HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第16話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  その炎、すべてを焼き尽くし
      その翼、すべてを切り裂く。


 ラプルスの白い岩肌を間近に控え、高原にまばらな森が広がる。
 立ち並ぶ木々の向こう――突然、沢山の鳥が空に飛び去った。
 地面が細かい振動を繰り返す。断続的に伝わってくる地響き。
 木立がざわめく。大枝、小枝がへし折れる音。
 巨大な黒い影が、1体、2体……否、少なくとも20体を超える群をなして、もの凄い早さで駆け抜けていく。地面を走っていると表現するよりは、バネに似た動きで飛び跳ねているといった方が適切かもしれない。
 一瞬、骸骨に鎧を着せたような異様な物体が目に映った。
 短い胴部と、翼のごとく大きな肩当て。暗灰色の体から生え出る細長い手足。
 その不可思議なアルマ・ヴィオは、節足動物を思わせる腕と脚とを巧みに使って、信じ難い速度で移動している。汎用型であるにもかかわらず、高機動な陸戦型並みのスピードだった。しかも障害物の多い森の中だというのに。
 不意に立ち止まった1体がこちらの方を向く。楕円形の頭部の中央で、赤い大きな目がひとつ、カメラのレンズさながらに見開かれた。
 そのアルマ・ヴィオから、後続の同型機たちに《念信》が飛ぶ。
 ――もうすぐ木々が途絶える。各機、《精霊迷彩》を起動せよ。
 そう伝えるが早いか、周囲の緑に溶け込むかのように、奇妙なアルマ・ヴィオの機体は風の中にかき消えてしまった。その様子は、ちょうど魔道士が風の精霊界の力を借りて姿を隠す、いわゆる《不可視》の呪文の効果を連想させる。
 忍者のごときこのアルマ・ヴィオは、議会陸軍の特務機装隊――要するに特殊部隊が用いる隠密行動専用の汎用型、《インシディス》である。
 最後にもう一度、さきほどの隊長機らしきアルマ・ヴィオから、念信が発せられた。
 ――こちら議会軍オーディアン基地所属の《霧蜘蛛・特務機装兵団》。只今より、ラプルス山脈の地下遺跡へと向かう。現在地は……。

 ◇

「結果はともかく、もう後には引けぬよ。私としたことが、不覚にも冷静さを欠いたか?」
 銀の前髪をかき上げ、マクスロウ少将は頭を抱えた。冷静な戦略家である彼にしては珍しく、やや気弱で感情的な台詞である。失敗を知らぬエリートゆえの弱さが、ここにきて微かに顔をのぞかせたのかもしれない。勿論、マクスロウの表情をよく観察すれば、落胆と同時に十分な自信も見て取れるのだが。
 そんな彼の前に、白磁のティーカップがそっと差し出された。
「非礼を恐れずに申し上げれば、閣下は最善を尽くされたと私は信じております」
「エレイン……」
 白い指先から手にそって、マクスロウはエレイン・コーサイス少佐の顔を見上げた。
 取り立てて見栄えもしない三十路初めの副官が、不器用に微笑んでいる。軍でも珍しい女性の佐官というわりには、意外なほど素朴で平凡に。
 なぜかその表情を見ていると、マクスロウは安堵感を覚えた。
「そうだったな。《大地の巨人》を決して目覚めさせてはならぬのだ。もしも特務機装隊がパラス騎士団と衝突することにでもなれば、事は軍だけの問題では済まなくなる。そんな内輪もめをしている時ではないというのに……」
 軽く一口、少将は喉を潤した。
「しかし、いかなる結果になろうと《巨人》を覚醒させるよりは遙かにましなのだからな。伝説に記されたごとく、大地の巨人に続いて《空の巨人》までもが再びこの世界に現れることになれば……王国の内乱など、コップの中の嵐にすぎなくなる。いや、帝国も同盟も、タロスもミルファーンも……全て、イリュシオーネ全てが滅んでしまうかもしれない。旧世界のように」
 神妙な面もちで聞き入るエレインに、彼は続けて語った。
「とりあえず平穏に事が進むよう祈るしかあるまい。現実問題としては、いくら精強を誇る特務機装隊とはいえ、近衛機装隊まで連れたパラス騎士団を……それもほぼ全員を相手にすることにでもなれば、勝ち目は薄い。しかし、私たちは彼らに賭けるしかない」

 ◇ ◇

「一体、何があったんだろう? シルバー・レクサーがあんなに何体も……」
 アレスは岩陰からこっそり顔を出し、またすぐに引っ込めた。
 振り向いた彼が手招きすると、イリスとレッケが低い姿勢で走ってくる。
 人の背丈ほどの大岩の後ろで、彼らは窮屈そうに寄り添い、身を隠す。
「ちょっと様子を見てみるから」
 アレスが小声でささやく。
 うなずく代わりに、イリスは彼の袖をぎゅっと握り締めた。肌を刺すような冷気のせいで、彼女の頬が赤くなっている。だが今は、朝の山中の厳しい寒ささえも、彼女にとってさほどの問題ではないようだ。
 首からぶら下げた革張りの筒を、アレスは手に取る。握り拳2つ分ほどの長さのそれは、伸縮式の小さな望遠鏡だった。彼は鏡胴を引き延ばすと、片目をつぶってレンズをのぞき込む。
「なぁ、イリス。あそこにいる近衛機装隊に手を貸してもらうのがいいんじゃないか? 王様の機装騎士(ナイト)たちも、きっとその悪い奴らを退治しに来たんだよ」
 彼は脳天気な口調でそう告げると、慣れた手つきで望遠鏡を縮めた。
 アレスは致命的な誤解を犯している。イリスは《悪者》たちから姉を助けてほしいと言っていたのだが――彼の方は、まさか近衛機装隊が悪の片棒を担いでいるとは夢にも思っていないだろう。
 逆にイリスにしてみれば、なぜアレスが当の《悪者》たちに加勢を求めようとするのか、理解に苦しむところだった。
 彼女は血相を変えて、アレスの言葉を必死に否定しようとする。
 だが向こうを見ている彼は、彼女のただならぬ様子に気づかない。
「今から頼んでくるから。ここで待っててくれ……えっ、何だよ?」
 彼がまさに駆け出そうとしたとき、イリスは彼の腕にしがみついた。
 金色の髪を振り乱して、彼女は懸命にアレスを引き留めようとする。
 素朴というのか、軽率というのか……すでに隠れ場所から飛び出してしまったアレスは、早くも敵に見つかることになる。

