にしては、一生で一番大きな選択を全くの直感に頼ったことになるのですが。まぁ、結果が良ければね。でも奇妙なものだ。今しがた会ったばかりの君に、こんな昔話をする気になるなんて。しかし艦長や副長、メイやバーンに初めて会ったときも、そう言えば今と似たような気分だったかもしれない。変ですね」 室内がぱっと明るくなった。 壁の辺りを調べていたルティーニが、あるスイッチを発見し、それを押したのだ。ルキアンはふと思い出す。そう言えば、以前に師のカルバと遺跡を探索したときにも、同様にして点灯させていたように記憶している。 「いやいや、ルキアン君、残念ですが雑談をしている余裕はありません。この骨が出てきて、ますます妙な雰囲気になってきましたからね。やるべき事を手短に片づけ、副長たちのところに早く戻りましょう」 一体どこで覚えたのか、ルティーニは手慣れた様子でコンソールを操作し、それらがまだ機能していることを確認した。そうかと思えば、近くの引き出しを探って鍵や資料等を盛んに取り出している。 手堅い実務家にして、さらにはシャリオほどではないにせよ古典語にも通じ、クレヴィスに及ばないとはいえ、旧世界の事情にも色々と詳しいルティーニ……器用貧乏で半端な人間という一言ではとても片づけられない、とルキアンは感じた。 「ところでルティーニさん、この遺体……」 「えぇ。恐らく何者か、あるいは何かに命を奪われたのでしょう。所々の骨が不自然に砕けているし、頭蓋骨も胴体からあんなに離れたところに。簡単に調べてみた限りでは……妙な話ですが、もの凄い力で首をねじ切られた可能性があります。パラミシオンという場所柄、もしかすると魔物の類の仕業でしょうか。しかし、こんな建物の中に魔物が入り込んだとでも?」 ルキアンの背中を冷たい物が走った。妖気にも似た例の嫌な波動を感じているだけに、不気味さはなおさらだった。 そんな彼の気持ちを察するかのごとく、ルティーニが目を細める。 「そんなに心配することはありません。この人物が殺害されたのはずっと昔のようです。今ではもう、そんな危険はとっくに歴史の彼方でしょう」 わざと肩をすくめてみせたルティーニ。彼の手には、長さ10センチ足らずの薄板状の物がいくつも握られている。不思議そうに見つめるルキアンに彼は言った。 「あ、これですか? 《電気の鍵》を開けるのに必要な、通称《キーカード》という物です。こんな大切な品が無造作に置かれたままだなんて……本当に突然、ここで何かの事件が起こったのでしょうね。それから管理用のマニュアルも見つけましたが、これを読めばエレベータの動かし方も分かりますよ。ちょっと待ってくださいね。どうやらここで作動させるらしいです」 ルティーニは制御卓の前に立って分厚い書類をめくる。驚くべき事に、あの難解な古典語を手早く流し読みしているようだ。ルキアンは感嘆の眼差しで、彼の一挙一動を見守った。 ◇ ◇ 書庫を大まかに調査し、いくつかの重要な文献を入手した後、クレヴィスとシャリオは5階に上がった。今度のフロアは主に《ディスク》を保管するための場所になっている。ちなみに2つの階を比べてみると、旧世界では紙以外の記録媒体が高度に発達したにもかかわらず、書物は依然として無くならなかったということが分かる。これは興味深い点であろう。 シャリオは帽子を脱いで手前の机に置いた。四角い神官帽の隣には、ディスクがうずたかく積まれている。金色の円盤が封じられた透明なケース――こんな小さな物の中に、膨大な文書が本当に収められているのだろうかと、彼女はいまだ半信半疑である。 額の汗を軽く拭うと、シャリオは肩から外套を滑らせた。裾が床に着きそうな仰々しい聖衣は、神官の威厳をいっそう高めはするにせよ、何か作業を行うには全く不向きである。この大層な上着を椅子の背もたれに引っ掛けて、彼女は簡素な法衣姿になった。 クレヴィスも沢山のディスクを抱えてやって来る。 「これが最後の分です。シャリオさんのおかげで助かりましたよ。もし私だけだったら、ディスクのラベルがなかなか読めなくて苦労していたところです」 「ご謙遜を。でもこんなにあると、さらに選り分けるのが大変ですわね」 「嬉しい悲鳴と言いたいところなのですが……そろそろルティーニたちとの待ち合わせ時間ですから、思い切って取捨するしかなさそうですね。