HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第7話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  強き光あるところ、また色濃き影あり。
   幸ある者と時を同じくして、不運に泣く者あり。
    ――この先、光のみにても、闇のみにても進むこと能わず。



「光よ……」
 シャリオが杖をかざすと、その先端に黄白色の輝きが宿った。
 遺跡の中は予想外に暗い。外の日が射し込んでいるにせよ、それは気休め程度の明かりにしかならない。窓から多少なりとも離れてしまえば、そこはもう影に支配された世界である。
 玄関を一歩入ると中は広いホールになっており、得体の知れない闇が奥へと続いている。灯火がなければ足元さえおぼつかないところだが、魔法によって創り出された光のおかげで、移動や簡単な調査くらいなら支障なく行うことができるだろう。
 興味深そうに見ているルキアンに気づいて、シャリオが言った。
「私も多少の呪文は使えます。ルキアン君たちのような魔道士とは、比べ物になりませんけれど」
 不意の言葉にルキアンは頬を少し染めた。彼のそんな細かい表情も分かるほど、周囲は明るく照らし出されている。
「あ、いえ、僕はまだ見習いですから、大した術は……。ところで、今のは神聖魔法ですか?」
「そうです。この程度のことなら、皆さんのお役に立てますわ」
「あ……あの、えぇ、そうですよね。シャリオさん、神官ですものね」
 ルティーニが軽く咳払いする。
「勿論どころか、シャリオさんは《準首座》の神官なんですよ、ルキアン君」
「ほ、本当ですか。準首座って、たしか普通の神殿の主任神官より偉い……」
 シャリオは黙って微笑んでいたが、クレヴィスと視線を交わし、小さくうなずいた後に歩き始めた。時間は限られているのだ。できるだけ急がなければならない。
「声あり、光は満ちぬ」
 クレヴィスも呪文をささやいて、手のひらの上に青い炎を呼び起こす。一連の所作は極めてさりげなく、無駄のない動きで行われた。息でもするように自然な振る舞いだった。
 ――すごい。この人は、いったい……。
 ルキアンはクレヴィスの技に舌を巻く。そこでルティーニに促されなければ、彼はしばらく感心して歩みを止めたままだったかもしれない。
 2つの魔法の光を頼りに広間を進んでいく。最初は、足元の絨毯の感触を確かめながら慎重に進んでいたのだが……とりあえず何の仕掛けもなければ、気になる物もなさそうだったので、4人の足取りは次第に大胆になった。いや、むしろ、そうしなければならなかった。
 閑散とした空間の所々に、革張りの長椅子やガラス製の座卓が置かれている。
 クレヴィスは灯火をかざして、それらの調度品をごく簡単に調べていく。
 頭上で反射して光を放つのは、部屋の規模に見合った巨大なシャンデリアだった。この照明設備の大部分は恐らくクリスタルガラスで作られている。精密な細工の数々は、それなりに豪華な装飾だと言えなくもない。もちろん旧世界の技術力を考えれば、この程度の品を作ることなど造作もなかったろうが。
 シャリオが灯りを手に振り返った。
「本当のことを言うと、わたくし、神殿にいた頃よりも今の方が楽しい気がします……不謹慎でしょうか?」
 一見して生真面目な雰囲気の彼女だが、いまの笑顔は悪戯っぽい少女のそれを思わせる。
 すぐには誰も彼女に言葉を返さなかった。遠慮がちに目で応えたルキアン。
 シャリオはつぶやいた。
「例えばこうして遺跡を調べるなんて、とても面白い経験ですわ。もっとも、以前の私なら、楽しいとか楽しくないとか、そんなこと自体どうでもよかったかもしれませんが」
 広間の突き当たりが見え始めた……正面の壁からは一本の廊下が伸びている。
 先頭を歩いていたクレヴィスは、この新しい通路を灯りで示す。
「おかしなものです。我々3人とも、元はエクター・ギルドと関係ないところで生きていたのに。運命の歯車がもっと別なかたちで動いていたなら、ひょっとすると、お互いに一生出会うことはなかったでしょう」
 ルキアンたちは小走りで駆け寄っていく。途中、ルティーニが言った。
「まさかこんな場所で探検することになるなんて、私だって夢にも思っていませんでしたけどね。でも後悔はしていませんよ」
 4人はホールの出口に立ち、自分たちが通ってきた場所をもう一度眺めてみた。こうして見るとやはり大きな部屋だった。隅の方までは光が行き届かない。
 クレヴィスは懐中時計の蓋を開いて、残り時間を確かめた。
「部屋の両側にも別の扉や廊下があるようですが……全てを調べるのは無理だと初めから分かっているのですし、ここは運を天に任せて、一直線に進んでいってはどうでしょう。こんな入口で遊んでいるだけ時間の無駄です。単純すぎますか?」
 シャリオとルティーニ、そしてルキアンも彼の意見に同意する。
 ルキアンは思った――素人考えかもしれないが、《めぼしい物》というのは往々にして上の方の階、それも奥まったところにありそうなものだと。

