HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第21話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  自分自身になるための、果てしなき旅の始まり……。


 ギルド艦隊とナッソス艦隊との熾烈な戦いは、いつ終わるともなく続いていた。一進一退、ほぼ互角の様相で時間(とき)だけが流れていく。
 大空の戦場でいっそう激しさを増す魔法弾の応酬を、ルキアンは息を飲んで見守っている。
 白い雲までも焦がし尽くすかのごとき、灼熱の炎。凍て付く吹雪が氷片をまじえて荒れ狂う。いかずちが煌めき、宙を切り裂く。遙か下の地脈から呼び出された岩塊が、無数のつぶてとなって飛び交う。
 敵方の砲撃がクレドールをかすめていくたびに、腹の底まで響くような重い振動が、ルキアンの身体を揺さぶった。戦場の鼓動だ。
 ――これが、飛空艦同士の戦いなのか……。
 彼は不思議な震えを体中に覚えつつ、自分のすぐ側に座っているカルダイン艦長を見やった。
 かつてタロスの革命軍をも震撼させ、あと一歩で歴史を変えるところまで戦い抜いたゼファイアの英雄、カルダイン・バーシュ。荒海を行くような大揺れにも動じることなく――いや、むしろ心地よさそうにすら見える艦長は、腕組みして低く唸った。
「敵ながらよく訓練された飛空艦乗りたちだ。ろくに実戦を経験していないはずだが、並みの軍隊よりもよほど上手く戦っている……」
 相手方の戦いぶりに感心しているのか、それとも苦々しく感じているのか、いずれとも解しうるような艦長の口調。
 彼は目を閉じ、セシエルに尋ねる。
「方陣収束砲の再発射まで、あとどのくらい必要だ?」
 幾つもの念信を処理しながら、彼女は素早く答えた。
「さきほど砲座と連絡を取りました。砲身の冷却は済んだようですが、魔力の回復にはあと半時ほどかかるとのことです」
「半時? 100%の出力でなくても構わん。あと15分で次の砲撃に移れ」
「……はい。そう伝えます」
 有無を言わせぬカルダインの言葉。それが終わるのと入れ替わりに、今度はメイの念信がセシエルに伝わってくる。かなり苛立っている様子だ。
 ――こちらメイ! セシー、クレヴィーはどうしたの!? 敵の守りが堅くて思うように攻撃できないんだってば。ここらで、クレヴィーにドカンと一発ぶちかましてもらわないと! あっちの戦艦や巡洋艦にもアルマ・ヴィオが積まれてたんだけど、コイツらがしつこいったら、ありゃしない!!
 《早口》でまくし立てるメイ。交信している間にも、彼女のラピオ・アヴィスは宙返りし、敵弾を回避する。
 ――こちらも大変なことになってるの。メイ、もう少し待って! クレヴィーもすぐ援護に向かうはずよ。
 ――了解!!
 ラピオ・アヴィスが、敵の飛行型の頭上を流れていくように飛ぶ。うまく背後を取ったメイが叫んだ。
 ――このっ、いい加減に落ちろ!
 彼女の言葉と同時に愛機も猛々しい声で鳴く。翼の下に備えられた2門の速射型MgSと、長い砲身を持つ背中のMgSが一斉に火を噴いた。
 間髪入れずに爆炎が上がる。だが休む間もなく、別の敵がメイを襲う。
 そこでレーイの念信が割って入った。メイとは対照的に落ち着いている。
 ――セシエル、こっちの心配なら必要ない。俺たちで何とかする。
 ラピオ・アヴィスとファノミウルに先導されながら、プレアーのフルファー、そしてレーイのカヴァリアンがナッソス艦隊との間合いを詰めていく。
 上下左右、小刻みに機体の位置をずらして飛行し、レーイは相手に狙いを絞らせない。飛行型とは異なり、空中ではさほどの速度を出せないカヴァリアンだが、艦砲射撃の間をぬうようにして、見る見るうちに敵巡洋艦に接近する。
 太陽を後ろに、紺とグレーの機体が逆光を背負って輝く。右手にMgSドラグーンを構えたまま、左手でMTサーベルを抜いた。鋭い一本角と長い顎を持つカヴァリアンの表情は、なかなかに精悍だ。
 MgSドラグーンの銃口から発射された火炎弾が、見事に砲塔を撃ち抜く。
 その間にもカヴァリアンは速度を緩めることなく敵艦に近づき、青白い光の剣を一閃させて舷側を切り裂いた。返す刀でさらに斬り付ける。分厚い装甲が裂け、火花が激しく散る。
 その華麗な動きを《複眼境》で目にしたヴェンデイルが、口笛を吹く。
「ひょおっ、さすがレーイだ! あの船が沈むのも時間の問題かもな」
 それを聞いてセシエルも多少は安心したような表情になる。つやのある黒髪をかき上げ、ほっと溜息を付いた後、彼女はルキアンを見て目を細めた。
「ほら、ルキアン君、あそこよ。遠いからほとんど分からないけれど」
 セシエルが指さした方向を彼は注視する。肉眼でいくら目を凝らしても、味方のアルマ・ヴィオは胡麻粒のようにしか見えなかったが。
 ふと、メイの笑顔が頭に浮かんだ。
 ――大丈夫かな? メイ、無事に帰ってきて……。
 ルキアンは手を合わせて祈った。
 ――他のみんなも。いや、本当はナッソス家の人たちだって。できるだけ傷つかないで欲しい。死なないでほしい。
 叶わぬ願いだと、甘い考えだと分かっていても、少年は胸の奥で繰り返す。

