HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第17話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  たぶんあの日から、私は夢路に迷い込んでしまったのでしょう。
  良い夢だとは、今でも決して思っていません。
  それなのに私は、
  この悪い夢をもう少し見続けるつもりなのです。
  (ある公爵令嬢の日記より)



 深紫の《超竜》が動き出した頃――監視モニタに食い入るようにして、ファルマスはその様子を見つめていた。
「あはは。これは凄いよ! 面白いことになってきたね、チエルさん!!」
 現状を理解できているのかどうか疑わしいほど、ファルマスは呑気にはしゃぎ始める。
 大きく見開かれたチエルの目にも、希望の光が浮かんでいた。
 身も心も憔悴しきって、先ほどまでぼんやりと濁っていた彼女の瞳は……紺碧の海の色を宿したその煌めきを、少しずつ取り戻し始めている。
 
 にわかに元気になったチエルは、皮肉たっぷりの口調で応酬する。
「そうね。確かに面白いわね……あなたたちなんか、もうすぐみんな踏みつぶされるわよ! 《サイコ・イグニール》は、今の世界のオモチャみたいなアルマ・ヴィオとは比べ物にならないんだから」
 彼女はわざとらしく鼻で笑うと、壊れた天才青年から顔を背けた。
「へぇー。それは楽しみだなぁ。僕も行ってみようかな?」
 ファルマスは画面を注視し、何度も何度も頷いている。

 そのとき部屋のドアが開いて、セレナ、ラファール、エーマの3名が現れた。
 入ってくるなり、セレナはきっぱりとした口調で告げる。
「ファルマス、私が行きます。これは私の不始末ですから」
 そう話している間も……彼女は胸が締め付けられる思いで、縛られたままのチエルを見つめていた。
 ――酷い。いつまでこんな格好にしておくつもりなの?
 セレナは静かに顔を上げ、沈痛な面持ちでファルマスに相対する。
 だが彼は、普段と同様、子供じみた笑顔を崩すこともなかった。
「うん! じゃあ、セレナさんに任せるね。エルシャルトさんとダリオルさんも出ていったばかりだから、彼らと協力してさっさと片づけちゃってよ」
 ――この男には騎士道の欠片もない!
 セレナは手を握りしめ、怒りをこらえる。黙って一礼すると、彼女は足早に廊下へと向かった。
 苦虫を噛み潰したようなセレナの表情。
 すると……。それを見たエーマが、真っ赤なルージュを引いた細い唇を、さも忌々しげにつり上げる。
 ――ふん、都合のいいときだけ善人づらするんじゃないわよ。聖騎士を気取っていても、一皮剥いたら汚い俗物のくせに! この嫌味な女……あんたこそ、いつか思う存分いたぶってやるから。
 シャドー・ブルーの瞳に、激しい怒りと仄暗い劣情とを秘め、エーマは去りゆくセレナの背中を睨んだ。
 続いてラファールが、セレナとすれ違った瞬間、無意識のうちに表情を曇らせる。この冷ややかな男、それでも彼女のことだけは心配なのだろう。
 彼の微かな変化に気づいたセレナは、凛々しい眼差しを向けてささやく。
「大丈夫。私は、簡単に負けたりしないですから……」
 青いイヤリングの輝き。
 微かな香りを残して、セレナは出撃した。

 ◇ ◇

「これはまた、派手にやられたものね……。話が違うじゃないの」
 艦橋の外に広がる焼け野原を眺めて、40過ぎの栗色の髪の女が溜息をつく。
 逆光に浮かび上がり、彼方まで黒々と連なる城郭らしきものが、名にし負う要塞線《レンゲイルの壁》である。目を凝らすと、現在も所々で散発的な砲火が交えられているのが分かった。
 その《壁》を取り巻くようにして、多数のアルマ・ヴィオの残骸が転がり……無惨に焼けただれて放棄された陣地の後が、点々と続いている。
 彼女の傍らの席からも、ダーク・グリーンの髪の青年が、同様に窓の向こうを見つめる――平凡さの中に非凡さを漂わせる細い目で。彼は、あのカリオス・ティエントだ。
「確かに。この状況を見る限りでは、議会軍は思わぬ苦戦というどころか、完全に押され気味だと言われても仕方がないかもしれません。各地で続発する反乱に足止めされ、増援が遅れているせいもあると思いますが……やはり《メレイユの獅子》ギヨット、一筋縄ではいかぬ名将だということなのでしょうか?」
 これといった思い入れもなく、かつ無機質と呼べるほどクールな口振りでもなしに、カリオスは淡々と述べた。
 長めのケープが付いている点を除けば、至って簡素なベージュのコート。胸元に巻いた例の青紫のクラヴァット以外には、これといって装飾品らしい物は身につけていない。あっさりと無駄のない衣装には、彼の性格が程良く反映されているように思われる。
 座席の前のテーブルに両肘を付くと、栗色の髪の女は、いささか落胆した様子で顎を支えた。軽く縮れた髪が、揺れて頬にかかる。
「ギヨット麾下の《レンゲイル軍団》は、ガノリス軍相手に鍛えられているわ。最新鋭の装備を誇るだけではなく、議会軍の中でも、実戦経験の豊富な数少ない部隊のひとつ。それでも、数が違うでしょうに、数が……」
「クレーア艦長! 《ミンストラ》、これより着陸に移ります」
 操舵長らしき男の声が響く。
 カリオスと話していた女性――すなわち飛空艦ミンストラ艦長、クレーア・ラナ・コンソルトは、ブリッジ最上部の席から立ち上がると、落ち着いた声で指示を飛ばした。
「了解。議会軍の指定したポイントに向かうまでの間、いつ敵軍に遭遇するか分かりません。砲術長に連絡、砲座はこのまま第2種戦闘態勢を維持しなさい。《念信士》は、いま一度、議会軍本陣と交信を」
 彼女は上着の裾あたりのシワを軽く直しながら、再び腰を下ろした。白と薄緑のロングコート。上半身部分は身体に沿ったタイトな仕立てになっており、他方でウェストから下は、スカート状に広がっている。
「カリオス。高度が下がれば、敵陸戦型の攻撃を受ける恐れが高くなります。飛行型の《アサール・アヴィス(*1)》と一緒に、あなたの《キマイロス》もいつでも出動できるよう準備して下さい」
「分かりました。直ちに……」
 カリオスがそう答えかけたとき、艦の念信士が声を上げた。
「艦長、議会軍アルマ・ヴィオ部隊からの緊急念信が入りました!! PD226ポイントで反乱軍と交戦中、付近の友軍に救援求むとのこと。敵方は《ハイパー・ティグラー》4体です!」
 ゆったり堂々と構えたクレーアは、艦長というよりも、ミンストラの《母》というイメージである。どこか学校の教師を連想させる顔立ちでもあった。しばし考え込むと、彼女はカリオスに目配せした。
「軍の《ティグラー》や《ペゾン》程度では、役者不足か……。味方部隊の座標は、本艦の現在位置と目と鼻の先。見殺しにするわけにもいかないわね。カリオス、少し出てもらえますか。ハイパー・ティグラーではあれ、たかだか4体のアルマ・ヴィオ。あなたなら、5分もあれば片づけられるわね?」
「ご冗談を。いくら何でも5分というわけには。それはともかく、キマイロスが暴れたくてたまらない様子ですから。ここしばらく歯ごたえのある敵がいなかったおかげで、《彼》はかなり退屈しています。まったく、気が荒くて困った奴です……」
 呆れた口振りで自分の愛機を茶化しつつ、カリオスは格納庫に向かった。