 ◇

 遺跡の奥へと進むにつれ、廊下は全くの暗闇となった。
 さきほどの広間と違ってごく狭い場所なので、魔法の灯火は両側の隅々にまで行き渡る。他方、これから進んでいく道と今まで進んできた道とが、前後ともに見えない。
 闇に対する本能的な恐れゆえか、ルキアンの心に漠然とした不安が生じる。
 だがしばらく歩いて、何回目かの角を曲がった後、うっすらとした光が前方にあった。どうやら外の日が差し込んでいるらしい。
「階段がありますね。私たちの選択は正しかったようです」
 クレヴィスがそう言う通り、行く手に階段が見え始める。今しがたの明かりは、踊り場にある窓から入ってくるものだった。
「やれやれ。ほっとしました。どうも暗いところは苦手ですよ」
 何ともいえない顔でルティーニが苦笑する。彼は額に浮かんだ汗を拭っていたが、その手が不意に止まった。目の前の壁を凝視している。
「副長。ひょっとしてこれは旧世界の、レベ、いや、エレ……何とか、というものでは?」
 階段の隣に閉ざされた扉がある。そのすぐ近くの壁には、幾つかのボタンの並ぶパネルが埋め込まれていた。
 クレヴィスは、何か意味ありげな様子でパネルに触れた。1から6までの数字が書かれたボタンは縦並びになっている。彼の指が押さえているのは、数字のない三角形のボタンだった。しかし何の反応もない。
「そうです。もしこれが古文書に書かれている通りに動けば、時間が大幅に短縮できるはずなのですが。惜しいですね」
 ルキアンとシャリオは、何のことかよく分からず、2人して首を傾げている。
 クレヴィスは彼らに説明しつつも、潔く階段の方に向かい始めた。
「要するに自動の昇降装置です。この扉を開けると、人間の入れる部屋……箱が中にあります。滑車で物を上げ下ろしするような形で、その箱は建物の中を上下に動きます。それに乗っている人間は、自分の足でわざわざ歩かなくても、好きな階に行くことができるのですよ」
「なるほど……便利な仕組みですわね。ただの扉にしか見えませんのに。神殿にいた頃、いつも重たい本をたくさん持って階段を往復していたものですが……この装置があったなら、ずいぶん楽ができたでしょう」
 そう言ってシャリオが微笑んだ。
 旧世界の文明の利器を用いることは諦め、四人は素直に階段を登っていく。
 踊り場にさしかかる。そこは幾分広くなっており、どういうわけか、ちょっとした展示スペースらしき空間が設けられていた。かつては訪問者の目を楽しませるものが置かれていたのかもしれない。
 窓の下には空っぽの額が掛けられている。おそらく肖像画か何かでも飾っていたのだろう。その程度の手頃な大きさだった。無造作に傾いた木製の額縁は、時の止まった世界にふさわしい虚ろな雰囲気を漂わせている。
 今は見る影もないこの場所だが、それでも素通りするのは惜しい気がする。ただひとつ、台に乗せられた大きなガラスケースとその中身が、寂れた建物の中で異彩を放っていたからである。
 ルキアンは何気なくケースをのぞく。首をひねりたくなるような……奇妙な、あるいは趣味の悪いオブジェがその中にある。球体に突起や触手が生えた、例えようもない形をした物体が、明らかに《陳列》されているのだ。
 ご丁寧に説明書きも添えられているのだが、残念ながら《古典語》の文章である。少なくとも辞書を持っていない限り、彼にそれを読むことはかなわない。
「ルキアン君、私にも見せてくれませんか」
 シャリオも謎の展示品に顔を近づける。彼女の肩が不意に触れたので、ルキアンは慌てて体を引っ込めた。
 小さくつぶやきながら、シャリオは解説文を手短に読み解いていく。素人にとっては暗号に等しい古典語も、彼女にかかれば、遠い過去の彼方からたちまち現在によみがえる。
「多分、何かの画期的な発明を記念したものらしいですわ。拡大した模型、倍率……大きな数字が出てきますね。桁が想像できないです。何の倍率かしら。あら、アルマ・ヴィオのことも書いてあります。組織の再生……微小、分子……再配置、ナノ……専門的な用語が多すぎて、私にはよく分かりません。とりあえず、この不思議な物の名前ですが、マキーナ……パルティクス。副長、ご存じ?」
「《マキーナ・パルティクス》?!」
 眼鏡の向こうでクレヴィスの目が光った。一転して真剣な顔つきに変わる。
「シャリオさん、ちょっと代わってください。もしやこれは……」
 ガラスの箱をにらんだまま、クレヴィスは身を固くしていた。彼の頬が少し震えているようにも見える。
「まさか、架空の理論ではなく本当に存在していたなんて。信じられません。あのマキーナ・パルティクスに間違いありませんね」
「何ですか? 古典語で、機械がどうとか……たぶん、そういう意味ですよね」
 クレヴィスがこれほど驚くのを見て、ルキアンはいやが上にも興味をかき立てられた。
 答えるクレヴィスの声も、いつになく興奮気味のようだ。
「このケースの中にあるモデルは、マキーナ・パルティクスの代表的な使用例を模式化したもので、最近、某技術史家が《リジェネレーター》という訳語を与えたタイプです。リジェネレーターとは、簡単に言えばアルマ・ヴィオの体を再生させる装置です。本当は装置という表現は不適当ですが……リジェネレーターを有しているアルマ・ヴィオは、たとえ手足を切断されたとしても、すぐ元通りに再生することができるのですよ。まったく、今の技術水準をはるかに越えた話ですが」
「急には想像できないですけど、そんなアルマ・ヴィオがあったとしたら……恐ろしいですね。でも、この丸い虫みたいな物がどうやって再生を?」
「ええ、ルキアン君。そこが問題なのですよ。実はリジェネレーターは、ごく小さい機械のようなものです。どのくらい小さいのかというと、驚かないでくださいよ……リジェネレーターは、旧世界の科学で言う《分子》の配列を、いや、希には《原子》の配列さえも組み替えることができるであろうほど微小なのです。で、仮にアルマ・ヴィオの組織内にリジェネレーターを《飼って》おくとしましょう。何億、いや、もっと例えようもない数になるでしょうが。そうすると宿主たるアルマ・ヴィオが破損したとき……リジェネレーターは、機体自体の素材はもちろん、付近にある他の物質をも分子・原子レベルで再構成して取り込みながら、損傷部分を復元するのです」
 旧世界の分子論の話については、ルキアンも師から習ったことがある。だが彼の頭の中で、クレヴィスの今の説明はなかなか整理されなかった。
 少年の怪訝そうな表情を見ながら、クレヴィスがまとめる。
「結局、マキーナ・パルティクスという古典語は、直訳すれば《極微粒子機械》という感じですね。このリジェネレーターのように極めて小さい……」
 クレヴィスは言葉を切り上げ、また階段を登り出す。
「行きましょう。上の階でもっと重要な情報が得られる可能性が出てきました。マキーナ・パルティクスは、あの《ステリア》と並んで、おそらく旧世界のアルマ・ヴィオ技術の最高峰に位置します。現在ではすでに失われた知識ですが、もう少し詳しいことが分かれば……。あるいは、当時の他の技術についてもここで知ることができるかもしれません。面白くなってきました。この建物は何のための施設だったのか……」