 そんなルキアンの思いをよそに、善戦するレーイ。小さな虻が水牛を刺すように、カヴァリアンは一方的に敵艦にダメージを与えていく。
 他方、メイとプレアーは彼の背後を手堅く守り、敵の飛行型をカヴァリアンに近寄せない。
 カヴァリアンと入れ替わり立ち替わり、ファノミウルからも魔法弾を詰めた爆雷が投下される。ファノミウルが急降下して爆撃するたびに、敵艦の甲板が煙に包まれ、火の手が盛んに広がる。
 4機のアルマ・ヴィオの巧みな連携により、敵巡洋艦の姿勢が崩れ、その艦砲も次第に沈黙していった。
 飛空艦というのは主として対艦用の砲門を装備しているのみで、例えば機銃やミサイルのごとき対空用の火器を持っていない。それゆえ、いったんアルマ・ヴィオに懐に飛び込まれると、実は結構もろい。

 だがそのような弱点は、対するギルド側の艦にとっても同様だ――ナッソス家の飛行型アルマ・ヴィオの奇襲を受け、クレドールも危機に陥っていた。運良くクレヴィスのデュナが助けに入ったものの、まだ難を逃れたとは言い難い。
 瞬時にオルネイス4機を撃墜したクレヴィス。
 数十機の飛行型アルマ・ヴィオが、わずか一体のデュナを前にして戦慄する。しかし敵の飛行隊の指揮官も非凡だった。
 ナッソス家のアルマ・ヴィオの群れが、突然、蜘蛛の子を散らすかのごとく、それぞれ四方八方へと急発進する。
 ――あの《空飛ぶ鎧》には構うな。散開して各自で敵艦隊を攻撃せよ! 群れていると、あっという間に壊滅しかねないぞ。
 そう命じることによって、敵の指揮官は賢明にも真正面からクレヴィスと戦うことを避けた。ほぼ40対1に近い戦いであるにもかかわらず、敢えて数に物を言わせないとは、普通ならまず不可能な判断だろう。
 敵のアルマ・ヴィオ部隊は、ばらばらになってクレドールとアクスの側面に回り込み、やや後ろに陣取ったラプサーにも迫る。
 ギルド艦隊のただ中に侵入したナッソス家の飛行隊は、3隻の飛空艦に猛攻をかける。側面から不意に衝撃を受け、クレドールの船体が傾いた。
 外をちらりと見てカムレスが忌々しげに怒鳴った。
「張り付かれた!? 奴ら、クレヴィスの魔法に対して俺たちの船を楯にする気か!」
 彼は急いで船を動かし、敵のアルマ・ヴィオから少しでも距離を取ろうとする。
 他方、この修羅場の中でもカルダインは平然と頷いた。
「大したものだ。敵の指揮官も、クレヴィスの強さを瞬時に見抜ける程度には、手練れだということか……」
 そこで艦長の目がかっと開かれ、不意に口調が厳しくなる。
「至急、バーンとベルセアは、アルマ・ヴィオを甲板に出して迎撃しろ!!」
 味方の飛行型が出払っている現状では、それしか手がない。苦肉の策だ。

 勿論クレヴィスも黙っていない。
 ――なるほど。確かに攻撃魔法を使えば、こちらの船にも当たってしまう。
 敵方の動きに少しは呆気にとられたかもしれないが、彼は余裕の調子を崩さなかった。
 ――こういう原始的な戦い方は、私の美学に反するのですが……やむを得ません。1機ずつ、しらみつぶしにするだけのこと。
 クレヴィスが念じると、デュナの機体に変化が生じ始めた。本来手足があるべき部分は、それぞれぽっかりと空洞になっている。だが両腕の付け根に当たる左右の穴から、何かがするすると這い出してきた。
 それは魔法金属製の――恐らくは《骨》だ。続いて不気味に脈打つ筋や血管のようなものが、骨格に次々と絡み付く。《肉》は物凄い早さで肥大し、さらには表面部分が鋼のごとく硬化していく。
 たちまちデュナは《両腕》を持つに至った。そのうち一方の手が腰からMTソードの柄を引き抜き、紫色に揺れる光の刃が形成される。
 剣を手にしたデュナは空を滑るように移動し、クレドールの傍らに回る。同時にMTソードの太刀筋がきらめき、刹那、宙空に弧を描いた。
 ――化け物か、あのアルマ・ヴィオは!?
 敵の繰士が最後の言葉を残す。
 光の刃によって翼を切り裂かれ、あるいは真っ二つにされ、オルネイスが1機、また1機と地上に落ちていく。
 目にも留まらぬ速さの飛行型に比べ、デュナだけが全くスローに見える。が、寄せては返す波の動きにも似た、滑らかで変幻自在なクレヴィスの攻撃は、いとも簡単に敵をとらえていく。
 ――なぜ当たらないんだ!? 俺たちは幻でも見ているというのか?
 ナッソス家のエクターも必死に反撃する。しかし、矢のごとく襲来するオルネイスの鈎爪やくちばしは、いつも紙一重のところでデュナの残像を突くに過ぎない。
 もどかしい思いで睨んでいる敵部隊の指揮官。彼は心の中で叫んだ。
 ――だから構うな、散らばれと言っている! 速さの違いを生かして振り切り、敵艦に攻撃を集中しろ!!
 なおも30機前後のオルネイスが乱舞し、クレドールに向けて至近距離からMgSが放たれる。
 四方八方から敵弾が炸裂し、クルーたちの身体に伝わる揺れ具合がますます強くなっていく。

