HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第3話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  みにくいあひるの子が、笑ったよ。
    ずっとずっと、微笑みの奥に嘆きを押し込めていた……
    だけど最後に心から笑ったよ、優しい白鳥たちの中で。



 夜の静寂が限りなく愛しかった。
 震える体にそっとかけられた天鵞絨(ビロード)の外套のように、
 ひっそりとした暗がりが、青ざめた肌を柔らかに包み込む。
 小窓から差し込む月明かりが、冷たい石の床を照らし出し、
 おぼろげな光の円を描いている。
 微かな輝きの中に浮かび上がるのは、
 惨めな薄茶色に色あせつつある、白い蝶の羽根……。
 その周囲には細かな埃が、雪化粧のようにさらさらと積もっている。

 じっとひざまずいているルキアンは、足下の蝶の死骸から視線を転じ、目の前の物言わぬ相手を見上げた。
 女神セラスの彫像が、あくまで柔和な微笑をたたえて彼を見守っている。
 滑らかな象牙色の石の肌に、月の光が照り映えては、深い闇の奥へと吸い込まれるように消えていく。

 《すべてに哀れみを》
 像の足下の台座に、そう彫り込まれていた。

「僕は……こんなところで自分を見失ってしまうのは嫌です」
 ルキアンは目を閉じ、何度も首を激しく振った。
 わななく声が小さなほこらの中に響く。
「でも、どうしても止められない怒りが……怒りが次第に僕の中に満ちあふれていくことが……心が荒んでいくことが、自分自身、耐えられないのです。穏やかなままでいたい。いつも静かに笑っていたい。それだけなのに!」
 流れるように美しく彫られたセラスの裳裾に、彼はすがりついた。
 静寂の中で、悲痛な溜息だけが大きく響く。
「僕が、僕が何か悪いことをしているのでしょうか? 分からない。誰かを苦しめたりしたのでしょうか? 僕はただ、良いことであると今まで教えられてきたことを、やっているだけなのに」
 ルキアンの上体がセラス像の胸から足下へと、絶望を背負って崩れ落ちる。
「ここには、僕の探している未来はありません……」
 セラスの背中で誇らしげに広げられた翼が、ルキアンにはうらめしかった。
 今にも羽ばたこうとしているように見える、白い翼が。

 ◇ ◇

 ――どうして、こんな時に?
 突然に蘇った忌まわしい記憶の中から、ルキアンは現実へと帰ってきた。余計なことを考えている場合でないというのは、彼にもよく分かっている。しかし、なぜか……。
 メイのラピオ・アヴィスは、7機の敵を相手に圧倒的に不利な戦いを強いられている。それなのに、ルキアンには何もできなかった。今のアルフェリオン・ノヴィーアは、ラピオ・アヴィス本来の俊敏な動きを邪魔する重荷になっているにすぎない。
 鋼の怪鳥の群が銀色の翼を閃かせて襲いかかる。矢尻のような形の頭部が特徴的な、議会軍の飛行型アルマ・ヴィオのひとつ、オルネイスだ。性能は中の上あたりというところだろうか。ラピオ・アヴィスの方がスピードの点では上である。あくまでアルフェリオンを乗せていなければの話だが。
 メイは並々ならぬ腕前を見せていた。ラピオ・アヴィスは、鋭角的な方向転換と急激な加速・減速とを巧みに組み合わせ、不規則な動きで相手の狙いをうまく攪乱する。そのおかげで、吹き荒れる魔法弾の嵐の中にあっても、今のところ直撃は回避できている。
 しかし敵のエクターたちも、議会軍のエリート部隊に所属していただけあって、みな相当の訓練を積んだ手練れに違いない。息のあったコンビネーションで次第にメイとルキアンを追いつめていく。
 ラピオ・アヴィスと接近した瞬間をとらえ、1機のオルネイスが刃物のような爪で激しくつかみかかった。ラピオ・アヴィスの翼から、精巧な薄い羽根がぱっと飛び散り、はるか下の海面へと落ちていく。
 メイも上手くかわしているが、やはりアルフェリオンが重荷になって、どうしても飛行のバランスを崩しがちになる。姿勢を何度も立て直しながら攻撃を回避するのは、さすがの彼女にとっても容易ではない。
 自分がメイの足を引っ張っている――その思いがルキアンの胸を締めつけた。
 戦闘の中、初めて経験する過酷な動きに、ルキアンの感覚はついていけなかった。今の状態ではアルフェリオンも動くことができず、じっと耐えているしかない。
 ――すいません、僕のせいで。
 ――黙って! キミはしっかりつかまっていればいいの!!
 ラピオ・アヴィスの正面からもオルネイスがまた1機、猛然と襲いかかる。
 ――数が多いからって、いい気になるんじゃないわよ!
 メイは間一髪で機体をひねってかわすと、振り向きざま、瞬時に脚で敵の脇腹を蹴飛ばした。バランスを崩した敵めがけて、ラピオ・アヴィスの背中のマギオ・スクロープが発射される。後方へ弾き飛ばされていくオルネイスを、雷撃弾のまばゆい電光が包んだ。オルネイスは網に掛かった鳥のごとくもがいたかと思うと、きりもみ状態で海面へと落下していく。
 ルキアンはメイの見事な攻撃に目を奪われた。だが次の瞬間……。
 ――ど、どうしたんですか?!
 突然、アルフェリオンの機体が不安定に揺れ始める。
 メイからの念信が伝わってきた。
 ――ルキアン、大丈夫? こんなのかすり傷だからね!
 敵を1機倒したと思った矢先、ラピオ・アヴィスの腹部に別の相手からの魔法弾が命中したらしい。幸い大事には至らなかったようだが、やや飛行速度が落ち、機体が小刻みに揺れ始めている。
 追いすがる敵をかわし続けるメイ。
 その様子を遠巻きにうかがっている者たちがいた。悠然と宙に浮かぶ3つの影。ミシュアスとその部下の操るアートル・メランである。
 黒と赤の魔獣たちは翼を軽く羽ばたかせ、ときおり上体を猛々しく反らして雄叫びを上げていた。鷲の頭を持ちながらも、獅子の体を備えた姿にふさわしく、その声は荒々しい野獣のそれに近い。
 横一列に並んだうち、中央の1体……その頭部には、燃えさかる火焔を思わせる真紅の鶏冠が、誇らしげにそそり立っている。ミシュアス専用の機体である。
 黒の貴公子・ミシュアスは、余裕たっぷりに戦いを見守っていた。敢えて自分が手を下すまでもない、といったところだろうか。
 ――所詮は悪あがきに過ぎないが、あのアルマ・ヴィオ、思ったより頑張るものだな。まぁ、勝てる戦いでも、こんなところで無駄な損失を出すのは好ましくあるまい。そろそろ終わりにするか。
 ひときわ鋭い鳴き声。ミシュアスのアートル・メランが、敵を威嚇するように大きく翼を広げ、前足の爪を立てる仕草をした。それを合図に、残り2体が前方のラピオ・アヴィスに向かって猛然と飛び立つ。
 真に恐るべき敵が、新たに戦列に加わったのである……。

