HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第36話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

 ――人間には抗し難いその力は、むしろ《必然》か? あの場に居合わせた私さえも、ひょっとすると《偶然という名の必然》の実現に無自覚に力を貸した、単なるコマであったのかもしれぬ。あの少年……ルキアン・ディ・シーマーには、何かそういう不思議な力を感じる。


 4.

 すでに夕刻に向けて傾き始めているとはいえ、午後の太陽は、まだ思ったより高い位置で輝いている。長い冬が終わり、本格的な春の訪れたオーリウムでは、最近、日毎に夕暮れの時刻が遅くなっている。
 クレドールの艦橋――窓際で中央平原を見下ろしながら、クレヴィスとバーンが何か雑談をしている。バーンは珍しくエクター・ケープを羽織っていた。緻密な刺繍入りの生地を幾重にも重ねたケープは、バーンのたくましくも無骨な後ろ姿には、残念ながらあまり似合っているとはいえない。
 彼の隣に立つクレヴィスは、床に付きそうなほど丈の長いチャコールグレーのクロークに身を包んでいた。黒っぽいマントを着けた彼の姿は、魔道士を絵に描いたようであった。これで眼鏡を外し、杖でも手にしていれば、あたかも伝説の物語の中から現れた魔法使いといったところだ。その衣装の上に、彼もエクター・ケープをまとっている。
「何だか肩がこりますね。魔道士の正装をするのは、その昔、魔道士の称号を授けられたとき以来かもしれません。エクター・ケープを着るのも何年ぶりでしょうか」
 クレヴィスは苦笑いしている。実際、彼がエクター・ケープを着ている姿など、付き合いの長い仲間たちでさえ、カルダイン艦長をのぞけばほとんど見たことがなかっただろう。
 エクター・ケープは、いわば繰士にとっての晴れ舞台の装束である。かつてイリュシオーネの騎士がまだ鋼の鎧と兜に身を固め、馬上で手柄を競っていた時代、出陣する騎士たちが武勲を祈願して誇らしげにまとった衣装に、エクター・ケープは由来するという。メイのように、出撃の際には毎回のようにエクター・ケープを身につける者もいる。しかし格式を重んじる機装騎士の間ではともかく、何か特別なことでもない限りケープを着けないエクターが近年では増えているらしい。
「あいつ遅いな。何を手間取ってんだ?」
 先ほどから、艦橋の入口の方をバーンが何度も振り返っている。
「まぁまぁ、まだ夕暮れまでに時間はあります。ただ、ミトーニア市との会談までに、一応、こちらの打ち合わせももう少し詰めておきたいところですが」
 クレヴィスは愛用の懐中時計の蓋を開けたり閉じたりしていた。手持ち無沙汰なときの彼のくせだ。
「もっとも……よりによってこんなときに、今回の話を持ち出したのは私です。後で日程が窮屈になっても、その原因は私自身にあるのですけどね」
 いつも通り眼鏡の奥に涼しげな微笑を浮かべているクレヴィス。彼に向かって、バーンが不思議そうな顔で尋ねた。
「でもよ、クレヴィー。この話をルキアンがよく受けたもんだな。俺は意外だよ」
「えぇ。私も無理を承知で持ちかけてみたのですが。多分、いまルキアン君の中で何かが変わり始めている、あるいは目覚め始めているのかもしれません」
「その、なんだ、心境の変化……ってやつか?」
「そんなところでしょうね。おや、来たようですよ」
 クレヴィスの視線の先で、艦橋の入り口が開いた。

 わざとらしい咳払いの後、まだまだあどけなさの残る少年が姿を見せた。ノエルである。クラヴァットをおそらく初めて巻いたのであろう、彼の首や襟元はとても窮屈そうに見える。このやんちゃな少年には、本格的な正装はいまひとつ不似合いだった。大人用の衣装を子供が着てみたという感じの、滑稽な様相だ。
 彼は両手に短剣を持ち、予めどこかで教わったような大仰な動作で刃をゆっくりと合わせ、打ち鳴らしている。剣の先は丸く、鍔や束には込み入った装飾が施されている。実戦用ではない儀式用の物だ。
「え〜、オーリウム・エクター・ギルドの誇り高き、白き翼の船……白き……あれ? 何だったっけ?」
 頭をかいて笑っている彼の背後、入口の奥から、メイが声を抑えて叱っている。
「あんたね、あれだけ教えたのに! 《大空の神アズアルから白き翼を賜りし伝説の魚――フォグ・フィクスの似姿にして、かの争いでの猛々しき戦船(いくさぶね)の名を受け継ぐもの、誇り高きクレドール》の諸君。だってば。いや、そうだった、かな。あはは」
「へいへい。大空の神……」
 メイから告げられた長たらしい言葉を、少年はオウムのように繰り返す。要するに、この船に与えられている格式張った舞台での称号のようなものらしい。艦橋のクルーたちは思わず爆笑し、ヤジや冷やかしが方々から飛び出した。
 そこで大きな咳払い。今度はノエルではなく、メイが彼に続いて艦橋に入ってきた。
「うるさ……いや、諸君、静粛に!」
 似合わない口ぶりで彼女が叫ぶ。それが余計に仲間の笑いを呼んでいる。艦橋の席の方からカルダインが一声かけ、ようやく周囲は静かになった。

