HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第2話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  空と海とが接するところ、船は漂う。
    折からの上げ潮に心地よく揺られながら。



 空――風と雲とが、青に織りなす気ままな万華鏡。
 無限に多様な旋律を、いかに考え抜かれた技巧よりも鮮やかに、
 精緻な調子をもって奏で続けている。
 昼には世界の王たる太陽の光が、地に生きる命を育む。
 夜には慈悲深い月の光と、星々の白い瞬き。
 明暗二つの楽章。

 海――底知れぬ深淵を抱いた、紺碧の聖地。
 幾度となく魔所と化して、舟人に牙をむくことがあろうとも、
 やはりそこは生き物たちを産み出したふるさとに違いない。
 時に凪ぎ、時に荒れ、自在な緩急を見せつつ、
 あの半ば永劫のリズムを刻み続けている。
 ……寄せては返す懐かしい波の音。
 波濤は砕け、潮の華は白く泡立ち、やがて沖へと帰る。
 いわば世界の鼓動である。


「もしも世界を果てしない音楽に例えるなら……さしずめ、海はその通奏低音というところかもしれません」
 魔道士クレヴィス・マックスビューラーは、艦橋の硝子の向こうに広がる光景を指さして、感慨深げに言った。
 30代に差し掛かったばかりの年頃である。一見して生真面目で、少し神経質そうな人物にも見える。
 それでいて、にこやかな微笑を絶やさない面長の顔に、ツーポイントの眼鏡がよく似合っていた。腰辺りまで伸びた長い髪は背中で一本に束ねられ、やや暗めの、燻したような金色の光を放つ。
「なぁんだよ。黙って海を見ていたと思ったら、そんなことを考えていたのかい。まったくクレヴィスらしいな。しかし、あれだけ雄大な海が伴奏となれば、見劣りしない歌い手をさがすのが大変だねぇ。メロディを受け持つことができるとしたら、この世界広しといえども……そう、あの空ぐらいだろうよ」
 同じく窓際から外を眺めていた男が、とぼけた口調で応える。ほぼ同年代であろう。こちらの方はどこか茶化した感じの物言いをする。
 オーリウムの名門マッシア一族の異端児にして、思想家あるいは変わり者の文芸家として知られる、ランドリューク・グラフィオ・ディ・マッシア、すなわちディ・マッシア伯爵である。オリーブ色の髪を耳元で小ぎれいに切りそろえ、ウエストコート(=今日で言えばヴェストに近い)とブリーチズはどちらも黒、その上に灰色のビロード地のフロックをまとっている。高い襟のシャツと、首に巻いたクラヴァットは、ともに白だ。
 モノトーンでまとめられた彼の服装とは対照的なのが、他方のクレヴィスの格好である。茶色のクロークの下に鮮やかな珊瑚色のウエストコートを身につけ(*1)、それを懐中時計の金色の鎖でさらに引き立てている。地味な顔つきからは想像しがたい、粋な洒落者である。
 クレヴィスは軽い溜息と共に言う。
「至当ですね。ではランディ……この世界という楽曲の中で、私たち人間の営みをどう位置づけますか?」
「難問だな。まぁ、今日この頃の人間様のやってることは、悪趣味な不協和音ってところか……内乱なんて、不調和の極みとしか思えないねぇ」
 彼らは苦笑して、言葉を詰まらせる。

 飛空艦《クレドール》のブリッジには、2人の他にも多くのクルーたちが居合わせていた。
 服装はそれぞれ異なるが、揃って目立つのは、肩から腰へと懸けられた鮮やかな剣帯である。空色・白色・若草色で塗り分けられた帯は、《空、雲、緑の大地》を象徴するクレドールの三色旗にちなんだものだ。この旗のもと、艦長カルダイン・バーシュ以下、様々な乗組員たちがひとつに集っている。
 現在、同艦はコルダーユ港の沖合に停泊していた。港内に浮かぶ大小様々の船と比べて、ひときわ異彩を放つ白い巨体は、回遊魚を思わせる見事な流線型である。その右舷・左舷では半月状の曲線を描いた翼が休んでいる。飛空艦の外観は、一般的な船の姿とはかけ離れており、むしろ生き物に近い。
 むかし、海の中からいつも空を眺めては、一度でよいから自由に飛んでみたいと願った魚がいたという。ある日、神は気ままな思いつきで、魚のそんな願いを一日だけかなえた。翼を与えられた魚は歓喜に満ちて空を舞い、雲の間を気持ちよさそうに泳いだ……。クレドールの姿は、この伝説の魚を彷彿とさせる。
 《飛空艦》は、かつてイリュシオーネに栄えた文明――今日では《旧世界》と呼ばれる――の遺産である。魔法と科学とを巧みに融合した当時のテクノロジーは、文字通りに空を飛ぶ船を創り上げたのだ。現在、飛空艦はしばしば発掘され、保存状態の良い場合には、改修を経て実用に回されている。

 クレヴィスとランディとの間で交わされる、舞台めいた独白的な台詞のやり取りを耳にしながら、艦橋の面々は臨戦体制で待機していた。
 コルダーユの町外れの丘で起こった爆発を調査するために、メイとバーンがアルマ・ヴィオで出動してから、もう1時間半ほど経つ。万が一の連絡がメイたちから届き次第、つまり件の爆発が反乱軍の策動によるものである場合、必要に応じて直ちに行動に移れるよう、クレドールは準備を整えているのだ。

