HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第12話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  ずっと孤独だった僕らは、遠く離れた夜空の下で……
  いつしか同じ導きの星に、
  それぞれのかき消えそうな夢を重ねていた。
  その思いの強さが僕らをこうして集わせのだ。



「もう寝てしまったようです。可哀想に、疲れが溜まっていたのでしょうね」
 半開きの扉の向こうを、ルキアンがそっとのぞく。
 明かりの消えた部屋には、ベッドで寝息を立てるメルカがいた。
「メルカちゃん、不安で寝付けないのではないかと心配しましたが……」
 シャリオの表情に色濃く影が差していたのは、きっと廊下の薄暗がりのせいだけではないだろう。
「シャリオ先生、後はあたしたちがちゃんと面倒見るから、気にしないでおくれよ。うちの子だと思って可愛がるからさ。ねぇ、あんた」
 ランプを手にした女が、メルカを起こさないように声をひそめて言った。
 50歳前ぐらいだろうか。細身で背の高い、小綺麗な雰囲気を持つ婦人だ。やや骨張った顔つきは若干の神経質さをも感じさせるが、彼女の人懐っこい目は、内にある温かい心を見事に映し出している。
「そうですよ、メルクール先生。このぐらいの手助けしかできず、申し訳ないぐらいです。あなたのような方を戦場に赴かせるなんて……」
 後ろにいた男が遠慮気味につぶやく。
 背の高い妻とは対照的に、小柄で肉付きが良かった。真面目で愛想の良い中年紳士である。彼はギルド本部付きの医師ピューム・エアデン。その妻は、例のフィスカの大先輩にあたるヨハンナだ。
「とんでもありませんわ、エアデン先生。私は独り身で、今は神殿からも距離を置いた気楽な立場です。色々な意味で今回の仕事には適任なのですよ。どうかメルカちゃんのこと、よろしくお願いします」
 シャリオが深々と頭を下げると、ルキアンも慌てて一礼した。
「あらあら、シャリオ先生も、そちらのお若い方も、どうか頭を上げてくださいな。そんな、もったいない」
 恐縮したヨハンナは、肩をすくめて笑っている。
「よろしかったら君も、自分の家だと思ってここにいてください。どうぞ遠慮なさらず」
 ルキアンの方を見て、ピューム医師がうなずいた。
「あ、ありがとうございます。でも、僕……」
「ネレイは素晴らしい街ですよ。景色は綺麗で食べ物も旨い。ギルド本部があるから、治安もずば抜けて良いですし」
「あ、あの、僕、まだ……」
 ルキアンは困惑した顔つきになって言葉を飲み込む。
 そんな彼の様子を後目に、シャリオは妙にそっけない態度で去っていこうとする。
「それでは、わたくし、船の方で仕事がありますので。これで失礼いたします」
「シャリオ先生、せっかくだからもう少しくつろいで……。あらまぁ、仕方がないねぇ。それじゃ先生、あたしが送ってくよ」
「ありがとう。でも大丈夫ですわ。港まで戻るだけですから」
 ヨハンナが引き留めようとする間もなかった。
 足にまとわりつく僧衣の長い裾を、手で楚々と払いながら、シャリオは足早に廊下を歩いていく。
「あ、あ」
 ルキアンが喉に声を絡ませていた。
 独りで決断できない自分が情けない。本当に軟弱者だと思う。
 けれども……。
「あ、あの! 待ってください、僕、まだ、どうしたらいいのか!!」
 彼はいつしか走り出していた。シャリオの後を追って。
 頬はもちろん、首筋まで熱かった。
 傍目には吹き出したくなるほど真っ赤な顔をしているに違いない。
 しかし恥も外聞もなく、彼はさきほど来た道を駆け戻っていく。
 ピュームとヨハンナは、ルキアンとシャリオの背中を、きょとんとしながら目で追うばかりだった。

