HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第15話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  選ばれし者と――選ばれざりし者。
   だが星の因果律は、
    歴史の歯車をもしばしば狂わせる。



 枯れ枝を削っただけの杖を頼りに、アレスは急勾配の斜面を登っていく。
 険しくも脆い岩場は、ただでさえ歩きづらい。それに加えて、いまだ深い残雪が足元を不安定にする。山登りならお手の物であるアレスでさえ、たびたび足を滑らせそうになった。
「ふぅ。思ったより大変だな。今頃は上まで辿り着いている予定だっのに」
 登ってきた道を振り返った後、アレスは、連なる山の頂に視線を戻した。
 白い地面から平らな岩が頭をのぞかせている。その上にあぐら座りした彼は、靴にこびり付いた雪を払い落とし始めた。
 恨めしそうな顔の彼に向かって、隣でレッケが励ますように吠えている。
「なぁ、お前はどうして滑らないんだ? オレだって、こんなにしっかりした靴を履いてるのに……」
 鋲の付いた靴底を指さして、ぼやくアレス。この地方独特のブーツだ。耐寒性に優れるばかりではなく、雪道でも滑りにくいように工夫されている。
 他方のレッケは、アレスの周囲を何度もくるくると回り、楽しそうに息を弾ませている。カールフは寒冷地を好む魔物である。この手の雪と氷の世界は、レッケにとっては楽園のようなものだ。
 無邪気に遊んでいる時のレッケは、どこか犬にも似ているような気がする。そんなことを考えながら、アレスは目的地の尾根を眺めた。ことさら何かを意識したわけでもなく、ただぼんやりと……。
 麓にいたときよりも、例の光る物がずっと大きく見える。いつの間にか、かなり近くまで来ていたのだ。視点が変わったせいか、逆光も和らいでいる。
 日の光を反射して銀色に輝く物体。今なら、その形がある程度分かるような気がする。アレスは突然立ち上がって目を凝らした。
「大きくて、人間みたいな形だけど……もしかして?!」
 《それ》は彼にとって特別なものだった。見間違えるはずなどない。
「アルマ・ヴィオじゃないか。汎用型か!」
 エクターの息子だけあって――何より、自らもエクターを目指しているだけあって、アレスはアルマ・ヴィオには詳しい。軍の使用する量産型ならば、その大半の名前を言うことができる。それどころか、各々の機体の武装や性能一般についても良く知っていた。
「銀色で……後ろに向かって膨らんだスカート。あの丸いのは楯かな? たぶん、大きなMTランスを持っているように見えるぞ。ということは……」
 アレスは得意げに鼻先をこすって、何度もうなずいた。
「《シルバー・レクサー》だ! すごいぞ、3体もいる。でも何で近衛隊が、こんな山奥に来てるんだろう?」
 居ても立ってもいられず、彼の脚は自然に動き始めていた。
 が、その目の前にレッケが素早く飛び出す。《彼》はアレスの行く手を遮り、風上に向けて鼻先を動かし始めた。
「どうした? 何で邪魔するんだよ」
 長く尾を引いて響き渡るレッケの遠吠え。アルマ・ヴィオのある場所とは違う方角に向かって、狼を思わせる声で吠えている。
 いつもと違うレッケの様子に、アレスも不審に思って立ち止まる。
「あっち? そうなのか……おっ、あれのことか?」
 シルバー・レクサーが並んでいる尾根の反対側、もう少し麓向きに下がった斜面に、小さな影がぽつんと見えた。全てが白い雪に覆われているだけに、それ以外のものが視界の中にあれば、容易に探し出すことができる。
「待てよ! 待てったら!!」
 レッケが全力で走り出した。
 仕方なく後を追うアレスだが、風のように駆け抜ける相棒の姿は、たちまち銀世界の向こうに小さくなってしまう。

 レッケの俊足に遅れること十数分、アレスはそこで意外なものを見た。
 このあたりでは見かけぬ金髪の娘が、雪の中に立ちすくんでいたのである。
 不思議なことに――見知らぬ少女に対し、レッケは妙に親しげな態度で接している。彼女の足元にしゃがみ、頭をなでられている様子は、無邪気な子犬のようでさえあった。警戒心の強いカールフは、飼い主以外には滅多になつかないはずだが……。
 凍てつく風が髪を舞い上げる。少女は冷え切った青白い顔をして、レッケに何か語りかけていた。近づいてきたアレスに気づくと、彼女は急に怯えた表情になり、走って逃げようとする。
 だが彼女は、雪に足を取られて転んでしまった。いや、転んだと言うよりは、途中から力を失い、そのまま倒れたという方がよかろう。
 少女の華奢な足先から血がにじんでいた。手足に無数の切り傷があり、その唇は血の気を失っている。ただ事ではないということは、アレスにも理解できた。
「き、君……どうしてこんなところで? それに、その……」
 一方では彼女に同情しつつも、アレスは思わず頬を染める。
 素肌の上に薄いマントを羽織っただけの娘。山頂からの強風にあおられて、白い体が見え隠れする。年頃の男の子にとっては、いささか刺激が強すぎた。
 アレスはコートを脱ぐと、少女の前に放り投げた。
「早く着ろよ! 寒いだろ? それに、困るよオレ、そんな格好……」
 悪びれた顔で背を向けるアレス。

 雪原に大きなくしゃみがこだまする。
「くぅっ、でも全然寒くなんかないぜ!」
 毛織りの長袖シャツ姿で、アレスは虚勢を張っていた。
 そんな彼を、娘は黙って見ている。
「な、何だよ? どうしたんだよ……」
 澄んだブルーの瞳で見据えられたアレスは、気恥ずかしそうに苦笑いする。
 少女はわずかに口を動かした。だが声は聞こえてこない。
「もしかして、言葉……分からないのか? 君、外国の人?」
 アレスが首を傾げると、少女は例のシルバー・レクサーの方を指さし、何かを恐れて縮こまるような身振りをする。その表情は恐怖を訴えていた。
 彼女の意図が分からず、アレスは眉間にしわを寄せてうなっている。
 すると娘は、いきなり彼の腕を掴み、無理に引っ張ろうとする。
「おい、ちょっと待って。何だよ?!」
 少女はアレスを連れて山を下りようとしていた。
「え、なんで? だから、オレ、これからあのアルマ・ヴィオを見に行くところなのに!」
 嫌がるアレスは、少女と反対側に向かおうとする。
 彼が《アルマ・ヴィオ》と言った瞬間、彼女はその言葉に反応し、必死にかぶりを振った。
「え、何? アルマ・ヴィオがどうかしたのか?」
 怪訝そうなアレスに向かって、娘は手で×印を作る。どうやら行ってはいけないと主張しているらしいことは、アレスにも飲み込めた。
 何故かレッケも引き返そうとする。《彼》はアレスのズボンの裾をくわえて、しきりに村の方に引き返すよう勧めていた。
 ――どうしたんだろう? レッケまで……。でも、こいつのカン、結構当たるからな。
 改めて少女を見たアレスに、彼女も真剣な面もちでうなずく。
「分かったよ、戻ればいいんだろ、戻れば……」