 ◇ ◇

 海上のクレドールも、敵のガライア艦3隻の砲火を浴びることになった。
 ガライアは、飛空艦でありながら潜水能力をも兼ね備えている。水面下から密かに忍び寄った3つの巨大な影は、艦砲の射程距離内にクレドールをとらえた時点で浮上し、突然、エイに似た不気味な船体を現した。
 轟音と共に、クレドールの周囲にいくつもの水柱が立ち上る。
 何発かは船体を直撃した。
 艦が大きく揺れ、不意をつかれたブリッジの面々は騒然となる。
「マギオ・スクロープによる攻撃! 第二波、来るぞ!!」
 金髪の若者が甲高い声で叫ぶ。
 どことなく猫のような雰囲気を漂わせた、小柄な、やさ男だ。
 18、9の年頃に見える童顔だが、実際の年齢は外見から予想されるよりも上なのだろう。リボン状の黒い帯紐を使って、髪を頭の後ろで一本にまとめている。
 彼は《鏡手》のヴェンデイル・ライゼスである。
 この男の席に向かって、壁から床を経て何本かの鉄管が配されている。それらの管全てが、ヴェンデイルの前に据え付けられた大きな黒い金属球へと至る。そして、このひと抱えもある黒い球と沢山のコードで接続された、鉄仮面のような物を、ヴェンデイルが被っている。これらの設備一式が《複眼鏡》の操作装置なのである。
 カムレスが舵輪を操りながら言った。
「メイたちが交戦中の飛行型アルマ・ヴィオか?!」
 クレヴィスが冷静な表情で答える。
「いや……威力から考えて、敵の艦砲でしょう。大口径の火系魔法弾です。船の前面に結界を展開しつつ、こちらも応戦を! 相手は戦艦3隻です。もともと正面から戦って勝てる相手ではありません。メイたちの回収を最優先にし、その後はとりあえず退却です。手早くね、長引くと大変そうですから……」
 相変わらずの微かな笑みを浮かべつつ、クレヴィスは指示した。
 この非常時に呑気すぎるという感じもするが、これまで、どんな激戦の中でも彼はこの調子を崩さなかった。
 そして、これが彼のいつもの口癖である。
「まぁ、なんとかなりますよ」
 クレヴィスが単なるのんびり屋でないことは、皆が承知している。だからこそ、彼の落ち着いた言動が仲間たちを勇気づけ、落ち着かせるのだ。彼のにこやかな表情の裏側では、状況を冷徹に分析する素早い判断が、今も行われているに違いない。
「敵艦ですって? どうして……」
 セシエルが怪訝そうな顔で振り返った。
「幽霊じゃあるまいし、突然降ってわいたとでもいうの? さっきまで舟影ひとつなかったのに」
 レーダーやソナーの存在しないイリュシオーネでは、《鏡手》が見つけられないものは、事が起こるまで発見のしようがないのである。ヴェンデイルの探索も水中までには及ばない。
「いいえ、セシエル。敵は海の中から現れたのです。うかつでしたね。あれがもう実戦に投入され、しかも反乱軍側についていたとは。潜水型の飛空艦ですよ。議会軍が新たに発掘し、量産に取りかかったという噂は聞いていたのですが、なんと言う名前だったか……」
 細い顎に手を当てて、首を傾げるクレヴィス。
 そのとき艦橋の入り口の方から、通りの良い低い声がした。
「ガライアだ」
 押し黙ったような表情の中で、澄んだ眼光の鋭さが際だっている。闘争心に溢れた瞳、見る者を吸い込むようなまなざし。骨張った顎に、短く刈り込んだひげ。赤茶け、波うった髪。床に裾が着きそうなほどに丈の長い、焦げ茶色のフロックが、その長身をいっそう高く見せていた。彼の腰には、かつての騎士を思わせる長大な剣がさげられている。
 クレドール艦長、カルダイン・バーシュである。
 彼を呼びに行ったランディが、指でクラヴァットを弄びながら後に続く。
「艦長!」
 乗組員たちが口々に声を上げた。
「気を抜くな。あの船を持っているのは議会軍の特殊部隊、ギベリア強襲隊だ。昨日の野武士連中とはわけがちがうぞ」
 カルダインは艦長席に腰を落ち着け、仲間たちにげきを飛ばした。
 そして、傍らに立っているクレヴィスに声をかける。
「遅れてすまない。ところでベルセアはどうした?」
「すでに格納庫に向かわせましたよ。とりあえず《リュコス》に乗って待機しています」
「そうか。しかし飛べないリュコスでは、砲台のかわりぐらいにしかなるまい。まぁ、最悪の場合には、あいつにも出てもらうしかないか。狭い甲板では、陸戦型は使いづらいがな」
「ふふ……カル、最近ベルセアも腕を上げてきました。彼もなかなかあなどれません」
 カルダインは、クレヴィスの話にうなずくと、戦況をじっと分析するかのように黙り込んだ。無言のまま、彼の厳しい視線が敵艦に向けられている。