 戦況を見守るヴェンデイルが、動揺した声で言った。
「くそっ、敵の数が多すぎる! クレドールの結界じゃなかったら、とても防ぎきれないところだよ。このままじゃヤバい、艦長!!」
「いくらクレヴィスでも、1人だけでは手が足りないわ。ねぇ、メイたちを呼び戻せば?」
 セシエルが提案するも、その言葉が終わらぬうちに艦長が却下した。この程度の状況など恐れるに足らぬと言いたげに、彼は煙草をふかしている。
「うろたえるな……。そんなことをして守勢に回れば、敵に一気に挽回されてしまうぞ。こちらのアルマ・ヴィオには引き続き敵艦隊を攻撃させる。砲撃の手も緩めるな!」
 他の乗組員たちの声も飛び交う。にわかに高まる危機感。
「バーンとベルセアはまだか!?」
「右舷の結界の一部が破られました! 船腹からも激しい攻撃!!」

 まるで沢山の声が自分に突き刺さってくるかのように、ルキアンには思えた。彼は頭を抱えてうめいた。
「僕は……僕は、戦わなきゃいけない?」
 この窮地の中で、いま新たに何かができるのは彼だけだ。メイたちは敵艦を相手に決死の戦いを続け、クレヴィスは艦隊を守って孤軍奮闘している。
 バーンとベルセアも、空を飛べないアトレイオスとリュコスで無理に出撃したが、決定的な戦力にはなり得まい。
 それなのに、天駆ける翼の騎士アルフェリオンは格納庫で眠り続けている。
 ――じっとしちゃいられない。それは分かってる! だけど、だけど怖いんだ、嫌なんだ。また僕が沢山の人を殺してしまったら……。
 耐え難い焦燥、漠然とした不安、そして恐怖。
 ルキアンには分かっていた。ごく単純に、彼が《ステリアン・グローバー》の引き金を引けば、敵艦隊は一瞬にして消滅するだろう。だが……。
 ――このまま戦いを繰り返せば、僕は《ステリア》の力を自然に受け入れてしまうんじゃないかって、もしかすると、あの恐ろしい力に魅入られて、自分が人間ではなくただの兵器になってしまうんじゃないかって……そんな気がして、気持ちが悪い、怖いんだ!!

 ――それでも、あなた自身が選んだのでしょう、この場所を。

 思いもかけず、精神の奥底から語りかける何かがあった。あの《声》だ。
 深く沈んだ彼女の一言は、少年の心を、核心を貫いた。
 何も答えられぬルキアンに謎の声は告げる。
 ――そしてあのときも、あなたは自らの意志で《力》を望んだ。大切な人たちを守るために、自分の未来を取り戻すために。だから私は応えた……。
 ――応えた? それはどういう意味……。あなたは一体誰なんだ?
 沈黙した彼女に対し、ルキアンは無気になって尋ねる。
 ――ぼ、僕には分かってる。あの黒い服の女の人なんだろ!? 僕に、僕に何をさせようというんだ?
 謎の声は答える。
 ――あなたはもう、《むなしさ》も《闇》も恐れないのでしょう? 闇の中の光を自分の手でつかみ取るのだと、そう誓ったはず。
 それは今朝、クレドールに乗り込む際にルキアンが人知れず決意したことだ。
 ――なぜそれを? 僕の心が読めるのか!?
 ――私は何でも知っている。ずっと見守っていたから。
 ――僕を、ずっと前から……?
 ルキアンは言葉を失う。
 そして不意に思い出した。何故か。あの暗い夜、うち捨てられた礼拝堂で、冷たい石像にすがりついていた自分の姿を。
 その哀しい回想と彼女の声が重なる。

  あなたがどんなに孤独なときも、私はそばにいる。
  たとえこの世界で、あなたひとりが虚ろな存在になっても。
  この世の全ての光が、あなたの傍らを通り過ぎようとも。
  だから恐れずに心の目を開いて、私に気づいて。

「こんなことが……」
 ルキアンは不信感すら忘れ、声を上げて嗚咽しそうになった。本能的な次元で、不思議な説得力が彼女の声にはあったのだ。
 が、ここは戦場のただ中、必死にこらえる。歯を食いしばり震える唇の上を、涙が流れ落ちていく。
 雫とともに。彼の脳裏で例の人影がはっきりした形を取り始めた。
 その身を黒い衣に包み、風に長い髪を揺らす女。
 哀しみに凍り付いた面差しの中、彼女は眠り込むように目を閉じた。
 また羽根が、幻影の中でひらひらと揺れる。それらは次第に数を増し、雪のごとく舞い散る。いつの間にか彼女の背には白い翼があった。
 ――今のままでは、私にはただ見守ることしかできない……。
 ――分からないよ! どこにいるの? どうすればいいんだ!?
 ――それは……言えない。でもあなたには分かるはず。
 呆然とするルキアンには、もはや砲撃の音も激しい揺れさえも届かなかった。

 そんな彼の姿を艦橋の入口から密かに見つめている者がいた。
 ほの暗い廊下の向こう、白いドレスの少女は歯をむき出して笑う。
「くすっ……」
 乱れた前髪を垂らしたまま、硝子玉のような目を丸くして、エルヴィンがじっと立っている。
「知ぃらない、っと」
 無邪気な子供のように彼女は言った。虚ろな表情で頬を緩めながら。

