HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 
 第10話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  未来というものが持つ好ましい不確定性、
    つまりは希望と呼ばれる一筋の糸――それこそが、
      人の心をこの世につなぎ止める「絆」となる。



 ここ数日、ネレイの内陸港はいつになく慌ただしい。
 それというのも、エクター・ギルドの飛空艦が本部に続々と集結しつつあるからだった。普段は王国中に散らばり、各地のギルド支部を転々とする飛空艦だが……昨日前後から一斉に帰還し始めたのだ。全8隻のうち、現在停泊中の艦は5隻だという。それらの中にクレドールの白い船体もあった。
 港はネレイ市街の南の外れに位置する。背後に目を転じると、俗に《王国東部の辺境》と呼ばれる丘陵地帯が広がっている。この荒涼とした山並みの中で、かつて旧世界のアルマ・ヴィオが大量に発見された。それ以来、単なる田舎町にすぎなかったネレイの運命は著しく変わったのである。
 アラム河畔から上記の東部丘陵に向かって数百メートル進むと、ギルド本部の建物にぶつかる。その道筋に平行する形で、港湾から本部の方へ一本の運河が続く。昔、港から荷を運ぶための船が往来していたらしいのだが、現在では手狭になったため使われていない。動きのない深緑の水面は、川よりは池に近い雰囲気を醸し出す。
 運河沿いの土手には木製のベンチやテーブルが並べられていた。丁寧に管理されているとは言い難く、いい加減な間隔で転がしてあるように見える。多分ギルド関係者が据え付けて、休憩にでも使っているのだろう。実際、今日も10名ほどの人々が空の下に繰り出していた。よく見るとその顔ぶれは……クレドールのクルーたちである。

「この大変なときに、半日も休みをもらって申し訳ないわね」
 セシエルは苦笑いを浮かべて言う。
 対照的にお気楽な調子で答えるのはメイだった。
「また仕事を気にするんだからぁ。船が明日まで飛べないんだもの、仕方がないない! せっかく艦長が言ってくれたんだから、のんびりしようよ。今度はいつお休みになるのか分かんないし。ほら、セシー、これ美味しい!」
 少なくとも表面的には、メイの顔に疲れはもう見られない。昨晩ゆっくりと眠ることができたせいもあるのだろう。
「そうね……艦長や副長、技師さんたちには悪いけど、まぁ、いいかしら」
 仕事中には冷徹一点張りのセシエルも、久々に穏やかな表情に戻った。お気に入りの青紫のスカーフを風になびかせ、彼女は静かに空を見上げる。天気は上々、春の昼下がりは独特の淡い光に包まれていた。
 日頃は野ざらしの机の上に、オレンジと白の質素なテーブルクロスが掛けられている。やや遅い昼食の最中だった。さほど豪勢な食材は見あたらないが、様々なパンやサラダ、肉料理などが山盛りに置かれていた。
「おうよ。明日から当分、ゆっくり食事なんてできなくなるぜ。食えるうちに食っとかねぇとな……お、うめぇ! これ、メイも手伝ったんだって? 嘘だよなぁ。お前が料理だなんて」
 バーンが頬張っているのは、サンドウィッチ同様にパンで肉や野菜などを挟んだ物である。この世界では《エクター・スタイル》と呼ばれる食べ方だ。名前の通り、あるエクターが考え出した流儀だという。傭兵や冒険者として危険と隣り合わせの仕事中にも、素早く食事を取れるようにと。
 メイはバーンにフォークを投げつけかねない勢いだった。いつものことだが。
「うるさい、文句言うなら食べるな! それに……あんたは食うことしか頭にないの?!」
「まぁまぁ。メイ、こっちも美味しいぞ。前にどこの港だったかで、マイエおばさんが仕入れてきた南洋の香辛料、なかなか変わった感じだよ。この肉、ひとつ取ってやろうか」
 ヴェンデイルがすかさず懐柔に回る。彼が手にしているのは、鳥のもも肉を骨付きのまま焼いたものだ。チキンのそれよりも一回り大きめに見える。手が汚れないように骨の部分に紙が巻いてあった。
 ヴェンから肉をひったくると、メイは大口でかぶりつく。もし今の姿を誰かが見たら、彼女が名門貴族の生まれだとは到底思わないだろう。
「大体あたしはねぇ、ルキアンやメルカちゃんに沢山食べてほしくて、それで手伝ったんだから。この大食らい、バカ、もうちょっと遠慮しなさいよっ! ねぇ、ルキアン」
 当のルキアンはメイの隣にいた。ひとり、力の抜けたような顔で景色を眺めている。彼の瞳には遠くの東部丘陵がぼんやりと映っているはずだ。普段からそれほどお喋りではない彼だが、今日は特に無口である。何か考え事をしているらしく、メイの声など耳に入っていない。
「そうでしょ、ルキアン。何とか言ってやってよ。ルキアン、聞いてる?」
 やはり反応がない……メイはくすっと笑った。
「何、ぼーっとしてるのよ、少年っ!!」
 メイがルキアンの肩を勢い良くひっぱたく。
 少し間があった後、ルキアンは慌てて彼女の方を見た。
「あ、ボクですか。は、はい?」
「食べてる、キミ? ほらほら」
 パンを盛った編みかごを差し出して、メイが笑う。