 ◇

 それはルキアンたちが2階に上がった瞬間のことだった。
 階段と廊下とを隔てるガラスの扉が、魔に魅入られた屋敷での出来事さながらに、ひとりでに音もなく開いたのである。 同時に付近の明かりも点灯し始めた。手前の方から廊下の奥に向かって、天井に光の列ができていく。
 突然のことにルキアンは驚く余裕すらなく、ぽかんと口を開けて見ているばかりだった。彼が慌て始めたときには、全ての装置はもう動作を終えていた。
「何ですの? まさか中に誰かいるのでしょうか」
 緊張した声でシャリオが尋ねたが、彼女に呼び掛けられたクレヴィスの方は、何食わぬ顔で先に進んでいこうとしている。
「人がいるかどうかは別として、この扉はもともと自ら開くように作られているのですよ。明かりがついたのも、たぶん扉の開閉に連動する仕組みになっているせいでしょう」
 ルティーニもそこかしこを興味深げに眺める。特に頭上で輝く白いガラスの《筒》には馴染みがある。それは、彼がクレドールでいつも目にしている……いわば旧世界のランプだった。
 ちなみに方々のジャンク・ハンター(発掘屋)や冒険者に手を回して、この《光の筒》を交換用に仕入れることも、ルティーニの管理する様々な業務のひとつである。ごく簡単な構造のわりには、筒の模造に成功したという話はまだ聞いたことがない。それゆえ遺跡で発見された物を再利用しているのが現状なのだ。
 廊下に沿って多くの小部屋が並んでいる。今度は照明が確保されているので、調査は随分と楽になりそうだが。
 手近な部屋のドアノブを回した後、クレヴィスが苦笑する。
「全て鍵が掛けられているようですね。幸い、ごく普通の鍵で開閉する仕組みですから、《開錠》の呪文でどうにでもなります。もしこれが旧世界の鍵、つまり電気を使った錠前だったなら……塔の入口でやったように、壊して開けるしかありませんけどね。まぁ、試しに一部屋のぞいてみましょう」
 クレヴィスは目を閉じ、右手を突き出して扉に向けた。詠唱が始まる。
「閉ざされし秘密への道を我は開かん……封じられたる悪しき力ある時は、それも去るべし」
 厳かに紡ぎ出される呪文を耳にしたとき、ルキアンの眉がわずかに動いた。
 ――あれは、単なる開錠の魔法じゃない。罠が仕掛けられている扉でも、魔法で封印された宝箱でも無事に開けるという、高度な《全解除》の呪文……。
 カチリと音がした後、クレヴィスの手がノブを難なく回す。
「何かの研究室……ですか。本格的な実験設備は見あたりませんから、たぶん書類の整理や研究報告の準備にでも使われる場所なのでしょう」
 手狭な部屋は8つの机だけですでに一杯になっていた。その間を埋めるようにして本箱が並ぶ。試験管やフラスコを納めた簡素な棚も置かれている。
 ほとんどの机の上には、おそらく皆同じ種類と思われる装置があった。大きめの本程度のサイズだろうか、堅い樹脂のような材質でできた《箱》が縦置きにされている。その隣に《足付きの額縁》とでも形容すべき何かが。それらの手前には《沢山のキーの並ぶ薄い板》が備えられている。この3点でひとつのセットを構成しているであろうことは、容易に推測できた。ただし何に使う道具なのか想像もつかない。
 物珍しそうに見入るルキアンの横で、クレヴィスがこの不可思議な装置を動かそうと試みる。些細な試行錯誤の後、あるボタンをクレヴィスが押した。すると《箱》の中から機械的な音がするとともに、《足付き額縁》に文字が浮かんだ。もちろん古典語である。
 白く光る文章が入れ替わり立ち替わり映し出される。綺麗に着色された絵も何回か現れた。目まぐるしく変化する表示がひとまず止まった後、クレヴィスは軽く溜息を付く。
「だめですね……やはり《言葉の鍵》が掛けられています。こればかりは、魔法で外すわけにも、壊して開けるわけにもいかないですし」
 残念そうな顔をしているクレヴィスに、ルキアンが問いかけた。
「クレヴィスさん、この箱みたいなものは一体……」
「《知恵の箱》と呼ばれる機械です。敢えて言えば、人の手によって作られた頭脳といったところでしょうか。人間よりも遙かに頭の回転がよく、信じられないほどの記憶力を持っています。知的な作業をこの箱に手伝わせ始めてから、旧世界の文明は飛躍的に進歩したそうです」
 奥の机ではシャリオが妙な物を手に取っていた。透明な薄いケースの中に、金色に光る円盤が封じられている。掌に乗るぐらいの大きさだ。彼女はそれを窓際で光にかざしてみたり、軽く振ってみたりする。
 その様子を指してクレヴィスが言う。
「あっちでシャリオさんが持っているのが……古典語で《ディスク》と言う物です。紙の代わりに文章や絵を記録しておくことができます。動く絵や音までも取り込んでおけるそうですが。あのディスク一枚で、ちょっとした書庫に匹敵する情報を保管できるというのですから、旧世界の技術は大変なものです。ディスクを知恵の箱に入れると、記録されている内容を閲覧することができるんですよ」
 ルキアンも、机の上にあったディスクを試しに調べてみた。
「光る円盤には何も書いてありません……目に見えないぐらい小さな字で、びっしりと文章が記録されているのでしょうか」
「いや。文字をそのまま書いてあるわけではないですよ」
 クレヴィスは笑って首を振ると、自分もディスクを取って鞄にしまい込んだ。
 珍しい品を持ち帰るためであろう、彼は皮製の大きなザックを背負っている。
「実はオーリウムの某遺跡に、今でも動く知恵の箱が一台だけあって、それを使うとディスクを読むことができるのです。その設備を管理している学者は私の友人です。元の世界に帰ったら、彼に頼んで解析してもらいましょう」
「なるほど。いくら貴重な情報源とはいえ、重い本をたくさん拝借していくのは骨が折れますが、こんな小さな物なら楽ですね」
 ルキアンも若干のディスクをかき集めて懐に入れようとする。表面に張られたラベルに題名が書かれているのだが、ルキアンにとっては……いや、現世界の大半の人間にとっては意味不明のタイトルばかりであった。
 知恵の箱とディスクという便利な道具があるためか、古典的な記録媒体――つまり紙はあまり見あたらない。それでも部屋の所々に、若干のメモ書きが散らばっている。
 ルティーニはその一枚を手に取った。
「うむ……よく分からない図があります。直線や二重線、あるいは六角形のようなもので、沢山の記号がつなぎ合わされていますよ。何かの構造を示しているみたいです。走り書きがしてあります……全部は読めないですが、《分子》とか《細胞》とか、そういった単語が出てきます。アルマ・ヴィオの体組織に関することでしょうか?」
 と、不意に彼は考え込む。
「おや? 変ですよ。この紙、いやに新しいとは思いませんか。いくら時間の流れ方が遅いとはいえ、相当の年月が経っているはずです。それなのにほとんど変色していません」
「旧世界の紙には、百年以上変質しないものもあると聞きます。しかし、それだけではないでしょう。おそらくは……」
 クレヴィスは壁の上部と天井をあちこち眺めて、何度かうなずいた。
「照明やドアが動いていることからも分かるとおり、この階の設備は現在も機能し続けているようです。ですから、高度な《空調装置》……つまり、ここの湿度や温度を一定の条件に保つ仕組みが、働いているせいもあると思います」
 時計を気にするルティーニを見て、クレヴィスは言う。
「雰囲気から察するに、たいした物はなさそうですね。部屋の管理も甘いですし。他の研究室も似たような状況かと思います。ディスクの内容を後で確認しないと詳細は分かりませんが、書類から判断する限り、おそらく主に生物……それも人間や獣の細胞に関する分子レベルの研究をしていたようです。魔術的な角度からの記述はあまり見られないですから、アルマ・ヴィオは問題になっていなかったかもしれませんね。あと幾つかの研究室を調べたら、2階はこの程度で切り上げて上に進みましょう」