 ◇ ◇

「長らくご無沙汰してしまいました。親爺殿」
 ランディの丁重な声が、調度品の少ない寒々とした広間に響く。
 変に慇懃なその口調は、かえって皮肉っぽい印象を与えなくもない。
 ギルド側の使節がランディとシソーラの2人だけであるにもかかわらず、議場は十分過ぎるほど大きかった。その規模からすれば、列国の代表を招いた大会議さえ催せるのではないかと思われる。
 ナッソス家の威容を誇示するかのように、天井も法外に高い。頭上はるか、明かり採りの窓が多数設けられた空間は、大神殿の荘厳なドームを想起させる。
 部屋の両サイドには、小銃を担った兵士たちが一列に並ぶ。彫刻のごとく身動きすらせず、鋭い銃剣を光らせる彼らは、王家の儀仗兵にも劣らぬほど見事に訓練されていた。
 兵士たちの強面の表情を見回して、ランディは苦笑いする。
 一呼吸ほど間をおいて、ナッソス公の声がした。
「久しぶりだな。ランドリューク。そう言えば最近、風の便りに良からぬ話を伝え聞いたが……」
 部屋の中央にある会議卓。その堅固な脚を支えるかのように、童子や鬼神の小さな彫刻がへばりついている。白と薄青緑を基調色とする、無駄を省いた造りのホールの中で、この机の装飾だけが過剰気味だった。
 テーブルの背後に立つ公爵は、深くくぼんだ目をいつにも増して苦々しげにつり上げている。その表情、およそ機嫌良しとは言い難い。
「ほぉ、それはまた。して、どんな風が吹いたのです?」
 よせばよいのに、火に油を注ぐような軽口を飛ばすランディ。
 ナッソス家とマッシア家とが身内同様であるせいか、ランディの方にも遠慮がなかった。
 ――この馬鹿は……。
 シソーラは平然とした顔をしつつ、横目でランディを見やった。
 和平の見込みが元よりあり得ないとはいえ、敢えて話をこじれさせる方向に持っていくこともあるまいに。
 付き従う重臣たちと顔を見合わせた後、ナッソス公は、侮蔑のこもった眼差しをランディに向ける。
「なに、根も葉もない風評だ。こともあろうに名門マッシア家の息子のひとりが、下賤なゴロツキ連中と徒党を組んで、世間に恥をさらしているのだとな。まったく愚かな噂だが……」
「それはそれは。相変わらず手厳しいお言葉ですねぇ。いやはや、ナッソスの親爺殿にはかないません」
 ランディは気にも留めぬ様子で、舞台めいた高笑いをしている。
 無言の公爵は、彼とシソーラに手振りで着席を促し、自らも家臣たちと共に席に着く。痩せた顎に手を当てて、公爵はギルド側の2人をじっと睨んだ。
「ところでランドリューク。肝心の《空の海賊》たちの頭目が、いや、ギルドの飛空艦隊の代表者が来ておらんようでは、話にならんぞ。で、そちらのご婦人は? ここを舞踏会とでも勘違いしているのではあるまいな?」
「タロス《王国》(*2)、ラ・フェイン伯爵家のご息女……」
 ランディがそう言いかけたとき、シソーラは口元を羽根扇で隠しながら、やんわりと彼の話を遮った。
「ご謁見を賜り、光栄に存じます。エクター・ギルド所属の飛空艦、ラプサーの副長、シソーラ・ラ・フェインと申します。艦隊の代表者はわたくしです」
 普段よりも高めの声で告げた後、彼女は心の中で付け足した。
 ――ちょっと、いきなり海賊呼ばわりなワケ? 田舎貴族がつけ上がると、これだから困るのよ。
 彼女が嫌悪感を胸の内に抑えておこうとした瞬間、相手方の1人が、わざとらしく吹き出した。
「タロスの伯爵家のご息女? いやいや、これは誠に失礼を。私はてっきり、どこぞの奥方かとばかり思っておりました。あなたのように魅惑的な女性が、未婚のお嬢様だとはとても……」
 50がらみの小太りの男は、図々しくも、シソーラの神経を逆なでするようなことを露骨に指摘する。脂ぎったその姿は、貴族という洗練された言葉とはほど遠い。彼の様子から察するに、どうやら公爵の直接の家臣ではないらしい。大方は付近の基地からナッソス家に鞍替えした、地方議会軍のお偉方とでもいったところだろう。
 ――悪かったわねぇ、行き遅れで。人が気にしてることを……。
 シソーラはテーブルの下で拳を握りしめた。やむを得ない、ここは我慢。
 その男は、外見と同様に品性も浅ましい人間のようだ。先ほどから目尻をだらしなく下がらせては、シソーラのドレスの大きく開いた胸元を、しげしげと観察している。
 ――この変態オヤジ、戦いが始まったら真っ先にぶっ殺す!
 だがそこは、したたか者の彼女である。そんな思いなどおくびにも出さず、嫌味なほど見事な微笑を保っている。
 ナッソス公も呆れたように言う。
「信じられん話だ。無頼の荒くれ者たちが、剣の持ち方も知らなさそうなご婦人に号令されているとはな。ギルドは勇猛果敢なエクターの集団と聞く。よもや、女の背中に隠れる腰抜け連中であるわけはなかろうな。はっはっは」
 喉元に剣を突きつけてやろうかと思ったシソーラだが、さすがにそれはまずい。
 ――コイツら、あたしに何か恨みでもあるわけ? ほんとうにもぅ、イヤなところに来ちゃったな。
 彼女が微妙に口元を歪めたものの、何喰わぬ顔に踏み止まったのを見て、ランディは軽く肯いた。
 ――親爺殿のヤツ、最初から話をぶちこわそうと思ってやがる。まぁ、俺も向こうを変にからかったりせず、今日のところは無理して辛抱しなきゃダメかねぇ……。そうすりゃ、陸戦隊が集結するまでの時間稼ぎにはなるわけだ。それにしてもこの女、とんだ食わせ者みたいだが、メイと違って辛抱強くてよかったよ。《姐さん》なんて呼ばれているだけのことはある。

