HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第6話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  「満足ですか? これが、あなた方の望んだ世界です」
    滅びの前にそう問いかけることができたのは
      最も幸うすい人たちと、最も心の賢い人たちだけでした。



 クレドールの艦橋は緊迫した空気に包まれていた。
 こうしている間にも、頑強な魔の蔓草(つるくさ)は船体にますます強く絡みつき、翼をもぎ取って地に引きずり落とそうとする。
 もちろん、いくら化け物じみた相手だとはいえ、魔法金属の複合装甲を持つクレドールが植物の力程度で破損することはあり得ないだろう。
 それでも中に乗っている者としては、薄気味悪くて仕方がなかった。少なくとも船の自由を封じられているのだから、焦眉の急であるには違いない。
 だが真に恐るべきはこの異空間そのものだった。クレヴィスの言葉がそれを物語る。
「いま私たちがいる空間、夢影界《パラミシオン》はいわば時の止まった国なのです。いや、時間は確かに流れているのですが、我々の住む現実界《ファイノーミア》に比べて極端に遅いのです」
 彼は、自分の座席に取り付けられた妙な機械を指し示す。その装置には大きな時計が埋め込まれていた。
「これは《霊子時計》です。《霊子》とは簡単に言えば、四大元素(火・風・水・土)を支えるさらに根源的な《無》を、あくまで理論の上で分割した結果、仮想される最小単位のことです。自らは無でありながらも、すべての《有》を有たらしめるものです。霊子はいかなる空間にあっても、いや、正しくは、《あると同時に、ない》のですが……」
 そこでバーンが、ルキアンに小声で尋ねる。
「あるのに、ない? わけわかんないぜ。結局、魔法の理屈なのか?」
「はい。霊子原理はとても難しくて、僕も詳しいことは分かりません」
 情けない顔でにやつくバーンを見て、ルキアンも愛想笑いをした。
 確かにクレヴィスはできる限り簡単に説明しているのだが、それでもクルーの大半にとっては、何が何だかさっぱり分からない。
 ――カルバ先生の話をもっとまじめに聞いておけばよかった。先生……。
 ルキアンは師のことをふと思い出して胸を痛めた。
「いつものことだ。結論だけ分かればいい。難しい話はあいつに任せておけ」
 カルダインは悠々と煙草に火をつけ、誰に言うともなくつぶやいた。
 ざわめきの中でクレヴィスの声がさらに響く。
「ともかく霊子は、論理学の根本原則(「有るものは有らぬものではない」)をも超越するのであり、特定の空間における時間に左右されないという特性をもっています。霊子のこの性質を利用することによって、旧世界の技術は、いかなる空間でも同じ時を刻む時計、すなわち霊子時計を作り上げました。その内部構造は、今日の衰退した魔法科学の水準ではもはや解明できませんが……まぁ、そんな理屈はこの際どうでもよいことで、《要するに霊子時計を使えば、パラミシオンにおいてさえ、私たちの世界との時間のずれを測定することができる》のです」
 ベルセアが気取った手振りを交えて尋ねる。
「結局……その、なんだ……俺たちが今こうしている間に元の世界で何時間たったか、ってことが分かるわけだよな? そりゃ便利だ」
「えぇ、ベルセア、ご名答です。私が計算したところでは……この空間で5分経つ間に、ファイノーミアでは1時間経過しているはずですよ」
 さきほどクレヴィスが懐中時計と霊子時計を見比べて何か調べていたのは、その計算のためだったらしい。彼はあっさりと言ってのけたが、ブリッジの面々の間からどよめきが起こったのは勿論である。
「5分……ということは、少し居眠りしている間に半日すぎてしまうのかい? クレヴィー、急がないと、オーリウムがなくなってるかもしれないよ。いや、弟や妹が俺より年上になってたら、こりゃ大変だ」
 ヴェンディルがわざとお茶らけた口振りで言ったが、およそ冗談にはなっていない。顔つきがあまりに真剣だ。
 仲間たちの動揺をなだめるかのごとく、よく通る声でカルダインが言った。
「心配ない。俺も過去に何度かパラミシオンを通ったことがあるが、入る時とは違って出るのは簡単だ。なぁ、クレヴィス」