 ◇ ◇

 クレドールは黒々とした樹海の上を飛んでいた。
 眼下に広がるのは、見渡す限りの木々。文字どおり緑の大海である。
 ネレイからアラム川沿いに遡ること約4時間――村や畑など、生活の匂いのする風景が次第に減り、いつしか地表は深緑一色に塗りつぶされていた。その後さらに2時間が経過したが、樹木の織りなす地平の果てに、いまだ中央平原は見えてこない。
「イゼールの森って、本当に広いんですね」
 誰にともなくルキアンが言った。
 彼の手前のベッドでは、メルカがすやすやと眠っている。こうしている間は、以前と同じく純粋無垢な顔をしているのだが……。
 彼女を隣で見守りながら、ルキアンは時々窓の外に目をやっている。
 一緒に外を眺めていたメイは、春の短い日が陰り始めるのを感じていた。
「そうなのよ。森を越えるまでに、たぶん真っ暗になっちゃうと思う。あと4、5時間はかかるみたいだから。ところでルキアンは、イゼールの森を見るのは初めて?」
「はい。この辺りには来たことがないですから」
「そりゃそうかもしれない……。田舎を通り越して、ほとんど人跡未踏の秘境だし。大体、普通ならこんな場所に来る用事なんてないわね」
 デッキブラシに似た道具で床を磨きながら、フィスカも盛んにうなずく。
「うんうん。分かります。街からずいぶん遠いですから、ピクニックに来るのは大変ですよねぇ。道に迷っちゃうかもしれないですぅ」
「あの、そういう問題じゃないんだけど……」
 必ずしも広いとは言えない医務室の中を、フィスカが右に左に駆け回っている。実は掃除や料理が趣味だという。意外に家庭的な面もあるようだ。
 フィスカが窓際まで来たとき、ルキアンは邪魔にならないように、椅子を持って移動した。
「ご協力、感謝ですぅ!」
「あ、あは、えへへへ……」
 フィスカの笑顔に乗せられて、ひきつった笑みを浮かべるルキアン。呆れて見ているメイに、彼は思い出したように言った。
「でも魔道士は、よくこの森に遺跡の調査に来るみたいですよ。僕の先生も、何度かここに足を運んでいました」
 ルキアンはふと考えた。カルバと暮らしていたあの日々が、わずかここ数日のうちに、あたかも遠い幻のごとく思え始めたと。あの《日常》の持っていた圧倒的な現実感が、日増しに音を立てて崩れていく。
 ――僕はこれからどうなるんだろう? でも、どのみちもう引き返せないし、引き返すつもりもない……。
 彼はメルカの寝顔をじっと見つめる。結局、この幼い子まで巻き込むことになってしまったのだ。
 いかにも又聞きだと言わんばかりに、適当な口調でメイがつぶやく。
「あぁ、そういえば、クレヴィーもそんなことを話してたわね。この森をくまなく探せば、まだまだ沢山の遺跡が見つかるだろうって。どうしてだか知らないけどさぁ、旧世界の時代、この辺はとても栄えていたみたいなのよ。今はご覧の通り、木が生えてるだけなんだけど……」
「本当ですか?」
 今の言葉に興味を覚えたのか、ルキアンは目を丸くして樹海を観察し始める。
「おい、少年! そんなことしても遺跡は見つかんないってば。だからあたしたちギルドが仕事を請け負って、わざわざ探しに行ったりするんじゃないの」
 ルキアンの神妙な表情に吹き出して、メイは彼の背中を叩いた。手形が付きそうな勢いだ。いちいち叩かれる方としては、たまったものではない。
「まぁ……静かにしないと、メルカちゃんが起きてしまいますよ」
 古文書の翻訳に疲れたのか、シャリオが奥の書斎から出てきた。
「先生、目の下にクマができてますぅ。昨日もほとんど寝てないんでしょ。夜更かしは美容の大敵ですよぉ!」
 フィスカが心配そうに歩み寄る。小柄なシャリオを後ろからのぞき込むようにして、息が顔にかかりそうな所まで近づいた。
 普段から身近に接しているせいか……変に距離感の近いフィスカにも、シャリオは慣れている様子だが。
 メイは、不可解そうな顔をして肩をすくめる。
「無理しないでね。もしシャリオさんが寝込んじゃったら、一体誰がみんなを看てくれるのよ?」
「ありがとう。気を付けます……でも、もう少しで《樹》の謎が解けそうですから」
 前髪が数本、シャリオの額に垂れていた。その様子がまた、彼女の顔つきをいつになくやつれて見せている。彼女は両手を挙げて伸びをし、肩の凝りをほぐしながら窓際に向かう。活字と格闘し続けていたシャリオにとって、イゼールの樹海は、目の疲れを癒すのには格好の景色だった。
「もしかすると、《樹》のあった場所をそのうち特定できるかもしれないのです……」
 思わせぶりにつぶやくと、シャリオは窓外に視線を向ける。
 樹海と言っても平坦な森だけが続くわけではない。標高自体はさほどでないにせよ、起伏に富んだ丘陵地の上に木が生い茂っているのだ。
 所々に小高い丘が頭を出していたり、台地から落ち込んだ崖が土色の肌を見せていたりする。それらの複雑な地形に影響されつつ、密生した樹林の中をアラム川が蛇行しながら流れる。単調になりがちな風景に、ほどよくアクセントが加えられていた。
 窓辺に並んで、森をじっと眺める4人。
 やっと静まった部屋の中で、シャリオはゆっくりと、そして満足げに語った。
「天空の街々はやはり実在していました。ルキアン君にもお話しした通り、あの昔話に出てくる《樹》というのは……地上と天空都市とをつなぐ巨大な施設だった、と考えてほぼ間違いありません。旧世界の人々は、それをこういう名前で呼んでいたのです。すなわち、《世界樹》と……」


  《大きな大きな木の昔話》

  あるとき貧しい少年が、不思議な種を拾いました。
  食べ物に困っていた少年は、畑にその種を埋めたのです。
  すると、どうでしょう。
  種から出た芽は、たちまち天に届くほどの大きな木になりました。

  少年がその木を登っていくと、空の上に立派なお城がありました。
  しかし、そこに住んでいたのは悪い王様だったのです。
  家来の巨人を使って、王様はいつも雲の下の人たちを苦しめていました。

