HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第11話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  結局、思い出させてくれたのは貴方だったのです。
  救いの手を待ちくたびれて、うずくまる私に……
  本当はこの翼で、涙に濡れる夜を越えられるということを。



 その日の夕刻。
 窓辺のおぼろげな光の中に、ほっそりとした背中が浮かび上がっていた。
 ひとりの女が頬杖を突いている。
 いつの間にか自分が薄闇に囲まれていることにさえ、気づかぬという様子で。
 彼女は身じろぎもせず、じっと思い詰めているように見える。
 出窓のかたわらに革表紙の日記帳が置かれていた。無造作に開かれている頁には、昨日の日付が記されている。おそらく彼女のものであろう。
「ごめんなさい、お父様、メルカ、そしてルキアン……」
 顔を上げたその女は、ソーナだった。
 彼女の黒い目は、涙に濡れながらも強い意志の光を宿していた。
「私はもう自分を抑えられない。何が正しいのか、悪いのか、分からなくなってしまったの。いいえ、何が正しいのか、それは子供の頃からお父様に教わってきた。でも、その正しいことに従うというのが、今の私にとって本当に正しいことなのかどうか……分からない。だけど、もうどうでもいい」
 ソーナは部屋の扉に手を掛け、毅然とした調子で開く。
「あの人の側にいられないぐらいなら、私は……」
 やがて扉を閉じる音だけが聞こえた。

 ◇ ◇

「交感レベル、350。すごいや、もうすぐ400になるよ!」
 ノエルが興奮に頬を染めて振り返った。
 ガダック技師長とクレヴィスは、神妙な表情で顔をつき合わせている。
「まさかとは思いましたが……やはり調べてみてよかった。技師長、お疲れのところ、無理を言ってすいませんでしたね」
「いいってことよ。わしもこの機体には興味がある。まぁ、あとで副長のおごりで一杯というところだな。それより、こいつはたまげた……」
 3人はクレドールの格納庫にいた。
 彼らの前には、翼を休めるアルフェリオンの姿がある。ただしそれは眠っているわけではなかった。頭上高く見える兜の下、その目は赤く輝き、白銀色の甲冑はときおり脈打つかのごとく揺れる。
 目覚めているのだ。誰かがアルフェリオンに乗っている。
「380、390……おっちゃん、クレヴィー、ほら見て、400を越えちゃった!!」
 ノエルが声を弾ませる。彼が夢中で覗き込んでいるのは、人の背丈ほどの四角い機械だった――正面のパネルには、明滅する計器類がいくつも並ぶ。
 この装置から10数本のケーブルが伸び、薄暗がりの中で輝くアルフェリオンの巨体に接続されていた。
「こりゃどうなってんだ? いくら魔道士の卵でも、ルキアン君は素人だろ。彼がどんなに凄い天才だったとしても、こんな無茶な数字は?!」
 信じられないと言った様子で、ガダックがクレヴィスの方を見た。
「いやいや、技師長、ルキアン君は確かに非凡な素質を持っていますが、天才とはまた違うと思いますよ。いずれにせよ現段階では、彼はまだ初心者にすぎません。おそらく、アルマ・ヴィオのクセに自分の心を合わせていくことなど、まだできない段階でしょう」
「だったら、なおさらわけが分からんな。400なんて交感レベルがどうして出てくるんだ? エクターでない人間なら、交感レベル80もいけば立派なもんだが。ということは、アルマ・ヴィオ自体が彼の心に同調してるのか。まるでこの機体は……」
「そうです。アルフェリオンはあたかもルキアン君のために生まれた……いや、順序から言えば、ルキアン君の方が、アルフェリオンを操るために後から生まれてきたというべきでしょうか。ともかくこのアルマ・ヴィオは今、ルキアン・ディ・シーマーの身体の一部になっていると言っても過言ではありません」
「そこがわからんのだ。わしが調べてみた限り、ルキアン君の師匠はコイツを《作った》というより、どうやら忠実に《復元した》みたいだが。つまりオリジナルのアルフェリオン自体が、最初からルキアン君に見合った特性を持っていたことになる。ということは、だ……のちのち選ばれし戦士様が現れるのを見込んで、旧世界人がこのアルマ・ヴィオを準備しておいたとでも? きつい冗談だな」
 太鼓腹を揺すって苦笑するガダック。
 クレヴィスはアルフェリオンを見上げて、そっけない声で言った。
「全くですね。私にもよく分かりませんよ。ただ……」
 不意に眼鏡を外した彼。予想外に大きい切れ長の目が光る。
「ルキアン君によれば、このアルマ・ヴィオはかなり損傷した状態で発見されたそうです。昔、誰か別のエクターが乗っていたのです。ルキアン君ではない、旧世界の誰かが……おや、測定が終わりましたか」
 アルフェリオンのハッチが開いて人影が出てきた。少しむくれた顔をしたルキアンである。
 ゆっくりと歩いてくる彼に向かって、クレヴィスが一礼した。
「つき合わせて申し訳ありませんでしたね、ルキアン君。しかし、これで私があなたに言っていたことの意味が分かるはずです。ノエル、最終的な交感レベルは?」
 ノエルの顔には、当ててごらんと書いてあるらしい。クレヴィスは指を一本ずつ立てていく。4本目の指の後、彼は微笑しながら5本目を伸ばした。
「500を越えた? 嘘だろ……」
 ガダックの表情は、計器の前でこわばった。
「ということなのですよ、ルキアン君。交感レベルというのは、簡単に言えば、エクターの精神がアルマ・ヴィオにどこまで同調できているかを示す数値です。この旧世界の機械を使えば、今のように測定できるのですが……」
 眼鏡をかけ直しながら、クレヴィスがつぶやく。
「もっとも、人間の心までも数値に置き換えようとするなんて、いかにも旧世界人の考えそうなことですね。まぁ、彼らは自然の全てをデータ化し、法則化しようと試みていたほどに、数字というものを信仰していたそうですから……」
「何のためにですか?」
 ルキアンはフロックの裾を整えた後、長い息を吐き出した。
「最大限に効率よく、自然を利用できるようにするためにです。《効率性》という言葉は、旧世界人にとって神の御名にも等しいものだったかもしれません。効率の良い利用というのは、結局のところ、自然をいかに余すことなく収奪できるかということだったのですが……。ただ、確かにそれはそれで、人々の生活をより快適にする効果ももたらしました。必ずしも悪い点ばかりではないのです。しかし問題は……旧世界人が、物だけではなく自分たち人間のあり方までも、《効率性》という物差しと《数値による置き換え》によって正しく評価できると信じて疑わなかったことです。いくらなんでも、それは思い上がりでしょうね」
 クレヴィスはそう言うと、ルキアンに向かってにっこり微笑んでみせた。
「ですからルキアン君、交感レベルというのもあくまで目安に過ぎません。けれども、これだけ大きな数字がはじき出されば、いくら目安とはいえ考慮しないわけにはいかないでしょう? あなたとアルフェリオンとの交感レベルは、515……。たぶん200を越えればエクターとしては一流の部類です。ギルドの中でも、500以上の数値を出せる者は、そう多くありません」
 ルキアンは無言で聞いていた。それこそ、数字を並べ立てられても漠然としたイメージしか出てこない。
 一同が沈黙する中、ノエルが無邪気に言った。
「すごいんだね、ルキアンってさ! メイだって、たまにマグレで500をちょこっと越えるぐらいなんだぜ……痛てっ!」
 彼の頭に、背後から拳骨が押しつけられる。
「悪かったわねぇ。まぐれで……」
 いつの間に現れたのか、メイはすました顔でノエルを小突いている。
「クレヴィー、何やってんの? なになに? 私も仲間に入れて! あと少ししたらセシーたちと飲みに行こうって言ってるんだけど、待ち合わせまでちょうど暇なんだ」
「おや、来ていたのですか、メイ……ま、まぁ好きにしてください。今、ルキアン君とアルフェリオンとの交感レベルを調べていたところです。論より証拠、これを見てください」
 クレヴィスは例の測定装置を掌で示した。
 しばらく目を丸くしていたメイが、大声を出す。
「ちょっと、この機械壊れてないの?!」
「いや、メイちゃん。わしも最初はそう思ったが、この通り正常に動いとるぞ」
 操作パネルのあちこちを指差して、ガダックが説明する。
 メイは納得いかなそうに、大げさに首を振った。
「おかしい、絶対おかしいーっ! よし、あたしがやってみる。ルキアン、アルフェリオンに乗っていいでしょ? ノエル、測ってみてよ。頼むぞっ!」
 有無を言わさず、彼女はアルフェリオンの方へ駆け出していく。
 思い立ったら即実行……。呆れ顔の仲間たちにクレヴィスが告げる。
「まぁ彼女にも乗ってもらった方が、比較のためにちょうど良いデータが取れることですし。ですが、アルフェリオンは扱いづらいですよ……」
 身軽にステップを昇り、白銀のアルマ・ヴィオの中へと消えていったメイ。
 クレヴィスはどこか不安げに彼女を見ていた。