 クレドールの格納庫では、狼に似た精悍な姿をした四つ足の巨獣が、薄暗い光の中にたたずんでいた。陸戦型アルマ・ヴィオ、リュコスである。
 優美でもあり力強くもあるその鋼の足に、背の高い痩せた男がもたれかかっていた。暗めの亜麻色の長髪に、どことなくお茶らけた感じの甘いマスク。なかなかの色男、ベルセア・ヨールだ。
 格納庫中に響きわたる勢いで、彼はくしゃみをした。
「おいおい、また誰かが噂してんのかァ? まぁ、なんせこの男前だから……おねぇちゃんたちが噂したくなるのも分かるってもんだが。うわっ、何だよ、あぶねぇな?!」
「邪魔だよ、ベルセア。どいてどいて!」
 ベルセアを押しのけ、1人の少年が弾薬を積んだ台車を動かしていく。
「出撃の準備しなくていいの? もうすぐリュコスに魔法弾を詰め終わるからさぁ」
 印象的な大きな目を持つ男の子が、にっこり笑って言う。アルマ・ヴィオ技師見習いの少年、ノエル・ジュプラン。乗組員の中で最年少の14歳ながらも、クレドールの三色の剣帯を身につけ、一人前に仕事をこなす。
 一方、ガライア艦隊の旗艦では、勝利を得たと半ば確信したガークスが、ほくそ笑んでいた。
「ギルドの船など所詮は敵ではない……。砲火を絶やすな! 3隻の集中攻撃で一気に沈めるぞ」

 ◇ ◇

 その頃、アトレイオスはようやくコルダーユの港まで来ていた。
 クレドールが敵と戦っていることは、艦からの念信を受けてすでにバーンも知っている。そして今、沖合で交わされる砲火を彼は目の当たりにした。
 ――ちくしょう、海の上じゃ、こいつは何の役にもたたねぇ……。
 バーンは埠頭の向こうに広がる海を眺め、苦々しく思った。アトレイオスはほんの申し訳程度にしか飛行できず、水上・水中を移動することもできないのである。何よりも、同乗しているメルカを危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。
 そのとき、アトレイオスの乗用席からメルカの声が聞こえてきた。彼女のひとりごとである。
「どうしたのかなぁ? あとれいおす、急に止まっちゃった」
 無邪気なものだ。バーンは、ほほえましく思った。
 乗用席は、実際に人間が乗ってみると相当に窮屈である。だから普段は荷物を載せる程度にしか使われない。
 その狭くて暗い小部屋の中、メルカはうずくまるようにして座っている。膝と体との間に熊のぬいぐるみを抱いて、それを相手に小さな声でつぶやいている。
「ルキアンたち、もう船に着いたのかなぁ? パパ、大丈夫かなぁ……お姉ちゃんや、ヴィエリオはどうしたのかな。神様、みんなを守ってください」
 メルカは、イリュシオーネの神々の姿をひとつひとつ思い浮かべた。この地は多神教の土地柄であり、様々な神が信仰の対象になっている。中でも、メルカはセラス女神が一番好きだった。というのは、彼女の大好きなルキアンが、いつもセラスのことを話してくれたから。
「セラス様、みんなをお守りください。メルカは戦争が嫌いです。セラス様も嫌いでしょ? 大人は、喧嘩しちゃダメって子供を叱るくせに、自分たちの方こそ喧嘩ばっかりして、ずるいよね。大人はどうして戦うのかなぁ?」
 バーンはメルカの素朴な言葉に、ひどく胸を揺り動かされる気がした。
 ――ちっ、言ってくれるぜ。でも、この子の言うとおりかもしれない。
 ギルドのエクターとして戦いに明け暮れる毎日の中で、迷う余裕さえないままに、好むと好まざるとにかかわらず、いつも争いの方がむこうからやってくる。
 自分はなぜ戦うのか?――久しく忘れ去っていた思いだった。
 ぬいぐるみの柔らかな手触りと、胸に抱いたときのその存在感が、いつもメルカを安心させる。彼女は熊の頭をなでながら言った。
「くまさんには見える? 私には見えるよ……お空の上から、白い羽根をはばたかせてセラス様が降りてくるの。そしてみんなを守ってくれるの。でもね、セラス様はとっても悲しそうな顔してるの。どうしてかなぁ」

