HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第24話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  暗き淵に、すなわちその蒼き深みに宿りし光が
  憎しみの炎となりて、真紅の翼はばたくとき、
  終末を告げる三つの門は開かれん。(「沈黙の詩」より)



 ルキアンの心中では怒りが恐怖を上回り始めていた。
 生まれて初めて、鋼の切っ先を人間に向ける。
「どうして……。どうして、こんな酷いことをするんですか?」
 沢山のならず者たちと対峙するルキアン。
 足元には、シャノンの母の哀れな亡骸が横たわっている。
 だが野獣同然の男たちは、この凄惨な状況にも何ら罪悪感を覚えていないどころか、むしろ心底楽しそうに、歪んだ笑い顔を見せる。
「どうしてかって、そりゃ楽しいからに決まってるだろうが!」
 ならず者の1人がそう答えると、他の仲間たちがゲラゲラと笑った。
 下品な笑いが部屋中に響き渡る。
 ルキアンは思わず《やめろ》と叫びたくなった。だが彼は、反対に低く押し殺した声で言う。
「楽しい? 楽しい、ですか? 人が苦しむのを見てどこが面白いんですか。人が死んだんですよ! おばさんが、おばさんが――何をしたというんです? 何の罪もない人を殺すなんて……」
 拳を握り締め、生気を失った声でつぶやくルキアン。
 賊たちは、そんな彼の目の前でからかうように剣を振り回したり、口笛を吹いたりしている。そして誰かがわざと強調するように言った。
「罪もない? だから面白いんだよ。バーカ! ついさっきまで平和に暮らしていたヤツが《どうして?》という顔で死んでいくのが――あれを見てると、やめられないってーの」
「おかしいよ……。あんたたちは狂ってる」
 静かな声の下に、ルキアンは爆発しそうな怒りを押しとどめている。
 ならず者たちがそんな彼の様子を茶化した。
「そんなへっぴり腰で剣を突き付けられても、怖くも何ともねぇんだよ!」
「まったくだ。ごちゃごちゃ言ってる暇があったら、ちっとは自分のことを心配した方がいいんじゃないか? てめぇらだって、今からさんざんなぶり者にされるんだよ。何の罪もねぇのにな。あぁ、可哀想。ギャハハハハ」
 彼らのリーダーらしき男が、下卑た笑みと共にシャノンを指差す。
「ここのお嬢ちゃんには前から目を付けてたのさ。なんでも、心の優しい純真な娘で、おまけに結構な美人だと評判らしいじゃねぇか。そんな素敵な噂を、この俺様たちが放っておくわけないだろうが」
 そう言ってリーダーが目配せすると、悪漢たちは武器を手にしてルキアンたちの方へとにじり寄る。
「ル、ルキアンさん!」
 ならず者たちから欲望でぎらつく視線を浴びせられ、シャノンは鳥肌を立てた。彼女は嫌悪感のあまり顔を強張らせ、表情を失っている。
 今やルキアンのか細い肩だけが、彼女を守る唯一の楯だ。
 ――守らなきゃ。僕が絶対にシャノンを守らなきゃ!
 シャノンの暖かな心遣いの数々が、ルキアンの脳裏によぎった。
 ルキアンは硬直して動かない足を懸命に踏み出し、暴漢たちの前に立ちはだかる。
 肩に力が入りすぎて震えている。剣の刃がカタカタと鳴るほどだった。
 彼は怯えていた。敵を怖がる以上に、凶暴な鉄の塊を生きた人間に突き立てるという行為に対し、とてつもない戦慄を感じているのだ。
 喉が渇いて声も出ない。立っているだけで精一杯だ。
 ならず者たちは罵声を上げ、荒っぽく武器を振り回し、じわじわと距離を詰めてくる。ルキアンたちの恐れおののく様子を楽しむために、わざとゆっくり迫っているらしい。
 ――戦うしか、戦うしかない!? で、でも……。
 憎しみに身を任せることが、こんなにも難しいものか――ルキアンは己を呪わずにはいられなかった。この期に及んで、彼の本心はまだ流血を避けようと考えているようだ。
 ――なぜ分からないんだ! 戦わなきゃいけないのに。それでもまだ、戦いはダメだって、どうして、どうして僕は……。
 なおも戸惑うルキアン。
 とうとう破れかぶれになり、彼は絶叫して剣を振り上げた。
 だが……。
 その直後、体中に火傷のような感触が走り、彼は激痛にまみれて床に倒れた。
 手足が胴に付いているのが不思議なくらい、凄まじい痛みだ。
 体中から血が流れている。銃弾によるものか刃物によるものか、そんなことは分からない。とにかく多数の攻撃がルキアンに襲いかかったのである。
 血塗れになって伏した彼を見て、シャノンはショックのあまり言葉を発することすらできず、ただ口を開けて座り込んでしまった。
 ならず者たちがニタニタと薄ら笑いを浮かべて近づく。

「姉ちゃんに手を出すな!!」
 今まで隅で震えていたトビーが、リーダー格の男に力一杯ぶつかった。
 幼く非力な少年はたちまち投げ倒されてしまったが、ならず者たちとシャノンとの間に倒れたトビーは、なおも賊たちの足に組み付いてわめき立てる。
「出て行け! 人殺し!!」
 あまりに頑強なトビーの抵抗に、悪漢たちは彼の髪の毛をつかんで引きずり起こした。彼らの目は、食事を邪魔された猛獣さながらに血走っている。
「このクソガキが!」
 何発も殴りつけた後、リーダーが腹立たしそうに吐き捨てる。
「おい、お前ら。遊んでやれ」
 隅の方にいた下っ端らしき者たちが数名、ぐったりしているトビーを外に放り出す。その後、しばらく彼の悲鳴が続いたが、やがて何も聞こえなくなった。
「やめろ……。やめるんだ……」
 ルキアンは、かすれた声でうわごとのように繰り返す。だが血を流したまま床に転がっている以外、彼には為す術がなかった。
 ――僕に、僕に戦うための呪文が使えたら……。
 彼は今頃になって後悔する。たとえ身体が動かなくても、呪文ひとつで敵を倒すことは十分可能なのだ。
 他人を傷つける攻撃呪文を嫌い、わざわざルキアンは、実験専門の魔道士カルバのところに弟子入りしたのだが。それが裏目に出てしまった。