 ◇

 ――何なの、このアルマ・ヴィオは……。
 メイには、アルフェリオンの意識がまったく読めなかった。
 ――真っ暗……何も分からない? いや、違う。この感じは?!
 彼女は、初めてアルマ・ヴィオに乗ったときのことを思い出す。自分の心の中に別の心が溶け込んでくるあの感覚は、底知れない恐怖を感じさせるものだった。その恐れが今、彼女の中に蘇る。
 メイの精神を本能的な震えが貫いた。
 白紙に近い意識の空間に、突如として異様な心象風景が現れる。
 ひび割れた大地……ねじくれた黒い枯れ木の群、赤い空……。
 ――空が赤い? 風も、音もない……あれは?!
 茨の茂みの中に、人影が見える。なにひとつ動く物もない世界の中で、その影だけがそよそよと揺れていた。
 黒衣の女。
 その姿をメイの心の目がとらえたとき、突風が吹き抜け、女の長い髪が不気味な広がりをみせた。
 瞬間、メイの心の中にどす黒い闇が流れ込んできた。それは明らかに敵意を帯びた感情だった。
 ――いけない!
 メイの心は無意識のうちに逃げ出した。いかに気丈な彼女をも、一瞬ですくませる力が働いたのだ。このアルマ・ヴィオは何かがおかしい。
 ――離脱する!!
 ハッチが開いて、メイがケーラから必死に這い出てくる。
 彼女は半ば転げ落ちるようにして、格納庫の床に飛び降り、身体を投げ出したまま動かなくなった。
「メイ!」
 ルキアンが駆け寄る。クレヴィスやガダックたちも慌てて助け起こしに行く。
「はぁ、はぁ……」
 メイは顔中に汗を浮かべ、ルキアンにぐったりと身体をもたせかける。
 彼女は手探りでルキアンの腕に触れ、しがみついた。
「メイ、大丈夫?! しっかりして、何が……」
 気が動転して、やみくもに彼女の背中をさするルキアン。
「ルキアン君、あまり動かしてはいけません。念のため、ノエルはシャリオさんかフィスカを呼んできてください。しっかりしなさい、メイ!」
 クレヴィスはメイの傍らにかがみ込んで、鋭く息を吸い込んだ。彼女の額に手をかざし、クレヴィスはつぶやく。
「慈悲深き月の光よ、心に取り付きし影を解き放て……」
 呪文の詠唱――それはたぶん、精神状態の一時的な異常を取り除くものだったろうが――を彼が始めたとき、メイは上体を起こして言った。
「いいの。もう大丈夫、呪文は必要ないわ。クレヴィー、ありがとう」
 彼女は両手で自分の頬を叩き、深呼吸する。
「うかつだったわ。このアルマ・ヴィオ、とんだじゃじゃ馬ね。いや、そんな生やさしいものじゃないかもしれないけど……」
 いぶかしげにアルフェリオンを見るルキアンに、クレヴィが説明する。
「おそらくマイナスのフィードバックが生じたのでしょう。アルマ・ヴィオは、気に入らないエクターを拒否しようとすることが時々あります。そうすると、エクターの精神の中にアルマ・ヴィオの敵意が流れ込んで、恐ろしい光景や意味不明のイメージとなり、エクターの意識をかき乱すことがあるのですよ……」
 メイは肩で息をしながら、ルキアンの顔を正面から覗き込んだ。
「ルキアン君、キミは何ともないの?」
「何がですか?」
「だから、アルフェリオンに乗っているときに……」
 ルキアンは首を傾げた。
「いいえ。普通のアルマ・ヴィオと、特に違ったところはありませんけど……」

