HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第13話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  ある嵐の日、かごの中の鳥は荒れ狂う空へと飛び出したのです。
  自分の翼で大空を舞いたかったために。ただ、それだけのために。
  たとえその小さな翼が、折れてしまっても構わないから……。



 青ざめた月の光を浴びて、暗闇の中で何かが吠えた。
 それは翼を持つ巨大な生き物だった。
 冷たく堅い銀色の肌に覆われた、人の似姿である。

 ――銀の、翼……アルフェリオン?
 漆黒の世界の中で、ルキアンは目をこらした。
 恐ろしいほど静かである。
 他には誰もいない、何も無い、静寂に支配された空間。

 ひたひた、ひたひたと、細波を思わせる音が聞こえる。
 生臭い鉄のようなにおいが漂ってくる。
 空っぽの水面らしきものが、どこまでも広がっているようだ。

 ――ここはどこ? 僕は、何を……。
 ルキアンの声は無音の闇に吸い込まれていく。
 ――誰もいないのかな? アルフェリオン、返事をして!

 銀色の生き物がその口で何かを喰らっているのを、ルキアンは見た。
 骨の砕ける音。肉が歪み、ちぎれる音。
 粘ついた雫が滴り、大きな音を立てて何かが水面に落ちた。
 周囲に散った飛沫がルキアンの顔にもかかる。
 それは頬を伝って流れ、彼の舌にまで達した。
 ルキアンは思わず吐き出す。これは……。

 水面の一角が、ぽっと明るくなった。
 ぼんやりとした人影が水の上に立っている。
 豊かな髪を持つ黒衣の女だ。
 その手足は気味が悪いほど白く、暖かい体温など微塵も感じられない。

 ルキアンは恐怖のあまり逃げ出そうとしたが、体が動かなかった。
 女は唇に冷ややかな笑みを浮かべ、陰惨な声で喜々としてささやく。
 ――見て、これが新しい世界……あなたと私が望んだ世界。
 歯を鳴らして怯えるルキアンに、彼女はなおも語りかける。
 ――もう誰もいないわ。あなたを傷つける者も、あなたを苦しませる者も。
 ――み、みんなは? ソーナ、メルカ! クレドールの仲間は?!

 ルキアンの耳に女の笑い声が響き渡る。
 血も凍る思いだった。
 ――ほら、これが人間たちの生きてきた証。あなたのまわりは全部……。
 瞬間、すべてが白日の下にさらされた。まばゆい光と、異様に濃い空の青。
 ルキアンは絶叫する。
 先ほど海だと思っていたのは、果てしなく続く赤い水面だった。
 見渡す限りたたえられた鮮血。
 ぽつんと取り残されたアルフェリオンの上に、ひとり立つルキアン。
 血の海の中には無数の遺体が漂っていた。
 ――あ、あれは、みんな!!


 ルキアンは、気がつくと必死でシーツをかきむしっていた。
 額から流れる汗。いや、体中が寝汗でびっしょり濡れている。
「夢? 夢だったのか……」
 まだ手の震えが止まらない。あまりに鮮烈な光景は、記憶にはっきりと刻み込まれていた。
「もう朝なのか。眠った気がしないよ……」
 窓辺からカーテン越しに差し込む光が、一日の始まりを優しく告げる。
 力の抜けた体で立ち上がり、彼は夢遊病者のごとく窓辺に歩み寄る。
 窓を開いてみた。
 青空。昨日と同様に良く晴れた爽やかな天気だ。
 向こうの木立の中で、早起き鳥たちのさえずる声が聞こえる。
 少し遠くに目をやると、ネレイの家々の赤い屋根や石畳の道が見える。
 これらの様子は、普段と何ひとつ変わることのない平和なものだった。
「それにしても嫌な夢だったな」
 ルキアンはほっと溜息をついて、ベッドの上に座り込む。
 彼は心の中で自問する。
 ――昨日、クレヴィスさんたちと話して、アルフェリオンの怖さを色々と知ったせいだろうか。いや、それだけだろうか? あの女の人は……。

 そのとき、ぼんやりとしていた彼の耳に、扉を激しくノックする音が聞こえた。今度は夢ではなく現実だ。
「ルキアン君、すまんが起きてくれたまえ!」
 血相を変えて飛び込んできたのは、ピューム・エアデン医師である。昨晩、ルキアンはメルカと共に彼の家に泊めてもらっていたのだ。
 紳士的な医師である彼が、ほとんど寝起きに近い有様で立っている。
 そのただならぬ慌てぶりにルキアンは嫌な予感を覚えた。
「今朝早く、メルカちゃんがこの部屋に来なかったかね?」
「いいえ。あの子が何か?」
「実はメルカちゃんが、いつの間にかどこにもいないんだ。家の扉には鍵が掛かっている……あの子の部屋の窓が開けっ放しになっていたところを見ると、たぶん窓から抜け出したんだろう。家出かどうか分からないが、私たちもうかつだった」
 ピュームは申し訳なさそうに、髪の薄い頭を垂れる。
 他方、ルキアンは震える声で言う。
「先生。あの子は小さな頃から、本当に勘の鋭い子なんです。他人の行動を直感的に予知してしまうというのか……だから、きっと、あの、僕、僕がいけないんです。メルカちゃんを置き去りにして、クレドールと……あ、あぁ!」
「落ち着きたまえ、ルキアン君。すぐにでも本部の方に伝えて、手の空いている者に捜索してもらう。心配ない、ネレイの街で起こったことならば、ギルドに分からない事など何もないのだから」
 そう言うピュームの声も、ルキアンの耳にはよく届かなかった。
 ルキアンは顔面蒼白のまま、何もできずに突っ立っていた。

 ◇ ◇

 オーリウム、ミルファーン、ガノリスの3国にまたがるラプルス山脈。そこはイリュシオーネ有数の高山地帯である。
 切り立った山々の頂は、年間を通じて雪に覆われている。雲を貫いてそびえる諸峰は、その峻険さと苛酷な気象条件とによって、太古から今日まで人の手を拒み続けてきた。
 ただし、鳥も啼かぬ険しい岩山だけが、ラプルスの地を形づくっているわけではない。天を突くような山脈に沿って、大小様々の谷が走っているのだ。
 冷たい水の流れが岩を食み、沢から沢へと複雑に枝分かれしていく無数の渓谷。荒々しい断崖を通り抜けた谷は、山裾で扇形の広大な草原へと姿を変える。気の遠くなるような時間をかけて氷河が作り上げた、岩と水と緑の芸術である。
 いくつかの開けた谷間には、古き時代からすでに人々の生活の匂いがあった。
 他方、いまだかつて何人も足を踏み入れたことのない谷も数知れない。そのうちのただひとつを、オーリウム宮廷の策士は長い間探し求めていたのだ。伝説の《大地の巨人》が眠るという地下遺跡……そこに通ずる幻の谷を。

