HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第23話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  野蛮な者よ、人間は獣ではない。
  だから時には憎しみを抑えて剣を引かねばならぬ。
  偽善の者よ、人間は天使ではない。
  だから時には痛みをこらえて剣を取らねばならぬ。



 草原の地平に太陽が姿を隠し始めた頃、夫に代わって農園の監督に当たっていたシャノンの母が家に戻ってきた。
 よく日に焼けた、逞しそうな黒髪の女性だった。シャノンやトビーの瞳は母親譲りなのだろう――明るく意志の強そうな、大きな濃褐色の瞳がルキアンを見つめている。彼女の発散する溌剌とした空気は、家の中の雰囲気を瞬く間に変えた。まるで子供みたいに元気な人だ、とルキアンは思った。
 彼女が盛んに勧めたので、ルキアンはシャノンたち親子と一緒に食事をすることになった。戦いのことを考えれば、そう悠長なことをしている場合ではないのかもしれない。しかし恩人たちの好意を断れるだけの世慣れた振る舞いも、あるいは押しの強さも、ルキアンは持ち合わせていなかった。
 彼は促されるまま食卓に着く。
 シャノンとその母親が台所に向かった後、ルキアンは溜息か呼気か分からぬ曖昧な息を吐き出した。
 ――中央平原の人って、開放的だとか旅人に親切だとか言われているけど、シャノンもお母さんも、不用心なほどに親切だな。まぁ、いいか……。どのみち、夜がふけるまでアルフェリオンを動かすのはまずいし。まだ完全に暗くなっていないから、いま起動させればナッソス家の軍に見つかってしまうかも。
 万が一、シャノンの父やカセリナと剣を交えることにでもなれば――という恐れが、ルキアンの小さな闘志を完全に押さえ込んでしまっていた。
 これでは、たとえクレドールに無事に戻れたところで、その後もナッソス家と戦い抜けるのだろうか? 正直な話、ルキアンには自信がない。けれども、今、この瞬間にもギルドとナッソス家との戦いは続いているのだ。
 ――あれから艦隊戦の方はどうなったのかな? クレヴィスさんとレーイさん、ギルドの《三強》の2人までがいるんだから、ギルドが負けるはずはないと思うけど。でも他の人たちは無事だろうか。神様……。セラス女神よ、どうかみんなをお守り下さい。僕たちの仲間だけではなく、カセリナも公爵も、シャノンのお父さんも、ナッソス方の人々も……。
 ルキアンはテーブルの上で手を合わせた。
 が、その悲痛な願いは、本当に神のもとに届かぬ限り実現されはしないだろう。この世の理(ことわり)はそれを許さないだろう。
 祈りの姿勢を保ったままうなだれる彼を、トビーが不思議そうに見ていた。

 ルキアンがあれこれ思いをめぐらせている間に、素朴ながらも充実した夕食が運ばれてきた。付近の農園で栽培されたという春野菜を使ったスープ、同じく野菜の酢漬けの盛り合わせ、川魚の薫製、よく熟成された生ハム、色も形も多様なチーズ等々。
 先日ナッソス城で目にした料理とは確かに比較になるまい。それでも貧しい零細貴族にすぎないルキアンの家では、これほどの食事は祝い事でもなければ口にできなかった。シャノンの父は、いわば農民と貴族との中間に当たる郷士のような人であろうが、そのへんの小貴族よりもよほど裕福かもしれない。
 豆類や香草と一緒に淡水産の魚介類を煮込んだ雑炊が、食卓の中央を飾っている。後で知ったところでは、ミトーニア地方の郷土料理らしい。
「面白い形のエビですね。このあたりで穫れるんですか?」
 雑炊の中に入っている人差し指大のエビに、ルキアンは目を留めた。ずんぐりとして、自分の頭部ほどもある不釣り合いなくらい大きなハサミを持っている。姿は不格好であれ、丸々と肉厚な身は見るからに美味しそうだ。
「うん。時々、裏の川に網でつかまえに行くよ。たくさん穫れるんだぞ!」
 トビーが得意げに答えた。
 中央平原の随所に見られる藻の多いゆったりした小川に、このエビは豊富に棲んでいるらしい。腕白盛りの男の子にとって、この手の小動物はちょうど良い遊び相手なのだろう。
「へぇ、すごいなぁ。僕はトビーと違って海の近くで暮らしていたから――こういう川や湖の生き物はあまり見たことがないんだ。だから珍しくて」
 ルキアンはトビーを眩しそうな目で見つめていた。それからシャノンの母の方に向かい、改めて丁重に礼を言う。
「助けていただいたうえに、食事までごちそうになってしまって……。本当にありがとうございます」
「いやだよ、ルキアン君。そんなに気を使ってばかりいると、私がせっかく腕によりをかけて作った料理も味がしなくなっちまうだろ。でも奥ゆかしい若者だねぇ、ルキアン君は。素敵だよ。あっはっは」
 シャノンの母は大きく口を開けて笑っている。それでも下品な感じはせず、屈託のない人懐っこい雰囲気が表情によく出ていた。
 ――笑顔のある食卓か……。
 赤く茹で上がった川エビを、妙に穏やかな気分で口に運ぶルキアン。
 シャノンたち姉弟は、子猫のように魚を取り合っている。
 その様子を眺めているうちに、ルキアンは自然に口元を緩めていた。
 よそ見をしている隙にトビーに料理を取られ、シャノンが子供のように負けん気になって取り返そうとしたときには、ルキアンもつい吹き出してしまった。
 が、考えてみると、なぜか久しぶりに笑ったような気がする。
 以前、こうして心から笑ったのは、いつの日のことだったろうか……。
 ルキアンは感慨深げに目を閉じる。
 明るい食事風景を前にしながらも、彼の心の中では――笑顔どころか会話すら稀な、孤独に冷え切った食卓や、そこに座ってうつむく自分の姿が、断片的に次々と浮かんでは流れ去った。
 だがそれに続いて、ネレイの街でメイやバーンたちと昼食会を開いたときの光景が、彼の心の中に鮮明に甦った。
 分厚い雲間から射し込む陽光のごとく、仲間たちとの新たな思い出は灰色の記憶をぬぐい去り、ルキアンの心に力をもたらした。
 ――早く帰らなきゃ。僕も自分の戻るべき場所に。クレドールに……。