 ◇ ◇

 アートル・メランがどんなに恐ろしい相手であるか、メイは今、身をもって思い知らされていた。
 その力強い動きに具現化された圧倒的なパワーや、頑強な装甲で覆われた獅子の体もさることながら、とりわけ接近戦における格闘能力の高さは凄まじかった。逞しい腕からバネのように柔軟な動きで繰り出される鉤爪は、ラピオ・アヴィスのそれよりも遥かに太く、分厚く、破壊力に満ちている。
 その血に飢えた野獣の爪をかろうじて避けるだけでも、メイは精一杯である。
 しかし、そちらに気を取られていると、今度はオルネイスの魔法弾が機体を鋭くかすめていく。直撃は避けているものの、小さなダメージが次第に積み重なって、ラピオ・アヴィスの動きはどんどん悪くなっていく。
 アルマ・ヴィオが傷つくと、その機体と融合しているエクターの精神も、自分の体が傷ついたかのごとき感覚に陥る。追い込まれたラピオ・アヴィスの状態が、メイの精神をも次第に蝕んでいく。
 彼女は少しずつ気が遠くなっていくように感じた。極度の精神集中を継続していることが、メイの心に過度の負担をかけていた。眠気にも似た疲労感が、寄せ来る波のように次々と襲いかかり、そのたびに緊張の糸がぷっつりと途切れそうになる。しかし、そうなれば一瞬のうちに、ラピオ・アヴィスは敵の餌食になってしまうだろう。
 ――もう、駄目かも……。
 ――いや、頑張らなきゃ。クレドールを、そしてルキアンを守らないと。
 メイの心は絶望の嵐の中で必死にもがいていた。仲間を思う気持ちが、彼女の精神力を奇跡的なまでに高めている。それには理由があった。彼女なりの深いわけが。
 ――危ない!
 アートル・メランがラピオ・アヴィスに急接近し、背後から襲いかかった。
 メイはぎりぎりのところで避ける。
 しかし、そこにもう1体のアートル・メランの爪が待っていた。何とその手が突然飛び出し、うなりをたててラピオ・アヴィスの鼻先をかすめていく。
 この黒い魔獣の手は、鎖状の器官で腕とつながれており、鎖鎌さながらに相手を攻撃することができるのだ。
 アートル・メランの変幻自在な攻撃はそれだけではない。接近戦において、その機体はさらに都合の良いかたちに変形できる。翼の生えた獅子の体は、粘土細工さながらに複雑な動きを繰り返し、驚くべき精巧さで、鷲の頭を持った人型の姿に変貌する。そして鋭利な光の剣で斬りかかると、また元の姿にもどって飛び去っていく。
 ――ごめん、みんな……。
 気性の激しいメイも、非情な現実の前に、自らの敗北を悟らざるを得なくなっていた。
 ――でも私なりに、これまでけっこう頑張ってきたよね。父さんや母さんも、よくやったねって、そう言って私を迎えてくれるよね。だめかな……。
 メイの心の動きが、開かれたままの念信を通じてルキアンの中に入ってくる。彼女の痛みや、はっきりとした感情にならない精神の影のような部分までもが。
 ――僕のせいで。僕さえいなければ! こんなことには……。
 メイが苦悶し、追いつめられていくのをただ見ていることしかできない自分。
 いや、何の助けにもなれないどころか、今のルキアンはただの足手まといである。
 彼は心を引き裂かれそうな思いだった。己の弱さに、不甲斐なさに。
 そんな彼の気持ちも、いまのメイには届いていない。
 無我夢中で敵と戦い、さらに心の中の絶望に対しても激しく抗っているメイには、ルキアンの声に耳を傾ける余裕などありはしない。
 メイの目が次第にかすんでいく。
 そのとき、ぼんやりとした空の青の中に、不意に浮かんだ幻、いや遠い記憶は……。

