HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第14話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  たとえ君が「選ばれし者」ではなかったとしても、
  私は君に思いを託し続けるだろう。
  その瞳に宿る、同じ光を信じて。



 ラプルス山脈の春は遅い。世界の至るところで緑が芽吹き、野の花の蕾が開き始めていたとしても、新たな季節の光に満ちあふれた大地の中で、この山々だけが今しばらく雪と氷に閉ざされ続けるのだ。

 春はまぼろし、秋はひとときの夢。
 過酷なこの地域にあるのは、短い夏と長い冬だけだった。
 新たな季節を告げる鳥たちはまだ啼かぬ。
 南からの暖かなそよ風も、ぬくもりを日ごとに増す陽の光も、峻険な氷雪の屏風によって遮られてしまう。

 山裾に開けたアシュボルの谷も、いまなお白く塗りつぶされたままであった。
 一面の銀色の中、冬枯れ、凍てついた黒い木々がまばらに立っている。
 全ては沈黙し、生命感は無かった。

 だが、そんな灰色の世界の中で、不意に一点の光が輝いたような気がした。
 若い命の力。それは、瞬く間に周囲の彩りを取り戻していく。
 少年の元気な声が、冷たい空気を伝って谷間にこだまする。
「おーい、レッケ! 待ってくれよーっ!!」
 柔らかな雪原を蹴って走る足音。それに続いて、何かが滑る音。
 快活そうな赤毛の少年が、ソリを力一杯押しながら駆け抜ける。
 そうやって勢いをつけたかと思うと、彼は簡素な木のソリに飛び乗った。
「よぉーし、追いついたぞ。家まで競走だ!」
 急な斜面が目の前に広がる。多少の凹凸などものともせず、少年は巧みに滑り降りていく。彼は手綱でバランスを取りながら、荒馬を乗りこなす騎手顔負けの芸当を見せる。ソリを自分の思うままに操ることなど、この地方で育った男の子にとってはごく簡単なのだ。
 彼の髪型は、どこかヤマアラシを思わせる。向かい風でますます跳ね上がった前髪の下、雪の照り返しを受けて輝くものがあった。
 それは、金属やビーズ玉を糸でつなげて作った装身具である。額の真ん中にあたる部分には、真っ赤な玉石がはめ込まれている。厳しくも美しい自然の中で独特の文化を発達させてきたラプルスの民が、自分たちの部族の誇りとして身につけている品だ。
 風のように滑るソリの隣で、1匹の獣がそれにも劣らぬ速さで走っている。
 大きさも見かけもどことなく狼に似ているが、その動きはむしろ猫科の猛獣に近い。しかも額から角が真っ直ぐに生えている。背中の方の毛色は暗い金色だが、腹側の毛はちょうど周囲の雪のごとく白かった。
「相変わらず速いな、レッケ! でも今日はオレも負けないぞ。それっ!!」
 少年はその不思議な生き物に向かって手を振った。大口を開けて、屈託なく笑う彼。そのたびに白い歯が光る。
 少年の遊び相手をしているのは《カールフ》という生き物だ。それは単なる獣ではなく、寒冷な山岳地帯で比較的よく見かけられる《魔物》なのである。要するに、元々この世界の生態系に属する動物ではなく、夢影界パラミシオンからさまよい出てきた《モンスター》なのだ。
 だが性格は従順で、幼獣の頃から飼い慣らせば、犬と同様に人間の良き友とすることができる。それが可能であるということは、少年と無邪気に遊んでいるこのカールフの姿によって、見事に証明されている。
 彼らがものすごい速さで丘を越え、平原を走り抜けていくと、やがて小さな村が見え始めた。丸太を組んで作られている素朴な壁が、村の周囲を丸く囲んでいる。その中で身を寄せ合う家々。傾斜のきつい煉瓦屋根と、様々な絵が描かれた白壁が、どの建物にも共通する特徴だった。

「母ちゃん、帰ったぜ!」
 少年は、息せき切って家に駆け込んだ。後ろから例のカールフ、レッケも付いてくる。村はずれに近い、どこか玩具の箱庭のような可愛らしい住居である。
 玄関を開けてすぐのところに、キッチンを兼ねた居間があった。
 こぢんまりした部屋の端で、赤々と燃える暖炉。
「腹減ったよー。朝飯まだ?」
 少年は手袋を放り投げ、毛皮の襟が付いたコートを床に脱ぎ捨てた。玄関には、彼のブーツが左右ともバラバラの形で転がっている。
「痛ててっ!」
 少年はいきなり頬をつねられた。
 いつの間に現れたのか、前掛けをした女が横目で彼をにらんでいる。
 彼女は少年の背中を押し、ひとまず目の前のテーブルに着かせた。
「こら。行儀が悪いぞ! 何ですか、その脱ぎっぱなしの服と手袋は……」
 おそらく30代半ばだろう。家事に追われる所帯じみた母親という雰囲気だが、よくよく見ると、ちょっとした美人だった。年齢のわりに落ち着きがある一方で、同年代の女性に比べて少しやつれているようにも感じられる。
 気の強そうな顔つきとは裏腹に、その目には優しい笑みが浮かんでいた。
「アレス!! あんた……朝っぱらから遊び回ってないで、たまにはご飯の手伝いでもしてよ!」
「やなこった。オレだって、昼間はちゃんと羊たちの面倒見てんだぜー。じゃ、いっただきまぁーす!」
 話半分で、一目散にパンを頬張り始めた少年。
 母親は溜息をつくと、白い陶製のボウルを床に置いた。その中には、何かの動物のすじ肉や臓物らしき物が入っている。
「ほら、レッケ、あんたも早く食べなさい。後でミルクも持ってきてやるから」
 彼女に促されて、カールフも朝の食事を取り始めた。
 鋭い牙を持っているにもかかわらず、餌の肉塊を引き裂くというよりは、ほとんど丸飲みにする。犬や猫とは比べものにならぬ豪快な食べっぷりは、まさに猛獣のそれだった。

 この2人と1匹が、質素な山の家の住人すべてである。
 羊飼いの少年アレス・ロシュトラムと、母親のヒルダ。
 少年は数日前に16歳になったばかり。その日を共に祝ってくれるはずの父親は、とうの昔にこの世にはいなかった。
 アレスの赤い髪の色は母親譲りだが、母の巻き毛とは異なる真っ直ぐな髪質は、今は亡き父から受け継いだものである。
 自分も父のように立派なエクターになりたい、そしてお金を沢山稼いで母に楽をさせてやりたい――それがアレスの願いであり、夢であった。

