HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第4話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  「飛ぶ? いったい何処へ……」
    そう問いかけることを覚えるよりも以前から、
    おさな子は飛び方を知っている。



 春の日暮れは意外に早い。白い翼を残陽に輝かせ、悠々と空を行く飛空艦は、先刻コルダーユの港に別れを告げて、所々に深い森の広がる丘陵地帯を見下ろしながら、内陸側へと進路を取っていた。
 朱と金の光に美しく染め上げられた海が、緑の地平の向こうに遠く霞んでいくにつれて、薄明の中に黒々と連なるパルジナスの諸峰が、その美しくも険峻な姿をクレドールの行く手に現し始める。

「天の《歪み》が強まってきているわ……」
 夕空を映したセシエルの薄いブルーの瞳に、先ほどから陰りが浮かびつつあった。不安な気持ちを紛らわそうとしているのか、彼女は、胸元の青紫のスカーフの端をしきりに指に絡めている。
 クレヴィスは、艦橋の中央の一段高い部分で地図を広げ、操舵長カムレスと何やら話し込んでいた。彼はセシエルのささやきを聞きつけ、いつもののんびりとした調子で言う。
「そのようですね。セシー、《星振儀》の方も引き続きお願いしますよ」
「了解」
 セシエルは自分の座席にある鍵盤を操作しながら、一定のリズムに合わせて手前の水晶玉に触れていた。そして隣の空席に据え付けられた風変わりな装置にも、彼女は忙しそうに目を配る。
 目盛りの付された数本の金属の輪に取り囲まれた、人間の頭ほどの大きさの黒い球体が、様々な方向に向けて不規則な回転を繰り返す。その隣にある天秤に似た器具も、黒い球の動きに連動しているような、していないような感じのタイミングで上下動している。見る人が見れば、付近の霊気の流れを大まかに把握することが可能な、魔法めいた――否、まさに魔法の――道具がこの《星振儀》に他ならない。
「おや、大変そうだな。メイかベルセアでも来ると楽だろうに……」
 ひとりの男が、セシエルの後ろでさも大儀そうに腕組みしつつ、そのくせ見るからに暇を持て余した態度で突っ立っている。彼がランディこと、ランドリュークである。
「それだけご存じならもう少し気を利かせて、手を貸していただけなくって?マッシアの若様」
 彼女の嫌みっぽい声に押されて、ランディはすごすごと後ずさりする。
 セシエルは他にもまだ何か不平を言いたそうに見えたが、すぐに真剣な眼差しに戻った。丁寧に切り揃えられた長い黒髪が、知的な雰囲気を漂わせてふわりと揺れる。
 2人のそんなやり取りを眺めていたクレヴィスは、おそらく彼自身にしか分からないであろう、本当に微かな笑みを浮かべた。ただしその口元は、幾分の深刻さを同時に感じさせる。というのも……。
「パルジナス山脈の上を通り過ぎるあたりから、空間の亀裂が至る所に生じてくるはずです。操舵長、念のため《パラミシオン》航行の準備を頼みます」
 クレヴィスの紳士的な物言いとは対照的に、続いてカムレスが野太い声で号令をかける。
「了解。いいか、操舵班は霊気濃度の変化をこまめに調べ、揚力の微調整を怠るな! それから、風がかなり出てきた。これからの気流の乱れは半端じゃないから注意しろよ」
 翼や鰭を自在に使って空を舞う、クレドールのしなやかで精妙な動きを、舵輪のみで制御することは勿論できない。カムレスを中心に、操舵係たちがそれぞれの分担箇所を調和的に操って初めて――船自体がひとつの生き物であるかのような錯覚を、見る者に与える――あの魂が吹き込まれるのだ。
 巨大な計器板に並ぶ数多くのボタンやダイヤルは、真鍮に似た滑らかな肌を輝かせている。数名の操舵係が、左右に慌ただしく行き来しながら、それらのひとつひとつを懸命に押したり回したりしている。
 部下たちの仕事ぶりを注視するカムレス。彼は大きく息を吸い込んだ後、背筋をぴんと伸ばした。その厳格な視線が今度はクレヴィスの方に向く。
「もう一度聞くが、副長……迂回路を行かずに、本当に山を越えていくのか?」
「はい。カルとも再度話し合ったのですが、今の《戦況》を考えれば、あまりのんびりしているわけにも……」
 クレヴィスの返事を聞くと、カムレスは沈黙し、額の大きな傷跡を指でなでさすり始めた。考え事をするときの彼の癖である。
「《幻夢の高地》と呼ばれるパルジナス、何が起こるか分かったもんじゃない。クレヴィス……命は預けたぞ」
 セシエルやランディ、艦橋の残りのメンバーたちもうなずく。
 クレヴィスは穏やかに、それでいて自信ありげに言う。
「私も魔道士のはしくれ。パラミシオンでいかなる出来事が発生しうるのか、多少は知っているつもりです。それなりの計算はしてありますよ……」

「艦長はどうしたのかな?」
 前方に何か変化が生じないか見守りつつ、《鏡手》のヴェンデイルが誰にともなく尋ねた。《複眼鏡》を自らの視角のごとく操る彼の技術には、感嘆すべきものがある。しかもその人間離れした芸当を、雑談を交わしながら気楽にやってのけてしまうのだから。
「そう言えば、メイもいないわね」
 セシエルが首を傾げた。
 クレヴィスは、窓の外の山並みをじっと見据えて言う。
「あぁ、カルなら、あのルキアン君と何か大切な話があるらしいですよ。メイが艦長室まで案内してくれています」
「この非常時にかい? 艦長も物好きだね」
 苦笑するヴェンデイル。