 ◇ ◇

「逃がすな、殺っちまえ!」
「よくも今まで、オレたちから好き放題に絞り取ってくれたな!!」
 暴徒と化した群衆の罵声が飛び交う。何も聞こえない。怒号が耳を塞ぐ。
 少女の視界の中で赤い飛沫が舞った。
「お父様ぁ!」
 メイは、手に手に武器をもった人間たちに必死にすがりつき、泣きわめいた。
「うるせぇ、ガキは引っ込んでろ!」
 彼女は荒々しく蹴飛ばされ、屋敷の外を囲む煉瓦の壁に叩きつけられる。
 地面をうつぶせで這うメイ。彼女の口の中に土の味が広がった。
「あ……」
 ごろりと音がして、メイの顔の横に丸い影が転がり落ちてきた。
 彼女にもよく見覚えがあるもの。今では物言わぬ父の首。
 目を見開き、息絶え……。
 歓声が上がった。彼女は発狂したように地面をかきむしり、ただ絶叫した。

 真っ暗な闇の中で、幼いメイが泣いている。
 暗くて、寒くて、恐ろしいほどに静かだった。
 そんな彼女の肩に暖かな手がそっと置かれる。
「お嬢ちゃん、どうして泣いているのです?」
 涙を拭いてそっと顔を上げると、見慣れた人影があった。
「クレヴィス副長……」
 メイの顔をのぞきこむようにして、クレヴィスが穏やかな笑顔でうなずいている。
「どうした、お前らしくないぜ。さぁ、来いよ!」
 今度はバーンががっしりとした手を差し伸べた。
 メイはじっと震えている。
 彼女の背後でガシャリという剣の音がする。
 振り返ると、焦げ茶色のフロックをなびかせ、カルダインが悠然と立っていた。
「この船の中では、身分も、国も、宗教も、貧富の差も、男も女も全て関係ない。ただクレドールの旗の元で、己の信じるもののために……それに忠誠を誓い、胸を張って生きていけばいい。それぞれの夢のために、それぞれの力で支え合って」

 ◇ ◇

 ――みんな……。
 メイは我に返り、決意した。
 彼女の念信がしっかりとした響きでルキアンに伝わってくる。
 ――ルキアン、よく聞いて。これからアルフェリオンを切り離すわ。そちらが泳げるかどうか知らないけれど、このままでは2人ともやられてしまう。私は敵を引きつける。キミはクレドールとともに脱出しなさい。
 ――そんな!
 ルキアンが動揺している間に、メイは一方的にアルフェリオンを切り離しにかかった。
 ロックを外され、アルフェリオンが風圧でぐらりと傾く。
 ――待ってください! 死んじゃだめだっ!!
 アルフェリオンの体が宙にふかれ、ラピオ・アヴィスの上から吹き飛ばされていく。そして凄まじい速さで海面に向かって落下し始めた。
 ルキアンの心の中に、メイの落ち着いた声が伝わってくる。
 ――ルキアン君、ほんとに短い間だったけど、なかなか面白かったよ。バーンたちにもよろしく。
 そこで念信は途切れた。
 ラピオ・アヴィスは、重荷から解き放たれて素早く飛び立ち、さらに上空へと登っていく。
 敵のアルマ・ヴィオが群をなしてそれに続いた。

 ――そんなの、そんなのないよ……。
 わずかの後、大きな水しぶきと轟音を立てて、アルフェリオンが海面に叩きつけられた。
 海の底へと機体がゆっくり沈んでいく。それにつれてルキアンの意識も薄れていく。

 だが、そのとき。

 ――お友達を見捨てて、すぐにあきらめるのは……いけないことだわ。
 ルキアンの脳裏に、不意にぽつりと言葉が浮かんだ。
 水面に落ちたひとつのしずくが、波紋となって周囲に広がっていくように、謎の声が彼の心中に響きわたる。
 ――誰?
 そう言いつつも、ルキアンはこの声に聞き覚えがあった。
 忘れもしない。カルバの研究所をアルフェリオン・ドゥーオが破壊したとき、ルキアンを導いたあの女の声である。
 なぜか彼の意識のうちに、必死に抗戦するクレドールの姿がくっきりと浮かび上がった。
 ――見なさい。あの船には、あなたのことをきっとよく分かってくれる人たちが……あなたの仲間になるはずの人たちが乗っている。空の上でも、大切なお友達が苦しんでいるじゃないの。
 ――僕のことを、分かってくれる人たち……。
 無数の痛ましいイメージと、薄暗いほこらの中に白く浮かんだあのセラス像の姿が、ルキアンの心の中で絡み合い、激しい渦となった。
 ――《あそこ》には、僕の探している《未来》はなかった。
 ――《ここ》ならきっと見付かるはずよ。あなたの《未来》を指し示してくれるものが。
 ――でも、僕にはどうすることもできないよ。
 ――そんなことはない。あなたが望めばいいの。ただ望めば……。
 ――望む?
 ――そう。大切な人たちを助けたいと心から祈りなさい。未来を取り戻したいと強く願いなさい。そして、自分にはそれができるのだと、まずあなた自身が信じるのです。

 ルキアンの心に小さな炎が灯った。
 それは、たちまちのうちに大きく燃え広がり、薄れつつあった彼の意識を呼び覚ましていく。自分でもわけがわからないままに、激しい闘志と勇気がわき上がってくる。
 ――僕に力を貸して、アルフェリオン……。
 ルキアンの気持ちに呼応するかのごとく、巨大な閃光が海を覆い尽くした。
 満ちあふれる魔力。
 海面は嵐の最中のように荒れ狂う。
 輝く翼が羽ばたき……白銀のアルマ・ヴィオが天に向けて咆哮する。