 ◇ ◇

 日没後まもなく、ミトーニアの要人たちが市庁舎に続々と集まってきた。
 彼らが急ぎ足で消えていく先は、庁舎1階の奥に堂々と広がる《千古の間》だ。この由緒ある広間は、聖堂内部を思わせるドーム状の天井を備えている。しっとりと湿ったような薄明かりの中、シャンデリアの蝋燭が照らし出すのは見事なモザイクによって飾られた床面である。
 色とりどりのタイルが敷き詰められたフロアには、獣や鳥に混じって人間の絵柄も見られる。
 ただし、そこに表現されている人々は、今日とは異なる独特の出で立ちをしていた。幅広い布を身体に巻き付けたかのような衣装。薄衣のベールを頭から被った女性たち。一群の戦士らは、鶏冠さながらの飾りの付いた兜を被り、大きな丸楯と投げ槍で武装している。
 彼らは、現世界の文明が始まった頃の――いわゆる《前新陽暦時代》の人々だ。その名の通り、当時まだ《新陽暦》は用いられていなかった。
 つまり旧世界が滅亡して《旧陽暦》が終わった後、直ちに現世界の《新陽暦》が始まったわけではないのである。両者の間には空白の歴史が存在しているのだが、それがどの程度の年月に及ぶのかについては、専門家の間でも意見が分かれている。極端に短く見積もる説によればわずかに数十年、反対に長いところでは五百年前後とみる学者もいる。
 ともかくイリュシオーネ有数の古都ミトーニアは、現世界の始まりと同程度に古い起源を持つとさえ言われる。そして非常に興味深いことだが、同市の庁舎は実は前新陽暦時代の遺跡の上に建てられており、《千古の間》の床も遺跡の床そのものなのだ。