  少年は悪い王様を懲らしめようと考えました。
  そんな少年に力を貸したのは、妖精の娘です。
  娘にだまされ、雲の巨人は、今度は少年の家来になったのでした。

  雲の巨人はお城を壊して、王様を空から投げ捨ててしまいました。
  それだけではありません。
  雲の町に住む人たちも、みんな巨人に食べられてしまいました。

  妖精の娘は悪い子だったのです。
  はじめから娘は、雲の上の人たちがみんないなくなってしまえばいいと、
  考えていたのです。

 ◇ ◇

「お父様……」
 深緑色の厚い絨毯を踏みしめ、カセリナが書斎に入ってきた。
 彼女は髪を丸く結い上げ、ぴったりとした白の胴着で上半身を覆っている。額や鼻の頭に汗がうっすらと残っているのは、つい今まで彼女が剣の練習をしていたためだった。頬も血色良く薄紅に色づいている。
 代々の当主が使ってきた書架は、重厚な飴色のつやを見せる。
 その中に収められているのも、芸術品の名に値する美しい書物ばかりだ。緻密に革張りされた表紙、見事な天金、装丁の隅々にまで意匠が凝らされていた。
 ここがカセリナの父の――ナッソス公の安息の場になっている。狩りや武術を好み、猛々しい容貌を持つ公爵は、他方で愛書家でもあったのだ。
 部屋の正面に大きな窓がある。鈍い黄金色の残照が、カセリナの方に向かって差し込んでくる。
 その光の中に、父のシルエットが浮かび上がっていた。
「カセリナか。お前に言っておきたいことがあってな……。いま呼んだのはそのためだ」
 精悍で孤高とした公爵は、猛禽類を思わせる独特の威圧感を備えている。彫りの深い、骨張った顔つき。鷲鼻の左右に寄りつくようにして、つり上がった両の目が光る。頭頂部を短い金髪が申し訳程度に飾っていた。
 微かに、愛らしく首を傾けたカセリナ。貴族にふさわしい高雅な振る舞いを身につけている彼女だが……こうして父の前に立ったときには、年相応のまだあどけない様子もみせる。
 そんな娘を見て公爵の表情が和らいだ。高慢で人当たりのきついナッソス公だが、一人娘には別人のように優しかった。特に妻を失ってからというもの、彼女の面影を日増しに強く表すカセリナを、公爵は半ば溺愛していると言ってもよい。
「お前にも言ってある通り、明日の朝、エクター・ギルドの代表とこの城で会談を行うことになった。もとより和平に応ずる気などないのだが……。それにしても、マッシアの馬鹿息子め!! 最近姿を見せぬと思ったら、まさかギルドの飛空艦に乗っていたとはな。あのような無頼の輩たちと交わるなど……王国きっての名門マッシア家が、聞いて呆れる!」
「ランドリューク様ですか。あの方のなさることは、私もよく理解できません」
 控えめに表現したカセリナだが、彼女は実際にはランディを嫌っていた。
 大貴族同士のよしみというのか、ナッソス家とマッシア家との間には親交がある。当然、一門の鼻つまみ者・ランディのことも、カセリナは幼い頃からよく見知っていた。彼女の評価によれば――ランドリューク・マッシア伯は、自堕落で酒浸りの遊び人で、軽薄な女たらし、そうかと思えば革命思想を吹聴する煽動者、とにかくどうしようもない男だと決まっていたのである。
 多少は婉曲な物言いもするようになってきた愛娘に、公爵は目を細めた。だがすぐに険しい顔つきに戻ると、忌々しげにつぶやく。
「やつの顔を立てて……あるいは帝国軍到着までに少しでも時間を稼ぐため、こんな茶番のような和平交渉を行うことになったが。交渉の決裂は必然的だ。そうすれば、ギルドの飛空艦隊が攻撃してくるだろう」
「艦隊? お父様、やはりギルドはそんなに何隻も飛空艦を持っているの?!」
「残念ながらな。間に合わせの武装商船などではなく、旧世界の本物の戦闘艦をだ。徒党を組んだ無頼漢たちを好きにのさばらせておくから、こんなことになる。特に最近は、冒険者や傭兵だけでなく、貴族や神官までもが……各国の宮廷、軍隊、神殿、大学……至るところのはみ出し者が、噂を聞いて続々とエクター・ギルドに集まっているらしい。嘆かわしいことだ! 結局のところ、わが王国は、世界中のアウトローたちに安住の地を与えてしまっているのだから」
 公爵は以前からギルドを快く思っていなかった。私的な傭兵集団にすぎなかったエクター・ギルドが、今では社会的序列に公然と挑戦するに至っている。そんなことは、保守派貴族の筆頭であるナッソス公からすれば許し難い。
「似たようなお話は、私も聞いたことがありますわ。デュベールから……」
 その男の名を口にしたとき、カセリナの顔がぱっと輝いた。
 父の目はそれを見逃さなかった。普段は娘の機嫌を損ねぬよう腐心している公爵だが、今日ばかりはあからさまに顔をしかめる。
「カセリナ、お前もお前だ……。二言目には、デュベール、デュベールと! 今までは黙って許してきたが、あのような卑賤の男と親しげに接するではない。まったく……エクターごときの分際で、これまでの恩を忘れおって」
「そんな言い方しないで、お父様! あの人だって、本当は辛いのですから。デュベールの立場だって考えてあげてよ!」
 カセリナも負けん気になって言い返す。父に対しては比較的従順な彼女だが、デュベールのことに限っては、いつもこうして公爵と衝突するのだった。
「仕方のないやつだ。お前も、本当に母親譲りの頑固者だな……」
 そのとき、カセリナの口調が不意に柔らかくなった。珍しく甘えた声で彼女は答える。
「いいえ。私が頑固なのは、お父様の娘だからですわ」
 彼女は父に歩み寄ると、純真な笑顔の中に目を潤ませ、じっと見上げた。
「カセリナ……」
 厳格な公爵も、ただの父親となって娘を抱きしめる。
 戦いの気配がすぐそこまで迫っている今、残りわずかな平和の時を、父子は大切に味わおうとする。
 だがそれも長くは続かなかった。胸にすがる娘をそっと引き離すと、ナッソス公は告げる。
「カセリナ、この父の頼みを聞いてくれ! もしものことがあるとも限らん。お前はこの城から離れるのだ」
「嫌です! 私はお父様やみんなと一緒に戦います!! 自分だけ逃げるなんて、そんなこと、できない……」
 口元を堅く結び、うつむいて涙をこらえるカセリナ。しかし……。
 薄れゆく落日の光を受けて、彼女の頬で雫が光った。
 公爵はしばらく窓の外を眺め、無言で腕組みしていたが、やがて振り返った。
「私の娘……か。一度言い出したら聞くまいな。分かった。お前のためにも必ず勝ってみせる。だが、よいか、これをお前に渡しておく」
 そう言って差し出された掌の中に、金色に輝くものがあった。
「この指輪には細工がしてある。人を即死させるには十分すぎるほどの猛毒が、仕込まれているのだ。万が一にもお前が敵の手に落ちたとき、下賤な者どもから屈辱を受けるよりは、これを使って潔く命を絶て……」
 感情をあえて押し殺し、冷たく言い放たれた父の言葉。
 カセリナも子供ではない。名誉を重んじる貴族には、こういう《習い》もあるということを――彼女も知っていた。
「最初からそのつもりでした。私もナッソス家の娘、覚悟はできていますわ。でもお父様、私は決して負けません。この命に代えても」