まぁ、持てるだけ持っていこうと思います」 クレヴィスにしてみれば、宝の山が目の前にあるといったところか。高揚した顔つきでディスクをさっそく整理し始める。 そんな彼をどこか微笑ましげに思いながら、シャリオも作業を手伝う。ラベルに書かれた表題を手早く読み取り、そのディスクが必要かどうか……クレヴィスの指示を仰ぐのだ。 作業の手を休めることなく、彼女が言った。 「わたくし、以前からずっと気になっていたことがあるのです。イリュシオーネに存在する無数の伝説、部分的に知ることができる古代の歴史、あるいは、《沈黙の詩》も含めた予言や神話の類……全体として見た場合に、それぞれの伝承の中身は、互いにどんなつながりを持っているのかと。まだ自分の頭の中でも整理できていないのですが」 「たしかに難しいですね。塔に入る前にルキアン君とお話なさっていたのは、その件だったのですか?」 「はい。失われた世界《プロメッソス》に関する言い伝えと、旧世界に関する史実は、それぞれ全く別々の文脈で語られています。でも両者は本当に何の関係もないのでしょうか? 例えば、ごく安直に申しますと、どちらがより古い時代のことで、どちらがより新しい時代のことだと考えられるのでしょう。まだ10代の頃に、神殿でそんな質問をしましたら……単なる空想にすぎないプロメッソスの話と、歴史上の事実である旧世界の話とを、同じ次元で論ずること自体が馬鹿げていると言われたものです。突拍子もないことだと、お笑いにならないでくださいまし」 2人の間に若干の沈黙があった。クレヴィスは、しばらく無言でディスクの選別を続ける。 「そういえば、クレヴィスさん、ここ……」 話題を少し変えようとしたのか、辺りを見回した後、シャリオがつぶやく。 そのときクレヴィスは、思い出したように口を開いた。 「いや、伝説や昔話にヒントを得て、実際に古代遺跡の発掘に成功するという話も時々ありますからね。馬鹿げているなんてことはありませんよ。私個人としては……プロメッソスのおとぎ話については、そのままの形で信じるのはどうかと思いますが、ひょっとすると一種の寓意ではないかと理解しています。つまり、あの荒唐無稽なおとぎ話の中に、何らかの過去の事実も暗に示されているのだとしたら」 クレヴィスはふと手を止めて、一枚のディスクを見つめる。 「シャリオさん。おそらく今日、この塔を見てから、あなたの疑問はいっそう大きくなったのではないですか?」 「そうなのです。《パラミシオンに旧世界の遺構が存在する》というのは、やはり奇妙な話ですわ。魔物や妖精が棲むという、時の滞った幻夢の世界、つまりパラミシオンの中に……科学の粋を凝らした旧世界の建物が存在するなんて、違和感がありすぎませんこと?」 「確かにそうですね。旧世界の人々は、何のためにパラミシオンに建物を造ったのでしょうか……」 にっこり笑って、シャリオは首を振る。 「ふふ。私が考えているのはもっと子供じみたことですの。クレヴィス副長にだから敢えて申しますけれど……このパラミシオンは、すでに旧世界の時代から本当に《あった》のでしょうか。あるいは、おとぎ話の言い方を借りれば、その頃すでにプロメッソスの世界は、目に見える国と虚ろな国へと引き裂かれていたのでしょうか?」 「これはまた、何とも」 机の上に残った最後の未整理ディスクを手にしたまま、クレヴィスはシャリオの顔を見つめた。 「まだ神官見習いだった頃、私は書庫で仕事をするついでに、色々な民話や昔話をこっそり調べていたことがあります。もちろん、当時は興味本位でした。例えば《雲の巨人と悪い妖精》の話(*1)ですとか、《大きな大きな樹》の話(*2)について。そして問題の《プロメッソスの楽園》についても。非常に古いテキストにまで遡り、新旧様々な異本を比較するうちに……私はあることに気が付いたのです」 シャリオの唇にうっすらと光が浮かぶ。意味合いは異なるにせよ、どこか悪女の微笑みに通ずるものがあった。 クレヴィスは、ディスクの詰め込まれた袋を担いだ。呆れたような、あるいは感銘を受けたようにも見える表情で。 「なるほど、一癖ある物語ばかりですね。特に《樹》の話に関しては、実は色々なことが言われています。憶測にすぎませんが、私の《読み》が当たっているとすれば……シャリオさん、あなたは、プロメッソスをはじめとする諸々の言い伝えが、旧世界の崩壊について何か隠された真実を語っているのだとお考えなのでしょう。