 ◇ ◇

 その頃、ルキアンは議場の外で待たされていた。
 彼はギルドの正式なメンバーではなく、まだ大人でもない(*3)。言ってみれば、お小姓の少年に近い形で、ランディたちに同行してきただけにすぎない。
 それに加えて家柄の問題も関係していた。一口に貴族といっても、容易には見通せないほど様々なランクに分かれる。下から数えた方が早いルキアンの家と、王室にも匹敵するナッソス公爵家とでは、ある意味で平民と貴族以上に格式の差があるかもしれない。
 これらの理由から、ランディは気位の高い公爵に配慮して、ルキアンを同席させなかったのだ。
 ルキアン自身、仮に頼まれても遠慮していただろうが。貧しいながらも貴族の家に育った彼。そのあたりの面倒な因習にも少しは通じている。
 他方、少年であり、かつ正式のギルドメンバーではないためか、あるいは《無害そうな、弱々しそうな》外見も手伝ってか……ルキアンは、中庭のひとつを自由に散歩することを許された。

 城壁や建物が幾重にも連なるナッソス家の城館、その広大な敷地の一角に、こぢんまりとした庭園があった。
 殿舎の外に張り出した回廊が、庭の周囲を取り囲んでいる。草が低く茂り、野辺で見られるような植物が素朴な花を開かせていた。作為的に仕上げられた雰囲気はなく、むしろ自然のままに近い、野趣に溢れるたたずまいである。
 遠慮がちに散策するルキアン。彼は箱庭を思わせる眺めを楽しみ、退屈な気分を紛らわせている。
 庭の隅に小さな噴水があった。その真ん中に立つ獅子を模した白磁の像は、自らが吹き上げる水に濡れ、うっすらと苔むしていた。
 細波立つ水面に、柔らかな太陽の光が反射する。
 そこに映り込む木立が揺らぐ姿を、ぼんやりと見つめながら、ルキアンはいつものごとく物思いに耽り始める。
 ――何だか、疲れちゃったな。のんびり一息つくのって、久しぶりのような気がする。でも《あの日》もこんな感じだったっけ。
 その日……コルダーユの港を見下ろす丘の上、春の花々に目を奪われていた自分の姿が、もう何年も昔のことのように思い出される。だがあれは、たった数日前の出来事なのだ。
 謎の女の声。黒いアルフェリオン。焼け落ちる研究所。白いアルフェリオン。泣き惑うメルカ。姿をくらましたソーナとヴィエリオ。
 ――どうして、あんなことになってしまったのだろう? でも僕は、本当はどこまで悲しんでいるんだろうか? 分からない……。僕は嫌な奴だ。先生もヴィエリオ師兄も、ソーナもメルカも、みんな不幸のどん底に叩き落とされたというのに、僕だけが、実際にはどこかで喜んでいるのかもしれない。
 ルキアンは自嘲一杯に頬を緩めた。
 ――あれは《不幸》な《事故》だった。でも僕にとっては、同時に《幸い》な《きっかけ》?……自分の力では決して変えられなかった《日常》を、否応なく突き崩してしまった運命の導き……馬鹿な、何が運命だって? 昔の吟遊詩人がでっち上げたような、そんな陳腐な英雄物語みたいなことがあるわけないじゃないか。ばかばかしい。
 彼は噴水の縁に手をついて、空を見上げる。
 ゆれゆく雲に自分の揺れる心を重ねてみた。はかない。本当に頼りない。
 薄雲と並んで天に漂う島々が、知らない間にわずかに動いていた。
 その島影に隠れていた太陽が、また顔を出す。
 にわかに強まった日差しが眩しい。ルキアンは帽子のつばを心持ち下げた。
 ――だけど、僕は今、こんなところに居る。偶然か必然か、そんなことなんてお構いなしに、周囲の環境だけが物凄い勢いで変わり始めている。それだけは、否定できない事実だ。僕はその中で、新しい《日常》を再び作り上げなきゃならない。そんなこと言ったって……なるようにしか、ならないのかな? 
 《何ひとつ確かなもののない世界の中で、それ自体不確かな己の意志を頼りに、日常に新たな解釈を施し、再構成せよ。生き抜け!》
 ある思想家の著書にふれ、心に残ったその一節を、彼は思い浮かべた。
 ――僕の理性は狸寝入りをしている。自分自身の足で歩きたいと渇望していたくせに、いざそれが可能になったら、こんどは自分で行く先を定めることから逃げている。
 溜息とともに、肩を落としたルキアン。ただし、そんなに深刻な顔つきではなかったが。
 ここちよい傷心に浸りつつあった彼は、思い出したかのようにポケットから手帳を取り出す。
 ペンを手に立ったまま、彼は背後の庭園を眺めていた。
 しばらくして、彼は韻律を持った文を綴り始める。
 詩だ。《あの日》までの彼にとって、《日常》から離れた世界を自分の力で作り出すことのできる、唯一の方法だった。
 相変わらずの白日夢の中に、彼はなおも留まっている。そのとき……。