 ◇ ◇

 オーリウムの国土の多くは森林や丘陵によって占められている。その中にあってガノリスに近い南西部には、例外的に広い平野が開ける。この沃野に至る諸街道の合流地点として栄えてきたのが、王国最古の都市ミトーニアである。
 同市はかつての都として知られる。百数十年前、隣国ガノリスの軍事的脅威を避けるために、現在の首府エルハインへと遷都が行われてからも、ミトーニアの発展は続いてきた。
 だが現在、ミトーニアは議会軍にとって頭痛の種となっている。同市を含む平原一円を領有するナッソス公爵家が、反乱軍側に付いたからである。
 反乱軍の拠点・要塞都市ベレナと、ミトーニアは比較的近い位置関係に置かれている。両市をつなぐ街道はナッソス家および反乱軍によって制圧された。この補給線を利用して、王国有数の商業地ミトーニアに集まる豊富な物資がベレナへと供給されているのだった。

 ミトーニア近郊。市壁も何もないごく小さな町に、突然の歓迎されざる来客があった。
 町の中央の広場にそびえる影、それも1つや2つではない。静かな赤煉瓦の家並みを、4体のアルマ・ヴィオの巨体が威圧している。それらの足元では罵声が飛び交い、おそらく威嚇にすぎないであろうにせよ……銃声も聞こえた。
 アルマ・ヴィオは全て同じ種類で、外見的にはどことなくバーンの《アトレイオス》を想起させる。だが重騎士のような風格を持つアトレイオスに比べて、甲冑部分がかなり貧弱なようだ。手にしている楯も鉄塊にすぎず、光のバリアで形成されたMTシールドではない。何よりも体の色が違う。《蒼き騎士》アトレイオスに対して、こちらは象牙色とマホガニーで塗り分けられている。
 ある意味、似ているのは当然だった――この《ゾーディー》という名の機体に独自の改良を重ね、アトレイオスが作られたからである。
 ちなみにゾーディーは議会軍の汎用型アルマ・ヴィオだが、やや型が古くなっており、昨今では次期主力タイプの《ペゾン》に交換され始めている。そのため民間に古い機体が下げ渡されることも少なくない。
 エクターと思われる男がゾーディーの足元で何かわめいているけれども、彼は軍の制服を身につけていない。見た感じにも軍人らしい厳粛さに欠けていた。下手な髑髏の絵が背中一杯に描かれた皮の上着、真っ赤に染めた頭……顔つきも露骨に野盗風だった。彼らのゾーディーも恐らく軍からの流出物である。
 町の有力者と思われる人々を前に並べて、男は盛んに騒ぎ立てている。
「いいか! 早く金と食い物をもってこねぇと、町ごとぶっつぶすぞ。この辺りはどのみち議会軍に火の海にされちまうんだ。俺たちがこのボロい家をみんな叩き壊そうが、別におとがめはないってもんさ」
 反乱軍対策で当局が手一杯になっているのを良いことに、最近、この種の悪党が急増している。その大半は傭兵や冒険者を生業とする流れ者のエクターである。残念ながら、ギルドの中にも似たような振る舞いに及ぶ者がいないとは限らないが……。
 何しろアルマ・ヴィオが4体もいるのだ。本当に町を瓦礫の山にされてしまってはたまらない。町のお偉方は理不尽な要求に顔をしかめる。
 別のエクターがゾーディーから降りてきた。ウニのように尖った金髪頭の若者だった。先程の男と同じ骸骨のマークが入った胴着を身につけている。
「兄貴、調子はどうだい?」
「おう、上々だ。金と食いもんをせしめたら、とっととずらかろうぜ」
 兄貴分の方が、にやつきながら言う。
「金と食い物ときたら、あとは女が足りねぇな……そこのねぇちゃん!」
 通りすがりの町娘を指さして男が叫んだ。
 うら若い女は、手に抱えた編み籠からリンゴがこぼれ落ちるのもかまわず、懸命に走って逃げ出す。
 銃声が轟いた。
 赤い髪のエクターが握る拳銃、その先から煙が立ち上っている。
 目の前を銃弾が通り過ぎたせいで娘は腰が抜けてしまった。黒いお下げ髪を恐怖に震わせて、彼女はこわばった体を必死に立ち上がらせようとする。
 その苦闘の様子を楽しむように、2人のエクターが近寄ってくる。
「おいおい、こんな男前の誘いを断るなんてどうかしてるぜ。別に取って喰おうってわけじゃねぇんだからよ」
 彼らが娘の肩をつかもうとしたその時、凛とした声がそれを押し止めた。
「やめなさい! 町の人たちに狼藉は許しません」
 少年のような声。だがそれを発した主は一人の少女だった。
 広場から続く通りの向こうに小柄な娘の姿が見える。