 ◇ ◇

 同じ頃、ラプルス山脈の地中深くでも、別のドラマが繰り広げられていた。パラス・テンプルナイツの1人、魔道騎士セレナ・ディ・ゾナンブルームは、旧世界の遺跡へと続く入口をついに探し当て、あとわずかで《大地の巨人》と対面できるところにまで近づいたのだ。
 千尋の谷底、光の届かぬ闇を走る激流。それを上流へと辿っていくと、明らかに人工的に作られたと思われる地下水路に遭遇する。さらに進むと、その流れの源に広大な洞窟が広がっていた。地底の国と形容してもおかしくないような、果て無き暗黒の空間。古文書に書かれた《静寂の広間》とは、これのことらしい。
 この大ホールを起点として、上下左右に立体的に広がり、無数の枝洞を持つ鍾乳洞。その闇の迷宮の中で、遺跡へと続くわずか1本の通路を発見することは、通常ならば途方もない時間を必要とする。
 だがセレナたちは、旧世界の極秘文書を事前に入手していた。そこに記されている暗号めいた手引きに従って、彼女らはついに遺跡への通路を見出したのである。
 その秘密の文書において、《鷹の巣》と表現されている場所がここだった。百メートル以上の高さを誇る天然の地下聖堂――急傾斜の崖に沿って、漆黒の空間を上昇していくと、バルコニー状に突き出した岩棚に到達する。
 ここまでは、アルマ・ヴィオに乗ったまま来ることができた。だがこの先は、自らの足で進まねばならない。
 まさしく怪鳥の巣さながらに、不自然に突き出した岩棚の上。
 シルバー・レクサーを降りた近衛機装騎士たちが8名、ある者はランプをかざし、ある者は銃を構えて周囲の様子をうかがっている。
 赤の軍服に白いズボン、その上にいささか時代錯誤な銀色の肩当てと胸甲、そして王家の機装騎士の地位を示す黒のケープ。宮廷に直属する精鋭のエクターたちである。
「こ、これは?!」
 機装騎士が緊張した声で告げる。
 背後の壁面は、むき出しの岩肌ではなく、未知の金属で全て覆い尽くされていたのだ。ランプを向けると、銀色の鈍い光が反射してきた。そこには垂直に切り立った鋼の崖が……。
 息を飲む部下たちの背後から、セレナが姿を現した。
 最強の機装騎士団に相応しく、凛々しい衣装である。彼女の乗るエルムス・アルビオレの外装と同様に、白地に金の縁取りの付いた胸当て。腰には黄金づくりの鞘も鮮やかなサーベル。脚にぴったりと密着したブリーチズの上に、足首まである紺色の前垂れを付けている。
 パラス騎士団の1人と言えば、逞しいアマゾネスのような女性が思い浮かぶかもしれないが、実際の彼女は違っていた。意外に小柄、顔つきは清楚でいて、見る者に女を強く意識させる容姿の持ち主である。
「これこそ、遺跡への入口です。間違いありません……」
 彼女がそう言って金属の壁に近づいていこうとしたとき、機装騎士の誰かがまた声を上げた。
「セレナ様、扉がありました! こちらをご覧ください」
 何の隠しだてもなく、あっけないほど真正面に扉が待ちかまえていた。ただし、それは極めて頑強で、容易には開きそうもない。
 静かに頷いたセレナ。落ち着いた足どりに応じて、肩口ほどの長さの金髪が揺れ、左右の耳のイヤリングが青く光った。
 鼻筋のひときわ美しい横顔。固く結ばれたその口元は、彼女の尋常ならぬ意志の強さを想わせる。繊細な睫毛で飾られた目は、人並み以上に大きいだけではなく、射るように鋭い眼光をも備えていた。その瞳は見るからに知性的であり、生真面目で、しかし冷たく寂しげでもあった。
 行く手をはばむ扉は、おそらく現世界の人々の想像をはるかに越える材質で作られている。賢明にもセレナは、目の前の障害を力ずくで突破しようとは考えていないようだ。
 ごく平静な動作で、セレナは周囲の様子を細かく観察している。その態度から考えて、彼女は何らかの策を事前に用意してきたらしい。
 しばらく思案していた彼女は、やがてごく小さく、微かに首を縦に振った。
 それを目ざとく見て取った部下が、彼女の前に進み出る。
「セレナ様、まず我々がトラップの調査を……」
 彼女はそれに同意する。無言のまま、マントを翻した。そこにはパラス騎士団の紋章である猛々しい竜が描かれている。黒きドラゴンが上体を持ち上げ、翼を誇示し、今まさに炎を吐こうとしている姿が。
 5、6名の機装騎士たちが、それぞれ持ち場を分担しながら、慎重に罠や隠し扉などの有無を検査していく。何しろここは旧世界の極秘施設である。どんな仕掛けが備えられているやら、分かったものではない。
 それでも幸い危険らしい危険は見あたらず、騎士たちは着実に扉に近づくことができた。が、手が届きそうなところまで歩み寄ったとき、不意に目の前に四角い明かりが浮かび上がる。
 扉の脇に埋め込まれた約30センチ四方のパネルが、白く点灯したのだ。
「セレナ様?!」
「心配はありません。私に代わってください……」
 驚く機装騎士たちの横を通り越し、セレナはパネルに手を伸ばした。
 彼女の指がそっと画面に近づいていく。
 闇の中で輝くモニタの中には、20数個の文字が並んでいる。それらは、いわば《古典語》を構成するアルファベットである。
 そのうちの1文字に、セレナの人差し指が触れる。
 静まり返った闇の中で、突然、ピッという短い電子音がした。
 何が起こったのかと、機装騎士たちは思わず彼女に駆け寄ろうとする。
「静かに。心配はないと言っているでしょう」
 万事お見通しだという表情で、彼女は他の文字にもタッチしていく。
  《パスワードを入力せよ》
 画面の中心にそう書かれていた。この扉は、どうやら旧世界の《言葉の鍵》によってロックされているらしい。
 セレナが押した文字のひとつひとつも、順に画面に表示されている。入力された文字列は、最終的に次の言葉を形づくった。
  《ホシノナミダ》
 小さく一息吸い込んだあと、セレナはパネルに書かれた《送信》という文字に触れる。
 数秒後――新たな文章が画面に表示された。
  《認証完了》
 続いて、以下のメッセージが現れる。

   ようこそ、未来の地上人よ。わが子ら、遠き時の彼方の友よ。
   我らの救世主――パルサス・オメガ――を汝らに託す。
   再び世に災いを為す者あらば、その大いなる力をもって……。

 ランプのほのかな燈火の中で、世界の行く末すら左右しかねない場面が到来した。あまりにも静かに、あっけないほどに。
 その決定的な瞬間を迎え、セレナの胸の内は、およそ形容しがたいほど高揚
 しているに違いない。
 だが表面的には平静を装い、彼女は意味ありげにつぶやく。
「《パルサス・オメガ》……伝説に記された《大地の巨人》。かつて《地上人》たちに勝利をもたらした、究極の……」
 ほぼ同時に、分厚い特殊金属の扉が音もなく左右に開いた。

 ◇ ◇

「ルキアンっ!!」
 目のまわりを赤く腫らして、メルカは思いきり飛びついた。
 艦内の各層に設けられた小さなラウンジ――ここも、そのひとつである。格納庫に向かう廊下の途中に位置し、その場所柄のせいか、普段はエクターたちの溜まり場になっていることが多い。
 今、室内にいるのはルキアンとメルカ、メイの3人だけだった。
 途中まで一緒に来ていたベルセアとサモンは……気を利かせたのか、あるいは居づらくなったのか、それとなく立ち去った。
「ご……ごめん、本当にごめん、メルカちゃん」
 とても言いにくそうに、ルキアンは言葉を途切れ途切れに語った。
「僕、ウソを付いてしまった。メルカちゃんを、だましてしまった……」
 無言のまま、彼の胸に顔をすり寄せるメルカ。
 ルキアンは彼女をこわごわ抱きしめ、申し訳なさと自己嫌悪とで心を一杯にしていた。
 本当はどんな言葉さえも、2人の信頼関係をすぐには修復し得ないだろう。それを知るルキアンは、もう一度メルカに会うことを恐れてすらいたのだ。
 自分を見捨てたルキアンに、メルカはどんな気持ちで相対しているのか。
 意外にも、メルカは以前のように泣き叫んだりわめいたりせず、じっとルキアンに体を寄せていた。
 《ことば》の無力さを知ったルキアン。文句も言わず、しかし謝っても許してくれないメルカを、彼はどうすることもできなかった。
 2人の様子を見ていられなくなったメイが、仕方なさげに口を開く。
「そ、そうだ……メルカちゃん、お腹が空いたでしょ? 可哀想に、昨日の晩から何も食べてないなんて。お姉さんと一緒に、台所に何か食べに行かない?」
 ふとメルカが顔を上げた。涙に濡れた、表情のない目で、彼女はメイをじっと見つめる。
 その眼差しに答える言葉は、メイにも思いつかなかった。
「あ、あはは。メイお姉さんですよぉ〜。さぁ、美味しいお菓子でも食べに行こうよ。ね、行こ、行こっ! えへ、えへへへへ」
 懸命に笑みを浮かべ、彼女はおどけてみせている。無駄だと知りつつも。
「お菓子……」
 メルカがぽつりと言った。
 ――メルカ、お菓子が焼けたから食べておいで。
 姉のソーナが、彼女と離ればなれになる前、最後に語った言葉だ。
「ソーナお姉ちゃん……」
 少女は崩れ落ちるようにして、ルキアンの腕から離れた。
 しばらく固まったまま、メルカを抱きしめる姿勢をとり続けたルキアン。その様子はあまりに滑稽で――滑稽すぎて、メイは胸を痛めた。
 床にぺたんと座り込んだメルカは、肌身離さず持っていた熊のぬいぐるみを、そっと自分の頬に当てる。
「メルカちゃん、さぁ、行こ。ねっ、ねっ?」
 メイはメルカの手を取った。
 力の抜けた冷たい指先。子供に特有の《体温》は感じられない。
「あ、あの……」
 何か言いかけたルキアンに向かって、メイは人差し指をぴんと立てた。そして、心持ち気まずそうな表情を浮かべながらも、片目を閉じて見せる。

 メイに手を引かれ、とぼとぼと歩いていくメルカ。
 その虚ろな背中を正視することは、ルキアンにはできなかった。
 2人が居なくなった後、彼は頭を押さえて部屋の隅にうずくまる。
 こうしていると、思ったよりも周囲が狭く感じられた。
 冷たい壁に額を当ててみる。
 本当は、この壁に眉間をぶつけてみたい衝動に駆られていた。
 しかし、今はそっと。そのまま目を閉じる。
 ――分かってる、分かってるって……。
 ルキアンは繰り返す。
 ――僕は決断したんだから。自分で決めたんだから。
 彼は膝を抱え、いっそう深くうなだれるのだった。
 その心は次第に暗闇の中へと落ちていく。