 ◇

 黒衣の女の姿を、ルキアンが鮮明に思い描いた瞬間。
 それに呼応して何かが起こっていた。
 場所は何処か? いくつかの声が得体の知れない暗闇を揺るがす。

 ――感じる。かつて《あの男》に仕えし者が、いま再び目覚めるかもしれぬ。
 異界からの呼び声か、あるいは亡者の歌を思わせる不気味なささやき。
 ――確かに感じる。あの男が死して遙かな時を経た今、なおも我らに仇なすつもりか。
 代わる代わる言葉が交わされるにつれ、青白い炎が次々と宙に現れて、暗黒をかすかに照らし出していく。
 薄暗い光に浮かび上がるのは、あの奇怪な黄金仮面たち。
 彫りの深い女の仮面を被った者が、かすれた声で嘲笑う。
 ――人の造りし《パラディーヴァ》の分際で、思い上がったことを。
 ――しかしパラディーヴァの力を得て、万一、《あれ》が元通りに復活することにでもなれば……。
 目以外には鼻も口もない、ひときわ異様なマスクの者がそう告げた。
 長いくちばしを持つ鳥のような仮面が、冷ややかに応じる。
 ――もはや有り得ぬ。《主(マスター)》なきパラディーヴァなど、恐れるに足らない存在だ。
 老人の仮面を付けた者が最後にこう言った。
 ――だが用心するに越したことはない。《覚醒》を急がねばなるまい……。

 ◇ ◇

 爆音すら切り裂くような遠吠えが、長く尾を引いて戦場を駆けめぐった。
 鋼色の肌を持つ巨狼、リュコスがクレドールの甲板に姿を見せる。
 ――頼むぜ、相棒。落っこちるなよ!
 己自身の心に語りかけるかのごとく、ベルセアが念じる。
 だが精悍な狼のイメージに違わず、リュコスは無口だ。《彼》は思念による言葉を発することなく、第二の遠吠えによってベルセアに答えたのみ。
 アルマ・ヴィオにとっては手狭な飛行甲板の上を、鋼の狼は器用に飛び回る。轟音を立てて飛来するオルネイスの群れに、リュコスの背中の砲塔から火炎弾が炸裂する。
 数でまさる敵方の反撃も凄まじい。雨のように降り注ぐMgSをかわしつつ、リュコスは新たに装弾してチャンスをうかがう。
 5、6機のオルネイスがクレドールに近づいては離れ、波状攻撃を繰り返す。
 もどかしそうに牙をむき出して、リュコスがうなった。
 ――こっちは分が悪いんだ。落ち着け。
 気の荒い愛機をなだめるベルセア。

 ――すまねェ! マギオ・グレネードの装着に手間取っちまった。
 少し遅れてバーンのアトレイオスも現れた。
 青色の分厚い甲冑をきしませ、慎重な足取りでリュコスの隣に並ぶ。その腰回りには手榴弾のようなものがいくつもぶら下がっている。
 ――それよりバーン、来たぞ!!
 ベルセアが鋭く言った瞬間、敵の飛行型はすでにアトレイオスに向かって爪を立てていた。
 かろうじて回避するバーン。だが彼の《蒼き騎士》は、すれ違いざまオルネイスに肩を蹴飛ばされ、後ろ向きに転がり落ちそうになる。
 ――くそっ! 半端じゃネェ速さだ!!
 バーンは機体をリュコスに寄り掛からせ、何とかバランスを保つ。おかげでリュコスの足元まで危うくなったが。
 ――おい、気を付けろ! もう少しで2人とも真っ逆さまだったぞ。
 ベルセアがどやしつけた。
 ――ンなこと言ったって、狭いんだからよ。くっ、また来やがった!!
 アトレイオスが左腕をかざすと瞬時に光の幕が現れ、盾状に広がる。
 敵の凍結弾がMTシールドに妨げられ、無数の氷の粒となって空に散った。
 ――ベルセア、これで借りはチャラだな。へへ。
 ――調子のいいヤツ……。ま、恩に着るぜ。
 甲板の上で2体のアルマ・ヴィオが窮屈そうに戦っている様子は、傍目には滑稽でさえあった。が、空中戦に陸戦型まで動員せねばならぬ現状は、クレドールの苦境を物語っている。