 ならず者数人がシャノンを取り押さえようとする。
 恐怖のせいで開き直ったのか、シャノンは一転して気の強さを見せた。
 彼女は食卓の上にあったナイフを手にする。
 父から多少は剣術を仕込まれたのだろう――ただ闇雲にナイフを振り回すのではなく、近寄ろうとする相手に対して意外なほど鋭く突きかかる。その動きはルキアンよりもよほど巧みだ。
 最初はシャノンの抵抗を面白がっていた暴漢たちだが、そのうち1人が彼女に切り付けられ、大げさな悲鳴を上げた。
 だが、彼女の決死の反撃は、かえって彼らを凶暴化させてしまった。
「ねぇちゃん、そこまでだ。得物を捨てな!」
 手強いとみた暴漢たちがシャノンに銃を向ける。
 彼女は、肩で息をしながら武器を構え続けていた。
「いやよ! どっちみち、後で私を殺す気なんでしょ。馬鹿にしないで」
 シャノンは勇敢で誇り高かった。
 彼女を無傷で捕らえようと思っていたならず者たちだが、脅しは通用しないと分かったのか、ついに本気で襲いかかる。
 シャノンに剣の心得があろうと、短いナイフだけを武器に沢山の荒くれ男と戦うのは難しい。しかも運悪く、動きづらいスカートを履いている。
 壁際まで追いつめられた彼女に、次々と刃が突きつけられた。実際には身も凍るほどの恐怖を感じているのだろうが、彼女は震えながらも敵を睨み付ける。しかし、こうなっては万事休すか……。
「あっ!」
 わずかな隙にナイフを叩き落とされ、シャノンは丸腰になってしまう。
 男たちの中には、彼女に傷を負わされた者も何人かいた。その結果、彼らは手負いの獣さながらにますます凶悪な態度を取る。
「見かけによらず、とんでもないじゃじゃ馬だぜ」
「俺たちに血を流させるとはいい度胸だ。たっぷり可愛がってやるから、覚悟はいいか」
「やめろ! シャノンに手を触れるな!!」
 ルキアンは幽霊のようにふらふらと立ち上がる。
 自分のどこにこんな力が眠っていたのか、彼自身にも分からない……。
 しかし何もできぬまま、いとも簡単に鈍器で殴られ、再び倒れてしまう。
「シャノン……」
 霞んでいくルキアンの視界の中、シャノンは最後まで抵抗している。
「いや! 触らないでよ! 放して!!」
 ルキアンはなおもシャノンの名を呼んだが、その声はあまりに弱々しく、音にならなかった。
 意識が無くなっていく。
 彼は沢山の血を流しすぎた。全身の痛みも耐え難い。
 シャノンの無垢な笑顔が目に浮かんだ。
 その笑顔を護ってやれない自分。絶望、いや、それ以上の憎しみ。
 ――本当は、みんな優しいままで笑っていたいんだ。だけど、お前たちのような奴がいるから……。
 ルキアンの理性が薄れていくにつれ、逆に憎悪の炎が激しく燃え始めた。
 すると突然、幻が見えた。

  長い黒髪を垂らし、うつむいたままの女がいる。
  光の届かぬ暗闇の中。亡霊のように。

 しかしシャノンの悲鳴が、ルキアンを再び現実に連れ戻した。
「やめて!! ルキアン、助けて! ルキアン!!」
 卑劣にも大勢の男たちがシャノンに飛びかかる。
 彼女は逃れようとして必死に暴れるが、何人もの屈強な暴漢たちに腕や脚を押さえられ、身動きできない。
 シャノンが暴行されようとしているところを目の当たりにして、ルキアンの怒りと憎しみは頂点に達する。
 それに応じるかのように、また幻覚が浮かんだ。

  しっとりと濡れた髪が、蛇さながらにうねり、宙に舞う。
  幻の中の女が顔を上げた。
  彼女は何とも言えぬ不思議な表情をしていた。
  子供を思わせるあどけなさ。聖者のごとき崇高さ。
  そして、悪魔のような冷酷さ。
  それら全てがひとつに解け合ったかのような……。
  彼女の目がルキアンを見据えたとき。
  否、ルキアンが彼女の眼差しに心を奪われたとき、あの《声》が聞こえた。
  ――憎いのですか?
  ――もちろんだ。
  ――殺したいと思いますか?
  ――殺してやりた……。いや、僕は、僕は……。
  ルキアンは寸前のところで《殺したい》と言わずに留まった。