 ◇ ◇

「遠き世の末裔たちよ。解放戦争の真実を伝えよう……」
 落ち着いた初老の男の声。だがそれは人の口から発せられたものではなく、生命のない鉄の塊から流れる合成音だった。
「かつてこの大地は、あの大いなる災い、《永遠の青い夜》の中で……死の世界に変わりつつあった。滅びを恐れた人類は、選ばれし人々を天空植民市群に送った。この《アーク》の民を始祖とするのが、《天空人(てんくうびと)》である。他方、地上に残され、死の闇の中でこの世界を再び蘇らせたのが、我ら《地上人(ちじょうじん)》の誇り高き祖先たちだった」
 セレナと近衛機装隊の騎士たちが、固唾を呑んで見守っている。
 地下遺跡の広間のひとつ、《光の筒》のほのかな灯りの下で、彼らは壁いっぱいに広がる大型スクリーンの前に立っていた。
 突然、《動く写真》が視界を埋め尽くす。
「こ、これは?!」
 絶句したセレナ。旧世界に動く絵があったということは、もちろん彼女も知っている。彼女を驚かせたのは、画面の中で起こっている出来事だったのだ。

 無数の光の柱が大地を貫く。
 暗雲立ちこめる空を突き破り、閃光が雨のごとく降り注いでいる。
 豆粒のような影が集まっているのは、おそらく都市だ。
 それは一瞬にして紅蓮の波に舐め尽くされ、焦土と化す。
 まばゆい輝きが走るたびに、自然の地形すらも歪められていく。
 山々の美しい稜線はたちまち削ぎ落とされ、いびつな虫食いの岩壁に姿を変えた。木々は燃え、火の海となった森はやがて灰と燃えかすだけを残す。
 緑の平原にも次々と黒い穴が開き、無惨な焦げ色の荒れ地が広がっていく。
 全てを焼き尽くしながら天と地を刺し通す光は、なおもとどまるところを知らない。

 《終末》――セレナの頭に浮かんだのは、その2文字だった。
 こんなことができるのは神しかいない。荒れ狂う天のいかずちを前にして、人の微弱な力では、ただ恐れおののいて悔い改めることしかできない。しかし神がこんな惨いことをするはずがあろうか? 自らお作りになったこの世界を、愛すべき幾多の命の光を……。
 彼女がそう思ったとき、機械の声が謎を明かし始めた。
「天空人はその圧倒的技術力をもって、我々地上人を苦しめた。衛星軌道上からのレーザーが大地に降り注ぎ、首都はもとより小さな村々に至るまで、地上人の手によって築き上げられたものは悉く白紙に戻されていった。いや、我らの母なる世界全てを、天空人は否定しようとした。《アーク》の民である彼ら自身の、かつての故郷でもあるこの地上を……」
 ゆっくりと、極めて几帳面に発音される古典語。ちなみにこの言語は、一般的には《文語》であると理解されている。神官や学者、あるいは魔道士以外には、古典語を《話し言葉》として使っていた者は、旧世界にはあまりいなかったらしいが。
 天空人によって破壊し尽くされようとしている地上。その様子が、無機質に、あるいは冷徹にすら解説されていく。
「この雲霞のような……馬鹿な、アルマ・ヴィオか? 一体何機いるんだ?!」
 セレナの後ろで見ていた青い髪の機装騎士が、声をうわずらせる。
 羽虫の大群さながらに、空を埋め尽くす黒点。
 乱舞する鋼の怪鳥たち。黒光りする竜が雲間で体をくねらせ、炎を吐く。分厚い装甲板をまとった奇怪な昆虫が、地表に殺到する。その全てがアルマ・ヴィオだ。
 人型であるにもかかわらず、目にも留まらぬ速さで飛行しているのは、アルマ・マキーナに違いない。その体から砲弾のようなものが何発も発射され、あたかも自らの《眼》で見ているかのごとく、それぞれ別個の目標に向かって飛んでいく。旧世界の機械の騎士は、手にした銃から青白い光を放ち、街に並ぶ《塔》を焼き尽くす。
 上空に列を連ねる巨大な物体。ありとあらゆる姿の《船》が翼を羽ばたかせる。鳥、魚、蛇、虫、そして宙を行く帆船、空飛ぶ円盤――それらはみな飛空艦であろう。こちらも途方もない数に及ぶ。
 太陽の光を遮り、何かが大地に影を投げかける。黒い影が付近一帯を覆っていく。空の青が見えなくなった。天空に浮かぶ岩山……まさに《山》の上に、壮麗な城郭が築かれている。それが幾つも飛んでいるのだ。信じられないことに! 浮遊城塞である。小さなものでも、その直径は軽く数キロ、遠くに見えるさらに大きな要塞の場合、10数キロを越えている。
「地上界に降下した天空軍は、我々の兵力で太刀打ちできるものではなかった。同胞たちの勇敢な戦いも空しく、地上人は一方的に追いつめられていった」
 その絶望的な言葉の後、画面が暗転する。
「あれは……あれは、何だ?」
「見ろ、天空軍のアルマ・ヴィオの群が倒されていく。いや、かき消されていく!!」
 まだあどけなさの残る機装騎士が叫び、隣にいた同じ年頃の仲間と顔を見合わせている。お互いの蒼白な表情を、彼らは生涯忘れないだろう。いま眼前で展開されているのは、それほどに異常な光景なのだ。
 目を見開き、言葉もなく画面に食い入るセレナ。
 無表情な古典語が、彼女の耳に流れ込む。
「しかし天空人は、彼ら自身の中に破滅の《芽》を内包していた。……を機に地上界に追放されていた天空人……博士が、生きた……自己進化型……の……《パルサス・オメガ》を造り上げたのだ」
 そうしている間にも、映像は刻々と変化していく。遙かな祖先の時代に繰り広げられていたであろう出来事が、生々しいまでに再現される。
 スクリーンの中で動いている《それ》――天空軍のアルマ・ヴィオを瞬時に破壊しながら、無数の砲撃の中を、平然と、恐ろしいほどの威圧感をもって進んでいくもの――が、まさに《大地の巨人》なのだ。
 止められない身震い。セレナの頬が張りつめた。
「こんなことって……こんなものが、本当に実在するというの?!」
 彼女は動揺を必死に押さえ、心の中で自問する。
 ――メリギオス猊下のお考えは、この巨人の《力》を知ってのことだったのか。確かに王国は救われるかもしれない。しかしこれが今の世に蘇れば、その後は一体……。私たちのやっていることは、本当に……正しい? いや、何を迷っている、私は?
 その場にいた者は、大地の巨人の底知れぬ力に恐怖すら覚えた。
 呆然と見つめる彼らの前で、画面がまた変化する。それに応じて機械の声は告げた。
「パルサス・オメガの力は、我々の予想を遙かに超越していた。地上に展開していた膨大な数の天空軍は、このたった1体の巨人のために次々と撃破されていったのである。これに力を得た地上軍は総力を結集し、あの《世界樹》を奪取すべく反撃を開始する。地上人の思わぬ巻き返しに脅威を感じた天空人は、パルサス・オメガに対抗しうる最強の……である《空の巨人》、すなわち……」
 光り輝く何かが映し出された。それが長い尾を引いて飛ぶ様は、彗星のように見える。あまりにまばゆく輝いているため、その中心にある影の正体は分からない。
 そのとき、1人の機装騎士が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「失礼します! セレナ様、こちらへお越しください、とんでもないものが!」
「申し訳ありません。後にしてください」
 彼女は横目で彼を一瞥すると、すぐに画面へと視線を戻す。
 だが機装騎士の次の言葉は、彼女の頑なな背中をも振り向かせるだけの、抗し難い響きをもっていた。
「それが、セレナ様、旧世界人が! 生きた旧世界人が……」
「何ですって?!」
 さすがの彼女も、手元のスイッチに触れて映像をいったん中止させると、落ち着かない早足で部屋を出て行かざるを得なかった。