 自らの足元、果てしない歳月の重みが刻み込まれたモザイクを指し、一人の男が語り始める。広間は静まり、みな彼の言葉に聞き入った。
「諸君。耳を傾けたまえ、この古き遺跡に込められた思いに……。旧世界の過ちを繰り返さぬよう、誓いとともに再び歩き始めた人々の心に」
 そう言って彼は胸に手を当てた。
 見事な口髭・顎髭をたくわえ、大柄で恰幅の良い中年紳士。彼がシュリス市長である。穏和な容貌の中にも威厳を漂わせ、伝統ある大都市ミトーニアの長に相応しい品格を備えている。
「だが、人類の新たな歴史の証人であるミトーニアは――たった今、重大な岐路に立たされている。時間はない。諸君の誠実で思慮深い意見を切に願う」
 続いて市長の傍らの秘書らしき青年が、細身の身体に緊張感をみなぎらせ、いささか強張った声で文書を読み上げる。
「ギルド側の要求は次の通りです。第一に、ミトーニア市は直ちに武装解除し、国王および議会に再び忠誠を誓うこと。第二に、軍事面・財政面その他においてナッソス家へのあらゆる支援を停止すること。第三に、正規軍およびギルドの部隊に対して宿営の場を提供し、必要に応じて補給に協力すること……」
 細い黒縁の眼鏡、楕円型の扁平なレンズの中で、秘書は神経質そうな目をさらに細めた。
 彼が読み終わるや否や、たちまち周囲から不満の声が噴出する。
 市長の隣に副市長らしき2人が座っているが、そのうちの一方が苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「武器を捨てて市門を開けなどとは……。ギルドは早くも勝ったようなつもりになっているのか。事実上、我々に降伏せよと? 馬鹿なことを!」
 激高している彼をシュリス市長がなだめる。
「落ち着きたまえ、アール殿。確かに我々は戦わずして敗れることになる。だがそれはあくまで軍事上の敗北であって、ミトーニアが議会軍やエクター・ギルドの管理下に置かれたり、彼らに屈従させられたりするという意味ではない。ギルドの代表者はこう付け加えている――さきほどの条件以外の点では、ミトーニアの自治権は従来通り保証する、と。しかも今回に限り、反乱に荷担した者の罪を問うことは一切行わないそうだ」
 要するにナッソス家への支援を中止し反乱から手を引くならば、ミトーニア市に対して何らお咎めはないということだ。有利な戦況にあるギルド側にしては随分と思い切った譲歩だが、それはむしろルティーニの計略なのである。
 参事会員たちの間から低いざわめきが起こる。市長は続けた。
「もし戦闘になれば、ギルドの部隊が我々に勝利することなど目に見えているはず。だが敢えてその戦いに踏み切ろうとしないのは……。ギルド側の考えは分かっている。彼らには時間がないのだ。《帝国軍》が到着する前に《レンゲイルの壁》を奪還できなければ、それは彼らの敗北につながるのだから。ギルドとしては、1日、いや1時間たりとも無駄にはできぬというわけだ。仮に我々が最後まで抵抗したとすれば、ギルドの部隊はミトーニアに1日や2日は足止めされることになるだろう。それは避けたいという判断だろうが……」
 このままミトーニア市が反乱を続け、帝国軍の到着前にナッソス城が落ちたなら、そのときには同市も公爵家と運命を共にしなければならないだろう。逆に帝国軍が到着するまでナッソス家が持ちこたえたならば、それは同時にミトーニアの勝利でもある。
 時間との戦いが全てを決めるだろう。破滅か、勝利か、降伏か? いずれにせよ、ミトーニアは市の命運を賭けて決断しなければならない。
 アール副市長が断固として首を振ったとき、その横に座っていたもう一方の副市長、ロランが切り出した。
「損な取り引きではありませんな。今の時点だからこそギルドは我々に譲歩し、こちら側に有利な条件を呈示してきたのです。もしもナッソス家が敗れた後になれば、ミトーニアは交渉のためのカードを一切失います。無条件降伏以外は認められなくなるばかりか、下手をすれば我々の首や市民たちの命も危なくなるでしょう」
「何をおっしゃる? そう簡単に敵の申し出を受け入れるのも……。えぇい、ナッソス軍は何をしているのか!!」
 アール副市長が苛立ちのあまり立ち上がる。
 痩せ形で長身のアールと小太りのロランとは全く対照的で、2人が睨み合う姿には、どことなくユーモラスな感さえ漂っている。
 ロランは手振りでアールをなだめつつ、落ち着いた様子で語った。
「全兵力で城を死守しようとしているナッソス軍には、残念ながらミトーニアの救援に回せるだけの余力はありますまい。いや、そのナッソス家の全艦隊をもってしても、ギルド艦隊に敗れたのですからな。我々の力だけでは万にひとつも勝ち目はありませんぞ」
 今度は市民軍の指揮官が、承伏しかねるといった顔をする。
「しかしロラン殿、一戦も交えることなくナッソス公を見捨てると仰せか?」
 それに対して、市の有力者の銀行家が反論した。
「ロラン副市長の言う通りだ。ナッソス家に最後まで義理立てして、ミトーニアまで共倒れすることもなかろう? 事実上、公爵もミトーニアを見捨てているではないか。エクター・ギルドに街が包囲されても、ナッソス家からの援軍は来なかった」
「では、単に強い方に着けば良いと!?」
 アール副市長が机を叩いてそう言った。
 が、参事会員の中から開き直った声が飛ぶ。
「いかにも。我々は機装騎士(ナイト)ではない――商人だ。城を枕に討ち死にする道理などあるまい。名誉ある死よりも生きて事業に励むことこそ、我々の努め。そうであろう?」
「しかし……」
 全員を見回した後、ロラン副市長が冷静に告げる。
「よろしいですか――敵は海賊や野武士と同様の無頼漢たちです。そんな輩たちに街を攻撃されれば、大変なことになりますぞ。現にカルダイン・バーシュは、《我々は軍隊ではない。それゆえ個々の兵員たちの振る舞いまでも統制することは困難だ》と言ったそうで」
「万一ギルドの荒くれ者たちが略奪に及ぼうとも、知ったことではないというわけか? 恐ろしいことを……」
 街一番の貿易商が顔をしかめた。
 彼と顔を見合わせ、同業者がまことしやかにささやく。
「元々あのカルダインというのは、表向きは旧ゼファイア王国お抱えの冒険商人でしたが、むしろ同国の私拿捕船(*1)団の長として知られていたのです。脆弱なゼファイア軍に代わってタロスの飛空艦を襲撃し、レマール海の南東一帯を荒らし回っていたとか。そんな、空の海賊に等しい男ですから、街のひとつやふたつが灰になったところで眉ひとつ動かしますまい」
 さらに別の参事会員が遠慮がちに同意した。
「そ、その通りでしょう……。このまま包囲戦になれば、逃げ場のない我々はいずれ無頼の傭兵どもの餌食です。いや、最悪の場合、女性や子供たちまで犠牲になってしまう。やむを得ませぬ。彼らの申し出を呑みましょう」
 だが彼が話し終える前から、背後では賛否様々な声が飛び交っている。
「そう簡単に言ってもらっては困る! こちらが条件を受け入れたところで、エクター・ギルドが約束を守る保証などあるのか? 街を開け放ったとたんに、やつらの思うがままに略奪や虐殺が行われるかもしれんのだぞ!!」
「いや、カルダインは仮にも《ゼファイアの英雄》だ。噂では義を重んじる男だと聞く。そんな卑劣なことはしないはず……」
「信じられませんな。むしろ、公爵との交渉にも関わったマッシア伯と話し合う方が良いのでは?」
 戦うか、降伏するか。参事会員たちが口々に意見を戦わせ始めた。
 シュリス市長は目を閉じたまま思案している。
 ――ギルド側は、夜明けまでに返答するよう求めてきたが……。
 彼は懐から金時計を取り出し、それを見つめたまま長い息を吐いた。