 ◇ ◇

 ギルドの制空艦アクス、強襲降下艦ラプサーのリーダーたちと共に、カルダインとクレヴィスは明日からの作戦について打ち合わせを行っていた。
 普段はあまり使われることのない、クレドールの作戦室――同艦が恐らく軍に属していたであろう旧世界の時代には、この大袈裟な会議の間で、連日のように議論が交わされていたのかもしれないが。
 クレヴィスは、壁に貼られた大きな図を使って説明する。
「ここまでの話をもう一度まとめると……我々の任務は、第一にナッソス軍の飛空艦隊を撃破し、ミトーニア近郊の制空権を確保することです。第二に、ナッソス城を固める敵軍を空から攻撃・牽制して、ギルド陸上部隊の進撃を支援すること。第三に陸上部隊と連携しながら、敵城塞にアルマ・ヴィオ部隊を降下させ、一気に奪取する。最後の部分は主としてラプサーの役目です。クレドールとアクスはその後方支援にあたることになりますね。もちろんクレドールからもアルマ・ヴィオを出して、敵飛行型の迎撃や対地攻撃に回します」
 彼がそこまで話したとき、40過ぎのいかつい男が、見かけに似合わぬ甲高い声で言った。
「それにしても、議会軍はこんな途方もない話をよく持ち込んできたものだな。ギルドが諸侯の軍と正面から一戦交えるなど、未だかつて例のない話……しかも相手は王国きっての大領主ナッソス公爵家だ」
 額のはげ上がった頭には、縮れ放題の金髪。落ち着きなくニヤケているようでいて、そのくせ読みの深そうな細目。一癖も二癖もありそうな濃い男だ。
 彼がアクスの艦長ダウル・バーラーである。かつては、海賊と貿易商という2つの顔を使い分ける怪しげな冒険商人だったらしい。
「確かに。しかし我々のギルドには、数多くの強力なアルマ・ヴィオと、優秀で経験豊富なエクターたちがいます。旧態依然とした貴族の私兵など、ギルドの実力には到底及ばぬということを、世界に知らしめる良い機会というものですよ。恐らく、あなたもそう考えていらっしゃる通り……」
 クレヴィスが生真面目な顔で大胆な言葉を述べると、バーラーも不敵に目をぎらつかせた。やはり常人にはない迫力がある。
「さすがはクレヴィス、言ってくれるな。実は俺も久々に胸が高鳴ってきやがった。こんなのは、むかしゴロツキをやってた時以来だぜ……いや、失礼、悪い例えだったな。あっはっは」
 高笑いするバーラー艦長。
 その隣には、あたかも絵の中から抜け出してきたかのように、ほぼ体を動かすことなく端整に座ったままの男がいる。アクスの副長、ディガ・ラーナウ・ソル・アレッティンだ。
 どうみてもオーリウム人とは思えぬ名の通り、ディガ・ラーナウは、マナリアという都市国家の貴族出身だった。まだ30代前半だが、変に年寄りじみた落ち着きがある。
 彼は淡々とした表情を崩さず、時折小さな息をしていた。ワイン色のコートと、同系色の裾長のウエストコートが、品良く似合っている。
「まったく、血の気の多い人たちなんだから」
 同じく30代ほどの眼鏡を掛けた女がつぶやく。
 彼女はシソーラ・ラ・フェイン。ラプサーの副長である。乾いた色合いの赤毛には、金色のリボン。柿色のハイウエストのコートに白いショールを巻き、簡素だが整った雰囲気を醸し出している。
「ナッソス家の艦隊は、戦艦すら混じった立派な構えだけど、全体として急場の寄せ集めのようね。近隣の基地から寝返った議会軍の艦船に加えて、公爵家が保有する飛空艦……情報によると、おそらく敵方には旧式の船が多いんじゃないかしら? こちらは数では劣っているにせよ、諸々の結界兵器や方陣収束砲などを備えた船ばかり。数の差は質の差でどうにか埋め合わせれば……」
 見るからに口が達者そうなラ・フェイン副長は、実際よく喋る。
 彼女の発音にはタロス人特有の訛りがはっきりと現れており、時々聞き取りにくいこともあるのだが、そんな些細な問題など本人は全然気にしていない。
 そう、シソーラは旧タロス王国からの亡命貴族なのだ。ちなみに同郷で境遇も似ているメイとは、実の姉妹を思わせるほど仲が良い。
 彼女とクレヴィスがやり取りする間、カルダインは、濃紺のダブルのコートを着た男と小声で話していた。
「うちのメイも相変わらずの元気だが、シソーラも健在だな。しかしタロス貴族のお嬢様連中というのは、ああいう、口から生まれたようなお喋り女ばかりなのか?」
 カルダインのひげ面に、いつもより明るい苦笑いが浮かぶ。
「さぁ、どうですか。ともかく私なんかは尻に敷かれっぱなしで。でもカルダイン、いつも彼女はよくやってくれています。姉御肌というのか……シソーラがエクターたちを上手く仕切ってくれるので、私は安心して飛空艦の方に集中できますよ」
 オールバックの金髪が印象的な、謹厳でこざっぱりとした容姿の男。本当は30代も後半の彼だが、一見しただけでは10歳近くも若く見える。彼がラプサーの艦長、ヴェルナード・ノックスだ。元々は議会海軍の将校だったという。
 それにしても、ディガ・ラーナウやシソーラに限らず、ここにいる面々の出身は様々である。《旧ゼファイアの英雄》カルダインは勿論のこと、バーラー艦長はオーリウム系のガノリス人、またノックス艦長も元オーリウム軍人だとはいえ、某小国からの移民らしい。結局、生粋のオーリウム人はクレヴィスだけしかいない。ギルドの人々の多様性をここからも垣間見ることができる。
 オーリウム人でもない彼らが、どうしてこの国のために命を懸けて戦っているのだろうか? その理由については、彼ら自身も明確には意識していないかもしれない。けれどもカルダインなら、多分こんなふうに答えるだろう。
 ――国だの何だの、知ったことではない。やっと見つけた《自分の居場所》を守るために、俺たちは戦っているだけだ。