 ◇ ◇

 アシュボルの谷のはずれ。直立した細身の針葉樹が立ち並ぶ、小さな森。
 季節が夏であれば、苔むした下草が木々の間に生え広がるはずだが、あいにく今の時期には全てが雪に覆われていた。
 しかし、依然として続く冬景色の裏側に、微かな春の兆しが現れ始めていた。
 冷たい雪の下で、陽光溢れる春の日を待つものがある。
 シャベルを担いだアレスが、1本の木の根本をじっと見つめている。
 彼の隣で、前足を使って地面を突っつくのはレッケである。
「ここが怪しいってか? ちょっと掘ってみるぜ」
 金と白の毛皮を持った相棒に話しかけながら、彼は雪面を掘り起こす。
 開けた谷間の雪とは違って、少し古くて湿った感じがする。
 積雪は意外にわずかだ。体力の有り余っていそうなアレスにかかれば、地面が見え始めるのもすぐだった。
 レッケは赤茶色の土に鼻を押しつけ、盛んに嗅ぎ回る。カールフは、狼と同様に嗅覚にも優れる動物なのだろう。
「えーっ、ない? また無駄骨かよ。ふぅ……」
 アレスは情けない声を出した。レッケは素知らぬ顔で別の木々の根元を調べている。
「早く探さなきゃ、母ちゃんにまた文句言われるぞ。つぎ行こうか、レッケ!」
 苦笑いしたアレスは、森の端の方へと歩き出した。
 彼らが探しているのは、ペトーシュという植物だった。春に白い花を咲かせるこの野草は、すでに晩冬の頃から雪の下で成長し始める。ラプルスの人々の間で、その新しい芽は薬草として重宝されている。アレスも母に頼まれ、この植物を探しに来たのだ。
「今年はいつもより冬が厳しかったからなぁ。まだ土の下でしぼんでるんじゃないか?」
 そう言うと、アレスはマフラーをやや強く締め直した。
「寒っ!」
 昼過ぎの今、太陽が高く昇る時刻ではあれ、森の中にはあまり日が差し込まない。幸い今日は雪も降っておらず、穏やかな天気だが、それでもじっとしているとすぐ体が冷えてくる。
 次第にやる気をなくしてきたアレス。雪の大好きなレッケが勝手にあちこちほじくり返しているのを無視して、あたりの景色を呑気に眺め始めた。
「どこを見ても真っ白だと、飽きちゃうよな。早く夏にならないか……あれ? あそこで光ってるのは何だろう?」
 木々の間から、向こうの尾根の上で銀色に輝くものが見える。やや遠くにあり、また逆光気味の背景のせいもあって、何かははっきり分からない。
「ここから見てあの大きさなら、結構デカいぜ。しかも1つじゃなくて、2つ、後ろの方に、もう1つ見えるぞ。レッケもこっちに来て見てみろよ」
 急に元気を取り戻した少年は、すかさず手招きした。
「なぁ、行ってみようか?! ちょっと登りがきついけど、夕方までには帰れる距離だし」
 父親譲りか、あるいは大自然の中で育った男の子の常か……アレスはとにかく冒険好きなのだ。好奇心で一杯の目に、眩しいほどの輝きを浮かべて。

 ◇ ◇

 何とも不思議な場所だった。
 すでに部屋にいた機装騎士たちがランプを掲げると、淡い橙色の光が暗闇を照らし出す。
 四方の壁は全て計器類に埋め尽くされ、床には多数のパイプやケーブルが這いずり回る。それ以外には特に設備や調度も置かれていない。からっぽの空間に存在するのは、横向きに寝かされた3枚の《石版》だけである。
 石版の表面は堅く、緻密で傷ひとつない肌が光っていた。長さは約2.5メートル、幅は1メートルと少しであろうか。ガラスに似た極めて透明度の高い石でできている。
 薄明かりの中、3つの石版が冷たい輝きを見せる様は、一種独特の美しさを漂わせていた。だがそれだけなら、敢えて驚くほどのことでもなかろう。
 どうやって封じ込めたのか、それぞれの石版の中で人間が1人ずつ眠っているのだ。そう、あくまで《眠って》いるだけである。死した躯が棺に収められているわけではない。
 セレナが部屋に入ってきたのを知ると、機装騎士が石版にランプを恐る恐る近づける。
「石の中では息ができませんし、最初は死んでいるのかと思ったのですが……私たちがこの部屋に入り込んだときから、急激に血色が戻ってきているのです」
「恐らく、古文書に出てくる《クリスタル・スリープ》です。私も実際に見たことはなかったのですが」
 3つの石版へと交互に視線を走らせ、セレナは興味深げにつぶやいた。
「人間を仮死状態にし、その肉体を半永久的に、しかも老化なしに保存する技術です。この水晶の棺のような石……これは、アルマ・ヴィオの《ケーラ》の仕組みを応用した特殊な結晶体で、外部との霊気の収支を保持する事ができるのですよ」
 旧世界の技術にも通じた彼女は、その博識ぶりを発揮する。魔道騎士というだけあって、単に武器を振り回すだけの戦士とは違うのだ。
 自らの言葉も終わらぬうちに、セレナは手前の石版の側にかがみ込んだ。その中で眠る者の姿に、驚嘆の息をもらしながら。
 透明な結晶に包まれて、1人の少女が安らかに横たわっていた。
 明らかに生きている。透き通るような体が、少しずつ薄い紅色を帯びていく。その肌の色は、紛れもなく血の通った人間のそれである。
「これが旧世界人ですか。綺麗な娘(こ)ですね。」
「あ、はい。あはは……セレナ様もそう思われますか。可愛いっすよね」
 機装騎士らしからぬくだけた言葉で、若い男が答えた。あとわずかで20歳に手が届きそうな年頃だ。まだ見習いを終えたばかりなのであろう。焦茶色の短い髪がよく似合う、人なつっこそうな若者である。
 2人の声が間近で響き、少女は今にも目覚めそうに見える。
 黄金色の豊かな髪、どこか切なげな長い睫毛、すらりと通った小さな鼻、柔らかそうな唇。水晶の中に横たえられた体は、まだ大人になり切らぬ、さりとて子供でもない、妖精を思わせるほっそりとしたものだった。全てを脱ぎ去った少女の姿は、旧世界人と言っても今の世界の人間とどこも変わるところがなかった。
 さきほどの機装騎士は、この美しい娘の姿を横目で見ては、目尻と頬を弛ませている。
「ロッシュ! 騎士たる者が、こんな時に……そのだらしない顔は何です?」
 セレナは眉をきっとつり上げた。もっとも、よく見ると彼女の目にそれほどの厳しさはない。手慣れた様子で呆れているだけだ。
「申し訳ございません、セレナ様。以後、注意いたします!」
 彼はきまりが悪そうに頭を下げ、照れ笑いした。
 セレナは溜息をつくと、もうひとつ隣の石版を見て言った。
「それにしても……この娘たち、姉妹かしら。よく似ていますね」
 そこに眠る別の少女は、口元や輪郭など、さきほどの少女と確かに似通っている。背丈も年頃もほとんど同じだ。
 しかし唯一、かつ大きく異なる点がある。それは、こちらの娘が見事な黒髪の持ち主であることだった。
 セレナはさらに3つ目の石版の方へと歩いていくが、その足取りはなぜか重い。彼女は瞼を伏せ、祈るように胸に手を当てた。
「もし動かすことができそうなら、この石版を別の場所に移動してあげてください……」
 しんとした部屋に、普段よりも低めのセレナの声が響く。
「彼女たちが目覚めたとき、これを見たらどう思うことでしょう。《彼》は、少女たちと深い関わりのある人なのだと考えられますし。彼女らの体力が回復するまで、これを見せてはいけません」
 そう言うと彼女は目線を背け、横顔を物悲しく曇らせた。
「セレナ様、これはどうしたことで……」
 石版に手を掛けた機装騎士の1人が、辛そうに尋ねる。たぶん実戦など経験していない彼は、惨たらしい遺体を見るのにはまだ慣れていないのだろう。
「不幸なことに、《冬眠》の途中でクリスタルに異常が発生したのでしょう。別の安全装置も働かなかった……いや、室内の照明も点かないことからして、この部屋を管理する《知恵の箱》自体が、長い年月の間に壊れてしまっていたのかもしれません。それでもクリスタルさえ正常なら、外部的な装置の助けを一切借りなくても問題ないはずなのですが……」
 最後の石版の中には、無惨に乾ききったミイラが眠っていたのである。干からびた皮膚は骨に貼り付き、変色し、髪も完全に乾燥してしまっている。その外貌は今となっては分かりにくいが、わずかに残った面影から考えると、20代から30代くらいの細面の男であろう。
 この哀れな遺骸が封じられた石版を、機装騎士たちが全員で持ち上げようと試みたとき、何かにひびが入るような音がした。
 別の石版の方だ。さらにもう一度、今度はやや長く音が響いた。
「表面に亀裂が、まさか、目覚める?!」
 セレナがそう叫んだとき、少女たちの眠る2つの石版が急激な勢いで壊れ始めたのである。
 堅牢に見えたクリスタルが、床に落ちた花瓶さながらに砕けていく。中央に生じたひび割れが四方八方に広がり、剥離した破片はたちまち風化する。
 あっけなかった。一瞬の後にセレナたちが身構えた頃には、もはや両方の石版は粉々になっていた。
 床には2人の娘が転がっている。今の衝撃と、背中の下の固さと冷たさに目を覚まされたのか、彼女たちの身体がぴくりと動く。