 ――かの争いでの猛々しき戦船の名を受け継ぐもの。
 艦長は心の中で繰り返す。

 ◇ ◆

「だったら、カルダイン! あなたの船の名前は私が付けてあげます。クレドール、そう、《クレドール》というのはどうかしら? 《希望》を意味する、この国の古い言葉です」
 若い娘の声。元気に弾んだ口ぶりだが、そんな気さくさの中にさえ、優雅な空気が漂っている。
 記憶の向こうに、今も鮮明に刻まれている笑顔。
「勿体ないお言葉。このカルダイン、エレア様のお言葉、謹んでお受けいたします」
 青年カルダインは、レマールの海で日焼けした顔を伏せ、深々とお辞儀をした。
 ゼファイアの王女エレア・ルインリージュは、身体が弱く病気がちであるにもかかわらず、今日、ここでは快活さに溢れていた。決して大きくはないが、見事な調度品や天井画に彩られた広間。そよ風に栗色の長い髪を揺らし、王の座のある一段高いところから姫君が降りてくる。
 エレア王女は不意に真剣な面持ちになって告げる。
「カルダイン。この国は小さく弱い……。オーリウムとタロスという大国に囲まれ、それらの国から少し風が吹けば、消し飛んでしまいそうに見えます。そんなゼファイアを支え、広大なレマール海での貿易を担う国として発展させてきたのは、あなた方のような勇敢な冒険商人たちです。そう、あなたの新しい船は、私たちゼファイアの《希望》です。これからも頼みますよ。これは私からのささやかなお祝いです」
 彼女は再び、たおやかな笑みを浮かべる。その白い手には銀の腕輪があった。
 背後にいた部下の者たちとともに、カルダインは王女に――いや、正確には、国王の急死を受け、じきに女王として即位するであろう人に――ひれ伏した。
「このご恩は生涯忘れません。世間では海賊呼ばわりされる私たちのような者にさえ、いつもこのようなお心遣いを……」
 そう言い終わるが早いか、彼は機敏な動作で立ち上がり、鞘に入ったままの短剣を胸に当てた。ゼファイア海軍の敬礼か、そんなところであろう。
「この命、すべて姫様のために! ゼファイアに栄光あれ!!」

 ◆ ◇

 ――エレア様、私は貴女との約束を守れませんでした。タロスの飛空艦隊を追い詰め、勝利を目前にしながら、最後の最後で敗れてしまった。ゼファイアの《希望》を守り抜くことができなかった……。
 しばし目を閉じ、カルダイン艦長は、そんな感傷など微塵も起こさなかったかのように、いつも通りの厳めしい顔つきに戻った。

 そう、《クレドール》というのは、元々はカルダインがゼファイア時代に有していた飛空艦の名前なのだ。その旧クレドールは、貿易用の船ではあれ、空の海賊の出没するイリュシオーネでの広範な航行にも耐えうるよう、最初から多少なりとも武装を備えた船だった。そして革命戦争の勃発以降、何度も武装を重ねて軍艦同様の船となり、タロス新共和国の大艦隊を相手にレマール海一帯で神出鬼没のゲリラ戦を展開することになる。《ゼファイアの英雄》の指揮した飛空艦に他ならない。
 革命戦争の一応の終結の後、オーリウムのエクターギルドは、亡命したカルダインを組織に迎え入れようと躍起になった。その際、彼は次の2つの条件を主張して決して譲らなかったのである。《ひとつ、自分の乗るべきギルドの新造飛空艦にはクレドールという名を付けること。ふたつ、同艦の副長への就任を、魔道士クレヴィス・マックスビューラーが承諾すること》というものだ。
 双方の条件が満たされ、カルダインはギルドの飛空艦の長となった。