 ◇ ◇

「ふぅ、飲んだ飲んだ。やっぱりネレイは落ち着くわねぇ!」
 調子外れの甲高い声が、夜の港にひときわ大きくこだました。
 街の方から3つの人影が近づいてくる。そのうち1人の女が、他の者たちの周りをくるくると回りながら、上機嫌な声ではしゃいでいた。
「酒も魚も旨いのなんのって……あはは! こーらっ、人の話聞けよ!!」
 ふらふらと千鳥足の彼女は、近くにいた大男の腕をひっぱたく。
「いてっ! この酔っぱらいが。メイ、飲み過ぎだぞ!」
 彼は呆れた様子で顔をしかめた。
 そう、騒々しい女はもちろんあのメイ、あとの2人はバーンとフィスカだ。
「メイおねぇさまぁ、そんなに飲んだら体に悪いですよぉ……」
 白衣の上に薄い七分袖のコートを羽織ったフィスカ。相変わらず緊張感のない口調で喋っている。
「だーいじょうぶ。まだまだ飲み足りないってば。セシーやヴェンたちと一緒にもう少し店にいればよかったなぁ。ひっく」
「お前なぁ、ここのところ何度も病人になってるんだから、あんまり無理すんじゃねェよ。うわっ、酒くせぇ!」
 さすがのバーンも処置なしというところである。
 放っておいたら道ばたで寝てしまいそうなメイを支えて、彼とフィスカはクレドールに向かう。
 と、そのとき、バーンが急に立ち止まった。
「おぅ? あれは、もしかして……」
 港から伸びる古い運河沿いの道。その暗がりの奥に目を凝らして、彼は首を傾げている。
「シャリオさん、だよな? 何であんなところにいるんだ」
 フィスカも素っ頓狂な声を上げた。
「あ、本当ですぅ。絶対シャリオ先生ですよぉ。あら、男の人と一緒ですっ。珍しい……あ、そうじゃなくって、シャリオ先生と逢い引きするなんて神罰が当たりますぅ」
「って、お前なぁ……そんなわけネェだろ。でもあの男は誰だ? 若いヤツだな。おいおい、あれはルキアンじゃないか! これまた珍しい組み合わせだぜ。わけありか?」
 バーンはどこか心配そうな表情で、フィスカは興味津々の眼差しで、そっとルキアンたちに近寄っていく。

 ◇

 2つの足音。不安定に駆けていく靴の響きは、ルキアンのものだ。
 彼はシャリオの脇を通り越すと、胸に手を当てて振り返った。
「待って。聞いてください!」
 ルキアンは、荒い息と共に悲痛な声を絞り出したが、シャリオは黙って立ち去ろうとする。暗がりのせいで彼女の表情はよく見えない。
「僕は……ぼ、僕は……」

 近くの茂みの影でフィスカがささやく。
「ぼ、ボクは、ボクハアナタノコトガ……とか、絶対そうですよぉ。ほらほら、状況からして、ルキアン君は、きっと先生に愛の告白をするのですわっ」
「んなバカなことが!」
 つい大声を出しそうになったバーン。彼の口をフィスカが慌てて押さえた。
「ルキアン君、一目惚れですかぁ? すごい年の差ですぅ。おまけに先生は神にお仕えする人ですから、この恋は決して実らないのでした……可哀想ですぅ」
「だから、お前……む、むぐっ?」
「バカ、静かにしなさいよ」
 低い声でそう言ったのはメイだった。いつの間にか素面に戻っている。彼女はバーンの頭を押さえつけ、ルキアンの言葉の続きに耳をそばだてる。