 ◇

「あはは。良い妹さんじゃないか。こんなにすぐ君を助けに来てくれるなんて。あれ? お友達も一緒みたいだよ」
 モニタの中に映る2人を見てファルマスが笑った。
「僕の好意が無駄になっちゃったなぁ。残念だね……あの子は見逃してあげるって、君とせっかく約束したのに」
 悪気や遠慮の欠片もなく、無邪気に告げるファルマス。
 冷たい言葉とは裏腹に、一点の陰りもない彼の純真な表情を前にして、チエルは生理的に寒気を感じた。
「ねぇ、チエルさん、僕は嘘つきじゃないよね? だって君の妹さんが勝手に戻ってきたんだもの。あの子が逃げていてくれれば、僕としては追いかけるつもりはなかったのに」
 あたかも子供が紙芝居に目を輝かせるような様子で、ファルマスは画面の中を凝視する。
 正面の壁に沢山のモニタが並んでいた。それぞれ、遺跡内部の各所や屋外の風景を細かく映し出している。多少の間をおいて、次々と場面が変化する。おそらくこの部屋は、遺跡全体を監視する一種のセキュリティルームなのだろう。
 ファルマスの他にも、例のパラス騎士団員たち――大きな帽子を被った美青年と、真っ黒な衣装で身を包んだ剣士が室内にいた。
 仮にも名誉ある騎士たちのする行為とは思えないのだが、チエルは無惨な姿で縛られたままである。しかも昨日からずっと、彼女はごくわずかな水と食べ物しか与えられていなかった。このような酷い状況自体、拷問に等しい。
 彼女の無念そうな顔をエーマがにんまりと眺めた。その瞳には異様な輝きが浮かび、歪んだ加虐趣味を恥ずかしげもなく見せつけている。相手の苦痛を心底楽しんでいるかのような、卑劣で悪辣な目つきだ。
「馬鹿な娘だねぇ、まったく。《巨人》を目覚めさせる《言葉の鍵》さえ教えてくれたら、美味しい食べ物も、暖かくて綺麗な服も、何でも思いのままにしてあげると言ってるのにさ」
 エーマの視線に気付いたチエルは、自分の苦しむ表情を彼女に見られるのを嫌って、急に無表情を装った。しかし、そんな抵抗がエーマをなおさら悦ばせるのだということに、チエルは気付いていない。
「あなたたちなんかに、《バルサス・オメガ》は絶対に使わせません! たとえどんな目にあおうと、この命に代えても……」
「あらあら、勇ましいこと。でもあなたが教えてくれないのなら、代わりに妹の方に聞いてみれば済むことなのよ。どうする? 可愛い妹を助けたかったら、さっさと吐いてしまうことねぇ」
 エーマは鞭を引き絞ると、高慢な口調で嘲笑う。
「卑怯な……」
 表情一杯に敵意をむき出しにして、チエルは唇を噛む。

 ◇

「酷すぎます。あの子たちに何の罪があるというのでしょう? それに、いくら《巨人》を覚醒させるためとはいえ……私たち名誉あるパラス騎士団が、どうしてならず者にも等しい振る舞いをしないといけないのです? 耐えられない。屈辱だわ!」
 セレナは怒りに頬を歪めて、壁に掌を打ち付けた。
 奇妙な光が明滅するアーチ型のトンネル。その薄暗い空間の奥に、彼女の澄んだ声が吸い込まれていく。
 赤や青のランプが頭上で不規則に点滅し、柳眉を逆立てるセレナの顔を照らし出す。遺跡の一角、地下深くの通廊に彼女は居た。
「しっ。声が大きい……」
 指を立てて、彼女を静かに制止したのはラファールだった。
 副団長ファルマスを別にすれば、パラス騎士団の中でも最強だと言われる、黄金の騎士ラファール。常に冷徹で、仲間に対してすら超然とした態度を取る彼だが、なぜかセレナに対してだけは心を許していた。
「俺だって、貴女の気持ちは分かる。しかし今はもう、きれい事ではすまされない状況なんだ。どんな犠牲を払ってでも《巨人》を目覚めさせなければ、この王国は終わってしまう」
「えぇ。私も頭では分かっています。それに私たちは国王陛下にお仕えする聖騎士団なのだから、何があっても王家を守らないといけません。分かっているのです、しかし……」
 《国王陛下の》という部分にセレナは力を込め、なおもその言葉を繰り返す。
「私たちテンプルナイツは、陛下のために戦う聖騎士のはず。メリギオス大師の操り人形なんかじゃない……」
 本音をもらした彼女の脳裏に、かつて自分の口から出た言葉が浮かんでくる。

 ◇ ◆ ◇

「貴方みたいなことを言っていたら、何もできないわ。世の中を変えるためには、力がないとどうしようもないでしょ?! 自分が偉くなって力を手に入れるまでは、汚いことにも耐え、理想や志も心の中に秘めておかなければ仕方がないのよ! 今は、そういう時代なのよ……」
 ややヒステリックな形相で、声を荒らげたセレナ。
 深い溜息とともに、ひとりの若者が読みかけの本を閉じた。冷静さを失っているセレナに対し、彼は物静かに尋ねる。
「自分に嘘を付いてでも……力を手に入れたいわけですか? 汚い力で汚い世の中を変えたところで、何になります? 結局は、また似たようなことが繰り返されるだけじゃありませんか。……セレナ、あなたは変わりましたね。以前のセレナは、そんな勇気のない人ではなかった」
 落ち着いた声でそう告げると、男は彼女に横顔を向けた。背中で1本に束ねられた金髪が、寂しげに光っている。
 押し黙った彼をセレナはしばらく見つめ続ける。彼女の目には涙が微かに溜まっていた。悲痛な声……。
「もっと現実を見て、クルヴィウス! どうしてあなたには分からないの?!」
「分かっています。私もそこまで世の中に疎いわけではありません。しかし現実を理解することと、それに従うことはまた別なのです……」
 セレナは若者に近寄ると、大きな音を立ててテーブルを叩いた。普段は優しげな彼女だが、いったん気持ちに火がつくと、燃えるように熱情を迸らせる性格なのだ。
「だからって、力がなければ何もできないわよ! あなたの理想がどんなに高くたって、それを実現できる力がなければ、何も変えられはしない!!」
「いいえ。全てを一度に変えることができないからといって、だから理想は無駄なのだと短絡的に考えたり、あるいは薄汚れたやり方で手っ取り早く《力》を求めたりすることは、結局はその場しのぎの答えしかもたらしません。本人にも、この世界にもね」
 感情を表面に出さない彼の声に、わずかに力が入る。
「夢や理想を大切にして生き続け、あきらめさえしなければ、少なくとも自分だけでも、そして次は自分の周囲だけでも、徐々に変えていくことができます。昨日より今日が……今日よりは明日が、ほんの一歩でも良くなっていきます。そうやって、ひとりひとりの人間が気の遠くなるような時間をかけて、その場しのぎに終わらぬ変化をこの世に根付かせていくことが、大切なのです」
 わずかな沈黙の後、彼は手にした懐中時計の蓋を閉めた。
「理想では現実を変えられず、他方で現実も現実を変えられないのなら……それならば、いっそ理想を取る方が、少なくとも《面白い》じゃありませんか」