 ◇ ◇

「大変! メイったら、1人で敵を引き付けるつもりだわ!」
 セシエルが叫んだ。
 クレヴィスが立ち上がり、廊下に向かって歩き出した。
 彼はすれ違いざま、カルダインにそっと告げる。
「私もアルマ・ヴィオで出ましょう。メイを死なせるわけにはいきません」
「しかしクレヴィス、お前の《あれ》は整備中だったが」
「えぇ。でも動けば、それで十分ですよ」
 だが艦橋の出口のところまで来たとき、クレヴィスがふと立ち止まった。
 彼は、日頃あまり見せることのない神妙な顔をしている。
「とてつもない力を感じます。これは、いったい……」
 ――エルヴィン、今の力を感じましたか?
 ――はい。
 少女の声。ただしそれを聞くことが出来たのは、艦橋の中ではクレヴィスのみであった。
 クレヴィスは目を閉じて、音にならない心の声に耳を傾ける。
 ――この魔力の源が分かりますか?
 ――すぐ近くに《それ》がいる。安心して、敵ではないと思う。身震いするほどの魔力、哀しい叫び……。

 クレドールの中央部分、艦の心臓部に位置する一室。
 少女の声はここからクレヴィスに届いていた。
 この広間の中には、植物のつた状の暗緑色のチューブが無数に《茂って》いる。それらは床を這い、壁面までをも何重にも埋め尽くし、天井に至る。ときおり、そこかしこのチューブがまるで生きているように脈打つのが、不気味と言えば不気味である。
 この異様な空間の真ん中に1本の《樹》が生えていた。大小さまざまなチューブは、全てここに端を発している。
 《樹》をよく見ると、幹の真ん中に透明なクリスタルでできた部屋らしきものがあった。その形態は、ちょうどアルマ・ヴィオの《ケーラ》(コックピット)に似ている。ただし、こちらの方が一回り、あるいは二回りほども大きいが。
 その中には美しい少女がいた。やや青みがかった長い黒髪に、天の芸術家によって造られた白磁の像を思わせる、異常なまでに白く滑らかな肌。
 細い肩、どこか寂しそうに沈んだ顔つき、風でも吹けば壊れてしまいそうに繊細な、硝子細工の妖精。
 彼女は生まれたままの姿で、水晶の棺の中を満たす緑色の液体に浮かんでいた。植物の根のごときチューブがその中に繁茂し、彼女のからだに幾つも絡みついていた。
 彼女は眠っているようにも見えた。ただし、ときおり小さくうなずいたり、囁くような、吐息とも、うめきともつかぬ声を上げている。
 驚くべきことに、このか弱い少女から凄まじい魔力が感じられる。
 おそらく、特別な感覚を持たぬ普通の人間でも、この広間に入った途端、肌を刺す霊気のほとばしりを感じるであろう。
 ここはクレドールの心臓であり、この少女はクレドールの命であった。彼女は、艦の《柱の人》あるいは単に《柱》と呼ばれる役割を果たしている。
 実は飛空艦もアルマ・ヴィオ同様に半ば《生きて》いる。ただし《柱》はエクターとは違って自ら艦を操ることはない。そして何よりも、エクターよりもさらに大きな魔力を持っていなければならない。その力を利用して、飛空艦は大気中の霊気をより効率よく動力に変換することができるのだ。
 《柱》の力は常に必要なわけではない。もちろん飛空艦は自分自身の力で飛ぶことが出来るのである。しかし戦闘の場合等、船の全力を出そうと思うと、《柱》の力が欠かせなかった。
 彼女、エルヴィン・メルファウスがこの船の《柱》であり、同時にいまクレヴィスと話しているその人であった。

 ――翼が見える。鎧に身を包んだ天の騎士が来る。
 エルヴィンはクレヴィスに伝えた。彼は黙って聞いている。
 ――なんて痛々しい、寂しそうな……傷ついた、こころ。
 ――そして《もうひとつ》は。
 ――あまりに哀しい、けれど憎しみに満ちた、全てを飲み込もうとする破壊への意思……。

 ◇ ◇

 正体不明の強大な魔力が一帯を覆い始める。
 それに気付いたのはクレヴィスたちだけではなかった。
 ――隊長、パンタシア感覚器に異常が発生しました! 計測不能な超高出力の反応あり!! 場所は……馬鹿な、すぐそこ?!
 配下のアートル・メランから、ミシュアスに念信が入る。
 ――慌てるな。
 そう言った矢先、彼も異変を感じた。
 息苦しいほどの威圧感。空気が重い。
 ――何? この凄まじい力は。どこだ、海の方から……まさか?!
 ミシュアスは本能的に危険を感じ、ほとんど第六感によって回避運動をとった。
 それとほぼ同時のことである。まばゆい光の帯が海面から上空まで一閃し、直後に鞭のごとくしなって左右に揺らめいた。
 ほんの一瞬の出来事であった。光が弧を描いた場所で、2機のオルネイスが両断されていたのである。ナイフでバターを切るように、いとも簡単に真っ二つにされ、炎上したまま海面に落ちていく。
 メイは、そこで何が起こったのか理解できなかった。
 ――白い、影?
 眼下の海面の方に何かが見える。
 それはまさしく奇跡に感じられた。
 クレドールのクルー、そしてミシュアスやガライアの乗組員たちまで、
 この場に居合わせた誰もが身を震わせる。
 それは白く輝く巨大な十字架を思わせた。
 静かに、気味が悪いほど静かに、宙に浮いているのは……。
 翼を大きく広げたアルフェリオンである。