 ラプルス山脈を構成するおびただしい岩山のひとつ、その切り立った尾根の背後に、別の峰がさらに屏風を立てるようにそびえ立つ。
 両者の狭間には、ほぼ垂直に切れ込んだ谷が不気味に口を開けていた。
 だがその幽谷は、どの方向から眺めてみたところで、岩や山並みの背後に隠れて見えはしない。上空からでも調査しない限り、まずは発見することができないだろう。
 谷は極めて深い。闇の奥に秘められた地の底まで、崖の縁からどのくらいの距離があるのか見当も付かない。
 しかし驚くべきことに、この巨大な裂け目の奥へと何者かが降下していた。世界の心臓にでも届きそうな、延々と落ち込む暗闇の中に、複数の輝くものが見受けられる。
 ひとつは飛行している。他はゆっくりと浮遊しながら、その後を追っていた。
 全てアルマ・ヴィオだ。
 まず、空中で整然と方陣を組む9体。それらの丸い頭部には、長い尾を持つ鳳凰の飾りが、ちょうど鶏冠のように乗せられている。重装騎士を彷彿とさせる甲冑、後方に広がった大きなスカート部分。左手にはマギオ・スクロープの発射口を備えた円形の楯、右手には巨大な光の槍を携える。磨き抜かれた銀色の機体に、鮮やかな紅のアクセント。国王直属の近衛機装騎士団が誇る《シルバー・レクサー》である。
 そして、シルバー・レクサーを率いて悠然と宙を舞うのは……同様に騎士を模した、白と金の壮麗なアルマ・ヴィオだ。不可思議な光を放つ細長い翼。竜の頭部を想起させる兜、滑らかな曲線を描いて伸びる大きな肩当て。一際目立つのが、右手に構えたマギオ・スクロープ・ドラグーン――要するに、小銃の形をした呪文砲である。
 この白い騎士こそ、最強の汎用型とも言われる《エルムス・アルビオレ》、すなわちパラス・テンプルナイツ専用のアルマ・ヴィオに他ならない。ということは、パラス機装騎士団のうち、少なくとも1人がここに来ているのだ。

 ――セレナ様、谷底に水の流れが……川が、激しく荒れ狂う川が見えます!
 シルバー・レクサーの1体からの念信。
 ――確かに。《地の底を流れる闇の川》とは、これのことでしょうか?
 別の機装騎士もそう告げる。
 ――了解しました。早急な判断は避けねばなりませんが、ここまでの道のりは古文書に記された通りですね。慎重に、このまま降下を続けるのです。谷底に着いたら直ちに第4隊形を取って、周囲のデータを収集してください。焦ってはなりません。
 少し冷ややかなほど落ち着き払って、ひとりの女が答えた。それは心の声であって、実際の音になって響いているのでは勿論ないが……ある種の音色のイメージを念信から読みとることは可能である。おそらく高く澄み、それでいて毅然とした声の持ち主に違いない。
 さらに別の機装騎士から念信が入った。
 ――セレナ様、ギルドのゴロツキどもに感づかれないうちに、遺跡に辿り着けそうですね。ついに《大地の巨人》とご対面ですか。
 しかし彼女は答えなかった。このセレナというのが、パラス・ナイツの1人、セレナ・ディ・ゾナンブルームである。貴族の女性らしい優美で豊満な外見には似合わず、恐るべき剣と魔法の使い手だ。
 念信には伝わらない心の奥底の声で、セレナはつぶやく。
 ――エクター・ギルドか。そういえば、クルヴィウス、貴方は今頃どうしているの? いや、そんな昔の名前など、とうに捨ててしまったのだったわね。全てはもう過ぎ去ったこと……。
 わずかな沈黙の後、彼女は元の冷静な様子で念信を送る。
 ――各機へ。《闇の川》に続いて、最後の目標である《鷹の巣と静寂の広間》を発見できたなら、ここを遺跡の谷として認め、山麓に待機する友軍に連絡することにしましょう。そうすれば、城で待機しているファルマス副団長たちにも、すぐさま念信が中継されることでしょう。

 ◇ ◇

 昨晩の喧噪とは打って変わり、早朝のネレイ港はしんと静まり返っていた。作戦開始の直前にしては、ある意味、拍子抜けしそうなほどに平穏な有様だ。
 岸壁の先に広がる人工湖。その濁った水色は、本来あまり美しいとは言えないのだが……朝の光が作り出すきらめきのおかげで、いくぶん見栄えが良くなっている。
 朝霞の向こうに人影が見える――波止場の際に小さな椅子を置き、ゆったりと腰を下ろして、ひとりの男が釣り糸を垂れていた。
 男は片手で竿を持ったまま、もう一方の手で懐中時計を引き出す。先ほどから、彼は何度もこうして時刻を確かめているのだった。
「ふふ……」
 彼のそんな様子を見て、メイはそっと笑みを漏らす。彼女の方は軽い散歩をしているだけなのだろう。白い長袖シャツの上に深緑色のヴェストを羽織っただけの軽装である。
 メイは肌寒そうに首をすくめながら、眠気の醒めやらぬ表情で男に近づいていく。
「今朝は随分早いのね、クレヴィー。釣り? この大変な時に、余裕ねぇ……」
 男は振り返りもせず、ただ無言で頷く。釣り人の正体はクレヴィスだった。
 派手なステップを踏みながら、メイは子供っぽい仕草で隣に回り込んだ。そしてクレヴィスの顔をのぞき込むようにしつつ、石畳の埠頭にしゃがむ。
 港湾の向こうに見えるアラムの本流から、心地よい湿り気を含んだ風が吹いてくる。舞い上がった髪に手ぐしを入れると、クレヴィスは呑気につぶやいた。
「釣りというのは、朝夕にするのが一番良いのですよ。昼間の港は騒がしいですからね、魚も逃げてしまいます」
「そ、そういう問題じゃないんだけど」
 苦笑するメイの目に、クレヴィスの傍らに置かれた空っぽの水桶が映った。
「それで……何よ、全然釣れてないじゃないの!」
「当然です。餌が付いていないのですから」
 クレヴィスはそう言って竿先を上げる。水面に出てきた仕掛けの先端では、銀色の針がぽつんと光っていた。確かに餌がない。
 釣り糸を指で摘んで、目を細めるクレヴィス。
 メイはゆっくりと腰を上げ、溜息をついた。
「気になっているのね? ルキアンが来るかどうか……」
 彼女の問いかけには答えず、クレヴィスは足下の木箱を探った後、仕掛けを再び投じる。ようやく新しい餌を付けたようだが。
 メイも黙って、水面に漂う浮木を見つめる。
 何処からともなく薄紅色の花びらが舞い落ち、白い浮木に貼りついた。
「私はルキアン君の《目覚め》に期待しています。しかし現実には、己に託された大いなる使命を自覚しないまま、計り知れない天分を眠らせたまま、世に埋もれて一生を終える《選ばれし者》……そういう人たちが、数え切れないほど居るのです。心配していないと言えば、確かに嘘になりますね」
 喉にこもった冷たい声でクレヴィスが言った。
 つま先で地面を小突きながら、メイはお気楽な口調で応える。
「うぅん、朝っぱらから小難しいこと言って。あたしにはよく分からないけど、なんていうか、でも、そういうものじゃないの? この世界なんて……。優れた素質を持って生まれてきても、日陰の花で終わる人は沢山いるし、そうかと思えばつまんないヤツが、欲に駆られて偉くなって、世の中を食い物にしてることだってある。当たり前じゃない」
 珍しく悲観的な台詞を吐いたメイ。が、彼女は続けてこう言う。
「まぁ、それでも何だかんだで、この世は今日までちゃんと続いてきたんだから……いいんじゃないの。ダメ? あ、ほら、引いてる引いてる!」
 浮木が微かに揺れ、水中に沈んだ。
 メイが大声で騒ぎ立てたにもかかわらず、それを気にも留めぬ様子で、クレヴィスは何か別のことを考えていた。
 一呼吸、二呼吸ほど経った後、手応えのないのを知りつつ、彼は竿を上げる。
「確かに。ともかくこの世界が、明日もこうして続いてくれさえすれば、多くの人間にとってはそれで十分なのかもしれません。いや、むしろ今日の無事を天に感謝すべきかもしれません。しかし旧世界の過ちは……人類という物語を、危うくもう少しで終わらせてしまうところでした。そして今なお、旧世界の遺産は我々の現世界をも翻弄し、滅びの危機に導こうとしています。今度こそ全ては終わるかもしれません。だから私は……」
 クレヴィスは改めて仕掛けを振り込んだ。
「ここで人の世に一石を投じようと思うのです。運命の少年、ルキアン・ディ・シーマーを……」