 艦橋の窓に食いつくようにして、ルキアンはバーンたちの様子を見つめる。
 ――あ、危ないっ!!
 味方のアルマ・ヴィオが甲板から落ちそうになるたびに、彼は思わず目を閉じてしまう。まったく心臓に悪い。
「このままじゃ、このままじゃ……。でも、でも……」
 絞り出すような声でわななくルキアン。
 ――僕は自分から戦場に飛び込んだんだ。クレヴィスさんは、僕に戦わなくてもいいって言ったけど……やっぱり、見ていられないよ。でも……。
 彼は何度も首を振り、拳を握り締めた。
 ――コルダーユの沖で初めて戦ったとき、僕は自分の意思とは無関係に戦いに巻き込まれた。取り返しの付かないことをしてしまったけど、沢山の人たちの命を奪ってしまったけど……どうしようもなかった。身勝手だけど、仕方がなかったって、僕は自分に言い訳している。《パラミシオン》で二度目に戦ったときには、相手のアルマ・マキーナには人間が乗っていなかった。だから僕は誰も殺さずに済んだ。だけど今度は、そのどちらとも違う。
 そう、ルキアンが恐れているのは……。
 ――いま出撃すれば、僕は《自分自身の意思で》人を傷つけに行く、いや、《殺しに行く》ことになってしまう。もう言い訳なんてできなくなる。それでも《優しいままでいたい》なんて言ったとしたら、僕は偽善者だ。僕は嫌だ! 偽善者は悪人より醜い!!
 苦悩する少年の心。その青き硝子の刃は、かたくななまでの純粋さゆえに、自らをも容赦なく傷つけてしまう。
 彼は我に返って、あの《声》に尋ねた。答えが返ってくるとは期待せず、独り言さながらに。
 ――ねぇ、どうして人は争わなきゃいけないの!? どうしてみんな、穏やかなままで暮らしていけないの?
 ――それは違う。人は、本当は穏やかな心のままでいたいのだと思う。
 予想外に声は答えた。だがその言葉には、彼女らしからぬ激しい感情が、何者かに対する底知れない憎悪がみなぎっていた。
 ――しかし、人がそれぞれ大切にしている《小さな自由の庭》を、あたかも我が物のように踏み荒らす者たちがいるから。自分の身勝手のままに、他人にだけ犠牲を強いるような人間がいるから……だから、人は穏やかなままではいられなくなる。そのような者たちさえいなければ、《不本意な戦士たち》は剣を手に取る必要もなく、ずっと微笑んでいられた。平和の中で心静かに、けれども真摯に自分自身へと近づこうとする穏やかながらも懸命な生き方を、ただ、それを無法に乱されぬことを……そんな小さな願いを大切にして、彼らは生きていただけだった。
 何か昔のことを回想しているかのような彼女の口振りが、ルキアンには少し気になった。が、そんな小さな疑問にとらわれている時ではない。
「僕には難しくて、ちょっと分からない。だけどこれだけは言えるかもしれない。戦うことは平和を乱す。でも戦わなければ平和そのものが壊されてしまう。だったら……」
 ルキアンは哀しげにうつむいた。一瞬、諦めきったような笑みが口元に浮かぶ。それはひどく自虐的に見えた。
「本当はね、本当はね、分かってたんだ。戦うことは、すごく嫌だよ……。だけど、穏やかな思いが蝕まれていくのを、優しい人たちの微笑みが失われていくのを……この国がどんどん荒んでいくのを黙って傍観しているだけなんて、僕はもっと嫌だよ。こんな戦争なんて早く終わらせなきゃいけないんだ。そのために必要だというのなら、僕も反乱軍や帝国軍と戦う」
 たった独りでつぶやくルキアンの姿は、病的で危なげだった。だがそこには、一種の悟りにも似た強固な決意が込められている。
 ルキアンの心中に浮かんでいたのは、一昨日に彼が上空から初めて中央平原を見たときの、夕暮れに染まる果てしない世界の光景だった。
 あのとき己の胸の内から自然にわき上がった願いを、祈りにも似た言葉を、彼は思い起こす。《再び世界に安らぎを取り戻すために。そして、僕とみんなのそれぞれの未来のために。そう、みんなが微笑んでいられるように……》。
 だが一転して彼は現実に心を引き戻さざるを得なかった。
「悲しいよね。人間って。どうして気の遠くなるような時が過ぎても、人は分かり合えなかったのかな? 人はこの世界を一度終わらせてしまったのに……《旧世界》が滅びたのに、それでも僕たちは何も学べなかったのかな?」
 長い吐息の後、窓辺に屈んでいたルキアンは立ち上がる。
 彼は艦長の側に戻った。皮肉なほど晴れ晴れとした少年の顔つきは、異様でさえある。
 真っすぐに伸びる華奢な背中。赤く潤んだ目に澄んだ輝きを漂わせ、ルキアンは落ち着いた声でカルダインに言った。
「艦長、僕も戦います。空を飛べるアルフェリオンなら、クレドールを守るために少しは役に立てると思います。出撃許可をください」
 カルダインは煙草をもみ消し、重々しく頷いた。
「……好きにするがいい。それがこの船の流儀だ」
 あまりにもあっさり告げた後、艦長は自分の仕事に専念する。隣でルキアンが語り始めたことなど、無視しているふうにも見える。
 けれどもルキアンにはそれで構わなかった。
「僕のやろうとしていることが良いか悪いかは分かりません。だけど少なくとも間違ってはいないと思う……いや、そう《信じて》います。僕も僕なりの仕方で戦います。だけど僕は《ステリア》の闇に心を売り渡したりはしません」

 唐突に駆け出すルキアンを、ヴェンデイルが呆気にとられた様子で見ている。わずかな間に、ルキアンの姿はたちまちブリッジから消えた。
「セシー。どうしたんだろうな、ルキアン君?」
 怪訝そうな顔で振り向くヴェン。
 セシエルは上品な含み笑いを浮かべて答える。
「さぁ、分からないわね。でも彼なりに何かを見つけたのかもしれない。それよりヴェン、よそ見せずに見張ってくれないと困るじゃないの! 真っ正面から弾が飛んできたら、どうするつもりよ!?」
「へぃへぃ……」

 ◇

 アルフェリオンの操縦席、すなわち《ケーラ》に身を横たえたルキアン。
 彼は荒くなった呼吸を整え、心臓の鼓動が落ち着くのを待つ。もう一度深く息を吸い込み、それから呼気と共に身体の力を頭頂から指先まで自然に抜いていく。
 カルバのもとで修行していたとき、ルキアンはアルマ・ヴィオに乗るのが嫌いだった。特に搭乗直後、ケーラの中で己の肉体から《離脱》する瞬間が気持ち悪くて仕方がなかったのである。
 堅く閉ざされた金属の小部屋は、細身で中背の彼にとってさえ窮屈この上なく、真っ暗で、息苦しい。いかにも棺を連想させるケーラの中、自分の身体はこのまま二度と目を覚まさぬのではないかと、ルキアンはいつも心配に思ったものだ。
 だが今は違う。どういうわけか、あの得体の知れない不安を感じていない自分に、彼は気づいた。
 ――奇妙だな。こうしていると気分が落ち着く感じさえする。他のアルマ・ヴィオに乗っているときとは全く違う……。まるで、ケーラが僕の身体を優しく包んでくれているようで、とても安心する。この不思議な安心感を、ずっと昔、僕はどこかで感じていたような気がするんだけど……。でも、おかしいな。子供の頃から、そんな暖かさなんて僕には無縁だったはずなのに。
 彼はケーラの壁面に沿って指を滑らせてみた。金属の肌はひんやりと冷たい。精密に刻み込まれた魔法陣の呪文、異界の精霊たちや自然の諸力を象徴する様々な紋章。