「黒い服を着た女が見えた。あれはただの幻なんかじゃない……」
 メイは荒い息づかいで語る。
「あの風景も意味ありげだったわ。乾ききった、音のない世界。生命あるものが消え去った世界。この世の終わりみたいな、それとも魔界の果てみたいな。あいててて……」
 アルフェリオンから降りるときに腰を打ったらしく、彼女は鈍い痛みに顔をしかめた。
 看護助手のフィスカがメイの手を取ろうとする。
「メイおねえさまぁ、慌てて立とうとしない方がいいですよぉ〜。ほら、私が手を貸してあげますからねっ」
 変にべたべたした彼女の手つきを見て、メイが悲鳴を上げている。
「い、いらない! 大丈夫、もう治った。すっかり元気になった!!」
 メイは必死にフィスカを払いのけ、床を這って逃げようとする。
「どうして逃げるんですかぁ? 私たちにはこんなに美しい友情があるのに〜」
「だから、そんな気持ちの悪い友情なんてお断りだってば! た、助けてぇ」
 メイが情けない声を出して、シャリオの法衣の裾にしがみつく。
 だがシャリオの方は、それをあっさり無視してルキアンに尋ねた。
「ルキアン君。メイがいま言っていたことに、何か心当たりはありませんか?」
「黒い服の女のひと……ですか」
 ルキアンが複雑な表情で考え込んでいる間、シャリオはアルフェリオンの姿をじっと見つめていた。
 彼女の目に映っている銀の天使は、今では活動を完全に停止している。一応は《生きて》いるのだが、エクターが乗っていなければただの鎧人形に等しい。魂を持たぬ生体兵器、仮の命を吹き込まれる虚ろな殻、それがアルマ・ヴィオなのである。
「あの、僕にはよく分かりませんけど……」
 ルキアンは適当な返事をする。本当は思い当たる点があったにもかかわらず。
 メイの話を聞いたとき、彼は直感的に想起したのだ。黄泉路を開くと言われる闇の月のごとき、黒い衣装の女……その暗く沈んだイメージは、ルキアンの心中であの謎の声と結びついた。
 ――僕をアルフェリオンへと導いたのも、ステリアの覚醒を手助けしたのも、女のひとの声だった。《彼女》の言葉からは、いつも哀しみを押し殺したような匂いがした。あれはいったい誰なんだろう?
「ルキアン君……」
 クレヴィスが彼の肩をぽんと叩く。
 ぼんやりと思いをめぐらせていたルキアンは、慌てて振り返った。
「ともかく分かったでしょう? アルフェリオンにとって、あなたが特別な存在であることが」
 半信半疑のルキアンに対して、クレヴィスは思わせぶりな口振りで続ける。
「メイが見た異様な光景ではないですが、正直言って、このアルマ・ヴィオには何か良からぬ力を感じます。ある種の闇を……。しかしそれと同時に、この翼を持った騎士は、強い輝きをも内に秘めている」
「光と、闇……?」
「そう。そしてステリアの巨大な力が光と闇のいずれに傾くのか……私には、ルキアン君がその鍵を握っているような気がするのです。魔道士の直感というのは、それなりに当たるんですよ」

 クレヴィスの話に耳を傾けるルキアンたち。
 格納庫の上部にある回廊から、彼らの様子をエルヴィンが見ていた。
 暗がりの中に浮かんだ白いドレス。そして病的に透き通った肌。
 黒髪を風になびかせ、彼女はそっと唇をゆるめた。
「せっかく鍵が掛かっているのに。開けてしまったら、元には戻らないのに」
 瞬間、彼女は歯を見せて笑った。声もなく……。

 ◇ ◇

 エルハインの王城・円卓の間。
 白と金の二色に彩られたその空間は、床から天井まで全て、蔦や唐草を模した緻密な彫刻で彩られていた。美しい細工が施された柱や壁の所々に、童子のような小天使の像が据え付けられている。
 こげ茶と白のチェックの床には、ハープシコードに似た鍵盤楽器が置かれていた。誰かがそれを弾いているらしい。がらんとした広間の中に、透き通った雅やかな音色が響き渡る。
 弾き手の技巧を誇示するかのごとく、極めて高度な運指で埋め尽くされた楽曲は、ちょうど広間の雰囲気に似合っていた。離れ業的なテクニックが行き過ぎて、情緒や感傷というものを押し殺しているような曲である。それに興醒めを感じる者は、多分この部屋自体にも食傷感を覚えるだろう。
 グロテスクなほどに過剰で、それでいて数学じみた精密さで一体化されている装飾の数々。偏執狂的な徹底ぶりに、寒気すら感じる場所だった。
 極めつけは天上に描かれた巨大なフレスコ画である。神話を題材としたものらしい。イリュシオーネの神々や、彼らが住まう天の宮殿、そしてこの世界の誕生や、パラミシオンとファイノーミアとの離別など、様々な伝説が絵になっている。
 ――演奏が止まった。
 今の曲を弾いていた男が、天井の絵を指差して言った。
「人々が夢を失ったから世界が2つに分かれてしまっただなんて、くだらない話だよね。アゾートさんはそう思わない?」
 人を食ったような甲高い声。
 もう青年と呼ばれて久しい年頃にもかかわらず、彼の目は子供のように無邪気に輝いていた。衣装は上から下まで一点の隙もなく手入れが行き届き、それでいてごく自然に着こなされている。グレーのフロックの胸元で、艶やかな漆黒色のクラヴアットが光沢を放っている。
 室内に居合わせた別の男は、そのまま黙っていた。
 青年はご満悦そうな顔つきで話し続ける。
「己の器を知らぬ人たちが、自分の力以上の夢や理想を追い求めるから……結局は挫折せざるを得なくなる。大きな夢に値するのは、それを実現できる力のある人だけなんだよね。みんなが主役になれるなんて馬鹿馬鹿しい。だって、脇役や裏方がいなかったら、舞台が……この社会自体が成り立たないじゃない。そんなことも分からない夢想家たちの心の力によって、この世界がひとつに結びつけられていただなんて……いくらでっち上げのお伽話にしても、もう少し現実味のある話を作ってほしいなぁ」
 彼はひとりで笑っていた。その澄んだ瞳を見ていると、別に悪気があってそう言っているのではないらしい。それだけに、余計に棘がある言葉だ。
 他方のアゾートと呼ばれた男は、藍色の質素なローブだけをまとい、頭にはターバンのようなものを巻いている。修行僧か、さもなければ東方の魔道士かといった雰囲気を漂わせている。
 彼は静かに目を閉じていた。彫りの深い顔にはしわが刻まれ始めていたが、精悍な顔つきは、若者にも負けない彼の気勢を想像させる。
「ファルマス、皆が来たようですよ……」
 アゾートが不意に目を開いて、低い声で言った。

 それから10数分ほどして、広間の扉が音を立てて開いた。
「やぁ、みんな、よく来てくれたね!」
 例の青年は立ち上がり、にっこりと微笑んだ。
 彼こそがパラス機装騎士団副団長、ファルマス・ディ・ライエンティルスその人だった。