 風。ざわめき始めた水面。浮木が静かに落ち、次第に波紋が広がっていく。

 メイはクレヴィスの腕をぽんと叩いてから、鼻歌を歌って歩き始めた。
「ルキアンのこと、あたしが見てこようか? それより、クレヴィーはそろそろブリッジに上がっておかないと、お堅いセシーあたりにどやされるわよ!」
「すみませんね。でも、彼はちゃんと来ると思います。漠然とではあれ、気づき始めているはずですから。本当の自分に……」
「あたしも大丈夫だと思うけど……心配だから、ちょっと見てくる」
 するとクレヴィスは一礼して、自分の上着を脱いでメイに手渡した。
「その格好、寒そうですよ。風邪を引いてもらっては困ります」
「ありがとう。えへへ」
 メイは無邪気に笑って、少し大きめのクレヴィスのコートを羽織る。

 そのとき、埠頭の背後に立ち並ぶ倉庫の影から、危なげによろめきつつ歩いてくる者がいた。右に、左に、足下がふらふらとおぼつかない。
 あたかもルキアンの幽霊が這い出てきたかのごとき――いや、そう思わせるほど憔悴しきったルキアン本人が、重い足を引きずり、こちらにやって来るのである。
「……でも、僕、行かなくちゃ」
 彼はうわごとのように呟いていた。虚ろな眼差しで、宙を仰ぎながら。
「早く、行かなきゃ、飛ばなくちゃ……」
「分からなくなっちゃった……でも、飛んでみようって、決めたんだから……」
 慌ててメイが駆け寄ったとき、彼は目を開いたまま、前のめりに倒れた。
「ルキアン!」
 かろうじて飛び込んできたメイの胸に、彼は抱き留められた。
「しっかりしなさいよ、どうしたの?! ちょっと、返事しなさい、ルキアン!」
 彼女は慎重にしゃがみ込んで、膝の上にルキアンの頭を横たえる。
 ――暖かい……何だろう? メイ……?
 ルキアンの真っ白な視界の中で、懸命に叫ぶメイの姿があった。
 肩や手を震わせて、ルキアンはなおも言う。
「メルカちゃんが……。僕がいけないんだ。全部僕が悪いんだ。でも……僕は、僕は行くんだ。みんなと……クレドールに、行かなきゃ……」
「ルキアン!!」
 メイの必死の呼びかけにも答えず、彼はそのまま目を閉じ、意識を半ば失いかける。その後もしばらく、彼の唇だけがぱくぱくと動いていた。
「すぐに医務室へ。何があったのかは分かりませんが、とりあえず安静にさせた方が良さそうです。ルキアン君、立てますか? ゆっくりと……」
 背後で見守っていたクレヴィスが、メイと共にルキアンの体を支えた。

 ◇ ◇

「何を考えているのだ、《大師》殿は……。まぁ結果的にはこれで良かろう」
 ギヨット総司令は訝しげな表情で手紙を握りしめる。
 城壁・要塞群が幾重にも配置されたベレナ市、その中心――セルノック城の広間にて、反乱軍の指導者たちが今後の作戦について議論を重ねていた。
 そしてさきほど、重要な会議中にも関わらず、緊急の使者らしき者が部屋に通された。この使者が、1通の密書をギヨット総司令に直接手渡したのである。
 一同が固唾をのんで見守る中、総司令は、期待と疑念とが入り交じったような不可解な笑みを浮かべた。
「同志諸君、我々は大師殿から確約を得ることができたようだ」
 手前に座っていた副官のゾルナーが、仰天してギヨットを見る。
「メリギオス猊下が?! それでは、あの話は本当に……」
 ゾルナーだけではない。居合わせた他の面々も口々に声を上げる。
「諸君、静粛に!」
 よく通る低い声でギヨットが話の続きを語り始めると、皆が水を打ったように静まり返った。
 《大師》とは、国王の遠縁にあたる大法司神官、メリギオスの尊称に他ならない。ちなみに《大法司》の位階を持つ者は、イリュシオーネの神官の中でも教主その人をのぞけば最高の地位にある。
 それだけではない――メリギオス大法司は、凡庸で病気がちな国王に代わって辣腕を振るう宰相でもあった。聖職者でありながら権謀術数に長けた彼は、宮廷の人々の間で影の国王とさえ呼ばれている。その人物が、何のために反乱軍と密書を取り交わしているのであろうか……。
「これで我らの勝利は、いっそう確かなものとなった。今こそ議会軍を殲滅し、王国を堕落させる無能な領主どもや愚民どもをひざまづかせ、反乱軍などという汚名を返上するのだ! 《オーリウム王国の未来のため》に!!」
 かつての英雄ギヨットが、そのカリスマぶりを遺憾なく発揮して、司令官たちを前に熱弁を振るう。