「うわぁ! な、何!?」
 庭の奥の通路から、小さな白い犬が、いきなり脱兎のごとく駆けてきた。
 一瞬、何だか分からないほど速かった。
 木々や噴水を器用にすり抜けると、犬はルキアンめがけて飛び上がる!
「い、犬?」
 真っ白なむく犬は、勢い余って彼にぶつかった。
 革張りの手帳がはね飛ばされ、地面に投げ出される。
 驚いて立ちすくむルキアン。
 犬の方は妙に彼をお気に召したらしく、彼の膝に前足を掛け、舌を出して息を弾ませている。
 すると、この犬がやってきた方向から今度は少女の声がした。そして足音。
「アルブ、アルブったら。どこ行ったの!? もう、待ちなさいよ!」
 ルキアンは背中をびくりと振るわせた。
 彼がふと頭を上げたとき、その言葉の主と目が合った。
 金の髪を丸く結った娘が怪訝そうに首を傾げている。
 瞬間、ルキアンはわけもなく身震いを感じた。本能的な直感がもたらした、極めて抽象的な暗示だった。いかなる予感なのか、具体的なことは彼自身にも全く分からない。
 彼女の姿は鮮烈だった。
 わずかな緩みすらなく、凛と張りつめた1本の弦のようだ。
 触れれば指先が切れてしまいそうな、それでいて彼女自身も壊れてなくなってしまいそうな、硝子の刃のようだ。
 瞳の中の少女は彼の心の奥底にまで焼き付いた。
 周囲に何のはばかりもない態度や、非常に上等な仕立ての衣装からして、彼女は恐らくナッソス家の人間だろう。
「ごめんなさい。アルブが迷惑かけてしまって」
 呆然としているルキアンに近寄ると、少女は姿勢をかがめ、例の小さな犬を抱き取った。
「見かけない人ね。お客様? 私はカセリナ。この家の娘です」
 ――ナッソス公爵の娘。この子が!?
 彼女のひとことは、ルキアンの頭の中をかき乱した。目の前が真っ暗になり、すぐには返事ができなかった。
 ――彼女とその家族が、僕たちの敵……? 僕らは、彼女の大切なものを全て灰にしてしまおうとしている。そんなことが! もしそうなったら、この子は……。
 清楚に研ぎ澄まされながらも、極めて危うい少女の姿が、ルキアンの脳裏で砕け散った。自分が猛悪な人間であるような気がして、彼は言葉を失う。
「あら。これ、あなたのでしょ?」
 カセリナは彼の足下に転がる手帳を拾い上げ、土を払う。
 富裕なナッソス家の人間だけあって、贅沢な手袋が汚れるのを毛筋ほども気にしていないようだ。
 むしろ気になったのはルキアンの方である。純白のレースに包まれた彼女の指先に、湿った黒土が粘り付いている――なぜか、彼はそれを見て胸が重くなった。さきほど自分の中で壊れたカセリナの姿が、その光景と重なる。
 彼のそんな思いなど知らぬカセリナは、開いたままになっていた手帳のページに、何気なく目を留めた。
「あ、読まないで! こ、困る……困ります!!」
 真っ赤になったルキアンは、こわばっている舌を必死に動かす。
 恥じ入る彼を尻目に、カセリナは、ルキアンのか細い文字を辿っている。
 愛らしい桜色の唇が、微かに弛んだような気がした。
 カセリナはペンを取り出し、同じページに何やら書き付けている。
 彼女はルキアンに向かって手帳を差し出した。
 生真面目に澄んだ少女の瞳が、今までの清冽さを和らげ、心なしか無邪気に光る。
「はい、どうぞ。それで、あなたのお名前は?」
「あ、あ……あの、ぼ、僕は……ルキ、ルキアン……ディ・シーマー……です。実は、その……コルダーユの街で、魔道士の、見習いをしています」
 しどろもどろになった彼が、《お会いできて光栄です、お嬢様》と最後に付け加えようとしたときには、カセリナの姿はもう遠くにあった。彼女は屋敷の奥へと、犬と一緒に上品に歩き去っていく。
 ルキアンは、自分がギルドの関係者であるとは恐ろしくて言えなかった。
 そう告げることが、まるで彼女を傷つけてしまうことに等しく思えて、決して本当のことを言えなかった。
 赤く染まった頬の熱さすら忘れ、彼は返された手帳を見る。

   降りそそぐ春の光の中で、
   闇に慣れ過ぎた この目をかばいながら、
   僕は戸惑い、力無く震えている。

 今しがたルキアンが書きかけて、途中で終わっていた詩である。
 白紙のままだったはずの続きの部分に、別の筆跡が優美に並んでいた。

   それでも僕は、やがて歩き出すよ。
   心の底に打ち捨てられていた 翼の欠片を拾い集めて、
   優しく抱きしめてあげられる日が、もうすぐ来るから。

 カセリナの粋な気遣いに調子よく高揚しながらも……ルキアンの喜びはたちまち消え去っていく。
 もし誰かが見たら寒気を催しそうな陰湿な目つきになって、ルキアンは去りゆくカセリナの背中を追った。
 ――だけど、その《翼》のために、僕は君の大切な人たちに血を流させ、君にも涙を流させることになる。それでもいいの? 僕は、君を壊すかもしれない。それでもいいの?
 あくまで明るい日差しの中で、ルキアンの心はいつしか闇に落ちていく。
 ――罪深い僕をお許し下さい。神よ。セラス女神よ……。