 ◇ ◇

 まだ残り火のくすぶるカルバの研究所を前にして、ルキアンは呆然と立ちつくしていた。
 彼の顔は心なしか青ざめている。
 怒りゆえか哀しみゆえか……震える唇、重苦しい吐息と共にはき出されたのは、風にかき消えそうに微かな言葉。
「まさか……信じられない」
 ルキアンは何度も小声で繰り返しては、首を振った。
 そんな彼の背中をじっと見つめた後、バーンは逞しい肩をすくめて、恨めしそうに天を仰いだ。
 メルカはメイの胸に顔を埋め、力無く泣いている。お気に入りの茶色い熊のぬいぐるみは、無造作に草の上に投げ出されていた。皮肉にもその玩具の表情は、哀しいほどに穏やかである。
 ふんわりと膨らんだ、メルカの亜麻色の髪を、白い手袋をしたメイの掌が撫でる。
「パパぁ……」
 メルカがか細い声ですすり泣く。
 そのときメイは、思わず腕に強い力を込めてメルカを抱きしめた。
「お姉ちゃん、痛いよ!」
 メルカは体をよじらせて言ったが、メイは何かにつかれたかのように、遠い目をしてつぶやいている。
「罪なき子らの澄んだ瞳を、哀しい涙でどれだけ汚せば気が済むというの?時代という名の魔物よ、進歩という名の身勝手な思い上がりよ……」
 メイの口から、彼女のものとは思えない言葉が紡ぎ出された。
 メルカが苦しそうに身悶えするのを見て、バーンが慌ててメイの肩を叩く。
「おい、よさないか! メイ、お前が動転しちまってどうするんだ」
「もしもこの世界の発展が……たとえ、それが人類の解放という偉大な夢につながろうとも、いつも沢山の血で贖われなければならないのなら、私は、わたしは未来など……」
「しっかりしろ! 何を、わけ分かんねェこと言ってんだよ!!」
 バーンはメイの両肩をがっしりと掴んで揺さぶった。