 ――風が吹いた。
 運河沿いの並木が静かに音を立てる。

 ◇ ◇

 古き都市ミトーニア、その市庁舎の塔に立って周囲を見渡すと、あらゆる方角に草の海が広がる。一面の緑、また緑……広漠とした草原にぽつんと置き去りにされたような形で、小高い丘がひとつ、見る者の目を妙に引きつける。
 果てはレマール海にまで至る平原の中、所々に茂る森や街道沿いに点在する町・村をのぞいては、風景のアクセントとなるものがほとんど見あたらない。そんな土地柄にあっては、他の地域であれば取るに足らぬほどの起伏さえも、大きな山脈に匹敵する存在感を持つことがあるのだ。
 ミトーニア市街から眺めた場合、その丘の中腹部にナッソス公の壮麗な城館を望むことができる。白壁と青い屋根の対照が美しい建物、背後の庭園に2つの影が見えた。中央の噴水を起点にして、芝生に幾何学的な模様を描く散策路のひとつを、若い男女が親しげに歩いていく。
 男の方は、皮のブリーチズに暗灰色のダブルのコートを羽織り、胸元に青紫の……ギルド成員の証であるクラヴァットを巻いている。
 大きく膨らんだ薄紅色のロングスカートを揺らし、彼の隣を歩く娘は、ナッソス家の令嬢カセリナだった。
「一緒に戦ってはもらえないのね、デュベール?」
 カセリナは胸元に手を当て、深い藍色のブローチをそっと握りしめた。いつもなら丸く結っている髪を、今日はすっかり解いて風になびかせている。
 無言をもって彼女の言葉に答えたのは、年の離れた兄という雰囲気を持つ、誠実そうな青年である。カセリナへの接し方からみてナッソス公の家臣であろう。男は黒い山高帽を脱ぎ、深々と頭を垂れると、表情を抑えた声で語る。
「申し訳ありません、お嬢様。恩義を知らぬ男だと、あなたに嘲笑されても仕方がないところです。しかし私はギルドの人間。今回の内乱には、肩入れすることができません。私は戦いから手を引きます……」
 カセリナの眼差しは、いつもの気丈さにかろうじて支えられている。けれども彼女の青い目は、時に涙を溜めているようにも見えた。その裏にある心は、春風に吹かれる花びらのごとく、不安定で脆いものだった。
「分かってる。分かっています。貴方と剣を交えることにならずに済んだのが、せめてもの救い……だって私、アルマ・ヴィオの扱い方は全てデュベールから教わったんですものね。そんな貴方に刃を向けることはできない」
「カセリナお嬢様、聞き入れてくださらないとは承知のうえで、もう一度だけ申します。お嬢様までこの戦いの犠牲になることはありません……」
 少女は男を睨んだ。両手を広げ、全身で不満を現す。
「私に逃げろと言うの? そんなことは絶対に嫌! お父様と共に最後まで戦います。それにデュベール、戦いが始まる前から、私たちが敗れるとでも言いたげね。大丈夫よ。相手がギルドだろうと議会軍だろうと、そう簡単に負けたりしないわ」
 デュベールは言葉少なに頷く。ただし、カセリナの発言自体を肯定しているのではなく、単に彼女への同情を表す動作なのであろうが。
 しばらくして彼は立ち止まった。花壇から外れて道端に咲いた、青い花を、辛そうな面もちで見つめている。
「ある筋からの話によれば、ギルドは本格的に飛空艦を差し向けてくるそうです。しかも運の悪いことに、クレドールやラプサーがその任に当たるらしいのですよ。クレドールの艦長カルダイン・バーシュは、かつての革命戦争の際に、大国タロスをも震撼させたゼファイアの英雄。おまけに副長のクレヴィス・マックスビューラーは、ギルド随一の知恵者という呼び声が高く、魔道士としても底知れぬ実力を持っています。《奇跡の船》クレドールが成し遂げた仕事の数々は、お嬢様も噂に聞いていらっしゃるでしょう? それに、何よりも私は、この戦争に……」
 カセリナは何か言いたげだったが、口を開きかけた時点で声を飲み込む。微かな吐息だけが聞こえた。
「お嬢様、私は、帝国に組みする戦いには正義を感じられません。ゼノフォス皇帝の目指す《国家》自体は、ある意味で素晴らしいと言えなくもない。しかし実際に帝国軍のやっていることは、暴虐にすぎます」
「デュベール……私には政治の話は分からない。私はただ、自分が守りたいと思うものを守って戦いたいだけなの。それ以上の大義名分が必要なの?」
 言葉を交わすことなく、2人は足音を連ねる。
 やがてカセリナがささやいた。最後の一言だった。
「だから私は、貴方が……」
 彼女は言葉を詰まらせる。
 四季折々の花で彩られる庭園は、ちょうど今、最も華やぐ時期を迎えている。その目映いばかりの情景を前にしても、カセリナの心は深く沈んでいた。

 ◇ ◇

 先日、デュガイスとマクスロウとの会談が行われた場所――すなわちギルド本部・中央棟のテラスで、今度は4人の男たちが、昼食を兼ねた話し合いを開いている。
 客を迎えているのは、またもデュガイス。彼と同じテーブルに、カルダイン、クレヴィス、そしてランディの姿がある。
 真っ昼間、しかも緊急時だというのに……デュガイスは、はばかることなく豪快な飲みっぷりをみせていた。グラスに残った酒を一気に飲み干した後、彼は正面のカルダインを見据える。
「と、いうことだ。大変な仕事だが、よろしく頼む」
 数秒ほど間隔が開いた。無言のままのカルダイン。
 隣ではクレヴィスが、皿の上の肉を素知らぬ顔で切っている。
 ランディはテラスの端にある手すりに寄り掛かって、気ままに口笛を吹いていた。中央棟は本部の敷地内でも多少高い所にある。ここからは、ネレイの町並みやアラム川の流れを見事に一望することができた。その風景を特に深い感慨もなく眺めながら、彼は物憂げに首を伸ばした。
 しばらく黙っていたカルダインが、低い声でようやく答える。
「分かった。軍隊の真似事というのは……あまり気がすすまんがな」
「それを言うなよ。わしだって本音ではそう思ってるさ。まぁ、飲め飲め」
 デュガイスは細長い素焼きの瓶を手に取り、カルダインのグラスに注ぐ。
 この透明な火酒は、アラム川中流域特産の蒸留酒である。麦に似た穀類を原料とするのだが、醸造過程で幾つかの果実を用いることにより、柑橘類を思わせる香りがつけられている。
 その軽い芳香を楽しみつつ、今度はクレヴィスが言った。
「制空艦アクスはもとより、強襲降下艦ラプサーの精鋭たちが同行してくれるのは心強い限りです。私たちは彼らの後方支援に回って、楽ができそうですね。いや、それは冗談にせよ……グランド・マスター、ナッソス公は王国屈指の大領主です。それを攻めるとなると容易にはいかないでしょう。現に議会軍の攻撃も退けられていると聞きましたよ」
「そう、手強いぞ……もし正攻法で戦うとすれば、アルマ・ヴィオを何個師団も投入する必要があるだろうな。しかし今の議会軍にとっては、それはとてもできない相談だ。君も承知しているだろう? かといってナッソス軍に背後を抑えられたままでは、ベレナ総攻撃の成功自体が危うくなる。軍とギルドの主力が《レンゲイルの壁》に到着する前に、何としてでもナッソス公を降伏させてもらわねばならん」
「……いやぁ、残念だが、降伏はあり得ないだろうよ」
 ランディが初めて口を開いた。彼は皮肉っぽく語りながら、グラスを指でくるくる回している。
「ナッソスってのは、とことん頑固な親爺でね。ギルドに頭を下げるぐらいなら、死んだ方がましだと言うに決まってる。そういう男だ」
「だからこそ、彼をよく知る貴方に出向いてほしい。マッシア伯」
 デュガイスが珍しく気取った口調で言う。
 改まって《マッシア伯》などと呼ばれたので、ランディは顔をしかめている。
 その表情を見て、クレヴィスが本当に小さな笑みを浮かべていた。
「停戦交渉にしても、結局は無駄だと思うがねぇ。まぁ、こっちの地上部隊がミトーニア近辺に到着するまでの、時間稼ぎにはなるんだろ? とりあえず談判には行ってみるさ」
「申し訳ありませんね、ランディ……」
 親しい仲にも礼儀ありとは言うものの、儀式張った調子が少し行き過ぎて、クレヴィスの一礼は傍目にも堅苦しく見えた。それが彼なりの不器用な誠意だと十分承知しつつ、ランディは呆れ顔で悪ぶってみせる。
「おいおい、よせよ。たまには役に立ってやんないと、タダ飯食らいだとか何だとか、船の連中にどやされるからなぁ。それに、公爵のお嬢ちゃん……あのべっぴんさんの顔が久々に見たくなったんでね」