 ルキアンは背筋を伸ばし、素早く息を吸い込むと、震える声でこう伝えた。
「僕だって、も、も、もう本当は決めているはずなんです。僕は皆さんと一緒に行きたいんです! でも、でも……」
 ルキアンのその台詞は、事情を知らないメイたちにとっては全く意外である。
「どういうこと? 皆さんって、あたしたち? ルキアンったら急に何を言い出すのよ」
 メイたち3人は、息を潜めて事の成り行きを見守る。
 シャリオの歩みが止まった。なおも無言のままだが。
「でも僕、メルカちゃんのことが心配で。明日、僕が何も言わずにいなくなったら、あの子がどう思うか……そう考えると。あの子の心には、きっと深い傷が残ると思う。もう二度と会ってくれなくなるかもしれない。自分が信じている者に見捨てられた悲しさって……僕はメルカちゃんの家族でも保護者でもないけど、そういう問題じゃないのだと」
 ルキアンは何らかの返答を期待していたに違いない。シャリオはそれでも応えることをしなかった。
「僕は戦いなんて嫌いです。だけど、もし僕がアルフェリオンを操らなかったら、クレヴィスさんがおっしゃるように、沢山の人たちに災いが降りかかるかもしれません。それに僕、僕は……これからも、皆さんと一緒にいたいんです!エクター・ギルドは、決して綺麗な仕事じゃないかもしれない。危険かもしれない。それでも僕は……」
 何かに憑かれたかのように、ルキアンの口から言葉がとめどなく流れ出す。
 小さなため息――確かに、微かなため息がそのとき聞こえた。
 シャリオだった。彼女は腕組みして、澄んだ瞳でルキアンを凝視する。
「悪い子……それで、辛い決断の責任を、別の誰かに押しつけるの?」
「い、いえ、僕はそんなつもりじゃ!」
「《どちらに決めても貴方は悪くない。それは貴方自身の人生なのだから》とでも、私が言えば良いの? その一言が、あなたの自責の念を少しでも和らげるのかしら。孤独に震える少女を置き去りにして、こちらに来なさいと、神に仕える私の口から言わせようというのですか?」
 柔らかだが、威圧感のある声。シャリオは厳しい顔で首を傾けた。
 言葉を失ってうつむくルキアンに、彼女は告げる。
「ルキアン君。優しいということは、時には余計に苦しみや迷いが増えるということなの。優しい人は……自分の優しさの分だけ、いっそう強い心を持たなければいけないの。そうでないと、いずれは自分の優しさに滅ぼされてしまう。あるいは優しさを言い訳にして、自分の責任を正面から見つめようとしなくなってしまう。分かるわね?」
「え、えぇ。すいません……その、本当に、ごめんなさい。僕が優柔不断なばっかりに、シャリオさんに何もかも押しつけようとして、悪者にしようとして……」
 がっくりと頭を下げるルキアン。
 だがシャリオはいつもの柔和な笑みを浮かべて、左右に首を振った。
 彼女の方も何か吹っ切れたように見える。シャリオにも自責の念があったのだ――いくらクレドールのため、いや、事によってはこの世界のためだとはいえ、本来無関係なルキアンを戦いに引き込もうとし、そのうえメルカまで置き去りにさせようと無理にけしかけるなんて。だからこそシャリオは、いたたまれなくなって、ルキアンの前から姿を消そうとしたのだろう。
 ともかく彼女は穏やかに言う。
「謝る必要なんてありませんよ。見ての通り、今のわたくしは、俗世にまみれたいい加減な神官です。仲間のためだったら、少しぐらい悪者になっても構いません。本当なら、メルカちゃんはピューム先生に預けて、私たちと共に来なさいと言いたかった……駄目な聖職者ですね、だから私は神殿には居づらかった……だけど、それを私が言ってしまっては、ルキアン君自身が後で後悔することになる」
 シャリオはルキアンに近づいて、彼の背をそっと押した。
「でも言ってしまいましたね。私の方こそ、優しさを言い訳にしている人間なのかもしれません。だけどあなたは本当は強い人だから、たとえ後になって悔やむことがあったとしても……その苦痛にきっと耐えられる。私はそう信じています」
 ルキアンは返す言葉が見つからず、小さくうなずいた。
 目を閉じて同意を示すシャリオ。
 風が吹いた。いま大きな決断がなされたことを、2人に代わって確かめようとするかのごとく。

 うち捨てられた運河が再び夜の静寂に包まれようとした、そのとき……。
「ちょっと待って! 聞いてないわよ、そんな乱暴な話」
 突然、木々の揺れる音がして、ルキアンたちの背後からメイが姿を現した。