 ようやく我に返ったメイ。彼女は慌てて目を大きく開いた。
「ごめんなさい! 私、どうかしちゃって。ごめんね、メルカちゃん」
 メイはメルカの顔にそっと頬ずりした。
 べそをかきつつも、メルカはきょとんとした顔でメイを見ている。
 何事かと振り向いたルキアンの視線は、バーンの気まずそうな顔とぶつかった。一同の間にしばしの沈黙が漂う。
「すまないな、ルキアン」
 息苦しい空気の中、バーンがルキアンの耳元でささやいた。
「メイの親父さんとおふくろさんは……」
 バーンの声がそこでいっそう小さくなる。
「目の前で殺されちまったんだ。《タロスの革命》のときにな」
「お願い。やめて、バーン……」
 しっかりとした低めの声で、メイが話をさえぎった。
 ルキアンの瞳の中には、ぼんやりとうなだれるメイがいた……痛々しい姿で。
 彼は口を半開きにしたまま、一言も発することができなくなってしまった。
 バーンもそこで言葉を途切らせたが、話題を変えようとして続ける。
「それにしても、ゼノフォスのやつ、人間のする事じゃネェよ。何が《神帝》なもんか。あいつは血も涙も持っちゃいない《魔王》だ!」
 ルキアンも怒りを隠せない様子であった。
「本当にそんな酷いことが出来るものなのでしょうか。何かの間違いということはないですよね? メイオーリアさん」
 メイはメルカの手を両掌で柔らかく握ったまま、首を振った。
「えぇ、間違いないわ。私も誤報だと思いたいのだけれど……それからキミ、《メイオーリアさん》なんて改まって呼ばれると、なんだか気恥ずかしくなっちゃうじゃないの! 私のことは《メイ》でいいって言ったでしょ」
 しばらく曇っていたメイの表情が、苦笑いを伴って少し柔らかくなった。
 照れながら頭を下げるルキアンを見て、今度はバーンが笑う。
「何も謝る必要はないって。こんな男みてぇなヤツが、メイオーリアなんて、お上品な名前で呼ばれてるのを聞くと……こっちが変な気持ちになるぜ」
「もぅっ、失礼ね! 男、男って!!」
 海の香りを運んできた風がふわりと通り過ぎ、風車の丘で花々の匂いを一杯に吸い込んで、今度は街に向かって降りていく。
 可愛らしいフリルをそよがせながら、メルカがぽつりと言った。
「パパ、まだ助かるかもしれないよね?」
 もしここで誰かが、本心ではなくとも直ちに首を縦に振っていたなら、メルカの気持ちはどれほど落ち着いたことであろう。たとえ気休めにすぎないと分かっていたにしても……。
 しかし、そんな淡い希望さえも失わせてしまうほどに容赦ない、あまりに非道な事件がカルバを襲ったのである。いや、カルバだけではない、ガノリスの王都バンネスクの人々すべてをも。
 昨日バンネスクに起こった惨劇を、さきほどメイはルキアンたちに不承不承語ったところだった。
 ルキアンの師匠であり、メルカの大切な父親であるカルバ・ディ・ラシィエンは、不運にもその巻き添えになった可能性が高いのだ。
 周知の通り、ガノリス王国はエスカリア帝国と交戦中である。軍事大国としてその名を轟かせていたガノリスだが、今や各地で帝国に連敗を重ね、領内深くにまで敵軍の侵攻を許している。そして昨日、神をも恐れぬ暴挙が帝国によって行われた。
 帝国軍のシンボルであると同時に、世界中の人々の畏怖の対象となっているのが、浮遊城塞《エレオヴィンス》に他ならない。エスカリア皇帝ゼノフォス2世は、自らこの天空の魔城に乗り込んで、軍の指揮を執っている。
 エレオヴィンスがガノリスの首都に迫りつつあるという話は、オーリウムの人々も知るところとなっていた。しかしガノリスも、精強を誇る飛空艦隊とアルマ・ヴィオ兵団とをもって首都防衛にあたっていたため、エレオヴィンスとてそう簡単にはバンネスクに近づけないであろうというのが、世間のもっぱらの噂だった。いや、各国の軍部の首脳たちでさえ、恐らくそう信じ込んでいたに違いない。
 だが予想は見事に裏切られた。エレオヴィンスは、ガノリスの最終防衛線をいとも容易く突破したのである。数で勝っていたガノリス飛空艦隊は、帝国の飛空艦隊とまともに砲火を交えるにさえ至らず、エレオヴィンスに備えられた不可思議な兵器によって、瞬時に全滅させられたという。話の中身には誇張もあろうにせよ、少なくともガノリス艦隊壊滅という結果自体は、厳然たる事実だった。
 バンネスク上空を制圧したエレオヴィンスから、ゼノフォス2世はガノリス国王イーダン1世に対し、ある報復措置を振りかざして無条件降伏を迫った。
 これに対してイーダンは降伏を拒否。仮に首都が陥落したとしても、広大な国土を持つガノリスには、まだ徹底抗戦の用意がある。戦力の面でも、連合軍は地上部隊を中心に相当の余力を残している。そして何より、イーダン国王や彼の重臣たちは、ゼノフォスがその《報復》を本当に行うであろうとは信じていなかったし、まさか実際にそんなことが可能であるとも思っていなかった。
 だが王の考えは甘すぎた。ゼノフォスは、いかに多くの人間の血が流れ、無数の尊い命が失われようとも、自らの狂信的な理想の実現のためには決して妥協しないのだ。しかもエレオヴィンスには、彼の野望を実現するに足りる恐るべき力が秘められていた。その水準は、現在のイリュシオーネにおける最先端の技術をも遥かに凌駕する。
 ゼノフォスが予告した《報復》とは、エレオヴィンスに搭載された最終兵器《天帝の火》によって、バンネスクを一瞬にして壊滅させるというものである。
 この暴挙は冷酷に実行された。エレオヴィンスから放たれた《天帝の火》は、地上に降りそそぐ神の怒りさながらに、壮大な都を瞬時に焦土に変えてしまったのだ。無数の雷が同時に鳴り響いたような音、この世の果てにさえ届くだろうと思わせる巨大な閃光……刹那の悪夢の後、バンネスクは広大なクレーターに変わり果て、ただ瓦礫の山が王都の跡を埋め尽くすばかりであった。
「ねぇ、ルキアン君。こんな馬鹿なことが信じられて? バンネスクという都市は……地図の上から消えたということになるのよ」
 メイが吐き捨てるように言った。
「そりゃあ、ルキアンやメルカちゃんだって信じたくないだろうさ。俺だって、何万の人間が一度に殺されちまったなんて思いたくねぇよ。しかしな、メイ、あの化け物、エレオヴィンスが現に……」
 押し黙っているルキアンの横顔を、バーンが一瞥する。
 そのときメルカが手を伸ばし、ルキアンの袖をきゅっと握った。
 彼女は上目遣いにルキアンの顔をじっと見つめている。