 ◇ ◇

 孤愁に浸る少年の目は、うら寂しい運河の風景を見つめている。
 いつになく空が高く思えた。
 その下に這いつくばるようにして、暗く濁った緑色の水路が伸びる。
 錆びた水門はもう開くこともない。苔むした鉄格子は役割を終えていた。
 土手に置かれた古い木の車輪は……
 誰が考えたのか、野草を寄せ植えした小さな花壇に造り替えられていた。

 けだるい午後の光と空気は、ルキアンの思考をむやみに鈍らせる。
 食事も手に着かず、過ぎ行く時に彼は心をゆだねた。
 そんな彼の様子を見て、メイが軽い溜息を付く。
「ところでルキアン。これから、どうするの?」
 彼女の視線が不意に真剣さを帯びる。
「えっ?」
 ルキアンの胸中で、彼女の言葉が何度も反響した。
 答えなんて、考えていなかった。
 途端に沈黙するルキアン。
 彼は曖昧に視線を泳がせ、隣のテーブルでレーナたちと遊ぶメルカを見た。
 マイエとノエルを加えて、4人でカードを楽しんでいる。
 メルカの澄んだ瞳は……いや、無邪気に透き通っているだけに、いっそう哀しみをはっきりと映し出していた。愛くるしさを振りまき、あどけない輝きを一身にまとっていたあのメルカは、もうそこにはいなかった。
 少女を見つめるルキアンに、苛酷な現実が静かに突きつけられる。
 心配したセシエルが、メイの隣からささやく。
「ルキアン君、話は聞いているわ。行方不明になった先生とそのお嬢さん、早く見つかるといいのにね」
 いまルキアンの為すべき全てのことが、彼女の言葉の中に簡明な形で含まれていた――それは、一昨日までの自分の《日常》を取り戻すこと。コルダーユの街で魔道士カルバの弟子として暮らしていた毎日へと、今の現実を少しでも復帰させること。
 分かっていた。そしてメルカを見るにつけ、あの日常へと回帰するための道を必死で探し求めるべきだということも、分かっていた。
 ――しかし、胸を締め付けるようなこの迷いは? 僕は何を迷っている?
 口に食べ物を詰めたまま、バーンが言った。
「ルキアン、そう難しく考えんなよ。しばらくはギルド本部でやっかいになるといいさ。王国の中でも、ここ以上に裏の情報が集まるところは少ないだろうからな。先生の消息とか……何かいいネタが舞い込んでくるかもしれないぜ。本部の方にも、艦長が話を付けてくれただろうし。クレヴィーじゃねェけど、まぁ何とかなるもんだぜ」
 相変わらずバーンの食欲は満たされるところを知らない。困惑するルキアンの顔から、目の前の料理へと、彼はたちまち視線を戻している。
 彼のそんな素朴さ……一部は無神経さではあっても、それが今のルキアンにはなぜか嬉しかった。
「あの、もう少し考えることにします」
 言葉をにごしたルキアンに、メイが鋭く告げる。
「考えるだけでどうにかなるのかしら? キミの《迷い》というのは」
 ルキアンの心の奥底を、彼女の言葉は雷光のごとく射抜いた。
 本当なら、今は迷う必要もないはず。やるべき事は決まっているはず。
 それなのになぜ……。
 動揺するルキアン。
 だがそこで、別の声によって場の雰囲気が一挙に変わってしまった。