 ◇ ◇

 クレドールの医務室――ペンを手に取り、なぜか固まったままのルキアン。
 小さな机を借りて、1枚の紙を見つめ続ける。彼の額に汗が滲んでいた。
 ちなみにメイが持ち場に戻ったせいか、室内は妙に静かだ。
 ルキアンの隣ではフィスカが口を尖らせ、懸命に首をひねっている。
「むぅぅ……」
「あの、フィスカさん。ごめんなさい……ちょっと静かにしていただいて、いいですか?」
 2人のそんなやり取りに吹き出しそうになりながら、シャリオは、昨晩運び込まれた医療品を整理中だった。
 インク瓶を持ち上げては、明かりに透かしているフィスカ。何をしているのか全く意味不明だ。いや、たぶん意味などないのだろうが。
 ルキアンは迷惑そうに彼女を見ると、また紙面に集中する。
「メルカちゃん……あの……ごめんなさい。え、その、僕が……」
「だめですよぉ。ルキアンさん、《あのぉ》とか《えぇっと》なんて書いたら」
「書きません。口に出してるだけです……」
 実は、ルキアンはメルカに対する謝罪を――いや、そんなはっきりとしたものではなく、自分の今の気持ちを誠実に伝えるために、言葉を紙に綴ろうとしていた。
 メルカは当分話をしてくれそうにないし、何より彼自身が口下手だということもあって、手紙の形にした方がよかろうと思ったのだ。正確に言えば、フィスカが冗談でそう勧めたのが、事の発端である。
 ただし……そのフィスカが一緒に考えてやると称して、実際には邪魔ばかりするものだから、文面自体は全然できていないようだが。
 深い溜息とともに、ルキアンは窓の外を眺める。
 緑一色の風景にもそろそろ飽きた。だが幸い、半時ほど前から、大地のキャンバスに夕日が新しい色を塗り添え始めている。
 樹海の限界線も姿を現してきた。もうすぐイゼールの森とはお別れだ。
 夕と夜との間を彩る、あの濃い藍色の空。
 その下で森は黒々と見え……さらに彼方に広がる緑色が、今日一日待ちこがれた中央平原である。
 ――陸地って、こんなに大きかったんだな。《樹の海》にも驚いたけど、今度は草原か……。
 潮騒を聞きながら暮らしていたルキアンだが、本物の海にも劣らぬ《草の海》を見るのは、恐らく今が初めてであろう。見慣れぬ風景を次々と前にして、自分が旅人であることを実感させられる1日だった。
 ――でも、この広い世界を、全て自分のものにしようと考えた人間がいる。それがエスカリア皇帝……《神帝》ゼノフォス。
 果てなき夕暮れの情景に気持ちをかき立てられて、ルキアンは世界のかけがえのなさを、少しは《現実的に》理解できたような気がした。
「そんなことが、許されちゃいけないんだ……」
 突然つぶやいたルキアンに、フィスカが振り返る。
「あ、良い言葉、浮かびました? 早くしないとメルカちゃんが起きちゃいますぅ。ねぇ。聞いてますかぁ。あのぉ、ルキアンさん?」
 そこでフィスカは、はたと気づいた。したり顔の彼女は、口を大きく開けたまま、首を何度も縦に振る。ゆっくり、ゆっくりと。
「えへへへ。ダメですよぉ〜。ルキアンさん、ナルちゃんになっては……。でも良かったですぅ。お元気になったみたいで!」
 今度は反対側を向いて、丸印を指で作るフィスカ。
 彼女の瞳に映ったシャリオも、にこやかに頷いた。

 いったん沈み始めると太陽の動きは忙しくなり、地平の行き着くところにたちまち姿を消していく。
 方角の加減で月は見えないが――空に小さな光がひとつ、どの星々よりも早く輝き始めた。
 濃紺の宙海にぽつりと輝く星。
 私たちの世界で言えば、それは《宵の明星》にあたる。
 イリュシオーネには、この一番星にまつわる伝説があった。月の女神・魔法神セラスの使い、小さな白い鳥の物語だ。
 その言い伝えが、ルキアンの脳裏に何気なく浮かぶ。
 ――白い鳥の星は、ああやって、独りでも輝かなきゃいけない。まだ他の星の出ていないこの空で、暗い野を急ぐ旅人たちに道を示すために。
 己の弱さが、ふと身にしみた。
 別に自分のことを内省しようというつもりで、ルキアンはこの伝説を反芻したのではない。だがこうして落ち着いて考えてみると、昨日までの自分の弱さが恥ずかしいと彼は思った。
 少しだけ、ほんの少しだけ強くなれたら――いや、いつかそうなれるような気がした。微かに。
 神話は語る。この白い鳥とは、荒野の果てで人知れず死んだ戦士をセラス女神が哀れみ、その魂を、星の世界を舞う鳥に変えたものだという。
 ――戦士は今も戦っているんだ。白い鳥となってその翼を広げ、星となって輝き続けることによって。みんなに、その光が見えるように。
「はっ?!」
 昨日クレヴィスから聞いた話が、なぜか思い出される。
 ――あなたは現実の中で疎外感を覚えていたかもしれません……。けれどもルキアン君、あなたはこの世界とはまさに異質であるがゆえに、この世界にとってなくてはならない人なのです。他の誰でもない、君がしなければならないことがあるのです……。
 窓べりに顔を近寄せたルキアンは、小声でクレヴィスの言葉を繰り返した。
 誰にも聞こえない。しかし、この大地の全てに響けと願って。
「再び世界に安らぎを取り戻すために。そして、僕とみんなのそれぞれの未来のために。そう、みんなが微笑んでいられるように……」
 ルキアンは再び机に向かって、筆を動かし始めた。
 ――そうなればいいな。いつか僕もみんなも、優しく笑っていられれば。でも、まだ分からないよ。僕が何をすべきなのか? 自信もない。だけど、少しずつでも前に向かって進んでいければ、いつか、きっと……。