 ◇ ◇

 クレドールの上部側面を伸びる細い通廊は、賑やかな艦橋の様子とは対照的に、ぼんやりとした暗がりと意外なほどの静寂に包まれている。数時間前まで激しい戦闘が行われていたとは思えないくらい、ここは静かであった。うら寂しく、がらんとしていて、どことなく肌寒い。
 天井には、少しずつ間隔をおいて、橙色の灯火の列が廊下の奥の闇に向かって列をなしている。
 ほのかな明かりの下に2つの影が見て取れた。
 立ち止まって窓の外を眺めているのは、瑠璃色のフロックに銀の髪の少年、ルキアンの後ろ姿……。
 いつもより目深に被った帽子の下、彼は、ほとんど聞こえないような小さな声でつぶやいた。
「海が……だんだん遠くなっていく。もうすぐ、見えなくなる」
 ルキアンの数歩先を進んでいたメイが、彼の足音が聞こえなくなったのを感じて立ち止まった。薄暗い廊下に映える鮮やかなエメラルド色のジャケットに加えて、昼間見た時とは違い、羽根飾り付きのベレーと、精緻な薄い生地で織られた三重の白いケープ――エクターの称号を持つ者だけが着用を許される、いわゆる《エクターケープ》――をさらに身につけている。そのせいか、あるいは夕闇も手伝ってか、彼女は最初の印象よりもずっと落ち着いて見えた。
「ネレイへ向かってるのよ。私たちのギルドの本部があるところ」
 しばらくの間、メイは前を向いたままじっと突っ立っていたが、やがて仕方なさそうな微笑を浮かべ、ひらりと振り返った。
「元気ないのね。疲れた?」
「はい。というか、僕……」
 しょんぼりとうなだれるルキアン。
 無言の彼の肩を、メイがぽんと叩いた。
「分かってる。君は、戦うの、初めてだものね」
「ねぇ! アルフェリオンのせいで、いや、僕のせいで……たくさんの人が死んでしまった。違う、殺してしまった……それなのに僕、わけが分からなくて」
 ルキアンのすがるような瞳が、彼女には不憫でならなかった。
「メイたちを助けようと思って、夢中で、戦っているときには考える余裕がなかった。でもそのあと、哀しくなって……。自分のしたことが許せなくなって」
 あのときアルフェリオンから放たれた《ステリアン・グローバー》は、巨大な死の閃光となって海を切り裂き、恐らくガライアの1隻を跡形もなく消滅させ、別の艦をも瞬時に海の藻屑に変えた。残る1隻の行方は定かではないが。
 敵とはいえ、同じオーリウム人の命、多くの命の火が、ルキアン自らが引いた引き金によって永遠に失われてしまったのである。彼の後悔と落胆は計り知れなかった。
「優しい想いね……」
 しかし、そう言ったメイの表情からはいつもの暖かさが消え失せており、そのかわりに、彼女のものとは思えない歪んだ冷笑が口元に浮かんでいる。
「でも君はただ、彼ら自身のやり方に合わせて、彼らと渡りあっただけなのよ。物事を力ずくで動かそうとする人間が、より強い力に倒される……それは彼らが自ら行った決断に対して、当然負わなければならない結果だわ」
「メイ……」
 ルキアンは驚きと疑念、そして哀しみの入り交じった目で彼女を見た。
「もし彼らが、最初から暴力とは違うやり方を選んでいたなら、あんなふうに命を失ったりしなかったのよ。暖かさや優しさを捨ててむき出しの力に走った人間なんかに、情けをかけてやる必要なんて……全くない」
 彼女は無機質な口調で言い捨てる。
 ――気まずい沈黙。
 言葉を失ったルキアンの顔には、疲れの色が濃く現れている。
 メイは彼のそんな様子を気遣いつつも、窓の外を指さして、素っ気ない調子で言った。先ほどの冷ややかな言葉遣いではなくなっているが。
「あの山々……もうすぐ私たちが越えるパルジナス。山の上にいくつも《島》が浮かんでいるのが見えるでしょ?」
 メイの言葉通り、大小無数の岩――いや、それこそ島と形容する方が似合う巨大な塊が、空に幾つも漂う。それらの浮島では、赤茶けた地肌を覆って緑の草木が豊かに茂っている。
「あの島々の間を通るのですか?」
 それが相当危険な行為であることを、ルキアンは知っていた。
 無論、メイも。
「そうみたいね。元々はコルダーユから南下し、海沿いを通ってパルジナスを迂回する予定だったの。だけど、議会軍の旗色が思ったより悪いので、私たちも悠長なことをしてる場合じゃなくなった……ってわけなのよ。パルジナスを飛び越えて最短距離でネレイに向かえば、少なくとも4、5日分ほど行程の短縮ができるって、クレヴィスが言ってたわ」
 彼女の説明を聞くにつれて、ルキアンが次第に難しい表情になっていく。
「それはそうですけど、あの……でも、知っていると思うけど……」
 ルキアンがこれ以上話すまでもなく、メイが言葉を継いだ。
「パルジナスでは妙な出来事が起こるって、言いたいんでしょ? そうね、もしお化けなんか出てきたときには……」
 メイは悪戯っぽい笑みを浮かべると、ルキアンの眉間に人差し指の先をそっと押し当てた。
「そのときには、頼りにしてるからね。魔・法・使・い……」
 ルキアンは慌てて身体を硬くしている。