 かすれた声でメルカはささやく。ルキアンの耳にかろうじて伝わるほど、その声は小さなものであった。
「パパも、お姉ちゃんも、みんないなくなっちゃった……でも、ルキアンだけは、私と絶対に一緒にいてくれるよね」
 今になって思えば、そのような不幸の中で追い打ちをかけるように、先刻の事件――ソーナの誘拐と研究所の破壊、が起こってしまったということになる。慎ましい幸せに見守られて育ってきたメルカは、昨日と今日のわずかな間だけで、その全てを失ってしまった。
 ルキアンはメルカが哀れに思えてならなかった。ついさきほどまで、彼女があんなにも無邪気であっただけに、ルキアンの心はなおさら激しく痛んだ。
 もちろんカルバはルキアンにとっても大切な師である。この2年間、同じ研究所で寝食を共にし、様々な教えを受けてきた。ルキアンの受けたショックも相当のものに違いない。
 そして……こんなとき頼りになりそうな兄弟子ヴィエリオも、あろうことか行方不明のままである。今しがたメイやバーンにも手伝ってもらって、研究所の隅々まで調べたのだが、ヴィエリオの姿はどこにもなかった。
 胸に秘めた呪わしい過去が、脳裏一杯に広がりそうになるのと必死に戦いつつ、メイもメルカの身を自らに重ね合わせ、深く嘆いている。
 ――あのとき、ちょうど私もメルカちゃんと似たような年頃だった。
 そこでメイはわざと明るい調子で言った。ルキアンとメルカを励まそうと……あるいは自分自身にも言い聞かせるように。
「エレオヴィンスだか神帝だか知らないけど、メルカちゃんのパパはきっと生きてるわよ。ねぇ、元気出そっ。お姉様だって必ず戻ってくるわ!」
 ルキアンは、自分よりもかなり大柄なバーンを見上げた。
「バーナンディオさ……いや、バーン。ソーナさんがさらわれた件……あのとき《アルフェリオン・ドゥーオ》が研究所を破壊して、飛び去ったはずなのですが、あなたがたの飛空艦の方でドゥーオらしきものを捕捉しませんでしたか?あれが向かっていった方角だけでも分かれば……」
 バーンは難しい顔で腕組みする。
「その通りだ。しかしよ、運悪くちょうど昼時だった。船からの見張りは普段よりも手薄だったと思うぜ」
「えぇ。しかも《鏡手》のヴェンは、私たちと一緒に昼食を食べていたじゃないの。あのとき見張りをしていたのは、誰か、代わりの素人ね」
 メイは残念そうに頭を抱えた。
 《鏡手》とは、《複眼鏡》と呼ばれる特殊な望遠装置で見張りを行う、早期警戒専門の技術者である。複眼鏡は、多数の魔法眼の集合体をレンズの代わりとしている。個々の魔法眼の視覚は、アルマ・ヴィオをエクターが操るのと似たような原理によって、鏡手の視覚と一時的にリンクされる。慣れた鏡手なら、数キロ先に群をなして飛ぶ鳥たちを、一匹ずつ別々に追跡することも可能だと言われている。
「でも、もしかしたら……」
 メイは何か思い出そうとして首を右に傾け、しばし目を閉じ、今度は左側に首をちょこんと傾けた。
「誰かが偶然ドゥーオを見ているかも。あるいは、近くのギルドの施設の複眼鏡にひっかかっているかもしれないわ」
 彼女はそう言うが速いか、真紅の翼を持つ怪鳥――飛行型アルマ・ヴィオの方に駆け寄っていく。
 走り出したメイの後ろ姿を目で追うルキアン。
 そのとき彼の視界にふと飛び込んできたのは、アルマ・ヴィオの翼に流麗な筆記体で書かれた名前である。
「ラピオ……アヴィス……?」
「あぁ、あれな。メイの《愛鳥》こと《ラピオ・アヴィス》さ。俺は飛行型にはどうも上手く乗れねェんで、メイにまかせっきり……。で、こいつが《アトレイオス》だ」
 騎士の姿をした青いアルマ・ヴィオの方を、バーンは顎でしゃくった。
「《蒼き騎士》って、俺が勝手にそう呼んでるだけなんだけどな」
 柄にもない気取った声で、彼は得意げに笑う。
 ルキアンも彼につられて微笑んだ。
 メルカも、べそをかいた目をこすりながら、2体のアルマ・ヴィオの間で視線を行ったり来たりさせて、興味深げに眺めている。
「それより、あれ見ろよ」
 メイが、ラピオ・アヴィスに登ってハッチの中をのぞき込み、何かしようと盛んに手を動かしている。
 バーンはそれを見上げるようにして、ニヤニヤしながらルキアンに顔を近寄せた。
「アイツな、あんな男みたいなヤツだけど……よくよく見ると、さすがは《元》貴族のお姫様だけのことはある」
 ルキアンも言われるままにメイの方を見た。
 彼女は昇降用のステップに片足を乗せ、背伸びするような姿勢で、もう一方の足先をさらに上のハッチの縁に掛けて作業している。形よく伸びる長い脚が少年の目に入った。続いて、彼女の持つシャープな外見に相応しい……美しく引き締まった腰。反面、意外に肉付きの良い部分。
 何故かルキアンは後ろめたい気持ちになると同時に、遠慮がちな胸の高まりを覚えた。
 バーンが下卑た声で笑う。
「いい眺めだろ。あのくびれがなんとも……いててっ、何すんだよ!」
 うす笑いを浮かべるバーンの頭に何かがぶつかって、地面にどさりと落ちた。
 大きな蜜柑だった。
 それを投げつけたメイが頬を膨らませ、大声で言う。
「何がくびれよ、ニヤケた顔しちゃって!」
「あはは。気のせいだってば……」
「あんたの考えることぐらい、ちゃんとお見通しなんだから。最低っ!」
 メイの剣幕に押されて苦笑しているバーン。
「いや、ルキアンも何のかんの言って、こんな目をして見ていたぜ」
 バーンが両目を指で大きく開けておどけてみせた。
 ルキアンは白々しく笑ってごまかしつつ、バーンの広い肩に隠れるようにしてうつむいている。サラサラとした銀髪を、風がゆるやかにかき分けていくと、その向こうには薄紅に染まった頬が見えた。どこか嬉しそうでもある。
 メルカは不思議そうに、ルキアンの真っ赤な顔をしげしげと眺めている。
 メイが元気よく叫んだ。
「今からクレドールに連絡する。バーン、戻るわよ! あ、ルキアンたちも一緒にどう? もしかしたらドゥーオのこと、それから……バンネスクのことも、何か情報が入ってるかもしれないもの」
 彼女は例の《念信》で、クレドールと交信しようとしていたところだった。
 いつしか重苦しい空気は消えていた。
 どん底に突き落とされた心持ちのルキアンであったが、バーンの戯言にのせられて、知らず知らずのうちに笑っていた。
 そしてルキアンの笑顔はメルカを何よりも安心させた。
 春風の柔らかさを肌で感じるだけの余裕が、一同に再び戻っていた。