 ◇

 同じ頃、医務室にて。
 シャリオは机の上で両手を組み、そこに額を寄せかけて沈思する。
 《塔》の旧世界人の日記――クレヴィスが友人から得た新しい情報をもとに、彼女は頭の中を整理していた。
 目を閉じたまま、シャリオは微かな声でつぶやく。
「《大きな樹》の昔話が、実は旧世界の……いや、《天上界》の滅亡について語る寓話であるということは、確実になってきたと言っても良いでしょう。あの日記に書かれている事実も、昔話の中身とある程度の整合性があります」
「あのぉ……。シャリオ先生、何をぶつぶつおっしゃってるんですぅ?」
 とても交戦中とは思えぬとぼけた声は、言うまでもなくフィスカのものだ。彼女は包帯や軟膏などを、当座に必要な分だけ棚から下ろしている。
 さきほど、クレドールの砲台ブロックで軽い負傷者が出たという話も伝わってきた。戦いがさらに激化するようであれば、じきにこの部屋へと運び込まれる者もいるだろう。
 シャリオも万端の準備を整えて待機していたが、その間も旧世界のことが頭から離れない。
 ――わたくし、医師として失格ですわね。こんな大切なときに……。
 彼女はフィスカに聞こえぬよう、そっと溜息をつき、目を伏せる。
 が、次の瞬間には、シャリオの気持ちは再び伝説の中に埋没してしまった。錯綜する旧世界の謎の糸を、彼女は丹念にほどき、あるいは新たに結びつけていく。素早くペンを走らせ、シャリオは自分の推理をメモに書き付ける。

  ・大きな樹→世界樹 地上界と天上界とを結ぶ施設。巨大な塔か?
  ・地上の少年→地上人?
  ・雲の上の王→天空人 あるいは天空人の王か?
  ・雲の上の城→天空植民市群

 返事をしてもらえぬフィスカが、寂しそうに、そのくせ興味津々といった目つきでシャリオの側を行き来している。
 見かけによらず働き者の看護助手。その甲斐甲斐しい仕事ぶりを、ふわりとした金の巻き髪の少女が見つめていた。
 メルカである。部屋の隅に置かれたソファーに腰を下ろし、彼女は両手を膝の上で可愛らしく揃えている。見慣れぬ器具や薬瓶などが次から次へと現れる様子を、彼女は小首を傾げて眺めていた。少しは元気になったようにも見えるが、相変わらず口を堅く閉ざしたままだった。

 ◇

 ルキアンは目を閉じ、アルフェリオン・ノヴィーアの心に語りかけ始めた。いわばそれは、アルマ・ヴィオに《鍵》を差し込んで起動する作業のようなものだ。
 彼が瞑想を深め、思念を夢幻の世界へと解き放つにつれて、ケーラの壁面が青白い光を帯びていく。
 静かな浮揚感に抱かれながらルキアンは思った。
 ――遠い昔、どんな人がアルフェリオンに乗っていたんだろう?
 現在(いま)となっては答えられる者もない問い掛け。
 ――誰がアルフェリオンを作ったんだろうか? 何のために? いや、何のために……だなんて愚問かもしれない。結局、アルマ・ヴィオは兵器だから、戦うために作られたと言えばそれまでかもしれない。だけど、何のために? 何のための戦いだったのだろう?
 ルキアンは、旧世界を滅亡させた戦争のことを想像する。
 禁断の《ステリア》の力を与えられた兵器たちは、古代の魔法科学文明を結果的に崩壊させ、歴史をいったん振り出しに戻してしまった。三千年近くも続いた《旧陽暦》の終わりである。

 大地を舐め尽くす火の海。揺らめく光焔の向こう、《クリエトの石》で作られた高き《塔》が無数に屹立する。天を貫く塔の数々は、黒く焦げ付き、傾いて、崩れ落ち、壮大な古代都市は灰燼に帰していく。
 炎の中にそびえる影。
 輝く6枚の翼を背負った《巨人》が、光の剣を高々と振りかざす。
 怒れる天の騎士の剣は、彼方にまで連なる塔をひと振りでなぎ倒し、底知れぬ深さの地割れだけを跡に残す。北の神話にある大蛇のごとく、光の帯は獰猛にうねり狂い、立ちふさがるものを情け容赦なく切り裂いた。
 ついに白銀色の鎧が不気味な音を立てて開き、終焉をもたらす閃光が解き放たれようとする。ステリアの滅びの力が、旧世界の頭上に致死的な呪いを投げかける瞬間……。

 ルキアンは、あの悪夢を想起するよりほかなかった。ネレイの街を発つ日の朝、彼が見た暗示的な夢を。

 全てが終わった世界。
 寒々とした風だけが吹き抜け、何ら目の前を遮るものも無い。
 がらんどうの青空。
 流れ行くちぎれ雲が、荒涼感をいっそうかき立てていた。
 天上の青の元にあるものはただひとつ。
 真っ赤な鮮血の海が、ひたひたと音を立て、際限なく広がる。
 あらゆる命が沈黙し、時の止まった国。