違いますか?」 「今の話からそこまでお見通しだなんて、さすが副長ですね。ただ、私の最終的な目標は……多くの伝説や民話、そして古代の歴史を手がかりとして、《沈黙の詩》の真意を解釈することなのです。それができれば、旧世界の滅亡についても多くのことが明らかになるはずですわ。なぜなら……」 シャリオは立ち上がり、白の聖衣を再び身に着けた。柔和な雰囲気の中にも、高位の神官たる毅然とした品格が漂う。彼女の背を無言で眺めながら、クレヴィスは耳を傾けている。 「なぜなら、沈黙の詩の一部は、過去の……とりわけ旧世界末期の事実を比喩的に伝えたものであり、また別の一部は、私たちの現世界の将来をも言い当てているからなのです。あれは史実の語り部にして未来への予言詩……私はそう感じます。だからこそ神殿は、あの詩を外部にもらすことを極度に怖れているのではないかと」 いつもの通り、クレヴィスは穏やかにうなずいた。歩き始めた彼は、肩に担いだ大きな革袋を指して言う。 「ひょっとするとこれらのディスクの中に、あなたの疑問を解く鍵が隠されているかもしれませんよ。持ち帰って例の友人に解析を依頼します。しかし元の世界に戻ったところで、今の戦況を考えると、旧世界の謎解きにかかわっている余裕はなさそうですが。仕方がありません……私は学者ではなく一応の戦士ですし、あなたは神官であっても、同時にギルドの船医なのですからね」 2人はディスクの保管庫を出て、ルキアンたちと落ち合うために5階の階段前に向かった。 ◇ ◇ エスカリア帝国軍との対決が刻々と近づく今……オーリウム王国の誇る要塞線《レンゲイルの壁》は、過去にガノリスの軍隊から国を護ってきたのと同様に、帝国に対する最後の切り札となるはずであった。 だがこともあろうに、この鉄壁の防御ラインは反乱軍に掌握されたままなのだ。《壁》の要となる要塞都市ベレナも反乱軍の本拠となっている。同市の奪還を計る議会軍は、皮肉にもレンゲイルの壁の堅固な守りに阻まれ、何らの決定打を与えられないまま、いたずらに包囲を続けるばかりである。 反乱軍の狙いは、帝国軍が到着するまで持ちこたえることに他ならない。あとわずかな時がたてば、エスカリアの先遣隊が国境に達するだろう。そうなればレンゲイルの壁は直ちに明け渡され、帝国の地上部隊は、何の苦もなく王都エルハインへと北上できることになってしまう。 この緊急事態に直面し、議会軍は全力を傾けてベレナ攻撃を決意。失敗を許されない軍首脳部は、エクター・ギルドに支援を公式に要請するという前代未聞の行動に出た。 つまりはベレナ攻略に関する共同作戦――この件について、議会軍少将マクスロウ・ジューラと、ギルドの最高責任者(グランド・マスター)デュガイス・ワトーとの会談が今朝密かに開かれ、盟約が結ばれるに至ったのである。 マクスロウとの話し合いを終えた後、デュガイスはいつもの通り執務室にいた。机の上に整然と積まれた書類は、各地のギルド支部から送られてくる報告や伺いの類だ。かつてはエクターとして名を轟かせた彼も、今では部屋の中で膨大な文書と格闘する日々を送っていた。すでに初老を迎えたとはいえ、豪傑肌で実戦好きなこの男にとっては、いささか退屈を感じる仕事であろうが。 デュガイスは熊のような体躯を椅子にもたせかけ、背後の窓に目をやった。 「その後、クレドールから連絡はないのか?」 両手の拳を握って机を押さえつける。頑丈な一枚板の執務卓だが、彼の体重がかかるとへし折れかねない雰囲気だ。 「今のところはありません。コルダーユ沖でガライア3隻と交戦後、進路をパルジナス方面にとったとのことでしたが、その後は音信不通のままです。ずいぶん遠い所ですからね。ネレイまでの《念信》の中継が遅れているのかもしれません。あるいは……」 隣の机で分厚い帳簿をめくりながら、カリオスが答えた。彼はデュガイスと会話を続けたまま、算盤に似た道具を器用に弾いてはペンを走らせる。ギルド屈指のエクターの1人でありながら、デュガイスの秘書らしき役割も果たしているようだ。事務仕事がずいぶん板に付いている。様々な前歴を持つギルドのメンバーの中には、こうした変わり種も沢山見られるのだ。 「あるいは……なんだ?」 デュガイスは立ち上がって窓際にたたずむ。