 ◇ ◇

 冷気を震わせ、轟く咆吼。それと同時に険しい稜線が崩れ落ちる。
 剣のごとき峰をなす岩盤がたやすく掘り抜かれ、雪原を切り裂く地割れの下から異様な影が姿を見せた。
 2本の角を生やした蛇のような頭が覗いた後、思いもよらぬほどの敏捷さで、地面に空いた大穴から巨体がするすると這い上がる。強靱な四肢に支えられ、分厚い装甲に包まれた胴。本体と同程度の長さをもつ尻尾が、鈍い金属音を響かせ、しなやかにうねる。
 旧世界の超アルマ・ヴィオ、深紫の竜王、サイコ・イグニールだ。
 ――陛下を守る機装騎士(ナイト)のくせに悪者に手を貸すなんて、とんでもないヤツらだぜ。このアレス様がまとめてぶっ潰してやるから覚悟しろ!
 遺跡を見張っていたシルバー・レクサーの一群。イグニールはそのただ中に、しかも突然、相手の足下から出現したのだった。現状を把握する余裕さえ敵に与えず、無鉄砲なアレスはいきなり猛攻を仕掛ける。
 地震さながらに大地が粉々になったため、レクサーのうち何体かは、すでに姿勢を崩して倒れたり、下の方に転がり落ちたりしている。
 かろうじて立っていた機体も、不意を付かれ、次々となぎ倒されていく。さすがの《重騎士》シルバー・レクサーも、さらに数倍の重量とパワーを有するイグニールに体当たりされては、ひとたまりもない。その突進をかわしたところで、今度は強靱な尻尾の一撃が襲ってくるのだ。
 ――おい、ウソだろ!? あのシルバー・レクサーが軽く飛んでったぞ!
 その圧倒的なパワーには、アレス本人も驚きを隠せなかった。
 もちろん彼自身、まだ機体に慣れていないため、イグニールの有り余る性能を上手く使いこなせていない。仕方がないので力任せにぶつかり、敵をはね飛ばし、押し倒しているだけなのだが……それだけでも面白いように戦えてしまうのだ。あの名機シルバー・レクサーの群を相手に、たった1体で。
 ――すごいぞ、すごい、凄すぎる! これが旧世界のアルマ・ヴィオなのか?わけわかんないけど、メッチャクチャ強いじゃないか!!
 調子に乗ったアレスは、そのまま力技で押し切ってしまおうとする。
 彼の意識と同調してイグニールが上体を起こし、2本の後ろ足で立ち上がった。前足あるいは腕の先端では、曲刀を寄せ集めたような鉤爪が鋭く光る。背中の翼が悠然と開かれ、堂々たる姿がいっそう強調された。
 ――ば、馬鹿な。シルバー・レクサーが完全に力負けするなんて!? 化け物か、あのアルマ・ヴィオは……。
 ――わずか1体の敵に、我々近衛隊が手も足も出ないなどとは! 何てことだ!!
 予想外の旗色の悪さに、機装騎士たちは思わず戦慄する。
 けた違いの相手を前にして慎重になったのか、残ったシルバー・レクサーは密集隊形を取ると、分厚い楯を構え、自慢のMTランスを突き出して槍ぶすまを作る。派手な動きこそないが、巨人の騎士たちが一糸乱れず列を作る様は、重厚な迫力に満ちていた。
 こうなると、困ったのはアレスの方だ。重装甲を誇るシルバー・レクサーに本格的な守備の態勢を取られては、どんなアルマ・ヴィオでも簡単には踏み込めない。まともにぶつかっていけば、手痛い反撃を受けて串刺しにされてしまうだろう。楯の中央に装備された大口径のMgS(=マギオ・スクロープ)も、その狙いをイグニールに定めている。
 冷静さや秩序だった動きに関する限り、アレスよりも近衛隊の方に軍配が上がった。《お坊っちゃん機装兵団》という情けない俗称に反して、その整然とした動きはやはり素人とは違う。
 ――くそっ! こっちが仕掛けるのを待つ気かよ。そういえばイグニール……俺、お前の武器を何も知らなかったな。つい勢いで暴れちゃって。なぁ、何か良い手はあるか? 飛び道具とかないの?
 アレスがそう念じると、すぐにイグニールから返事が返ってきた。
 ――まったく呑気な奴だな。よく聞け、速射型MgS2門と多連装MgSが1門、イリスの《サイキック・コア》と連動した遠隔操作兵器《ネビュラU》、それから竜王の炎――《ハイパー・ステリア・キャノン》。そして、わが最強の兵器……。
 ――ハイパー・ステルス、何? そんなにいっぺんに喋んないでくれよ!
 よくもこれだけと思えるほどの、質・量ともに半端ではない武装だ。おまけにネビュラUやステリア・キャノンは、旧世界の《解放戦争》の後半になって現れた超兵器である。いくらアレスでもそんな名前は聞いたこともない。
 意外に知的なイグニールは、アレスには分かりそうもない理屈を事細かに並べ立てる。
 ――違う。ハイパー・ステリア・キャノンだ。《霊子素(アスタロン)》を物質界へと強制的に実体化させ、その際の霊的対消滅によって生じる莫大なエネルギーを利用した、超高出力の……。
 ――何だよ、そのアスタロンって? 要するに、どのぐらいすげぇんだ? 早くしないと敵のMgSが飛んでくるぞ!!
 ――そういう感覚的な質問は苦手だが。そうだな……いま我々が立っている山脈程度なら、簡単に消滅させることができる。
 ラプルスの山々を一瞬で無に帰するような力。もしそれが本当なら、アルフェリオンの《ステリアン・グローバー》以上の破壊力かもしれない。イグニールはごく平然と言ってのけたのだが。
 ――な、何? 待て、そんな危ない武器使えるかよ! 俺の家までなくなっちまうじゃないか。もっとマジメに答えろよな。
 ――今の発言は理解不可能だ。意味が分からない。私は真剣……。
 どこか間の抜けたやり取りを聞きながら、イリスは呆れていた。
 ――アレス、急がないと敵が向かってくる。
 ――あ……あれ、誰? 今の女の子の声は!?
 聞き慣れぬ言葉に、彼は耳を奪われそうになった。
 ――早く。イグニール、ネビュラUを射出して!
 ――まさか、イリス?
 今頃になって気付くアレス。先程までにも何度か耳にしていたはずなのだが。
 ――イリス、ちゃんと話せるじゃないか。どうして今まで黙ってたんだ?
 ――違うの。あたしは、心の中でしか……私は声を出せない……。