 ◇ ◇

 その頃、ギルドの飛空艦隊――クレドール、ラプサー、アクスの3隻は、すでにミトーニア市を主砲の射程内にとらえ、空の高みに巨体を浮かべていた。
 ナッソス軍は飛空艦隊を失い、飛行型アルマ・ヴィオにも多大な損失を出したせいか、もはやギルド艦隊の行く手を阻んでこない。
 敵方の攻撃に備えて、ミトーニア市は照明を極力落としているようだ。そのため市街は闇に紛れ、上空から肉眼ではっきりと確認するのは難しい。ごくわずかに点々と灯りが見える程度だ。

 けれども《複眼鏡》の魔法眼にかかれば、漆黒の原野ですら薄明るく映る。
「完了だね……。地上部隊はミトーニアを完全に包囲した。あれなら子犬1匹抜け出すことさえ難しいだろうね。味方のアルマ・ヴィオの数は、それほど減っているようには見えない。大して被害は出なかったのかな?」
 地上の様子を報告するヴェンデイル。彼の口調にも余裕が戻っている。
 艦橋のクルーたちの士気も、ナッソス艦隊に対する勝利によっていっそう高まっていた。
 エクター・ギルドは、地上戦においてもナッソス軍に対して予想外の大勝を収めたようだ。もっとも、ナッソス軍の主力となる精鋭部隊は、城の防衛のために温存されたままである。今後も同様に勝ち続けられるとは限らない。
 艦隊戦および陸上戦での圧勝にもかかわらず、カルダイン艦長は厳しい顔つきを崩していない。否、むしろ昼間の戦闘のときよりも、彼の表情は険しくなっているようにさえ思える。
 その原因は――ナッソス艦隊との戦いの最中、ようやくクレドールに中継されてきた《ある知らせ》だった。
 口数少なく沈思する艦長に対し、特に返事を期待していないような態度で、クレヴィスが告げる。
「議会陸軍の大部隊に、たった一撃でそれだけの被害を与えるとは……。帝国の浮遊城塞《エレオヴィンス》でもなければ不可能な攻撃です。こうなると、反乱軍もステリア兵器を有しているとしか考えられませんね。ただ、その正体については目星が付きます。現在の我々の技術水準では、ステリアの力を持つアルマ・ヴィオを生み出すことは困難。そうなると……」
 微動だにせぬカルダインを見つめた後、クレヴィスはつぶやく。
 寂しげな、それでいて何かに吹っ切れたような声で。
「運命とでも言うのでしょうか。残念なことですが、どうしてもルキアン君に戦いに加わってもらわねばならない《理由》ができてしまいました。カルバ・ディ・ラシィエン導師の研究所から奪われた《黒いアルフェリオン》は、恐らく反乱軍の手に渡りましたね。成り行きによっては、最悪の事態もあり得るかもしれません」