 ◇ ◇

 ――最初、私は必要に応じて汚濁に染まっているふりを《演じて》いた。その《つもり》だった。偉くなるために、自分はあくまで裏表を使い分けているだけだと、それは《仮の姿》なのだと割り切っていた。でも、時が経つにつれて……どこまでが裏で表なのか、自分でも分からなくなってしまったような気がする。
 回想の後、セレナの心に一抹の不安がよぎった。パラス騎士団の一員という立場で自分が行っていることに対し、自信が揺らぎかけた。
 ――いけない。ここで迷っては、私が今日まで耐えてきたことが全て無駄になってしまう。後にはもう引けない!
 内面の動揺を隠し、彼女は平然とした口振りでラファールに言った。
「遺跡の調査を続けましょう。あなたの言う通り、《巨人》なくしてこの国は救われません」
 黙って彼女の言葉にうなずいたラファール。彼の表情に、一瞬、安堵の色が浮かんだ。
「貴女が苦しんでいる顔を、俺は見たくない」
「ありがとう。そういえば以前に話してくれましたね。貴方の亡くなったお姉様に、私がそっくりだと……」
「そうだ。だから貴女にはいつも笑顔でいてほしい。せめて貴女がそうしてくれることで、俺の中の姉上も微笑んでいられるような気がする」
 言い辛そうに低い声で告げると、ラファールは再びいつものクールな雰囲気に戻った。鋭い刃のごとき、清冽で残酷な美しさをたたえる瞳。その表情を目にしていると、彼がさきほどセレナに見せた人間味など、何かの幻ではなかったのかと思われてならない。優しさや暖かさという言葉は、今の彼からは到底感じられない。

 ◇ ◇

 10数名ほどの人間がゆったりくつろぐのにちょうどよい、手頃な大きさのラウンジ。ここは、クレドールの乗組員たちが《赤椅子のサロン》と呼ぶ部屋である。
 艦内の他のラウンジとは異なり、例の《光の筒》による照明は用いられていない。木枠を使って格子模様の描かれた天井から、小振りのシャンデリアがいくつかぶら下がっている。
 一枚の絵が壁に掛けてあった。
 童子と童女が楽器遊びに興じている様子を、淡い光を巧みに表現しつつ描いたものだ。ちなみにそれは、飛空艦アクスの副長ディガ・ラーナウの作品である。故郷の都市国家マナリアで、彼はちょっとした画家として知られていたらしい。見た目には、確かに剣よりも絵筆を握っている方が似合っている。

 適当な視線で、何となくその絵を眺めているのはベルセアだ。
 楕円形のテーブル。そしてこの部屋の通称通り、白木の台座に赤いクッションと赤い背もたれの付いた椅子が並ぶ。ベルセアはその椅子に座って脚を組んでいる。
 彼を真ん中に挟んで、メイは童子の絵とちょうど反対の壁際にいた。
 うつむき加減の彼女は、垂れ下がった前髪をかき分ける。
 ――落ち着かないな。戦いには慣れているつもりだったけど、戦争となると、また勝手が違うのかもしれない。この、もやもやした気持ちは何だろう?
 自問……彼女は背中で手を組み、壁に体を預けている。普段よりも元気に乏しい様子だが、彼女の表情の中には、悲しいとか辛いとか――その種の暗い心持ちは漂っていない。ただぼんやりと無感情に見える。気だるい動きの靴先が、床に何かを描いていた。
「どうしたんだよ? えらく浮かない顔しちゃって」
 呑気な口調でベルセアが尋ねる。
 メイはおもむろに顔を上げると、溜息をついた。
「あんたは何も感じない?」 
「何が?」
「何がって……。あはは、お気楽なもんね」
 するとベルセアは、部屋の入り口の方に向けて顎をしゃくった。
「お気楽? あぁ。俺、お気楽だもん。ま、アイツらにはかなわないけどさ」
 開け放たれたドアのところに、2つの人影が見える。
「げっ……来たよ」
 急に腹痛を催したような姿勢で、メイが胸元を押さえる。いつもながらに感情豊かな彼女に戻った。
「やぁ、元気だったか? メイ、ベルセア!!」
 若い男の声――久方ぶりの友に再会したかのごとく、彼の歓声がラウンジに響き渡る。
「あのねぇ、元気かって……おとといの晩、ネレイの酒場で一緒に飲んだばかりじゃないの!」
 それに対して小声で突っ込むメイ。
 ベルセアも呆れ笑いして、うなずくばかり。
 彼らのそんな様子を全然気にしていない様子で、軽く手を振りながら、爽やかな容姿の金髪男が近づいてきた。バンダナ風の帯で前髪をアップにしている。アイビー・グリーンの生地に金の縁取りを施したコート、大きな折り返し襟が一際目立つ。20代半ばの好青年である。
 その隣では、おかっぱ頭の少女が無邪気に微笑んでいた。
 ぱっちりと開かれた澄んだ目が特徴的な、どこか子リスを思わせる雰囲気の女の子だ。彼女は青年に肩を寄せかけ、嬉しそうに彼の顔を見上げる。
 15、6歳にもなろうというのに、娘の面差しは相当あどけなく……それも手伝って中性的なイメージが強い。そうは言っても男っぽいわけではなかった。可愛らしい風貌ではあれ、ただ単に、見る者に《女性》をそれほど意識させないだけなのである。
 彼女自身、自分は女だという意識がそれほど強くないらしく……男の子と同じ一人称を使ってこう言った。
「ほら、見て見て! 《ボク》ね、お兄ちゃんとお揃いの服を新調したんだよ。ねっ……お兄ちゃんっ!」
 くるりと回って、コートの裾を翻した彼女。ちょっぴり鼻にかかった声がほほえましい。
「お揃い? お前なぁ……」
 ベルセアの声が半分裏返った。彼とメイは顔を見合わせ、腹筋の力が抜けたような笑みを交わす。
「そ、そう。良かったわね」
 冷や汗と共に、適当な返事。それに対して少女が頬を膨らませたので、メイは慌てて言い直す。
「あ、いや、あの……素敵、とっても素敵よ。うん、私も、思う思う。あは、あははは」
 腰が若干引けている態度からして、どうやらメイはこの娘が苦手らしい。
 メイと少女とを交互に見比べながら、ベルセアは肩をすくめた。馬鹿騒ぎには付き合っていられないとでも言いたげである。思い出したかのように、彼はバンダナの青年に尋ねた。
「カイン、そう言えば、レーイはどうした?」
「あぁ、あいつならもうそこまで来てるよ。バーンと一緒にワゴンを押していたな。お茶とかお菓子が乗った例のヤツ……」
「ふぅ……。レーイって、かなり親切だよね。だけど別にバーンを手伝う必要なんてないのに。あのバカは力が有り余ってるんだから、1人で運ばせておいても構わないってば」
 メイが苦笑いする。
 バンダナの青年は、ラプサー所属のエクター、カイン・クレメント。
 彼の腰巾着のような少女は、同じくエクターで妹の、プレアー・クレメントである。
 ランディたちがナッソス公との会談を終えて戻ってくるまで、ギルド艦隊のクルーは各艦内で待機を続けることになっていた。その間を利用し、クレドールおよびラプサーのエクターたちは、対ナッソス戦に備えてミーティングを行おうという心づもりなのだ。