「あら?」
 メイは口を開けたまま、いぶかしげに外を見る。
 青い月が出ていた。
 薄墨を引いたように広がる雲の中で、凍てついた光を放つ満月が妙に大きく見える。窓から差し込む輝きは、普段の柔らかな月明かりとは何か違っている。
 ――月が見ている、こちらを見ている?
 ルキアンにはなぜかそう思えた。
 蒼ざめた冷たい硬玉、あるいは闇に浮かぶ獣の目……月の輝きに秘められたあやかしの精を、彼の内に潜む道士の魂が感じたのであろうか。
 イリュシオーネには2つの月がある。
 毎晩、普通に目にすることができるのは、黄色い月。
 そして通常はその月の陰に隠れて見えないけれども、2つの月の運行に応じて時折こうして現れるのが、もうひとつの青い月。
 青い月に関しては色々な伝説が知られている。ただし言い伝えの内容は、きまってどことなく陰鬱な雰囲気を漂わせ、時に凄惨で血生臭いものでさえある。
 《歓迎されない月》
 青い月はそう呼ばれている。
 闇の力を秘めたその輝きが大地を照らす夜……魔に属する者たちが、うつし世に這い出てくると古老は言う。あるいは、人間界と隔絶された場所に隠れ棲む妖精たちが、人里近くの丘や野辺にまでやってきて夜会を繰り広げたり、時には牛馬や子供をさらったりするとも、世人は伝え聞く。
「さい先が悪いわね……」
 メイは他にも何か言いたげな様子だったが、彼女の口をついて実際に出てきたのは、全く事務的な言葉であった。
「さぁ、あそこ。艦長が待っているわよ」
 2人の行く手は奥の方で行き止まりになっており、その突き当たりの右側に、ランプの淡い光に照らされた扉がちらりと見えた。メイは、そのドアを片手でそれとなく示す。
「それじゃあ、私は艦橋に戻るから」
「ありがとう……」
 ルキアンの視線は、窓の外に広がる夜空から、廊下の向こうの薄暗がりへと転じられた。

 ◇ ◇

 夢なら早く覚めよと、ガークスは思った。
 聞こえるのは苦しげな吐息ばかり――彼は深刻な面もちで腕を組み、椅子に深く掛けたまま、彫像のようにじっとして動こうともしない。
 あのときの、そう……白銀に輝く翼を広げた破壊の天使、アルフェリオン・ノヴィーアの幻影は、ガークスの胸の内に深く刻まれ、彼の心を苛んでいた。
 怒り、衝撃、そして彼自身認めたくないことだが、紛れもない恐怖のせいもあって、彼の顔は青白く血の気を失っている。
 ガライアの一室、張りつめた空気の中で、動力炉の鋼の心臓の鼓動だけが伝わってくる。
 部屋の中にはもう1人居る。ガークスの後ろ姿を、先ほどからじっと黙って眺めている男が。真っ黒なフロックに包まれた長身を壁にゆだね、うねる長い髪の下に表情を隠して……。
 彼が髪をかきあげると、オニキスのピアスが、艦内の暗い照明を映して鈍く光った。彼の瞳に宿った怜悧な輝きが、周囲の静寂をさらに凍り付かせる。
「ほぅ……貴方ほどの武人でも恐れに震えることがあるのですね」
「何だと?」
 ミシュアスの言葉がかんに障ったらしく、ガークスは不機嫌な声で応えた。
 対照的にミシュアスは、あくまで冷ややかである。
「優れた部下1人と最新の機体1つを失って、正直、私も内心穏やかではありません。しかし貴方の痛手に比べれば……。同情しますよ。ガライア1隻の戦力は、従来型の飛空戦艦の数隻分には軽く匹敵するでしょうからね」
 同情したと言いつつ、ミシュアスは、感情のない醒めた微笑を浮かべている。
 ガークスは突然椅子を蹴って立ち上がり、ミシュアスの胸ぐらをつかんだ。
「余計なお世話だ! 言わせておけば……」
 ミシュアスは能面のように表情を崩さず、侮蔑的な目でガークスを見ている。
 怒りに腕を振るわせるガークスだったが、ふと我に返ったとき、ミシュアスの体中から発せられている異様な妖気に、ぞっとするほどの圧迫感を覚えた。
「み、見ていろ。ギルドの飛空艦め、この借りは必ず返してやる」
 ガークスは言葉を吐き捨て、再び椅子に座った。
「それにしても、たった1体のアルマ・ヴィオに飛空戦艦が沈められるとは。2隻も……しかも一瞬で《消された》んだぞ」
 黙ってうなずき、ミシュアスはふと視線を脇にそらした。
 丸い窓の向こうに海が広がる。薄暗い水の中を魚の群が通り過ぎていく。
「これまでのデータにはない機種ですね。エクター・ギルドが密かに開発していた新型かもしれません」
「あんな化け物を造り出す技術が、ギルドにあるとでも言うのか?」
「さぁ、どうでしょう。私も初めて目にする攻撃です。一見、極めて高レベルの火精系魔法を放ったのかと思いましたが、破壊力が根本的に違いますね」
 冷静に分析するミシュアス。
「少なくとも、通常の魔法を使った兵器ではなさそうです。もしかすると……昔、聞いたことがあります。無属性の魔力そのものを、精霊界の触媒を経ずに物質界へと強制的に実体化させ、その際に生じる想像を絶する余剰エネルギーを利用したシステム」
「何だそれは?」
 ミシュアスは窓の方に向かってゆっくりと歩き始めた。そしてつぶやく。
「まさかとは思いますが……古代の超魔法文明を破滅に導き、禁断の力、大いなる災いとまで呼ばれた、あれは、そう……」
 怪訝な表情のガークス。
 ミシュアスは不敵な笑みをたたえて振り返った。
「なぁに、つまらないおとぎ話ですよ」