 ◇ ◇

「イ・リ・ス……」
 テーブルの上の紙切れを見ながら、アレスは1文字ずつ慎重に発音した。
「君の名前、イリスって言うんだ?!」
 どことなく彼の名前と響きが似ている――その点に親しみを覚えたのか、アレスは声を弾ませる。
 向かいに座っている少女は黙って頷いた。先ほどから椅子に腰掛けたまま、彼女はほとんど身動きらしいことをしていない。
 彼女が身に着けているのは、ラプルス山麓で日常的に見られる民族衣装である。毛織りの上着には、赤と緑の小さな格子模様を組み合わせることにより、鹿や花などの図柄が見事に描かれている。緑のスカートは、やや厚手の生地にプリーツを入れたもので、くるぶしまでの丈がある。どちらも、アレスの母ヒルダが若い頃よく着ていたお気に入りだ。
 イリスは背中を丸め、縮こまるようにしてスープを口にする。
 氷雪に支配された岩山とは違って、アレスの家は小さくても暖かで心地良かった。手狭な食卓で2人は冷えた体を温めている。
 その後ろにある台所では、ヒルダが干し肉の塊をさばいていた。
 半時間ほど前、見ず知らずの娘をアレスが連れて帰ってきたとき、ヒルダは自分の若き頃を連想した――彼女は息子と反対に、傷ついた旅の若い男を家に助け入れたのだが。何の巡り合わせか、後にその若者がアレスの父となったのである。
「ところで、君はオーリウム人?」
 アレスは不思議そうな顔をする。目の前に座っている謎の少女は、彼の話す内容のうち、少なくとも半分程度を理解できているように見える。さらにはアレスたちが使っているのと同じ文字で、自らの名前を記したのである。
 そのくせ《オーリウム》という言葉を聞くと、少女は首を傾げた。恐らくそれは彼女にとって未知の言葉なのだろう。きょとんとした目でアレスを見つめている。とかく表情の変化に乏しい娘だった。
「困ったな。君、どこから来たの? えっ、俺の言ってること、分からない?」
 今度はイリスの方が、彼にペンと紙を押しつけた。
 アレスは苦し紛れに笑っている。実はあまり文章が書けないのだ。それでも地方の平民の子が読み書きできるという事実は、オーリウム王国の文化水準の高さを物語る。国によっては、貴族ですら満足に手紙も書けない者が、いまだに少なくないという。
 できるだけ丁寧な字を書こうと試みたものの、ペンを握るアレスの指は、緊張のせいで逆にぎこちなく動いてしまった。所々でペン先が紙に引っかかり、文字の周囲にインクが滲んでいる。
 《君はどこから来たの?》
 イリスは紙面をじっとにらんでいたが、やがてアレスが難渋して綴った言葉のうち、《どこから》という部分を丸で囲んだ。
「そうそう、それだよ、それ! イリスの故郷はどこ?!」
 アレスは小踊りしてテーブルから立ち上がる。
 身を乗り出したままの彼に対し、イリスはおっかなびっくりした様子で了解の意を示した――もちろん話し言葉によってではなく、首や視線の微妙な動きを通じて。
 達者な手つきで彼女が書いた地名は、アレスには聞き覚えのないものだった。
「エ……えーっと、何、エルト……ランド? 《エルトランド》なんていう国、どこにあったかな。小さな国かい? ごめん、絵で描いてくれよ。分かる? 世界のどの辺りなのか教えてくれないか。あ、分かってくれた? へへっ。よかった」
 時々手を止めて考え込みながら、イリスは地図を描いていく。島のようなものが4つ。その周囲には、さらに小さな島々が点在する。
「そうか! エルトランドって、どこかの島なんだな? そりゃ分かんないよ。俺、海も見たことないんだぜ。父ちゃんが、いつか連れて行ってやるって……。凄くデカイんだろ? 海って……」
 父と暮らした日々を不意に思い出し、アレスは胸の痛みを感じた。
 彼のそんな気持ちなど知るはずもなく、イリスはそっけない調子で首を左右に振る。
 アレスは気を取り直して、少女の指の間からペンをそっと抜き取ると、紙にこう書き加えた。
 《君の島は世界のどのあたり?》
 それを見た途端、イリスは訝しげな目つきになった。
 《これ 島 違う。これ 世界。知らない?》
 現世界人のアレスにも分かりやすく伝えようとして、イリスは文章ではなく単語を並べ立てる。
 イリスが使っている言葉は、間違いなくオーリウム語の源流となった古代言語だろう。それと現在のオーリウム語とを比べてみると、両者の間に横たわる時間的距離にも関わらず、意外にもそれほど変わりがないのである。文法的には多少異なるにせよ、個々の語彙自体に大した差はなかった。アレスとの短いやり取りの中で、イリスは早くもそのことに気付いていたのだ。
 しかし困ったことに、最も大事な前提を――イリスが旧世界人であるということを――アレスはまだ理解していない。恐らく彼は、イリスのことを、変なオーリウム語を書く外国人だとでも思っているのだろう。
 自分が描いた大雑把な地図を指さしつつ、イリスはペンで地名を書き入れていく。どういうわけか4つの島々の名前の後には、すべて《大陸》という言葉が付け加えられていた。誰もが知っている通り、このイリュシオーネに《大陸》はひとつしか存在しないはずなのだが……。
「おいおい。イリス、ちょっと待ってくれよ。いくら俺が田舎者だからって、イリュシオーネ全体の形ぐらいは知ってるぞ。何しろオレの父ちゃんは、世界を股に掛けるエクターだったんだから!」
 父の冒険談を子守歌がわりにして、アレスは大きくなったようなものだ。勉強嫌いの彼も、そのおかげで各地の地理・文化に関しては結構詳しいのである。
 一瞬、イリスは何かに気付いたような顔をして、またペンを走らせる。
 《私 遠い 昔から お姉ちゃんと 一緒 来た。今 世界 昔と 違う》
 アレスには、彼女の意図するところが全くつかめない。
 ――昔からやって来た? 何の冗談かな。
 色々と空想をめぐらせていた彼は、イリスに袖を引っ張られて我に返った。
 《お姉ちゃん 助けて。 私の お姉ちゃん 早く 助けて!》
 彼女の唇が引きつり、喉の奥で息を鳴らして何か必死に叫ぼうとしている。
 イリスの手からペンが滑り落ちた。彼女は駄々をこねるように机の上を叩いたり、勢い余ってテーブルクロスを引き剥がしそうになったりする。
 わずか数秒……アレスが仰天しているその間に、テーブルの上の花瓶が水をぶちまけながら転がり、すんでの所でポットも床下に投げ出されそうになった。
「どうしたの、アレス? まぁ……っ!」
 奥で料理をしていたヒルダが、何事かと振り向く。
「しっかりしろ!!」
 イリスの手首を掴んだ瞬間――アレスは彼女の力が不意に抜けていくのを感じた。糸の弛んだマリオネットさながらに、少女の体はテーブルの上に崩れ落ち、そのままじっと動かなくなる。
 《助けて。お願い、助けて。お姉ちゃん 悪者たちに……》
 彼女は震える指先でペンを取り、また繰り返すのだった。
「あ、あはは。何でもないよ、母ちゃん。イリス、疲れてるみたいなんだ。だから、その……」
 アレスは適当なことを言ってごまかしている。なぜそうしたのか、彼自身にもよく分からなかったが。
「そうね。イリスちゃん、疲れてるんだろ。もう少ししたら寝た方がいいよ」
 ヒルダは少女の顔をしげしげと眺めた。冒険者稼業の夫を支えていた彼女のこと、自分も諸々の事件に多少は首を突っ込んだ経験からか、訳ありの人間に対してそれなりに目が利く。
「それにしても、今晩も冷えるわねぇ」
 彼女は何度か頷くと、新しい薪を手にして暖炉の方に向かった。

 ◇ ◇

 例の手紙をメルカの枕元に残し、ルキアンは医務室から出た。書いた本人がその場に居るというのも、何か奇妙だと感じたからである。
 送り手と受け手とが直に顔を合わせないからこそ、手紙というのは、面と向かって話すのとは違う効果を持つ場合があるのだろう。
 だが結局、本人を前にして伝えられないことは、文字を使っても上手く言えないのかもしれない。今更ながらルキアンはそう考えた。
 そして回想する。
 