どこか落ち着いていられないといった様子である。 対照的にカリオスは、椅子に深く腰掛けて平然と作業を続ける。もっとも今に限ったことではなく、いつもこんな調子で淡々としている彼だが。 「私の想像ですが、クレドールはパルジナス山脈を直接飛び越えてくる気かもしれません。もし普通のルートをとって山脈を迂回するのであれば、コルダーユから海沿いに南下するはずです」 「うむ、山を越えてくると? それができたら確かに時間の短縮にはなるだろうよ。だがあのパルジナスは、飛空艦乗りなら誰もが怖れる魔の山だ。いや……奴らならやりかねないか。あり得るな。上手くいけば間に合ってくれるかもしれん」 そこでカリオスが言った。 「そういえば、さきほどクレドールから最後の念信が中継されてきたとき、カルダイン艦長から補給に関して追加の要望がありました。ネレイでアルマ・ヴィオを積み替えたいのだそうですが、その時までに飛行型重アルマ・ヴィオを手配してほしいと」 「飛行型……重アルマ・ヴィオか。なるほど、クレドールがいま積んでいる飛行型は、あの元気娘のラピオ・アヴィスだけだったからな。そうだ、昨日からちょうどあの男がネレイにいただろう。サモン何某……時々クレドールと一緒に仕事をしていることだし、よく知った仲のはずだが」 「サモン・シドーさんですか。確か《ファノミウル》に乗っていましたね。あのアルマ・ヴィオは対地攻撃力が非常に高いですから、今度のクレドールの任務にはうってつけです」 カリオスの言葉に頷きつつデュガイスは机に戻った。硬玉でできた、ひと握りもある判を手にすると、次々と書類に印を押し始める。手慣れたものだ。 「カリオス、今日の仕事はわしが1人で片づける。お前は《ミンストラ》に乗り込んで、そろそろ出港準備を始めるよう伝えてくれ。飛空艦は足が遅いから、早いこと出しておかないと議会軍との合流に間に合わなくなるぞ。他の飛空艦……特に第2方面の《ラプサー》と《アクス》も、クレドールが帰還次第、ただちに合流して出動できるよう待機させておいてくれ」 ◇ ◇ 「では押してみます。よろしいですか?」 三角形のボタンにルティーニが指を近づける。緊張のせいか、あるいは若干の興奮も入り交じってか、微妙に震えている。 その背後ではルキアン、クレヴィス、シャリオの3人が見守る。 ボタンと言っても凹凸のないパネル状のものだが……それにルティーニの人差し指が触れた瞬間、緑色にぱっと点灯した。 「なるほど。エレベータ、確かに動いていますね。ルティーニもルキアン君もよく復旧してくれたものです。これで随分と楽になりますよ」 閉じられたままの扉を満足げに眺めて、クレヴィスは何かを待っている。 数秒後、ベルの音がした。 各階入口にあった自動の扉と同様に、ドアがすっと開く。 「本当に箱……ですね」 扉の向こうにルキアンが目にしたものは、数人の大人が入れば一杯になりそうな小部屋だった。いや、部屋と言うよりは入れ物と形容する方が似合っている。恐る恐る、それでも興味津々に彼は中をのぞき込んだ。 その隣をクレヴィスが通り越し、ごく当たり前といった顔つきで《箱》に乗ろうとする。 「あ、副長?」 心配したシャリオが何か言いかけたものの、クレヴィスの笑みが彼女の言葉を遮った。 「大丈夫ですよ。しかし一応、私が念のために試してみますから、皆さんは外で待っていてください」 クレヴィスがそう言いかけている最中に扉は閉じ、彼の姿は消えた。 「あの……何か動いています。数字が書いてあるランプ、ほら、さっきまで5が光ってましたけど、いま6になりました」 1から6までの数字がそれぞれ書かれた6つのランプが、扉の横の壁に埋め込まれている。ルキアンが見ている間に、5と6のランプが点いたり消えたりした。 そして再びドアが開く。 「ほら、異常なしです。とりあえず皆さんも乗ってください」 幾分とぼけた表情でクレヴィスが手招きしている。 彼の言葉に従って、残りの3人も中に入る。その時の彼らの顔には、何とも言えない面白さがあったが。 「異常……ではないのですが、少し困ったことはありましてね」 扉が閉じた後、お互いに肩が触れ合う狭い部屋の中で、クレヴィスが言った。 「いやですわ。悪いご冗談を」 シャリオとルキアンの目が合った。体を多少こわばらせているルキアンに、彼女は片目をつぶってみせた。 