 ◇ ◇

 猫背ぎみの姿勢で、椅子にじっと腰掛けたままのルキアン。
 焦点のぼやけた目……よく磨かれた板張りの床が、虚ろな視界の中で光っている。色々と気疲れの多い日だったせいか、彼の表情には今ひとつ張りがない。
 ここはクレドールの医務室である。
 部屋の隅に簡素なベッドが3つ並んでいた。ほとんどの場合、それらは診察台の役割を果たすか、ごく軽度の病人が休むための場所となる(ちなみに隣室には、重傷者用として十分な数のベッドが確保されている)。
 それほど広くない室内がさらに手狭に感じられるのは、薬品や器具の入った棚がいくつも置かれているせいだった。特に薬草に関しては多様な品揃えである。民間療法でもごく一般的に用いられているハーブの類から、幻のキノコと言われる《月光茸》まで、その種類の多さにはルキアンも目を見張った。
 と、奥のドアが開いてシャリオがやって来る。
「どうぞ気楽になさってください。そうそう、メルカちゃんもじきにこの部屋に来ますよ」
「ありがとうございます。昼間、あの子の様子がいつもと違っていたので、ちょっと心配になって……」
 小さなテーブルを挟んで、シャリオはルキアンの前に座った。
「艦長と副長は、飛空艦《ラプサー》や《アクス》の方々と最終的な打ち合わせを行っていますし、技師さんたちも徹夜の作業になるでしょう。エクターやブリッジのクルーの大半は飲みに出たようですから……何というか、船の中は閑散とした感じですこと」
 旧世界のランプ、例の《光の筒》の青白い明かりの下で、彼女は少し寂しげな笑みを浮かべる。
「そうですね。僕は、とても飲みに行く気分ではなかったのですが……」
 生気のない声でそうつぶやくと、ルキアンは目を伏せた。
 いつにも増して暗い彼の表情。それを知りつつも変に気を使うことなく、シャリオは自然な調子で彼に接していた。仕事柄、この種の人間の扱いにも手慣れているのだろうか。
「それにしてもメルカちゃん、とても勘の鋭い子かもしれませんわね」
「え、えぇ。そうかも……」
 ルキアンは声を詰まらせながら答える。
「もし僕が……その、もし……クレドールに乗ることになったら、メルカは独りぼっちになってしまいます。あの子は僕と同じく人見知りが激しい子ですから、余計に独りにしておけないんです。そのことを考えると……」
 申し訳なさそうな顔で、シャリオがうなずいた。
「メルカちゃんのことは、ギルド本部の医師・エアデン先生にお願いしておきます。あの方の奥様はフィスカの先輩に当たる人で、とてもお優しいんですのよ。可哀想ですが……少なくとも今回の仕事に、あの子を連れていくことはできないでしょう? クレドール自体、無事に帰ってこれるかどうか分かりません。メルカちゃんの命をそんな危険にさらすわけには……」
「そうですね。戦場に行くのですから」
 メルカのことを気遣いつつ、ルキアンは改めて思い返した――これは戦争なのだ、自分が死んでも不思議ではない。真剣にそんな気持ちになったのは、彼にとって初めての経験だった。正直言って恐ろしい。
 もちろん、ガライアやアルマ・マキーナとの戦いの際にも、彼は死と隣り合わせだったのだが……現実の戦闘の中では恐怖を感じる余裕すらなかった。落ち着いて考えることのできる今になって、急に震えが来たのである。
 すっかり黙り込んでしまった彼を見て、シャリオが優しい声で告げた。
「怖いですか? でもそれで良いのです。今の怖さを忘れないでください」
 無言でうなずくルキアンに、彼女はさらに言う。
「死を恐れぬ戦士にとっては、他人の命を奪うこともきっと簡単でしょう。結局のところ……人は、別の命の尊さを、自らの命の重さを秤にしてしか実感できません。自分の命を軽んじつつ、他人の命だけを尊ぶことなどできはしないのです。もしあなたが戦いに身を投じるというのなら、どうか死の怖さを知る戦士であってほしい、ルキアン君……」