 コルダーユの遥か沖合、海底深く藍色の暗い水の中を、ガライアの巨大な影が進んでいく。不気味なほど静かに。
 この恐るべき相手がクレドールの前に再び姿を現すのは、きっと近い将来のことに違いない。

 ◇ ◇

 部屋の扉は半開きになっていた。よく磨かれた分厚い木のドアは、まるで部屋の主の個性に合わせたかのように、飴色の重厚な光を放っている。扉の向こうから漏れ出しているのは、白っぽい微かな灯りだけだ。中からは物音ひとつ聞こえてこない。
 《艦長 カルダイン・バーシュ》
 角張った古風な活字体でこう書かれた木札が、ドアの脇に掛けられている。
 ルキアンは気後れを感じながらも、そっとノックする。妙に乾いた音が廊下に響いたのを気にして、彼は思わず背後を振り返った。
 数秒ほど経ったが何の返事もない。ルキアンは、多少ゆっくりとした調子で改めてドアを叩いた。
 部屋の中には確かに人の気配がある。彼は、扉と壁との間にできた隙間を恐る恐る広げてみた。
 すると、そのとき。
「君……」
 かすれ気味でいて、そのわりによく通る低い声が、ルキアンの耳に突然飛び込んでくる。彼はつい仰天して、転がり込むような勢いで部屋の中に入ってしまった。
「し、失礼」
 ルキアンはそろりと顔を上げる。
 またもや何の前触れもなく、同じ男の声が響いた。今度は幾分なりとも心地よい、弦の調べを思わせる低音ではあったが、話の中身はいささか唐突だ。
「白で良いか?」
「え?」
「ワインは白で構わんかね? それから、チーズがそのあたりに……」
 全体としてセピアの色調でまとめられ、時が止まったような空間の中。その雰囲気に見事に溶け込んだ、焦げ茶のフロックの男――カルダイン・バーシュは、革張りの頑丈な椅子に雄大な体躯を落ち着かせている。
 ――この人が、艦長の……。
 どことなく憂いを帯びたカルダインの瞳に、吸い込まれそうな強い意志の力を感じたルキアンは、無言で彼の様子に見入っていた。そんなルキアンのことなど気にも留めていないのであろうか、カルダイン艦長は、背後の大きな棚の引き戸を開け、その奥を探っている。
「君は運がいい。半年ぐらい前に、たまたま一樽だけ手に入った上等のやつを、瓶に詰めていくらか残してある。滅多にお目にかかれない代物だ」
 船の上でも倒れないよう工夫された、三角フラスコの胴をもっと平たくしたような形のボトルを、カルダインはいつの間にか手にしている。濃い髭に覆われた頬が、心なしかゆるんで見えた。
「このワインが仕込まれた年は、私にとって何かと忘れ難い年でね……」
 ルキアンの返事を聞くまでもなく、カルダインはよく磨かれたグラスを2つ取り出し、慣れた手つきで酒を注いでいく。
 きょとんとした顔で突っ立っているルキアンを見て、彼は苦笑した。
「ルキアン君、だったな……遠慮はいらんよ。君はこの船の客なのだから」
 カルダインは、手近な所にあった椅子を指し、そこに座るよう彼に告げる。
「えぇ、では」
 遠慮がちに腰掛けたルキアンの前に、グラスがぶっきらぼうに差し出される。
 ルキアンは慌ててグラスを受け取ると、軽く会釈した。銀色の前髪の下に浮かぶ恥ずかしげな微笑、それを見たカルダインが慇懃な口調で言う。
「若き勇士に乾杯」
 よく熟した果物を思わせる香りが、ルキアンの鼻腔をくすぐる。濃厚な芳しさであった。グラスを天井の灯りにかざしてみると、黄金さながらに光る麦藁色の水面が、魔法の泉のごとき神秘的な輝きを見せる。自分のような貧乏貴族には縁のない美酒だと、ルキアンは思う。
 しかし余韻に浸っている場合ではなかった。ルキアンは姿勢を正して、艦長の方に向き直る。
 彼の胸中を察してカルダインが言った。
「分かっているさ。事情はメイとバーンから聞いている。本部に着いたら、ガノリス王都の現状を調べたうえで、君の師と一刻も早く再会できるように取り計らおう。その間、君とあの少女の滞在場所や食事等については、私たちが責任を持って支度させる。安心したまえ」
「いま、あの子は、メルカはどうしていますか?」
「厨房係の娘が相手をしてくれていたよ。荒っぽいエクターたちに子供の世話役は務まらんだろうから、ちょうどいい。他に何か希望は?」
 ルキアンはグラスに口を付け、喉の渇きを潤すと静かに言った。
「いえ、艦長。十分なお気遣い、ありがとう……ございます」
 カルバとの《再会》という言葉に、本来なら希望をつながねばならないはずである。だが簡単にはそう思えないことが、ルキアン自身、とても辛かった。
 ――こんな馬鹿なことが信じられて? バンネスクという都市は……地図から消えたということになるのよ。
 メイの言葉が彼の脳裏に蘇った。
 帝国の浮遊城塞《エレオヴィンス》の誇る超兵器《天帝の火》によって、ガノリス王国の都バンネスクは、事実上この世から消えてしまっている。破壊されたなどという生易しい事態ではない。元の形を一切留めぬほどに、滅ぼされ尽くしたのである。少なくとも客観的に見た場合、カルバの生存の可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
 憂鬱に包まれたルキアンは、せっかくの芳醇なワインを前にしても、それを味わう気持ちではなくなってしまった。