 メイはシャリオの前に進み出て、大げさな身振りで不満をぶちまける。
「どうしてルキアンとメルカちゃんにまで、迷惑をかけなくちゃいけないの?これはあたしたちの戦いでしょ! ルキアンを争いごとへと無理強いするなんて、シャリオさんはひどいと思わない?」
「あの、その、これは僕が……」
「静かにして。あたしはシャリオさんに尋ねてるの」
 シャリオに気を使ってルキアンが申し開きをしようとするが、メイは聞こうとしない。彼女は眉をつり上げ、いっそう語調を荒らげる。
 彼女のあまりの剣幕に、心配してバーンとフィスカもやって来た。
 詰め寄るメイに向かって、シャリオはそっと首を振る。
「メイ、これは私の一存で決まったことではないの。副長からのご提案でもあるのです。艦長もこの件について了承なさっています。ルキアン君だって……」
 シャリオが浮かぬ顔で説明するも、メイは話を途中で遮る。
「たとえクレヴィーや艦長が望んでも、ルキアンの未来はルキアン自身のものだわ。どうして、どうしてこんな繊細な子が、人殺しなんてやらされなきゃいけないのよ! シャリオさん、神官でしょ……止めなくていいの? 恥ずかしくないの?!」
「おい、そんな言い方ってないだろ、メイ!」
 バーンが話に割り込んだ。
「そうですぅ。メイお姉様、先生にだって色々な事情があるんですから。先生が可哀想ですよぉ」
 目を潤ませながら、フィスカもうなずいている。
 けれども彼らの言葉は逆効果だった。自分が一方的に非難されていると感じたのか、メイの頭にはますます血が上っていくばかり。
 ついに爆発寸前かと思われたとき、ルキアンがか細い声で言った。
「あの、やめて、やめてください……」
「うるさいわね。ちょっと黙ってて!」
「だ、だま……黙りません! 僕の話も聞いて!!」
 何と突然、大声で叫んだルキアン。
 彼の思わぬ反抗にメイは仰天した。
「ルキアン……」
「クレドールに乗り込むということは、僕が自分から好きで望んだことなんです。だからメイ、シャリオさんを責めないで。来る日も来る日も、歪んだ物差しや偏った秤によってしか、自分を認めてもらえない……何かがおかしい、目に見えないこの息苦しい何かに対して、自らの《存在としての意味》を取り戻すために《立ち向かわなきゃいけない》と感じつつ……それを誰かに問うすべも力もなく、いつも不満を押し殺して、《どうせ、変わらないよ》と諦めているだけ……これからもずっと、そんな毎日の中で大人になっていくのだなんて、僕にはもう耐えられないんです!」
 真剣そのものの彼の目には、独特のしなやかな強さと情熱を秘めた、不思議な輝きが浮かび始めていた。上気した頬。ルキアンはさらに語り続ける。
「それに僕は、今までどこに行っても、人の輪の中で本当は孤独を感じていました。《この人たちは何かが違う》と常に感じて、それでも世界中のどこにも自分の《居場所》はないのだと……知ったような顔をして、偽りの微笑みの下に嘆きを隠し、いつも自分をごまかして生きてきました。でも……ルティーニさんも言っていたけれど、皆さんを見たとき、《やっと会えた》って、本当の仲間になれそうな人たちにやっと出会えたんだって、そう思ったんです。だから僕は一緒に行きたいんです。みんなと、そしてメイとだって。それが僕にとっての光、希望なんです。僕は、クレドールに……賭けたんです!!」
 慣れない大声で一気に話したせいか、少し息の上がっているルキアン。
 唐突な熱弁に、バーンとフィスカはきょとんとして顔を見合わせていた。
 メイは難しい顔をしてじっと黙っていたが、やがて苦笑いをみせる。
「あの《塔》で何があったのかよく知らないけど……キミ、たった2、3日で見違えるほど格好良くなったぞ。よし、一人前の男が自分で決めたことだ! あたしがどうこう言う筋合いなんてないわね」
 少し悪びれた様子で、メイはルキアンの顔をまぶしそうに見つめる。
 彼は、いつものごとく恥ずかしげにうつむいた。しかしその姿は、弱々しいながらも、確かに以前とはどこか違っているかもしれない。

 ◇ ◇

 議会軍少将マクスロウ・ジューラは、日暮れ頃からずっと執務室に籠もったまま動かなかった。
 いつも通りに黙々と仕事を片づけているようにしか見えないが、怜悧な鳶色の瞳は、おそらく目の前の書類とは別のことに思いをめぐらせている。
 彼は何かを待っていたのだ。
 どのくらい経ったであろうか。やがてマクスロウは部屋に明かりを灯し、再び机に戻る。
 それと前後してドアが静かにノックされた。
 ひとりの平凡な女性士官が、ごく些細な用件で訪れたにすぎない――誰が見てもそうとしか思えぬ光景だった。
 よく手入れされた金色の髪をのぞけば、彼女には、これといって人目を引く点は見あたらない。取り立てて美人とも不美人とも言えなかった。並はずれた知性の輝きは感じられないが、真面目で仕事熱心な人間だということが、その面差しの中に現れている。
「ジューラ少将、今しがた《古城の白い花》が届きました。予定より多少遅れたようですが……」
 彼女、エレイン・コーサイス少佐は、何くわぬ顔でそう告げる。
 無言で頷くマクスロウ。彼の表情が微妙に厳しくなった。
 エレインは少将の耳元に近寄ると、声を抑えてささやいた。
「少将のご推察通りです。《竜たち》は大地に姿を現し、彼らの本来あるべき所に集まっています」
「なるほど。もしやとは思っていたが……《パラス機装騎士団》が集結したか。エルハインにまで網を張ったかいがあったな」
 よほど重要な用件とみえて、最初のうち、彼らは一種の符丁を用いて話していた。《古城の白い花》とは、王城に忍ばせた密偵からの連絡のことであり、《竜たち》とはパラス・テンプルナイツ(=パラス機装騎士団)のことだった。
「緊急の召集がなされたにもかかわらず、テンプルナイツは反乱軍との戦いには向かわぬようです。これは国王軍内部からの、信頼のおける情報だということですが。ということは、彼らの行く先はやはり……」
「……そうか」
 瞬間、マクスロウは眉をひそめただけだったが――腹心の部下エレインには、そのわずかな動きから彼の動揺を感じ取ることができた。
 腕組みしながら、マクスロウは低い声で告げる。
「少なくとも《谷》の位置はすでに特定され、あるいは、本命の《遺跡》までもが発見されてしまったか? いずれにせよ我々は先を越されてしまったらしい。宮廷側よりも早く《あれ》を押さえなければ、厄介なことになりかねん。極秘裏に監視を続けるよう伝えてくれ。万が一必要となれば、特務機装軍を何個大隊か投入してでも、パラス・ナイツの行動を阻止する……」
 傍目には意味の分からない会話だったが、事情を知るエレインは血相を変えている。
 新たな命を受けた彼女が部屋を出ていった後、マクスロウは引き出しから煙草を取り出した。彼は暗い目でつぶやく。滑らかな抑揚を含んだその言葉は、どこか詩の朗読にも似ていた。
「いにしえの時代、《大地の巨人》は天の軍勢さえも撃ち破るに至った。その力を恐れた天上界の人々は、ついに《空の巨人》を地上に差し向けたという。されど空の巨人は《悪しき妖精の娘》に心を奪われ、逆に自らの世界に矛先を転じる。そして双方の巨人は、神にも等しい力で天上界を滅亡に追い込んだ。伝説は言う……大地の巨人が目覚めるとき、空の巨人も再び光臨せん、と。我々は決して巨人の眠りを妨げてはならぬ。あれはおそらく、人間の力で好きに操れるような代物ではなかろう。愚かな名誉欲や領土欲のために、かつてのような災いを招いてはならんのだ。分かっているのか、城の人間たちは……」