「あらら、みーんなっ! 楽しんでますかぁ?!」
 そのとぼけた声には、メイとルキアンの間に漂う緊張感をも打ち消すだけの、思いも寄らぬ威力があった。暴力的なまでに脳天気な口調である。
「げっ、この声はフィスカ……」
 急に寒気を催した様子で、メイは恐る恐る振り向く。
 その瞬間、白衣を着た娘が飛び込んできた。
「わーい、おっ久しぶりー、メイお姉さま! ばふっ!!」
 彼女がメイにいきなり抱きついたので、もう少しでお茶や料理がひっくり返るところだった。
「離しなさいフィスカ! 暑苦しいっ。誰か、笑ってないで助けてよ!」
「寂しかったですよぉ。でも、こうしてまたご一緒できるなんて、感激ですぅ」
「あたしは感激してない。ちっとも嬉しくない。セ、セシー、助けて!」
 やや過激なほどメイを慕っている彼女は、クレドールの看護助手、フィスカ・ネーレッドである。彼女がいるだけで船が何倍も騒々しくなる……と、クルーの間ではもっぱらの評判らしい。
 良く動く黒い瞳と、少し上向き加減の可愛らしい鼻、茶色いお下げ髪。
 キュートな外見と天真爛漫な性格を持つフィスカは、男女両方の仲間たちから人気を得ていた。彼女に会いたいがために、仮病で医務室を訪れる乗員も多く、それはシャリオの苦笑の種になっている。
「ふふふ。いいじゃないの、仲がよろしいことで」
 セシエルは、フィスカとメイの大騒ぎを慣れた様子で無視すると、続いてやって来た2人の男に黙礼する。
 一方は、多くの点で普通のオーリウム人とはどこか違っていた。珍しい漆黒の髪は言うに及ばず、エキゾチックな濃褐色の目、少し黄白色がかった肌。ローブにも似た単純な白装束を、太い帯で体に巻き付けるようにして着こなしている。その上には革のマント。彼の得物も独特で、ゆるやかに湾曲した刀を大小2本、腰に差している。
 まずこの男に向かって、ヴェンデイルが手を振った。
「よぉ、サモン! それに……」
 彼は、そこでバーンに小声で尋ねる。
「サモンの横にいるのは誰だい?」
「お前、知らないのか? カリオスだよ、カリオス・ティエント……」
「カリオスって、あのカリオスか?!」
 ヴェンデイルは好奇の目を走らせた。
 そう、もう一人はギルド屈指のエクター、カリオス・ティエントである。
 顔なじみらしいバーンが大声で言う。
「おーい、カリオス、元気か?!」
 生真面目な笑顔を見せ、カリオスも黙って手を挙げた。
 最強のエクターという呼び声も高い男だが、拍子抜けするほど物静かだ。
 背格好も、顔も、振る舞いも至って平凡だった。しかし何というのか、常人にはない謎めいたオーラの如きものが、彼の全身に漂っている。ごく普通の姿の中に、そのくせ何を隠しているのか分からない、一種の不気味さがあった。
 バーンが2人に同席を勧める。
「まぁ、茶でも飲んでいけよ、カリオス、サモン。なんなら、酒もあるぜ」
 サモンと呼ばれているのは、ギルドのエクター、サモン・シドーである。孤独を好み、以前は一匹狼の賞金稼ぎとして知られていた彼だが、いつの頃からか、ときおりクレドールに同行することも多くなった。
「そうするかぁ。じゃあ、またな、カリオス……」
 抑揚の乏しい、寝ぼけた感じの声でサモンが言う。
 飄々としてつかみどころのない男だ。少年時代から20代半ばの今まで続けてきたという、浮き雲のような放浪生活が、彼の人格にもいくらか反映しているのかもしれない。
「何だ、カリオスは寄ってかないのか?」
 残念そうなバーン。カリオスは申し訳なさげに答える。
「すまない。私は今から、急いでミンストラに乗り込まなくてはいけない。艦長たちを待たせてしまっていることだし……」
「ミンストラ、もう出るのですね。行き先はやはりレンゲイルの壁ですか?」
 ほとんど面識がないのであろう、セシエルがよそ行きの口調で尋ねる。
「そうです。後でカルダイン艦長からお話があると思いますが、ミンストラは皆さんとは別のルートで反乱軍を攻撃します。またベレナで会いましょう。どうかお気をつけて」
 そう告げた後、カリオスは運河沿いの道を港に向かって歩き始めた。
「そっちもな! まぁ、お前なら心配いらねェだろうけどよ」
 彼の背後からバーンが呼びかける。
 聞こえているのかいないのか、カリオスはそのまま静かに歩き去っていく。