 ◇ ◇

 《中央平原》といっても、全く平らな地面だけが広がっているわけではない。
 確かに山地や台地は見られないにせよ――しばしば、わずか数メートル内外の高低差を持つ起伏が、波のうねりのごとく続いているのだ。
 緑の牧草地と茶色の畑とが彼方まで敷き詰められ、地表の凹凸に従ってなだらかな曲面を形づくる。その光景は、平坦な草原ともそびえ立つ山並みとも異なる独特の眺めをもたらしてくれる。
 緑の大地の上、流れゆく雲がとても低く感じられた。
 雲間を突っ切って飛ぶ快速の飛空艇。船はルキアンたちを乗せ、ナッソス家の城館へと向かっている。

 ささやくようなタロス語を使って、ランディとシソーラが世間話をしていた。
 時々、シソーラの抑え目な笑い声が室内に漂う。
 2人の言葉を後ろに聞きながら、ルキアンは窓の外を見ていた。
 さほど大きな飛空船ではないので、彼らが通された個室もごく手狭だった。急ごしらえのソファーとテーブル、ぽつんと置かれた一輪挿しの花飾り。他に目立った物などありはしない。
 扉の外には小銃を携えた兵士が張り付いている。客人の警護に当たっていると言えば聞こえは良かろうが、中にいる者にとってみれば、実際には監視されているのと大して変わらなかった。
 小さく丸いガラス窓ごしに、ナッソス家の領地がルキアンの目に映る。
 古くから開墾が進んでいる地域だけあって、未開の荒野や原生林はあまり見られない。農地、牧場、小さな村や集落、街道の町……時には、高々と伸びる尖塔や壮麗なドームを持つ都市も眼下に現れる。ルキアンが特に美しいと感じたのは、葡萄畑の景色だった。
 一見、平和そのものの風景だが――やがてルキアンは、そうでもないということに気がついた。
 戦いの爪痕。
 焼け落ちた家が村の中に混じっていたり、街の市壁が砲撃を受けて所々崩れていたりする。焦土と化した畑や放牧地も目につく。
 議会軍の侵攻がナッソス軍によって退けられているとはいえ、勝敗の如何を問わず、単に戦いが起っただけでも、この地は何らかの形で荒らされることになる。

 ――僕たちだって……。
 ルキアンは寂しい気持ちになった。
 ――ギルドだって結局、ここから見えている家や畑を、あんなふうに黒こげにするために来たようなものじゃないか。
 全てを飲み込む《ステリアン・グローバー》の閃光が、不意に彼の心の中に浮かんだ。一瞬、目の前の風景が何もかも灰色に変わったような気がした。
 ――どうして……なぜ、僕らは戦わなければいけないんだろう? この地で暮らしている人たちは勿論のこと、議会軍だって、国王軍だって、いや、反乱軍の人たちでさえ、ここが焼け野原になることを望んでなんていないはずなのに。でも結局は武器を取って、壊してしまうんだ。おかしいよ……それ、おかしいよ……。
 長く静かな溜息をついたルキアン。彼は悲しげに肩を落とした。
 ――だけど、ギルドや議会軍が戦いを避けたところで、そうなれば今度は、エスカリア帝国軍が僕たちの国を好き放題に蹂躙することになってしまう……。
 彼は無意識のうちに拳を握りしめる。
 ――争いのない世界に行きたい。だけど、そんな世界など夢の中にさえ無いだろうって、僕も本当はそう思っている。傷つけたり、傷つけられたりすることなしに、ずっと静かに微笑んでいたい。しかし、いつも笑顔のままでは生きていけないって、本当は分かってる。分かってるけど、でも……それだけ? 争い事やぶつかり合いは避けられないのだと、そんな知ったような口を利いて、それで? だから何になる? 言ってるだけ? 何にもならないよ! 嫌だな。本当に嫌だ。でも、僕には何もできないのかな。悔しいよ……少しでも何かを変えられないのかな?
 昨日の夕刻、イゼールの樹海を越えて中央平原に出たとき、目に焼き付けたあの《世界》を彼は思い浮かべる。
 ルキアンは夢想する――この世はあれほど麗しく、自然界の力やその背後にある精霊界の力は、森羅万象を溜息の出るほど精緻に組み上げている。人間もその世界の一部なのだから、本当は美しい調和を保って暮らすこともできるのではないだろうか。いや、所詮は幻想? 万物の中で人間だけがどこか違っているのかもしれない。人は、《壊れて》いるのかもしれない?
 答えの出ない思いの袋小路へと、ルキアンの意識は迷い込んでいく。
 だが今の彼がほんの少しずつでも学び始めていたこと――それは、慌てて《答え》を出そうとはしない冷静で慎重な態度だった。
 そして、すぐに劇的な《結果》がもたらされぬからといって、《過程》そのものまでも無意味だと投げ出したりはしない、粘り強い姿勢――つまりは自らが今やるべきことを、そこから当面生じる《結果》の裏付けによってではなく、その行為自体に対して己が与えうる《意味》によって信じぬこうとする、あきらめない不屈の《勇気》だった。
「あ、マッシア伯……いや、ランディさん、シソーラさん、ミトーニアが見えてきました! ほら、大きい、あんなに大きい街なんですね」
 珍しくルキアンが弾んだ声を上げた。