 顔つきは多少あどけないが、その物腰には高貴な身分特有の気品が漂う。
 美しくつり上がった眉に、澄んだ勝ち気そうな目。鼻筋は通り、口元はしっかりと結ばれていた。金毛羊を思わせる巻き髪は、頭頂部で丸く結い上げられている。
 青紫色も鮮やかな短いジャケットに、白の乗馬ズボン。腰に吊った細身の真っ直ぐな剣を純白の手袋が握りしめる。稚なさの残る聖騎士の姿は、独特の危うさと同時に勇士の気高さをも漂わせていた。
「お、お嬢様!」
「ナッソスの姫様だ」
 広場の人垣の間から、誰のものともなく声が漏れる。
 少女の声は遠くからでもよく響いた。
「その人から手を離しなさい!」
 降ってわいた出来事に、ならず者たちは呆気にとられていた。
 だが彼らの劣情は、一点の汚れも知らぬこの若い白鳥を新たな獲物に定める。
「へっへっへ。じゃあ、代わりにお嬢ちゃんが俺たちと遊んでくれるのかい?」
 ウニ頭の男が少女をからかう。
 もう一人の方も、下卑た目つきで彼女の体を舐め回すように見つめている。
「まったくだぜ。青臭いガキに興味はないが、それがお姫様ともなれば話は別だ」
「汚らわしい、恥を知りなさい!」
 少女は怒りに頬を染めて叫び、横の路地の方に消えた。
 わずかな後に彼女と入れ替わるようにして、家並みの向こうから一体のアルマ・ヴィオが姿を見せる。
「な、何だ? あいつ、エクターか?」
「こっちは4機だ。兄貴、ちょっと痛めつけてやろうぜ」
 男たちもゾーディーに飛び乗る。
 《ブリキ人形》呼ばわりされるゾーディーとは異なり、少女の乗るアルマ・ヴィオは、女性的なデザインと流麗なフォルムを持っている。赤紫から白へのグラデーションも見事だった。兜の背後には髪の毛を模した飾りがあり、顔は扁平な仮面で覆われている。目に当たる部分だけが鋭く切れ込み、赤い光を放つ。大きなスカート部分も特徴的だ。しかし議会軍にもギルドにも、こんなアルマ・ヴィオは存在しない。
 少女のアルマ・ヴィオは、町中での戦いを避けようと外に向かって走り出す。予想外に手慣れた動きだった。
 まともなエクターなら、今の隙のない動作を見ただけでも、心を引き締めて彼女との戦いに臨むことだろう。しかし、ならず者同然の三流エクターたちにはそんなことが分かるはずもない。数を頼みに、早くも勝ったつもりになって後を追う。
 女の姿をしたアルマ・ヴィオは平凡な性能ではなかった。たちまち町外れまで移動した少女は、余裕を持って振り返り、構えに入る。細身の光剣、いわゆるMTレイピアがアルマ・ヴィオの手に輝く。
 ――ゾーディーごときが何機たばになっても、この《イーヴァ》の前では同じこと。
 少女は心の中でつぶやく。
 ようやく追いついた敵の一体を、すれ違いざまに光の刃が貫いた。
 鋭い踏み込み。多分に我流だが手練れの太刀筋である。
 ――や、やるじゃねぇか?! だがあの小娘、楯を持ってないぜ。
 ――あぁ、これで仕留めたな。
 彼女の隙をとらえたと勝手に思いこみ、他のゾーディーがマギオ・スクロープを放った。螺旋を描きながら火炎弾が殺到するが……。
 ――シールド!
 少女が念じた瞬間、いくつもの八角形の光が彼女のアルマ・ヴィオの側面で飛び交った。その動きは複数の魔法弾を全て受け止めている。
 《半自動・追随型次元障壁》である。アルフェリオンの次元障壁とは方式が異なるにせよ、同様に人知を越えた旧世界の兵器だ。
 自分たちが対峙する相手の恐ろしさに、男たちはようやく気がついた。アルマ・ヴィオの性能に天と地ほどの違いがある。それに加えて少女の腕前も相当のものだ。
 3体のゾーディーは戦う意志を打ち砕かれ、全力で逃げ出そうとする。しかし、ここで敵に背を向けてしまったのは完全な失策だった。
 ――逃がさない。行け、《火のネビュラ》!!
 少女のアルマ・ヴィオの両肩部分で外殻がスライドし、発射口らしき物が現れた。そこから霧のような何かが飛び出し、たちまち広がったかと思うと轟然と燃え上がり、トカゲに似た形の猛火となる。
 逃亡を図るゾーディーの群に向かって火炎が走る。生き物のように。疾風さながらの速さで。
 獲物を捉えた紅蓮の嵐はさらに吹き荒れ、3体のアルマ・ヴィオを完全に飲み込んだ。強固な生体装甲をも焼き尽くす焔が猛り狂った。
 やがてネビュラは消えた。完全に黒こげにならない程度を見計らって、不用意な男どもは解放されたのである。彼らは悪事のための手段を失い、アルマ・ヴィオを降りて這々の体で逃げていく。