「副長、これで7階に行けるのですね」 ルティーニがそう言ったとき、クレヴィスが扉近くのパネルを指した。 「それが問題なのです。見てください……ここに1から6までの数字が書かれたボタンがありますね。例えば3というボタンを押せば3階に、5なら5階に行けるわけです。しかし、7と8という数字はどこにも見あたりません」 「では、どうやって?」 「落ち着いて考えてみましょう。確かにこのエレベータのどこを探しても、7階という表示は見あたりません。だからといって、別に7階に行けないと決まったわけでもないですよ。ただでは最上層に入らせてくれないにせよ、少し工夫すれば……」 皆が思案に暮れる中、クレヴィスにひらめきがあったようだ。 「ルティーニ。先ほど中央管理室で手に入れたというカードを、ちょっと貸してくれませんか?」 「えぇ。見て下さい、こんなに沢山ありますよ。ほとんどは似たり寄ったりという感じですが」 ルティーニは懐に手を入れて、名刺大のカードの束を取り出す。 「厚紙……ではないようですね。それ、何ですの?」 2人のやり取りをシャリオがしげしげと見つめていた。この塔に入ってからというもの、未知の事柄があまりに多すぎる。だが得体の知れない経験の数々は、シャリオを不安にさせるというよりも、むしろ彼女の好奇心をいっそうかき立てるのだった。 「見かけからは考えにくいかもしれませんが……これは要するに《鍵》なのです。先ほどのディスクと同様、この小さな薄板の中にはある種のデータが記録されています。勿論、ディスクと仕組みは違いますし、情報量も比較になりませんけどね」 クレヴィスはそう言うと、エレベータの操作パネルを指差す。例の1から6までのボタンが並ぶ部分の下に、ちょうどカードが入りそうな大きさの差し込み口が備えられている。 「例えばこんなふうに、鍵穴……いや、《スロット》に差し込みます」 実際に入れてみた瞬間、ブザーが鳴った。クレヴィスは苦笑しながら次の1枚を選ぶ。 「《電気の錠前》はカードからデータを読み取り、それが正しい《鍵》かどうか照合します。間違っていれば今のように拒否されますが、正しいものを挿入すればロックは解除されるのです」 状況を考えてか、遠慮がちにルティーニが手を打った。 「そうか、なるほど! 特定のキーカードを持っている者だけが、7階より上に行けるという仕組みなのですね。これはうかつでした」 「たぶんそうでしょう。いや。多分どころか、ほら」 クレヴィスが挿入した新たなカードは、滑らかな動きでスロットに吸い込まれいく。何度も続いた滑稽なブザーの響きに代わって、今度は鉄琴に似た軽やかな音がした。そして……。 「何ですか? う、うわぁっ!」 突如としてエレベータが上昇し始める。 体のバランスを崩し、気が動転したルキアンは、隣にいたシャリオにしがみついてしまった。無意識のうちにやったことだとはいえ、実に間が悪い。尊い白の聖衣を通して、何とも言えない柔らかさを感じたルキアンは、思わず身を後ろに引いた。おかげで今度は背後の壁に腰を打ちつけてしまう。 「あ、あの……その、ごめんなさい!」 しばらく手に残った、後ろめたくなるような感触……それを意識しすぎたせいもあり、ルキアンは頬から首まで朱に染めて頭を下げている。 シャリオは少し困ったような、微妙にすました顔で笑った。 「大丈夫? そんなに慌てなくても、神官を触ったぐらいでばちが当たるわけではありませんよ。気にしないでね」 「本当に、すいません……」 不本意な大騒ぎを演じてしまった後、ルキアンがわれに返ったときには、エレベータの上昇はすでに止まっていた。 自分の馬鹿さ加減が失笑を買っていないかと、彼は目の前のクレヴィスの背をそっと見やった。茶色いフロックの上で鈍い輝きを見せるのは、束ねられた長い髪……金糸で編まれた綱を思わせるその毛筋を、ルキアンがおずおずと見上げていくと、紳士的な魔道士は物静かな口調でこう告げた。 「着きましたよ。さぁ、いよいよ7階です」 のんびりとした話しぶりとは裏腹に、クレヴィスの表情は厳しくなっていた。 辺りは妙に薄暗い。天井や壁には点々と明かりが見えるのだが、すべてが青色のぼんやりとした光を放っている。その明かりの様子を目にするうちに、何やら生理的に落ちつかない気がしてきた。 エレベータの出口からは一本の廊下が真っ直ぐ伸びていた。