 ◇ ◇

 ネレイ内陸港の飛空艦専用の埠頭には、3隻の船が停泊中だった。
 そのうち最も特異な姿をしているのが、強襲降下艦のラプサーである。節の目立つ、どことなく三葉虫を思わせる船体は、分厚く鋭角的な装甲で覆われていた。全体として扁平な形のように見えるけれども、水面下に沈んでいる船腹部は、下向きに大きく張り出している。その膨らんだ部分には、対地用の様々な兵器が格納されているのだ。
 隣の一回り大きい船が、中型制空艦アクスである。やや細長い甲板には、城塞の如く堅牢な司令塔を中心に、多数の砲門が並んでいた。こうして水面に浮かんでいる限り、アクスの形姿は、我々の世界における現在の軍艦とさほど変わらないようにも見える。充実した火力を誇る制空艦は、艦隊戦の際の主役となる。
 そしてひときわ優美な魚型の船、戦闘母艦クレドールの巨体が、闇の中に白く浮かび上がる。柔らかな月明かりとともに、港に備えられた旧世界の灯火が強力な光を投げかけ、船の周囲は白夜のごとく輝いているのだった。
 降り注ぐ灯光の下で多くの人々が行き交っていた。食料の入った麻袋を担いでいる者、砲弾の乗った台車を重そうに押していく者、岸壁に積み上げられた木箱の数を、ひとつひとつ確認している者。施設の警備に当たるギルドの戦士や、皆に炊き出しをしている女たちの姿も見られる。
 時計は夜の10時を回っているにもかかわらず、港が静まりそうな気配はない。むしろ時が経つにつれて慌ただしさが増すばかりである。
「食料の確保は順調のようですね。日付が変わる頃には弾薬の搬入もなんとか終わりそうですか。後は船体とアルマ・ヴィオの整備……」
 クレドールのタラップからルティーニが降りてきた。補給の内容を詳細に記した書類をにらみつつ、彼は作業の進行具合をチェックしている。
「やぁ、ルティーニの旦那! 今回もいいブツを揃えておきましたぜ。へへへ」
 眼帯をした小柄な男が、彼の姿を見るや、胡散臭そうな笑みを浮かべてすり寄ってきた。おそらくはジャンク・ハンターの仲買人だろう。旧世界の遺物(通称ジャンク)――それこそ電球からアルマ・ヴィオまで――をハンターたちから買い入れ、様々なルートを使って売りさばく人々だ。
 ちなみにハンターやその関係者というのは、旧世界の発掘品の売買だけではなく、多くの裏の取引にも関わっている。盗品や禁制品の扱いから、場合によっては人身売買まで行っている組織も少なくないという。
 ギルドに顔を出しているのは、せいぜい、違法すれすれのグレーゾーンの商売で満足する《真っ当な》ハンターたちだが……。ともかく、そんな怪しげな人物たちと取り引きする間柄になろうとは、宮廷顧問官まで務めたルティーニにとって、以前であればおよそ考えられないことだったろう。
 人々にねぎらいの声をかけながら、ルティーニは港沿いの倉庫の方へと歩いていく。
 と、行く手の方で、彼に向かって盛んに手を振る男がいた。
「おぉ、ルティーニーっ! ちょうどいいところにやって来たじゃないか。これはいいぞ、はっはっは!」
 軍人のような……いや、実際にミルファーン海軍士官のコートを着た、年の頃30前後の男が、片手に金属のお椀を持ったまま笑っていた。丁寧に刈り込んだ口ひげがトレードマークの、剛毅で気前の良さそうな男である。
 男の前では、ギルド本部の調理師らしき人々が夜食の差し入れを行っている。彼らが大鍋から汁をすくい上げるたびに、食欲をそそる香草のにおいが漂ってくる。キノコ、野草、木の実等、色々な山の幸に、鶏肉を加えてごった煮にしたようなこの料理は、王国西部の某地方の名物らしい。
「ウォーダン砲術長、私も少しお腹が減りましたよ。ご一緒させてもらって構いませんか?」
 夜食どころか夕食の余裕さえなかったルティーニも、このあたりで少し一息というところか。
 口ひげの男は、クレドールの砲術長、ウォーダン・レーディックだ。元ミルファーン王国海軍の軍人で、生粋のミルファーン人。少年時代、革命戦争におけるカルダインの活躍ぶりに憧れ、やがて自らも軍艦のクルーになった。そしてカルダインがオーリウムのギルドで艦長をしていると知るや、軍を辞し、国を去ってまでクレドールに押し掛けたという……とにかく《ゼファイアの英雄》に心酔している人である。
 ルティーニのために例の煮物とパンを一切れもらうと、ウォーダンは、陽気な笑みを浮かべてこちらにやって来る。
「実はな、ルティーニ。彼を紹介しようと思ってずっと探してたのさ。何度か一緒に仕事をしているから、もう知ってるかもしれないが、彼がサモン・シドーだ。今回の作戦では我々にずっと同行してくれる。飛行型のアルマ・ヴィオを操らせたら、これがなかなか良い腕なんだ」
 ウォーダンは、皮マントをまとった《剣士》を――そう、2本の刀を腰に帯び、まさに剣士という風貌の若者を紹介する。
 昼時にルキアンたちと食卓を共にしていた、独特のエキゾチックな容姿を持つあの男だ。中肉中背で均整の取れた体格だが、大柄なウォーダンと並ぶとかなり小さく見える。
 黒髪に黒い目のサモンは、飄々とした様子で言葉少なに挨拶した。
「少し、お話ししたことが……ありましたか。俺、サモン・シドーです」
 サモンのオーリウム語は、かなりぎこちなく聞こえた。彼はナパーニア人なので、無理はないかもしれない。
「さっき聞いたんだが、サモンはミルファーン暮らしが結構長かったらしい。なんせ、俺より流暢にミルファーン語で話すくらいだ。故郷が急に懐かしくなって、色々と話していたところさ」
 ウォーダンがそう言うと、ルティーニはゆっくりとしたミルファーン語で答える。
「ミルファーン語はあまり得意ではないのですが、私も……少しは話せます。改めまして、クレドールの財務長ルティーニ・ラインマイルです。かく言う私もオーリウム人ではないですからね、言葉には苦労しましたよ」
 自国語に加えて、オーリウム、ミルファーン、ガノリス、タロス、エスカリアの言葉、さらにはキニージア語やメリア語まで操るルティーニは、やはり並はずれた語学力の持ち主である。彼ほど多数の言葉に通じた人間といえば、クレドールの中でも、他にはせいぜいランディぐらいのものであろう。
 サモンも、さきほどのオーリウム語と比べて遙かに滑らかなミルファーン語で話す。
「これは驚きました。博識な方だと噂には聞いていましたが、ラインマイル財務長、さすがですね。俺のアルマ・ヴィオ《ファノミウル》も、もう積み込んでもらったようで。どうも、お世話になります」
 放浪のエクター、サモン・シドー。彼らナパーニア人は自分たちの国を持っておらず、そのせいか、各国を点々とする旅芸人や行商、あるいは冒険者や傭兵などを生業としていることが多い。このナパーニアは、かつて旧世界の時代に工業や貿易によって繁栄を誇ったと言われている。だが今では、世界地図のどこを見ても、そのような名前の国は見つからない。