「そうです。入るに難く、出るに易し。パラミシオンとファイノーミアとを区切っているのは、いわば一方通行の壁のようなものです。この付近で霊気の乱れが激しいところを適当に探せば、そこから簡単にファイノーミアに抜けられます。ほら、その証拠に……本来パラミシオンにしかいないはずの妖精や魔物が、たまに私たちの世界でも見かけられるでしょう? パラミシオンからファイノーミアへと彼らが偶然に抜け出してくることが、頻繁に起こるせいです。ですから……」
 そしてクレヴィスは、いつもの決め言葉でまとめた。
「まぁ、なんとかなりますよ」
 彼の言葉に無言でうなずきながら、カルダインは艦長席に腰を落ち着けた。
 それを見てクルーたちも急いで配置につく。《5分が1時間》と聞いたばかりなだけに、みな必死だった。
 カルダインはクレヴィスと何か手短に打ち合わせした後、指揮を取り始める。
「セシエル、至急、《星振儀》で空間の歪みを調べて報告。それからカムレス、エクターチームがあの巨大植物を切り払ったら、全力で離脱だ。その後はセシエルの指示に従って舵を頼む。エルヴィン、《柱の部屋》に戻ってクレドールに力を貸してくれ。疲れているのにすまないな」
 カリスマがあると言うべきなのだろう。カルダインが艦長の椅子に座っているだけでも、ブリッジ全体に力がみなぎり、乗組員たちの表情に気合いが入ったような気がする。
 いや、正しくは……副長クレヴィスの冷静で緻密な判断と、艦長カルダインの懐の深い貫禄とが補い合って一体となることにより、仲間たちの絶大な信頼を得ているのである。
「クレヴィー、俺たちはいつでも出動できるぜ」
 バーンとベルセアは、そう言いつつすでに艦橋の出口に向かっている。
 クレヴィスはにっこり微笑んだ。
「それでは、今すぐお願いします。ベルセアは《リュコスで》地面に降下し、マギオ・スクロープを使って植物の根付近を凍結させてください。さきほどノエルに言って、バーンの《アトレイオス》にも《マギオ・グレネード》(呪文を詰めた手投げ弾)を準備させました。ただしこちらは火炎弾ですから、できれば使わないように。草原や森に燃え広がっては困ります」
「あぁ、MTソードでぶった斬ってやるよ。まかせてくれ」
 バーンは大げさに手を振って、先に格納庫に向かったベルセアを追う。
 カルダインが船の指揮を執る一方で、クレヴィスはアルマ・ヴィオを次々に手配する。
「ここでは何が起こるか分かりません。私もメイの代わりに《ラピオ・アヴィス》を出して、空から警戒にあたります。カル、かまいませんね?」
 クレヴィスも自ら出動しようとしている。と、彼は何か思い出したという顔つきで、艦橋の真ん中あたりを見た。
 ひとりだけぽつんと立っている少年がいる。ルキアンだった。即座に臨戦態勢に入ったクルーたちの手際の良さを、呆気にとられて眺めているばかりである。
「ルキアン君、もしよかったら私と一緒に来てください。あなたのアルマ・ヴィオにも待機しておいてもらえると、非常に心強いのですが」
 クレヴィスの話がよく聞こえなかったので、ルキアンは、《僕ですか?》というふうに自分の顔を指さした。出口のところでクレヴィスがうなずいている。
 ルキアンは少し迷ったが、とりあえず格納庫まで行こうと決めた。眼鏡の位置を直し、胸元のクラヴァットを軽く絞める。
 だが2人が艦橋から離れようとしたとき、セシエルが待ったをかけた。
「クレヴィス副長、いまベルセアのリュコスから念信が入りました。少しお待ちください」
 早くも地面に降り立ったベルセアだが、何かあったのだろうか。
 セシエルは真剣な面差しで目を閉じ、深呼吸した。そしてほっそりとした掌を、座席のコンソールにある水晶玉に当てる。彼女の心の中にベルセアの《声》がぽつりと浮かんだ。
 ――セシエルか。近くの丘の向こうに妙な建物を見つけた。どうしてここに、あんなものがあるんだ? たぶんヴェンの《複眼鏡》からは死角になっていて見えないと思うが。
 ――建物? もう少し詳しく報告してくれないかしら。
 ――了解。ちょっと待ってな。
 ベルセアはイメージの中で己の目に意識を集中する。
 それに応じて、彼の操るアルマ・ヴィオ、リュコスの魔法眼が大きく開かれる。鋼板自体の色を生かした冷たい銀の肌を持つ狼は、煌々と降り注ぐ光に輝いていた。