 ◇ ◇

 細波だつ青い海の向こう、獲物に近づく獰猛な肉食魚のごとく、何かが密やかに浮上した。
 波間に見え隠れする黒い小塔のような部分の下、水面下には巨大な影が潜んでいる。エイに似た扁平な姿は、背部の面積だけなら、クレドールと比べてさえひと回りは大きい。腹部に切れ込んだ、えら穴を想起させる溝からは、少しずつ、少しずつ、気泡が不気味に水面に立ち上っては消える。
 人知を超越した魔物たちが棲むイリュシオーネだとはいえ、これほどの巨体をもつ海の生き物は、島と見まがうほどの大ダコ(あるいは大イカという説もある)クラーケンか、海の主とも言われる海竜シーサーペントぐらいのものである。
 しかし、謎の影から深い海の底へと響きわたる機械的な鼓動……血の通った生き物がそれを発しているとは、到底思えない。
「コルダーユ付近の海域には、ギルドのものと思われる飛空艦が1隻停泊しているだけです。他のギルドの艦船は勿論のこと、国王軍や議会軍の部隊の姿も見あたりません」
 潜望鏡型の複眼鏡をのぞきながら、兵士が言う。
 真鍮製のよく磨かれたボタンが光る、青いジャケット、そして同じく青色のバイコーン・ハット(*2)を被り、ズボンは黒のブリーチズ……明らかに議会軍の水兵である。
 けれども、今では議会軍には2種類の人々がいる。一方は正規軍、他方は……この兵士の右腕にも巻かれている黄色い帯、それを仲間の印とする反乱軍である。
 議会軍の海軍兵士たちについては、そのジャケットの袖のボタンの数で所属が分かるのだが、彼の4つボタンはまさに海軍屈指のエリート戦士たち、海兵隊の印である。
 議会軍の約何割が反乱軍側についたのかは、現在明らかではない。しかし少なくとも3分の1以上が正規軍と敵対、中立を守る者たちも含めれば、半分以上が正規の議会軍から脱退したことになっているらしい。
 この船も、反乱側についた議会軍の飛空艦だった。潜水能力をも有することで、他の船とは一線を画する最新鋭艦《ガライア》である。ガライアとは、イリュシオーネの言葉で、文字通り《エイ》のことをいう。
「そうか。ギルドの飛空艦はいかなる船なのか?」
 片方の目に眼帯をした男が、艦橋中央部の座席から言った。
 大柄な体躯に、野太い声。軍の司令官と言うよりも、むしろ海賊の親玉に近い雰囲気を漂わせている。腰に差した時代錯誤な広刃の剣も、サーベルの優美な曲刃とは違って荒々しい。
「はっ、キャプテン! 大きさは主力の戦艦クラスよりも多少小さめですが、おそらく戦闘母艦かと思われます」
 様々な船の絵図が綴じられた、分厚いバインダーを必死にめくりつつ、別の兵士が答えた。
「戦闘母艦……ということは、アルマ・ヴィオを積んでいるということだな?」
「はい。敵艦の後部はアルマ・ヴィオ発着用の飛行甲板に改造されています」
 司令官は濃い髭の生えた顎をしきりに撫でさすって、しばらく考えていた。
 容貌の割には、声の質からして、思ったより歳が若いように思われる。もしかすると、まだ30代半ばというところかもしれない。
 やがて彼の目の奥底から、不敵な眼光がじわじわと浮かび上がってきた。挑戦的な声で彼はつぶやく。
「ふん……たかが1隻の飛空艦で何ができる。我らは議会軍に其の名を轟かせたギベリア強襲隊だ。ミシュアス、アルマ・ヴィオ隊の用意は?」
 司令官の背後で静かにうなずいた男……歳の頃21、2ばかり、青みがかったクセのある黒髪は肩口にまで伸び、その間からときおり鈍い光を放つのは、オニキスらしき石でできた漆黒のピアス。
 艦橋の他の兵士たちと違って、彼だけは制服を身に着けていない。大きく開いた二重袖の、黒いフロックをまとい、その袖口からは銀灰色のフリルがのぞく。森の奥深くに住む妖精族を思わせる、細身でしなやかな長身。
「いつでも出撃できます。ガークス艦長」
 彼、ミシュアス・ディ・ローベンダインは、一見とても穏やかな顔で司令官に答えた。その実、彼の青磁のような目は……見るもの全てを凍てつかせるような、冷たい恐るべき輝きを宿している。
「艦長、提案があります。我々は、おそらく飛行型アルマ・ヴィオの数においては相手に勝っているでしょう。なぜならギルドの船は、たいてい単独で作戦行動するがゆえに……1隻のみでも様々な状況に対応できるよう、色々なタイプのアルマ・ヴィオを積んでおかねばならないからです。一般的な搭載力から考えて、敵艦が有する飛行型はせいぜい1体か2体。残りは陸戦型や汎用型でしょう」
「ふむ、広く浅くと言うことか。それを逆用するわけだな」
「いかにも」
 ミシュアスの目が一段と光を増した。その姿は狡知に長けた大鴉のように見える。
「陸地近くで戦えば、敵の陸戦型アルマ・ヴィオや、汎用型に活動の余地があり、なにかと面倒です」
「なるほど……」
「当初の予定では、コルダーユの港を強襲制圧することになっていましたが、どうせ敵はあのギルドの飛空艦1隻のみ。それならば、まず飛空艦を海上で叩いておいてから、上陸しても十分ではないかと。海上での戦闘なら陸戦型は無意味、汎用型など空の上では飛行型に手も足も出ません。護衛に出てきたアルマ・ヴィオさえ倒せば、図体が大きいだけの飛空艦など、簡単に落とすことができます」
 ガークスは、ミシュアスの意見におおむね賛同の意を示した。
「よろしい。君の提案を受け入れよう」
「ありがとうございます。もし戦力が不足であれば……私の《アートル・メラン》も、飛行型に劣らぬ働きをすることができます」
 ミシュアスが穏やかに、それでいて自信たっぷりに言った。
 格納庫へと向かう彼を見送って、ガークスが命じる。
「水中用アルマ・ヴィオの出撃準備もさせておけ。二番艦と三番艦にも作戦の変更を伝えろ」
 ガライア一番艦の背後で、さらに2つの影が、暗い海から水面近くにゆっくり浮上しつつあった。敵は1隻ではなかったのだ。