 瞬間、シャノンの絶叫が響き渡った。
 ならず者たちの毒牙にかけられ、狂ったように泣き叫ぶシャノン。
 罵声や嘲笑が飛び交う。

  我を忘れたルキアンに、《声》がもう一度尋ねる。
  ――殺してやりたい?
  無言のままのルキアン。
  今度は彼自身が幻影の世界に取り込まれたようだ。
  何かが舞い降りる気配がした。
  大きな鳥を思わせる翼の音。
  ひんやりとした手がルキアンの手を握る。氷のように冷たい感触。
  《人ではない》――ルキアンはそう直感した。
  しかし、どういうわけか、得も言われぬほど心が落ち着く気もした。
  柔らかな両の翼でルキアンを抱くように、不思議な存在は背後に立った。
  ――この感じは? なんだろう、安らかな……。
  一瞬、全てを忘れて身を委ねかけたルキアン。
  あの《声》が耳元で聞こえた。
  ――心を、解き放ちなさい。
  忘我のルキアンは、機械仕掛けのようにうなずいた。
  ――そう。あなたの闇を……。私に……。
  ルキアンの肩に手が置かれる。
  黒髪が頬に触れた。それもまた不気味なほどに冷たかったが。
  ――本当は、穏やかなままでいたいのでしょう?
  ――うん。
  幼子のような口調で即答したルキアン。
  ――可哀想に。でも、もう泣かなくていいのよ。
  声の主は、ルキアンの頭を丁寧になでた。
  ――ねぇ。どうすれば、みんなが穏やかに笑っていられるのかしら?
  ――僕、知ってるよ。
  いつの間にか、ルキアンは子供に還っていた。
  ――あのね、いなくなればいいんだ。
  ――誰が?
  ――悪いやつだよ。そうすれば、みんな笑っていられる。
  透き通るような指先が、ルキアンの腕に沿って動いた。
  傷が癒え、体の痛みが消えていく……。
  幻の中であるにもかかわらず、身体の感覚に現実味があった。
  ――もう痛くないでしょう?
  ――うん。ありがとう。
  彼女の手がルキアンの体に触れていくにつれて、全身の傷痕が無くなり、
 苦痛も嘘のように和らいでいった。
  ――あなたにこんなに酷いことをした人たちも、悪い人なのね。
  ――そうだよ。悪いやつだと思う。
  ――いなくなってしまえばいい?
  ――うん。みんなを苦しめるやつは、消えてしまえばいい。
  ルキアンは抗しがたい力に取り巻かれ、恍惚としている。
  狙い澄ましたように、彼女はあの質問を再び繰り返した。
  ――殺してやりたい?
  ――《うん》。
  迷うことなく、ルキアンは認めてしまった。

  ◇

 血だらけになって床に倒れていたルキアンが、ふらりと起き上がる。
 ならず者たちが異様な気配に気づき、振り返った。
 ルキアンは涙を流したまま、ぼんやり突っ立っている。
 その目は正気の光を失っているように見える。
 悪党たちは、ルキアンのことなどほとんど意にも介さなかったが……。
「まだ起き上がる力が残ってたのか? お前なんかお呼びじゃないぜ」
「こっちはお楽しみ中なんだ。邪魔するな!」
 何者かに憑依されているかのごとく、危うい足取りで歩き出したルキアン。
「なんだ、まだやる気か!?」
 熊のような大男がしわがれ声で怒鳴った。
 だがルキアンは何の反応も示さず、黙って彼らに近づく。
 その不気味な雰囲気に気後れしたのか、別のならず者が慌てて言う。
「へ、へへ。お嬢ちゃんを助けるっていうんなら、ちょっと手遅れかな。な、なんとか言えよ。聞こえねぇのか?」
 その間にも、ルキアンは剣の届く間合いにまで入っていた。
 大男が棍棒を手に威嚇する。
「懲りないヤツだな。またぶちのめされたいのか……。な、何だ、あれは!?」
 信じがたい光景を前にして、図太い悪人も顔色を失った。
 ルキアンの背後に人影のようなものが浮かんでいる。
 翼の生えた背の高い女だ。あの黒衣の……。
「ゆ、幽霊だ! 化け物!!」
 大男の声があまりに真に迫っていたため、ならず者たちは一斉に振り向いた。
 黒衣の女は、あたかも映像のように、目には見えても実体を持っていない。
 ふわりとルキアンの前に降り立った彼女は、抑揚のない声でつぶやく。
「わが新たな《主(マスター)》よ。お待ちしていました。私は《古の契約》に従い、あなたの手足となり、剣となるよう定められていた者」
「お、お、お前は何者だ!?」
 突然、恐怖に駆られたならず者が銃の引き金を引く。
 だが信じられない事が起こった。
 黒衣の女の手前で銃弾が停止したかと思うと、瞬時に霜が付いたように凍結し、硝子玉も同然に砕け散る。
「愚かな……」
 彼女は微かに目を細める。
 ならず者の手にした銃が同様に凍り付き、彼の右手ごと木っ端微塵になった。
「い、いてぇよ! 兄貴、助けてくれ!! 痛い!」
 右腕を失った男がのたうち回る。
 黒衣の女は口元を緩める。
 その冷酷極まりない笑みを目にした者たちは、恐怖のあまり、金縛りにあったように動けなくなる。
「痛い? そうか。楽にしてやる……」
 彼女がそう言った途端、足元に転がってわめいている男は、胎内から破裂して弾け飛んだ。
 その跡には人の形すら残っていない。血と肉片が散らばるのみ。
 極悪非道の暴漢一味も、あまりに残虐な出来事に吐き気を覚えた。
 しかも、何があったのかも分からないまま、彼らの仲間は殺されていたのだ。こんなことができるのは魔法しかあり得ないが、呪文を唱えた様子もない。
「あ、悪魔か!? そんな馬鹿な、助けてくれ!! お願いだ!」
 人間が太刀打ちできる相手ではなかった。あの大男が必死に助けを請う。
 だが《彼女》は無表情に、緩やかな動作で右手を掲げた。
「私は悪魔ではない。《パラディーヴァ》だよ……」
 どこまでも静かな――それでいて、魂の底から恐怖を感じさせる声で彼女は言った。
 その言葉が終わるや否や、何の前触れもなく大男は激しい炎に包まれる。
 奇妙なことに火は決して周囲に燃え移らず、彼だけを焼き尽くす。
 断末魔の叫びが聞こえた直後、そこには黒こげの骨のみが転がっていた。
 残りの者たちはひたすら逃げまどう。
 太々しい悪人づらなど、もはや見られなかった。野獣に襲われた羊の群のように、彼らはただ慌てふためき、青い顔で右往左往するだけである。