 ――セシエル、なんだか変な形の塔だ。《四角くて屋根がない》ぜ。不格好だな。《得体の知れない灰白色の岩》でできている。もう少し近づかないと分からないが、高さは7階、いや8階建てかな? 《壁面には窓がたくさんある》。俺はよく知らないけど、ひょっとすると《旧世界の遺跡》かもしれん。考古学には詳しいか?
 ――悪いけど、あまり関心がないわね。その手の事には副長かルティーニさんが詳しいはずよ。ちょうど副長がそこにいるし、伝えておくから。
 ――わかった。時間がないんで、俺たちはさっそく樹のお化けを退治にかかる。もし必要なら、あとはクレヴィーたちに任せよう。じゃあな。
 ベルセアからの念信はそこで終わった。
 セシエルは手元のメモを携えて、クレヴィスに報告する。
 副長はとても興味深げに目を輝かせた。
「おや、これは……」
「何? あなたがそんなに喜んでいるところをみると、やっぱり遺跡なのかしら」
「そうです。しかもベルセアの話からして、かなり良好な保存状態らしいですね。《旧世界の謎》と……あるいは《パラミシオンの本当の姿》についても何か情報を得られるかもしれません」
 いつもは感情をほとんど見せないクレヴィスが、いやに夢中になっている。
 飛空艦の副長とはいえ、根は学者肌なのだろう。
「ちょっと、クレヴィー! まさか、こんな一刻を争うときに遺跡探検なんて言わないでしょうね?」
 セシエルはクレヴィスの袖を引っ張った。しかし彼の顔には、その《まさか》です、とはっきり書いてある。
「止めても無駄だ。行かせてやれ、セシエル。新しいアルマ・ヴィオの技術でも見つかったら、思わぬ拾い物だ」
 カルダインの声。クレヴィスの性格をよく知っている彼は苦笑している。
「クレヴィス、バーンたちの作業が終わって船が自由になる頃までには、帰って来い。30分……いや、それではあまりに時間が足らないか。許される限り待つとして、クレドールが空間の出口を探し終わるまでだ。そうだな、半日、つまりこの世界で言えば1時間待ってやる。それ以上はだめだ。危険を冒してパルジナスを越えた意味がなくなるからな。間に合わなければ置いていくぞ。気をつけて行けよ」
 セシエルはあきれ顔で席に戻った。黙って黒髪をかき上げた後、目の前にある制御卓に気持ちを集中する。彼女にとっては、さしあたり役に立ちそうもない旧世界の忘れ形見などよりも、計器類の一挙一動の方がよほど大切だった。
 クレヴィスは胸に手を当てながら、恭しくカルダインに頭を下げた。
「ラピオ・アヴィスを借ります。それから、誰か文献学や古典語に強い人間を連れていきたいのですが。面白い記録が見つかるかもしれません。私は魔法に関する文書以外については、まったく素人ですから」
「それならクレヴィー、シャリオさんが時々わけのわかんない本を読んでるよ。あの人は神官だろ、古典語ならお手の物だと思うな」
 複眼鏡で周囲の監視を続けていたヴェンデイルが言う。
「そうですね。もしメイの様子に問題がなければ……メルクール女史、いや、シャリオさんの手を借りてもよいかもしれません。ルティーニも何かと役に立ちそうです。とりあえず彼は戦闘要員ではないですから、いま連れ出してもかまわないでしょう、カル?」
 こうなっては艦長にも止められない。カルダインは渋々うなずいた。
「無事、時間内に戻ってくるんだ。ふふ、お前はともかく、シャリオさんをこんなところに置いていくと、誰か病気にでもなったとき大変だからな。それにルティーニもいないと、クレドールの財布が管理できなくなっちまう。万一、非常事態が起こったときにはすぐ知らせろ」
 クレヴィスは満面の笑みを浮かべた。毎日のように寝食を共にしていたとしても、彼のこんな顔は滅多に見られるものではない。
 彼は嬉々としてルキアンにも声をかける。
「ルキアン君。ということで……4人が遺跡に向かうためには、アルマ・ヴィオがもう1体必要なのです。予定を変更して、遺跡に御同行願えませんか?」
 ルキアンも戦いのために出動するのは嫌だったが、遺跡調査なら多少は歓迎というところだ。
「わかりました。旧世界の文化や技術には僕も興味があります。アルフェリオンのことも何か分かるとよいのですが」
「決まりですね。わがままを言って申し訳ありません。ではカムレス、セシー、2人ともクレドールとカルをよろしく頼みます」