 ギヨットの言葉が終わると同時に、拍手の渦が広間を埋め尽くした。
 神々や巨人たちの戦絵巻に彩られた壁から、黄金色のシャンデリアを支える天井に至るまで、彼への賛意を示す掌打が鳴り響く。生気に満ちたその様相は、敵軍に包囲されている城内のものとは到底思えない。
 いずれ劣らぬ猛者連中が、ギヨットの言葉ひとつで簡単に心服させられてしまった様子は……傍目には滑稽にさえ見える。
 だが《メレイユの獅子》の雄叫びには、現にそれだけの説得力が秘められていた。初老にして益々逞しいこの古風な戦士は、オーリウム陸軍随一の名将にして伝説のエクターでもある。王国中のあらゆる軍人たちにとって、彼は生身の戦神にも等しい存在なのだ。
 鈍色の光を宿した、落ち着いた銀の髪。広い額と高貴な鷲鼻。濃い青紫の瞳は知性に満ちている。勇猛さと気品とを兼ね備えたギヨットの容貌は、その外見だけからしても、類い希なる将の器を思わせる。
「さて諸君、話を元に戻すとしよう……」
 良く通る声でそう告げて、ギヨットは皆に注目を促した。
 10数名ほどの指揮官たちが取り囲むテーブルの上に、美しく彩色された地図が広げられている。それは、極めて厳密な実測に基づく、《レンゲイルの壁》周辺の俯瞰図だった。
 ギヨットは両手を組み、机の上にゆったりと置いた。
「敵の増援部隊は、主として3つの方面からベレナに進攻中だ。各地からの援軍が集結するのを待って、議会軍はこの街を一気に落とす腹づもりなのだろうが、そう上手くいくかな……」
 彼は地図の上に沢山の駒を並べていく。それぞれの配置は、敵味方の主要部隊の現在位置を再現している。
「第一に、南部の議会軍諸師団から寄せ集められた混成機装軍。第二に、北部・西部及び王都近郊より、陸軍の主力機装軍。そして第三に、中部・東部に駐屯する機装師団が、エクター・ギルドと手を組んでこちらに向かっているらしい」
 ギヨットはそこで意味ありげに微笑した。
「エクター・ギルドが何らかの動きを見せるとは思っていたが……まさか、敢えて軍の方からギルドに支援を願い出るとは、意外な展開になったものだな。議会軍としても、なりふりなど構っていられぬということか。恐らくはマクスロウあたりの進言による結果だろうが」
 口元をわずかに緩めているギヨット。彼の表情は、見方によっては楽しげにすら感じられる。彼は席から立ち、その指を地図上で滑らかに動かし始めた。
「見たまえ。アラム川を辿って……ここがネレイだ。各地からこの街に集結したアルマ・ヴィオを、ギルドはすでに輸送艦と多数の飛空挺を使って移送しつつある。その行き先は、議会軍のラシュトロス基地。ネレイから王国中南部のラシュトロスまでの距離を飛び越えて、あれだけの大部隊をたちまち展開させるとは……我々はギルドの組織力を見くびっていたらしい」
 彼がギルドの動きを説明した途端、指揮官たちの間に冷淡なざわめきが起こる。
 中でも1人、40代半ばほどの顎髭を生やした男が、高慢な口振りで言った。
「大平原の外れに位置する……あのラシュトロスに? では、ギルドの軍は、ナッソス領を突破して東側からベレナに攻め込むつもりなのですな。まったく己の分をわきまえぬ馬鹿者たちだ。たかが冒険者や軍人崩れの寄せ集めが、ナッソス家の大軍と正面切って戦おうなどとは。所詮、素人の考えることなど、その程度……」
 風体からして、彼は恐らく地方の貴族といったところであろう。その言葉を皮切りにして、他にも何名かの者たちがギルドの行動をあざ笑った。
 だがギヨットは、彼らの嘲弄を冷ややかな目で眺めている――むしろ彼らの方にこそ、侮蔑の眼差しが向けられるべきだと言わんばかりに。
 ギヨットは首をゆっくり左右に振りながら、涼しい目をして告げる。
「いや、諸君……ギルドの力は侮れぬ。現に彼らは、議会軍ですら手を焼いた海賊集団や野武士たちの群を、いとも簡単に平定している。それも一度や二度ではない。ギルドの戦士たちはアルマ・ヴィオの扱いに長け、戦いにも慣れている。装備の上でも、ギルドは旧世界の機体を大量に発掘し、また極めて戦闘力の高い飛空艦を何隻も保有しているのだ……」
 指揮官の多くは、訝しげな顔で彼を見た。飛び交う失笑。昔気質の高級軍人の中には、ギルドを毛嫌いする人間が多いせいか、ギヨットの今の発言によって機嫌を損ねる者すらいた。
「ははは。ギヨット殿もお人が悪い。何ゆえ奴等の肩など持たれるのですか?」
「全くですとも。海賊どもとの戦いなど、名誉ある軍人が本気で関わることではありますまい。同じ無法者たち、ギルドの奴等に任せてちょうど良いのです」
 いくら英雄ギヨットの口から出たものだとはいえ、皆、彼の警告をなかなか本気にしようと思っていない。
 ただ一人だけ、急に苦虫を噛み潰したような表情になった者がいた。ひときわ目立って大きい体格を、濃紺のジャケットで包んだ海軍士官である。
 コルダーユ沖の海戦で飛空艦クレドールと戦い、予想外の大敗を喫した男――《ギベリア強襲隊》の常勝不敗という名誉を喪失させ、無惨な敗軍の将に転落した、あのブロード・ガークス艦長だ。
 ここ数日、ずっと屈辱感に苛まれ続けているガークスは、クレドールやギルドへの復讐を固く誓っていた。今も彼は拳を震わせ、こみ上げる怒りを必死に押さえる。ギルドを侮蔑する仲間たちの声が、そのギルドに敗れた己に対して、なおいっそうの愚弄をあびせているように聞こえてしまうのだ。
 自ら末席に座し、鬱々と議事に加わっていた彼の耳に、突然、ギヨットからの願ってもない提案が飛び込んできた。
「……そこでガークス大佐、いや、ガークス同志よ。レンゲイル要塞線に配備されている飛空艦を何隻か、君の艦隊に加えようと思う。それらを使ってギルドの進撃を見事抑えられるか? 彼らは手強い。だからこそ、海軍有数のエリート部隊を率いてきた君にこの役目を任せたいのだ」
 それまで俯き気味であった顔を上げて、ガークスは目を輝かせる。
「光栄であります。このガークス、命に代えましても! それでは早速、ナッソス公の支援に……」
 まさに立ち上がらんばかりの気勢。が、ギヨットは銀の髪を静かに揺らして、ガークスの言葉を遮った。
「そう慌てずともよい。今はまだ、機が満ちていない。あと数日……」
「と、おっしゃいますと? 何故でございますか?!」
 あの海戦以来、ろくに手入れもしていない髭面を歪めて、ガークスはあからさまに納得しかねるという素振りを見せた。
 老成したギヨットのこと、勿論、何か計略があるに違いないのだが。
「まぁ、落ち着きたまえ。ギルドの主力部隊がミトーニアに攻め込むまでに、あと2、3日はかかるだろう。その後もナッソス城は、1日や2日では落ちまい。ギルドの飛空艦隊の動向がよく把握できぬことからして、恐らく敵方にも何か策略があるかもしれないが……たとえいかなる事態に陥ったとしても、ナッソス軍は、少なくとも《数日間は持ちこたえて》くれるだろう」
 ギヨットの言葉は、ナッソス軍の敗北を暗示しているようにさえ聞こえる。その場にいた者たちは唖然となった。
 同志たちの顔を平然と見回した後、ギヨットは話を再開する。
「つまり……仮にギルドがナッソス家に勝利して、このベレナの近郊で議会軍本隊と合流できたとしても、その頃には、帝国軍もオーリウム国境に到着し始めるというわけだ。そうなれば、議会軍の総攻撃など恐れるにたらん」
「それでは万一の場合、ナッソス家を犠牲にするとおっしゃるのですか?」
 不信に思うガークス。彼自身、渋々ながらもギルドの強さを認めぬわけにはいかない。オーリウム屈指の大貴族であるナッソス公爵家が、単なる繰士組合に――つまりエクター・ギルドに破れることも、考えられぬ結果ではなかった。
 他方のギヨットは淡々とした口振りである。彼は仲間たちに一礼すると、懐から煙草を取り出しつつ、あたかも他人事のように語った。
「構わぬよ……全てはナッソス公の御意志なのだ、ガークス君。何度も使者を送ったのだが、毎回、援軍など要らぬとお断りになられた。要するに公爵は、御自身の手勢だけでギルドの軍に勝利できると確信なさっているようだ。ならば、我らの貴重な兵力……無理に割かずともよかろう。たかだか私的な傭兵軍を相手に、名門ナッソス家が他人に助力を請うことなど、むしろ恥ずべきことだとお考えらしい」
 そこから先の台詞は、ギヨットの心の中で続けられた。
 ――王国の保守派貴族の筆頭……ナッソスが、こちらから仕掛けなくとも自滅してくれるわけか。これで宮廷の意思を妨げる邪魔者はいなくなる。おまけに時間稼ぎのための捨て石にもなってくれるというのだから。せいぜい好き勝手に踊っているがよい。哀れなことだが、全てはこの国のため……。