 ◇ ◇

 何処とも分からぬ薄暗い城の中に、高い靴音が響いていた。
 黴びたような、湿っぽい匂いのする石造りの廊下。
 急いた歩みに合わせて甲冑や剣も鳴っている。
「お待ち下さい!! ここから先は何びとも通すなと……」
「困ります、どうかご容赦を!」
 何人もの男たちの声がした。
 暗がりの中、ランプの明かりに白い胸甲が光った。
 ざわめきの最中、凛とした女の声が響く。
「通して下さい。私はパラス・ナイツの1人として彼女に用があります!」
「ですから、ライエンティルス様のご命令なのです。たとえパラス騎士団の方であっても、と……」
 10数名の兵士たちと、鎧をまとった女が押し問答している。
 肩口で切りそろえた金色の髪と、青いイヤリング、気高い面差し。このような陰鬱な場所には似合わぬ美しい女性だが、他方で沢山の兵士たちを圧倒するほどの気迫を放っている。
 彼女、セレナ・ディ・ゾナンブルームの姿は、あたかも冷たい闇の中に投げ込まれた松明(たいまつ)のようであった。
「愚かなことを。元々パラス騎士団には序列などありません。私はファルマスの部下ではないのですよ。無礼な!」
 清楚で知性的な、それでいて高雅な哀しみを漂わせる彼女の表情に、今や怒りが露わになる。
 兵士たちは思わず後ずさった。セレナがひとたび剣を抜けば――いや、魔道騎士である彼女は、ただ一言の呪文で彼らを永久に黙らせてしまうことさえできるのだから。
 隊長らしき男が進み出て、丁重な様子でセレナにささやく。
「我々の方も、この首がかかっているのでございます。どうかお引き取りを。これはファルマス・ディ・ライエンティルス様のご命令だけではなく……」
 彼はそこでセレナに耳打ちした。
「ご存じではありましょうが、メリギオス猊下のご命令でもあるのです」
 その名前を耳にしては、セレナもひとまず足を止めるよりほかなかった。
 と、廊下の奥から女の高笑いが聞こえてくる。
「あら。誰かと思えばセレナじゃないの。私のせっかくのお楽しみを、いや、大事な任務を邪魔しないでほしいわね」
 相変わらずの高慢な物言いとともに、黒い皮の衣装を身につけたエーマが姿を現した。
「帝国軍も国境にかなり迫ってきたようだし、あの旧世界の娘から《大地の巨人》の起動方法を早く聞き出さないと、大変なことになるわよ。あんた、今の状況が分かってるの?」
 真っ赤な前髪をかき上げ、粘り着くような眼差しで見つめるエーマ。
 セレナの厳しい視線がそれとぶつかった。
「だからチエルさんに会わせて。もう一度、私が彼女を説得してみるから!」
「せっかくだけど、それは無理な相談よ。特にセレナとダンはここから先に決して入れてはならないと、誰かさんも言ってたことだし……。確かに、ご高潔なお嬢様や単純な熱血馬鹿には見せない方が良い場面もあり得るからね」
 嫌悪感のあまり、セレナは声を震わせる。
「は、恥を知りなさい! パラス・テンプルナイツの名に泥を塗る気なの!? もしもチエルさんに酷いことをしたら、私が許しませんから」
「酷いこと? 別にあたしは、あの娘に一滴の血も流させていないよ。まぁ、世の中には、単純な痛みよりもっと耐え難いものがあるんだけど……。じきに観念して吐く気になるだろうさ」
 エーマは唇を舐め、意味ありげな微笑を浮かべる。度を超しすぎて胸が悪くなるような妖艶さだ。
 汚物でも見るように、セレナは不快感をむき出しにして睨み付けている。
 それでもエーマは機嫌を損ねることなく、セレナの肩を軽くなでようとした。
「ふふふ。随分と嫌われてしまったもんだねぇ。貴女とあたしは仲間、もっと仲良くしたいのに……」
 ――何が仲間なもんですか。パラス騎士団の名誉を汚す最低の人間のくせに!
 エーマの手を払いのけるセレナ。
 憤然と立ちすくむセレナに、兵士たちが懇願し始める。
「どうか、お帰りのほどを……」
 だが彼女は、手段を選ばぬメリギオスのやり方に言葉を失っている。

 ◇ ◇

 昼間の晴天を承け、煌々と輝く夜の月。
 たとえ一瞬でも戦乱を忘れさせてくれそうな、柔和な光に抱かれた晩。
 そよ風に乗って弦の音が響いてくる。
 奇妙な比喩ではあろうが――硝子細工の音符を組み上げたかのような、あくまでも澄み渡り、精巧で、一種魔法じみた演奏だった。

 向こうから歩いてくる4人の男が、そのメロディに気づいて足を止めた。
 それはバルコニーに面した小さな部屋から聞こえてくる。
 扉は開かれ、月明かりの射し込む薄暗い室内の様子が見える。
 燈火と月光との神秘的な調和によって、ほのかな黄金色の小世界が醸し出されていた。幻灯さながらに、ほっそりとした少女の影が浮かび上がる。
 真っ直ぐに伸びた背。彼女は薄い肩にヴァイオリンを乗せ、繊細な手つきで弓を操る。
 見事な弓使いは、少女自身のもつ特異な雰囲気をそのまま音に変えるという、類い希なる表現を可能にしていた。
 哀切さに満ちた音色は、空恐ろしいほどに映し出すのだ――どこか残酷でさえあるような、あまりに張りつめ、透徹した彼女の霊光を。ある種のオーラを。
 今のカセリナの姿は、神々しさを一身にまとい、冒し難く崇高であった。
 開きかけた花の命が明日にも散るかもしれぬという極限的な状況が、そうさせていたのだろうか。
 彼女をよく見知っているはずの4人も、思わず息を飲んだ。