 ◇ ◆ ◇

 夏の終わりの思い出は、遠いセピアの絵の中に。
 ――魔道士カルバ・ディ・ラシィエンのもとにルキアンが弟子入りした年、彼と兄弟子のヴィエリオ、そしてカルバの娘ソーナとメルカの4人で、コルダーユ郊外の海岸に出かけたことがあった。
 研究所のある風車の丘から、町外れへと続く狭い路地を降りていくと、次第にはっきりとした潮の香りが漂ってくる。
 坂の多いコルダーユの街。肩を寄せ合うようにして急な斜面に立つ白い家々。それらの間を抜ければ、洋々と広がる内湾、レマール海が視界を圧倒する。

 おかしな即興の歌を口ずさみながら、メルカがスキップで歩いている。
 彼女はくるりと振り返った。
「ねぇねぇ、ルキアン。遠くに山が見えるよ」
「ほんとだ。今日はいい天気だからね」
 サルビアブルーの大きな帽子。ひさしをやや上にずらして、ルキアンも目を凝らしてみた。
 よく晴れた日には、海の向こうに対岸のタロス共和国を望むことができる。水平線上に見え隠れする薄青いその陸地は、かつて革命の戦火に包まれたが、今では一応の平穏を取り戻していた。
 詩人や画家たちに格好の題材を提供してきた入り江の風景からは、何度見ても新しい感銘を受ける。
 ――綺麗だ。あの海の彼方で沢山の人たちが死んでいったなんて、とても思えないよ。人は、なぜ……。
 いつしかルキアンは歩くのも忘れて感慨に耽っていた。
 白日の夢。まどろみの向こうで誰かの声がしたような気がする。
「ルキアン、置いてっちゃうわよ!」
 我に返った彼がふと顔を上げてみると、逆光の中にひとつの影があった。
 藤色のボンネットを被って、日傘を差したソーナの姿……薄物のドレスと柔らかな髪が涼しげに揺れていた。
 風の中で立ち止まったルキアン。
 その時、濃い紫のフロックが彼の目の前でひるがえった。
 もうひとつの影がソーナの手を静かに取る。
「ルキアンはなかなかのロマンティストだからな。でもあまりゆっくりしていると日が暮れてしまう。さぁ、行こうか」
 深夜の空を思わせる藍の長髪をなびかせ、その男は微笑んだ。切れ長の目の中で、栗色の瞳はいつもの心地よい憂鬱を忘れて輝いていた。
「えぇ、ヴィエリオ」
 隣で彼の顔を見上げるソーナも本当に幸せそうな表情だった。

 ルキアンは帽子の縁を元通りに降ろして、うつむき加減で歩き始める。
 表現しがたい気持ちが彼の中に生まれた。それが嫉妬という感情であることを素直に認められるほどには、その頃の彼は年を重ねていなかった。

 海風が強くなった。潮のざわめく音が聞こえてくる。
「ルキアンったら。何してるの?」
 ソーナの声が遠くなったように感じた。
 目を閉じて、また開いてみた……。

 ◇ ◇

 彼の瞳にはソーナの姿はもうなかった。そしてヴィエリオも、メルカも。
 代わりに別の3つの影が見える。
「大変な1日でしたからね。少し眠くなっていましたか?」
「あ、あれ? クレヴィスさん……」
「はい。お待たせしました。2人を呼んできましたよ」
 縁なしの小作りな眼鏡の奥で、クレヴィスの目が輝いた。彼の温かな表情が、なぜか今のルキアンには嬉しく思えた。
 薄暗い。がらんとした空間、高い天井――クレドールの格納庫だった。
 背中のひんやりとした感触はアルマ・ヴィオの外装である。アルフェリオン・ノヴィーアの足元に座り込み、ルキアンはしばらく居眠りしてしまっていたようだ。
 クレヴィスの隣にいる2人のうち、まず白の僧衣をまとった女性がルキアンに手を差し出した。
 遠慮がちに伸ばされたルキアンの手。それをそっと握り返す指から、優しい体温が彼に伝わってくる。
「はじめまして。シャリオ・ディ・メルクールと申します。この船の医師です」
「シャリオさんは、あなたのアルマ・ヴィオの方で頼みます」
 クレヴィスがそう言うと、ルキアンは戸惑いの表情を見せる。
「え、僕がですか? あの……あんまり、人を乗せたことはないんですけど」
「大丈夫ですよ。少々のことでは、私は壊れたりしませんから」
 シャリオが目を細める。成熟した年齢にしては、可愛らしい印象さえ与える笑顔だった。
「……分かりました」
 状況から考えてとても断れそうにないので、ルキアンはちょっとした覚悟を決めなければならなかった。
 緊張で頬をうっすら染めたルキアンに、もうひとりの人物が握手を求める。その知性の高さを想起させるとても広い額を持つ男である。鋭い目つきの割には、言葉の調子の中に屈託のない空気が漂う。淡い柿色のチェックのフロックも、彼の堅いイメージを和らげるために一役買っていた。
「会えて光栄ですよ。クレドールの財務長、ルティーニ・ラインマイルです。よろしく」
 正式にいえばルティーニは船の財務・法務顧問である。クレヴィスよりも少し若いぐらいに見えるが、おそらく以前にも宮廷かどこかで顧問官の仕事をしていたのかもしれない。
「慌ただしくて申し訳ないのですが、私たちに与えられた時間は限られています。さっそく出発しましょうか。ルティーニは私と一緒にどうぞ。それからルキアン君、その……アルフェリオンを、こちらのアルマ・ヴィオの上に乗せてください。メイにしてもらった時と同じようにね」
 クレヴィスが茶色いクロークを翻した。薄暗がりの中で翼を休める巨体に向かって、彼は歩き始めている。そう、ラピオ・アヴィスの方へ。
 ルキアンもコックピット、すなわち《ケーラ》に入ろうとしている。彼の動きは、慣れない仕事のためにやや堅くなっているだけではなく、張りつめた心と相矛盾するような、ぼんやりとした気だるさをも漂わせていた。
 それを細やかに感じ取ったシャリオは、彼の背中を見つめ、ひとりつぶやく。
「ひょっとすると、哀しい……いいえ、寂しい夢。メイも同じようなことを言っていましたけれど」
 アルフェリオンの背中に登ると、ハッチの手前でルキアンは下を見た。
 四角い神官帽を被ったシャリオが手を振っている。
 思ったよりも気さくな女性だと感じつつ、ルキアンも応える。
「シャリオさん、今から乗用室を開きます。少し狭いですけど、ごめんなさい」
 そう伝えて、ルキアンの姿がハッチの中に消えたとき、格納庫の奥の方から誰かが大声で言った。
「おーい、副長! ラピオ・アヴィスの《ネビュラ》を簡単に調整しておいた。メイちゃんが全然使っとらんものだから、調子は完全には保証できんぞ−っ!」
 アルマ・ヴィオ整備用の道具を持って、口ひげを生やした男が叫んでいた。陽気で恰幅の良い中年だ。赤茶色の髪の天頂部が禿げ上がっている。クレドールの技師長、ガダック・マルテルである。
 彼の隣では、対照的に華奢なノエルが手を振っていた。
「気をつけてね、クレヴィー! 役に立つもの、見つかるといいねーっ!!」
 クレヴィスはラピオ・アヴィスの脇にあるステップを登っていたが、彼らの声を聞いて振り向いた。そしてゆっくり黙礼する。