 以前に何度か、彼はソーナに対する思いを書き綴ったことがある。もっともそれは恋文ではない。彼女に手渡す勇気など、少なくとも以前の彼にはあり得まい。

 それは単なる詩にすぎなかった。
 しかも他人には見せられぬ類のものだった。
 己を満足させるための密かな言葉遊びだと彼には分かった。
 すました言葉で妄想を書き連ねたものにすぎなかった。
 だからルキアンはその詩を破いて海に捨ててしまった。

 色々と思い返していると、首筋から頬へと熱が昇っていくのを感じる。
 ――いやだな。恥ずかしい。
 医務室のドアを背にして、彼は独りで顔を伏せた。
 廊下を行くクルーたちが、そんな彼を見て不思議そうにしている。
 なぜかルキアンは、過去の日々にますます手が届かなくなっていくような気がした。他方、寂しい思い出と正面から向かい合うことを、彼は恐れなくなり始めていた。奇妙な感情。
 ――今頃、ソーナはどうしてるんだろう? 一体、どこに連れ去られてしまったんだろうか?
 憂いを含んだ彼女の横顔が、彼の胸中に浮かんだ。
 本来ならば、ルキアンはソーナの身を常に案じているべきはずであろう。彼自身もそのはずだった。けれどもあの事件以来、彼の身の回りに様々な出来事が起こりすぎて、こうして独りになったときにしか、彼にはソーナを想う余裕がなかったのである。
 勿論、それもおかしな話だが、現にそういう心境なのだから仕方がない。今日だけを取ってみても、ソーナのことを四六時中考えていたかと聞かれれば、ルキアンは否と答えるしかなかろう。
 彼はとんでもない問いを自らに投げかけた。
 ――僕は、本当にソーナのことを好きだったんだろうか?
 不覚にもわき出てきた疑念に、彼は慌てて首を振る。
 ――何てことを?! でも……前はそんなこと考えてもみなかったな。いや、考えられなかったのかも。
 曖昧な感情の中で、彼は後ろめたさを覚えた。冷たい自分に対して?
 少し気持ちが落ち着いてきたと思ったら、また頬が熱くなった。
 そのとき……。

「あれ?」
 不意にルキアンの行く手に、白い何かがふわりと現れた。
 人っ気の少ない廊下、しかも大方の場所は薄暗い。
 彼は反射的に寒気を覚える。
 それが幽霊なら……まだましだったろう。少なくとも彼にとっては。
 いつ現れたのか、髪の長い娘がこちらの方を向いて立っている。
 ――エルヴィン?
 初めて出会ったとき以来、ルキアンは、彼女と顔を合わせることを無意識のうちに避けていたかもしれない。
 あの独特の目が苦手だったのだ。夢の彼方を幻視するかのごとき彼女の眼差しが、その虚ろな光の向こうで、実はこちらの心の奥底まで見通しているように思えてくるからである。
 今さら引き返すのも不自然なので、ルキアンは素知らぬ顔で横を通り過ぎようとした。だが無関心を装おうとしても……そうすることで、かえって彼がエルヴィンを必要以上に意識する結果になってしまっている。
 彼のそんな心中を読み取るかのように、エルヴィンは素通りさせてはくれなかった。
「こんばんは……」
 何故か親しみのこもった声で、エルヴィンが話しかけてくる。
 ぴくりとも動かない眉に、半開きの唇。青い目はルキアンをじっと見つめているのだが、そのくせもっと遠くに焦点を置いているように感じられる。整った顔立ちだけに、無表情さがなおさら際だってみえる。
「こ、こんばんは」
 あの不可解な少女の口から、日常的な挨拶がごく普通の調子で発せられたことは、かえってルキアンを驚かせた。彼は両脚を絡ませるようにして、ぎこちなく立ち止まる。その堅い動作は壊れたおもちゃを連想させた。
 彼にすぅっと近寄ると、エルヴィンは無邪気に歯をのぞかせ、ぼんやりとした目を細める。笑顔――なのだろうか?
 彼女は両掌を合わせ、その間に何かを隠し持っている。
「これ、あげる」
 ぶっきらぼうに差し出された物を見て、ルキアンの言葉は途切れた。
「羽根?」
 エルヴィンは彼の言葉に肯く。
 真っ黒な羽根が1枚、彼女の手のひらの上に乗せられていた。所々で微かに起毛したそれは、薄明かりの中で濡れ髪のような光を見せる。
 彼女の行動の意味がルキアンには理解できなかった。
 呆気にとられた彼に向かって、エルヴィンはつぶやく。
「早く、気づいてあげて。心を研ぎ澄ませ、感じて……」
「あ、あの……何に?」
 以前に出会ったときと同様、エルヴィンは予言者めいた口振りで語り始める。
 何の謎かけなのか。相変わらずルキアンには分からない。
「あなたは孤独を恐れている。独りでいるときには、ただ寂しいとか、そこから逃げ出そうとか、そんなことばかり考えている」
「えっ?」
「だから、見えるはずのものも見えない。勇気を出して……目を閉じて、静寂とひとつになるの。そうすれば気づくはず。あなたは何も感じない?」
「だから……それ、何の話?」
 エルヴィンは思わせぶりに首を傾けると、彼の言葉など聞こえないとでもいうふうに、廊下の奥へと立ち去った。
 残り香がした。
 ぽつんと取り残されたルキアン。

 今度は、彼の耳元で誰かがささやく。
「よぉ、ルキアン君。エルヴィンにモテるなんて、なかなかやるな」
 今の会話で動揺していたルキアンは、飛び上がるようにして振り向いた。
 そんな彼を両手で支え、背の高い男が苦笑している。
「あ、あれ? たしか、あの、ベ、ベルセア、さん……ですよね?」
「そう、大当たり。覚えていてくれて嬉しいよ」
 ベルセアは亜麻色の髪を掻き上げ、気取って微笑んだ。
 肩口に届く髪がさらさらと揺れ、彫りの深い顔に、すらりと形良い顎。彼がクレドールで一番の男前という話も、単なる冗談ではなさそうである。
「驚かせて悪かったな。でも、あの幽霊娘があんなに喋るのを見たのは、一体何ヶ月ぶりだか。オレなんか彼女とまともに口聞いたこともないのに……。それはともかく、クレヴィーが呼んでたぜ。さっきブリッジに行ったら、伝令を頼まれちゃってよ」
「クレヴィスさんが?」
「あぁ。あと30分ほどしたら、クレドールはラシュトロス基地に着く。君に話があるから、船が港に入った後に来てくれってさ。どういうわけか、ランディやシソーラ姐さんも一緒らしいが。ま、行ってみたら分かるぜ」
 どこか不安そうなルキアンを見ると、ベルセアは彼の顔つきを真似しておどけて見せた。
「ということだ。それにしても、君は珍しいところにウケるんだなぁ。今のエルヴィンにせよ……それにメイから聞いたんだが、あのシャリオさんとも結構仲良しなんだって? オレにとっては一番苦手な2人だな。じゃあな。がんばれよ、少年!」
 ぽんと肩を叩かれ、その場に取り残されたルキアン。
「あの、あ、あの……。僕、そんな……」
 彼が口ごもっている間に、ベルセアはもと来た方へと歩き去ってしまった。