 そのとき、2人の話を遮って別の人間からの念信が割り込んできた。
 ――そこのアルマ・ヴィオ、お前は何者だ!? 俺たちをなぜ攻撃する?
 シルバー・レクサーとは異なる、白と金の甲冑をまとった華麗なアルマ・ヴィオが目の前に立ちはだかっていた。
 イグニールと張り合うかのごとく、龍の頭部を形取った兜。手に構えた小銃型の呪文砲、MgS・ドラグーン。優美で繊細な造形とは裏腹に、飛空艦の砲撃すら弾くと噂される甲冑。その全てが頂点に立つ者に相応しい……パラス・ナイトのみが操る機体、エルムス・アルビオレだ。
 アレスも話には聞いていたが、実際に見たのは始めてである。したがって彼の目には、正体不明の手強いアルマ・ヴィオとしか映らなかった。
 相手はいかにも熱い口調で怒鳴っている。アレスよりは年上だろうが、随分若いように感じられる。
 ――俺はパラス・テンプルナイツのダン・シュテュルマー! 名を名乗れ、そこの狼藉者!!
 ――ろーぜき者? お前こそ、よくそんなことが言えるな。悪者のクセに! 俺はアレス。人呼んで正義の勇者、アレス・ロシュトラムだ!!
 勢いづいて勝手に勇者を名乗るアレス。
 ダンという若者の方も、負けじとばかりに反撃した。
 ――ふざけるな! 正義の勇者が聞いて呆れるぜ。仮にも正義を名乗る者が、なぜこんな不埒な振る舞いをする? 俺たちを国王陛下の聖騎士団と知ってのことか!?
 ――あぁ、そうだ。聖騎士だか何だか知らないけど、悪者の手先になんかなりやがって! 正々堂々と勝負しろ、この悪党!
 ――何だと? 名誉ある騎士に言いがかりを付け、あまつさえ悪人呼ばわりする気か! 許さないぞ、正義をかたる悪のドラゴン。この俺が退治してやる!
 2人の話は全くかみ合っていない。双方とも単細胞極まりない熱血漢で、しかも自分こそが正義の戦士だと思って譲らないだけに、始末に負えない。
 このダンという男、恐らくチエルたちの一件について事情をよく理解していないようだが……。ともかく、ファルマスが彼を敢えて地上に置いたままにしていた理由が、何となく想像されるというものだ。
 迸る熱血をたぎらせ、対峙する2人のエクター、2体のアルマ・ヴィオ。
 現世界で最強の汎用型、白と金の騎士エルムス・アルビオレと、旧世界の残した遺産、深紫の超竜サイコ・イグニール。
 気合いが高まり、両者がまさに攻撃に移ろうとした瞬間……側面の崖下から、別のエルムス・アルビオレが2体現れた。
 ――ダン、この大変なときに何を遊んでいるのです?
 柔らかな声が念信を通じて伝わってくる。
 ――エルシャルト! これは一体どういうことだ? 俺の方が聞きたいぜ。
 ますます状況を理解できなくなるダン。
 新手のエルムス・アルビオレは、ファルマスの命を受けて出撃してきたダリオルとエルシャルトのものだった。
 同じアルマ・ヴィオであっても、パラス・ナイト各人の個性に合わせて改良が施されている。ダリオルの機体は全体的に装甲が軽量化され、贅肉のない精悍なイメージである。剣の鞘を思わせる円筒形の装備を背負っている点も、特徴的だ。
 他方、エルシャルトのそれには、ネビュラやランブリウスの発射管・制御装置など……明らかにマギウスタイプ(魔法戦仕様)と分かる武装が取り付けられていた。

 ――そんな奴にかまっている暇などない。エルシャルト、ダン、回りによく気を付けてみろ。いや、すでに気づいているな?
 ダリオルの心を映してか、冷淡な口調の念信が響く。
 目には見えないが、確かにいる。
 雪面が揺れ、強風が所々で何かに遮られつつ流れているような気がする。
 1体、2体……いや、すぐには数え切れないほどの数だ。何もないはずの場所に幾つもの気配がする。しかも相当大きな物体らしい。
 これらの姿無き者たちによって、遺跡の周囲は完全に包囲されていた。
 だが、エルシャルトは冷静につぶやく。
 ――《精霊迷彩》ですか、なるほど。そうだとすれば相手は議会軍の特務機装隊、彼らの《インシディス》に違いないでしょう。それで、どうします? ファルマスはあんなことを言っていましたが……。

 ◇ ◇

「だからさぁ、あたしは……。アンタねぇ……おい、人の話聞けよっ!」
 市場のおかみさん連中にも負けない気っ風の良い声が、部屋の向こうから廊下にまで響いている。声も大きいが、言葉遣いもやや乱暴だ。
 クレドールの乗組員であれば、メイが喋っているのだとすぐ分かるだろう。
 《赤椅子のサロン》の近くを歩いていた人影が、苦笑いしながら立ち止まる。
「おやおや。先客がいましたか。これはまた賑やかなお茶会のようですね」
 ラウンジをそっと覗き込んだのはクレヴィスだ。
 中にいる者たちは話に夢中で、彼には全然気づいていない。メイが相変わらず、手厳しい言葉でバーンをやり込めているらしい。
 喧嘩するほど仲が良いとも言われるではないか……放っておけばよいものを、わざわざバーンに助け船を出しているのが、クレメント兄妹のカインだ。彼のとぼけた声は聞き取りにくいのだが、例によって何か意味不明の発言をしたらしく、メイが今度はカインにかみついている。
 するとカインの隣に座っていた妹のプレアーが、メイに向かって盛んに文句をぶつけ始めた。これまたよく聞こえないが、《お兄ちゃん》という言葉がやたらと連発されていることだけは分かる。
 メイとプレアーのやり取りにベルセアが横槍を入れ、面白半分に煽る。彼だけはクレヴィスに気づいて、力の抜けた笑みを浮かべつつ手を振っていた。
 この大騒ぎの中で、ひとり涼しい顔で座っている金髪の青年が、ギルドでも指折りのエクター、レーイ・ヴァルハートである。彼の容貌自体は凛々しく、そして逞しく、あたかも古代の英雄像が動き出したかのような勇士ぶりだ。しかし見かけの姿が立派であればあるほど、隅の方で地味にお茶をすすっている彼の振る舞いは、あまりに不似合いで滑稽なのだが……。
 戦士たちの束の間の休息――それを眺めていたクレヴィスが、微笑ましそうにうなずく。
 目の前の小さな安逸は、風に漂う木の葉のようにはかない。明日、明後日……いまここで笑っている者たちが、全てまた顔を揃えるとは限るまい。結局、歯に衣着せぬ表現をすれば、戦争とは《殺し合い》なのだから。