「準備は整ったな。時間のない折、略式ではあるが、これよりルキアン・ディ・シーマーを繰士と為すために式を執り行う」
 カルダイン艦長が重々しい声でそう告げると、艦橋の面々は、真ん中の通路の左右に整然と並び始めた。だが、若干心配そうな表情の者もいる。それを目ざとく見つけたカルダインは、上機嫌そうに言った。
「かまわんよ。もうナッソス軍には、高空にいる飛空艦を攻める手だてはほとんど残されていない。いま動くことは奴らにとっても好ましくないだろう。それに……昔は、戦いの最中に騎士が多数討ち死にして足りなくなり、見習いを慌てて戦場で騎士に任じたことも、希にあったと聞いている」
 艦長はクレヴィス副長を伴い、通路の奥に臨時に設けられた段の脇に立った。クレヴィスの合図により、ノエルが再び剣を打ち鳴らしつつ、両側に分かれた人の壁の間をおもむろに進んでくる。ちょうど先払いのような具合だ。
 それに続いて廊下から艦橋に姿を見せた者がいた。周囲からざわめきが起こり、嘆息が漏れる。
 しきたりに従い、神官が入ってきたのだ。勿論、シャリオ・ディ・メルクールである。王や諸侯の臣下が繰士になる場合には、自らの主君によって任ぜられるのが常である。しかしギルドの繰士の場合、そうもいかないので、手近な神殿の聖職者に叙任の役を委ねるのが慣例になっている。
 ただしシャリオは普通の神官ではなく、準首座大神官という極めて高位の聖職者である。彼女自身も最初は遠慮したのだが、周囲にせがまれ、大神官の正装でこの場に姿を現すことと相成った。
 その壮麗な姿は一同を驚かせ、水を打ったように艦橋が静まりかえった。シャリオは大神官の位を表す黄金作りの二重の宝冠をいただき、普段の白と青の法衣の上には、赤地にこれまた黄金色で刺繍の施された長衣をまとっている。裾を床の上で静かに滑らせながら、彼女は儀式用の聖杖をかざして前方の段に歩み寄ってゆく。先端が渦巻きのように大きく湾曲し、玉石の散りばめられた巨大な杖だ。小柄で細身のシャリオには、少し重荷に過ぎる感さえあった。だが、そこはさすがに手慣れた様子である。
 列に加わって見守るベルセアが、隣にいるサモンに耳打ちする。
「おいおい。俺のときは、田舎のしみったれた坊さんが出てきただけだったぞ。これじゃ戴冠式みたいじゃないか。すげぇな」
 侍女を思わせる出で立ちのレーナが、長剣を重そうに両手で抱えてシャリオの後に続く。どうやら、先ほどのノエルの場合といい、この儀式の補助は年若い少年少女が行う習わしのようだ。
 カルダイン艦長、クレヴィス副長となにやら簡単にささやき合った後、シャリオは段に立って厳かに告げた。儀式が始まるらしい。
 が……。艦内が微妙にざわめいた。
「ルティーニ、いま、彼女は何て言ったんだ?」
 ウォーダン砲術長が怪訝な顔で口髭をなでている。いまばかりは彼も砲台から艦橋に上がり、ミルファーン海軍の制服で正装していた。彼をはじめとして、かつて所属していた組織の衣装を今でも式典の際には利用するという者が、ギルドには多い。そのため室内は様々な格好の人物であふれている。奇妙な眺めだった。
 傍らにいたルティーニが小声で彼に教える。
「あれは古典語ですよ。大きな神殿の儀式では、普通はオーリウム語ではなく古典語を使いますからね。たぶん《それでは新たな繰士にならんと欲する者、進み出よ》と言ったはずです。でも全部は聞き取れませんでした」
 周囲の雰囲気の変化に気づき、シャリオは頬を少し染めた。
「あら、いやですわ。わたくしとしたことが」
 段の脇に立つクレヴィスが、そのまま続けて構わない、と彼女に頷いている。
「分かりました。では、皆さん。神殿の正式な作法に則り、儀式の進行は古典語で行いますが、大切な部分はオーリウム語でも繰り返します」
 シャリオはそう言い、深く息を吸い込んだ。古典語の荘重な響きの後、同じ意味のオーリウム語が繰り返された。
「神の御名において、汝を祝福し、繰士に任じます。ルキアン・ディ・シーマー、入りなさい……」

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