 シャリオは手にしていた雑記帳を開くと、そこで話題を変えた。
「それはそうと、近い将来、あの《塔》の謎が少しは明らかになるかもしれませんよ。あそこで入手した《ディスク》を、クレヴィス副長が例のお知り合いのところに送ったそうです」
 《塔》という言葉を耳にした瞬間、ルキアンの目に鋭い光が浮かんだ。
「その方って……たしか《知恵の箱》を管理しているという、某大学の先生でしたね?」
「はい。あの《箱》がないと、ディスクの読みとりは不可能ですから。でも文書に関しては、私もすでにいくつか読んでみたのです」
 長い吐息の後、シャリオは難しい顔つきで説明し始める。
「《アストランサー計画》の一環として行われた残酷な実験……それが何を目的としていたのか、私には依然としてよく分かりません。ただ、勝手な憶測によれば、魔物を人為的に創り出す……いや、魔物そのものではなくて、むしろ《魔物のごとき人間》を産み出すための実験だったように見えるのです」
 獣の部分を持った人間たちの姿、あるいは異様な肉塊状の生き物と化した人間たちの姿が、ルキアンの心の中に蘇った。さすがにもう嘔吐しそうになることはなかったが、何度思い出しても戦慄を覚えずにはいられない。
「人間を魔物に変えるというのですか? いったい何のために……。僕には理解できません。平和と繁栄を誇る《旧世界》の様相と、人体実験の凄惨なイメージとが、どうしても重ならないのです。満ち足りた世界の中で、あんなに酷い実験をしてまで手に入れる必要があったものって……何だったのでしょう?」
 彼の疑問に対して、シャリオは奇妙なことを言う。
「確かに必然性が感じられませんわね。でも、ひょっとすると旧世界というのは、私たちが思っているよりもずっと複雑だったのかもしれませんよ」
「どういう意味ですか?」
「これが旧世界の実態なのだと、私たちが勝手に思い込んでいるもの……本当にそれだけが旧世界の全てなのでしょうか。ルキアン君は、《大きな大きな樹》というお伽話を知っていますね?」
 彼女が突拍子もないことを持ち出したので、ルキアンは首を傾げている。だがシャリオの方は、ごく真面目な面もちである。何らかの意味があるに違いない。彼は不可解に思いつつも、《樹》のお伽話のあらすじを辿った。
「僕が子供の頃によく聞かされたのは、こういう物語です。ある日、貧しい農家の息子が不思議な種を拾いました。彼がそれを畑の隅に埋めると、もう次の日には芽が出ており、しかも屋根よりも高く成長していたのです。そして、このあたりがいかにもお伽話っぽいのですけど……さらに1週間ほど経つと、その植物は雲を突くような高さにまで伸び、途方もない大木になりました」
 いささか呆れ顔のルキアンだが、他方のシャリオはにこやかに頷いている。
「そうです。そこからが問題なのです。続きをお願いします、ルキアン君」
「はい。少年は、その木に登ってみようと思いました。そして……」
 彼はそこで腕組みした。
「そして……。少年は、そこで? あれれ、どうでしたか? あの、そう言えばここから先が何だかよく分からないんです。母から聞いた話、親戚の老人から聞いた話、あるいは後になって別の人から聞いた話……みんな、少しずつ中身が違っていたように思うんです。いや、誰かに話してもらうたびに内容が異なっていたような……」
 微笑んでいたシャリオが、不意にまた真剣な調子に戻る。
「そう。違っているのです。そこから先の筋書きは、はっきりと決まっていないのですよ。昔、私はこの物語について詳しく調べてみたことがあります。神殿に近い村や街を回って尋ね歩いただけでも、物語のパターンは、大まかに分けて十数通り以上も見つかりました」
「少年が《樹》を登っていった先には、雲の王国が広がり、そこに大きな城がある……というところまでは覚えているんですけど」
「城が館になっていたり塔に変わっていたりと、細部の違いはあれ……雲の上に立派な建物があるというところまでは、どのパターンの話でも一致していますわ。では、そこで少年は何をしたのですか?」
「僕が聞いた中で一番多かったのは、空の上の城には悪い鬼神の王が住んでいて、少年が色々な知恵を使ってその王様を懲らしめるという話です」
 ルキアンは、ここにきて少し薄気味悪さを感じた。なぜならこの《樹》の物語というのが、必ずしも穏当な形で終わるとは限らなかったからである。
 続くシャリオの言葉が、彼の背中に冷たいものを走らせた。
「確かに。少年が鬼神の王を倒すというその結末は、比較的新しい時代になってから流布したタイプだと考えられます。現在では最も一般的なかたちですが。しかし思い出してください。空の王は常に悪い人として描かれていたでしょうか? また少年は、いつも王に勝つことになっていたでしょうか……」
 彼女はしばらく沈黙する。そして低い声で付け加えた。
「古い話の中には、子供には到底聞かせられないものが見られます。よくあるのは、少年が王に捕らえられて、残虐な仕打ちを受けてから殺されるという終わり方。その手の幕切れというのが、特に西部の山間の村にときおり言い伝えられているんですよ。例えば煮え立つ釜の中で、少年が生きたまま茹でられてしまう話、他にも……いいえ、口に出すのは遠慮させていただきますわ。逆に、少年が悪者として描かれる場合も少なくないのです。良き雲の王を斧で打ち殺したり、あるいは王の娘を力ずくでさらって……」
 ――いったい、シャリオさんは何を言いたいのだろう。旧世界の話と《樹》の伝説との間に、何の関わりがあると?
 ルキアンには彼女の意図が全く読めなかった。クレヴィスあたりなら、彼女の言わんとするところを、意味深な笑みを浮かべて理解しただろうが。
「天空にそびえる城……少年がそこで行ったこと。これらが何を意味していると思いますか? 極めて古い時代の史料を収集してみると、ますます奇妙な話に出くわします。おそらく最も古いと思われるタイプは、《樹》に登った少年に《雲の巨人》が力を貸したという話……たぶん、これが本来の物語だということになりますね。後世の人がそれに色々と手を加え、あるいは言い伝えられていく過程で次第に筋書きが変わったりして、今あるような様々なヴァリエーションが生まれたのです」
「雲の巨人、ですか?」
 ルキアンには馴染みのない名前だった。《樹》の話に巨人が出てくるなんて、これまで一度も聞いたことがない。
「雲でできた巨人という意味ではありませんのよ。雲の上に住む巨人ということです。多くの場合、少年と友達になった《妖精の娘》が、巨人を騙して仲間にするのです。でもその娘は、実は人が苦しむのを見るのが大好きな《悪い妖精》として描かれています。彼女に魅入られた雲の巨人は、毒の霧をばらまいたり、雷光を落としたりして……城に住む王はもちろんのこと、雲の街の人たちまで一人残らず根絶やしにしようとするのです。こうなると、今日の《樹》の話とは全く違いますね」
 話をよく飲み込めていないルキアンに、シャリオはこう告げた。
「私が言いたいのは……イリュシオーネに残る伝説やおとぎ話のうち、その多くは単なる空想の産物ではなく、旧世界の歴史を知るうえで何らかの手がかりになり得るということなのです。つまり比喩的・寓意的な形で、過去の事実の一部を伝えている場合があるのだと。具体的には、今の話に出てきた《雲の上の城や街》……これは旧世界の時代に実在していた可能性があるのです。そして《樹》というのも、ひょっとすると、地上と雲の上の世界とをつなぐ施設のことかもしれません……」
 ルキアンは彼女のとんでもない考えに意表を突かれた。ぽかんと口を開けたまま、彼は二の句が継げなくなっている。
 物静かで温和なシャリオを見ている限り、その頭の中からここまでスケールの大きい想像――いや、本人としては真面目な仮説なのだろう――が湧き出してくるなどとは思いも寄らない。
 ただし、ルキアンには彼女の唐突な話を受け入れる素地があった。普通の人間なら、単にシャリオの知性を疑うだけかもしれないが、彼は持ち前の空想癖をここで十分に発揮したのである。
 天空の街々と壮大な城、そこに住む王。はるか下の地上に住む貧しい少年。
 ルキアンは、心の中で両者を何度も何度も対比させてみた。
 イメージは次第に膨らんだ。どういうわけか、そこに旧世界の姿が確かに重なり始めた。天と地と、光と影と……。
 はっと顔を上げて、シャリオを正面から見たルキアン。
 彼女は待ちかねたように言った。
「ふふ。やっと分かっていただけたらしいですね。そう、旧世界というのは、単にイリュシオーネ大陸だけではなく、例えば空に浮かぶ街々のように……もっと別な部分をも含めた、とても巨大で重層的な世界だったのかもしれません。そして私たちの知る《豊かな旧世界》というのが、実は単にその一部の地域のことを指しているにすぎないとしたら、どうでしょう?」
 最後にシャリオの口から、謎めいた台詞が流れ出た。
「貧しき地上の少年は、《天空の王》に逆らって《樹》に足を踏み入れた。そして彼に味方した《雲の巨人》は、恐るべき力でいつしか天を落とそうとする。そのとき天上の人々は……」
 シャリオは決して口外しなかったのだが、今の彼女の言葉は、実は《沈黙の詩》の一節を意識していた。
 ルキアンはそれを知るはずもない。
 そのとき、医務室の扉をノックする音が聞こえた。