 彼らの大切な時間を邪魔をしたら悪いと考えたのか、クレヴィスはラウンジからこっそり離れた。
「エクター同士の親睦会……いや、打ち合わせですか。私たちは場所を移した方が良さそうですね」
「えぇ。それがよろしいですわ。隣で小難しい話をされては、せっかくお楽しみ中の彼らも気が滅入ってしまうでしょうから」
 普段着の白い法衣の上に、長いケープを掛けているシャリオ。彼女は華奢な指先を口元に当てて、目だけを細めて笑っている。
 再び歩き始めた2人。
「ところでクレヴィス副長、軍との会議の方はもうよろしいのですか? 昨晩は徹夜の討議が続いたと聞きましたが……どうか、あまりご無理をなさらないでくださいね」
「お心遣い感謝します。幸い、私が顔を出すべき要件はもう片づきましたので、今はカルとノックス艦長に交代しましたよ。ヴェルナード(=ノックス)は、元々が軍人ですからね。ああいう肩の凝りそうな話の席にも慣れているようで。私はどうも苦手ですよ。やはり古文書のことでも論じている方が、ずっと楽しいのかもしれません。それで、シャリオさん……」
 クレヴィスはポケットから数枚のメモを取り出す。見慣れぬ言語で何か走り書きがしてある。魔道士や神官の使う筆記体で綴られた、古典語の文章だ。
「急にお呼び立てして申し訳ありませんでしたが、実は、この件について貴女のご意見をお伺いしたいのです」
 彼に手渡された紙切れを見た途端、シャリオの表情がにわかに真剣味を帯びた。いや、興味津々に瞳を輝かせたと言った方がよいかもしれない。
「パラミシオンの《塔》で発見した沢山の《ディスク》ですが……例の《知恵の箱》を管理している友人に、ネレイの街から急ぎの荷で送ったところ、早くも念信が帰ってきましてね。その要点をメモしたものです」
 クレヴィスに告げられるまでもなく、シャリオは紙に書かれていた文のひとつに目を留め、それを心の中で繰り返した。
 ――すなわち……が、憎しみの炎となりて、真紅の翼羽ばたくとき……。これは《沈黙の詩》の一節、《紅蓮の翼》と称される不可解な箇所!?
 高揚した面持ちで、シャリオはクレヴィスを仰ぎ見る。
 眼鏡の奥に意味深な微笑をたたえ、彼は黙って頷くのだった。

 ◇ ◇

 薄雲のヴェールの向こう、かすかに青を透かしていた空。
 それがいつの間にか灰色に濁り始めていた。
 見上げるような白い城館が、迷路を仕切る壁さながらに広がる。
 その谷間にひっそりと作られた、時に忘れられた小さな中庭。
 野の草茂る湿った地面を踏みしめながら、
 暗い目をした少年が、じっと見上げていた……
 ただひとつ、外の世界に向かって開けた空の天井を。

 ――夕方には、降り出すかもしれないな。
 流れ着き始めた雨雲を見つめながら、ルキアンは思った。
 風も心持ち強くなり、生暖かい空気を肌が感じ取りつつある。
 あらしが……春の嵐がやって来るのだ。
 ――嫌だな。雨か。
 彼は頭を垂れ、足元に横たわる蔓草(つるくさ)を眺める。
 そのとき、背後で密やかな声がした。
「何を悩んでるのかなぁ? 少年」
「シソーラさん!!」
 耳に息を吹きかけられ、ルキアンは慌てて身をすくめた。
「ふふ、可愛いっ。どうもお待たせ。あなたを呼びに来たのよ」
 そのままシソーラに手を取られるルキアン。彼は困った顔で尋ねる。
「呼びにって、どういうことですか? 妙に早いですけど、まさか会談がもう終わったわけじゃ……」
「その会談が問題なのよねぇ。予想されていたことだとはいえ、全く進展なし。お互い、慇懃無礼な悪口の応酬って感じ。疲れる疲れる。公爵もさすがに嫌気がさしたのか、いったん話し合いを休止してお茶会でも開こうということになってね。それで、ルキアン君も一緒にどうかと思ってさ」
「え、あの、困ります。僕なんか……場違いです」
 ルキアンは即座に首を振った。
 彼の背中をぽんと叩いた後、シソーラは強引に引っ張っていこうとする。
「遠慮しなくていいってば。大体ねぇ、今どき家柄なんてそんなに気にする必要ないワケよ。あなたも知ってるでしょ……由緒正しい大貴族が、成り上がりの商人のご機嫌をさんざん取って、借金の期限を伸ばしてもらっているようなご時世なんだからさ」
「で、でも僕……」
「もぅ。困った子ねぇ。公爵自身もぜひ来てくれと言ってるんだから」
 シソーラは彼に身を寄せると、今度はハスキーな作り声でつぶやき始める。どうやら愚痴で泣き落とす作戦に出たらしい。彼女が《ルキアン》と呼ぶたびに、その名前の語尾のところが変に鼻にかかっていた。
「ルキアン君。あなたが来てくれた方が、雰囲気が和らぐと思うのよ。ランディのバカと公爵が元々あんまり仲良くないから……場の空気が息苦しくて、倒れてしまいそうだわ。私までとばっちりを食らって、棘のある言葉でさんざん虐められるのよ。ひどいと思わない? ねぇ、お願い……」
 どこまで真面目に言っているのか、よく分からない言葉だが。
「ほら、ルキアン君。早くっ、早くっ!」
 やんわりとしているようでも、シソーラの押しの強さは半端ではない。ぐずるルキアンだが――かといって誘いを断るだけの気力もなかったので、結局、彼女の勢いに負けて引き立てられていく。
 ルキアンの力ない足取りは、これから売られていこうとする子牛を連想させる。他方、してやったりという顔つきのシソーラ。
 そんな彼らの様子を見て、屋敷の警護をしている兵士が首を傾げていた。

 ◇

 淡い青と白とに囲まれた、薄暗い空間――窓から差し込む光と、ひんやりとした空気に包まれて、漆喰で作られた唐草が壁から天井に向けて這い上がっている。
 十分に余裕を持った広さの、贅沢な踊り場の設けられた階段。
 壮麗な城館の内部を眺めつつ、ルキアンとシソーラは登っていく。
「あの、シソーラさん……」
「うん。何?」
「ちょっと、聞いても、いいですか……」
 遠慮がちなルキアンの声が、天井にか細くこだまし、壁や柱の奥に張り付いた影に吸い込まれていく。
「シソーラさんも、こんな立派なお屋敷に住んでいたのですか?」
 彼女がしばらく黙っていたので、ルキアンは気がねし始めた。
「あ、あの、お気を悪くなさらないで下さい。ごめんなさい……」
 過去を思い起こすということは、シソーラにとって、取りも直さずあの革命の悪夢と向かい合うことでもあるのだ。何故にそんなことを尋ねてしまったのだろうかと、ルキアンは自分の浅はかさを悔やむ。
 ようやくシソーラの声がした。彼女は静かに語り始める。
「あたしの家は町の中にあったから、館をここまで大きくするのはさすがに無理よ。いくら大貴族でも、普通はナッソス家ほどの財力なんてあるわけないし。ま、中身の派手さは似たようなものだったけど。でも、がらんと広い屋敷の中に大人ばかり。そんな世界、子供の頃には寂しかったな……」
「シソーラさん、ご兄弟は?」
「兄がいたらしいんだけど、小さいときに流行りの病で亡くなったんだって。あたしが生まれる前のこと。ずっと後になって、弟が生まれたんだけどね。だから随分長い間、兄弟はいなかったのよ。ルキアン君は?」

 ルキアンの表情が不意に曇った。うつむいたまま、彼は黙って階段を上っていく。偶然とはいえ、それはシソーラの心を乱したことゆえの天罰なのかもしれない。
「僕は……」
 ――僕は、両親の本当の子ではないのです。
 と、彼は言おうとした。しかし、その言葉を口にするのを避けてきた過去の習慣から、無意識のうちに適当にごまかしてしまう。
「兄がいました」
 それは確かに事実だ。シーマー家の兄たちが。

 ◇ ◆ ◇

 ――どうして、お兄ちゃんたちはみんな綺麗な服で、僕だけこんな服なの?