 そのときグラスの向こうに揺らいで見えたもの、壁に飾られた一枚の絵――ルキアンの目、そして心さえも、絵の中の人物にたちまちのうちに惹き付けられてしまった。
 柔らかに波打つ栗色の髪に、黄金の宝冠を戴いた美しい女性。やや神経質そうな気色を漂わせる尖った顎と、細く華奢な首。それでいて冒しがたい威厳と誇りとを湛えた、凛とした面差し。
 何にもましてルキアンの心をとらえたのは、《彼女》の深い碧の瞳であった。その透徹した輝きのうちには、世を憂う隠者のごとき諦念が影を落としつつも、同時にまた、全てを慈しむ聖母を思わせる限りない優しさの光が見て取れる。
 ルキアンは、絵の中の気高い人物を目にしたとき、いつか見た女神セレスの像を無意識のうちに連想せずにはいられなかった。
「艦長、このご婦人は……」
 興味深げに尋ねるルキアン。その言葉にカルダインは答えなかった。
 しばしの沈黙の後、艦長はようやく口を開き、逆にルキアンに尋ねる。
「この酒、美味いだろう?」
 まともな返事が戻ってこなかったので、少し面食らったルキアンだった。
 カルダインは感慨深げに言う。
「長き伝統を持つ、この類い希な銘柄が醸し出されることは、もうない……」
 愁いの色をいっそう強く帯びたカルダインの瞳。彼が見つめる先の壁には、ルキアンも見知っている《旗》が掛けられていた。
 それを目にしたとき、ルキアンの頭の中で様々な連想の糸が互いに結びつき、ぱっと視界が開けたような……そんな気がした。
 ルキアンは、自分が幼い頃に起こったあの歴史的な事件を、うろ覚えながらに想起する。13年前、イリュシオーネ全土を揺るがした《タロスの革命戦争》のことを。そしてさらに思い出した。大乱の犠牲となって滅んだ、あの美しい森と湖の小国のことを。
 ――あれは、もしや《ゼファイア王国》の……。
 ルキアンがそう言おうとしたとき、船体が突然激しく揺れた。
 幸いにも椅子に座っていたため、床に投げ出されることはなかった。けれども、先ほどまでグラスの中で優美に落ち着いていた液体が、ルキアンの胸元で派手に飛び散っている。
「な、何?!」
 動揺するルキアンを、カルダインが無言でたしなめる。その落ち着いた様子、さすがに飛空艦と人生を共にしている艦長だけのことはある。
「浮遊している島にでもぶつかったのだろう。心配ない。この程度の衝撃でどうにかなるクレドールではないよ。しかし、だ……」
 揺れが収まったのを見計らい、カルダインは椅子から立ち上がった。
「そろそろパルジナスの上空にさしかかったらしい。君とは色々と話したいことがあったが、艦橋へ戻らねばな。そうだ、一緒に来るかね?」
 そう言いつつも、カルダインはすでに部屋の扉に手を掛けている。
 ルキアンは慌てて何度もうなずき、彼の後に駆け寄った。あの高貴な女性の絵姿に心ひかれ、振り返りながら……。