 食の進んでいなかったルキアンは、ようやく料理に手をつけ始める。
 メイが皿の上に取り置いてくれた魚の薫製。鮭を連想させるピンク色の肌は、残念ながら中途半端に生温くなっていた。
「あのカリオスさんって、どういう方なんですか?」
 ルキアンは誰にともなく尋ねた。
 当のカリオスの姿は、もう港の方へと遠ざかってほとんど見えなくなっている。
 目を凝らしてその後ろ姿を追いながら、バーンが答える。
「あぁ見えても、ギルドで一、二を争う凄腕のエクターさ。《魔獣キマイロス》を操るカリオス・ティエント、その名を聞けば、賞金首になってる奴らは震え上がるぜ。なんせ、あいつの強さはハンパじゃねェからな。最近も、盗賊と化した某傭兵団をたった1人で壊滅させたって話だ。20体だったか30体だったかのアルマ・ヴィオを全部片付けたというんだから、ほとんど化け物だな。敵でなくてよかったぜ」
「まったくね……。それにしても世の中、分からないものだわ。あんな凄いエクターが野に埋もれていたなんて。以前からそこそこ腕が立つ人だったらしいけど、正直言ってここまで成長するとは誰も思わなかったんじゃない?」
 フィスカの抱擁からようやく脱出したらしいメイ。彼女は意味ありげな笑みを浮かべて、ルキアンの目を見た。
「たぶん、彼の才能が呼び覚まされるためには、ちょっとした《きっかけ》が必要だったのよ」
「きっかけ、ですか?」
「うん。何て言うのかな、今ここで思い切って飛び込んでみたなら、ひょっとして何かが変わるかもしれないって……そんなふうに感じる瞬間。たいていは幻想かもしれないし、思いこみにすぎないかもしれない。だけど、そういう場面、これまでキミにも色々とあったでしょ?」
 メイの髪が揺れて、彼女の香りがふんわりと宙に漂った。
「そ、それはもちろん……」
 ルキアンは喉を涸らした。
 アラム川のほとりから水路沿いに風が吹き抜ける。
 運河に浮かぶ廃船の周囲で、緑の水面が細波を立てた。
 ――何かが変わるかもしれないって……そうなのかな、そうかも、だからあのとき、僕はアルフェリオンの翼を信じた? ここで羽ばたかなきゃ、僕は埋もれてしまうって、永遠の日常に……心地よい溜息の中に? 本当にそうなの?分からないよ!
 言葉を上手くまとめることができないルキアンに代わって、彼の背後で語る者があった。彼にもよく聞き覚えのある女の声だった。
「たとえ《きっかけ》があったとしても、難しいですね……人が自分の意志で生まれ変わるということは。それは自分に付与された《意味》に対する、孤独な叛乱なのですから」
「イミへの反乱?」
 やってきたその人に会釈しつつ、メイが素っ頓狂な声で復唱する。
「えぇ。《私》を形作っている様々な《解釈》……この砂の塔をいったん取り壊して、己の《生》に自分自身の手で新たな解釈を施そうとするとき、私たちは、諸々の《評価》というお仕着せの上着を脱ぎ去って裸になった自分の、その存在の頼りなさに直面し、激しく震えるのです。大抵の人間はその恐怖に耐えられません」
 そう告げたのは、白い法衣姿の小柄な女性だった。彼女はワインやチーズの入った篭を手に立っている。
「あ、シャリオ先生ーっ!! 遅かったですねぇ」
 椅子の上で跳ねるような仕草をしながら、盛んに手を振るフィスカ。
「先ほどまで、医薬品の補給について港で打ち合わせをしていたのです。今回もお世話になりますね、フィスカ」
 シャリオは静かに一礼した。
 全く対照的な船医と助手だが、だからこそ、かえって2人が上手くやっていけているのかもしれない。
「そうそう。これ、ギルド本部からの差し入れですの。船の方にもたくさん運んでもらいましたから、どうぞ気を使わずに召し上がってください」
 シャリオがそう言って篭をテーブルに置くやいなや、バーンとヴェンデイルがわれ先に酒瓶へと殺到する。
「こらぁっ、また行儀の悪い!!」
 彼らの動きを予想していたのだろう、メイが素早く篭を引ったくって、自分の背後に回した。
「アンタたちに渡したら、あっと言う間になくなっちゃうじゃないの」
 3人の馬鹿騒ぎに吹き出しながら、シャリオはルキアンの隣に座った。
「昨日は良く眠れた、ルキアン君?」
「はい。色々と考えて眠れないかと思ったんですが、疲れていたせいで、すぐ寝ちゃいました」
 にっこり微笑むルキアン。わずかに1時間余りの間だったとはいえ、旧世界の塔で冒険を共にしたことにより、彼はシャリオにも親近感を覚えていた。
 それはシャリオの方も多かれ少なかれ同様だった。何しろあの特異な経験を共有したのだから、無理もないかもしれない。
「それはよかったですわ。本当によく頑張ったから、疲れたでしょう?」
「えぇ、とっても。コルダーユを離れてから大変な出来事の連続で……今になっても、僕がここにいるということ自体、現実じゃないみたいに思えて」
「そう感じるのも仕方のないことです。選択する余裕もないまま、成り行きでこんな所まで連れて来られたんですもの。でも次はあなた自身が決める番ですよ、ルキアン君……」
「えっ?」
 ルキアンは眼鏡の奥で目を細めて、不可解そうにシャリオを見た。
「クレヴィス副長が、あなたに話があるとおっしゃって本部でお待ちです。私もその件で呼ばれていますので、よかったら案内させていただきますよ」
「ひょっとして、あの《塔》の話ですか?」
「それもあるでしょうね。お食事中に申し訳ないのですが、明日の出発を控えて副長もご多忙なので、できれば今すぐにでもご一緒いただけると助かります」
 ルキアンの胸が、なぜか早鐘のごとく鳴った。
 恐れ……不安、否、期待?! どうして、何について?
 未知の感情が彼の戸惑いをいっそう大きくした。さきほどまでの迷いと共に。
「どうしたんです、シャリオさん。ルキアンに何か御用?」
 心配そうな顔つきで、メイが話に割り込んできた。いつのまにかルキアンの保護者といった口振りである。
「いえ、私ではなくて副長が、彼に大切なお話があると」
「クレヴィーが?」
「はい。では、メイ、私たちは急いでいるので……」
 シャリオは聖杖で地面を軽く突いた。杖の上端に付けられた幾つかの輪がぶつかって、澄んだ金属音を響かせる。
 半ば連れ去られるように、おずおずと席を立つルキアン。
 すると、彼のフロックの裾を小さな手がつかんだ。
「ルキアン……」
 いつの間に席を離れたのか、メルカが後ろに立っていた。
「行っちゃだめ」
「大丈夫だよ。どうしたんだい、急に?」
「行っちゃダメ。やだやだ。ルキアンとずっと一緒がいいの!」
 突然、メルカは必死になってルキアンの手を引っ張った。
 顔を真っ赤にして、今にも泣き出さんばかりのメルカ。
 シャリオは慌てて彼女の頭を撫でた。
「メルカちゃん、大丈夫よ。ルキアンお兄さんは、あそこに見える本部に行くだけなの。すぐに戻ってきますから」
「嫌、いやイヤっ! ルキアン、離れちゃダメーっ!!」
 メルカがこれほど駄々をこねるのを見たのは、ルキアンも初めてだった。
 異様なほどに取り乱した少女。いったい、なぜ?
「心配いらないよ。僕はいつでも一緒だから……」
 彼は背をかがめて、メルカの額に軽くキスをした。