 ついに、目が……開いた。
 青い瞳。どちらの少女も同じ目の色だった。まさに彼女らが姉妹であることを、象徴しているかのように。
「ワタし……」
 黒髪の娘の唇が、ゆっくりと動いた。
「めザめ、タノ……かシラ? ア、あなタ……ハ?」
 ぼんやりとしたその言葉は、とても聞き取りにくかった。初めて耳にする旧世界の言語だ。
「なぜか、ごく少しだけ意味が分かるような気がしますね。オーリウム語に似ている。もしかすると、古代オーリウム語でしょうか? それなら……」
 セレナは意味不明の言葉で話し始める。機装騎士たちにとって、それは旧世界人の少女の言葉と同様に、ほとんど理解し難かった。
「心配イリマセン。私ハ未来ノ地上人デス。大丈夫デスカ?」
 《古典語》である。旧世界人なら、多少は理解できるはずだろう。
 現に黒髪の少女は、今の世界のぎこちない古典語に反応した。横たわったまま、きょとんとした顔でセレナの方を見ている。
「私タチノ言葉……」
 鈴の鳴るような透き通った声で返事をすると、彼女はゆっくりと肘を立て、状態を起こそうとし始める。
 その場に居合わせた者たちにとって、瞬きすら忘れる場面だった。
 徐々に起きあがろうとしながらも、すぐに床に倒れそうになる少女を、セレナが急いで抱き支える。
 長い《冬眠》から覚めたばかりのためか、娘の体には上手く力が入らないらしい。《クリスタル》の魔力によって、ほぼ時の止まった状態で眠っていたとはいえ、やはり体力の消耗は著しいのだろうか。
「ロッシュ、ユーグ、マントを貸してください!」
 有無を言わさず2人の機装騎士のマントを脱がせると、セレナはそれで少女たちの体を覆う。が……。
 ――しまった、あの石版の中の男?!
 セレナが気づいたときにはもう遅かった。
 衰弱した身体からは想像できないほどの声で、黒髪の娘が絶叫したのである。彼女は訳の分からない言葉で泣きわめき、セレナの腕をはねのけた。
 機装騎士たちが慌てて少女をなだめようとするが、言葉が通じない。もしも互いの言葉が分かったところで、すぐにどうにかできる状況ではなかった。
 あのミイラを見て、少女はほとんど錯乱状態に陥っている。

 凄まじい悲鳴によって金髪の娘も目が覚めた。
 周囲の状況が把握できず、彼女はしばらく戸惑っていた。赤と白、そして銀という派手な色が目の前を行き来する。古めかしい装束に身を包み、剣を携えた奇妙な人々。彼らが交わす見知らぬ言葉。幸いにも、自分と同じ姿を備えた人間であることには変わりないのだが。
 ひんやりとした空気の感触――自分が裸同然の姿であることに気づくと、金髪の娘は弱々しい動作でマントの中に縮こまった。そして、もう1人の娘のただならぬ様子から、同じくあの枯れた遺体のことを知ってしまう。
 だが彼女は……手足を小刻みに振るわせたまま、じっと動かない。口は大きく開かれていたが、それでも何も言わなかった。黒髪の娘のように叫びはしなかった。
 ――この娘、喋れない?
 最初、少女があまりのことに言葉を失っているのだと、セレナは思っていた。けれども、その後も娘は無言のままだったのである。唇を震わせ、ときおり何かを告げようとしていることはあっても。
「私モアナタト同ジ、コノ世界ノ人間。心配シナイデ」
 セレナは金髪の少女の前にしゃがんで、澄んだ暖かい声で告げる。
 が、少女の反応はあまり良くなかった。うつむき加減で口元を堅く閉じ、セレナと目を直接合わそうとはしない。
 うまく感情が顔に出ていないのは、実はセレナも同じだった。ぎこちない笑みを浮かべ、彼女は自分の気持ちを懸命に伝えようとする。
 両の拳を口元で握りしめたまま、膝を使って背後に退こうとする少女。
 セレナは手を広げて精一杯笑ってみせる。だが堅い彼女の表情は、急には柔らかくならなかった。いかに努力しようと、そこには冷ややかで社交儀礼的な笑みが、浮かんではすぐに消えていくだけだ。
 ――分かっている。笑顔など捨てたはず……。
 彼女は毅然とした調子で立ち上がると、部下たちに命じる。
「調査を続行します。打ち合わせ通り、手分けして遺跡全体を探ってください。じきに他のパラス・ナイツの方々もいらっしゃるはずです。私は、彼女たちをもう少しくつろげる部屋に連れていき、話を聞いてみることにします」