  ◇

 その光景はルキアンの目にも映った。
 ――何? 何が……。
 彼はようやく気が付き、凄まじい殺戮のただ中に投げ込まれた。
 壁や床、辺り一面が血に染まり、どぎつい死臭が渦巻く。
 だが、この修羅場よりもさらにルキアンを驚かせたものは――目の前にいる、見覚えのある人影だった。
「翼を持った、あの黒い服の……」
 様々な思いが胸の奥で一度に去来する。愕然と座り込むルキアン。
 黒衣の女は人間めいた雰囲気を露わにし、感慨深く告げた。
「ようやく私を呼び出してくれたのですね。わが新たな主よ。永劫にも等しい時を経て、こうして出会うことができるとは」
「呼んだ? 僕は、何も……」

 彼らが言葉を交わしたとき、ならず者たちが隙を見て逃亡しようとした。
 しかしパラディーヴァというものは、どこまでも冷徹なようだ。
 幻か? 無数の黒い羽根が、吹雪のように周囲の空間を埋め尽くす。
 ルキアンが目を凝らしてみたときには、おぞましい現実だけが残されていた。
 悪漢たちの姿は跡形もなく、切り刻まれ、赤く染まった肉の山が……。
 床を埋め尽くしていたのは、もはや人の身体ではなかった。

「な、何をするんだ!? 酷いじゃないか!!」
 思わず怒りの目で睨むルキアン。
 黒衣の女は不思議そうな顔をすると、ルキアンを見つめたまま首を傾けた。
「わが主よ、全てはご命令に従ったまで。こうするために私を召喚したのも、あなた自身です」
「そんな、知らないよ!? 何を言う? 僕は殺せなんて、殺せなんて……」
 ルキアンは急に口を閉ざした。
 あの幻は、夢などではなく本当のことだったのだ。
 ――やつらを殺したいと僕は願ってしまった。それは確かだ。何てことを、何という取り返しのつかないことを、僕は!!
「そう。それが私を呼び出すための鍵だったのです。さきほど本気で誰かを殺したい、と生まれて初めて思いましたね? それが古の契約に定められた条件でした。私があなたのもとに、こうして姿を現すための……。中途半端な気持ちでパラディーヴァを使う者は、いずれその力に溺れて滅びます」
 霞のように漂いながら、黒衣のパラディーヴァは言う。
「今日の日のこと、深く心に刻まれよ……。私の名は《リューヌ》。名前を呼ばれれば、私は直ちに主のもとに姿を現し、ご命令に従います」

 ならず者たちが消え去った後、残された血の海。
 そこに横たわる人の姿に、ルキアンは胸が張り裂けそうな思いで目を向けた。
「シャノン? そんな……。シャノン!!」
 無惨に辱められた彼女の姿を、ルキアンは直視することができなかった。
 愛らしい顔はひどく殴られ、腫れ上がっていた。
 あの生き生きとした輝きを失い、宙を見つめる虚ろな目。
 力を失い、だらりと伸びきった手足。
 繊細な白い肌に血の跡がこびり付いている。
 彼女は動くこともなく、仰向けになったまま転がされていた。

 悲しくて、悔しくて、可哀想で、ただ涙が止まらず……。
 もはやルキアンには感情を言葉にすることさえ叶わなかった。
 発狂したかと思われるほど、異様な叫びをルキアンが上げた瞬間。
 壊れそうになる彼の心を、背後に立つリューヌが支えた。
 リューヌが側に居ると、何故か理由もなく、本能的な安堵感に包まれる。
 彼の感じやすい心は破れずに済んだ。

 突如、強烈な揺れが彼らを襲った。
 窓ガラスが割れ、壁土がパラパラと崩れる。すぐそこで耳をつんざくような爆発音が轟いた。
「さきほどの者たちの仲間です。外にアルマ・ヴィオが9体」
 リューヌが機械的に告げる。
「このままじゃ崩れる! 早く逃げなければ。でも外に出たら、あいつらのアルマ・ヴィオにやられてしまう!!」
 パニックになりかけたルキアンに、リューヌが冷静に言う。
「心配は要りません。あのようなアルマ・ヴィオなど、すぐ片づきます……」
 さらなる砲撃が加えられた。屋根を支える柱や壁は、悲鳴を上げている。
「ともかく、このままでは下敷きになる!」
 ルキアンはシャノンに駆け寄り、抱き起こす。彼は自分のフロックを脱ぐと、彼女に肩から掛けた。
「このままじゃ死んじゃうよ! 今は動いて、生きて、シャノン!!」
 人形のように固まった彼女の手を取り、ルキアンは戸口に近づいた。
「せめて、アルフェリオンがあれば……」
 壊れた扉の向こうに、うなり声を上げるティグラーの群が見える。
「もうそこまで来ています。わが主よ」
 夜の大地をリューヌが指差す。
「そんな馬鹿な。アルマ・ヴィオが勝手に動くなんて」
 ルキアンは信じ難いといった様子で目を凝らしてみる。
 暗くてよく分からない。リューヌには見えているのだろうか。
「今から私たちはアルマ・ヴィオの中に転移します。ただし、わが主よ。私と《融合》した時点で、アルマ・ヴィオの《ステリア》の力は自動的に開放されてしまいます。それでも構いませんか?」
「それは……」
 一瞬、躊躇したルキアンだが、彼はもう迷わなかった。
 ――あのならず者たちが押し掛けてきたときだって、僕が本当に撃っていたら、シャノンやトビーだけでも逃げられたかもしれなかったんだ。今、その過ちは繰り返したくない。
 彼は目を見開き、痛々しい諦念のこもった声でつぶやく。
「僕は、甘かったかもしれない……。もちろん、人はいつか分かり合えるという、僕の理想を捨てるわけじゃない。でも、少なくとも《理想》という命を持たぬものを守り通すために、《生身の人間》の犠牲に見て見ぬ振りをするなんて、僕には正しいとは思えない。だから、これからの僕は――時には笑顔や穏やかな気持ちを捨てて、時には理想に背いても剣を取る。結局、人間は不完全な存在なんだ。言葉だけでも、剣だけでも、《優しい人が優しいままでいられる世界》を築くことなんてできない」
 ルキアンは真に決意を固めた。
「構わないよ、リューヌ。ステリアの力を開放して」
「分かりました。それでは《転送陣》を描きます」
「リューヌ、全くの直感なんだけど――旧世界でアルフェリオンを創造した人だって、本当はステリアの力なんかに頼らずにいたかったんだと、僕は思う。だけどやっぱり、みんなが優しく穏やかに暮らしていけるように、必要だったから、ステリアの力をアルフェリオンに組み込んだのだと思う……」
 ルキアンはシャノンを安心させようと、そっと抱きしめた。
 彼女は無言で体を小刻みに震わせている。
 瞬く間に、2人の足元に光の魔法陣が描き出される。
 見たこともない呪文が、細かく書き込まれたサークル。旧世界の魔法だ。
 リューヌがルキアンたちを翼で包むと、3人は光となって消えた。
 直後、獣のような、いや、竜を思わせる咆吼が夜の平原に響き渡る。
 アルフェリオンだ。
 パラディーヴァと融合し、真のステリアの力を覚醒させた銀の天使。
 ――よくもシャノンを……。もう、お前たちの悪行は繰り返させない!
 ケーラに横たわるルキアンは、断固として言った。