 ◇ ◇

 艦長の言葉通り、クレドールは今まさにパルジナスの上空を飛行していた。竜の背を連想させる険しい山脈。それを包むヴェールのように雲が広がり、闇の中に白く光って見える。その間から点々と顔をのぞかせているのは、空に浮かぶ島々。
 夜間の飛行であるため、ただでさえ視界が悪いのに加えて、濃い雲海が行く手に立ちふさがる。雲と共に漂う無数の岩を避けて通るのは、極めて困難だ。
 しかも山頂付近の空間の歪み、その影響による霊気の不安定のために、凄まじい乱気流が発生している。クレドールの巨体さえも、嵐の中を必死に飛ぶ小鳥のように頼りなげに見える。
 カムレスの熟達の舵捌きをもってしても、比較的小さな――と言っても人の身体よりは遥かに大きいが――岩塊まで回避することはできず、それらが時折クレドールをかすめ、船体を激しく揺さぶった。
 艦橋の面々は騒然となる。
「浮遊岩礁帯に入ったようです、各自、安全装置の着用!」
 自らも座席に寄りかかって、クレヴィスが指示する。
「岩礁帯だぁ? ヴェン、どこ見てやがった!!」
 カムレスの怒号。
「知らないよ! 真っ暗で、この雲の中なんだぜ。よく見えないんだ……」
 ヴェンデイルの表情に真剣味が加わる。
 今度は右舷の側から衝撃が伝わり、岩が砕け土砂が崩れ落ちる音が、地響きとなって聞こえてくる。
 セシエルの傍らの星振儀が激しく回転した。それは揺れのためだけではない。周囲の霊気の流れが極度に乱れていることを感知し、反応するせいである。
「副長、星振儀の動きが! 霊気が渦を……きゃァ!」
 彼女は背後から何かに突き飛ばされた。
 食器の割れる音。砕けた白い破片が飛び散る。同時に幾つかの派手な悲鳴。
 ヴェンデイルは頬を膨らませて笑いをこらえ、懸命に複眼鏡を操作する。じきに彼は、一転して真剣な口調で報告した。
「尖った岩山が、柱のように……」
 彼の《目》が闇の中に無数の視線を走らせ、艦の四方の様子を一瞬で把握する。ヴェンデイルの精神とリンクした魔法眼。そのひとつひとつに、辺りの危険極まりない様相が少しずつ映し出されていく。
 とんでもない状況と言えば、今の艦橋内部もそうではあった。こちらは多分に滑稽さを伴っているけれども。
 セシエルは隣の座席に体ごと押しつけられている。
 彼女の上に折り重なるようにして横倒しになっているのは、艦橋に戻ってきたメイである。
 さらにメイの足下にしがみついて……メルカと、もう1人、メイドのような格好をした小柄な娘が、将棋倒しになっていた。
 丸くて愛くるしい目と頬のそばかすが印象的な、14、5歳程度の少女だ。
 彼女の顔をのぞき込みながら、同じ年頃の少年が頭をかいて笑っている。尻餅をついたまま動こうともせず。
「えへへ。レーナ、大丈夫かい?」
 少年の額には油汚れの跡が薄黒く付いていた。
 彼の無邪気な笑い顔を見て、メイが大声で言う。
「何してんのよ、ノエル! あんたまで」
「何……って、俺もクレドールの一員だぜ! どうなってるのかと思って、見に来てやったんじゃないか」
 アルマ・ヴィオ技師見習いのノエル・ジュプランは、得意そうに鼻をこすると、《一員》という言葉に力を入れてみせた。
 メイは溜息をつくと、腰を押さえてゆっくり立ち上がる。
「痛たた……。ごめん、セシー。大丈夫? 服、汚れなかった?」
「えぇ、見れば分かるでしょ。それより、こっちを手伝って」
 セシエルの若干いらだった表情と、メイの苦笑いとが好対照であった。
 不幸中の幸いとでも言うのか、彼女たちのお気に入りの衣装にはシミひとつできていない。ただしその代わりに、床の赤い絨毯の上でコーヒーが茶色の水たまりを作っていた。
 粉々に砕けたポットと、いくつかのカップ。こんなときに呑気に飲み物など持ってくるメイもメイだが……。
 ともかく艦橋の面々は、彼女たちの騒ぎなど気に掛ける余裕もなさそうだ。
 そんな中でクレヴィスが仕方なさそうに笑う。
「やれやれ。みなさんお揃いで、どうしました?」
 メイはクレヴィスの視線からわざと目をそらして、知らんぷりをしている。
 一生懸命に弁解するのは、先ほどの少女。
「あの、あの……メルカちゃんが、恐いからみんなのところに連れてって欲しいって。で、でね、そこにメイさんが来て、コーヒーを……それで、今度は母さんが、みんなにも持っていけって……それで、えーっと」
 彼女は半泣きになりながら説明しようとする。
 クレヴィスは黙って頷いた。
「レーナ、大体の事情はわかりました。あなたはお母さんたちの所へ戻って、厨房の仕事を手伝ってあげてください。山を越えたら私も食事をとろうと思っています。腹が減っては戦もできぬと言いますから……頼みましたよ」
 彼の微笑を見て、少女も安堵の表情を見せる。
 しんと静まった艦内。何となく心苦しい空気を散らそうと、メイが無理に冗談でも言おうとしたとき、メルカがそっとつぶやいた。
「ルキアンは……?」
 か細い声。
 しかしその小さな声は、艦橋にいた人々の耳にひときわ大きく響くのだった。
「ルキアン、どこにいっちゃったの? パパも、お姉ちゃんもいなくなっちゃったのに。ルキアンも……」
「さぁ、メルカちゃん。お台所に戻って美味しい果物でも食べましょ」
 レーナがメルカをそっと抱きしめる。
 無表情に宙を見上げたままのメルカの顔が、痛々しかった。
「ルキアンは艦長の部屋にいるわ。じきに戻ってくるから安心してね。さぁ、メルカちゃん、レーナと一緒におばちゃんたちのところに帰ろうね」
 メイは、メルカの横にしゃがみ込んで、彼女の頭を優しく撫でる。

 一瞬、切なげな雰囲気の漂い始めた艦内だったが、敢えてそれをかき消すことも辞さず、ヴェンデイルが声を上げた。
「なんだよこれ……」
「どうした、何が見える?」
 カムレスは大きく身を乗り出して、窓の外の闇を見つめる。勿論こうしても、ほとんど外の様子を目にすることが出来ないのを知りつつ。
「悪夢の空中庭園……ってとこだな」
 ヴェンデイルの唇がこわばっている。
 山脈上部に広がる台地状の地域にさしかかり、状況はますます険悪になってきた。
 巨大な獣の角を思わせる尖った峰々が、天をも突き通すかのごとき険しさで林立する。しかも山並みの中腹から遙か天上まで、木々の生い茂る浮島の群と、小石をばらまいたような浮遊岩礁帯が、夜空をびっしり埋め尽くしている。
 みな無言で振り返り、クレヴィスの指示を待つ。
「結界を……」
 クレヴィスがぼそりと言った。
「結界を増強し……」
 メイとセシエルが顔を見合わせたかと思うと、2人とも厳しい視線をクレヴィスに送る。
「ちょっと、クレヴィー、まさか」
「あんなところ、どうやって通るのよ。正気?」
 クレヴィスは静かに、冷徹に、必要な言葉だけを繰り返した。
「結界の出力を増強し、このまま前進します」
 しばしの静寂。最初に口を開いたのはカムレスであった。
「分かった。進路は変えず、そのまま真っ直ぐ前へ……」
 黙礼するクレヴィスに、彼は親指をぴんと立てて笑って見せた。
「命令、だろ? 副長」
 いつも厳つい表情のカムレスだが、こんな時に珍しく微笑んでいる。