 ◇ ◇

 デュガイス・ワトーとの会談を終え、マクスロウ少将はギルド本部の中央棟を後にしていた。
 すでに日は高く昇り、少し汗ばむほどの陽気である。彼はコートを脱ぐと右肩に引っ掛けた。
 隣を歩くエレインは、茶色い紙袋を大儀そうに抱えている。今回の話し合いの成果、おそらくは協定書の類がその中に入っているのだろう。
「少将、無事に終わったようですね。これで《作戦》も予定通りに……」
 マクスロウは無言のまま振り返って、背後のギルド本部を眺めていた。
 広大な敷地内に立ち並ぶ館。それらを取り囲み、縦横に走る石造りの稜堡。地面に影を投げかける円形塔の数々は、何層にも重砲を配したいわゆる《垂直要塞》と呼ばれる形式のものだった。
 この大がかりな施設の隣にある、アラム川沿いの整地された土地――そこはギルドのアルマ・ヴィオ発着場のひとつだが――を2人は進んでいる。だだっ広い草むらの向こうに、彼らが乗ってきたアルマ・ヴィオの姿が見える。
「そう、少なくとも表面的にはな」
 しばらくしてマクスロウは無機質な声で言った。表情や動作の変化をこれといって見せることもなく、彼は歩き続ける。知らない者が見たら冷ややかな受け答えだと思うかもしれないが、それが彼のいつもの口振りだった。
 淡々とした調子でマクスロウは続ける。
「ギルドの実力自体は確かに《信頼》に値する。どこまで彼らを《信用》できるかは、また別問題だとしてもだ。まぁ、それは向こうにしても同じかもしれん」
 エレインがうなずいた。
「あのデュガイスという男は、腹蔵のない人間であるように見えましたが。しかし実際に戦争に参加するとなれば、賞金稼ぎや冒険者の寄せ集めが、はたして一枚岩の行動をとるかどうか怪しいものです」
「かもしれんな。最悪、ギルドのエクターたちが、金を積まれて傭兵として反乱軍になびかないよう、それだけでもグランド・マスターが抑えてくれたらよいのだけれども。だが作戦に関わる根深い問題は、もっと別なところに……」
 マクスロウの目が不意に光を帯びる。
「さきほどグランド・マスターには敢えて言わなかったが、最近の《国王軍》の動きには、もう少し注意してかかる必要があるということだ」
「と、申しますと?」
「何を考えているのか、王都近郊に集結したまま動きを見せない。皮肉な見方をすれば、自分たちの損失を最小限に抑えて、我々議会軍だけを反乱軍に差し向けようと望んでいるふしもある」
 エレインが怪訝な顔をした。少なくとも形式上の統治者である国王の軍隊が、王国存亡の危機に際しても動かないなどとは……。
「高みの見物というわけですか。ですが、反乱軍が早く鎮圧されなければ、この国自体が危なくなります。王家もそれは承知のはずでは?」
「王や宮廷の見解など取るに足らん。国王軍の意志を決定しているのは、むしろ軍の体質それ自体なのだ。あの時代がかった騎士たちは、見栄や体面のことしか頭にない。もしこの戦いで議会軍が著しく疲弊することにでもなれば……逆に温存されたままの自分たちの軍隊が、市民の軍に対して今のように小さな顔をしなくて済むようになるからな。勢力逆転というわけだ。大方そんなところだろう」
「それだけのために?」
「半分は冗談で言ったつもりだが、本当にそれだけのためかもしれん……」
 歩いているうちに、2人はアルマ・ヴィオの近くまで来た。飛行型7体と《アートル・メラン》1体、見知らぬ機体がひとつという、朝方にネレイ上空で見られた組み合わせである。
 それらの黒い影の足元では、一列に並んだ機装兵団のエクターたちが、遠くからマクスロウに敬礼している。
 マクスロウは再び話を続けた。
「ギルドが味方するとなれば、国王軍はますます議会軍に手を貸そうとしなくなるだろう。彼らはギルドを目の敵にしている。要するに《高貴な》自分たちよりも、たかが賞金稼ぎの方が名声を得ているなど許せん、とでも思っているのだ。例えばの話、さきほどグランド・マスターの隣にいたカリオス・ティエント……彼は、《パラス・テンプルナイツ》つまり王家の切り札《パラス機装騎士団》の面々にも匹敵する腕の持ち主だと、世間で評判だ。ところがこのカリオスは、元々、パラス騎士団入りを志願していたらしい。だが何年も前に、当のナイツの方は、カリオスの実力など取るに足らないとして拒否した」
 エレインが微かに笑みを浮かべた。口元だけがほんの僅かな動きを見せる。
「つまりそのカリオスが、今に及んで自分たちに勝ると言われているものだから、パラス騎士団の方々や、国王軍のお偉方は内心穏やかではない、と?」
「そういうことだ。まぁ、カリオスの件は、豚に真珠だったのかもしれんがな」
 何かくだらない物を見る時のような目で、マクスロウは一笑に付した。