 ◇

 クレヴィスに手渡されたメモを見据えながら、シャリオは思わず息を詰めていた。何度読んでも衝撃的な内容だ。
 ――この《エインザール博士》という人物が、《空の巨人》の生みの親にして、同時にその乗り手……。副長のお考えのように、空の巨人を昔話の《雲の巨人》と同じものだと仮定してみるのも面白い。確かに、そう考えてみると話が上手くつながりますね。
 彼女はもう一度、日を追って天空人の日記を読み返す。天上界にとって戦況が次第に悪化していく様子が、簡潔な文章の中にもうかがえる。
 ――エインザールの《赤いアルマ・ヴィオ》、つまり《空の巨人》が地上軍に寝返った結果、それまで優位に戦いを進めていた天空軍は劣勢に追いやられていくことになった。恐らく従来は地上軍の手の届かなかった天空都市も、空の巨人の攻撃によって戦場に変わってしまった。その結果、天空軍は天上界と地上界の双方で敵の猛反撃を受けることに……。本来なら《世界樹》を通らない限り、天空植民市群に達することはできなかったのでしょうね。しかし、空の巨人にはそれが可能だった……まさにその《紅蓮の闇の翼》によって。

 ◇

 ルキアンの心は、言いようもない空しさに満たされる。
 ――アルフェリオンを作り上げた、いにしえの科学魔道士よ。何もかもが息絶えた空っぽの世界が、あなたの望んだ新しい世界だったのですか? そんなことは……ないですよね。だって、もしそうだったなら、アルフェリオンは旧世界を滅ぼすために生まれてきた悪いアルマ・ヴィオだというのですか!?
 古代の超兵器に対して、ルキアンはやはり不安を払拭し切れていない。
 だが、他方でクレヴィスの言葉が思い出された。
 ――正直言って、このアルマ・ヴィオには何か良からぬ力を感じます。ある種の闇を……。しかしそれと同時に、この翼を持った騎士は、強い輝きをも内に秘めている。ステリアの巨大な力が光と闇のいずれに傾くのか……私には、ルキアン君がその鍵を握っているような気がするのです。
 ――でも僕はあのとき、怒りに我を忘れ、ステリアの力に心を奪われた。
 ルキアンはパラミシオンでの戦いを振り返る。同時に意識にのぼったのは、例の《塔》で遭遇した残虐な人体実験の爪痕だった。
 ――あんなことを再び目にしたとき、僕は自分の怒りを抑えることができるだろうか?
 自問する彼の脳裏に、できれば記憶から消し去ってしまいたい、地獄絵図さながらの光景が甦る。旧世界の繁栄の陰で行われていた悪魔のごとき試み……。

 ひび割れたカプセルの中、白く濁った液体に浸って腐乱する標本。よく見るとそれは人の体に似た姿をしていたが、もはや崩れ落ちた肉塊からは、その原形は想像し難い。強烈な腐臭が周囲を支配している。吐き気どころではなかった。脳髄まで死のにおいが染みわたり、気がふれてしまいそうだ。
 溶け出した臓物の塊としか言いようのない生き物が、むき出しの神経で床に触れ、血や粘液をこびり付かせながら這いずり回る。《それ》はすきま風に似た音を立て、声にならぬ声で何かを伝えようとしていた。
 あるはずもない部分に腕や脚を移植され、いびつに腫れた顔をもつ生き物が、縫合された唇を歪ませて苦しげにつぶやく。助けてくれ、殺してくれ、と。それは、どれほど変わり果てていようとも、人の顔を持っていた。
 ――もう嫌だ! 思い出したくない!!
 ルキアンは心の中で叫んだが、幻影は止まない。
 馬と無理矢理に融合させられた中年男が、一切の光を失った虚ろな瞳を彼に向けた。灰色に濁り、もはや意思の力の全く感じられない目。
 汚水にまみれた水槽の中、体中からチューブや配線を生やした人魚が、いや、下半身を魚に変えられた眼鏡の男がのたうち回っていた。分厚い強化ガラスの向こうから、彼はルキアンに向かって必死に手を伸ばそうとする。
 殺してくれ、早く楽にしてくれ、という幻聴がルキアンの脳裏一杯にこだまする。
 そして、凄まじい憎しみとそれ以上の哀しみに満ちた空気。《塔》の最上階を覆い尽くす冷え切った妖気の感触が、今なお肌を突き刺すかのごとく、ルキアンの記憶に染みついていた。