 凍った、時間。そして……。

 甲冑同様の分厚い金属製の外皮が、鈍い音を立てた。
 アルフェリオンの左右両方の肩当てがゆっくりとスライドする。
 胸部の鋼板も開き、青く光る楕円形のレンズ状の装置が姿を見せた。
 ルキアンの心の中に、聞き慣れたアルフェリオン・ノヴィーアの声、あの中性的で無機質に歌うような声が伝わってくる。
  ――パンタシア変換最大値、急激に上昇中。通常動力に代わって、ステリア系を作動させます。
 アルフェリオンの肩と胸の部分には吸気口が現れ、まるで巨大な生き物が呼吸をしているかのごとく、その吸気音が周囲に不気味に響きわたる。
 最後に、突撃を前にした騎士が兜頬を下ろすのと同じく、頭部のバイザーが顔面に降りていく。
 その奥で赤い眼が光った。

 ――何をしている? 敵だ!!
 ミシュアスが部下に念信を送りつつ、自らも攻撃の態勢を立て直そうとする。
 アートル・メランの1体が海面の方に向かおうとした、そのとき……。
 空を引き裂くような鋭い鳴き声が、辺りにこだました。
 アルフェリオンは、信じられないほどの速さで海面から上空まで一気に上昇し、アートル・メランの横に並ぶ。
 ――馬鹿な?! 汎用型のアルマ・ヴィオがどうしてこんな速さで。
 アートル・メランのエクターは絶句した。
 彼の脳裏にミシュアスの念信が響く。
 ――かわせ! 早くしろ!!
 だが既に遅かった。
 アルフェリオンのマギオ・スクロープの砲身が、瞬時に背中から左肩に跳ね上がり、アートル・メランに強烈な雷撃を叩き込む。
 青白い電光が、太いビームとなってアートル・メランを頭部から串刺しにした。
 光はそれでも直進を止めず、クレドールと交戦中の敵艦の目前で海面を貫き、大きな水柱と水蒸気を立てた。
 ガークスの乗ったガライアが激しく揺れる。
「どうした、新手の敵艦の砲撃か?!」
 思わず椅子から立ち上がったガークス。そのたくましい体も、大揺れの中でふらつきそうになる。
「分かりません。上空から、恐らくあのアルマ・ヴィオからの雷撃です!!」
 そう返答した部下に、ガークスは声をやや震わせていった。
「まさか、あのアルマ・ヴィオのマギオ・スクロープは、飛空戦艦の主砲並みの威力を持っているというのか?! ありえん、そんな……」

 ぼんやりとしていたメイは、アルフェリオンの姿を見て我に返った。
 一瞬の隙をついて、ラピオ・アヴィスもオルネイスに向かって猛進する。その金属の鋭い爪が敵の首をとらえ、くちばしが頭部を打ち砕く。
 ――勝てる……勝てるわよ。
 メイはもう1機のアートル・メランに向かって、マギオ・スクロープを発射した。
 しかし敵も、慌てながらもそれを素早く回避する。
 アートル・メランの胸部にある2門のマギオ・スクロープから、轟々と燃える炎が走った。それを皮切りに、ラピオ・アヴィスとアートル・メランは空中で激しく交差し、離れ、闘い始めた。

「カムレス、右舷の砲列を敵旗艦に向けろ! 砲手長に連絡、一斉射撃!!」
 カルダインが叫ぶ。アルフェリオンの思わぬ加勢によって、艦内の士気も上がっている。
「敵は怯んでいる。砲撃しつつ、退路を確保」
「了解!」
 カムレスは大きく舵をきった。
 そしてクレヴィスが、カルダインと無言でうなずき合う。
 クレヴィスは気軽な声で囁くように言う。
「セシー、メイに念信を伝えてください。今のうちに帰還するように」
「わかったわ」
 セシエルは念信のコンソールを操り、メイに連絡を始めた。

 ――敵艦をなんとかしたい……どうしたらいい?
 ルキアンはアルフェリオン・ノヴィーアに尋ねる。
 ――《ステリアン・グローバー》を使用するのが良いでしょう。味方を巻き込まぬよう、出力はこちらで縮減させます。
 ノヴィーアは機械的に即答した。
 空中でアルフェリオンの動きがぴたりと止まった。
 4対の大きな翼と2対の小さな翼が、背中で機械的な動きをし、X型に重なる。翼は次第に白熱化し、つけ根の方からまばゆく輝いていく。
 膨大な魔力がアルフェリオンに向かって流れ込んでいるのがわかる。アルフェリオンの体がぼんやりとした光を放ち始め、周囲の気圧さえも急激に変化していくように感じられた。
 風の流れが、海が……自然に満ちあふれる霊気が共振している。
 アルフェリオンの胸のレンズがその青白い光を強めていく。
 光の渦が次第にはっきりと目に見え、アルフェリオンの周囲を取り囲む。
 この様子を見ていたミシュアスは、底知れぬ危険を直感的にとらえた。
 ――いけない。あれは恐らく……。
 彼はもう1体のアートル・メランに退却命令を出し、自らもこの場から急速に後退し始める。