 ◇ ◇

 鋼の肉食獣・リュコスの鋭い牙は、大鹿に食らいつく狼さながらに、自分よりも遙かに巨大な陸戦型重アルマ・ヴィオの装甲を貫くことができる。だがその破壊力をもってさえ、ベルセアは例の《植物》を相手に予想外の面倒を強いられていた。
 何しろ飛空艦クラスの餌を捕食できるほどの図体だ。たった1株といっても、根本付近の広がりは、小さな森ひとつに匹敵する繁茂ぶりをみせていた。
 黒茶色の樹皮も異様なまでに強固で、他方では高度な柔軟性をも兼ね備えているために、そう易々と片づく代物ではない。
 いい加減に嫌気がさして、凍結呪文を封じた魔法弾で一掃しようかとベルセアが考え始めたとき、バーンから彼に念信が入った。
 ――おい、ありゃあ、どういうことだよ? メイのやつ、一眠りするとか言ってたくせに、また今度は何をしようってんだ。
 バーンとベルセアが悪戦苦闘している地表の上空を……ラピオ・アヴィスが飛び去っていく。それに乗ったアルフェリオンの姿も見える。
 先程のセシエルとのやり取りから考えて、ベルセアには大方の事情を察することができた。
 ――いや、バーン、ラピオ・アヴィスを動かしているのは、メイじゃなくて多分クレヴィス副長だ。
 ――そりゃ妙だな。どうして分かるんだよ?
 ――あぁ、お前にはまだ言ってなかったな。ついさっき、ここから少し離れたところに遺跡らしき物を見つけたのさ。リュコスは目がいいからな。それで艦橋の方へ連絡しておいたんだけど……たぶん、あの手のことに目ざとい副長が、セシエルから聞いて調査に向かったんだと思うぜ。それにメイを除いて、ラピオ・アヴィスに上手く乗れる人間なんて、副長以外にはクレドールにいないだろ?
 ――まぁな。そうか……遺跡ねぇ。そりゃ副長が喜びそうだ。新しいアルマ・ヴィオでも拾えるかもしれないしな。
 事の流れを今ひとつ飲み込めていないバーン。しかし今は目前の大仕事を片づけるのが先決だとばかりに、彼は取りあえず頭の中で話を曖昧に組み立て、それで満足する。
 そうこうしている間にも、ラピオ・アヴィスの赤い翼は小さくなり、緑なす丘陵の向こうにやがて姿を消した。

 ◇

 草の穂そよぐ波頭を後に残しながら、緑の海を風が渡っていく。
 季節を知らない真昼の太陽のもと、何物にも遮られることなく、
 空の精たちは気ままに雲と戯れていることだろう。
 時に忘れられた王国の中で、全ては神の創り給うたままであった。
 だが、たったひとつ、果てなき草原に滲んだ黒い染みのように
 ――人の手による建物が、不気味な静寂を守ってそびえていた。