「先生、失礼します……」
 紺のドレスと白いエプロンを身に着けた少女が、丁寧にお辞儀しながら入ってきた。
 その特徴的なローズ・ミストの髪を見ただけで、ルキアンにも彼女が誰なのかすぐに分かった。銀色に薄紅漂う頭髪は、大陸中南部の人々によく見られるものだ。やはり彼女が旧ゼファイア出身であることをうかがわせる。
 シャリオは椅子から立ち上がり、少女の方に歩み寄った。
「レーナ、お仕事中どうもありがとう」
「いえ、どういたしまして。あの……メルカちゃんを連れてきました」
 メルカはレーナの後ろに隠れるようにして、入り口から部屋の中を覗き込んでいる。
「さぁ、メルカちゃん! こっちにいらっしゃい」
 シャリオはにこやかな表情で手招きした。
 しかし、メルカはうつむいたまま、なかなか部屋に入ってこようとしない。
 いつもなら元気に飛び込んで来そうなものだが……ルキアンは少し不思議に思って、彼女に手を振る。
「メルカちゃん、どうしたんだい?」
「ルキアン……」
 彼女は小さな声でつぶやいて、熊のぬいぐるみを抱きしめる。
 心配そうに見守る3人。その前でメルカは突然泣き出した。
「……ルキアンのバカ、どうしてメルカを置いて行っちゃったのよ! バカ、バカバカ! ルキアンなんか嫌いーッ!!」
 廊下に駆け出していこうとする彼女を、レーナが慌てて押し止めた。
 ルキアンはあたふたと戸惑うばかり。
 そんな頼りない様子の彼とは違い、シャリオの動作はごく冷静なものである。彼女は両手でメルカを抱きした。
「もう大丈夫よ。ごめんね……ルキアンお兄さんには大事な用があったの。でも、ちゃんと帰ってきたから安心してね」
 温かな白の法衣に抱かれて、メルカが泣きわめく声もいくらか小さくなる。
 べそをかいているメルカの手を引きながら、シャリオは言った。
「レーナ、ついでにお茶でもいかが?」
「あの、あたし、お仕事が……」
 遠慮がちに首を振るレーナ。
 シャリオは、にこやかに言った。
「ふふふ。少しぐらい構いませんわ。お母さんたちには、私の用事を手伝っていたと言っておきなさい」
「え、いいんですか、先生?……では、喜んで」
 一転して無邪気な笑みを浮かべて、レーナは嬉しそうにうなずく。
「今回の旅は長くなりそうです。今からそんなに無理をしては、肝心の時に体調を崩してしまうことになりかねませんよ。レーナは頑張り屋さんだから、少しは休まないと……」
 シャリオはメルカを席に座らせると、亜麻色の髪を優しく撫でてやった。
 ルキアンは小声で謝っている。
「ごめん、メルカちゃん。もうどこへも行かないから……」
 だがその言葉を口にしたとき、彼はなぜか後ろめたいものを感じた。
 メルカに嘘を付いてしまったのだと、無意識のうちに思ったのである。
 ――どこへも行かないなんて……本当に僕はそう考えているのか?
 自問するルキアン。
 ほんの少し前に出会っただけなのに、どうだろう……シャリオやクレヴィス、メイ、そしてバーンたち、この船の人々と明日には別れることになるなんて、少しも実感していなかった。
 ――僕はまだ、仲間になると決めたわけじゃないのに。
 いつの間にか自分は、クレドールと共に旅立てることを心の奥底では願っていたのかもしれない。はっきりとそう気づいて、ルキアンは狼狽する。
 黙って考え込む彼を、メルカが疑わしげに見つめていた。涙目をこすって彼女はささやく。
「ルキアンは、絶対どこかに行っちゃう。だからメルカもルキアンに着いていくんだもん……」
 この言葉を聞いた途端、奥でお茶の用意をしているシャリオが、背中をぴくりと震わせた。
 ルキアンは、懸命の作り笑顔でメルカをなだめようとしている。けれども彼自身にさえ、その行為は空々しく思えた。不器用なルキアンは、メルカに弁解しようとすればするほど、表情や言葉の端々に自らの後ろめたい気持ちを露呈させてしまうのだ。
「今のルキアン、変だよ。あの銀の天使みたいなのに乗ってから、このお船に乗ってから……ルキアン、何だかおかしいよ」
 メルカの鋭い一言が、彼の頬をこわばらせる。
「メルカと一緒におうちへ帰ろっ。ねぇ、ルキアン、返事してよぉ!」
 追いつめられたルキアンは、とうとう自らも感情を抑えることができなくなってしまい、震える声でこうささやいた。暗い目を前髪の奥に隠して。
「いいかい、メルカちゃん。お家は、もうないんだよ。先生も、すぐには帰ってこないんだ」
 破れかぶれの彼の言葉に対し、メルカが何か叫ぼうとした瞬間。
 レーナが必死に声を大にして助けに入った。
「気持ちを強く持って、メルカちゃん。あなたのパパ……いまギルドが一生懸命に探してくれているわ。この世界で起こっていること、どんなに小さな事でもギルドには分かるの。きっとパパは見つかるから。ねっ、だからルキアンお兄さんを困らせては駄目よ……」
「えぇ。メルカちゃん、新しいお家もちゃんとありますからね。お父様が見つかるまで、私のお友達があなたの世話をしてくれます。親切なご夫婦ですから、本当の家族だと思って安心して良いですわ」
 ポットとカップを運んできたシャリオも、メルカに微笑んで見せる。
 しかしメルカは、すねた表情で指をくわえるだけだった。
「ルキアンもあたしと一緒なの? そうじゃなきゃ、絶対ヤだもん!」
 気まずい雰囲気が漂う。
 いたいけなこの少女を騙すことは、いくら彼女自身のためだとはいえ……神に仕えるシャリオには難しかった。言い換えればシャリオも、ルキアンが自分たちと共に来てくれるのだと、心のどこかで信じてしまっていたのだ。
 勿論ルキアンはすでにお手上げである。
 このままではメルカの気持ちが暴発しそうだったので、レーナが場の雰囲気を和らげようとする。彼女はメルカに身体を寄せ、明るい声で言った。
「メルカちゃん、シャリオ先生のお茶は身体に良くって、とっても美味しいのよ。冷めないうちにいただきましょう!」
 控えめで純朴な外見からは考えられないほど、レーナには落ち着いたところがあった。幼い頃から、ギルドの変わり者や荒くれ者たちの中で暮らしているせいかもしれない。そう、幼い頃から……。