 しばらくして、彼らに気づいたカセリナの方が演奏の手を止める。
「そんなところに立っていないで、お入りなさい」
「ご無礼を。お嬢様」
 軽めの甲冑の上にエクター・ケープをまとった男が、恭しく一礼する。
 形良く刈り込まれた口髭が印象的だった。彼は40代ながらも若々しく、武人の雄々しさを漂わせながらも、伊達男のように粋なイメージも同時に持ち合わせている。
「レムロス……」
 彼の名を呼んだ後、カセリナは沈黙した。
 そんな彼女に向けて穏やかに微笑むと、髭の男はよく通る声で告げた。
「ご心配なく。確かにギルドの強さは侮れません。しかし、あと少し……。帝国軍が到着するまで持ちこたえることは、我々にとって十分に可能です。それまでの間、我らが命に代えてもこの城を死守します」
 重苦しい雰囲気を払いのけるように、別の若い男も言う。
「その通り! 俺たちは、永遠に戦い続けなきゃいけないワケじゃない。ほんの4、5日。長くても1週間ぐらいだろ。持ちこたえてみせるさ」
 銀色のリング状のピアスをした若者が、力強くうなずいて見せた。
 おそらく東部丘陵の出身だろう。何本かの腕輪と赤い民族衣装――ある部族の戦士の正装だ――で着飾り、大きく湾曲した刀を腰に下げている。
「俺たちを信じてくれよ、お嬢様」
 彼の明るい表情に、カセリナの頬が微かに揺るんだ。複雑な面持ちのまま、彼女は無理に笑顔になろうと目を細める。
「ありがとう、ムート。これまでたった一度だって、貴方は嘘を付いたことがないものね。もちろん信じてる。だけど……」
 カセリナの目が陰りを帯びる。
「あなたにまで戦ってもらうことになるなんて、ザックス」
 彼女に名を呼ばれたのは、筋骨逞しい中年の男だ。毛むくじゃらの太い腕で、彼は頭を掻いた。
「とんでもございません。しかし照れますな、お嬢様。しばらくお会いしないうちに、ますます美しくなられて」
 ザックスは豪快に笑った。
 だがカセリナはうつむき気味のまま、申し訳なさそうに答える。
「あなたには、奥さんやお嬢さん、息子さんたちと一緒に楽しく暮らしていてほしかった。ザックスが本当に守るべきは、大切な家族だわ。それなのにこんなことになってしまって、何と言って詫びればよいのか……」
「カセリナ様、勿体ないお言葉です。たとえエクターを引退していても、私はいざとなれば殿やお嬢様のために、真っ先に駆けつける覚悟で暮らしてきました。妻や子供たちも分かっているはずです。戦士の家に生まれた者の定めを。あいつらが、私が居ない間もしっかり家を守っていてくれるからこそ、私も安心して戦えるのです」
 言葉を飲み込んだカセリナに代わって、4人目の男がザックスの肩を叩いた。
「シャノンちゃんたちには本当に申し訳ないが、こうしてまた共に戦えるとは。ザックス兄貴……。いや、今は親爺と呼んだ方がいいか。はっはっは」
 彼はザックスとは対照的にすらりとした体格で、見た目も宮廷風に洗練されている。はっきりとした切れ長の二重瞼と骨張った顔が特徴的だ。
「何が親爺だ。まだまだお前のような若造に遅れはとらんさ。いや、そういうお前もちょっと老けたか、パリス」
 ザックスが笑って拳をかざすと、パリスも自分の拳を軽くぶつけた。
「まぁな。ともかく、デュベールが抜けた代わりに兄貴が来てくれたから、ナッソス家の4人衆が新たに揃った。あいつが居なくて、マギウスタイプ(魔法戦仕様)の機体を欠いてしまったのは痛いが、しかし我ら4人揃えば魔法など必要あるまい」
「デュベールのことは責めないで……」
 カセリナが細い声で言う。ほの暗い照明のもとではよく分からないが、彼女は瞼の下で涙を押さえている。
 カセリナを慰めるかのように、レムロスが優しくうなずく。
「勿論です。我々がナッソス家のエクターとして、殿やお嬢様に忠誠を誓っているように、デュベールもギルドのエクターとして己の信念に従っただけです」
「ありがとうレムロス。そして、みんな」
 貴族の姫として毅然と告げるカセリナだが、心の底では嗚咽していた。
 再び楽器を手にする彼女。
 ――デュベール、会いたい……。

 ◇ ◇

 ミトーニアから数十キロほど離れた田園地帯。
 夜の平原を忍び行くアルマ・ヴィオの群があった。
 全て突撃仕様のティグラーだ。どの機体も黒く塗られている。合計で9体。1個中隊ほどの規模だが、正規軍でも反乱軍でもないらしい。
 月の光に照らし出され、稲妻を模した黄色い紋章がティグラーの機体の上に浮かび上がった。
 この紋章を付けた集団は――ナッソス軍の治安部隊が議会軍との戦闘に振り回されているのをよいことに、最近、領内を荒らし回っているならず者たちである。表向きは傭兵団ということになっているのだが、実際には夜な夜な中央平原に出没し、悪の限りを尽くしている。
 噂によれば、彼らの頭目は、あたかも盗賊騎士のごとく堕落した某貴族だという。ナッソス領の全てが同家の土地であるわけではなく、中には小領主の支配する地域も飛び地状に点在する。そのうちのひとつを有する放蕩領主のなれの果てらしい。
 黒いティグラーが走り抜けていく道筋で、赤々と火の手が上がる。彼らは面白半分に村々を襲い、強盗、放火、殺人、強姦、誘拐等々、あらゆる悪事に明け暮れているのだ。
 平時であれば、ナッソス領でそのような行為が許されるはずもない。しかし今となっては、ナッソス城及びミトーニア市の付近を除いては、治安を維持するための力など存在しないに等しい。
 まして今日の昼間以降――ギルドの陸戦部隊がナッソス軍を駆逐してしまったために、この地を守る者はもはや存在しないのである。ナッソス領の大部分は、今や凄まじい無法状態と化していた。
 雄叫びをあげる鋼の猛虎たち。
 ある村を襲った彼らがさらに突き進もうとしている方角には、良く手入れされた農場が広がっていた。広大な畑は、夜間には暗闇の支配する世界となる。その中にぽつんと光る明かりは一軒の家だ。
 この豊かな農園主の住まいを、ならず者たちが見過ごすはずもない……。