通路の幅は狭く、しかも左右の壁に窓がひとつもないせいか、閉塞感を覚える。他方で不釣り合いに天井が高いため、地底の谷間に落ち込んだような心持ちにさせられる。行く手には闇が張り付いていた。 ――あの嫌な感覚が、6階よりもずっと強くなってる。気持ち悪いな。 エレベータを一歩出るや、ルキアンは本能的な寒気を感じた。 他のメンバーも、同様に居心地の悪さを思わずにはいられなかった。 「空気が重い……この濁った冷たい感じ。吐き気を催しそうですわ」 シャリオは露骨に眉をひそめている。杖を握りしめた彼女の手にも、周囲の怪しい雰囲気に対する嫌悪が感じられる。 クレヴィスは、魔法の光をこれまでより強めに灯した。 「もう、お分かりだと思います。この階……いや、たぶん8階をも含めて、強い《負の波動》に覆い尽くされていますね。さしあたって、この廊下には何者の気配もありませんが」 中空から炎を呼び出した彼の手先は、次いで剣の柄に添えられる。もし危害を加えようとする者があれば、呪文を待つまでもなく、刹那のうちに彼の剣閃がきらめくだろう。《魔道士》クレヴィスといっても、並の剣士や冒険者よりもよほど腕が立つのだと、ルキアンは知らなかったが。 細心の注意を払いつつ、仄暗い廊下を4人は進む。自らの足音がいつもと比べて大きく響くように感じられる。皆、鼓動が早まっていた。 第1の部屋があった。 今度も先ほどと同じキーカードを使って開けることができた。というのも、そのカードは――後で分かったことだが――警備員用のマスターキーに相当するものだったのである。 「やはり7階は、意図的に下の階から隔離されているようですね。人に知られてはならない秘密が、どこかに隠されているのかもしれません。一体、ここで何を研究していたというのでしょう……」 ルティーニは誰に言うともなく呟いて、室内の明かりのスイッチを入れる。 光とともに異様な光景が目に飛び込んできた。 思っていたよりも相当に広い。部屋中に、高さ3メートル前後のカプセルが所狭しと配置されている。分厚いガラスでできた円筒形の容器は、透明な液体で満たされていた。そのうちのいくつかは、病的な色合いで白濁している。 縦長の広間に並ぶカプセルの列。その間からは生ぐさい刺激臭が漂う。鼻の曲がりそうな臭いだったが、今はそれどころではなかった。 シャリオは喉を詰まらせ、息苦しそうに言う。 「これは……何かの生き物の標本でしょうか?」 円筒形の巨大な容器の中に、白っぽい肉塊がひとつずつ封入されている。直視するのは何となくはばかられる。横目で曖昧な視線を向けると、大方のものには手や足があるように思われた。獣か、あるいは考えたくないことだが、人の身体にも多少似ている。実際のところ何の動物なのかよく分からない。ひょっとすると魔物の類かもしれなかった。中で腐敗が進んでいるのか、肉の表面はふやけたようになって原形をとどめていない。 静寂……異臭……そして、どこか薄気味の悪い眺めである。 ◇ ◇ 第2の部屋はフロアの中央に位置していた。 扉を開けると、最初の部屋よりもさらに広い空間が現れる。8階まで含めた吹き抜けになっているため、特にその高さは圧倒的だった。おそらく《塔》の上層部の構造は、この部屋を中心として、周囲に回廊を一巡させる形になっているらしい。 「どれも得体の知れない機械だとはいえ、これだけ並べられると、とりあえず壮観ですね。しかし……」 ルティーニの目をまず驚かせたのは、室内に設置された大小様々な実験機器である。複雑な操作盤を備えたもの、円筒形の巨大なタワーを有するもの、分厚い扉を持つ炉のようなもの、等々……設備の充実ぶりたるや、これまでの階で見られた小規模なラボとは比較にならない。 各種の器材から出たパイプや配線は、壁を伝って錯綜し、白い丸天井へと這い上がってひとつに結びつく。見事な弧を描くドーム状の屋根は、ある種の迫力さえ伴っている。 頭上高く伸びる柱はすべて、黒光りする石で作られていた。漆喰塗りにも似た肌を持つ白壁の中で、よく磨かれた石柱は重厚な輝きを見せる。また、南北の壁には多数のモニターが埋め込まれている。 この部屋本来の光景は、見る者に対してまさに科学の殿堂という感を与えていたのかもしれない。だが惜しむらくは、現実として室内全体が復旧不可能なまでに破壊されていることだった。 