 ◇ ◇

「いったい何が起こって……嵐ですか? それともやはり空間の歪みが……」
 手を壁に添えて体を支えながら、ルキアンはカルダインに尋ねた。
「さぁな。急がないと、じきにもっと大変なことになるぞ」
 カルダインは、あっさりと聞き流して廊下を進んでいこうとする。
 と、艦長を追うルキアンの目に映ったのは……。
 彼は足下が揺れるのも構わず立ち止まる。
 ――あっ?
 真っ白なドレスの少女が、廊下の前方の曲がり角から、ふわりと舞うように現れた。
 暗くてはっきりと確認できないが、優雅な姿態と整った顔立ち。見た目には、由緒正しい貴族の娘といった感じだが。
 しかし彼女を取り巻く雰囲気は、普通の人間のそれとは明らかに違っていた。はかなげに、ぼんやりと漂うような、霧の精を思わせる娘。それでいてはっきりと伝わってくるのは、紛れもなく強大な魔力。
 異様な感覚を覚えたルキアン。
 カルダインは、歩幅を広げて少女に歩み寄る。
「どうした、エルヴィン。部屋で休んでいなくていいのか?」
 彼女は黙って頷いた。その眼差しが不意にルキアンに向けられる。
 ――この感じは?!
 射すくめられたというのは、こういう状態のことを言うのかもしれない。少女の一瞥は、ルキアンの心の奥底までも貫き通すようであった。
 その無表情な瞳は、最果ての地に広がる透徹した湖を――人の手が触れるのをあくまで拒む、あの青白く輝く水面を想像させる。息を飲むほどに美しく、それでいてあまりに冷たい。あるいは澄み切った冬の夜の月、見る者の心を鋭く突き刺す光。
 これが、クレドールの《柱の人》エルヴィン・メルファウスと、ルキアンの出会いであった。
 少女は、聞き手のことなど意識していない様子で、何かに憑かれたようにつぶやき始めた。
「天の白い騎士の乗り手……」
 エルヴィンの動作は夢遊病者のそれを思わせ、あるいは託宣を告げる巫女の仕草にも似ていた。彼女はルキアンを指さしてゆっくりと語っている。
 機械人形を思わせる笑顔。ルキアンはなぜか背筋に冷たい物を感じた。
 こんなに優しげな少女のほほえみなのに
 子供の頃に見た恐ろしい夢が、脳裏に蘇ったように。
 少女の半開きの口から、予言詩めいた言葉が流れ出る。

   あなたの影がいることを私は知っている。
   でも私には、その影のことが本当は何も分からない。
   あなたは自分の影のことを知っているはずなのに、
   それがどうしてそばにいるのか分からない。
   ずっと前からそばにいたのに。

   もうすぐ、手遅れになるよ。
   もう、手遅れだよ。

   水晶の中の涙は、どれだけの血でも贖えない。
   けれど新しい血で、凍てついた胸を癒そうとするよ、
   すべてが終わるときまで。
   流した血と同じだけの、涙を流しながら……。

 三人の時間は止まっていた。
 周囲の薄暗がりが、いっそう闇に近くなったような気がする。
「えっ?」
 ルキアンは言葉を飲み込んだ。
 どのくらい時が経ったのか、たぶん数秒ほど後のことであったろうが、それはとてつもなく長い沈黙に感じられた。
 たまりかねたカルダインが、息苦しそうに口を開く。
「エルヴィン、やはり少し休んだ方がいい……」
 彼にそっと背中を押されて、エルヴィンもぼんやりと頷いた。
 だが、そのとき異変が起こった。
 突然明かりが消え、ルキアンたちは真っ暗な廊下に取り残されてしまう。

 ◇ ◇

 時を同じくして、艦橋からも全ての光が失われた。
 メイの叫び声が聞こえた。気丈に見える彼女だが、もしかすると暗闇が恐いのかもしれない。
「どういうことよ、なに、何?」
 メイは周囲をやみくもに手探りした。なめらかな織物の感触が指先に伝わる。
 彼女はセシエルの袖をつかみ、身体を寄せた。
「大丈夫、心配ないわ」
 セシエルが落ち着いた声でささやく。
 ゆっくりと深呼吸する音がした。
 それに続いて厳かな声が唱えたのは、ある古代聖典の一節。
「声あり、光は満ちぬ……」
 艦橋の後ろの方にぱっと光が灯った。
 クレヴィスの手のひらの上に、暖かなオレンジ色の炎が揺らめいている。
 一同の間からざわめきが起こった。
 軽く口笛を鳴らしたのはヴェンデイルであろう。
 不安げなクルーたちの顔を、魔法の光がぼんやりと照らした。もっとも、この即席の光源も、わずか十数秒で用済みになってしまったのだが。
 天井の明かりが再びぽっと灯り、少しずつその輝きを強めていく。
「衝突のショックで、一時的に船のどこかの調子がおかしくなったのか?」
 元に戻った光の下で、カムレスがほっと一息付いた。
「びっくりさせるぜ、まったく……いや、これは?!」
 舵輪を手にしたカムレスが、まず異常に気づいた。
 次の瞬間、船体が大きくつんのめったような動きを取る。
 皆、身体を激しく揺さぶられた。
「どういうことだ?」
 カムレスがクレヴィスの方を見た。
 クレヴィスは無言のまま、手振りでヴェンデイルに指示する。
 しばらく複眼鏡に全神経を集中していたヴェンデイル。
「みんな。窓の外……見えてるよね」
 彼の声は少し震えている。