 ◇ ◇

「わぁ! 先生、ルキアンさんがお目覚めですよぉ」
 間の抜けた声が、耳を右から左へと通り抜けていく。
 フィスカの言葉が聞こえたことで、ルキアンはようやく自分に意識があると気づいた。まだ頭の中が朦朧としている。
 ここは何処?――そんなことなど、すぐには考えられなかった。上体を無意識に起こしたとき、背中の下に柔らかさを覚えた。
 ――ベッドの上? あれ、僕は……。
 ふわりとした布団の感触。
 濃厚だが、高雅な落ち着きを感じさせもする、どこか異国風の香りが周りに漂っている。
 それは昔のにおいがした。

「バラは好きですか?」
 この声の主を捜して、ルキアンはこぢんまりとした部屋の奥に目を向ける。
 白い法衣をまとった華奢な背中が、ぼんやり見えた。
 よく分からない。
「め、眼鏡……」
 ルキアンは枕元を手探りする。体を動かしているうちに、少しずつ記憶が整理されてきた。
 ――あれから、僕はどうして……。
「はい、これ。メイお姉様が外しておいてくれたんですよぉ」
 白衣の娘がすかさず飛んできて、ルキアンに彼の必需品を手渡した。おっとりしているように見えるフィスカだが、それは彼女の呑気な話し方から受ける印象にすぎない。実際の彼女は、甲斐甲斐しく、意外なほどよく動く。
「あ、ありがとう……ございます」
「えへっ。どういたしましてですぅ」
 ぱっちりと開かれた、愛くるしい瞳。
 無邪気な笑みを見せたフィスカに、ルキアンは頬をうっすらと赤らめる。
 多感な年頃の少年は、慌てて周囲に目を泳がせた。
 小綺麗な家具や調度品にも見覚えがある。それも、つい最近の記憶……。
「野バラの香りを東方のお茶に加えたものだそうです。コルダーユに立ち寄ったときに、フィスカが市場で買ってきてくれました。あの港には色々と珍しいものが入ってきますからね」
 ポットやティーカップを乗せた盆を手にして、シャリオが振り返った。昨夜、見事な黒髪を風になびかせていた彼女だが、今朝はまた丁寧に編み直している。表情も穏やかそのものだった。
 ベッドの上に座り込んだままのルキアン。
 彼の前をフィスカが何度も行ったり来たりしているうちに、朝食の用意が瞬く間に整えられていった。
 一本足の手狭な丸テーブルの上に、洗い晒しの草色のテーブルクロスが掛けられる。そこに置かれたのは、薄切りのパンが並ぶ編み籠と、マイエおばさんお手製のジャムの入った小瓶、それからハムや野菜をのせた3枚の皿。ひとつだけ量の多い皿は、ルキアンの分であろう。
「できましたぁ!」
 フィスカが満足げに手をたたいていると、シャリオもこちらにやって来た。
 促されるままに、ルキアンも席に着く。
 椅子に力なく体をゆだねて、彼は低い目線でテーブルの上を見た。
 視界の中で白いポットがかすんでいる。野菜の赤、緑の色も。

 ――行っちゃダメ。やだやだ。ルキアンとずっと一緒がいいの!
 ――心配いらないよ。僕はいつでも一緒だから……。

 ――ルキアンのバカ、どうしてメルカを置いて行っちゃったのよ! バカ、バカバカ! ルキアンなんか嫌いーッ!!
 ――ごめん、メルカちゃん。もうどこへも行かないから……。

 意識が元に戻った途端、メルカの言葉と、彼女に対して自分が告げた言葉が、否応なしに浮かんでは消える。
 ――嘘つき。……僕は、うそつき。
「ルキアン君?!」
 シャリオが血相を変えて彼の手を取る。
 突然、彼は頭をかきむしり、机に突っ伏そうとしたのだ。
「うわぁっ! もう分かんない、分かんないよぉーっ!!」
「落ち着いてぇ、ルキアンさん、気を確かに!」
 驚いたフィスカも、必死にルキアンの肩を押さえる。だが、なおも額をテーブルに打ち付けようとするルキアン。
「僕はどうしたらいいの?! うわぁぁぁっ!」
 シャリオは毅然とした調子で頷いて、椅子から立ち上がった。
 ――この子は……。
 彼女は力一杯ルキアンを抱きしめ、しばらくして彼の動きが止まると、その頭を優しくなでた。
「そういうときは、思いっきり泣きなさい……何も考えずに」
 彼女は一言ずつ、諭すようにつぶやく。
「男だからって、戦士になるからって、それでも泣きたいときには泣いて構わない。辛かったのですね……今までずっと、あなたはそうやって他人に感情をぶつけることがなかったのでしょう? 可哀想に、きっとこの子は誰にも抱きしめてもらえず、温かい腕はいつも傍らを通り過ぎ、たった独りで……」
 シャリオの胸に顔を埋めて、ルキアンは嗚咽した。
「本当はね、ほんとはね、僕……」
「いいえ。今は何も言わなくていい。あなたの心は、決まっているのでしょ?それで良いって、誰かに言ってほしいのでしょ?」
 シャリオはルキアンの耳元でささやいた。
 彼は無言でうなずく。

 どのくらいの時が過ぎただろうか。ルキアンはシャリオの腕から離れた。
 彼はべそをかきながらも、澄んだ目をしてこう言った。
「ごめんなさい。僕、疲れちゃって……。今日までずっと疲れて、惨めで……。だけど、もう大丈夫です。シャリオさんの言うとおり、思いっきり泣いたら気持ちが晴れ晴れしました。何度もすいません、迷惑をお掛けしてばかりで」
 ルキアンは落ち着いた手つきで食事をし始めた。ほっそりとした指先が、白いカップに触れ、そっと持ち上げる。
「あ、あの、ルキアンさん……ほぇ?」
 フィスカが思わず首を傾げてしまったほどに、彼の様子は、うって変わって冷静に見えた。
「昨日の晩、せっかくみんなに励ましてもらったのに。自分の決めたことには、最後まで責任を持たなきゃ。恥ずかしいですよね。いつも、頭では分かってるんですけど……。あ、そう言えば、メイやクレヴィスさんは?」
「つい今までここにいましたわ。もうすぐ出港の時間なので、2人とも持ち場に戻られました。ルティーニさんやバーナンディオさんも、心配して見に来てくれたんですよ。みんな、あなたのことを……」
 品良くお茶を口にしていたシャリオが、一息入れた後に答えた。
 ばつが悪そうに、はにかんだ笑みを見せるルキアン。
「そうだったんですか。皆さんが……。あの、朝食をいただいたら、ブリッジのクレヴィス副長やカルダイン艦長のところに行って挨拶してきます。ありがとうございました。もう大丈夫です……本当に」