「せっかくの大がかりな実験室も、これほどひどい有様では意味がありませんね。何かの事故? いや、そんな単純なことでは片づきませんか」 引き裂かれ、ねじ曲がった機械をクレヴィスが残念そうに見つめる。設備の大半は、原型を留めぬほどの損傷を被っていた。 「誰かに壊されたのでしょうか? そんなふうに見えるのは確かですけど」 ルキアンはそう言って肩を震わせた。何者かによって徹底的に荒し尽くされた結果が……この有様であろう事は、ごく自然に想像できる。分かっていながらも、敢えてそう考えるのを避けていたのだが。 「えぇ、ルキアン君。でも妙ですよ。どの残骸を見ても、爆発物や火器の使われた形跡が全くありません。ここまで大きくて頑丈な機材を、力ずくで叩き壊したというのでしょうか? そんな無茶な話が……でも、現に」 機械の破片を手に取ったまま、クレヴィスは言葉を詰まらせる。 と、彼は不意にひとつの机に近づいた。 書類やディスクが卓上を乱雑に埋め尽くしている。それらのうち幾つかを、クレヴィスは袋にしまい込んだ。 だが本当に彼の気を引いたのは、金属製の強固な収納ボックスだった。厳重に鍵まで掛けられていたので、クレヴィスは例によって呪文で錠を外し、中に保管されていた分厚いファイル2冊と数枚のディスクを取り出す。 ファイルを開いた後、彼の表情が微妙に変化した。 少なくとも、書類の内容に感心しているのではなさそうだ。忌々しげな目をして何度も首を振った後、クレヴィスは棘のある口調で言う。 「ここで行われていた研究、おおよその見当が付きましたよ」 その言葉を聞いて仲間たちが駆け寄る。 クレヴィスから無言でファイルを見せられたシャリオ。今度は彼女の顔から血の気が引いた。声を発することができず、唇はただ震えている。胸元に下げた聖なるシンボルを手にすると、シャリオはうなだれるように祈った。 「こんなことを……こんなことを、神がお許しになるはずがありません!」 いつも温和で冷静な彼女が、ややヒステリックに声を上擦らせて言う。 「シャリオさん、いったい何が……えっ?」 ルキアンは、ルティーニから別のファイルを手渡された。 厳しい表情で頷くルティーニは、書類の中身をこの繊細な少年に見せてよいものかどうかと、最初は迷っていたらしかったが。 ひと抱えもある加除式のバインダーには、こんなタイトルが付けられていた。 《アストランサー計画》 正体不明の文書に目を通していくうちに、ルキアンは何度も嘔吐を感じて、胃の中の物をもどしそうになった。恐ろしい写真の数々、無惨で禍々しい地獄絵図には、徹底して客観的・論理的なコメントが付されている。 人間の上半身と馬の胴体を持つ生き物……かつて存在したケンタウロス? いや、ケンタウロスたちは力強さと優美さとを兼ね備え、生きた彫刻さながらの姿であったらしい。この写真に写った生き物は、どう見てもその言い伝えとは異なっている。競走馬のごとく引き締まった下半身に比して、上半身は贅肉で弛んでいた。不釣り合いなその上体は、白く肥え太った中年男性にしか見えない。薄い前髪を垂らした額は、どす黒い肉腫で覆われている。それらの瘤を刺し貫いて、赤や青のパイプが食い込む。見開かれたままの目は無表情で、恐怖に血走ることや、絶望に涙することすらもはや忘れていた。 別の写真。水槽の中で窮屈そうに身をよじらせているのは……人魚? しかしそれは、伝説に登場する美しい女性の姿ではなく、痩せ細った若い男の姿をしている。それだけに、変に生々しくて気味が悪い。人魚ならぬ彼は、水中で苦しげに泳いでいた。否、もがいていた。裸の脇腹や背中から、皮膚や肉を切り裂いて、不揃いな鰭が生えている。よどんだ水中では、黒く細いケーブルが何本も揺れている。 様々な生物と人間とをいびつに融合させたような――《魔物》の写真が、他にも数多く収録されていた。ただし、それら異形のものたちが全て魔物のようで魔物でないことは、ルキアンにも分かった。 ページをめくるにつれて、さらに見るに耐えない画像が現れる。 全身の皮を剥がれた、人の形をした生き物が鎖につながれている。骨格、筋肉、内蔵を薄皮一枚に封じ込めたそれは、目を覆いたくなるような姿である。極限的なかたちで、否応なく肉や筋の動きを想像させられる。わずかな脈動にも表皮がはじけ、血や体液が全て流れ出してしまわぬかと、おぞましいばかりのイメージが心をかき乱す。