 ◇ ◇

 反乱軍の本拠、要塞都市ベレナの中枢をなすセルノック城は、純粋に戦闘を目的として作られた施設である。だが面白いことに――無骨で機能本意な外観にそぐわず、この一大軍事拠点は、下手な宮殿以上に美しい内装を誇る。
 廊下ひとつ見てもその壮麗さは群を抜いていた。継ぎ目のない見事な石柱が立ち並び、アーチ状の高い天井を支える。乳色の肌を持つ柱には、神話や伝説に残る様々な英雄や軍神の像がそれぞれ一体ずつ据え付けられている。左右の壁は、鏡面仕上げのパネルに幾何学模様の金細工を走らせた大胆なものだ。
 時代の空気とでもいうのか、ここ一世代ほどの間、イリュシオーネの建築においては、やや過剰気味の絢爛さを競う傾向が強い。
 が、向こうから歩いてくる男は、この華美な廊下の中でもさらに浮き立っていた。高貴な美しさの中に毒々しい妖しさをも溶け込ませ、両者がある種の極致的な形で融和した姿が、彼の一身に顕現しているのだ。
 その独特の雰囲気ゆえに《黒の貴公子》と呼ばれている男――他ならぬミシュアス・ディ・ローベンダインである。
 彼がふと立ち止まったとき、うねる黒髪がさわさわと揺れた。その視線は、向こうから来るもう1人の男に向けられている。
 シャンデリアの燈火が点々と輝いているとはいえ、夜の室内は思ったほど明るくはない。柔らかな光の下、真っ黒に見えるフロックが、通廊を吹き抜ける風になびいている。しかし本当は暗い紫色の衣装である。この男は……。
 彼はミシュアスとは対照的に、整然として端正な美しさを備えていた。服装の方もシンプルさを追求し、その意味において洗練されている。また2人は同様に長髪だが、こちらの青年の髪は藍色で、さらりとして見事なつやを見せる。
 他方のミシュアスについては――二重袖のコートや、玉石をあしらったボタン、袖口からのぞく精緻なフリル等々、どの部分をとっても、これはこれで彼らしかった。
 その男が手前にやって来るまで、ミシュアスは壁際にたたずんでいた。
 2人の足音。そして静寂。
「これはこれは。貴君が、噂の……」
 ミシュアスは大仰に驚いてみせると、胸に手を当てて慇懃に会釈した。
 紫のフロックの男も、彼に劣らぬ長身を傾け、上品な仕草で一礼する。
 黒いピアスを指でもてあそびつつ、ミシュアスの目が鋭い光を帯びる。
「明日は、いよいよあの話を実行に移すのかね? しかしギヨット総司令も物好きなものだ。貴君には失礼だが……昨日・今日に味方となったような人間に、ある意味で我々の命運をかけた作戦を任せるとはな。まぁ、貴君の実力には私も感服しているよ」
「もったいないお言葉です。私のような新参者など、《黒の貴公子》として知られる貴方に比べれば……」
 彼の切れ長の目に、冷笑するミシュアスの姿が映った。
「ふふ。似合わない謙遜はやめた方がいい。例の《黒いアルマ・ヴィオ》の活躍ぶりを見ていると、私の黒の貴公子という名前も形無しだ」
 そう告げると、ミシュアスはおもむろに立ち去ろうとした。が、途中で何か思い出したかのように振り返る。
「ひとつ忠告しておく。我々がコルダーユ沖で戦った謎のアルマ・ヴィオ……あの機体は、もしかすると《貴君のアルフェリオン》に匹敵する力を持っているかもしれない。《銀の天使》には、せいぜい気を付けることだな」
「ご忠告、感謝いたします」
 紫のフロックの男は不敵に目を光らせ、遠ざかるミシュアスの背中を見つめていた。
 誰もいなくなった廊下で、男はぽつりとつぶやく。
「銀の天使だと? 笑わせる……」