 ◇

 ルキアンがベッドに横たえられていた間に、クレドールの乗組員たちは全て配置に着き終わり、出港の時を今や遅しと待ちかねていた。
 艦橋のクルーたちも、ほぼ出発が可能なところまで準備を整えている。
 朝から一寸の気のゆるみもなく、背筋を凛と伸ばしたセシエルが、急かすような口調でクレヴィスに告げた。
「ラプサーからまた念信です……フェイン副長からの催促、これで2回目よ。アクスの方も動力機関に点火し始めているって。どうするの? ちょっと、クレヴィー! 聞いてる?」
 返事が帰ってこなかったので、セシエルは眉を少しつり上げる。
 他方のクレヴィスは、ナッソス領付近の《宙海図》を開いて、先ほどからじっと眺めていた。
 ちなみに宙海図というのは、書いて字のごとく、空の航海図である。対象となる空域について、そこに存在する浮島や浮遊岩礁帯の位置・規模を克明に書き記し、同時に霊気の乱れ具合を等高線状の図式で示したものだ。大空に島々が漂う世界、イリュシオーネならではの地図だと言えよう。
「分かりました。まったく、フェイン副長にはかないませんねぇ……ふふふ」
 クレヴィスは背後のカルダインを振り返って、呑気に言う。
「一応、こちらも動力機関を暖めておきますか。カル?」
「あぁ。そうしてくれ。カムレス、主翼とそれぞれの《鰭(ひれ)》の調子はどうだ?」
 いつもの通り、カルダインの態度もごく安定したものだ。眠気覚ましに一服しながら、艦長席で堂々と構えている。カルダインは日頃より入念に髭を刈り込んでいた。久々の本格的な《戦場》に備えて、彼なりに気合いを示しているのだろうか。
 カムレスは、舵輪の脇に並ぶ多数のダイヤルやレバーを操作しながら、助手たちにも再三の指示を与えていた。
 ひと通り落ち着いた後、彼は機嫌良さそうに返答する。
「艦長、こちらは問題ない! ネレイの技師連中もやるじゃないか……《尾びれ》の反応速度は普段より少し上がっている。ほかの鰭も、両方の主翼も、至って快調だ」
 しばし黙想したカルダインが、再び目を見開いた瞬間。腹の底から響くかのような声で、彼は悠然と命じた。
「よし。《触媒嚢》および《霊気変換炉》(*1)、点火せよ! 補助《揚力陣》への回路を開き、続いて中央揚力陣(*2)……」
 それを受けて、あちこちからクルーの声が飛ぶ。
「了解! 動脈弁、解放!!」
「触媒嚢に異常なし! パンタシア変換(*3)開始。霊気濃度、10、20……」
「中央揚力陣の作動まで、カウントダウン!」

 水中に没している船腹部に灯りが点った。青白い光の筋が、中央から周辺部へと放射状に走り、複雑な幾何学模様を描いて広がっていく。クレドールの腹部に、いくつもの円陣や方陣、さらには多角形の不可思議な紋様が次々と輝いた。その光は次第に強まる。

 カムレスは青紫のベレーを被り直すと、堂に入った手つきで舵輪を握った。
「中央及び補助揚力陣、描画完了を確認。主翼、起動!」
 《鏡手》のヴェンデイルも、彼らしい軽妙な喋りで伝える。
「進行方向、異常なし。さい先がいいな、今日も見ての通りの晴天だよ!」
 そして、最後に渋い声で決めたのはカルダイン。
「クレドール、発進せよ!!」

 いち早く準備していたラプサーが浮上し、それにクレドール、アクスと続く。
 どの艦も水平姿勢を保ったまま、驚くほど滑らかに上昇していく。揚力陣のおかげで、あの巨大な飛空艦がほぼ垂直に離陸できるのだ。
 3隻の船が列をなして悠然と浮揚していく様は、まさに壮観であった。

 波立つ人工湖の上から、多くの飛空艇が遠巻きに見守る。
 埠頭にもギルド本部の人々が詰めかけ、盛んに手や旗を振っていた。
 歓声。肩を抱き合う若者たち。旅立ちの歌を高吟する者。空砲を撃って気勢を上げる兵士。街の人々も港の周囲に集まり、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。

 高度を得られるに従って飛空艦が羽ばたき始めると、港の周辺の木々が葉を鳴らし始めた。風はますます強くなり、あの古い運河沿いの街路樹も激しく揺さぶられている。
 なおも上昇を続ける3隻は、次第に水平飛行へと移った。それらの姿も徐々に小さくなり始める。

 本部のテラスから、デュガイス・ワトーがじっと見つめていた。
 青空に点々と浮かぶ綿雲の間、朝日を浴びてクレドールの白い船体が光る。
 ――頼むぞ、カルダイン……。
 彼は心の中でそう呟くと、ゆっくりと踵を返して建物に入っていくのだった。

 ◇

 ネレイを出港した後、クレドールは順調に速度を上げ、その翼で高速の気流をとらえていた。鋼の白い飛び魚は、優美な体と多数の鰭を巧みに操って、心地よさげに風の中を遊泳する。
 快速を誇るラプサーが先頭に立ち、その右斜め後ろに旗艦のクレドール、左斜め後ろに、両艦を護衛するアクスが位置している。3隻の飛空艦は、ちょうど三角形の隊列を形成していた。
 艦隊はネレイからいったん北西に進路を取り、例の《魔の山》パルジナス山脈を迂回した後、イゼールの樹海の一部を横切って南に下る予定である。
 黒っぽい針葉樹の森が、眼下の盆地でまばらに広がる。明るく開けた木立が続くその風景は、昼なお暗いイゼール森に比べれば全く牧歌的だと言えよう。
 両岸に木々を従え流れゆく大河は、ネレイの街へと至るアラム川だ。
 盆地の西端に目をこらすと、天然の城壁のごとく南北に伸びる山並みが見える。それが、あのパルジナスに他ならない。刺々しい岩山が細長くどこまでも連なっている様相は、龍が大地に横たわっている姿を想起させる。

 忘れもしない山々の姿を《複眼鏡》でちらりと眺めると、ヴェンデイルは大げさに肩をすくめた。
「やれやれ。パルジナスか……遠くから見物しているだけでも冷や汗が出てくるね。妙なところに迷い込むのはもうごめんだよ」
 艦橋の各員の様子を見て回りながら、クレヴィスが答える。
「大丈夫ですよ。パルジナスから十分に距離を取って進みます。今回の場合、あの山脈を越えようが迂回しようが、さほど時間に違いはないですから。まぁ、私としては、もう一度あの《塔》を見に行っても構わないんですけどね。ふふふ。どうしたんです、ヴェン、青い顔して?」
「わ、悪いけどオレは遠慮する」
 細く束ねた金髪を揺らして、ヴェンデイルは慌てて首を振っていた。とんでもないという表情である。
 無事に離陸を終えて、張りつめていたブリッジの空気も少し和らいできた。勿論、クレドールは戦場に向かっているのだから、また別の緊張感が艦内で高まりつつあるのも確かだが。