 ◇ ◇

「見るがいい……。これは紛れもない事実だ」
 陰鬱な声が響くと同時に、闇の中にアルフェリオン・ノヴィーアの姿が映し出される。6枚の翼を背負った外見自体は普段と変わらない。だが白銀色の甲冑の上に異様な妖気をまとうアルフェリオンは、これまでと同じ機体には到底思えなかった。
 鬼火が青く揺れる――輝きながらも、どす黒い影が宙の裂け目から湧き出しているかのような、魔性の炎。翁を模した黄金色の面が、妖しい灯火の向こうで鈍く光っている。
 この《老人》のマスクは、どこか道化師と似た雰囲気も合わせ持つ。笑い顔のまま表情を変えることのない仮面は、それだけにいっそう薄気味悪い。
「感じるであろう? 今にも荒れ狂わんばかりの《ステリア》の鼓動を」
 生者をあの世に誘うという、死霊の歌を彷彿とさせる声色。どうやら《老人》の黄金仮面の口から出たものらしい。
 別の誰かが軽い感嘆の念を込めて答えた。
「有り得ぬことだ、と言いたいところだが……。確かにこのアルマ・ヴィオは、忌々しい《黒き翼のパラディーヴァ》と融合している。一体、何故に?」
 奇妙に長いくちばし――あるいは鼻にも見えるが――を持つ、《鳥》の黄金仮面だ。機械的な口調の《老人》とは対照的に、こちらは他人を嘲笑うような冷淡な含み笑いを伴っている。
 《鳥》の仮面は続けた。
「《マスター》に命じられない限り、パラディーヴァはアルマ・ヴィオと融合できぬもの。だが《彼女》のマスターはすでに死んでいる……。それも遙か昔、人間どもの言う《旧世界》が崩壊した際に」
「では、新たなマスターが現れたと?」
 そう尋ねたのは、両目の穴以外には何の造作も施されていない仮面――それは強いて言えば、剣技の訓練の際に被る防具を連想させる。また鎧の騎士のように見えなくもない。《兜》の黄金仮面と呼ぶのが適当だろうか。
 と、枯れ木の鳴るような声で《兜》の言葉を否定する者がいた。
「第二のマスターか? 冗談が過ぎる……。同一の《霊気周波》をもつ人間が2人も存在することは、およそ考えられまい。ましてや、ちょうど今の時点にその者が現れるなどと」
 《魔女》の仮面の台詞だ。
 その面相は美しいと言えなくもないのだが、男のように彫りの深い顔と極端に突き出した顎からは、やや不自然な印象を受ける。本来は若い女を表現したマスクであるにもかかわらず、眺めれば眺めるほど老婆に見えてくるのも空恐ろしい。
 暗黒の空間に浮かぶ映像に変化が起こる。
 睨み合いを破り、2、3体のティグラーがアルフェリオンに猛然と突撃した。
 黄金仮面たちは興味深げに見入っている。

 ◇

 量産タイプに過ぎないティグラーも、さすがに陸戦型だけあって足は速い。
 疾風のごとく三方に散り、連携して攻めてくる鋼の猛虎たち。
 一対一ならともかく、多くの陸戦型を相手にすると汎用型は分が悪い。基本的にスピードが違いすぎるのだ。
 ならず者たちのティグラーは軽装の突撃タイプなので、なおさら素早い。
 遠巻きにし、飛びかかったかと思うとまた離れ、魔法金属の牙と爪がアルフェリオンに襲いかかる。
 ――大体、たった1体で9体の敵に戦いを挑もうなんて、頭がおかしいんじゃないか?
 ――俺たちゃ傭兵だ。素人が手を出すと怪我するぜ!
 最初はアルフェリオンの放つ威圧感に押されていた悪漢たちだが、たちまち余裕を見せ始める。
 しかし、それは途方もない勘違いだった。
 今まで微動だにしなかったアルフェリオンが、電光のごとく飛び出す。
 ほとんど同時に爆発が起こった。
 腕を突き出したままの銀の天使。その前には炎を上げるティグラーの残骸。
 ――み、見えなかったぞ? 今のは……。まさか魔法か!?
 すぐ隣で爆炎が上がるのを目にして、敵のエクターが戦慄する。
 彼のティグラーが回避の姿勢を取ろうと足を踏み出したとき、白銀色の腕が目の前に迫り、その掌が機体に接した瞬間――またも爆発が起こった。
 MTソードも持たず、MgSも発射せず、わずか一撃で破壊。
 どのような攻撃をしているのか、相手方には見当も付かない。