 眩いばかりに、煌々と降り注ぐ太陽の光……。
 青空は美しくも、しかし不自然なほどに雲ひとつなく晴れ渡っている。

 メイは大きな音で息を飲み込んだきり、言葉を失った。
 彼女はまず目を疑い、自らの視覚に問題がないことを何度も確認すると、今度はこの世界自体の現実性さえも疑った。これは夢でないかと。しかも、たちの悪い、とびきりの悪夢ではないのかと。
 つい今まで眼前に広がっていた暗闇が、抜けるような青一色の背景と真昼の輝きによって、もはや完全に塗りつぶされているのである。
 他のメンバーも慌てて窓に駆け寄った。
 そんな中でクレヴィスひとりだけが、予定でもしていたかのように、平然とつぶやいた。
「そうですか。そういう、ことですか……」
 クレヴィスの視線が、セシエルの傍らに据えられている星振儀に注がれる。激しい回転を繰り返していたはずの球の動きが、いつの間にか安定し、ゆっくりとした一定の速さを維持しながら、時計回りに自転している。

 ◇ ◇

「今晩はやけに冷えるぜ」
「まったくだ。また冬に戻っちまうんじゃねぇか?」
 厚い毛皮のコートを羽織った歩哨が2人、季節外れの寒さに肩を震わせながら、闇に包まれた陣地の周囲を巡回している。
 風もない夜。肌を突き刺す寒気が、体の奥底まで静かにしみ通っていく。もう春たけなわだというのに、その晩はひどく冷え込んでいた。
「不気味な月だな……」
 兵士の一方が夜空を見上げ、冗談めかしていった。
「こんな青い月の日にゃ、悪い妖精や魔物がうろつくって話だ」
 他方の兵士が、力の抜けた顔で笑った。寒さも手伝ってか、ぞくりと背中を震わせながら。
「はは。馬鹿言うなよ。いまどきそんなことが……」
「わからねぇぞ。俺の田舎じゃ、今でも時々いるんだ。青い月の晩に、妖精にたぶらかされて……パラミシオンに迷い込んで二度と帰って来なくなるヤツが」
「おどかすなって。縁起でもない」
 そんな話をしていると、周囲の様子がなにやら異様に見え始めた。
 石壁や土嚢の後ろでは、ぼんやりと光る妖精が、何か悪さをしようとしてこちらの様子をうかがっていそうに思えた。陣地わきに置かれているアルマ・ヴィオの異形の影が、今にも魔物と化して襲いかかってきそうにも感じられた。
 歩哨たちは顔を見合わせ、足早になって詰め所に戻ろうとする。
「早く帰って一杯やろうぜ。俺、気味が悪くなってきた」
「そっちが言い出したんだろうが。くわばらくわばら……」

 月の明かりが不意にかげりを帯びたような気がしたのは、その時だった。
 黒い何かが地上に向かって舞い降りてくる。
 その姿は見る見るうちに大きくなっていった。
 夜の深い闇の中、いっそう濃い漆黒の影が上空に浮かんでいる。
 黒光りする刺々しい鋼板に身を固め、その背中にはコウモリのそれを思わせる巨大な翼、そして蛇のような長い尾を不気味に揺らめかせる様は――地獄から現れ出た巨大な妖魔の騎士そのものである。
「あ、あれは?!」
 兵士が悲鳴を上げる。
 身も凍るような雄叫びが闇を引き裂いた。
 それと同時に天空から激しい雷光が一閃、大地を貫き、生き物のごとく地面を縦横に走り、暴れ狂った。輝く光の帯がうねり、地面が裂け、木々が燃え上がる。兵舎や砲台を巻き込み、行く手に存在するいかなる物をもたちまち切り裂き、焼き払っていく。
「敵襲だ!!」
 歩哨がそう叫んだときには、すでに周囲は火の海と化していた。
 寝込みを襲われた兵士たちは、慌ててそれぞれの持ち場に着こうと、取る物もとりあえず、銃を担いで右往左往している。
 陣地に据え付けられたマギオ・スクロープが上空に向けられ、迎撃のために多数のアルマ・ヴィオが飛び立つ。
 しかし時はすでに遅かった。
 刹那、凶暴な破壊の嵐が全てを飲み込んだのである。
 火焔と閃光が大地を覆い尽くし、凄まじい爆風が、陣地に立ち並ぶ建物を木の葉のように吹き飛ばす。石造りの壁でさえ、あまりの高熱のためにその表面がガラス状になって溶解している。
 おそらく付近一帯の街や村の人々は、空が真昼のように明るくなったのを感じて、何事かと騒ぎ立てたに違いない。
 それは一瞬の悪夢だった。反乱軍の本拠ベレナ市を包囲する、オーリウム正規軍の陣地のいくつかが、数多くの兵や砲台、アルマ・ヴィオとともに完全に消え去ったのだ……。

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