 草原に鎮座する古都。
 街を見守るかのように立つ丘、その中腹……あれがナッソス家の城館だ。

 ◇ ◇

「ちぇっ。どうして止めたんだよ。一体、何があったんだ?」
 むくれた顔をしながら、アレスは尾根伝いにこっそり歩いていく。
 さきほど近衛機装隊に助けを求めようとした彼――その行動を是が非でも止めようと、死に物狂いになったイリス。彼女のあまりの真剣さに、単純なアレスもさすがに何か感じるところがあったようだ。
 結局、イリスの制止を受け入れたアレスは、彼女が脱出してきたという非常口から遺跡に潜入することにした。そのおかげで、とりあえずのところは、敵前に自ら顔を出すという愚を犯さずにすんだわけだが……。
 もっとも、彼らは一時的に危機を回避したに過ぎない。自分たちの行動が全てファルマスらに監視されているのだと、アレスが知るはずもなかった。

 少しご機嫌ななめのアレスを後目に、今度はイリスが先頭になって進む。
 山裾から吹き上げてくる風に髪を煽られながら、彼女は大きな岩の近くで立ち止まった。
 見方によっては不自然な光景である――真っ白な残雪、その所々から顔をのぞかせる灰白色の山肌、そこにたったひとつ、三角錐のような形の赤茶けた岩が、一際目立ってぽつんとそびえていた。その高さは4メートル弱といったところだろうか。どことなく人工的な臭いが感じられる。
 何を思ったか、イリスは再びその岩に向かって直進し始めた。奇妙なことに、手が届きそうな距離まで近づいても、彼女は少しも足を止めようとはしない。
「おい、イリス、ぶつかるぞ! 前見て歩けよ」
 アレスがそう言うのも構わず、イリスは進み続けた。
「えっ?」
 一瞬、アレスはわが目を疑った。
 傍らにいたレッケも、低く鼻を鳴らすと、不審そうな表情で彼にすり寄る。
 1人と1匹は、思わず互いの顔を付き合わせた。
 イリスは正面から岩にぶつかってしまう……はずだった。しかし、何と彼女の半身が、岩に吸い込まれたのである。あたかもその中へと入っていくかのように……。
「あいつ、幽霊? まさかな」
 額に汗を浮かべたアレス。
 あの岩は実際には存在しない――極めて精巧に描き出された立体映像だ。眺めているだけでは、本物と区別するのは不可能に等しい。
 そのホログラフィーの背後に遺跡への入口が隠されている。旧世界の科学力をもってすれば、この程度のカモフラージュなど造作もないことだが。
 もちろん立体映像など知るはずもないアレスは、しきりに手招きするイリスを前にして、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 ◇ ◇

「おや、ファルマス……あの少年たちが遺跡に入ってしまいましたよ。まぁ、それこそ貴方の狙いなのでしょうね」
 例の帽子の男がおもむろに口を開いた。静かに鳴り響くヴィオラのごとき、心地よい声で彼は語る。
 ただでさえ大きなつば付きの帽子を、なおさら目深に被っているので、彼の表情は分かりにくい。すらりと伸びる細い顎や、形良く引き締まった口元から判断する限り、この男、相当な美青年であるようにも思われるのだが……。
 何が嬉しいのか、満面の笑みを浮かべて答えるファルマス。
「そうだよ。ネズミは下手に追いかけ回すよりも、いったん狭い場所に追いつめちゃった方が、捕まえやすいからね!」
 純粋無垢という言葉は、やはり幼い子供にこそ似合うのだろう。あまりに汚れを知らぬ大人の姿は、かえって後ろ暗さを感じさせたり、薄気味悪かったりすることも多々あり得る。ちょうど今のファルマスのように。
 だが帽子の青年は、そんなファルマスの様子をあえて気にかけることもない。《騎士》というイメージにそぐわぬ繊細な指で、彼はダークグリーンの前髪に手ぐしを入れ、軽くかき分けた。
「それにしても、旧世界の娘だけあって手慣れたものです。古文書に記されていた《地底の川》をわざわざ通り抜けなくても、あんな場所に別の入口があったわけですか。本物と寸分違わぬ映像を浮かび上がらせ、偽装していたとは……旧世界の技術は、いつもながら我々の想像を遙かに超えていますね」
 ファルマスは首を大げさに何度も振って、青年の言葉にうなずく。
「旧世界人もつくづく人が悪いよ。敢えて困難なルートを辿らせることによって、自分たちの末裔が《巨人》を手にするに相応しい力量を持っているかどうか、試そうとしたのかもね。でも、そうやって無闇に人を試すことって、僕は嫌いだな……」

「失礼いたします! ファルマス様、実は……」
 そのとき、1人の機装騎士が足早にやってきたかと思うと、深刻な顔つきでファルマスに耳打ちした。
 対照的に、彼自身はごく平静に聞き流しているだけだ。いや、それどころか、普段にも増して楽しそうに目尻を下げている。
「あのね、エルシャルトさん……」
 帽子を被った美青年に向かって、ファルマスは意味ありげに片目をつぶってみせた。
「もうすぐ議会軍からお客さんが大勢来るんだって。悪いけど、僕の代わりにちょっと遊んでやってくれないかなぁ。ダンと近衛隊が外で見張っているから、一緒に頼むよ。でも軽くだよ、軽く。もしエルシャルトさんが本気を出して、この遺跡まで巻き添えになっちゃったりしたら、後で《猊下》に怒られるのは僕なんだから」
「なるほど……分かりました。しかし良いのですか、ファルマス? 議会と宮廷との間にもめ事でも生じたら面倒ですが」
 ファルマスはにんまりと歯をみせる。だが彼の目には無邪気さと同時に、見る者を心の底から震え上がらせる残酷さが、ありありと現れていた。
「あはは。気にしなくていいよ! だってさ、後で向こうに問い合わせてみたところで、《わが軍にそんな部隊は所属していない》って……きっとそう言うはずだよ」
「そうかもしれませんね。できれば戦いは避けたかったのですが、《巨人》のためならやむを得ませんか……」
 焦げ茶色の帽子の下で、青年は微かに目を細める。
 濃い紅の瞳は、世捨て人さながらに悟り切った――ある種の虚無的な諦念を漂わせ、他方でそれとは同居し難いような、天恵を受けた詩人のごとき、神秘的で情感豊かな光を浮かべている。
 エルシャルトと呼ばれたこの男は、使い古した帽子を深めに被り直すと、マントを翻して部屋から出ていった。瞬間、竪琴の弦の音が微かに鳴ったような気がする。