 ◇ ◇

 地平線の彼方から来る風は、想像していたよりも冷たく、そして乾いていた。日の出から数時間が過ぎたというのに、午前の空気はまだ温もりを知らない。
 ルキアンはコートの襟を立て、寒そうに首を縮めている。
 中央平原の南東部にあるラシュトロス基地は、いわば大海の隅に浮かぶ孤島のような場所である。荒野を渡る風を遮るものは何もない。
 サルビアブルーの帽子を小脇に抱えたルキアン。つばが大きいせいか、何度も何度も吹き飛ばされそうになるので、最後には帽子を脱いでしまったのだ。彼の銀色の髪も、風に煽られて乱れ放題だった。
 砂埃がときどき目に入りそうになる。
 辺りに広がる乾いた地面。その表面を埋め尽くす赤っぽい土は、中央平原の大地には本来含まれていない類のものだ。草や木はなく、しかも丁寧に地ならしされている。
 それもそのはず、ここが例のラシュトロス基地――その飛行場に他ならない。いくつかの空中機装兵団が駐屯しているラシュトロスは、我々の世界で言えば一種の空軍基地に当たる。
 ルキアンから少し離れた場所に、飛行型の《オルネイス》が10数機ほど並んでいる。残念なことだが、大半の機体は旧式のマギオ・スクロープ1門を装備しているにすぎない。議会軍の資金不足が噂される昨今、地方の小規模な基地にすぎないラシュトロスには、予算はあまり回ってこないのだろうか。ましてや最新の要撃タイプである《アラノス》や、対地攻撃力に優れる《レイヴァーン》など、気の利いた機体が配備されているはずもなかった。この基地の戦力だけでは、到底ナッソス軍には太刀打ちできない。
 ルキアンの隣ではランディが煙草を吹かしている。見るからに眠そうな顔をしている彼にとっては、目覚ましの一服というところか。
 2人の後ろには、ナッソス公との会談に向かう彼らを見送るために、クレドールの仲間たちが沢山立っていた。
 人だかりの中から近づいてくるカルダインとクレヴィスに向かって、ランディが斜に構えた調子で言う。
「結果には期待するなよ。くどいようだが、和平の成立する見込みはまずあり得ない」
「えぇ。最初からそうだと分かっていながら、わざわざ貴方に出向いてもらうのも申し訳ないことですが……」
 クレヴィスが仕方なさそうに微笑んでいる。
「気にすることはないさ。俺が貢献できるのは、こんな用事の時ぐらいだし。それより、ルキアン君まで無理につき合わせちまって……悪いねぇ」
 隣でぼんやりしている少年の顔を、ランディがニヤニヤしながらのぞき込む。
「えっ? あ、ぼ、僕ですか? いえ、か、構いません。マッシア伯爵とご一緒させていただけるなんて、こ、こ、光栄です!」
 ルキアンは声をどもらせ、背筋を真っ直ぐ伸ばした。
 昨晩、クレヴィスたちを交えて打ち合わせを行ったときも、彼はランディの前では緊張しっぱなしだったのだが。
「その呼び方はよしてくれよ。ランディでいい」
 やれやれといった様子で、伯爵はルキアンの言葉を訂正する。
 照れ笑いしているルキアンを、メイが遠巻きに見ていた。ランディが居合わせているので、何となく顔を出しにくいのだろう。元気な彼女らしからぬ、浮かない表情だ。
 そんな彼女の背中を、後ろからそっと揺する者がいる。
 相手が誰か分かった途端、メイは今までの気難しい表情を捨て去り、子供のようにはしゃぎ始めた。
「あ、シソーラ姐さーんっ!! ここ最近、ご無沙汰だったね。元気?!」
「メイこそ元気そうで何よりじゃないの! いや、おとといも昨日も会いたかったんだけど、会議だの打ち合わせだので、ちょっと忙しくてさ」
 シソーラとメイは互いに手を取り合い、家族のごとく抱擁を交わす。盛んに騒ぐ彼女たちだが、両人とも祖国タロスの言葉で喋っているので、他の面々には何を言っているのかよく分からない。
 2人の賑やかな声を耳にして、カルダインが振り返った。
「これはまた驚いた。シソーラのやつ、あれの準備で手間取っていたのか……」
 溜息をつく艦長の目はどこか楽しそうに見える。彼と親しい者でなければ分からぬであろう、ささやかな笑顔だ。
「てっきり私も、どこかのお妃様かと思いましたよ」
 クレヴィスが小声でそう言うと、耳ざとく聞きつけたシソーラがすかさず飛んでくる。
「まぁ。お妃じゃなくて、お姫様と言ってほしいわね。おっと……あ、あらら、つまずいちゃった。誰か、貴婦人様に手を貸しなさい!」
 彼女の足取りはぎこちなかった。地面に裾を引きそうなドレスのせいである。やはり、慣れぬ格好などするものではない。
 苦笑いしながら、クレヴィスがわざと大げさな身振りで手を差し出した。
「ご苦労。おほほほ……なんてね。私、今日は眼鏡も外しているもんだから、足元がおぼつかないったらありゃしない」
 羽根飾り付きの扇子で口元を隠し、シソーラは独りで悦に入っている。
 花柄がうっすらと刺繍された紫のドレスの上に、七分袖の紺色のコート。彼女の髪がひと晩で急に伸びたように見えるのは、お洒落用のウィッグのせいだ。本当は肩先ほどの長さであるはずの赤毛が、今日は腰の当たりにまで達している。なお、金色のリボンと白いショールは、いつもと同じものだ。
 ルキアンと顔を見合わせ、カルダインは首を傾げている。
「貴族というのは、変わるときには変わるものだな。いや、女というのは……と言った方がよいのかもしれん。いずれにせよ、あのシソーラとは思えないじゃないか」
 珍しく吹き出しそうな艦長。
 シソーラの装いはそれなりに似合っている――いや、むしろ見事に決まっているだけに、普段の彼女とのギャップのせいで、ついついカルダインも可笑しくなってしまうのだろう。
 貴婦人らしく盛装したシソーラの姿は、ルキアンにも感銘を与えた。昨晩、初めて出会ったときには、口うるさくて怖そうな眼鏡の女という印象しか残らなかったのだが。
「カル、これで役者は揃いましたね。後はナッソス家の飛空船が迎えに来るのを待つばかりですか……」
 クレヴィスが急に真面目くさって言う。その表情に心配の色が見えないといえば嘘になる。
 彼の前でランディが親指を立てた。
「大丈夫だよ。いざとなりゃ、シソーラ副長は剣の達人だし、こっちには魔法使いもいるじゃないか。あぁ、見習い? あはは。構わんさ。ナッソスの親爺は、あれで馬鹿が付くほど正直な男だ。俺たちをどうこうしようだなんて、裏で策を仕掛けるような人間じゃない」
 ルキアンは訝しげな顔つきでシソーラの方を見た。たとえ彼女が剣の達人であったとしても、肝心の得物を下げていないのだから話にならない。彼が気を回すのも無理はなかった。
 たまたま、2人の視線が正面から鉢合わせになる。
 シソーラは彼に近寄り、背伸び気味の姿勢で耳打ちした。
「さては私が丸腰だと思ってるわね、ルキアン君? 敵方には内緒だけど……小剣とナイフ、ちゃんと脚にベルトで留めてあるんだから。ふふふ、何なら見せてあげようか?」
 彼女が面白がってスカートの裾を持ち上げるふりをすると、ルキアンは慌てて顔を背けた。恥ずかしそうにうつむく彼の横で、シソーラはくすくす笑っている。
「冗談だってば。でも本当に武器は持ってるわよ。あら……あれは?」
 彼女はルキアンをからかうのを止めて、鋭く目を光らせた。
「どうやらお迎えのようね。ほら、あの雲の向こう」
 シソーラが指さした方角、きらりと輝くものが上空に浮かんでいる。
 まだ遠くに位置しているのではっきりとした形は分からないが、小型の船であることには間違いない。いわゆる飛空艇と呼ばれるクラスのものだ。
 ――とうとう足を踏み出してしまうような気がする。別の世界に……。
 理由などないまま、ルキアンは自らの鼓動が早まるのを感じた。
 熱い感触が胸の内から体中に広がっていく。
 何だろうか――この全く意外で、しかも形容しがたい気持ちは?

 ◇ ◇

 同じ頃、凍り付いた雪道を踏みしめ、アレスとイリスは《巨人》の眠る地下遺跡へと向かっていた。
 無謀な試みとは知りつつ、パラス騎士団の手からチエルを救い出すために。
 イリスが話さないのはともかく、アレスも言葉少なに前を見ていた。時々彼はイリスの手を取って、彼女が転ばぬよう助けてやる。
 2人を先導するように、止まったり走ったりを繰り返しながら、レッケが身軽に岩場を駆け昇っていく。
 アレスは腰に下げた短剣を見つめて、ふと思った。
 ――後で母ちゃんに知れたら、怒鳴られるだろうな。でも、こうやって抜け出してくるほかなかったし。イリスの姉さんは、俺が助けてやらなくっちゃ。
 彼は、父が初めて冒険に出た日の話を思い出した。
 父の数多くの冒険談のうち、それはアレスが一番好きな話のひとつである。幼い頃、その話を父に何度せがんだことだろうか。
 世界をもっと知りたい。色々な人と出会いたい。強くなりたい――そんな数々の思いを胸に、父が故郷の村を飛び出した日のこと。それは、父がちょうどアレスと同じ16歳のときだった。
 そしてアレスも今、1人と1匹の仲間と共に、自らの物語に序章を書き記そうとしている。

 ◇

 ここに、別々の2つの運命が動き始めた。
 双方の小さな流れはいずれ大河となり、
 どこかでひとつに落ち合うのだろうか?
 星の因果律の導く大海を目指して。
 あるいは……。

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