 ◇ ◇

「ふぅ、やっと落ち着いてくれた。大変だったわぁ」
 力の抜けた声でそう言うと、メイは首に巻かれているクラヴァットを緩めた。鮮やかな薄緑のジャケットを肩に引っ掛け、あまり行儀の良くない仕草で額の汗を拭っている。
「メルカちゃん、疲れてましたからね。でも、あんなにしょんぼりしていたとは思えないくらい、今はよく眠っています。ほら、可愛い寝顔……」
 エプロンをしたままのレーナが、そう言って目を細める。
 医務室のベッドでメルカが静かに寝息を立てていた。寝台の縁に手を掛けながら、メイとレーナがその様子を見守る。
「ごめんね、忙しいときに付き合わせて。昼ご飯の片づけ、大変なんでしょ? さっきもお菓子とかお茶とか、用意させちゃったし」
 口に何かを頬張りつつ、メイは大げさな身振りでレーナに頭を下げた。
「ううん。いいんです。今回はいつもより沢山の人が厨房に入ってくれていますから。メイさんこそ、こんなところに居て大丈夫なんですか?」
「いや、ホントはマズいんだけどさ。まだこの辺りはギルドの勢力圏だし、反乱軍が姿を現すこともないでしょ、多分ね。えへへへへ」
 今しがた調理室からくすねてきたサラミを取り出すと、メイは大口でかじりつく。
「あぁっ! メイさん、それ、今日の晩ご飯の!!」
「固いこと言わないの。あんたも食べる? いらないか……。じゃ、シャリオさん、どう? ねーぇ、聞こえてる?」
 メイの視線の先には、奥の小部屋で書き物をしているシャリオがいた。ドアは開け放されている。
「私も結構です。それよりルキアン君、なかなか来ませんね。フィスカだけで大丈夫でしょうか?」
 彼女は分厚い辞書を前にペンを走らせ、視線を本に向けたまま答えた。
 シャリオの机の上には、大小様々な文献が山積みにされている。書きかけの書類や丸められた紙屑も床に落ちていたりする。几帳面な彼女のこと、普段なら部屋はすっきり整理されているはずなのだが、ここのところ乱雑に散らかっていることが多い。あの《塔》で入手した文献の解読に必死なのだ。
 メイはそんな彼女を見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「またルキアンのことだから、ぐずってるかもしれないけど……フィスカならちゃんと引っ張ってきてくれると思うよ。あのくっつき娘が戻ってこないうちに、あたしはさっさと退散しなくっちゃ。でもルキアンのことだと、いつになく真剣になるわね、シャリオさん……。もしかして、ああいう子がお好み?」
 シャリオは慌てて手を止め、白い指で口元を押さえながら弁解する。
「ふざけないでください。わたくしは、ただ……」
「えへへ。冗談よぉ。赤くなっちゃって、可愛い! じゃあね」
 ニヤリと笑って駆け出すメイ。だが医務室を出ようと扉を開けたとき、彼女は珍妙な悲鳴を上げた。
「つっかまーえたっ! メイお姉様、私とお話ししたくてわざわざ待っていてくれたのですね? うれしいですぅ」
 戻ってきたフィスカと運悪く鉢合わせになったのだ。フィスカはメイの右腕を両手で抱きしめ、無邪気に頬をすり寄せている。
 一方のメイは額に冷や汗を浮かべ、何とか振り払って逃げようと懸命である。
「ち、違う! 断じて違う!! 離せ、気色悪いーっ!」
「エヘヘのヘですぅ。離せと言われて離す人がどこにいますかぁ」
 この馬鹿騒ぎの後ろに、対照的に浮かない顔で立っている少年がいた。力なく両肩を落として、抜け殻のように……。廊下の薄暗がりの中、鬱々と考え込むルキアン。
 さすがに今度という今度はあきれ果てたのか、それともメイの冷やかしを気にして遠慮したのか、シャリオは黙って机に向かっていた。
「ルキアンさん……」
 誰も彼を相手にしようとしないので、心配したレーナが戸口の方に向かう。
 暴れるメイに突き飛ばされそうになるのも構わず、ルキアンはじっとうつむいたままだ。時々、ぼそぼそと何かつぶやいている。
 そんな彼の耳に、レーナの遠慮がちな声が響いた。
「あの、メルカちゃんのこと……私が言うのもなんですけど、そう極端に心配しなくても……」
 ルキアンは中途半端に顔を上げ、沈鬱とした目で見返す。
 その言いようもない表情に、レーナは思わず引いてしまいそうになった。だが彼女は必死に言葉を続ける。
「あ、あの、ごめんなさい! でも、でも……私だってメルカちゃんくらいの時には、もう飛空艦に乗ってましたから。あの子も……」
「えっ?」
 ルキアンの瞳の奥に、微かな光が灯った。本当に微かに。
「私のパパ、カルおじさんの……カルダイン艦長の親友だったんです。パパが死んじゃってから、母さんはクレドールの厨房で働くようになりました。私もその時から一緒に船に乗っています。メルカちゃんも、その気があればクレドールで暮らしていけると思うんです。それにあの子には、ルキアンさんが付いているのですし」
 目にうっすらと涙を浮かべ、ルキアンに語りかけるレーナ。
 一瞬、ルキアンは彼女の言葉に心を動かされたかのように見えた。しかし、またすぐに下を向いてしまい、無様に愚痴り始める。
「僕が? 僕なんかがいたって、メルカちゃんの助けにはなれない……いや、それどころかあの子を苦しめてしまうだけだし。僕なんか……」
「ルキアンさん……」
「僕は、人に頼られるほど立派な人間じゃない。自分のことだけでも精一杯の、情けなくて、弱い奴なんです。いや、自分の気持ちすらまともに支えられない。しまいには、開き直ってこんな駄々をこねたりする。分かってるんだけど、これじゃ駄目だって分かってるんだけど、それでも……どうしようもない」
 レーナは仕方なさそうに首を傾け、ちょこんと肩をすくめた。
 意外にも、彼女はささやかな笑顔を浮かべている。
「そんなに自分を責めないでください。ルキアンさんだけじゃない、誰だって、自分のことで精一杯なんですから。他の人間の支えになれる人だって……強く立っているように見える人だって、本当は自分も誰かに支えられているから、そうして強いままでいられるんだと思います。だからルキアンさんは決して弱くない! こんなに弱い私だって、船のみんながいたからずっと……えっ?! やだ、あたしったら……あの、あ……」
 熱く語っていた自分に気づき、レーナは今さらのように首筋まで赤く染まる。
 言葉を飲み込んだまま、ルキアンは黙って指を震わせていた。
「私、そろそろ調理場に戻らないと! 母さんに怒られちゃう」
 彼女は部屋の奥にいるシャリオに一礼すると、慌てて廊下を駆けていった。
 メイとフィスカは、腕をつかみ合ったまま、唖然としてレーナの背中を見送っている。
「よく分かんないけど、人間できてるわねぇ、レーナって」
 メイのいい加減な言葉に、ルキアンも無意識に頷いた。
 ――そうかもしれない、そうかも……独りじゃない。僕はここに居てもいいんだって……こんなにみんなが励ましてくれるのに、僕は……。
 大切なことを思いだしたかのように、何もかも忘れて掌を見つめるルキアン。
 ――そうだよ、風は吹いてるのに。空はすぐ前に広がっているのに。どうして翼を広げてみようとしないんだよ! もう、あの日々の僕じゃないんだから。いつまで後込みしてるんだよ?! ルキアン、飛ばなきゃ!!
 ひと言ずつ自問するたびに、何かが変わりかけていくような気がした。たとえそれが、どれだけ取るに足らないほどの移ろいであろうと……。
 まだ落ち込んだ表情を崩さないまでも、ルキアンの心の深みに、光が射し込み始める。
 2つの開いた扉の向こうでは、シャリオがそんな彼の様子にちらりと目を向け、また古文書の中へと視線を戻すのだった。

 ◇ ◇

 上空から望む雲海の景色は、様々に例えられる。
 起伏の多い雪原を思い起こす者もいれば、良質のクリームを泡立て、一面に流し込んだ光景のように見える者もいるかもしれない。いずれにしても、地上から眺める空の美しさとはまた一味違っている。
 この興味の尽きない雲の大海を、2つの影が遠く見つめていた。
 クレドールの最上層を周回する廊下に、白と黒の落ち着いた衣装に身を包んだ男と、赤・茶系統のユニークな彩りをまとった男が立っている。
 素晴らしい眺望を持つこの回廊だが、艦が臨戦態勢に入っているせいか、今は彼ら以外の誰の姿もなかった。
「不思議なもんだねぇ……」
 やや甲高く、それでいてよく通る声でランディは言った。ガラス沿いの手すりにもたれ、彼は窓外に目を向ける。
 彼とは反対側、廊下の壁際に立っているのはクレヴィスだ。ランディの言葉に対し、敢えて《何が?》とは質問せず、黙って目を伏せたまま聞いている。
「この景色さ。初めて飛空艦から見たときには、驚いて言葉も出なかったが……いつの間にか、こうやって眺めていても大した感慨を覚えなくなっている。何というか、刺激がほしいもんだね」
 ランディは懐から愛用のピューターを取り出した。しっくりと掌に馴染む大きさの、飾りっ気のない扁平な銀のボトルだ。彼は蓋を緩めながらつぶやく。
「飲むかい? いや、仕事中だな。こりゃ失礼」
 いつも酒を手放さない無頼の伯爵は、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。ひと口飲んだ後、彼は不意に真面目な顔つきになって言う。
「……いや、時々怖いことがあるんだ。この景色のように、俺たちの世界にある美しいものや面白いものが次第に色褪せ、またひとつひとつ、自分にとって退屈なだけの存在に変わっていく。俺がこんなこと言うなんて、おかしいか?」
 嫌味なく、穏やかに鼻で笑って、クレヴィスは答えた。
「ふふ。それはあなたが、若くして他人よりも多くの物事を見過ぎたせいですよ。でも結局、この世の全てに飽きる前に、私たちの短い命など尽きてしまうでしょうが。生きたくても命を失ってしまう人のことを思えば、とても贅沢な悩みかもしれません。まぁ、人間が死ぬとき、この世界に多少なりとも失望を感じていなければ……あまりにやり切れなくて、最後の最後でさぞかし苦しむことになると思いますけどね。満足して死ねる人など、ほんの一握りなのですし」
 三十路前後の男にしてはいささか割り切りすぎた言葉に、どこか寂しさが漂う。当の本人は、ごく涼しげな顔で空を見ているにせよ。
 やれやれといった様子で、ランディは溜息をついた。が、期待していた通りの返答ではある。
「まったく、そうやってお前さんは、いつも《死》を基準に物事を考える……。けど、その通りかもしれんよ。生きてる間にせいぜい楽しみ尽くすさ。その点、この船で旅をしていると、何かと変わったことに出会えて便利だがねぇ」
 いつもの軽薄な顔つきに戻って、呑気にピューターをあおるランディ。
「自分でも時々あきれてしまいます……こういう船に乗っていると、死というのが人生の道連れのように感じられてくるのですよ。今回もまた、命を拾えるかどうか……。ところでランディ、ついでにまたひとつ、その変わったこととやらに付き合ってもらえると助かるのですが」
 外から差し込む光を手で遮りながら、クレヴィスはランディの隣に並ぶ。
 ランディは正面を向いたまま、気楽な調子でうなずいた。
「分かってるよ。ナッソスの件な……あれ、どうなったの?」
「このまま順調に進めば、今日の夜半過ぎにはラシュトロス基地に到着できます。翌朝、早くから申し訳ないのですが、さっそくナッソス家との交渉に向かってもらえませんか?」
 途端に苦笑いするランディ。いかにも渋い顔で首を傾け、空々しく口笛を吹いている。
「おいおい……俺が朝に弱いって、よく知ってるだろうに。ん? 分かったよ、分かった。で、交渉の方はダメもとでやってみるが、具体的な予定はどうなってるんだ?」
 何か思惑があるのか、クレヴィスは彼の問いかけにすぐには答えなかった。懐からチーフを取り出すと、眼鏡を外して曇りを拭き始める。小振りなレンズを窓辺にかざしつつ、彼は皮肉っぽい口振りで言った。
「明朝、ナッソス家からの飛空船が出迎えに来るということです。会談の場所は公爵の城。ギルドの船やアルマ・ヴィオの同行は一切無し、使節の人数も3人までに限定してほしいと……。それでも交渉の場に公爵を引っぱり出せたということで、ひとまずは満足すべきところでしょうね。あなたの他にこの艦隊の代表者として、ラプサーのシソーラ・ラ・フェイン副長にもお願いしてあります。彼女もあれで、メイに劣らぬタロスの名家出身ですから」
「さすが、よく分かってるじゃないか。格式張ったナッソス公のこと、交渉役はできるだけ貴族から選んだ方がいい。今どき貴族の肩書きなんて、カビの生えたコルク栓と似たようなもんだけど……それでも時々は役に立つ。しかし、あの女はちょっと苦手だな。もう1人の人選に気を使ってくれると助かる」
 例の『新たな共和国について』を著したおかげで、ランディは旧タロスの亡命貴族から敵視されているのだ。メイとの関係がうまくいっていないのは、そのせいである。シソーラにしても、必ずしもランディを快く思っているわけではなかろう。
 ただし懐の広いシソーラは、直情径行型のメイとは違い、表立って不快な顔を見せることはしない。それだけに、ランディとしてはかえって気を使ってしまう部分もあるのだろうが。
「問題はそれですね……貴族となると、適当な人物が少ないのですよ。エクターのメイには艦で待機してもらわねばなりませんし、なにより旧タロス系の人間が多すぎては、いらぬ勘ぐりをされかねません。アクスのディガ・ラーナウも、なかなか頭の切れる人ではあれ、まだオーリウム語を流暢には話せないのです。となると、シャリオさんしかいないのですが、彼女は……」
 言葉を濁したクレヴィスに代わって、ランディが続ける。
「あぁ。神官はまずい。それに助祭神官くらいならまだしも、あの人はお偉いさんだからねぇ。おおかたメリギオスの狸親爺の差し金で、事実上、神殿は今回の反乱に対して中立ときたもんだ。《準首座大神官》がギルドの使節という立場で表に出ると、神殿との要らぬトラブルが起きる可能性もある。まぁ、実際に交渉に臨むのは、俺とラ・フェインの2人だけなんだろ? 無理に3人揃える必要はないと思うが」
「いや、単なる付き添い役に過ぎないにせよ、何かと人手があると便利です。実は運良く……もう1人、貴族がちゃんといましてね。ほら、あのルキアン・ディ・シーマー君ですよ」
 意外な提案に、ランディはクレヴィスの顔をまじまじと見た。
「なるほど、例の噂の少年ねぇ。随分と彼を買っているようだが……大丈夫なのか? 見た目には、大いに頼りなさそうな気もするな。しかしまぁ、それなりに品もあるし人相も悪くないから、儀式の飾り物には使えるかもしれん。俺は別に構わないよ」
「そうですか。では、さっそく彼にも……」
 軽く黙礼して、クレヴィスは再び眼鏡をかけ直す。にこやかな目がレンズの奥に見えなくなった。