 ◇

「あのアルマ・ヴィオ、ステリアの力を体表から直接に放射している」
 《兜》の黄金仮面が言った。
 半ば楽しげに《老人》の仮面が応じる。
「さよう。あれが触れた途端、ステリアの波動が敵の機体に浸透し、物質界の次元で破壊するのは勿論のこと、その背後にある霊的結合すら寸断する。強力な《次元障壁》を張るか、あるいは《屈曲空間》に包まれていない限り、防御は困難……」
「銀のアルマ・ヴィオの乗り手がステリアの力を相当使いこなしている、と言わざるを得まい。今のうちに手を打たねば、先々、禍根を残すことになろう?」
 アルフェリオンが1体、また1体とティグラーを片付けていくのを睨みながら、《魔女》が告げた。
 大方の黄金仮面たちも、その言葉に同意したように見えた。
 だが《老人》はおもむろに首を振る。
「いや。今、我らには他にしなければならぬことがある。無駄な時間を割く必要はない。あのパラディーヴァ、《封印》のおかげでかなり無理をしておる。我々が手をくださずとも、今のままでは遅かれ早かれ自滅するだろう」
「そうだな。もし他のパラディーヴァであったなら、封印から抜け出るだけでもエネルギーを使い尽くし、消滅しているところだろうが」
 漆黒の広間に、《鳥》の黄金仮面の冷ややかな笑い声が響いた。
「やはり恐るべし、黒き翼のパラディーヴァ……」
 《兜》の仮面がそう付け加えると、他の者たちも頷く。
 わずかな間、沈黙が周囲を支配した。静寂に包まれると闇はなおさら深く感じられる。
 やがて《魔女》の枯れた笑い声がこだました。
「だが所詮は無駄なあがき。あの封印が解かれぬ限り、時の流れは誰にも変えられはしない。今の世界の人間たちには決してできぬだろう。封印を解き、あの《災厄》を再び招くかもしれぬという危険を、敢えて冒すことは……」
 首領格らしい《老人》が言葉を継ぐ。
「その通り。彼らは――たとえ他人の苦しみや世の危機を見過ごしてでも、ともかく自分と仲間に災いが飛び火せぬよう腐心する。人間どものそのような習性から考える限り、封印が破られることはおそらく有り得ず、従ってこの世に我々を止める手だてもありはしない。愚かな人間どもは、自分たちに重大な選択が突き付けられていることすら自覚せぬまま、今度こそ《審判の日》を迎えるであろう」
 残りの黄金仮面たちも低い声で何事かささやき、賛同の意を示す。
 彼らはみな、裾が床に着くほど長い赤紫のローブで全身を覆っている。そのうえ頭からフードを被っているため、素顔どころか体の一部たりとも露出されていない。長衣の下は実は空っぽではないかとさえ思わせるような、とにかく不気味という言葉に尽きる連中だ。
「そのためにも《大地の巨人》の覚醒を急がねばならん。メリギオスという男、いましばらくは好きなように泳がせておけ……」
 《老人》の言葉が終わるや否や、闇を飛び交っていた鬼火が一斉に消え、仮面の存在たちも何処へともなく去った。

 ◇

 アルフェリオンは野獣のような動きで飛び回り、敵を引き裂き、踏みつけ、暴れ狂った。今やその姿は恐怖の対象でしかない。
 光に満ちた天の騎士ではなかった。
 いや、地上に遣わされた御使い、死の天使かもしれぬ。
 ――よくもシャノンに酷いことを。よくもおばさんを、あんなに良い人だったのに……。許さない。絶対に、許さない!!
 ルキアンの凄まじい憎悪。
 攻撃を続けるにつれ、彼の怒りが沸々と煮えたぎった。
 清冽な義憤というのは、純粋であるが故にかえって人を残酷にもする。
 アルフェリオンも、もはや《暴走》の域に入っている。
 敵を殲滅するまで戦い続ける、文字通りの生体兵器だ。
 機体に漲るステリアの力は、そうした《兵器》としてのアルフェリオン本来の能力を呼び覚まし始めている。
 アルフェリオンの手が変形し、5本の爪が刃物さながらに伸びる。
 おそらくパラディーヴァと融合したせいであろう、旧世界のナノテクノロジーの結晶たる《マキーナ・パルティクス》の力が開放されているのだ。その働きにより、アルフェリオンは機体の組織を自在に変化させ、乗り手の意思や周囲の状況に応じて刻々と変形することが可能なのだ。
 鉤爪、いや、5本のブレードを生やした手がティグラーの頭を掴み、首を引きちぎった。横になぎ払った腕が、さらに飛びかかってくる相手を両断する。
 ――思い知れ! お前たちが苦しめた人々の痛み!!
 ルキアンは心の中の闇を解き放つ。リューヌに言われたように……。
 コルダーユの海戦の後に感じた悔悟の念も、ステリアの力を二度と使わぬというあの誓いも、何もかも負の感情に押し流されていく。
 アルフェリオンが竜のような雄叫びを上げ、兜の前方部分が開く。
 牙だ。兜の下に隠されていたのは、恐竜を思わせる禍々しい口だった。
 恐るべきことに、今のアルフェリオンは猛獣に等しい戦い方をしている。
 魔法や剣など必要なかった。その爪で敵を切り裂き、その超硬質の牙で喰らっていると言ってもよい。これでは魔物そのものだ。
 ――いなくなってしまえ! 消えてしまえっ! 消えろ!!
 ルキアンは常軌を逸していた。もはや獣の本能に捕らわれた狂戦士だ。
 このような殺戮など、彼は決して望んでいなかったはず。
 それでも目の前の敵を残らず血祭りに上げるまで、彼自身にも止めることはできないだろう。戦いの意思を。破壊への衝動を。
 だが、その激情が最高度にまで達したとき、ルキアンは奇妙なものを見た。
 リューヌを呼び出したときと同様に、あまりにも鮮明な幻が脳裏に浮かぶ。
 しかしそれは、彼にとって全く見覚えのないものだった。

   折れ曲がり、半ば崩れ落ちた高き塔――あの四角い《クリエトの塔》が
  無数に立ち並ぶ廃墟。
   突然、廃墟は閃光に包まれ、次の瞬間には炎が一面に広がっていた。
   何かが空の彼方から降り注いでくる。
   天から大地までを貫く光の柱が、無数に屹立しているかのように見えた。
   雲間から投げ落とされる雷光の槍が、瞬く間に廃墟を荒野に変えていく。
   この情景はどこから来た悪夢? それとも幻視?――世界の終わりを。