 ◇ ◇

 ――こちら、ケプラー基地《鉄豹機装兵団》所属の部隊、ただいま敵の奇襲を受け交戦中!
 議会軍の通信兵は、突然の《念信》を受けた。
 昼間は《レンゲイルの壁》を遠巻きに攻撃している各部隊も、日没を経てそれぞれの陣地にいったん引き返し始める頃だった。
 アルマ・ヴィオを使った戦いでは、夜戦が行われることは比較的少ない。レーダーの類が機体に装備されていないため、敵の発見を肉眼に頼らざるを得ないからである(アルマ・ヴィオの魔法眼を通して視力が強化されているにせよ)。いや、それ以上に、夜というのは魔物や霊が活動する時間帯だとして、この世界の人々に今なお恐れられているせいもあろう。
 そういったこともあって、通信兵はいくぶん気を抜いていた。他の軍人の大半と同様に、実戦経験を持たぬゆえの甘さかもしれない。
 彼が答えるよりも早く、必死の念信が伝わってくる。
 ――敵は《ハイパー・ティグラー》の突撃タイプが中心、我が方の機体では歯が立ちません、直ちに増援を、場所は……何、空からの攻撃? うわぁっ!!
 ――もしもし、応答願います! 応答してください!
 だが念信はそこで完全に途絶えてしまった。

 議会軍アルマ・ヴィオの残骸を前にして、黒と赤の魔獣が闇に吠えた。
 もはや動かぬ鋼の虎を踏みつけ、伝説のヒポグリフは翼を広げる。
 燃えさかる炎のごとき鶏冠を持ったその機体は、そう……。
 ――こちらミシュアス。C16ポイント付近の議会軍は完全に掃討した。これより、近隣の敵砲台の制圧に向かう。
 あの《黒き貴公子》ミシュアスは、すでにレンゲイルに到着していたのだ。
 ――歯ごたえのない。ふん、議会軍など所詮はこの程度……。
 次の獲物を求めて夜空に舞い上がるアートル・メラン。
 部下たちの同型機が後に5、6体続く。
 大地の上では、ハイパー・ティグラーの黒い機体が素早く散開した。《ティグラー》を全面的に強化した漆黒の虎は、レンゲイルの壁以外の場所にはほとんど配備されていない。
 巨大な生体兵器たちが薄夜にうごめく様は、美しくも不気味な妖魔たちの群を思わせる。

 ◇

 真っ暗な荒野の所々で上がる火の手を、ベレナ市の城塞から遠く見つめる者があった。不用意に伸びすぎた議会軍の戦線が、ミシュアスをはじめとする精鋭エクターたちによって寸断されていく――深い洞察力を宿した視線が、その様子をじっと俯瞰している。
 反乱軍総司令トラール・ディ・ギヨットは、琥珀色の小さなグラスを片手に、窓の外に広がる闇と向かい合っていた。端整に整えた銀色の髪。濃い青紫の瞳に揺らめく光は、彼の人柄の奥深さをうかがわせる。
 堅固な《壁》に籠もって敵の戦力を消耗させ、機を見てはゲリラ的な襲撃で攪乱する。ギヨットの指示した戦法は、有利な条件の中で敢えて勝利を急ぐことのないものだった。そして彼のもくろみ通り、レンゲイルの壁を包囲する正規軍は、じわじわと損害を増大させる一方だと言える。
 《壁》の守将ギヨットは、オーリウム陸軍に並ぶ者のない名将であり、同時に歴史に名を残すエクターであった。そんな彼が、なぜ反乱軍を率いることになったのだろうか……。

 ◇ ◇

 ルキアン、メルカ、シャリオの3人は、再びクレドールを出てギルド本部の建物に向かっていた。ギルドの医師ピューム・エアデンのもとにメルカを預けるために――いや、場合によってはルキアンも、メルカと共にこの地に留まることになるかもしれないが。
 港から本部へ向かう、旧運河沿いの道。
 ルキアンがメイたちと昼食会を開いていた場所だ。あの時の賑やかさに比べて、夜になるとすっかり物寂しい。ときおり港の方から、飛空艦に荷を積む作業の音が聞こえてくるばかり。
 昼間の好天ゆえか夜空は雲もなく澄み渡り、星々の瞬きが見事に一望できる。
「今日は、普通の月ですね……」
 頭上に輝く黄色い三日月を指さし、ルキアンが言う。
 何か考え事をしていたのか、シャリオは返事をしなかった。
「ルキアン、覚えてる? お姉ちゃんと3人でこうやって歩いていたとき……」
 そこで口を開いたのはメルカだった。
 