◇ ◇

 旧世界の少女たちは、悲痛な表情で肩を寄せ合っていた。
 もう1人の男が冬眠中に命を落としていたことに、やはり相当なショックを受けているらしい。黒髪の娘は、男の遺体が閉じこめられた石版にすがりつき、さきほどまで決して離れようとしなかった。逆に金髪の娘の方は、彼の無惨な姿を見つめることができず、ずっと顔を伏せて泣いたままだった。
 今、そんな彼女たちを優しく包んでいるのは……地底の遺跡には似合わぬ、明るく柔らかな光。この部屋に使われている《光の筒》の輝きは、自然の光線に比較的近い。
 2人が座っている旧世界の椅子は、どれほど古い物であるのか見当も付かないが、象牙に似た質感を持つ不思議な材料でできている。しかも見かけや大きさのわりに、木製の椅子よりも軽いほどだった。
「お腹、減っているでしょう?」
 セレナは水とパン、それから少々の干し肉を差し出した。古文書による限り、同様の食物は旧世界にも存在していたらしいのだが。
「大丈夫よ。ほら」
 灰色っぽい薄切りのパンをちぎって、彼女はまず自分で食べてみせる。
 最初は口を付けようとしなかった少女たちだが、体を動かし始めたら急激に空腹が襲ってきたらしく、恐る恐る食べ物に手を伸ばす。
「イリス。このパン、美味しいよ」
 黒髪の娘が金髪の娘に小声で言った。
「そうでした、申し遅れましたが……私の名はセレナ・ディ・ゾナンブルーム。国王陛下にお仕えするパラス・テンプルナイツの機装騎士です。怪しい者ではありません」
 何度か間違えそうになりながらも、セレナは慣れない言語で自己紹介する。
「王様? 騎士? それにあなたの格好も、おとぎ話に出てくる人みたいで素敵ね。私はチエル、こっちは妹のイリス」
 流れるような黒い髪を持つ姉は、初めて笑みを浮かべてみせた。
 それに比べて妹の方はにこりともしない。その小さな口にパンを含み、無表情な目で床を眺めている。
 多少は元気になってきた2人を観察しながら、セレナは何事か思案していた。しばらくして意を決し、彼女は丁重な口振りで問いかける。
「チエルさん、さっそくですが……いま私たちの王国は存亡の危機に瀕しているのです。この遺跡に眠る《パルサス・オメガ》を蘇らせ、その偉大な力を借りなければ、王国は滅びてしまうかもしれません。そこであなたにも助けてほしいのです」
 何度か頷きながら、チエルは黙って聞いていた。
 ほとんど支障なく会話できていることを知り、セレナは安心して続ける。
「私たちが入手した極秘文書によれば、《大地の巨人》を目覚めさせるためには、《鍵》となる言葉が……つまり、あなた方の言葉でいう《パスワード》が必要だということです。おそらくチエルさんは、その言葉を知っているのではありませんか?」
 しばし沈黙があった。セレナはじっとチエルを見つめる。活発で賢そうな、同性の目からみても魅力的な娘だ。
 返事をしないチエルに、業を煮やしたセレナが語気を荒らげて尋ねる。
「ねぇ、知っているのでしょう? 答えてください!」
 まだ15、6という年のわりに落ち着いたそぶりで、チエルは大きく息を吸い込んだ後、きっぱりと言った。
「ごめんなさい。私はあなたのことも、今の世界のこともまだよく知らない。だから、あなたたちにパルサス・オメガを渡して良いものかどうか、確信が持てません」
 顔に似合わず、歯に衣着せぬ物言いをする少女。厳しい表情で聞き入るセレナに対し、チエルはこう語った。
「まず国王という方に会わせてください。それからでないと返答しかねます。クリスタル・スリープの不具合で亡くなられたカロルム博士――さきほどの石版の男性――に代わって、私は見極めなければなりません。未来のあなたたちが、《巨人》を手にするに相応しい者であるかどうかを」
 少女が自らの使命を立派にやり遂げようとする姿に、セレナは心を打たれた。しかし現状を考えると、チエルの悠長な主張を受け入れるわけにはいかない。
「ここしばらく、国王陛下のご病状が悪化しています。代わって宰相のメリギオス猊下が、必ずやあなたとお会いになられるでしょう。ただし《大地の巨人》を先に確保してからでない限り、我々は城には戻れないのです。機装騎士の名誉にかけて約束します、猊下とは後で必ず……」
 少女は、セレナの言葉を途中で遮った。
「失礼ですが……私たちは、あなたが思っているほど、名誉や誓いという曖昧なものに信頼を置いていません。それに、さきほども言ったはず。今の世界のことも、今の世界の人々のことも私には全く分からない。そんな未知の人たちとの約束を、急に信じろと言うのですか? そんなに急かさないでください。もっと、お互いに理解し合うための時間が必要だと思います」
 騎士の名誉に価値などないとするチエルの言葉に、反感を覚えたセレナだったが、ここは平静を保って懇願した。
「あなたのお気持ちはよく分かります。でもチエルさん、私たちには時間がないのです。こうしている間にも、この国は……」
 気丈なチエルは、頑として突っぱねた。
「何と言われようとも、今は教えられない」