 ルキアン、クレヴィス、シャリオ、ルティーニの4人は、《塔》の近くでアルマ・ヴィオを降りた後、上空から見た印象よりも遙かに草深い野原を進み、その古き建造物の真下に辿り着いた。
「ふぅ。少し歩いただけなのに汗が出てきました。おまけに草の種や藪の小枝がくっついて、服が大変なことになりましたね」
 フロックの裾を手ではたきながら、ルティーニが愚痴っている。襟元に巻いた青紫のクラヴァットを彼は若干ゆるめた。
「えぇ、本当ですこと。最初から分かっていれば、もっと歩きやすい格好をしてきましたのに。わたくし、何だか先ほどまで上着が重く感じられて」
 比較的薄手の物だとはいえ、長衣を何枚も重ね着しているシャリオの方は、恐らくもっと大変だったろう。それでも彼女は息を多少荒らげている程度で、いつもの端正な様子を保っていた。いや、よく見ると普段より、どことなく嬉しそうな目をしているようにも……。
 ルキアンはクレヴィスと並んで塔を眺めていた。
 8階建ての四角い建物は、風化していないのは勿論のこと、窓にはめ込まれたガラスが所々割れている点をのぞけば、見事に原型をとどめていた。
「間違いありませんね。これは旧世界の建築物です。しかも、典型的な旧陽暦1千年代末期の様式ですね。ここまで完全な形で残っているとは……」
 的を射たりという表情で、クレヴィスがつぶやく。
 ルキアンは息を飲んで眺めるばかりだった。
 彼自身、以前に師の調査旅行のお供をして旧世界の遺跡を巡った経験がある。つまりファイノーミアにおいても同様の遺跡が見られるのだが、それらの大半は、この塔と比べると遙かに損傷がひどい。時には倒壊の危険のため、中に入るのを断念しなければならないことすら珍しくない。
 異様なほどに新しい建物を前にして、ルキアンはじっと腕組みしている。
「本当に信じられません。これが旧世界の時代からあったなんて……まるで、つい最近まで人が住んでいたように見えます。時間の流れ方が違うせいで、老朽化が進むのも遅いのでしょうか?」
「そうですね。あるいは空気の質や気象条件の違いも影響しているかもしれません。それにこの建物は、煉瓦や木よりも丈夫な材料でできていますから」
 そう言うとクレヴィスは、にこやかに、ただし慎重な足取りで塔の間際に歩み寄る。
 彼は灰白色の壁に軽く触れた。
「ほら、あなたも多分ご存じと思いますが……これが《クリエトの石》です。旧世界の建物、とりわけ《塔》は一般にこの材質で出来ています。ただし石といっても、最初から塊になっているわけではないのですよ。知り合いの学者によれば、おそらく石灰岩の粉と細かい砂利等を混ぜたものらしく、それを何らかの液体で溶いて型に流し入れ、望む形に仕上げるそうですが。……いや、今日は土木技術を調べに来たわけではありません。こんなところで油を売っている余裕はないですね」
「クレヴィス副長、急ぎましょう。しかし入口が開かないですよ。扉の向こうはホールになっているみたいですが、たぶん内側から鍵が掛けられているのでしょう」
 ルティーニの返事。いつの間にか彼は玄関付近の外壁を探っていた。財務顧問というわりには、土木建築にも意外に強そうな様子である。
「副長の今のお話にもあった通り、最近、古代の建築に関する研究はめざましく進展していますからね。もうすぐ私たちの時代でも、クリエトの石を使った建物が実用化されるかもしれません」
 人間が横に10名近く並んだまま通れそうなほど、入口は広かった。しかし、枠組み部分を除いてほとんどガラス製の扉は、押しても引いても動く気配がなく、それどころかノブやノッカーすら取り付けられていなかった。往時にはどうやって開閉していたのだろうか。
 あれこれ話し合いながら、クレヴィスとルティーニが玄関前を調べ回っている。
 ルキアンも何か手伝おうと思ったが、ただ闇雲に右へ左へとうろうろし、奇妙な塔を眺めているばかりだった。結局手持ちぶさたのまま、彼は懐中時計を取り出しては時間を気にしている。
 そんなとき……。
「不思議だと思わないですか? ルキアン君」
 彼が振り返って見ると、シャリオが顎を抑えて何事か考え込んでいた。
 やや目が細いというイメージのある彼女が、その両目をぱっちりと開いて、意味深げな表情で言う。
「あなたも子供の頃に、こんなおとぎ話を聞いたことがあるでしょう。神話の時代の《楽園(プロメッソス)》と、その後に続く伝説を……」
 塔の周囲に広がる草原に向かって、シャリオはゆったりと手を広げた。