薄暗いケージの中、よく見るとそれは4つ足の動物ではなく、足と手を遣って無理に歩いているようだ。 あるはずのない場所に手や足の――それも人の腕や脚の――生えた動物が、檻の隅でうずくまっていた。 胸に顔のある……首の二つある……首のない……人の似姿? 溶け出した臓腑の塊を思わせる生き物が、地べたを這いずり回る。 その全てが実は……。 もはや正視できなくなって、ルキアンは大きな音を立ててファイルを閉じた。 ――それじゃあ、さっきの部屋にあった標本は、みんな……。 悲痛な面差しでルキアンは反芻する。 彼の様子を見て、クレヴィスが静かに告げた。 「どうです? 人はここまで愚かになれるのです。極めて高度な研究を行うだけの頭脳がありながら、同時にこんなにも低劣な発想に及ぶことができるのですよ。人間という壊れた獣は、知性を保ちつつ、感情だけ狂ってしまうことができますからね」 心の奥からわき上がってくる、形容しがたい感情。ルキアンは声も出せずにじっと身を凍らせていた。彼だけではなく残りの者たちも、身じろぎもせず。 沈黙を破って、ルティーニが低い声で尋ねる。 「副長、ひょっとしてこれは全て……本当は、人間……なのですね?」 クレヴィスは黙ってうなずいた。 「《マキーナ・パルティクス》を注入して、人体を細胞レベルで改造する操作……それによって人間を全く別の生命体に造り替える実験や、あるいは魔法技術も併用して、異なる生物と人間とを接合し、一種のキメラを作り出そうとする実験。それらをここで行っていたのです。下の階で見たように、マキーナ・パルティクスは本来、アルマ・ヴィオの再生や変形を行うために作られた極小の粒子機械です。それが人体実験のために用いられていたというのです。自分たちの行いが異常だということ……それすらも分からないほどに、歯止めが効かなくなっていたのでしょうね」 ルキアンは、いたたまれなくなって天井を見上げた。 高きところ――吹き抜けの終端、つまり《塔》の屋上はガラス張りになっており、燦々と日を浴びた青空がそこからのぞいている。 天から降り注ぐ暖かな光。しかし輝きに満ちたこの部屋は、本当は果てしない闇に閉ざされた奈落に他ならない。神の祝福から永劫に切り離された空間が、ここなのである。 「なんという人たちでしょう……」 目を閉じたまま、シャリオも天を仰いだ。 「この犠牲者たちも、みんな同じ、人間なのですよ。どういう理由で、こんな悪魔にも等しい振る舞いが許されると言うのでしょうか? このような恐ろしいことが続けられていた一方で、旧世界の人々は平和な日々を安穏と送っていたというのでしょうか。知らなかったのでしょうか? それとも狂っていたのでしょうか! せめて、そのどちらかであってほしい。もしも旧世界の人々が、この事実を知っていたのだとしたら……もしも、人を愛する心を持ちながら、同時に別のところでこんな醜い行為を認めていたのなら、神よ、人の傲慢さは……」 彼女の心の中で、旧世界の2つの側面が交錯する。 クリエトの塔が立ち並ぶ、壮麗で快適な都市空間。春の陽光の中で微笑む、あの幸福な家族の写真。豊かで満ち足りた超科学文明――光の情景。 闇の世界――それは冷酷に行われた無惨な人体実験。平穏な社会の中で、次第に大きくなっていった孤独の影。あの犯罪者たちの顔。うつろな目の人々。 「人の世は、どうして矛盾に満ちて……」 うめくような彼女の言葉。 それに対して悲観的な目で応じ、クレヴィスはつぶやく。 「たったひとつ確かなことは、そんな旧世界が結局は滅びたという事実です。それが神の御意志による結果なのか、あるいは人が自ら辿った道なのか、私には分かりません」 2人のやり取りが、ルキアンの脳裏にぼんやりと響いていた。 【注】 (*1)イリュシオーネに伝わる昔話。ごく大雑把に言えば、雲の上に住む巨人が、妖精の娘にだまされて数々の悪事を働くという内容である。この話の詳細については後に明らかにされるだろう。 (*2)同じく昔話。内容はおよそ以下の通り。貧しい農夫の少年が、巨大な種を拾って畑に植えると、そこから天にまで伸びる木が生まれた。その木を彼が登っていくと、雲の上に立派な城があった……。この話もいずれ詳しく語られる。 |
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