「あ、ありがとうございます! お嬢様」
 アルマ・ヴィオを降り、広場に戻った少女に町の人々が押し寄せた。
「さすがカセリナお嬢様だ。カセリナ様は我々の守り神です」
 華奢な体が人垣の向こうに覆い隠されていく中、少女は、照れた男の子のような笑みを浮かべた。
「みんな、大丈夫? 議会軍のやつらかと思ったら……少し目を離すと、すぐ何か起こるんだから」
 彼女はカセリナ・ディ・ナッソス。
 その名前からも分かる通り、反乱軍に味方する例のナッソス公の一人娘だった。
 男子に恵まれなかった公爵は、代わりに戦乙女(ヴァルキリー)の化身とも呼べる娘を得たのである。

 ◇ ◇

 一冊の本を注視したまま、シャリオは身じろぎひとつしなかった。細腕にはやや重そうな、革張りの分厚い書物である。
 開かれたページ……。
 そこには古典語の文章を従えた写真が並ぶ――この《塔》と同様の形をした、だが比較にならぬほど高い建物が林立する街。無数の高層建築の間を縫うようにして、透明な管が複雑に走っている。宙に浮かんだ乗り物が、そのガラス状のパイプの中を移動する様子も見えた。
「これが旧世界の都市なのですね」
 街並みは画一的な雰囲気だが、良く言えば整然とした秩序をもって建設されていた。《クリエトの石》の灰白色の肌ばかりが目立つ中、所々に緑も植え込まれている。精巧な積み木細工を思わせる街は、ある種の機能美を備えていた。ただしそれは極度に人工的な美しさであって、自然の匂いをほとんど意識させることがない。
 ともかく今の世界に生きるシャリオにとっては、現実味のない眺めであった。
「クレヴィス副長、ご覧になって。去年タロスで発明された《写真術》というのは、旧世界にもあったのですね。古代の街の様子……とても綺麗に写っていますよ。今の時代の写真とは全く質が違います。まるで本物みたいな色まで着いているのですから」
 数冊の本を抱えてクレヴィスがやって来る。
 立ち並ぶ本棚の谷間に彼らは居た。おそらく図書室であろう。その広さは玄関にあったホールにも劣らない。幸い照明も機能している。
「確かに……。こんなに細かい部分まで写すこともできるのですか。おかげで街の様子がよく分かりますね。大きな書物ですが、それは?」
 開いたままの本を、シャリオは近くの棚にひとまず置く。
「図版を豊富に使った事典らしいです。今のは《都市計画》という見出し語のページですが、他にも興味深い絵図がいくつも出てきますの。時間がないというのに、いつまでも眺めてしまいそうですわ。塔のかつての住人には申し訳ないですが……いただいて帰って、後でゆっくり拝見することにします」
 シャリオはご満悦そうに口元を押さえて、弾んだ笑い声で言う。
「旧世界の写真もさることながら、シャリオさんがそんなお顔で話されるのも珍しいですね。初めて見ましたよ、私は」
「わたくし自身もびっくりしています。クレドールに来てから3ヶ月にしかなりませんのに、どんどん違う自分を見つけ出すことができて……この年になってからでも、人は大きく変わることができるものなのですね」
 小さな吐息の後、シャリオは感慨深げに呟いた。
 彼女の言葉にうなずきながら、クレヴィスは本をめくっている。
「心の柔軟さときっかけさえあれば……人が生まれ変わるのに早い遅いは関係ないのだと、カルも時々言っています。ただし年齢を重ねるほど、いっそう多くの勇気も必要となるのかもしれませんが。いや、つい余計なことを。それに貴女はお若いではありませんか」
「まだ若いとおっしゃるのは、年の割には、という意味ですかしら。ふふ。でも、お褒めくださったものと受け取らせていただきますわ」
「おやおや、シャリオさんも口がお悪くなられたものです。それはそうと、ルキアン君たちの方はどうでしょう」

 いまクレヴィスとシャリオは、4階で見つけた書庫を探っている最中である。
 結局2階に目立った物はなかった。同様に簡易な研究室が並ぶだけの3階についても、先を急ぐ4人は通り過ぎることにした。そこで持ち時間が半分近く過ぎてしまっていたので、彼らは2組に分かれて建物内部を調査することに決めたのだ。
 クレヴィスとシャリオは4階・5階を、ルキアンとルティーニは6階・7階をそれぞれ分担する。倍の速さで探査が進むことになったのだが……ざっと見て回るだけにせよ、8階までたどり着けない可能性も高い。