 ◇

「美味しかったです。僕、こんなに楽しい夕食は久しぶりでした」
 ルキアンは満足げに言った。
 珍しく平穏さにあふれた彼の表情。それを見てシャノンが笑っている。
「大げさなんだから、ルキアンさんは。でも良かった。一生懸命作った料理を気に入ってくれたみたいで」
「ルキアン君。もしよかったら、当分はここに居てもいいんだよ。遠慮しないで。そりゃまぁ、畑仕事くらいは少し手伝ってもらうかもしれないけど。あはは、いや、畑仕事は冗談だよ――貴族のお坊っちゃんが泥まみれになるなんて、ちょっと困るからね」
 シャノンの母も屈託なく微笑んでそう言った。
 一瞬、ルキアンの心は揺れる。
 ――こんなに楽しくて穏やかな日を、僕は今まで知らなかった。今日みたいに幸せな日々が続くのなら……。
 輝きに満ちた澄んだ目で、シャノンがうなずいている。彼女はルキアンに対してそれなりに――あくまで《それなり》に過ぎないが――好感を抱いているようだ。
「ルキアンお兄ちゃん、魔法使いなんだろ。ねぇ、もうちょっと、この家に居たらいいじゃないか。僕にも魔法教えてよ!」
 姉以上に、トビーの方がルキアンを慕っていた。ちょうど悪ガキが兄貴分を欲しがる年頃なのだ。
「それは、その、できれば僕だって……」
 ルキアンは後ろ髪を引かれながらも、言葉を濁した。
 戦いは嫌だ。誰かと争うのは嫌だ。しかし《あそこ》に居る限り、自分は戦わざるを得なくなる――けれども、心は《そこ》に帰れと命じているのだ。
 心を閉ざし続けるしかなかった故郷とは違う。かりそめの居場所はあっても、人の輪の中で孤独を感じざるを得なかったコルダーユの街とも違う。そして、素朴で穏やかな温もりに包まれたシャノンたちの家とも違う。
 ――あの人たちだけが、本当に僕を分かってくれた。
 クレドールの仲間たちの顔が浮かんでは消える。
 姉貴風を吹かせながらも面倒見の良い、いつも心配してくれていたメイ。
 粗野な中にも良心あふれる、裏表なく本音で接してくれるバーン。
 強面でぶっきらぼうだが、心の底では温かく見守るカルダイン艦長。
 ぞっとするような不気味さの中に、深い悲しみを秘めた美少女エルヴィン。
 キザで気取り屋、でも本当はとても良い男ではないかと思わせるベルセア。
 偽悪ぶって斜に構えながらも、決して憎めないランディことマッシア伯爵。
 感情表現が下手なために冷たい美女に見えるが、本心は優しいセシエル。
 脳天気で何も考えていないようでも、明るく親近感のあるフィスカ。
 一見すると堅苦しい無骨漢だが、隠れた情熱や人間味に溢れたルティーニ。
 恥ずかしがり屋で内気な少女に見えて、大人よりも心遣いのあるレーナ。
 気まぐれな優男だが、実は周囲に気を配るムードメーカーのヴェンデイル。
 まだ他にも。カムレス、ガダック、ノエル、マイエ、ウォーダン……。
 そして敬虔な聖職者として振る舞いながらも、時には優しい姉のように、時には母親のような包容力で、時には魅力のある女性として、ルキアンを導いてくれたシャリオ。
 否、他の誰より――ルキアンが初めて心の底から尊敬できると思った人間、知略を誇る参謀、天才的な魔道士、勇猛なエクター、誰よりも優しく、誰よりも深くルキアンを理解してくれたクレヴィス。
 短い日々を共に過ごしただけであるのに、クレドールのクルーたちとの思い出は、ルキアンの気持ちの中に深く刻み込まれていた。
 ――やっぱり僕の帰るところは、クレドールしかないんだ。ここに留まってひとときの安らぎに触れたとしても、それは本当に一瞬のものでしかない。僕の居るべき場所はここじゃない。
 ルキアンは悲しさと満足感とが入り混じった目で、悟ったように言う。
「ありがとう。見ず知らずの僕に、こんなに優しくしてくれたこと、僕は一生忘れない。でも、僕、やっぱり帰らなきゃ」
 静寂。賑やかだった食卓が沈黙に包まれる。
 彼の答えを予想していたのだろうか、シャノンの母親がうなずいた。
「そうだね。お帰り、ルキアン君。大切な人たちのところへ」
「おばさん……」
「気にしないでおくれ。でも、またいつか遊びに来てよ。平和になったら」
 彼女の差し出した手を、ルキアンはしっかりと握る。
 今度はシャノンが彼の服の裾を引っ張った。
「あの、これ……」
 彼女はポケットから何かを取り出し、ルキアンに手渡そうとする。