 ――兄さんたちは、今日は馬で森に駆けに行ったんだ。でも僕は行かないの。いいんだ。どうせ連れていってもらえないから。どうせ僕は……。

 ――ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ。
 ――声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ。

 ――いいの。だって僕は……。
 ――僕は、いらない人間。誰にも必要とされない……。

 僕は、いらない人間。
 僕は、いらない人間。
 いらない人間。
 いらない人間。
 いらない。
 いらない!

 昔の自分の姿が、ルキアンの脳裏に不意に蘇る。
 忘れておきたかった記憶。もう永久に鍵を掛けておきたかった灰色の思い出。

 だが、幼い頃の出来事を心の中から消し去ってしまおうとも、結局は同じだった。彼が《いらない人間》であることに変わりはなかったから。その後も。別のどんな世界に行っても。

 そして苦しみに満ちた回想が……。凍り付いた日々の闇。

 ただひとり、冷たく、音のない晩に。
 ルキアンはいつものように、野ざらしになった小さな礼拝堂に駆け込んだ。
 蜘蛛の巣と、ひび割れた石壁と。
 月明かり。暗闇の中で、それは白く微かに光っていた。
 女神セラスの彫像が、あくまで柔和な微笑をたたえて彼を見守っている。
 滑らかな象牙色の石の肌に、月の光が照り映えては、深い闇の奥へと吸い込まれるように消えていく。
「僕は……こんなところで自分を見失ってしまうのは嫌です」
「でも、どうしても止められない怒りが……怒りが次第に僕の中に満ちあふれていくことが……心が荒んでいくことが、自分自身、耐えられないのです。穏やかなままでいたい。いつも静かに笑っていたい。それだけなのに!」
 流れるように美しく彫られたセラスの裳裾に、彼はすがりついた。
 涙とともに。ルキアンの上体が像の胸から足下へと、絶望を背負って崩れ落ちる。
「ここには、僕の探している未来はありません……」

 ――独りだ。この暗闇だけが、僕を優しく包んでくれる。この夜の……。
 ――あなたは孤独を恐れている。独りでいるときには、ただ寂しいとか、そこから逃げ出そうとか、そんなことばかり考えている。
 突然、エルヴィンの謎めいた言葉が思い出された。何の脈絡もなく?
 過去と今とが互いに絡み合う。
 ――勇気を出して……目を閉じて、静寂とひとつになるの。そうすれば気づくはず。あなたは何も感じない?
 ――静寂と、ひとつに?
 天鵞絨(ビロード)のように柔らかな闇の中で、無音の空間に浮かんだセラス像が、かつての孤独な夜のことが、浮かんでは消える。
 ――静寂と、ひとつに。この心を投げ込む……僕の暗闇の果てに?

 何かが、彼の心の中に。
 それは精神の奥底にある深き淵に、その暗い水面(みなも)の下に。
 何かが沈んでいる。己の無意識はそれに気づいている。
 声が。そして姿が……。

 ◇ ◆ ◇

「ルキアン君!?」
 遠くでシソーラの声が聞こえた。
「ほら、何をぼんやり歩いてるの?」
 階段の最後の一段でつまずきかけて、ルキアンは我に返った。
 壁で赤々と燃えるいくつもの燭台。落ち着いた深緑の絨毯を敷き詰めた廊下。
「急に黙っちゃうんだから。変な子っ。さぁ、この部屋よ」
 シソーラはにっこり笑って目の前の扉を指し示す。
 ドアが開かれた。
 正面には広い窓。天気が崩れかけてきたとはいえ、外の世界からの光は強い。
 木の肌合いを生かした自然な壁と床。それらを彩る同じく木の彫刻の数々が、繊細な職人芸と重厚な飴色の光を誇らしげに見せている。
 灰色のフロックをまとうランディの姿があった。
 彼の奥に居る厳粛な雰囲気の男が、おそらくナッソス公爵だろう。
 そして……。
 ルキアンともうひとつの人影が、同時に立ちすくんだ。
 気まずい表情で、ゆっくりと顔を背けたルキアン。
 彼と相対して目を見開き、怒りとも驚きともつかぬ眼差しを向けるのが――ナッソス公爵の娘、あのカセリナだった。
 部屋の中の空気が、たちどころに張りつめたような気がした。
 非難に満ちたカセリナの視線がルキアンに突き刺さる。
 ――ち、違うんだ。僕は、僕はただ……。
 彼は言葉にならない弁解を繰り返す。
 ――あなたも私の敵だったの。ギルドの艦隊の人間だったのね。
 カセリナの表情はそう語っていた。
 ――私から大切なものを奪おうとする憎い敵なのね、あなたは……。


【注】

(*1) エクター・ギルドが開発した飛行型アルマ・ヴィオのひとつ。ギルドのメンバーの間では、比較的よく使われている。バランスの取れた、非常に汎用性の高い機体である。ちなみにメイのラピオ・アヴィスは、このアサール・アヴィスを軽量化・高速化するとともに、ドッグファイトに強い要撃機タイプに特化させたもの。

(*2) 旧タロスの王党派に属する人々は、自分たちの国のことをタロス《共和国》とは言わず、今なお《王国》と呼んでいる。これに対してタロス革命を賛美するランディは、本来なら《共和国》という呼称を用いるはずだが……。ここでは、おそらくシソーラに気を使ったのであろう。

(*3) 《旧世界》の風習の名残なのか、イリュシオーネでは一般に20歳以上の者が成人とされる。もちろん地域や身分その他の違いによって、《事実上の成人》とされるのが早まる場合も多々あるものの、20歳未満の者は少年・少女と見られるのが普通である。

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