 ◇ ◇

「何でしょう、今度は?」
 6階に向かう階段。その踊り場に差し掛かったとき、2階への階段の場合と同様に、ルキアンは何らかの展示品が収められたガラスケースを発見した。
「アルマ・ヴィオについて……かな」
 今度はルキアンにも多少の意味が分かるものだった。ケースの中身は、汎用型アルマ・ヴィオの内部をごく簡単に描いた解剖図である。特に《ケーラ》、つまりコックピットにあたる部分が赤色で強調されている。そこに向けて欄外から矢印が引かれ、古代文字でこう書かれていた。
  《スレイヴ・コア》
 ルキアンはもちろん、博識なルティーニでさえ、この聞き慣れない語の意味するものを知らなかった。
「こんな言葉は私も初めてです。恐らくさきほどの《マキーナ・パルティクス》と同様、旧世界の驚くべき発明を記念した展示品かもしれません」
「そうみたいですね。えっと、何々、ケーラの中のエクターが……遠隔……あれ?……組織……注入?……頭が、いや、脳と訳すのかな? 何だろう……よく知らない単語がたくさん出てきて、僕には難しすぎます」
 ルティーニはケースの中を自分で確かめようとはせず、とりあえずルキアンを促した。
「後で副長かガダック技師長に聞けば、何か分かるかもしれません。ここはひとまず急ぎましょう」
 スレイヴ・コア――この意味不明の言葉について、現時点ではルキアンもほとんど注意を払わなかった。それよりも目先の階段を登りきることが大切だった。
 6階はもう目の前だ。薄暗い廊下の向こうで、赤い光がぼんやり輝いている。

 ◇

 階段を登り切ったとき、ルキアンの足が不意に止まった。
 彼が辺りの気配を窺う仕草を示したので、ルティーニは心配そうな顔つきで尋ねる。
「どうしました? ルキアン君」
「え、あの……」
 ルキアンは、うわの空で天井に視線を走らせている。
 格子状になった鉄蓋の奥に、通風口の暗い穴が見えた。
 ――あの風抜き穴から? 気のせいかな。でも、たしかに……。
「いえ、僕の勘違いみたいです。すいません。急ぎましょう」
 そう言うとルキアンは薄暗い廊下に向かって呪文を唱えた。
 彼の掌に魔法の灯りが浮かび上がる。
 下の階とは異なり、6階は影に覆われていた。もっとも、設備が機能していないというわけではなさそうだ。クレヴィスが言っていた《空調装置》も動いていると思われるし、どこからともなく、何かが回転しているような低い機械音も響いてくる。主な照明が落とされているだけなのだろう。
 前方の所々には赤や緑の光も浮かんでいた。薄暗い建物の中で色つきの淡い光がゆらめく様は、それが完全に人間の技術から生み出されたものだとはいえ、仄暗い夢幻の世界を連想させる。

 風が……。

 もちろん閉ざされた屋内で、突如として空気が動いたわけではない。
 場の雰囲気が揺れた、とでも表現すればよいであろうか。卵とはいえ魔道士であるルキアンは、何か超常的な感覚により、その現象を風のイメージとして把握したのだ。彼の意志とは半ば関係なく。
 ――やっぱり感じる。さっきまでは何でもなかったのに。
 軽く背中を押され、ルキアンは我に返った。
「見取図がありますよ。ほら」
 ルティーニの手が指す方向に一枚の金属板が掛かっていた。近づいて見ると、銅製らしきプレートに6階の全体図が彫り込まれている。
「いま私たちがいるのは、この階段のところです。多くの部屋がありますが、廊下を真っ直ぐ行って右に曲がると、ここの少し大きい場所、《中央制御室》の前に出ます。恐らくこの部屋から、各階の照明や例の《エレベータ》を目覚めさせることができるのだと思います。鍵の類も手に入るかもしれません。とりあえずそこへ向かいましょう」
「あの、実は……」
 ためらいがちに話を切り出そうとするルキアン。しかしルティーニの言葉がそれを遮った。
「もうひとつ気が付きましたか? この図のどこにも、上りの、つまり7階への階段がありません。これはいったい……」
「すいません、その7階のことなんですが」
 やや大きめの声でルキアンが告げる。
「この階に来たとき、上の階から、その……あまり言いたくありませんけど、嫌な波動を感じました。最初は気のせいかと思ったのですが、今も伝わってくるんです。冷たい空気が天井から染み出てくるように、チクチクと肌を刺して」
 ルティーニの広い額に汗がうっすらと浮かんでいる。ルキアンの言葉に対し、彼は神妙な表情で答えた。
「なるほど、そうだったのですか。魔道士の君が感じたというのだから本当なのでしょう。科学万能の建物の中にいるので、つい忘れていましたが……そもそもここはパラミシオンの真っただ中、どんな超常現象が起こっても不思議ではありません。そう言われてみると、今までの階に比べて、なんとなく嫌な感じの雰囲気に変わったような気がしますね。単に場所が暗いせいかと思いましたが。急いで中央管理室に行った後、大事をとって、副長やシャリオさんのところに引き返しますか。私たちだけで7階に行くのは避けた方がいい……いや、どうやって上がればよいのかさえ分からないですからね」

◇ ◇

 幸せそうな家族の写真があった。
 噴水の前で、幼い子供が母親らしき女性と遊んでいる。
 背後の木々には、淡いピンク色の花が可憐に咲き誇る。
 季節は、いつだろう……。
 光の中で2人が戯れる様を、若い父親がベンチに座って見ていた。
 彼は赤ん坊を抱いて、不器用な手つきであやしている。
 遠くの方には、やはり無数の《塔》がそびえる。
 灰色の街に咲いた緑の花のように、
 クリエトの世界に開けた――小さな公園。

 それを無言で見つめていたのはシャリオだった。
「旧世界のことが、ますます分からなくなってきました」
 読みかけの本を閉じて彼女は言う。
「高度な文明、そして満ち足りた人々……このような世界が滅びの道を辿った理由など、表面的にみる限り見当も付きません。しかし強い光のあるところには、まさにその光あるが故に、いっそう色濃き影もまた生まれる……それが世の習いというものです。その影を知ろうとしない限り、私たちの現世界もいつか、旧世界の過ちを繰り返すことになるとも限りません。でも、何が……」
 クレヴィスはしばらく黙って書架を眺めていた。やがて彼は、近くの机の上に取り置いた一冊の本を開き、シャリオに手渡す。
「あの《ステリア》をはじめとする恐るべき超魔法科学の数々が、旧世界を滅亡寸前にまで追い込んだというのは、隠れた歴史が漠然と教えるところです。その破局とどう関係しているのかは分かりませんが……あなたのおっしゃる《影》は、実際、安逸の日々の中に色濃く現れていたようですね。これはさきほど偶然に見つけた書物なのですが……もしかするとこの本の中に、あなたの直感を確信へと変えるための鍵が、わずかながらも隠されているかもしれませんよ」
 粗末な紙表紙の扉をシャリオが開くと、こんな書名が記されていた。