 ◇ ◇

「メイとバーンからの連絡はまだないのか……」
 比較的小柄でがっちりとした体格の男が、舵輪の前を行ったり来たりしながらつぶやく。
 まだ20代後半ながら、すでに世慣れた奥深い貫禄を持ち合わせている。やや禿げ上がりつつある広い額、縮れた黒髪の向こうに、縫い跡も生々しい刀傷が刻まれていた。少年時代からギルドの飛空艦に乗り込み、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた強者の証だった。
 この男が、若くして経験豊富なクレドールの操舵長、カムレス・バーダーである。
 自前の衣装は上着とズボンだけに限り、あとはクレドール乗組員の準制服――濃紺のベレー帽、同じく紺の縁取り付きの白いウエストコート、例の3色の剣帯、そしてギルドの青紫のクラヴァット――を全て身につけている。
 公の儀式の場ならともかく、普段もこれらの準制服をきっちりと着用しているクルーは、カムレスの他にはほとんど見られない。秩序の中にも個人の創意を最大限に生かすという、ギルドの気風ゆえに、制服の着用の仕方は個人の趣味に任されていた。服装ひとつをとっても、カムレスの謹厳さが反映されているようで面白い。
 ちなみに彼が、ベレーの色に合わせてフロックとブリーチズも紺で統一しているのは、衣装のセンス云々と言うよりは、むしろその実直な性格の反映であろう。
 彼の側面の席にいる女性が、若干取り澄ました表情で返事をする。ツンとした高い声が周囲に響く。
「えぇ、何も言ってこないけど……どうやら取り越し苦労だったかもしれないわね。このあたりで反乱軍が活動しているという話は、まだ聞かないし」
 座席のコンソールには奇妙な設備が色々と並んでいる。彼女の右手は、大きな水晶球の上に置かれたままじっと動かない。他方で左手は、ピアノの鍵盤が何層にも重なったような装置の上で忙しく働いている。実はこれがクレドール艦橋の念信装置だった。
 彼女は、いわば通信士と各種データ収集係を兼ねている。
 セシエル・エスポルトン……腰の辺りですっぱりと切り揃えられた黒髪、落ち着いたまなざしの中にも厳しさを漂わせる切れ長の目、細身の体つき……それらが相まって、独特の緊張感ある知的な雰囲気を醸し出している。華やかさや柔らかさに少し欠ける感もなくはないが、やや近寄りがたいほどの凛としたイメージは、彼女に個性的な美しさを与えている。
 ごく薄いあさぎ色のタイトなロングスカートに、上着はチャコールグレーのスペンサージャケット(*3)、双方とも、余分な装飾をなるべく省いた仕立てになっており、それがかえって洗練された大人のイメージを漂わせる。男性クルーとは違って例の剣帯を付けず、その代わりにベルトの上に、あの3色で染められたリボン地の帯を巻いている。これは他の女性乗組員も同様だ。
「あら?」
 彼女の手がふと止まった。
「どうした、セシエル」
 振り向いたカムレスを制止しつつ、セシエルは目を閉じ、右手の下にある水晶球に精神を集中させた。
「メイからよ。反乱軍の仕業ではなかったようだけど……でも、なんだか変なことを言ってるわ」
 セシエルはメイと交信する。
 ――メイ、それはどういうことなの?
 ――この街のラシィエン導師の弟子で、ルキアン君。例の爆発に関係あるの。それから……彼のアルマ・ヴィオ、ぜひ艦長たちに見せる必要があると思って。あなたもきっと驚くわよ。連れていってかまわないでしょ。
 ――ちょっと待ちなさいよ。見知らぬアルマ・ヴィオを艦内に入れるわけにはいかないわ。反乱軍でないっていう保証はあるの?
 ――えぇ、私が保証する。お願い。
「副長……」
 困った顔をしているセシエルを見て、クレヴィスがにっこり笑って近づいてくる。
「どうしました? 何々、ふんふん……」
 クレヴィスはセシエルから一通りの説明を聞いた後、呑気に言った。
「ラシィエン導師は、このあたりでも高名な魔道士です。そのお弟子さんなら心配ないでしょう。入れてあげればどうですか」
「副長がそうおっしゃるのでしたら……」
 セシエルは辺りを見回した。カムレスやランディもうなずいている。
 ――メイ、着艦を許可します。艦長にはこちらから伝えておくわ。
 ――無理言って悪かったわね。