 そのとき――艦橋の中をそっとのぞき込んだ者がいる。瑠璃色のフロックを着た、か細い中背の少年である。
「え、えっと、ルキアン・ディ・シーマーです……入っていいですか?」
 子鹿が飛び跳ねるような、頼りなく滑稽な動きで、彼は部屋に足を踏み入れた。不慣れな様子できょろきょろと辺りを見回し、クルーたちの席に時々ぶつかりそうになりながら、彼はカルダインのところに辿り着くのだった。
「あの、艦長、バーシュ艦長……」
 ルキアンは恐る恐る声を掛けた。
 例によって、カルダインは腕組みしたまま押し黙っている。返事がない。
 そのいかつい体格と荒々しい髭面に気後れして、ルキアンは先程よりも細い声で繰り返した。
「あの、すいません……」
「お、おぉ、君か!」
 突然、カルダインが野太い声を出し、一段高い艦長席からひらりと身を翻したので、ルキアンは驚いて後ろに下がってしまった。
 すると今度は、息を鋭く吸い込むような感じで、若い女が叫んだ。
「きゃっ!」
「す、すいません。ごめんなさい!!」
 足を2、3歩引いたときに、ルキアンはセシエルの爪先を踏みつけていたのだ。おまけに彼女のロングスカートの裾に足先が引っかり、彼はもう少しで転んでしまうところだった。
 そんなルキアンの様子を見て、ヴェンデイルが吹き出した。
「あまり遠慮しすぎると体に悪いよ、ルキアン君。でも仕事中のセシーを邪魔するのは避けた方がいい。彼女が怒ると、メイやマイエおばさんよりもずっと怖いんだぞ……おっと、いけない」
 セシエルに途中で睨まれたので、ヴェンデイルは薄ら笑いでごまかした。
「僕って、どうしようもなくドジなので……。足、痛くなかったですか?」
 真っ赤な顔で謝るルキアンに、セシエルは珍しく笑って見せた。といっても、秀麗な目元が微かに動いただけだったが。
「大丈夫よ、気にしないで。でもルキアン君って面白い人ね。メイが面倒見ずにはいられないと言うのも、ちょっと分かる気がするわ」
 並々ならぬ美女というだけあって、セシエルが微笑むと、大抵の男はその表情に思わず見入ってしまう。彼女の理知的な目は、ツンと取り澄ましたような冷たさをも漂わせているのだが、そこにまた一種独特の魅力があった。
「え、それって、どういう……」
 ルキアンも例外ではなく、セシエルの端正な面差しや、しっとりと流れる髪につい見とれていた。話の中身はもはや上の空である。
 ――こうして近くで見ると、本当に綺麗な女性(ひと)なんだ……。
 彼がお得意の妄想に浸っている間に、セシエルはさっさと仕事に戻った。
 再び静まったブリッジの中で、はたと気づいて自分の馬鹿さ加減に恥じ入るルキアン。
 穴があったら入りたい気持ち。彼がそのまま突っ立っていると、背後で穏やかな声がした。
「少しは落ち着きましたか、ルキアン君?」
 振り返ったルキアンに、クレヴィスがにこやかに頷いてみせた。
 早朝に釣りをしていた時の彼は、どことなく旅の貧しい絵描きを思わせる格好をしていたが――今は普段の通り、珊瑚色も目に鮮やかなウエストコートに茶色のクロークをまとい、ギルドの青紫のクラヴァットを襟元に巻いている。
「クレヴィスさん、さっきはご迷惑を……」
「いや、いいんですよ。私の方こそ、急に無理を言って申し訳なかったと思っています。とにかく、あなたが一緒に来てくれて嬉しいです」
 クレヴィスはそう言って彼に手を差しのべた。
 見る見るうちにルキアンの瞳が輝きを増す。
「ありがとうございます!」
 感激にうわずる声。握手するルキアンの指にも自然と力が入った。
「あ、艦長?!」
 今度はカルダインの頑丈な手が、対照的に華奢なルキアンの肩に置かれる。
「よろしく頼む」
 特に表情の変化も見せず、その一言だけを告げると……カルダインは何事もなかったかのように自分の席に腰掛けた。無愛想に思えるかもしれないが、別に悪気があるわけではない。この簡単な挨拶は、いかにも彼らしかった。