 ◇

 シャリオの頭の中に、1人の旧世界人の名前がこびりついて離れなかった。
 ――エインザール。それにしても、この人物は不可解です……。
 彼女は頭を抱えたまま、しばらく眠ったように動かなくなる。
 ――あの神をも恐れぬ《アストランサー計画》に対し、自らも関係者だったであろうエインザールは、たった独りで抗議した。しかし受け入れられず、最後には実験台となった者を逃がすという実力行使によって、計画を阻止しようとした。その結果、彼は反逆者の立場にまで追いつめられてしまった。わたくしが恐れていた通り、やはり他の天空人たちはこの計画を容認していたか、あるいは無関心だったのか、知ることができなかったのか……。ともかくエインザールは、異常であることが正常となってしまった天上界にあって、唯一、正常な神経の持ち主であったがために異常者の立場に置かれ、売国奴という烙印までも押されてしまった。エインザールは、本当は勇気ある良心の人だったのかもしれません。ただし、それは一方の顔であって……。
 シャリオが頭を上げると、心配してのぞきこんでいるフィスカと視線がぶつかる。白衣の娘は丸い目をますます大きく開き、心配そうな表情で尋ねた。
「先生……大丈夫ですか? お疲れみたいですけどぉ」
「ありがとう。少し考え事をしていただけですよ」
 シャリオは机に向かったまま、フィスカの背中を軽く叩き、柔和に微笑んだ。
 それを真に受けて頷くと、鼻歌混じりに離れていくフィスカ。
 他方、シャリオはすぐに難しい顔つきに戻った。
 ――エインザールのもうひとつの顔は、容赦なき破壊者・殺戮者でもあった、と言うべきなのでしょうか? この日記の叙述による限り、彼は空の巨人によって天空都市を次々と壊滅に追いやり、多数の同胞たちの命を無差別に奪ったことになります。なぜエインザールは、単にアストランサー計画を阻止するだけでは満足せず、地上軍に手を貸したのでしょうか? しかも地上人ではない彼が、ただ天空軍と戦うのみではなく、あたかも天上界を滅亡させることを望んでいるかのように、執拗に攻撃を試みたのは――あるいは、実際に滅亡させてしまったのかもしれない――何故だったのでしょう? まだまだ裏がありそうな話ですね。いいえ、わたくし、重大な何かを忘れているような気がしてならないのですが……。
 シャリオは理由も分からぬまま寒気を感じた。近い将来に対し、漠然と嫌な胸騒ぎがする。
 神官として年若い頃から修行で研ぎ澄まされてきた精神と、神聖魔法の使い手としての天性の霊感とを、見事に併せ持つシャリオ。そんな彼女の直感は、単なる思いつきや虫の知らせなどとは本質的に異なる。それを予言と呼んでも、あながち大袈裟ではなかろう。
 ――そういえば、《樹》の昔話の中に、ひとつだけ全く意味の分からない言葉がありました。雲の巨人を裏切りに走らせた《悪い妖精の娘》。雲の上の人たち、つまり天空人がみな死滅してしまえばよいのにと望んでいた、恐ろしい娘……。この《妖精》というのは、当時の何を、あるいは誰を暗に例えているのでしょう? 天上界の壊滅を望み、雲の巨人を動かしたと言っても、《娘》だというからには、エインザール自身を指すわけはあり得ない。エインザールの《博士》という肩書きが古典語の男性形になっていますから、間違いなく男性だったはず。それでは一体、誰のことを?
 彼女は白い法衣の胸に手を当て、神々の聖なるシンボルを握り締めた。
「何も起こらなければよいのですが……」

 ◇

 ――ひょっとすると、旧世界は神に見放されても仕方がなかったかもしれない。人々が滅びを迎えようとしていたとき、だから神は救いの手を差し伸べなかったのかもしれない。神の御慈悲がいかに深いものだとしても。人の罪はそれ以上に重すぎたのだろうか。
 ルキアンはそうも思った。そして恐ろしい考えがふと頭によぎる。
 ――万が一、アルフェリオンが旧世界に破滅をもたらす死の天使であったのだとしても、それは……。でも仮に僕が、当時のアルフェリオンの乗り手の立場だったなら、旧世界に向かって剣を振り下ろしていただろうか? ステリアという終焉の剣を。でもそれは、人が手にしても良い力だったのだろうか? 旧世界は決して償えぬ罪を背負っていたかもしれないけれど、だからといって、人が人を裁き、自らの手で旧世界に滅びという罰を与えることなど、そこまでも果たして神がお許しになったのだろうか?
 考えれば考えるほど、ただ妄想と憶測が深まっていくのみだ。今は旧世界に思いをはせている場合ではない。ルキアンは再び精神を集中し、クレヴィスがネレイで語った言葉を最後に反芻した。
 ――大いなる災いと呼ばれたステリアの力は、アルフェリオンと共にいま蘇りました。あなたは、その重大さをどれだけ理解していますか? ルキアン・ディ・シーマー君……。
 心がアルフェリオンの身体と同化し始め、薄れゆく意識の中で、ルキアンは自答する。
 ――ステリアやアルフェリオンが、旧世界の人々にとって、本当に忌まわしい災いだったのかどうか、僕には分かりません。でも、たとえ本来のアルフェリオンが悪魔の権化であろうと神の御使いであろうと、このアルフェリオン・ノヴィーアがそのいずれになり得るのかを決めるのは、結局、僕……ということです。その計り知れない重さは理解しているつもりです。だからこそ、その重圧が怖くて、怖くて決意ができなかった。だけど……。
 兜の下でアルフェリオンの目が赤く光る。
 白銀の鎧をきらめかせ、甦った旧世界の騎士が立ち上がる。
 少し念信に慣れてきたルキアンは、ブリッジに声を送った。
 ――こちら、ルキアン・ディ・シーマーです。あ、あの? セシエルさん、セシエルさんですか?
 ――了解。よく聞こえてるわ。甲板への上昇装置を動かします。規定の位置に移動して。仕組みは分かってるわね? 飛行甲板の上でアトレイオスとリュコスが戦ってるから、外に出たらぶつからないように気を付けて。頼んだわよ、ルキアン君。
 ――分かりました。いや、了解……。アルフェリオン、出撃します!!
 自分の覚悟を確かめるかのように、ルキアンは生身の時よりも大きな《声》で叫んだ。
 アルフェリオンの頭上にあるハッチが開き、眩しい光が降りてくる。
 徐々に上昇していく機体。
 青い空が見えた。このアルマ・ヴィオにとっては久しぶりの眺めだ。
 白いアルフェリオンは、風を感じながら背中の翼を開き始める。折り畳まれている6枚の羽根が、複雑な上下動を経て精悍な姿を取り戻した。
 性別を感じさせぬ、詩を吟ずるかのような口調のノヴィーアの声が、ルキアンの胸の内に浮かび上がる。
 ――機体各部のチェック終了。異常なし。パンタシア変換最大値、上昇中。ステリア系起動に必要な臨界値には達していません。通常の動力系を使用します。
 ――構わないよ。この戦いでは、ステリアの力は使わない。
 ルキアンは静かに誓った。

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