 少年の胸の奥で、地獄を描き出す絵巻はさらに続いていく。

   地平線が見えた。
   赤茶けた大地。吹き抜ける風が土埃を巻き上げ、視界を遮る。
   ひび割れた地表に転がる獣の遺骸。
   半ば砂に埋もれた山羊の頭蓋。
   不毛の荒野の向こうに、点々と建物が見えた。
   煉瓦を積んだだけの粗末な家々が、小さな集落を形づくっている。
   日焼けした男が、細い棒を手に牛の群れを追い立てていた。
   赤ん坊を背負った母親が、井戸から水を組み上げている。
   そこには人々の生活があった。この苛酷な状況の中でも。
   小さな男の子がやせこけた子犬を腕に抱いて、納屋の横から姿を見せた。
   彼はぼんやり突っ立ったまま、果てしなく広がる砂と岩だけの世界を
  見つめていた。
   幼い少年は遠い目でルキアンの方を見た。
   表情のない顔。心の光を失った瞳。
   骨と皮だけになった腕の中、子犬が弱々しく鳴いた。
   そのとき……。
   あの破壊の光がここにも降り注いだ。
   赤く乾いた大地が、無数の《雷》によって引き裂かれる。
   極限にまで荒廃した砂漠が、さらに酷く、いびつな凹凸に変容していく。
   巨大な光の柱のひとつが、小さな村の真上にも落ちた。
   少年と子犬は、死の恐怖を感じる余裕すらなく一瞬で消し飛んだ。

   また場面が変転し、今度は星空が開けている。
   どこまでも続く暗黒の空間。
   宝石の粒をばらまいたかのように、無数に光り輝く星屑。
   不思議なものが眼下に見えた。
   途方もない大きさの水色と緑色の球体。
   何故か、その水色が海を、緑色が大地を表していると直感した。
   だが緑の大地は、枯れた茶色に食い尽くされつつある。
   再び視線を周囲に戻すと、鋼の城塞のごときものが幾つも浮かんでいた。
   闇の空に漂うそれらは、どうやら砲台に似た役割をしているらしい。
   あの水と緑の球体に向かって、何百、何千という砲列が火を吹く。
   雷撃弾と似ているが、それとは比較にならぬほどの電光が発射される。
   さきほどの《いかずちの雨》の正体は……。

 そう気づいたとき、ルキアンは心の底から憤怒を感じた。
 ――どうしてそんなことをする? みんな死んでしまうじゃないか! 人だけじゃない。動物や草や木だって。海も森も山も、全て……。
 なぜ見知らぬ世界の光景に、ここまでの憤りを覚えるのだろうか。彼自身にもその理由は分からなかった。
 ――止めるんだ。止めろ。何なんだ、何なんだ、お前たちは!?
 だがこの本能的な憎しみの感情を、ルキアンはすでに知っていた。
 今のようなやり場のない怒りを前に一度感じたことがある。
 あのときと似ている……。
 《パラミシオン》の《塔》で、忌まわしい人体実験の秘密を知ったとき。
 《塔》を護る《アルマ・マキーナ》を相手に戦ったとき。
 全ては旧世界に対する、漠然とした、それにもかかわらず果てしなく深い憎悪と同質のものだ。彼がそう気づいたとき、夢幻の風景が揺らぎ、闇の果てに真っ赤なものが見えた。

   煉獄? その深淵に燃えるそれは――業火?
   炎は自らの意思を有しているかのごとく、燃え盛り、激しくうねった。
   あたかも怒りの情を体中で表現するように。
   火の勢いがさらに強くなり、それは閃光と化して視界全てを飲み込んだ。
   と、轟々と燃える火焔の向こうに何かがいた。
   巨大な人影のような。
   人の形をした――純粋な紅、鮮血の色、おぞましい赤の闇。
   地獄の魔物? そうではない。
   信じがたいことに、それはアルマ・ヴィオだった。
   真紅の甲冑で全身を覆った巨人。
   流れ行く凶星のごとく、その背後に広がる紅蓮の光。
   真っ赤に尾を引く火焔を従え――翼のように。

 この異様な幻の意味することは、ルキアンには理解できなかった。
 だが彼は理由もなく確信した。
 ――あれは何か恐ろしい、災いをもたらす、あってはならない存在だ。正直言って怖い。怖かった。だけど、どこか抗し難い力も感じた。僕の心は、あの巨人に惹かれていたのかもしれない。赤いアルマ・ヴィオに。憎悪を象徴するかのような、炎のごとき、紅蓮の翼を持つものに。
 ――はっ!?
 ルキアンは我に返った。
 ――僕は、つい今まで、怒りのあまり……。
 アルフェリオンの手から、ティグラーの頭部が転がり落ちる。
 それが最後の1体であったようだ。今さらながらルキアン本人は気づいた。
 再び静まり返った夜の農園。
 周囲を見て愕然とするルキアン。
 ――これは、これは……僕が1人でやってしまったのか?
 アルマ・ヴィオ9体分の残骸が辺りを埋め尽くしている。
 しかも個々の機体の破損状況が尋常ではない。森の獣が獲物を食い散らかした後のようだった。
 凄絶な戦いの跡地には、ただ夜風が吹き抜けていくばかり。
 残り火が点々とくすぶっていた。