 ◇ ◇

 オーリウムの都・エルハイン――内乱のさなかにあって、王城の警備に当たる近衛兵の数も普段より増えていた。赤紫のフロックに白のブリーチズという派手な衣装の兵士たちが、これまた過剰な装飾の施された小銃を手にして、城内の随所に立ち並ぶ。
 王家の威光を世に誇示するための、要するに《見せるため》の兵士であるせいか、みな一様に、比較的長身で整った顔立ちをしていた。
 城の本館から北館への廊下。宮廷の人々や各地からの使者が慌ただしく通り過ぎていくと、その度に近衛兵たちは物々しい敬礼を行う。精密な機械仕掛けさながらの彼らの一挙一動は、少なからず驚嘆に値する。この儀式張った振る舞いを磨き上げることに、日々の訓練のうち大半の時間を費やしているだけのことはあった。
 そして今、衛兵の間にいっそうの緊張感が漂う。その理由は、向こうから近づいてくる一群の人々にあった。
「我らが王国における真のエクターにして、国王陛下の栄光ある機装騎士団……《パラス・テンプルナイツ》に敬礼!」
 士官の号令と共に、いつになく気合いの入った儀礼が執り行われる。
 兵たちは微動だにせぬ姿勢を保ちつつも、好奇と驚嘆の入り混じった視線を走らせている。仏頂面の近衛兵たちが、日頃にはおよそ見せない態度である。
 先ほど仰々しい名前で呼ばれた《騎士団》が、いよいよやって来た。彼らの服装は様々だけれども、いくつかの点については統一されている。今どき鎧を身に着けているのも珍しい話だが――金色に輝く胸甲。誇らしげに巻かれた真っ赤なクラヴアット。そして何より目立つのは、竜の紋章を紺で描いた純白のマントだった。
「出迎えご苦労」
 先頭を行く男が手短に告げる。20代前半の超エリートである。上品さの中にも、気位の高さが露骨に漂っているような口振りだった。
 彼の髪はほど良く波打ち、色、つや、共に見事な黄金色だ。その瞳には、怜悧さと情熱とが同居した、常人にはない輝きが宿っている。胸甲と同じく黄金色の肩当てと篭手を身につけた彼の姿は、《ナイト》たちの中でも、文字通りの騎士のイメージに最も近かった。
 彼は前髪を手で軽くかき上げると、そのまま衛兵たちの前を通り過ぎていく。
 大きな帽子を被った青年が後に続き、敬礼を続ける兵たちに黙礼した。緑がかった長髪と、涼しげな目元が印象的な美形である。
 長い刀を背負った男。どこか斜に構えた感じの雰囲気だが、その目は狼の如く鋭い。マントと胸当て以外、全て黒ずくめの服装が目立つ。
 次は女だった。燃えるような赤で染めた髪、それに見合ったいかにも気性の激しそうな顔つき。ぴったりとした革の衣装で上から下まで固めている。
 髪を短く刈り上げた、中肉中背の若者――あるいは少年と表現した方が適切かもしれない――が颯爽と歩いていく。太い眉と、気合い十分な眼差し。
 単純な数比べという意味では、国王軍の戦力は議会軍に遠く及ばない。それにもかかわらず、オーリウム国王軍は、議会軍はおろかイリュシオーネの列強の軍隊にすら一目置かれている。その理由というのが、彼ら《パラス機装騎士団》、通称パラス・テンプルナイツの存在なのである。
 9人の機装騎士団のうち、いま5人がここに居るのだった。
 彼らが王城に召集されたことからすると、今後、ただならぬ動きが国王軍に起こる可能性もある。

 ◇ ◇

 ルキアンは、シャリオに案内されてギルド本部の一室にやって来た。
 扉を開けるとクレヴィスの背中が見えた。彼は窓から外を眺めている。
 テーブルと椅子の他には目立った家具もなく、生活の臭いのしない寒々とした部屋の中では、遠く広がるイゼールの樹海や眼下のアラム川の豊かな眺望だけが、唯一の贅沢だった。
「急に呼び出して、申し訳ありませんね」
 クレヴィスはゆっくり振り返って、いつもの微笑を浮かべる。含みのある笑顔で口を閉ざしたまま、彼は窓際を行ったり来たりしている。そして不意に……全く唐突にこう尋ねた。
「ルキアン君。あなたは旧世界のことをどう思っていますか?」
 ごく緩慢な足取りで、クレヴィスはテーブルの前にやって来る。
「どうって言いますと?」
 何の脈絡もない質問を受け、ルキアンは答えに困っている。
 突っ立ったまま考え込んでいる彼に、シャリオが手振りで着席を促す。
 クレヴィスは話を続けた。
「少し違う角度から質問しましょう。ルキアン君は、旧世界に憧れを抱いていますか? 魔道士が血眼になって旧世界の超テクノロジーを発掘し、また一部の知識人たちが、旧世界の社会の《システム》やそれを支えた思想に心酔しているように」
 ルキアンは黙って頭を悩ませていた。どうしてそんなことを自分に聞くのだろうかと。彼はクレヴィスの顔色をうかがうように、上目遣いにちらちらと視線を走らせる。しばらくして、途切れ途切れに語り始めた。
「憧れ、ですか。あの……そうですね、旧世界に対する好奇心のようなものは確かにありますが、それが憧れだとは……僕は《思いたくない》んです。正直な話、あの《塔》の中で僕は感じました。何と言うのか、旧世界に対する漠然とした不信感、あるいは《反感》にも似た気持ちを」
「悪魔の技にも等しい、あの実験を知ったからですか?」
 シャリオが瞳を曇らせる。
 彼女の言葉を当然のように肯定しかけたルキアン。だが、ぼんやりと頷き始めたとき、彼は慌てて首を振った。
「はい、たぶん……いや……実は良く分からないんです。人体実験を行った人たちのことを、僕は確かに許せないと思いました。でも、後で冷静になってから考えてみたら……それが、その、どこか違うんです。僕はあのとき、本当は旧世界の全てを憎んでいたのかもしれないって。どうしてかは分からないです。僕は旧世界のことなんて何も知らないのに……」
 その言葉は、ルキアンが素直に心情を吐露した結果だったろう。しかし、それだけに理解しがたい部分を含んでいた。
 けれどもクレヴィスは、直感的にではあれ、彼の言いたいことをある程度つかんでいるようだ。
「やはりそうでしたか。パラミシオンでアルマ・マキーナと戦ったとき、ルキアン君は激しい敵意をあらわにしていましたからね。機械の大ムカデは、あなたにとっていわば旧世界の象徴であって……そしてあなたは、アルフェリオンを通して、その《象徴》に反感をぶつけたのですね。違いますか?」
 クレヴィスはそこで一息入れて、ルキアンの目をじっと見た。
「しかしアルフェリオンもまた、旧世界が生み出したものなのです」
「それは、そうですけど……」
 言葉を詰まらせたルキアン。
 クレヴィスは静かに頷いた。
「ただ、アルフェリオンを含めて、かつて一部のアルマ・ヴィオに用いられた技術……すなわち《ステリア》は、結果的に大きな災いを旧世界にもたらしたのです。その意味では、アルフェリオンはむしろ旧世界に仇なす者だったのかもしれませんが」
「災い?」
「そう。旧世界を滅亡に導いた原因のひとつが、多分、ステリアなのです……」