 久々にまともに話した彼女を見て、一瞬、足取りが軽くなったルキアン。しかし次の言葉が、彼の歩みを再び重くした。
「メルカはいつも楽しかったのに、ルキアンは時々退屈そうな顔してた。ねぇ、あたし……邪魔だったの? 今も困った顔してる。ねぇ、メルカって邪魔?」
「メルカちゃん、それは違うよ!」
 ルキアンは慌てて彼女の手を取った。上手く気持ちを言葉にすることができず、彼はその手のぬくもりで自分の真心を伝えようとする。
 だが不器用さは誠実さをしばしばかき消してしまうものだ。ルキアンが握ったメルカの手は、何の反応も示さずぶらりと垂れ下がっている。
 2人のやり取りを前にして、シャリオの胸は痛んだ。彼女は罪悪感にかられて言葉を失う。まだ冷たさの残る夜風が、彼女の長い髪をそよがせると、うつむき加減の暗い表情が見て取れる。
 他方、メルカは、医務室にいたときとは違って意外に冷静だった。
「小さいころ、パパに小鳥をもらったの。とっても可愛い小鳥だったから、メルカは毎日喜んで見ていたの……」
 少女の声だけが夜の並木道に漂う。
 静寂と暗闇は、彼女の声をどこへともなく運び去っていく。
「でも鳥さんは、ずっとかごに入れられたままで嫌だっただろうな。お空、飛びたかったんだろうなァ……。鳥さんはすぐに死んじゃったの。みんなメルカが悪かったの。ねぇ、ルキアンも本当は空を飛びたいんでしょ? メルカのことなんていいから、お空を思いっきり飛んだらいいんだよ……」
 幼いながらも事の本質を見抜いたメルカの言葉に、ルキアンは動揺した。否、彼だけではなくシャリオさえも。
 ルキアンには、ただ黙ってメルカを抱きしめることしかできなかった。彼の手は震え、目には涙が浮かんでいる。
 長い沈黙。
 このままでは、暗闇の中に時が凍り付きそうだと思ったのか、不意にルキアンが言った。
「シャリオさん。人間って、《自分は何なんだろう?》だなんて、どうして考えるんでしょう。そんなこと考えるから、苦しまなければならなくなるのに。僕だって、そんなことを思わなかったら……」
 そこから先を口にすることなく、彼は胸の内で叫んだ。
 ――だったら、ここで迷い苦しむこともなかったのに。たとえ、よどんだ毎日を気の遠くなるほど繰り返しても、僕はそれで満足していたはず。《翼》に未来を託して、自分の今の《日常》から別の現実へと飛ぼうだなんて、夢みたいなことを考えずにすんだのに!!
 しばらく考えた後、シャリオはかすれた声で答える。
「でも逆に苦しんでいるときにこそ、人は、あなたが言ったような問いかけをしてみたくなるのではありませんか? それは、苦しみをいっそう深めるためにですか?」
「……そうですね、違いますね。自らをさらに追い込むためにではないと思います。結果的にいっそう辛くなってしまう場合も多いにせよ、少なくとも本人としては、考えることで自分の痛みをいくらかでも癒そうとするのだと……」
「何によって?」
「たぶん、《意味》によって……あるいは自分の有様に対して、《新たな意味を与える》ことによって?」
 ルキアンの言葉に、シャリオはうなずいた。微笑みの奥に、隠し切れぬ悲愁を押し込めながら。風に乱れて顔にかかった髪は、今の彼女をどこかやつれた感じに見せる。
「えぇ。あなたの先ほどの質問を言い直せば、人はなぜ自分の《生》に《意味》を求めるのでしょうか? 私が神官という立場から出す解答というのは、おそらく今の貴方にとっては何の道しるべにもならないでしょうね。それでは聖職者ではなく、一人の生身の人間として答えよと言われた場合、この永遠の謎を解く力は私にはありません」
 勿論、決定的な答えが帰ってくるなどとは、ルキアンも期待していなかった。それでも、しかし……。彼は投げやりに言い放つ。
「僕にだって、少しは分かってるんです。《答え》なんて、人によって全て違うのだから、自分で見つけ出さなきゃいけないんでしょうね。違う、本当は僕らは知ってるんです……《答え》なんて最初からどこにも《ない》んだ。それを認めるのが怖いんだ。そうじゃないでしょうか?」
「《ない》とは言い切れません。しかし《ある》とも言い切れません。いいえ、《答え》の有無を明らかにすること自体が、私たち人間の力を越えたおこないなのです。だから結局、《真理を見つける》のではなく、《真実らしいものを考え出す》しかないのです。それが《意味を与える》ということだと思います」
 立ち止まったシャリオを、メルカが無表情に見上げている。
 首にかけた聖なるシンボルを手にして、シャリオは語る。
「けれども、自分で考え出した《意味》を無邪気に信じることができるほど、人間は純粋ではありません。信じるというのは簡単なことではないのです。信仰と同じように。普段、人は《自分が存在することの意味》を、ごく当たり前に漠然と認めています。しかしそれが揺るがされるようなことが起こったとき……人は己を信じられなくなる。だから、苦しみを前にしたときに初めて問い直すのです。自分の《意味》あるいは存在意義について。そしてあなたが言ったように、《意味を再確認》し、あるいは《新たな意味を与える》ことによって、再び生きていく力を得ようとするのです。その《意味》が見つからない時には、死を選ぶことにもなるのかもしれません……」
 ルキアンが声を大にして尋ねる。
「でも、どうして人は《意味》があれば生きていける……あるいは《意味》を失えば、なぜ生きていけないと思うのでしょう? 本当はそれをお聞きしたかったから、僕の最初の質問が出てきたものかもしれません。今そう気づいたんです」
「……ルキアン君は、旧世界人のようなことを言いますね」
「それって、どういう意味ですか?」
 パラミシオンでの体験以来、ルキアンは旧世界のことを快く思っていない。旧世界人と同じだと言われて、彼はあまり良い気持ちがしなかった。
「実は旧世界の多くの人が、深刻に悩んでいたそうです。自分の《生きることの意味》とは何なのかと。彼らは《意味探し》に狂奔し……時にはそれがもとで精神を病んだり、絶望して命すら捨ててしまったりしたのだと、当時の文献には書かれています。概念と感情の檻の中で自らを追いつめ、往々にして己を狂気や死へと追い込んだというのです。あなたはそれを笑いますか? なぜそんな事態になったのか、分かりますか?」
「なぜって、それは……」
 答えに戸惑うルキアン。
 シャリオは天空に開けた星の海を仰ぎ見た。
「いつか分かるときが来ますよ。ともかくルキアン君の気持ちは、自分なりの新たな《生》の《意味》を求めようとして、すでに動き始めています。それだけではない……周囲の環境もあまりに急激に変化しすぎて、あなたは否応なしに決断を迫られているのです」
 ルキアンとメルカも夜空を見上げる。
 後ろから2人の肩をそっと抱いて、シャリオはつぶやく。
「潮は満ちました。時の車輪を回し始めるかどうかは、ルキアン君の気持ち次第です。追い風は本当に一瞬。あなたの翼が羽ばたくために必要な風は……。私には、もうこれ以上何も言えない。後はあなたが決めるのです」

 ◇ ◇

 その頃、クレドールの格納庫で密かな異変が起こっていた。
 一見眠ったままのアルフェリオン・ノヴィーアの中で。
 銀の鎧の下、生々しいまでの肉や筋がうごめき、大小無数の管が脈動する。これは機械ではない。まさに生物のごときアルマ・ヴィオの体内。
 アルフェリオンの中心部には、ひとつの真っ黒な《珠》があった。
 その不可思議な球体は、綿くずのように白く繊細な糸で半ば覆われていた。《糸》はクモの巣さながらに周囲へと広がり、血管状の液流組織のパイプに食い込み、伝達組織の微細な網の目に絡みついている。
 驚くべきことに、白い糸は少しずつ増殖しつつある。このままでは体内の隅々にまで行き渡るのも、時間の問題だろう。
 アルマ・ヴィオの通常の体組織が、これほど凄まじい速度で成長するはずはない。明らかに旧世界の技術で作られた極小の粒子機械、《マキーナ・パルティクス》の力による増殖だった。
 それを知ることなく、今夜は不眠不休だという覚悟で懸命に働く技師たち。
 新たなアルマ・ヴィオの搬入、武器・弾薬の交換等が騒々しく行われている。
 誰一人として、格納庫の隅に置かれたアルフェリオンの異変に気づくことはなかった。
 しかし今、何かが起こっているのだ。銀の天使の中で……。

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