 ◇ ◇

 風のない星空のもと、あたかも時が止まったかのように、夜の大地は音という音全てを失っていた。その静けさは神秘的ですらある。
 闇と静寂とが完全にひとつになる。そこに自らの身を置くとき、人は大自然の懐の深さを肌で感じることだろう。
 果てしなく続く、音も色もない漆黒の世界。
 そのただ中に小さな明かりがぽつんと灯っている。
 立ち枯れた木の下で、赤々と燃える焚き火。その炎を囲み、ヤマアラシのような髪型の少年と、彼と同じ年頃の金髪の少女が座っていた。少年の傍らには狼に似た動物の影も見える。
 灌木まじりの荒野が、彼らの周囲にうっすら浮かび上がる。
 ここは中央平原の北端付近――緑豊かな平原中部・南部とは様相が幾分異なり、まばらな草地の間で茶色い地肌がむき出しになっていた。
「寒いのか? 分かる? さ・む・い・か?」
 肩をすぼめてじっとしているイリスに、アレスが尋ねる。
 返事が戻ってこないのは仕方がない。だがイリスは微かな反応すら見せなかった。もし言葉が話せたとしても、彼女はどのみち無口で無機質なのかもしれない。
「ちぇっ。変なヤツ……。まぁ、ちっとは慣れてきたけどな」
 隣に寝そべっている相棒・レッケの毛皮をなでながら、アレスは苦笑いする。
 荒々しい肉食獣の姿に、鋭い一本角を持つ魔獣《カールフ》だが、こうして丸くなって居眠りしているところを見ていると、犬にそっくりだ。
 アレス自身にしてみれば、むしろ暖かな夜だった。ラプルスの峰々に囲まれた寒冷な高山地帯に比べれば、平野部の気温は相当に高い。何しろ彼の村の付近では、真夏でさえ雪がちらつく日もあるのだから。
「妙な感じだな。こう、だだっ広いと……。右も左もずーっと、どこまでも目線を遮るものがない。真っ平らで、山も丘もなくて、なんかスカスカして気になる。山の上から見ていた平野も広かったけど、こうして実際に来てみると、やっぱりデカい。でも海って、この平地よりもっと大きいんだろ。信じられないぜ」
 今日、広大な平野というものを、アレスは生まれて初めて体験した。
 彼は細い枯れ枝を手に、落ち着きのない様子で薪を突っついている。枝の先端が焦げ、じわりと火が滲んで消える。
「イリスの姉ちゃんを、チエルさんを早く助けなくっちゃな。パラス騎士団の奴らが連れ去ったんだから、もしかしてチエルさんはエルハインの都に捕らわれているんだろうか? 急がないと、あの意地悪な《革女》が、チエルさんに酷いことをするに決まってる!」
 真っ暗な平野の彼方を睨むアレス。
 決してあるとは言えない知恵を絞って、彼はチエル救出の手だてを考える。
「でもいきなり王様の城に出かけたところで、取り合ってくれないだろうし。駄目だ駄目だ! 逆にパラス騎士団に見つかってしまう。それにしても、パラス騎士団が出てきたってことは、あれは王様の命令だったんだろうか? まさか、そんなワケないよな」
 イリスは、立ち枯れ木に背中を寄せかけ、目を閉じたまま黙っている。
 そんな彼女の姿をちらりと見た後、アレスは懐から紙切れを取り出した。
「母ちゃんが教えてくれた、ジャンク・ハンターのブロントンか……。このブロントンって人に会うために、どっちみち、まずエルハインに行ってみないと始まらないってことだ」
 旧世界の遺産を発掘し、売りさばくことを生業とする《ジャンク・ハンター》も、エクターと同様に自分たちのギルド(=《ハンター・ギルド》と呼ばれる)を作っている。ブロントンという男は、エルハインのギルドに属する腕利きの発掘人らしい。
 アルマ・ヴィオやそのパーツ(器官)の売買をめぐって、エクターとジャンク・ハンターが深い関わりを持っているのは周知の事実だ。アレスの父もブロントンと頻繁に取引をしており、2人は単なる商売相手を超えた親しい仲であったという。
「小さい頃、俺も何度か会ったことがあるはずなんだけど……。よく覚えてないな。なんか、ひげ面のごっついオヤジじゃなかったか?」
 亡夫の友であり、裏表の世界についての情報通でもあるブロントンなら、何らかのかたちでアレスの助けになってくれるのではないか――そう思い、母のヒルダは息子にブロントンの家を教えたのだ。
「ともかく眠い。そろそろ寝よっと。明日も頼むぜ、イグニール」
 背後にそびえ立つ深紫のアルマ・ヴィオに、アレスはVサインをしてみせた。もちろんエクターが乗っていない今、旧世界の超竜《サイコ・イグニール》からの返事はない。

 そのときだった。
 イリスが不意に身を起こし、青い目をかっと見開いたのだ。
 遠くを――見えるはずもない荒野の果てを眺めたきり、彼女は身じろぎもしない。
「どうした、イリス? いきなりそんな顔して」
 彼女の指先が震えている。怯えた眼差しはアレスを通り越し、どこか離れた場所に向けられたままだった。
 少女は何かに恐怖を感じている。しかし肝心の恐怖の対象となり得るものが、周囲には全く存在しない。万が一、野獣や盗賊が付近の闇に潜んでいるのなら、真っ先にレッケが気配を嗅ぎ付けるはずだ。
「大丈夫だってば。俺たちにはイグニールがあるんだぜ。無敵、無敵!」
 アレスは脳天気にそう言うと、呑気にイリスの肩を叩く。
 だが彼女は本能的な不安を御することができず、心の中で叫んでいた。
 ――確かに鼓動を感じた。まさか、あり得ない!! でもあれは……。
「イリス、落ちつけよ。もし悪者が出てきたら俺が守ってやるから」
 心強い台詞を口にしながらも、事情を全く理解していないアレス。
 ――いつかまた、あの赤い翼が空を駆け、憎しみの炎が全てを焼き尽くす!?
 イリスは愕然と空を見上げる。感情とは無縁だったはずの彼女の表情に、露骨なまでの動揺、恐怖の思いが浮かんでいた。
 ――血塗られた手で救いをもたらしたもの。悪魔にして救世主。《空》を落とした死の天使! もう、あなたの力は必要ないのに。あのとき永遠に眠ってくれればよかったのに……。なぜ!?

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