 ルキアンは思わず聞き返した。
「本当ですか? ステリアが旧世界を滅亡へと……」
「古文書による限りそう考えられます。正確に言えば、ステリア兵器を用いた戦争によって、旧世界の文明が事実上崩壊したという意味だと思うのですが」
 クレヴィスは瞼を閉じて、軽く腕組みする。しばらくして彼はおもむろに顔を上げ、また目を開いた。
「そして大いなる災いと呼ばれたステリアの力は、アルフェリオンと共にいま蘇りました。あなたは、その重大さをどれだけ理解していますか? ルキアン・ディ・シーマー君……」
 クレヴィスの眼鏡が光った。
 恐るべきステリアの力を前にしたとき、もちろんルキアンも懸念を感じなかったわけではない。彼が否応なく思い返したのは、ガライアとの戦いの後、メイに語ったあの言葉である。
 ――ねぇ! アルフェリオンのせいで、いや、僕のせいで……たくさんの人が死んでしまった。違う、殺してしまった……それなのに僕、わけが分からなくて。
 ――メイたちを助けようと思って、夢中で、戦っているときは何も感じなかった。でも後になって、哀しくなって……。自分のしたことが許せなくなって。

 ところが、そんな辛い思いに心を悩ませていたにもかかわらず、ルキアンは、パラミシオンの中で再びステリアの力を呼び出してしまったのだ。
 しかもそのとき、彼は我を忘れて――いや、半ば自覚的・肯定的に、アルフェリオンの力に自らの心を重ねていた。表面的には、あの非道な人体実験に対する義憤が、ルキアンの怒りをかき立てたのかもしれない。だが実際のところは、日頃の抑圧された感情を吐き出すために、彼が、自らの攻撃的な衝動を旧世界の遺物に向けていたのも確かである。彼自身にも漠然と分かっていた。
 ルキアンの顔から血の気が引く。
 今になって思い起こすと、あの時、確かに自分はステリアの魔力に魅入られていたのだろう。争いが嫌いだと?――己の矛盾した言動の中に、彼は恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。
「僕は、僕は……」
 言葉に詰まり、じっと黙り込んでしまったルキアン。
 シャリオが彼の気持ちを察して言う。
「ルキアン君は、戦争の愚かさや醜さを敏感に受け止めることができる人だと思います。私はそう感じるのです。彼がステリアの力を使ったのも、2回とも私たちを守るためにやむを得ず行ったことです」
 しかし彼女の言葉は、逆にルキアンの自責の念をいっそう強めた。彼は心の中で自分を嘲った。
 ――違う。僕はそんな立派な人間じゃない。いま分かったんだ。本当は自分の鬱憤が爆発するにまかせて、アルフェリオンの力を振りかざし……心の底では破壊することに喜びさえ感じていたじゃないか! きっと、壊してみたかっただけなんだ。アルフェリオンのおかげで、自分が圧倒的に強くて傷つかない立場になったら、その途端、僕は平気で戦いを始めてしまったんだ。僕は卑屈な奴なんだ……きっと今までは、争い事によって、弱い自分が傷つくのを嫌がっていただけに違いない。あぁ!!
 けれどもルキアンの自嘲を、シャリオが知ることはなかった。彼女はそのまま話し続ける。
「《力》というのは、それ自体、善でも悪でもないのです。それを人間がどう使うかによって、結果的に善にも悪にもなるのですわ。ステリアにしても、かつては旧世界の滅亡につながったかもしれませんが、使い方さえ誤らなければ人々の役にだって立つはずです。だから、ルキアン君のような人が……」
「いいえ! 僕は……」
 突然ルキアンが声を上げた。
「僕は怖いんです。とても怖いんです……アルフェリオンの力をこのまま受け入れてしまいそうな自分が! 分からないんだ!!」
 そう叫ぶと彼は頭を抱えた。半開きの口を振るわせ、ルキアンはうつろな目で震えている。
 シャリオは彼の背中に手を添え、厳かな口調で告げた。
「大丈夫よ。しっかりしなさい。あなたは優しい人です。決して力に心を委ねてしまうような人ではありません」
 だがその声はルキアンの心に届かず、彼の脳裏には、エルヴィンのあの暗示的な言葉が浮かんでいた。
 ――怖い人。そんな静かな顔をして、恐ろしいものを背負っているくせに。
 エルヴィンの超常的な感覚は、ルキアンの心の奥底を見抜いていたのだろうか。彼女と一緒にいたとき、言いようのない不安をルキアンが感じたのは、そのせいだったのだろうか。
 クレヴィスが無機質な声で言った。
「分かったようですね。巨大な力というものが必然的に持っている、本当の怖さについて」
 ゆっくり立ち上がったクレヴィスは、冷たい石の壁に手を掛けた。
「特にアルフェリオンは、そういう怖さを持ったアルマ・ヴィオなのかもしれません。格納庫で少し見せてもらったとき、私は落ち着かない気持ちになりました。何というのか、正直な話……私はアルフェリオンに乗って戦ってみたくて、じっとしていられなくなったのです。あれは、戦いへの本能を駆り立てる、危険なアルマ・ヴィオですね。強大な破壊力を美しい姿で飾りたてた、魅惑的な死の天使であるのかもしれません」
 ルキアンが蚊の鳴くような声でささやく。
「だから……だから、僕はもうアルフェリオンに乗るのが怖いんです」
「……では、やめるというのですか?」
 クレヴィスはルキアンに背を向けたまま、静かに問いかけた。
「もしあなたがアルフェリオンを捨て、ここから立ち去ったなら、別のエクターが代わりにあれを操ることになるでしょう。そして何万何千という人間を死に追いやるかもしれません。ステリアの力をもってすれば、ガノリスの都で神帝ゼノフォスが行ったような大虐殺も、ごく簡単なことなのですよ」
「だからといって、僕がアルフェリオンを……エクターになって操れとおっしゃるのですか? それに僕だって、このままではもっと多くの命を奪ってしまうかもしれません。もし誰かが悪いことに使う恐れがあるのなら、いっそ、アルフェリオンなんか壊してしまってください!」
 必死に答えるルキアンに対して、クレヴィスはあっさりとした口調で言う。