  ◇

 補給作業の邪魔にならぬよう、ルキアンたちは少し離れたところからクレドールを見守っていた。夕方までミンストラが停泊していたその場所は、同艦の出港後、だだっ広い水面に戻っている。
 そこにぽつんと取り残された……はるか沖合いにまで突き出た木製の桟橋。その真ん中あたりに、ルキアン、メイ、バーン、シャリオ、フィスカの5人がたたずんでいる。
 夜が更けるにつれて風が出始めた。ネレイの背後にある荒涼とした丘陵地帯から、冷たい空気が降りてくる。灰色の大地から冷気を受け取った、寂しげな夜風が。
 いくぶん寒々とした暗い湖水を前にして、バーンがつぶやく。
「まぁ、その……なんだ、俺にも少しは分かるぜ。アルマ・ヴィオで戦ってくれなんて突然言われたら、普通はルキアンのように迷うかもしれないな。うむ」
「当ったり前だってば。アンタみたいな単細胞と一緒にしないでよ」
 珍しく改まったバーンの口振りに、メイがくすくす笑っている。
「……俺の場合は、ちょっと事情が特殊でな。親父がエクターだったんだ。だから俺も、成り行きというのか、気がついたらエクターを目指していた」
 バーンの声が不意に陰りを帯びた。
 ルキアンはそれに気付かなかったが、メイは少し驚いたような表情でバーンを見上げる。丸く見開かれた彼女の目は、真剣だった。
 無造作に指の関節を鳴らしながら、バーンは語る。
「だけどな……ギルドの繰士になんか、なるもんじゃネェと、親父はいつも俺に愚痴をこぼしていた。お前は《機装騎士(ナイト)》になれ、その日暮らしの冒険者や傭兵なんぞで終わるな、ってな。親父がそんなだからよ、俺も物心つく頃には、すっかり機装騎士に憧れていた」
 荒っぽく大雑把なバーン――繊細という言葉からはほど遠い彼が、いつになく物静かな声で言う。
 そんな彼の様子を見て、さすがに何か感じるところがあったのか、フィスカが興味津々の顔で尋ねた。
「ナイトぉ! すごいですねぇ。もしかして、パラス・テンプラ……じゃなかった、てんぷる、テンプルナイツを目指していたとかですか? 格好いいですぅ」
「いや、悔しいが、俺なんぞの腕でパラス聖騎士団に入れるわけがねぇ。俺が目指していたのは、国王直属の近衛機装騎士団さ。ともかく、近衛機装隊のアルマ・ヴィオ……銀色に紅も鮮やかな《シルバー・レクサー》に乗ることが夢だった」
「シルバー、何? むぅ〜、私は知らないですぅ。あ、先生? すいませ〜ん、ンっ」
 フィスカの手をシャリオがそっと引っ張ったらしい。真剣に聞き入る他の面々に比べて緊張感のかけらもないフィスカを、少し黙らせたくなったのだろうか。
 バーンは照れ笑いして、それからまた真面目な顔で話し続ける。
「自分で言うのも何だが、ガキの時分からアルマ・ヴィオの扱いには慣れてたからな。国王軍の繰士見習いに志願したときには、同期の誰よりも強かった。で、めでたく近衛隊の見習いをやることになり、俺は夢をつかんだ。そのはずだったんだ……」