 この間、もう1人のパラス・ナイトが、部屋の隅で一部始終を黙って聞いていた。あの黒装束の剣士である。
 じっと腕組みしつつ、その長身を壁に寄せかけていた彼に、振り返ったファルマスがこう告げる。
「ダンとエルシャルトさんがいれば、まず心配ないと思うんだけど……相手も一応は議会軍の特務機装兵団だし、しかもかなりの数だからね。ダリオルさんにも出向いてもらえると助かるなぁ」
 濃紺の前髪の奥から、狼を思わせる鋭い目で一瞥すると、黒の剣士は無表情につぶやいた。
「敵は、全て片づけろ……か」
「うん。当たり!」
 ファルマスは、小踊りせんばかりの様子で声を上げる。
「エルシャルトさん、強いんだけど、ちょっと優しすぎるんだよね。ダンはダンで、汚いことができない真面目な人だし。彼らがまた変なところで哀れみを見せて、1体でも敵を逃がしちゃったら、この遺跡の場所を議会軍に知られてしまうから。人の尻拭いなんてダリオルさんには失礼な仕事だけどさ、まぁ、跡形もなく掃除しちゃってよ。いいかな?」
「ふん……」
 つまらなさそうに鼻で笑って、剣士ダリオルは承知の意を示す。やれやれという調子で愛用の長剣を肩に背負うと、彼は足音もなく消えた。
 つい今までダリオルの居た場所を、ファルマスの声が素通りしていく。
「本当は僕も行きたいんだけど……これから始まるネズミ取り、楽しみなんだもん。良かったね、チエルさん。意外に早く妹さんと再会できそうで。でも今後は、あんまり手間を掛けさせないでよね。僕たちも暇じゃないんだから」
 憎らしいほど軽やかな口調。縛られたまま、窮屈そうに肩を揺さぶるチエルを眺めながら、ファルマスは心底嬉しそうに言う。
 あまりのことに罵倒する言葉すら思いつかず、チエルは彼に唾を吐きかけようとする。その瞬間、彼女は声にならない叫びを上げ、床に這いつくばった。背中に激痛が走る。
「あーら、ごめんなさい。つい手が滑っちゃったのよ。うふふふ。でも、レディがそんな品のないことをするもんじゃないわ」
 エーマの凶暴な鞭はチエルを一撃で床に叩き伏せた。
 めまいがする。チエルはすぐには起きあがれなかった。長い《冬眠》とその直後に受けた野蛮な仕打ちによって、彼女は体力を消耗しきっていたのである。
 苦痛に顔を歪めながらも、チエルは言い返す。
「あんたみたいな下品な女に、そんなこと言われたくないわね……」
「まぁ、相変わらず口の減らない娘だこと。1発では足らないのかしら。それともあなた、もしかして鞭でぶたれるのが好きなわけ?!」
 吐き捨てるように叫んで、再び鞭を振り上げようとしたエーマ。
 だがファルマスの声が彼女を止めた。
「ほら、エーマさん、見て見て! あの子たち、どんどん奥に進んでくるよ。あはは。本当に何も考えてないんだね」
 モニタに映るアレスたちを指さし、ファルマスは独りで悦に入っている。

 ◇ ◇

 イリスの案内に従って、アレスとレッケは青白い光の下を進んでいく。初めて足を踏み入れる旧世界の遺跡は、ほどよくひんやりした空気で満たされていた。地下にありがちな、暗く湿った不快な雰囲気もない。
 未知なるものとの遭遇に少年の胸は高鳴った。ともすると、今の緊迫した状況さえ忘れがちになる。アレスは物珍しそうにきょろきょろしながら、そこらの壁や柱をさわり回している。
 本来なら、この手の遺跡や地下迷宮で……要するに冒険者たちの言う《ダンジョン》の中では、決して不用意に物に触れてはいけない。わずかな振動その他によって、密かに仕掛けられている罠が作動することもあるからだ。
 そんなことは冒険者にとってみれば初歩の初歩の常識である。アレス自身、父の冒険談の中で、罠の怖さについてよく聞かされたものだが。しかし今の彼は、ほとんど夢見心地に近いほど高揚してしまっていた。
「すっげー。壁が光ってるよ。うわっ、今度はドアが勝手に開いた!」
 ほとんど子供同然のアレスに、イリスは半ば呆れながらも、それほど嫌な顔をしていなかった。むしろ彼の素朴さを微笑ましく思うかのように、唇を僅かに緩めてさえいる。
 複雑に入り組んだ通路を、何の迷いもなく進んでいくあたりから考えて、イリスは遺跡内部の構造をほぼ知り尽くしているのかもしれない。そんな彼女の様子に驚嘆の念を覚えながら、アレスは後に付いていく。

 だが……。
「いたぞ! あそこだっ!!」
 突然、背後で声がした。甲冑の鳴る音、そして沢山の足音が近づいてくる。
「近衛機装隊? 何だろう? いや、ということは……」
 外で近衛隊を見たときにイリスが怯えていたことを、アレスは思い出した。
 また、現にこちらに向かって駆けてくる近衛隊の雰囲気も、どこかおかしい。
「やべっ。何だかわかんないけど、取りあえず逃げるぞ、イリス!!」
 アレスがそう言うよりも早く、彼女は彼の手を引いて走り出していた。
 右に左に、巧みに追手を巻くようにしてイリスは走る。彼女にこんな元気があったのだと、にわかには信じ難いほどの勢いだった。
 しかしファルマスも馬鹿ではない。アレスたちは最初から《追い立て》られていたのである。考えてみれば……あえて遠くから大声を上げて、自分たちの接近をわざわざ敵に知らせるようなことを、何の思慮もなく近衛隊がするはずがあろうか。
 何度目かの廊下を曲がった時点で、アレスたちはT字型の通路に出た。
 正面に立ちふさがった壁。
 そして左右を見たとき、アレスは愕然とした。両方の行く手に、沢山の兵士たちが整然と並んでいたのだ。しかも前列の兵たちは、片膝を付いて、いつでも撃てる状態で小銃を構えている。
「くそっ、罠だったのか?!」
 アレスは後ろに戻ろうとしたが、背後からもすでに近衛機装騎士たちが迫ってきている。ともかく銃にはかなわない……血路を開ける可能性があるとしたら、こちらだ。
「イリス、俺から離れるんじゃないぞ!」
 腰の短剣を引き抜き、アレスはイリスの前に立って走り出す。
「どけどけ! それとも、俺と正々堂々と勝負しろ!!」
 大声で叫びながら、切っ先を宙に走らせて威嚇するアレス。一応、その剣さばきは鋭かった。剣の腕に覚えのある者でない限り、彼の今の動きを見ただけでも、少し腰が引けてしまうだろう。
「気を付けろ! ガキだと思ってあなどるなよ」
 近衛隊の誰かが仲間に告げる。
 機装《騎士》といっても、剣や槍の達人である昔日の騎士とは違う。あくまで彼らはエクターなのだ。並みの軍人以上には武術の心得があるとはいえ、特別に剣士としての修行を積んでいるわけではない。そんな彼らの目には、アレスは相当の強敵と映った。
 レッケも低いうなり声を上げ、額の角を振りかざす。鋭い爪のついた足で床をとらえ、今にも飛びからんばかりの動きだ。
 猛獣の牙と一角獣のごとき尖った角とを合わせ持ったカールフは、本来なら、狼など比較にならぬほど恐ろしい生き物である。
「ま、魔物までいるぞ……」
「聞いてないぜ、そんなこと」
 人数にものを言わせて壁をつくり、慎重に、じりじりと間合いを詰める近衛隊。
 だがアレスの方としては、ここで足止めされていては本当に袋のねずみになってしまう。彼は意を決して攻撃の構えに出た。