 ガークスは、アルフェリオンに対する砲撃を命じる。
「ミシュアスめ、口ほどにもないわ。あのアルマ・ヴィオが何をしようとしているかは分からんが、あれでは撃ってくださいと言わんばかりではないか!」
 ガライアの艦砲が上空のアルフェリオンめがけて発射された。
 だが……。
 ガライアの放った魔法弾は、アルフェリオンの近くで急に軌道をねじ曲げられ、向きを変えたのである。

「霊気濃度差による屈折現象です。こんなことが実際に起こるとは」
 クレヴィスがつぶやく。
「ん? そのなんとか現象ってのは?」
 ランディが皮肉っぽい笑みを浮かべて尋ねた。
「簡単に言うと、ある物体の周辺の霊気の濃度が、周囲のそれよりも異常に濃くなると……現実にはあり得ないほどの濃度差が必要なのですが……その物体に向けて進む別の霊気の流れは、進行方向をねじ曲げられてしまうのです」
 クレヴィスの説明を聞いて、ランディはニヤニヤしながらお手上げのポーズを取る。
「しかし、霊気濃度差による屈折現象については、私は本で読んだことしかありません。現実にはありえない、あくまで理論上のことだと思っていました」
 クレヴィスは感慨深げに言うと、アルフェリオンの姿をじっと見つめた。
「ただ、かつての極めて高度な魔法工学によって造られたある仕組みが、この現象を発生させることがあり得るとは聞いています。それは《ステリア》……その昔、旧世界を滅亡寸前にまで追い込んだという、魔の力だと言われています」

 アルフェリオンに向けた砲撃がまったく効果を発揮しなかったのを見て、ガークスも不安になってきた。
 彼は歯ぎしりしつつ数秒ほど考えていたが、大声でこう叫んだ。
「全艦、急速潜行!! ここはひとまず退け!」
 彼の命令を、部下が念信で各艦に慌てて伝えている。

 アルフェリオンの翼がいっそう輝きを増した。
 胸のレンズがぼうっと赤みを帯びたかと思うと、その赤い光が急速に強まっていく。
 それに呼応するかのごとく、アルフェリオンの前に、陽炎のようにゆらめく光のかたまりが現れた。それは次第に大きく膨らみ、こちらもレンズのような形を取り始める。
 周囲を取り巻く霊気の渦が徐々に収束され、強烈な熱と光を放っている。
 ルキアンの気合いが高まり、彼の中で何かがぷつりと切れた。
 と……心のむこうで誰かが振り向いたような気がした。
 姿はよく分からない。
 ただ、ルキアンはその人影にとても懐かしさを覚えた。

 白い閃光が全てを飲み込んだのは、そのときであった。
 何が起こったのか、理解できた者は少ない。
 海が二つに裂けるのを見た者がいた。
 光の柱がガライアを飲み込むのを見た者もいる。
 気が付くと、跡形もないほどに粉々になったガライアの残骸が、海面に漂っていた。
 やがて海は何事もなかったかのように静まり、クレドールは穏やかな波間にぽつりと浮かんでいた。

 ◇ ◇

 白い海鳥が飛んでいく。
 岸辺に打ち寄せるゆったりとした波の向こう、つい先ほどまで激しい戦闘が行われていたとはとても思えなかった。
 港の埠頭近くの小さな浜辺に、アトレイオスの姿があった。
 その足下に大柄な若者が腕組みして立っており、波打ち際で遊ぶ少女を見守っている。
 少女は、熊のぬいぐるみの腕を持って、それを振り回すほどの元気で波と戯れていた。岸辺で砕けた波と、春の穏やかな日差しとが創り出す、光の幻想の中で、彼女は無心に遊んでいる。

「ねー、バーナンドぉ」
「こらこら、メルカちゃん、俺はバーナンディオだってば。バーンって呼んでくれよ」
「んじゃぁ、ばーん。あのね……」
 メルカは風で乱れた髪を片手で押さえながら、無邪気に微笑んだ。
 それを見て、バーンも不器用な笑顔を浮かべ、いかつい肩をすくめた。
「奇跡って、信じる?」
 何の脈絡もなく、メルカの口から不意にこんな言葉が飛び出した。
 バーンはしばらく黙っていた。
「どうだか。でも、もし奇跡ってのがこの世にあるとしたら……たぶん、ただひとつだけ、自分の全てを賭けて信じたときに、初めて起こるのかもしれねェな」
 独り言に近い答えだった。
「ふぅーん」
 メルカはちょこりと首を傾け、不思議そうに目を丸くしている。
「さぁ、お仲間のお帰りだぜ。迎えに行こうか」
 バーンは彼女の背中をぽんと叩いた。
 彼が指さした方角には、沖合から港へと帰ってくるクレドールの姿があった。

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