 《夢ヲツカンダ》、《ソノハズダッタ》。

 ルキアンの心中にその2つの言葉が無数に浮かび上がり、飛び交い、入り乱れた。なぜか目眩がする。
「だがよ、ただでさえ堅苦しいお城暮らし、しかも《お坊っちゃん機装兵団》と言われる近衛隊だ。田舎の平民エクターの息子が、貴族のぼんぼん連中とうまく折り合っていけるわけがネェ。性に合わねェんで、2年も経たないうちに辞めちまった。何のコネもない俺が近衛隊に入れたこと自体、今から思えば奇跡だったのによォ。しょせん野良猫の子は野良猫、虎にはなれねぇ。ま、ご立派な檻の中で飼われる虎よりも、気ままに生きるちっぽけな野良猫の方が、俺には似合ってる……」
 わずかな沈黙。それぞれ違った心持ちゆえであろうが、言葉を飲み込んだ4人――彼らの反応を、バーンは意外だといった目つきで見回す。
「オイオイ、何をしんみりしてんだよ。俺はこれでも今の暮らしに大満足してるんだぜ、負け惜しみじゃネェぞ。へへ、ギルドはいいぜェ……来いよ、なぁ、ルキアン!」
 彼は大げさな身ぶりでルキアンの両肩を揺すった。上着の生地を通してさえ目立つ、盛り上がった二の腕の太さ。すごい力だ。細身のルキアンが折れ曲がってしまいそうに思える。
「バーン……」
 複雑な気持ちのルキアン。呆気にとられたか、はたまた感激したのか、口はぽかんと開いたまま、目は笑って……頬には涙が伝っている。よく泣く。
「こぉら。泣くなよ、少年っ!」
 メイがルキアンの後頭部を小突いた。彼女もとても嬉しそうだった。
 彼女の後ろで、フィスカがシャリオの腕を無邪気に揺さぶりながら、頭から抜けるような声で言う。
「そうですぅ〜! えへへ、フィスカもクレドールがとっても好き。シャリオせんせぇも、メイおねぇ様もそうですよねっ?!」
「えぇ。とっても……」
 普段よりもおっとりした言葉と、それに見合った柔らかな物腰で、シャリオはうなずいた。
「ルキアン君だけじゃない。私だって、バーンやメイだって……かつては灰色の現実の中を漂う、孤独な《さまよいびと》だったのかもしれません。でも独りだったからこそ、私たちは本当の仲間を探し求め続け、こうしてクレドールに集うことができました。ルキアン君、もうあなたは独りではありません」
「えぇ。ひとりじゃないわ」
 メイの凛とした声が、冷え冷えとした水面を鋭く走り抜け、辺りに響く。
 湖面の上に広がる夜空。
 メイは両手を広げてのびをすると、しばらく天空を見つめた。
「ふふ。よく分かんないけど、たぶん、星が導いたのよ。ルキアンの声が届いたんじゃない?」
「……そうですね。メイの言う通りかもしれません。出会いというのは、見えない筋書きに導かれた、小さな奇跡。色あせた人の世にあらがい、もがき、迷い続け、現実との絶望的な戦いを今日までたったひとりで貫き通した、日々を真摯に生きる少年……ルキアン君のそんな姿を見て、あの星々が道を示したのかもしれません」
 シャリオとメイの言葉に、ルキアンはそっと付け加える。
「僕も、そう信じます」

 ――僕はもう、ひとりじゃない。

 錆びついた時の車輪が、いま再び回り始める。
 誰ひとり拭う者もなく、永劫の夜を流れ落ちた涙は、今ここに終わる。

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