「壊す? そんなことはできませんよ。何者かに奪われたもうひとつのアルフェリオンが、万が一にも反乱軍の手に渡った場合、アルフェリオン・ノヴィーアなしでどうやって対抗するのですか? オリジナルのアルフェリオンを、あなたの師匠が敢えて2つの機体に分けたのは、恐らくそういう事態を予想してのことだったのです」
 クレヴィスの言葉は、ルキアンの逃げ道をさらに塞いでいく。
「それに、いま言ったでしょう。神帝ゼノフォスも、まず間違いなくステリア技術を手に入れています。あの浮遊城塞エレオヴィンスとまともに戦えるのは、現在のところ……この世界でただひとつ、アルフェリオンだけかもしれません」
「だったら、メイやバーン、いいえ、クレヴィスさん、あなたがアルフェリオンを……」
「そういうわけにはいきません」
 クレヴィスがにわかに振り返る。
「何よりもルキアン君、私たちはあなたが欲しいのです」
「えっ?」
 彼のその言葉が、ルキアンの胸の内を駆け巡った。
「僕……ですか?」
 頼りなげに尋ねたルキアン。
 クレヴィスはルキアンの声にうなずいて、それからシャリオに目配せした。
 彼は、微妙な笑みを浮かべて言う。
「そうです。たぶん自分では気付いていないかもしれませんが、ルキアン君とアルフェリオンの《相性》は、常識では考えられないレベルなのですよ。そしてルキアン君自身も、エクターとしての高い潜在能力を秘めている可能性があります。ご存じの通り、アルマ・ヴィオは《生きて》いますから、それぞれ自分の個性のようなものを有しています。エクターの能力というのは、結局のところ、アルマ・ヴィオのクセをいかに上手く把握できるか、そして、アルマ・ヴィオの心と自分の精神とをどこまで同化させられるか……その二点によって決まると言っても過言ではありません。もっとも実際のところ、ある特定のアルマ・ヴィオの個性を知り、それに自らを上手く合わせるためには、相当に長い時間を要します。だがルキアン君、あなたとアルフェリオンの場合を考えてみてください」
 クレヴィスの言葉は、ルキアンにとって全く意外なものだった。己の不器用さにコンプレックスすら抱いていたルキアンだが、そんな自分に、アルマ・ヴィオを巧みに操る能力があるかもしれないとは……。
「あ、あの……それは、きっとアルフェリオンの性能のおかげだと思います。僕は何も分からず、ただ夢中で動かしていただけなんです。まぐれです。僕なんか、僕なんかに、そんな才能があるわけが」
 よく考えることもせず、彼はクレヴィスの言葉を機械的に否定した。《自分なんかに》という諦めの言葉は、彼の潜在意識すら支配していたのだ。
「いいえ、あなたには……」
 シャリオが何か言いかけたが、クレヴィスの声とぶつかったので、彼女は言葉をいったん飲み込んだ。
 やれやれといった表情のクレヴィス。だからといって彼は、ルキアンが自らをあまりに卑下することに対して、呆れているのでもなさそうである。
「いいですか。初めて操るアルマ・ヴィオでまともに戦うことなど……よほどのベテランでもない限り困難です。にもかかわらず、エクターでもないルキアン君にはそれが可能だった。いくらアルマ・ヴィオの基本的な操作を知っているとはいえ、あんな事は到底できるはずがないのです。後でメイから聞いて驚きましたよ。アルマ・マキーナと空中で戦っていたあなたが、実はアルフェリオンにたった2回しか乗ったことがなかったなんてね。まったく……飛べない鳥だなんて言っていたのは、どこの誰ですか? ふふふ」
 天才的なエクターであるクレヴィスが、そこまではっきりと断言したので、ルキアンもすぐには言い訳できなくなってしまった。
「そ。それは……」
 口ごもる彼の隣で、シャリオが首をゆっくり左右に振る。
「ルキアン君、自分をもっと信じてあげてください。それだけではない、あなたにはもっと素晴らしいものがあるのです」
「素晴らしい……もの?」
「そう。それはルキアン君の持つ心です。たとえ傷つきやすくても、優柔不断になることがあっても、私はそれで構わないと思う。今のままの、そんな感じやすい心こそ、あなたの立派な個性なのですから。これから胸を引き裂かれるような場面がどれだけあったとしても、そして、その苦しみを敢えて大きくする原因が、あなたの心のあり方なのだとしても……それでも優しい感受性を捨てさえしなければ、あなたがステリアの魔力に溺れてしまうことはないでしょう。ステリアの力に心を奪われることのない者だけが、あのアルフェリオンを、真にイリュシオーネのために役立てることができると思いますわ」
「シャリオさん……」
 ルキアンの目から、理由もなく涙が流れた。
「そうですわね、副長?」
 シャリオの言葉にクレヴィスも同意する。彼は言った。
「ルキアン君、ひょっとすると、あなたは現実の中で疎外感を覚えていたかもしれません。繊細な心が欠点や邪魔物にしかならないようなこの世界を、無意識のうちに憎んでいたかもしれません。けれどもルキアン君、あなたはこの世界とはまさに異質であるがゆえに、この世界にとってなくてはならない人なのです。他の誰でもない、君がしなければならないことがあるのです……」
 さらにクレヴィスの口をついて出たのは、ルキアンにとって計り知れない重さを持つ提案だった。
「はっきりと言いましょう。ルキアン・ディ・シーマー、私たちと共に戦ってほしいのです。一刻も早く内乱を鎮め、彼らの背後にいる神帝ゼノフォスをうち倒し、再び世界に安らぎを取り戻すために。そして、君と私たちのそれぞれの未来のために。もちろん、無理は申しません……もし戦うことに疑問を感じているのなら、君自身の答えが見つかるまで、ただクレドールに乗って旅を続けてくれるだけでも構いません。すぐに答えろと言う方が無茶な話ですから、クレドールがネレイを出港するまでに君の結論を聞かせてください。せかして申し訳ありませんが、明日の朝までに……」
 ルキアンは呆然と身体を震わせた。声は喉に絡みついている。
 まさかの言葉だった。
 目の前が真っ白になったまま、ルキアンはじっと宙を見つめていた。

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