 と……一瞬、目の前の機装騎士たちが水を打ったかのごとく静まり、続いて左右に分かれて道を開いた。
「少年、おとなしくその娘を渡してもらおうか」
 純白のマント、金色に輝く鎧、そして華麗に波打った髪。
 相手を凍て付かせるような視線。その奥に秘められた、熱き戦士の魂。
 他の機装騎士とは見るからに異なる男が、アレスの目の前に現れた。
 ――こいつ、強い……。とてつもなく強いぞ……。
 アレスは直感的にそう思った。だが、イリスを渡すわけにはいかない。
「さ、さては悪者だな! お前は誰だ?!」
 せめて気迫では負けていられないとばかりに、アレスが声を上げた。
 黄金の騎士は冷然と言葉を返し、彼を見つめる。
「俺はパラス・テンプルナイツの機装騎士……ラファール・ディ・アレクトリウス。勇敢な少年よ、お前の名を聞こう」
 ――パラス騎士団だって? どういうことなんだ?
 さすがのアレスも、あのパラス機装騎士団の名前を聞かされては、つい弱気になってしまう。それ以前に、オーリウムの英雄パラス騎士団がなぜイリスを捕らえようとしているのか、理解に苦しんだ。
「アレス……俺はアレスだ! なんでパラス騎士団がイリスを追いかけ回すんだよ?!」
 そんなことを貴様が知る必要などない――とでもいう顔つきで、ラファールは無視する。
 それに代わって、アレスの背後で荒っぽい女の声がした。
「その娘が旧世界人だからさ!」
 同時に、鞭が鳴る音。
 毒々しいほど真っ赤な髪を腰まで垂らし、長身の女が歩いてくる。
 見ている方が恥ずかしくなるような衣装だと、アレスは思った。
 豊かな胸元をこれ見よがしに強調する、短い皮のヴェスト。膝上高く切り詰められた皮のスカート。そこから伸びる成熟した脚を覆う、黒いタイツとハイヒールのブーツ。それら全てが、漆黒色の妖しい光沢を放っている。
「あたしは同じくパラス・テンプルナイツのエーマ。元気なだけじゃなくて、なかなか男前の子じゃないの。ふふふ」
 その品の悪さとは裏腹に、エーマはかなりの美女である。女性に対して免疫のないアレスは、ついつい彼女の挑発的な姿に目を奪われてしまいそうになった。だが、そんなことにかまけている場合ではない。何より、エーマの言葉の意味が気になる。
「旧世界人? どういうことだよ?」
「おや、一緒にいて何も知らなかったとはね……。だから、そのイリスという子は旧世界人なのよ。お馬鹿さん」
 エーマの声が通路に反響したとき、アレスは背中でイリスの手が震えるのを感じた。明らかに恐れている。あの女を……。
「やい! そこの怪しい格好した革女、よくもイリスをいじめたな!!」
 むきになって叫ぶアレス。
「少年、そのあたりにしておけ。そこの娘は王国のために必要なのだ。黙って引き渡すというのなら、悪いようにはしない」
 エーマが事を荒立てぬうちに、ラファールがそう告げた。
 彼の後ろで不安げに見ていたセレナも、前に進み出て、真剣な眼差しでイリスに手を差し出す。
「昨日は酷いことをしてしまって、本当にごめんなさい。私たちが悪かったわ。チエルさんのためにも戻ってきて……」
 セレナがそう言いかけた途端、エーマがまた鞭を鳴らして彼女の言葉を遮る。
「手ぬるい。手ぬるいって言ってんのさ! あんたねぇ、いつもいつも、そうやって……いい年してお嬢様ぶってるんじゃないわよ! ふんっ、気持ち悪い」
「な、何を無礼な! エーマ、たとえ貴女でも、それ以上言うとただではすましませんよ!!」
 セレナも怒って剣の柄に手を掛ける。
 意外なところで敵が仲間割れを始めたのを見て、イリスの目が鋭く輝いた。
 その眼光、いつもの彼女ではない。
 不意にまぶたを閉じ、胸元で両手を合わせたイリス。
 ――私よ。聞こえる? イリスよ……。
 彼女は心の中で、言葉を思いの力に乗せ、強く念じた。
 金色の髪が微かに逆立ち、薄暗がりの中で青白いオーラが揺らめく。
 ――長い長いまどろみは終わったの。また目覚めるときが来た……。返事をして。あなたの力が必要なの。私はここにいるわ。あなたのすぐ近く。そう、分かるわね? 待ってる。急いで……。

 ◇

 遺跡の最下層。真っ暗な格納庫で何かが光った。
 地響きを思わせるうなり声が、闇の中にこだまする。静かに、しかし、次第に大きく。それは人のものでも獣のものでもない。
 重厚な金属音と共に、途方もない大きさの物体が動いた。
 真っ赤な目が2つ、暗がりに浮かび上がる。