 ◇ ◇

 ルキアンは再びアルフェリオンに乗り込んだ。メイたちとともにクレドールに向かうためである。
 メルカを一人で残しておくわけにもいかず、色々と考えた結果、バーンのアトレイオスの乗用席(エクター以外の人間を同乗させるための狭い座席)に乗り込ませるのが一番安全であろう、ということになった。
 ――ふぅ。俺は置いてけぼりかよ。
 念信を通じて、バーンの声がルキアンとメイに伝わってくる。
 メイは面倒くさそうに返事をする。
 ――仕方がないでしょ、ルキアン君はほとんど飛んだことがないんだから。
 アルフェリオンは、さきほどアトレイオスがそうしていたように、上体を低くしてラピオ・アヴィスの上に屈み込んでいる。ただし、どことなく不格好な姿勢だ。
 過去に数回ほど、ルキアンも練習用のアルマ・ヴィオで低空飛行をしたことがあるにはあるのだが、それは雛鳥の羽ばたきに等しい……よちよち歩き程度の飛行訓練に過ぎなかった。一人でまともに飛べる自信はない。まして使い慣れないアルフェリオンでは。
 結局アルフェリオンがラピオ・アヴィスに乗ったため、アトレイオスは自力でクレドールまで帰らなければならなくなった。
 アトレイオスを含めて、汎用型(人型)アルマ・ヴィオも、理屈の上では飛行が可能ということになっている。しかし、よほど性能の良い物でない限り、あくまで《飛ぼうと思えば無理ではない》という次元であって、空中戦など望むべくもない。風の精霊界の力を借りて、魔法による揚力とごく緩慢な推進力を生み出すのだが……その動きについては、飛ぶというよりも《浮遊する》と表現する方がたぶん適切だろう。何しろ翼がないのだから仕方がない。
 バーンの念信がまた入る。
 ――アトレイオスで飛んで帰れってか。冗談だろ。
 ――そうよ。10数分もあれば着くでしょ。それがイヤなら歩けばどう?
 ――へいへい。メルカちゃんものっけていることだし、とりあえず港までは歩いてゆっくり帰る。
 ルキアンには、ラピオ・アヴィスの背中がとても狭く思えた。少しでもアルフェリオンを動かせば、ずり落ちてしまいそうなほどに。実際には十分な余裕がある。だが不慣れなルキアンは、もし途中で落ちたらどうしようかなどと心配をめぐらせ、ひとりで緊張している。
 そんな彼の心にメイの念信が浮かぶ。
 ――ルキアン、用意はいい? ゆっくりと飛ぶから、心配しないで。
 ――このまま動かなければ良いのですね。落ちたりしないですか?
 ――大丈夫だってば。飛行に入ったら、自動的にラピオ・アヴィスと何重にも接合されることになっているから、たとえ宙返りしたって落ちないわ。
 ――お願いします。うう……。
 ――もぅ、心配性なんだから。おねぇさんにまかせなさいって!
 ルキアンがようやく覚悟を決めたとき、ラピオ・アヴィスが羽ばたき始めた。人家に近いので加減しているとはいえ、付近は大嵐のような様相を呈している。木々の枝は激しくしなり、強風が草原を波のように駆け抜けていく。
 ――飛んだ!
 ルキアンは、自分の体……いや、アルフェリオンの体が宙に浮いたのを感じた。
 それと同時に、予めメイに指定された位置にあるアルフェリオンの手足を、彼女の言った通り、留め具の役を果たす器官が固定する。
 ここまではルキアンにも状況がよく分かっていた。その後、ラピオ・アヴィスが次第に加速し、空高く昇っていくにつれて、彼は必死にしがみついているだけで精一杯になる。

 ルキアンがようやく落ち着き、我に返ったときには、ラピオ・アヴィスはすでに港の上空にあった。
 沢山の船がひっきりなしに出入りしている。
 恐らく他国から来たのであろう、大型の商船が隊列をなして通っていくと思えば、小さなはしけの姿も転々と見える。
 港近くの広場には市が建ち並ぶ。人々の熱気が空にまで伝わってきそうなほど賑わっている。コルダーユはこの地方有数の港街なのだ。
 逆に言えば、そんな重要地点をろくに警備していないのだから……オーリウムの当局がいかに平和に慣れきっていたかが分かる。反乱軍との主戦場に力を集中するため、部隊数が不足気味になっているせいも勿論あろうが。
 ――ルキアン、気分はどう?
 メイがくすくすと笑い、念信を送ってくる。
 なんとか返事をする余裕の戻ったルキアン。
 ――え、えぇ、元気です。
 ――ふふ。思ったより簡単でしょ。今度は自分で飛んでみなさいよ。
 そこでメイの心の声が、真面目な調子に変わった。
 ――ところで、例の話、キミの兄弟子……ヴィエリオさんのこと。これは私の考えすぎかもしれない……失礼なことを言って申し訳ないけど……ドゥーオの一件、どうも変だと思わない?
 ルキアン自身考えていなかったことではなかった。しかし、言われたくないことを指摘されたように彼は感じた。気まずい心持ちである。
 ――ドゥーオの動かし方を知っている人間は、キミの先生の他には、ヴィエリオさんしかいなかったわけでしょ。そして、現に今も姿を消している。まさかとは思うけれど……ねぇ、私が何を言いたいか、分かるでしょ?
 ルキアンはしばらく黙っていたが、仕方なく答えた。
 ――えぇ。でも、ヴィエリオ士兄に限って、そんなことをするはずがありません。だいたい、あんなひどいことをして、士兄に何の得があるというのです?
 ――問題はそこよ。本当に、思い当たることはないの?
 ヴィエリオは、カルバの跡継ぎとして将来を約束されていた。人間的にみても、礼儀正しい紳士だった。そんな彼が……ドゥーオを奪い、研究所を破壊し、そしてソーナをも連れ去るなんて、ルキアンには到底考えられなかった。
 ――そ、それに……。
 ルキアンにとっては、むしろこの言葉の方が口にしたくないことだった。
 ――ソーナさん、ヴィエリオ士兄のことがかなり好きだったようですし……。
 ソーナにほのかな恋心を抱いていたルキアンであったが、実は彼女の本心を、その言動を通してよく理解していた。
 彼は少し不機嫌になった。
 ――それなのに、なぜヴィエリオ士兄がソーナさんをさらわなければ?
 メイはあきれたといった口振りである。
 ――それを早くおっしゃいよ。だったら、さらわれたんじゃなくて……ソーナさんが、自らヴィエリオさんと一緒に逃げたと考えられなくもないでしょ?
 ――そんな、ばかばかしい!
 ルキアンが珍しく反抗的な口調になったのを聞いて、メイが彼をなだめるように答える。
 ――そんなにカッとしないのっ。あ、見えたでしょ、あれがクレドールよ。