 だがそのとき、不意に地震のごとき揺れが伝わってきた。
「これはもしかして。いや、間違いない」
 ルキアンの身体を緊張が突き抜ける。一気に現実に引き戻されたような!
「アルマ・ヴィオがすぐそこまで来ている? それもかなりの数だ」
 ――ナッソス軍が僕を捕まえに来たのだろうか? まさか。それじゃあ、ギルドの人たちが僕を助けに来てくれた? それも話がうますぎる……。
 戸惑う間もなく、家のドアが荒っぽくノックされた。いや、扉をぶち破ろうとしている。これはただ事ではない。
「気を付けて。奥に隠れて下さい。僕、ちょっと見てみます」
 ルキアンはピストルを抜くと火薬と弾を装填した。不慣れな手つきのため、もう少しで火薬入れを落とすところだったが。
「誰ですか? 返事をしてください」
 しかし答えは返ってこなかった。そうする代わりに、破城鎚かハンマーのようなものが扉を強打し、掛け金が弾け飛ぶ。
 ドアが押し倒され、その向こうで獣のような奇声がいくつも上がった。
「な、何ですか、あなたたちは? やめて、やめてください!!」
 ルキアンは壊れた扉で入口を再び塞ごうとする。意味がない。全く落ち着きを失った行動だ。どうすればよいのか彼にも分からなかった。
「静かにしやがれ! ぶっ殺されてぇのか?」
 やくざ者丸出しの口調で誰かが叫んだ。
 ルキアンはその声に思わず後ずさりしかけたが、後ろにいるシャノンたちを守ろうと勇気を振り絞る。
「人の家に勝手に押し入って、そんな無茶苦茶な! 撃ちますよ、無理に中に入ろうというのなら、ほ、本当に撃ちます!!」
 ルキアンは見知らぬ人間の胸元に銃を突きつける。
 だが、こんな時に……。彼はあの光景をまた思い返してしまった。
 《ステリアン・グローバー》が海を引き裂き、ガライア戦艦2隻を跡形もなく轟沈させた忌まわしい光景を。ルキアンが引き金を引いてしまったことにより、数え切れぬほどの人間が海の藻屑と消えた、コルダーユ沖での戦いを。
 ――嫌だ! やっぱり目の前の人を殺すことなんてできない。頼むからあっちに行ってくれ!
 その隙を突いて、ならず者がルキアンの銃を叩き落とした。
 戸惑った瞬間、いきなり頬を殴られて吹っ飛ぶルキアン。
 それを合図にしたかのように、5、6人が家の中になだれ込んでくる。
 彼らは手に手に武器を持ち、大声でわめき立てた。
「動くな! 死にたくなけりゃ、大人しくしていろ!!」
 ルキアンはフラフラと立ち上がり、シャノンたちをかばおうとする。容赦なく拳をぶつけられ、その後に床で頭と背中を強く打ったため、脳震とう気味になっているらしい。不安定な身体はすぐに崩れ落ちかけたが、ルキアンは片膝を突いて懸命に支えた。
「早く、早く逃げて!」
 剣を抜く。もはや必死だ。
 普段なら決して出さないような大声で叫ぶルキアン。だが、重い一撃を腹に喰らって崩れ落ちる。ヒグマのごとき大男が、棍棒で力任せにルキアンを突いたのだ。
「邪魔なんだよ、生っちろい兄ちゃんはネンネしてな……」
 吐き気を催しながらうずくまるルキアンを、別の男たちが取り押さえる。
 立ちすくむシャノンたちに、何本もの銃身が向けられる。
「へへへ。なかなか上玉じゃネェか」
 頬に傷のある若い男がシャノンの頬をなでた。背後でならず者たちが下卑た笑みを漏らす。
 男は短剣を抜いてシャノンの胸元に突きつける。
「待ちなさい! うちの娘に何するんだ!!」
 シャノンの母親が彼の手首をつかみ、激しい怒りの表情で抗議する。
 だが次の瞬間、信じられないことが起きた。
「おばさん!!」
 ルキアンが渾身の力を込めて身を乗り出したが……。
 眼鏡のレンズに赤い飛沫が降りかかる。鮮血が床や壁を染めた。
 あまりのことに、ルキアンはしばらく呆然と身を固くしていた。
「な、何てことを。何てことをするんだ……」
「ママ、ママ!!」
 シャノンが狂ったように叫び続ける。だが血の海の中に倒れている母親の身体はもう動かない。
 あまりにも不条理に、何の脈絡もなく降りかかった惨劇。
 だがそれは現実なのだ。
 怒りか、恐怖か、ルキアンは身体を振るわせながら剣を構え、シャノンとトビーの前に立った。
「逃げて、早く!!」


【注】

(*1)国から委任を受け、敵国の艦船を攻撃または文字通り拿捕したりする民間船のこと。したがって正規の軍艦ではない。小国であるゼファイア王国は、軍用の飛空艦をほとんど保有していなかった。そのため革命戦争当時、タロス共和国の艦隊に対しては、軍に代わって民間の飛空艦がゲリラ的な攻撃を行っていたらしい。だが実際にはタロスの商船もしばしば攻撃の対象とされたため、私拿捕船の活動と海賊行為との区別が曖昧になっていた面も確かにある。それゆえカルダインも海賊呼ばわりされているのだろう。

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