 そのとき、背後の扉が開き、数名の人間が鎧の音を鳴らして入ってきた。
「困ったなぁ。そんなこと言わずに教えてくれないかな。セレナさんも言ってたけど、僕たちは《巨人》を発見しないと、お城に帰れないんだよね」
「ファルマス?!」
 絹のように柔らかで品の良い声とは裏腹に、人を小馬鹿にした喋り方。一度聞いた者は忘れないであろう、あの男の言葉である。パラス・テンプルナイツ副団長、ファルマス・ディ・ライエンティルスその人だった。
 彼と共に現れたのは4人――縁付きの大きな帽子を被った美青年と、射抜くような目をした黒ずくめの剣士、大胆な革の衣装に真っ赤な髪の女、そして黄金色の防具に身を包んだ怜悧そうな騎士。
 何が嬉しいのか、ファルマスは変に無邪気な口調でチエルに言う。
「いやだなぁ、心配しなくていいよ。僕たちは、旧世界人の過ちをちゃんと学んでいるからね。だから、この世界を滅ぼすほど馬鹿じゃないつもりなんだけどな。それに君も……右も左も分からないんだったら、もう少し言葉に気を付けた方がいいと思うよ。あはは、もしかして頭の方はまだお目覚めじゃないのかな? いや、冗談だよ、冗談。あははは」
 身も蓋もない言葉を吐いておきながら、ファルマスは少しも悪びれることなく笑っている。やがて高笑いするのにも飽きると、彼は隣にいた女に尋ねた。
「でも、エーマさんもそう思うでしょ?」
 赤く染めた髪を跳ね上げると、彼女は見下すようにチエルを睨んだ。
「まったく……。私たちが《巨人》に相応しいかどうか見極めるだなんて、何様のつもり? 旧世界の人は、ろくに口のきき方も知らないのかしら。こんなお上品な娘さんなのに、実はしつけが足りないのかねぇ?」
 彼女が高慢な声でそう言うが早いか、何かが強烈な勢いで床を打ち据える。
 弾けるような、乾いた炸裂音が周囲にこだました。
 黒光りする革のグローブに包まれた手から、蛇を思わせる茶色いものが垂れ下がっていた。獰猛に身をくねらせる、太い鞭だ。
「エーマ?! あなた……」
「冗談よ、セレナ。今のはほんのご挨拶じゃないの。まぁ、あたしは野蛮なことはしたくないんだけどさ……この悪い手の方がどうも気が短くて、あたしの言うことを聞かないときがあってねぇ」
 エーマは束ねた鞭を引き絞り、ピシリと威圧的な音を鳴らす。
 怯えたイリスは、チエルの背中にすがりついた。チエルも妹をかばい、必死にエーマをにらみ返す。
 そんな少女の顔を、満面の笑みを浮かべてのぞき込むファルマス。
「あはは。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。別に、僕たちは悪者じゃないんだから。君が答えてくれさえすれば……食べ物も、服も、暖かいベッドも、みんな用意してあげるよ」
 怒りに満ちた視線をチエルが投げかけると、ファルマスは両手を開いて、彼女をあざ笑うようなジェスチャーを見せた。
「えっ、どうして駄目なのかな? どうせ後で《話すことになる》のだったら、今話しても同じだと思うけどなぁ。物事はできるだけ効率的に進めないと……」
 突然、エーマがチエルに近づく。長い爪をもつ指で、チエルの顎をくいっと持ち上げた。
「自分はまだ話すとは言ってない……なんて思ってるんでしょ? お馬鹿さんねぇ。どうせあんたは、泣いて許しを請うことになるんだから。うふふ、素敵よ、その目つき。いつまでそんな顔をしていられるのかしらねぇ」
「エーマ、いい加減にやめ……何よ?!」
 あまりに野卑な言動を見ていられなくなって、セレナはエーマを少女たちから引き離そうとした。しかし、金色の籠手がセレナの手を遮る。
「ラファール、貴方まで……」
 非難を込めたセレナの眼差しに、黄金の騎士は無言で首を振った。一瞬、その冷たい瞳が彼女の視線とぶつかり合う。
 帽子の男と黒ずくめの剣士も、素知らぬ顔で事態を見守る。
 ファルマスは相変わらず目を細めていた。
「まぁまぁ。でもセレナさんには、ダンと一緒に外で見張りをしてもらう方が良かったかな。こんな仕事は嫌いでしょ? ごめんなさい、僕の不手際だなぁ。どうしたの? セレナさん、怒ると怖いんだから。そのキツい顔、旧世界のお嬢さんといい勝負だね。あははは」
 ――本当に、この男は……。
 セレナは渋々引き下がり、不機嫌な様子で壁際にもたれた。
 ほとんど脅迫に近いエーマの態度に、チエルもひとまず屈したかのようにみえた。
「分かりました。教えますからこちらに来てください。大丈夫よ、イリス」
 震える妹の肩を抱きながら、彼女は廊下に出る。
「あの、しかし……」
 ファルマスらのぞんざいなやり方に、強い違和感を覚えるセレナだったが、彼女は言葉を飲み込んだ。
 最初からチエルを信用していないエーマは、彼女の腕をしっかりと捕まえる。
「いいかい、もし逃げようとしたってそうはいかないよ。まぁ、あたしの鞭から逃げられる自信があるのなら、挑戦してみるのもいいかもしれないけど」
 姉のことを気遣いながらも、イリスは、ただ恐れおののいた目で見ているしかなかった。
 彼女とチエルを先頭に、パラス・ナイツの一団は廊下を進んでいこうとする。

 だが……。
 突然、チエルは妹を前に力一杯突き飛ばし、壁に手をかける。
 カチッという音がした。
 それと同時に、目の前を右から左へと何本かの光線が走り抜けた。足元から天井まで、通路の壁と壁の間に太い光の筋が走っている。ちょうど鉄格子のように。
「イリス、逃げるのよ! あたしのことは構わず、さぁ、早く!!」
 決死の形相で叫ぶチエル。
 光の檻が自分たちとイリスとの間に立ちふさがっているため、パラス騎士団の面々は前に出ることができない。
「人間なんか、この光線に貫かれれば即死だわ。命が惜しかったらここに突っ立っていることね」
 非常用のレーザー・シャッターを前にして、チエルは不敵に言い放つ。
 イリスは床に倒れたまま、呆然とこちらを見つめている。一生懸命に何か言おうとしているのだが、やはり言葉にならない。
「早く、私の犠牲を無駄にしないで!! 行きなさい……お姉ちゃんの言うことが聞けないの?!」
 なりふり構わず、髪を振り乱し、命がけで自分を逃がそうとする姉の姿を見て、イリスは脚をすくませながらも立ち上がった。何度も何度も振り返り、彼女は廊下の奥へと姿を消していく。

「よくもやってくれたわね。後でたっぷりお返ししてあげるから……覚悟はいいかい?!」
 見事に一杯食わされ、腹の虫が治まらないエーマはチエルの頬を打とうとする。だが彼女が振り上げた手を、ファルマスが掴んで止めた。
「困るなぁ。勝手に乱暴しちゃ駄目だよ、エーマさん。猊下からのお許しが出るまで、この娘に指一本触れてはいけないからねっ。分かった?」
 天真爛漫な表情の中にも異様な怖さを秘めたファルマスに、さすがのエーマも黙って従うしかなかった。
「それにしてもチエルさん……野蛮な外界に妹さんを放り出すなんて、君も意外と残酷なんだね。人は見かけによらないなぁ。怖い怖い。あんな可愛いお嬢さんが無防備にさまよっていたら、すぐに山賊やならず者たちの餌食になっちゃうよ。本当、可哀想だなぁ……」
 実際には髪の毛一本ほどの同情心もなく、ファルマスはつぶやいた。
 なおも暴れるチエルは後ろ手に縛られ、全く理不尽にも、罪人のごとく引き立てられていく。これにはセレナだけでなく、ラファールまでも顔をしかめた。
 屈辱的な姿を晒す旧世界の娘に向かって、ファルマスは子供っぽく首を傾け、ウィンクして見せる。その一点の曇りもない笑顔は、かえって異常以外の何物でもなかった。
「僕はね、君みたいに賢くて勇気のある人が大好きなんだよ。君の気持ちに免じて、当分、イリスさんのことは見逃してあげる。それにさ、無意味な手間をかけてあの子を探さなくても、《大地の巨人》のことは君が全部教えてくれるだろうって、期待してるんだ。そうだよねっ?」

 セレナは怒りに手を震わせていたが、これ以上事を荒立ててもまずいと考えたのか、敢えて自重する。
 ――私はいつも卑怯な人間。口では綺麗事ばかり言っておきながら、最後には自分の身が可愛くて。だからクルヴィウス、あなたのことも結局は私のわがままで……。

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