 そのとき、予想すらしていなかったことが起こった。
 ――これはっ?!
 激しい衝撃と共に、メイの悲鳴が伝わってくる。
 ラピオ・アヴィスが素早く旋回した。
 ルキアンは本当に振り落とされるような気がして、必死にしがみつこうとする。それに応じてアルフェリオンの手足にも力がこもった。
 間一髪、今までラピオ・アヴィスがいた場所で、爆音を轟かせて炎が燃えさかる。火精系の、しかも相当レベルの高い魔法弾だ。
 ――何よ、敵?! ルキアン、しっかりつかまって。
 なおも幾つかの攻撃が炸裂する。
 風精系の魔法弾が、凄まじい衝撃波を起こしてラピオ・アヴィスの羽根をかすめていく。
 ――こちらメイ! クレドール、応答して、いったい何なのよ?!
 メイは念信を送りつつ、ラピオ・アヴィスを急上昇させる。
 ――こちらクレドール! メイ、敵は飛行型アルマ・ヴィオ、え?……5、6、いいえ、7機!!
 セシエルが答えた。

 ◇ ◇

「メイを援護します。マギオ・スクロープ全砲門開け! カムレス、前方の敵艦からの攻撃を避けつつ、ラピオ・アヴィスを急いで収容してください!」
 クロークをひらりと翻して、振り向いたクレヴィス。
 クレドールの艦橋も、突如として緊迫した雰囲気に覆い尽くされた。
 彼の隣にいたランディが、周囲を見回した後に走り出した。
「みんな持ち場を離れられないな。俺はカルを呼んでくる」
 カル、つまり艦長のカルダインに知らせに向かったらしい。
「ラピオ・アヴィスを収容したら直ちに結界防御を! それから……」
 クレヴィスの表情が険しくなった。
 ――困りましたね。こちらの飛行型は、ラピオ・アヴィスだけですか。
 クレドールの今回の出動は、アルマ・ヴィオを使って村々を襲う野武士たちを、某所で制圧するためだった。深い森や渓谷地帯での戦いが予想されていたので、主に陸戦用アルマ・ヴィオをいつもより多く積み込み、その分、飛行型はほとんど用意してこなかった。実際それで野武士たちを首尾良く退治できたのだが……。
 いくら戦闘母艦のクレドールとはいえ、1隻で搭載できるアルマ・ヴィオの数など、たかがしれている。ミシュアスの狙いは見事に的中したというわけだった。

 ◇ ◇

 ラピオ・アヴィス同様に、鳥の姿をしたアルマ・ヴィオが4機、銀色の翼を煌めかせて接近してくる。威圧的な声で鳴き、金属の鋭い鉤爪をこれ見よがしに開いたかと思うと、マギオ・スクロープから魔法弾を放つ。
 だが、いっそう注意すべき相手だと予想されるのは、その一群の背後で不気味に静まり返った3つの影である。
 異様な姿は、伝説の魔獣……獅子の体に鷲の翼・頭をもつヒポグリフを思わせた。安定した軌跡を描いて高速で飛ぶ様は、飛行型のようにも見えるが、それでいて陸上でも恐るべき力を発揮しそうな逞しい鋼の手足を備えている。
 ミシュアス麾下の3体のアートル・メランであった。赤と黒で塗り分けられた色使いが毒々しい。

 ――さて、それでは狩りを始めましょうか。
 黒の貴公子ミシュアス。
 心の闇の奥底に浮かぶのは、
 妖しくも氷のように冷ややかな……死のほほえみ。


【注】

 (*1)イリュシオーネの紳士たちの中でも、ウエストコート(ヴェスト)の上にフロックをまとわず、直にクロークを羽織るという出で立ちの人々がいる。すなわち彼らは魔道士である。かつての魔法使いの――ミステリアスな長いローブに身を包んだ――姿の雰囲気が、今風の形で受け継がれているのだ。クレヴィスやカルバの服装を参照されたい。

 (*2)この場合、前後のつばを上向きに折り返した帽子をいう。二角帽子とも。特に18世紀末前後によく見られる。ナポレオンも、この種の帽子を被った姿でしばしば描かれている。

 (*3)燕尾服を身頃の真ん中あたりから水平に断ち切ったような、短い上着を想像してもらえばよい。ただし、ここでは、現在の夏期の夜会服であるスペンサージャケットとは違って、その原型となった19世紀頃の本来のスペンサーのことをいう。

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