「遠い昔、この世界はひとつでした。まだ精霊たちは地上に住んでいて、人間も彼らと自由に心を通わせることができました。なぜなら《パンタシア》の力によって、人は……あまねく生き物や大地、空、この世界そのものと、目に見えないところで結ばれていたからです。また、それが可能だったのは、《白きパンタシア》の最も強い源である《夢》が、人々の心にしっかりと根付いていたから。それだけではありません。パンタシアの優しい輝きは、人間以外のあらゆる生命にも……精霊界からの、そして、その写し絵である自然界からの、本来の恵みをもたらしていたと言われています。今日とは比べものにならないほど、世界の秩序は保たれ、すべては美しい予定調和に従って動いていました。この世はまさに楽園《プロメッソス》と呼ばれるにふさわしいものでした」
 光に満ちた世界……失われた楽土への郷愁をあらわにして、ルキアンは遠い地平を見つめる。
 だが想い起こせば、荒んだ気持ちに慣れきって日々を送る人々、矛盾や歪みであふれた世界、そして全てを食らいつくす醜い戦争――彼の心の中では、もうひとりの自分が悲しい目をして、首をそっと左右に振っていた。
「その後、果てしない時が流れ、人の世が続きました。社会は発展し、壮大な文明が築かれ、人間たちはますます豊かになっていきました。しかし……」
 シャリオはそこでしばらく言葉を留めた。
 無言のままに促され、今度はルキアンが語り始める。
 それは彼がよくメルカにも話してやった物語だ。イリュシオーネの者なら、誰でも一度は聞いたことがある。
「しかし自分たちの意志の及ばないところで流れていく、時代の早瀬の中で、人は次第に夢を信じる心を忘れていった。一握りの恵まれた者たちをのぞけば、みんないつの間にか、とりあえず日々の振る舞いを考えるだけで精一杯になってしまって……終わりのない日常の中に夢は埋没し、かき消されざるを得なかった。すると、これに応じて世界に異変が起こり始めた。ゆっくりと、だけど、もはや誰にも止められない形で。この世の調和を保つパンタシアの力が崩れ、人々と世界との結びつきは、あちこちでほころび始めた。精霊たちは徐々に人間たちの前から姿を消し、その代わりに、長い時間をかけて世界の隙間に入り込み、人々の心に消しがたい影を投げかけ始めたのが……《黒きパンタシア》、あるいは《闇》」
 声を震わせたルキアンに、シャリオは黙ってうなずいた。遠い目で、悲しい光を瞳に宿して。
 ルキアンは続ける。
「そして……とうとう、夢を信じることに、とても沢山の人々が疲れ果ててしまったので、世界は本当の姿を保つことができなくなった。プロメッソスの楽園は失われ、《目に見える国》つまり人間の世界は、光と闇との果てしない戦場に変わった。精霊たちも、今では僕たちの魔法に対して僅かに力を貸してくれるだけ。普通ではもう目には見えず、心でしか捉えることができない。こうして生まれたのが、僕たちのいる現実の世界《ファイノーミア》です。他方、本来のパンタシア、つまり白きパンタシアの力は、目に見える世界を逃れ、《虚ろな国》と言われる《パラミシオン》を形づくって別の空間に飛び散った……そして、最後に残った微かな白きパンタシアも、夢のかけらとして、人々の心の奥深く沈んだ。たしか、こんな伝説ですよね?」
 じっと、うつむき加減で言葉を紡いでいたルキアンは、顔を上げてシャリオの方を見る。
 いつの間にか彼女は塔の傍らに腰を落ち着けていた。杖を肩に寄せ掛けて、目を伏せ、前髪をそっと撫でる風の移ろいを楽しんでいる。
「その通りです。しかし、なぜ世界は2つに分かたれなければならなかったのでしょうか。あなたはその話を……信じますか? それとも、まったくの夢物語だと思いますか?」
 シャリオが不意に尋ねた。
 日頃深く考えてみたこともなかったためか、ルキアンは返事に窮する。
「なぜって、それは、今の話にもあった通り……あの、でも……正直なところ、本当のことだとは思えないです。パラミシオンとファイノーミアが最初はひとつだったなんて。それにパンタシアの力は、今でも僕たちの中にちゃんと在るわけですし」
「それじゃあ、この遺跡は……」
 シャリオが何か言いかけたとき、クレヴィスの呼ぶ声がした。
「こっちに来てください。シャリオさん、ルキアン君。貴重な遺跡を傷つけることになって残念ですが、ガラスの扉を壊して中に入るしかなさそうです。入口らしきものは他に見あたりません」
 シャリオの質問の意図するところを、ルキアンはもう少し詳しく知りたかったが、ひとまずここで話が途切れてしまった。

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