 ◇ ◇

 同じ頃、クレドールの格納庫にて。
 普段よりも多数のアルマ・ヴィオが搭載されているためか、本来広いはずのこの空間も、何となく窮屈に感じられる。
 薄暗がりの中で沈黙する巨大な生体兵器たち。それらの輪郭に沿って、目線を上方に移動させていくと、天井あたりでようやく広い空間が見つかる。
 頭上に開けた空っぽの影を貫いて、ドーム型の屋根付近にある小窓から朝の光が射し込んでくる。
 その明かりの下に、3つの人影が浮かび上がっていた。
 すらりとした長身にコートを引っかけているのは、ベルセアである。飛び抜けて高いその背丈のおかげで、一目で誰か分かった。最近のエクターたちの流行を取り入れて、彼はダブルのコートの裾を短く切り詰めている。
 もう1人は、その服装や髪型からすると、細身の若い男のように見えなくもない。だが、薄明の中にたたずむそのシルエットは、優美かつ大胆な曲線によって形作られており、普通の女以上に女性的だった。その姿態と時々聞こえてくる高笑いから考えて、彼女はメイである。
 そしてベルセアとメイに何やら話しているのが、紛れもなくサモン・シドーだ。訛りのきついオーリウム語を使って、サモンは目の前のアルマ・ヴィオの構造を説明しているらしい。
 ひときわ目立つ大型のアルマ・ヴィオの傍らに、彼らは立っていた。
 サモンの愛機、今回新たに積み込まれた《ファノミウル》である。
 飛行型というのは、その長大な翼のためにただでさえ場所を取ってしまう。しかもファノミウルは重アルマ・ヴィオのクラスに属するだけあって、他の機体の数倍に及ぶ床面積を占めていた。
 ずんぐりとしたその姿はフクロウに似ている。隣で精悍な姿を見せているラピオ・アヴィスに比べると、あまり速そうには感じられない。反面、対地用に作られたファノミウルは、巨体に似合わず小回りが利き、特殊な羽ばたき方をする翼によって空中で静止することもできてしまうのだ。
「さすがに重アルマ・ヴィオね。この武装、たった1機で戦争できそうだ。たまげた……」
 せわしなく歩き回って、メイはファノミウルを色々な角度から眺めていた。
「この大きな爪! こんなので掴まれたら、イチコロよね」
「まったく。もしサモンが反乱軍にいたら……こっちにしてみれば、ずいぶんヤバいことになっていただろうぜ。へへ」
 ベルセアはそう言って冷やかすと、奥に置いてある自分のアルマ・ヴィオの方を見やった。
 地を駆ける疾風の如き、鋼の狼リュコス。この手の高機動タイプの陸戦型は、圧倒的なスピードを駆使して、我が物顔で地上を暴れ回ることができる。しかし上空からの攻撃には滅法弱いのだ。対地用の飛行型アルマ・ヴィオは、まさに天敵なのである。
 ファノミウルは、特に急降下による強襲を得意とする機体なのだが――半月刀の如き鉤爪を備えた不釣り合いなほど大きい足が、そのことを如実に物語っている。
 背中には多連装式のマギオ・スクロープが2門。腹部には、大型の広角マギオ・スクロープの発射口が、その恐るべき姿を誇示している。驚いたことに、クレドールの主砲よりも口径が大きい。
「ちょっと下の方も見せてもらっていい? あたし、飛行型重アルマ・ヴィオって、近くでじっくり見たことないのよね……ほとんど」
 メイがそう言うのも無理はなかった。この種の機体は、通常は軍にしか配備されていない。飛行型重アルマ・ヴィオによる大がかりな《爆撃》など、戦争にでもならない限り必要ないのだ。ギルドのエクターたちが請け負う小さな仕事――あるいは冒険者たちの言う《クエスト》――にとっては、むしろ軽快で汎用性のある通常の飛行型の方が向いている。
 言うが速いか、メイはサモンの返事も待たずに、腰をかがめてファノミウルの腹側に潜り始めた。
「あいたた! 頭、打っちゃった。もしかしてこのアルマ・ヴィオ……結構、足、短い? あ、ごめんごめん。サモン、悪気はないのよ。えへへ」
 そこで彼女は、腰の剣を外してベルセアに押しつけたかと思うと、今度は四つん這いになって機体の下をくぐっていく。
 はしたない格好を真後ろで見せられ、ベルセアは呆れ顔で言った。
「おいおい。困ったな。こいつ、いい年してこれだから……」
 乱れた前髪の下で、サモンも目のやり場に少し困っている。
 そんな男どものことなど気にも掛けず、メイは前に進んだ。
「へぇぇ、裏側の装甲も結構厚いんだ。対地型だからね。でもこんな重い体では、やっぱり飛ぶのが遅いわけか……。あら? あの声……こんなところで何してるのかしら?」
 機体の真下あたりに来た頃、彼女の行く手の方から聞き覚えのある声が伝わってきた。
 ファノミウルの向こう側、つまりベルセアたちが居るのと反対の側からだ。
 メイはまた頭を打ちそうになりながら、声の方へと近づいていく。
「ねぇ。《あなた、何なの》?」
 微かに聞こえてくるのは、少女の声。ソプラノの繊細な声なのだが……あまりに抑揚がなく、無機質に過ぎた。
「わたし、知ってるの。あなたが《そこ》にいるって。どうして隠れてるの?」
 ――あれは、やっぱりエルヴィン……独りで何を喋っているのかしら。
 メイは身をさらにかがめて、ほふく前進さながらの姿勢で近づいた。
 そこで彼女の目に移ったのは、白い薄物のドレスをまとった少女である。
 確かにエルヴィンだ。彼女は宙を見つめ、闇に向かって手を伸ばしている。
 ――ちよっと不気味よね。あの子、また何か妙なことを。あら? あれはアルフェリオン……。
 エルヴィンの前でアルフェリオンの銀の甲冑が鈍く光っていた。それに気づいたメイは、もう少し様子を見ることにする。
 不意に、エルヴィンは暗がりの中で2、3回ターンすると、ぞっとするような声で笑った。
「ふふふ。出てきなさいよ。《泣いて》ばかりいないで。《怒って》ばかりいないで」
 エルヴィンはアルフェリオンの脚に頬を当て、ひんやりとした肌触りを楽しむかのように目を閉じる。
 今のエルヴィンの声に、さすがにベルセアたちも気づいたらしい。
 メイとエルヴィンの名を呼ぶ声がする。
 暗闇の中で聞く少女の笑い声というのは、ある意味、魔物の雄叫びよりも不気味な場合があろう。さすがのメイも背筋に冷たいものを感じたが、さらに息を飲んで、ファノミウルの下に潜んでいた。
「寒いの? 血がほしいの? そうよね。あなたは《何》なの。《どうして》、《そこ》にいるの? さぁ、答えて」
 意味不明の内容。甲高い響き。エルヴィンの声はいっそう不気味さを帯びる。
 瞬間、にわかに別の少女の悲鳴が聞こえた。
「メルカちゃん?!」
 メイは思わず飛び出していた。
 アルフェリオンの後ろから、おずおずと袖を握って顔を出したメルカ。
「こ、怖いよ……このお姉ちゃん、怖いよぅ!!」
 寝間着のままのメルカが、メイに飛びついてきた。
「この子ったら! こんなところに、いつの間に……」
 腕の中で震えるメルカを、彼女はしっかり抱きしめた。
「どうした、メイ?!」
 やっとベルセアとサモンも駆け寄ってくる。
 呆然と立ち尽くす3人。エルヴィンは、彼らのことなど眼中にないようだ。
「……くすっ」
 目を虚ろに開いたまま、エルヴィンは口元だけで笑った。
「メイお姉ちゃん! 怖いぃ!!」
 メルカはメイの首筋に顔をすり寄せ、必死にエルヴィンを避けようとする。
「まぁ、可愛い子。綺麗な髪……お人形さんみたい。わたしも、こんな人形、ほしいな」
 何とも気味の悪い台詞だった。ほっそりとして、透き通るほどに白いエルヴィンの手が、メルカの豊かな巻き髪をなで上げようとする。
 メイは反射的に体をひねってメルカを隠す。
「ちょっと、エルヴィン。あまりメルカちゃんを怖がらせないで! いくらこの子が勝手に船に乗っていたからって、あそこまで脅かさなくてもいいんじゃないの?」
 メルカはメイの腕の中で、哀れなほど体を震わせていた。
 エルヴィンの口から出てきたのは、全く予想外の言葉だった。
「何のこと? 私、この子とお話ししていたんじゃないわ」
 エルヴィンは背後の闇に向かって振り返り、悪戯っぽい声でささやく。
「ねっ……」
 いよいよもって、メイは薄ら寒い気持ちになった。
 ――相手はメルカちゃんではなかった? 一体、《誰》と話していたの?!
 唖然とする彼女は、小声でむせび泣くメルカをもう一度抱きしめた。
 去っていくエルヴィンの背中を見つめながら……。


【注】

(*1) 飛空艦は、霊的エネルギーを物理的エネルギーに変換することによって動力を得ている。つまり自然の中に漂う霊気を吸収し、発生させた膨大な魔力を、精霊界の力によって熱や爆発力に変えるのだ。《触媒嚢》とは、吸収した霊気を凝集・増幅し、魔力の発生を加速させる生体機関。これとセットになっている《霊気変換炉》が、触媒嚢から送られてきた魔力を使って精霊界に働きかけ、物理的エネルギーを作り出す。ちなみにアルマ・ヴィオの動力源も飛空艦とほぼ同様であるが、《触媒》の仕組みが大きく異なる。注3を参照。

(*2) 巨大な魔法陣によって、飛空艦に揚力を与えるシステム。そのおかげで飛空艦は宙に浮くことができる。ただし揚力陣は、主として船体を浮かせるためのものであって、さほどの推進力を与えるものではない。飛空艦が実際に飛ぶためには、鳥や魚と同様に、翼や鰭、あるいは胴体のしなやかな動きを用いなければならないのだ。

(*3) 前述(*1)の、霊気を集めて物理的エネルギーを作り出す働きを、パンタシア変換という。《触媒嚢》を使って霊気から魔力を発生させるためには、本来なら特殊な霊的エネルギーが必要とされる――それが心の力《パンタシア》(夢力)である。すなわち、触媒として使用される特殊な鉱石は、人間の思念を送り込まなければその効果を発揮しないのである。アルマ・ヴィオの場合、エクター自身のパンタシアが、そのまま触媒嚢に送られる(つまりエクターは単なるパイロットではなく、アルマ・ヴィオの動力器官の一部という役割も果たす)。ところがエクターを持たぬ生体機械である飛空艦は、人間の持つパンタシアに近い霊的波動を擬似的に発生させ、相当に効率の低い仕方で触媒を働かせているにすぎない。正確に言えば、飛空艦の場合、《疑似パンタシア変換》が行われているのだ。なお、飛空艦の不完全な触媒を補うのが……《柱の人》の持つパンタシアである。《柱の人》がいるクレドールの場合、アルマ・ヴィオに近い形で触媒が効率的に働くので、出力も飛躍的に向上している。

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