 静寂を切り裂き、突然、地底の世界に凄まじい雄叫びが響き渡った。
 恐竜? いや、むしろ竜(ドラゴン)そのものの咆吼……。

 ◇

「何だ、地震か?!」
 急に床が揺れだしたのを感じて、近衛機装隊の騎士たちが騒ぎ始めた。
 地鳴りは急速に近づいてくる。しかも足元から上へと向かって。
「どうなってるんだよ! お、おい……でも、今がチャンスだな」
 混乱に乗じ、アレスは素早く退路を切り開こうとする。
「何?」
 そのとき、彼の肩にイリスの手が置かれた。
 慌てて背後を見たアレス。
 イリスは首を左右に振り――どうやら、ここに留まるようにと告げているらしい。彼女の意図がアレスには分からなかった。
 実際、逃げるなら今である。何しろ《お坊っちゃん機装兵団》と陰口をたたかれている近衛隊のこと……前触れもない異常事態に際し、統制を失い、素人同然に混乱しかけているのだから。
「落ち着きなさい! 包囲を解いてはいけません!!」
 若干の後ろめたさを覚えつつ、セレナは仕事熱心にもそう叫んだ。半ば無意識のうちに。だが今となっては近衛機装隊など大して役に立たない。舌打ちした後、彼女は反射的に剣を抜いて、アレスの前に突きつける。
 2人の目がにらみ合った。
 双方とも、《敵》の持つ澄んだ瞳に――偽りのない、不正を憎む互いの瞳に驚きを覚えて、体をこわばらせた。にもかわらず、刃を向け合わねばならないこの現実……。
 ――私のやっていることは……本当に正しい?
 セレナの目が微かに曇った、そのとき。
「危ないっ! よけろ!!」
 ぼんやりと突っ立っているセレナを、ラファールが力一杯引き戻す。
「ラファール?!」
 わずか瞬きひとつ分遅れて、アレスとセレナの間を巨大な影が貫いた。
 気が付いたときには、その場にいた者たちはみな足元を奪われたり、柱に叩きつけられたりしていた。
 床が粉々に砕け、壁が突き破られている。
 天井までも一部崩壊し、そこからのぞく青空がどこか滑稽だった。
「何なのよ……何なの、これは?」
 さすがのエーマも緊張に身を固くする。
 降ってわいた修羅場の中で、イリスだけが落ち着きはらっていた。
 壁と屋根とを破壊して現れた謎の物体に、彼女は親しげに手を掛け、心を許した視線で見つめている。
「イリス、危ない! そこから、そいつから離れろ!!」
 それ――この少女を軽く丸飲みにしそうな口を開き、真紅の目を爛々と輝かせる鋼の化け物を見て、アレスは必死に叫んだ。
 岩をも噛み砕く牙をむき出しにして、白い蒸気からなる高熱の息を静かに吐き出しながら、その《竜》は静かにうなり声を上げている。
 だがイリスは……隔壁の向こうから首をのぞかせた魔獣に寄り添い、冷たい金属の肌を優しくなでていた。
 ――お久しぶりね。私の大切なお友達、《サイコ・イグニール》……。

 久遠の時を超えて、今、旧世界の《超竜》が再び目覚めた。
 堂々たる姿は、まさに秘宝の守護竜という比喩にふさわしい。
 ほぼ濃紺に見える深紫色の肌が、魔法金属の妖しい光沢を浮かべている。そこに青とグレーが加わって、神秘的かつ精悍な雰囲気を醸し出す。
 体表を覆う複合装甲は、剣すら通さぬというドラゴンの鱗さながらに、並みの攻撃では傷ひとつ付けられそうもない。
 《それ》は、旧世界の――しかもその末期、古代の文明が頂点に達した時期の――魔法工学の粋を凝らして生み出されたアルマ・ヴィオだ。ある意味で究極の姿に近い完成度を持っている。

「こ、これは……」
 見たこともない深紫(しんし)の竜を前にして、セレナは言葉を失った。今まで数多くの機体を目にしてきたが、これほどの威圧感を持つ相手と遭遇したことはない。
「一体、誰が操っているの? いや、人の気が感じられない。そんな馬鹿なことが!?」
 セレナの背中を支えながら、ラファールが答える。
「そうだ。このアルマ・ヴィオには恐らく誰も乗っていない」
「ひとりでに動き出したとでも? まさか……」

 混乱の中、アルマ・ヴィオが突然に雄叫びを上げた。
 本物のドラゴンの鳴き声を知っている者など、今の時代には滅多にいるはずもなかろうが――実物の竜に勝るとも劣らぬ迫力である。
 体の奥底まで響き渡るその轟音には、手練れの戦士でさえ思わず身をすくませてしまうだろう。
 近衛隊の機装騎士たちは浮き足立って、もはやイリスを捕らえるどころではなくなっている。繰士としての技術だけを取ってみれば、確かに彼らは《精鋭》だといえよう。しかしその心根は、自分の血を見て驚くような、金持ち貴族のお坊っちゃんのままなのだ。
 己の経歴に薄っぺらな名誉を加えるために……若い頃の一時期に限って、彼らは近衛隊に身を置いているにすぎない。それゆえまた、《運悪く》実戦を経験する者などごく希である。
「うろたえるな。シルバー・レクサーを早く起動して、こいつを叩きつぶせ!」
 さすがにパラス・ナイトのエーマは、少しも慌てていない。彼女は歯がゆそうな表情で、世話の焼けるエリートたちを後押しする。
「何をしている、グズグズするんじゃない! そんなことではアルマ・ヴィオの餌食になるぞ!!」
 我慢ならなくなったエーマは、しまいには鞭を振って味方を追い立て始めた。

「な、何だ? イリス、このアルマ・ヴィオと知り合いなのか?」
 全く状況を把握できていないアレスは、とりあえず剣を構え、イリスと近衛隊との間に立ちはだかっていた。
 彼に向かって、イリスは《超竜》の方を指し示す。しきりに手を動かしているその様子は、どうやらアレスに《乗れ》と言っているらしい。
 イリスが黙って頷く。すると、以心伝心――アルマ・ヴィオの方も姿勢をかがめ、分厚い装甲をスライドさせて腹部のハッチを開いた。
「《ケーラ》と乗用席が、同じ部屋にあるのか? 中に3人ぐらい乗れそうだな。変わってる……いや、急がなきゃ。レッケ、お前も来い!」
 何しろアレスは、馬鹿が付くぐらいのアルマ・ヴィオ好きである。操縦方法は十分に知っている。彼はケーラを開いて中に身を横たえた。
 その手慣れた動作を見て安堵の溜息をもらすと、イリスも乗り込む。
 床に倒れていた敵兵が体勢を整え始めた頃には、彼女たちはすでに搭乗を終えていた。
 ケーラの手前の席にイリスが座ると、同時に、沢山のコードを伴った冠のようなものが天井から降りてくる。
 イリスはそれを手に取り、一瞬、寂しげな眼差しで見つめた後……おもむろに頭に被った。
 深呼吸。そして少女は精神を集中する。
 ――エクターの状態に異常なし。交感ユニット、自動制御完了。《サイキック・コア・システム》コール! サイコ・イグニール、起動!!
 彼女の思念に応えて、壁面を埋め尽くす計器やスクリーンに明かりがともり、一斉に作動し始めた。
 ケーラの中でクリスタルに包まれたアレスも、準備万端だ。
 ――いい感じだぞ。このドラゴンみたいなヤツ、よくなじむ……。おっ?
 落ち着いた調子で、彼の心にアルマ・ヴィオが語りかけてきた。その低く穏やかな声は、人間に例えれば紳士的な青年というところだろうか。
 ――若き戦士よ、わが名はサイコ・イグニール。よろしく頼む。
 ――あぁ。こっちこそよろしくな! 俺はアレス・ロシュトラム。アレスって呼んでくれ。それじゃあ、さっそくひと暴れしてもらうぜ、イグニール!!

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