  《病について》

 他の文献に比べて紙質もあまり良くない。それでも今の世界の本と比べると、はるかにきめ細やかだったが。
 若者、都市の風景、子供、おそらく教室と思われる部屋。
 色々な写真が並んでいる。旧世界のものにしては、どれも白黒である。
 頁をもう少しめくっていくと、いくぶん殺伐とした写真も現れた。
 死体のない殺人現場、焼けた建物、何らかの事件に使われた凶器。
 いつの時代でも全くの平和などあり得ないのだと、シャリオは思った。
 章から章への変わり目にあたるせいか、紙面の半分以上が空いているページがあった。そこに小さい字で詰め込まれた落書き……。

  なんかむかつく。
  本当は僕は知ってる。
  この国は、たぶんやばいんじゃないかな。
  どうしてなのかも、だいたい分かる。
  本当は大声でわけを言ってやりたい。
  でも言えない。そんなことしたら、僕は生きていけなくなる。

 この落書きを見た途端、今まで何気なく眺めてきた写真が全く違ったものに見え始めた。
 街ゆく人々の多くは無表情だった。眼鏡を掛けたエリート風の男は、優しそうな女性と手を取り合っていながらも、前しか見ていないような瞳で、口元にだけ変に子供じみた笑みを浮かべている。
 何人かの若者たちは、むくれたような、無指向性の敵意を持った目つきをしていた。しかしそれは、この年頃にありがちなガラスの刃のごとき憤懣とは少し違っている。そんなに美しいものではなかった。正直言ってならず者を思わせる風体の若者たちや、街娼顔負けの格好をした娘たちの多くが、実はごく普通の少年・少女たちなのだと知り、シャリオは愕然とする。
 反面、凶悪事件の犯罪者たち――そのうち何人かは、解説文を読まなければとてもそうは見えなかった。良い表情の写真をわざわざ選んで使っているはずはないであろうが、彼らの顔は真面目で、時に善良そうにすら感じられる。最初は偶然かと思ったが……多少の誇張や書き手の取捨選択のせいもあれ、見るからに凶暴そうな者や狡猾そうな者よりも、逆にその種の堅物っぽい人物が目立つように見える。
 解説の一節にはこう書かれていた。

 《……の惨殺事件は解決。またもや、犯人は地味でおとなしい人間》

 シャリオには、この言葉が果てしなく不気味に、それ以上に痛ましく思えた。
 何かがあべこべであるように彼女は感じた。だがこれは趣味の悪い道化芝居ではなく、どうやら事実らしい。
 いたたまれなくなって、シャリオはもっと別の写真を探そうとする。
 母の手に抱かれている幼児がいた。
 わずかな間、彼女はそれを見て落ち着きを取り戻した。けれどもよく見ると、子供の目は人形にも似た不自然な澄み方をしている。その子はぽっかりと口を開け、宙を眺めていた。最愛の母親がそばにいるのに、そして機嫌が悪いわけでもなさそうなのに、少しも笑っていないのだ。
 平凡さと異常さ、淡々とした日々と狂気とが、いびつに同居する世界。全てごく普通に見えて、それでいてあらゆる物が何かおかしい。
 だがシャリオが極端なまでに呆然としているのは、写真の内容自体のせいとは必ずしも言えず、また彼女の感受性の強さのせいでもなかった。《もっと深い理由》があるのだ。

 待ちかねていたようにクレヴィスがつぶやく。
「それらの写真を見て、準首座神官のあなたが何も思い出さなかったはずはありませんね。そう、《沈黙の詩(うた)》は本当のことかもしれません」
 普段は伏し目がちのシャリオが、急に大きく眼を見開いた。
 当惑と抗議、あるいは怖れが入り交じった、何とも言えない表情だった。
 彼女は慌てて背を向け、よそよそしく答える。
「何のことかしら? 私にはさっぱり……」
 しかしその肩や指先には、動揺の色がはっきり浮かんでいる。
 と、クレヴィスの顔がいつにもまして優しくなった。微笑みと共に彼は言う。
「安心しましたよ、シャリオさん。貴女は嘘を付くのがとても下手な方なのですね」
 言葉を失っていたシャリオは、しばらくして軽い溜息を付いた。その瞳にも輝きが戻っている。いくぶん自嘲的にも見えるが。
「意地悪な方。ふふ、副長にはかないませんわね。今の私にとっては、クレドールの仲間こそが本当の友なのですから……騙せるわけがありません。自分はもう神殿の人間ではないと思っておりますし。分かりました。《詩》のことをお話しします。写真のいくつかを見ていたとき、私もあれを思い出さずにはいられませんでした。恐ろしいことです」
「それには及びません。あの詩については神殿の上層部の者しか知らないと、あなたはお思いかもしれませんが……実際には、多少なりとも物事の裏を見ている魔道士の間では、隠れた常識に近いものなのです。私もあれを全て暗唱できるどころか、原典の写本さえ入手しています。ですから、そんなに後ろめたいお気持ちになられる必要はないですよ。いまは時間もないことですし、船に帰ってからそのうち暇を見つけて……私の方からお話ししましょうか。それなら、あなたが自ら神殿の禁を破ったことにはならないでしょう?」

 ◇

 《塔》は次第に本当の姿を現し始めつつある。
 旧世界の光と影の真実が、
 この静まり返った建物のどこかに潜んでいるかもしれない。
 二重の意味で。

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