HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第25話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  憎しみや怒りに惑わされることなく、
  内なる闇と永遠の静寂の果てに、
  冷徹な心の目を開いて時代(とき)を見よ。



 多数のティグラーの残骸が、暗がりの中で燻り続けている。
 その光景を見下ろすように悠然と立つアルフェリオン。
 機体のハッチが開き、シャノンの手を引いてルキアンが降りてきた。
 春とはいえまだ冷たい夜風が、2人に向けて無慈悲に吹きつける。
 たったいま戦場となり、荒れ果てた農園が満月の光に照らし出されていた。
 幸せに満ちていたあの家も崩れ落ち、黒く焼け焦げている。
 シャノンは無言で震えたままだった。
 否、アルフェリオンの凄まじい戦いを目の当たりにしたことにより、彼女は新たな恐怖感に追い打ちされているようにもみえる。
 何とかして励ましてやりたいと思ったルキアンだが、今の時点では自分に何もできないことを認めざるを得なかった。
 呆然と、無感情に、自らの涙を流れるままに任せているシャノン。
 その表情を目にしていると、ルキアンは不意にメルカのことを思い出した。あの打ちひしがれたメルカの様子が、脳裏によみがえる。虚ろな目をしたあどけない少女の姿が、今のシャノンと重なって見えた。
 ――いつもそうだ。僕は何もしてあげられない。誰かの心を動かす言葉も持っていない。誰かの気持ちを和らげるような暖かな腕のぬくもりも、僕にはないらしい。ごめん、シャノン、僕がこんな人間で……。でもそれが僕だから。
 自責の念に打ちひしがれつつも、他方でルキアンは、どうしようもなく投げやりな気分になった。自分自身にすら不可解な感情。
「トビーを探さなくちゃ!」
 彼は何かを取り繕うように、わざと大きな声で口にする。
 トビーを巻き込む危険を事実上忘れ、アルフェリオンをここで暴れ狂わせてしまったことに、ルキアンは今さらのように苛まれ始めた。
 ――僕は本当に勝手で、呑気で、鈍感な人間だ。もしトビーを踏みつぶしてしまっていたら、何と言ってシャノンに詫びれば……。
 この期に及んで言い訳がましいのは承知の上だった。祈るような気持ちで、ルキアンは周囲に視線を走らせる。
 どこを見ても、徹底的に叩きつぶされたアルマ・ヴィオの装甲や、生体兵器特有の生々しい体内器官の残骸ばかり。それらが焼けた異臭もひどい。
 だが、よく目を凝らしてみると、崩壊した家の脇に何かが横たわっている。
 ゴツゴツした金属片とは違う。人間の影だ。
「トビー!!」
 少年の体を抱き起こしたルキアンは、一瞬、思わぬ感覚にその身を震わせた。布地の手触りではなく、肌と肌とが接する感触が伝わる。
 言葉を失うほど酷い有り様だった。ならず者たちは面白半分にトビーの服をはぎ取り、何ひとつ守ってくれるもののない彼の身体に、よってたかって暴力を加えたのだ。
 それでも生きてくれていて本当によかった。幼い少年の体温が伝わってくる。
 ルキアンは複雑な気持ちで胸をなで下ろす。
 気が付くと――ルキアンの右手に生暖かいものが、べっとりとこびり付いていた。懐から新しいチーフを取り出し、ルキアンは少年の額を拭う。
 トビーの顔。黒く見えるのは血だ。血塗れだった。
「酷すぎる。どうしてこんなことを……」
 あまりの悲惨さに、ルキアンはただうつむくしかない。
 無垢な少年は、生きているのが不思議なほどの暴力を受けていたのである。
 むき出しにされた背中には、鞭や棒で打たれた傷痕が数え切れないほど残されている。
 顔も痣だらけで、半開きで血を流す唇。歯も何本か折れていた。
 何度持ち上げても力なく垂れ下がる腕には、ならず者たちに煙草を押しつけられた跡がある。
 さらに悲惨な仕打ちの爪痕も見つかるかもしれないが――これ以上のことを知るのが恐ろしくて、ルキアンは目をそらしてしまう。
 今のところ生きているとはいえ、トビーは虫の息だ。
 素人のルキアンには全く容態が分からない。もしかしたらトビーがこのまま息絶えてしまうのではないかと、ルキアンは危惧する。
 ――多分、骨も折れているだろう。内蔵は大丈夫だろうか。血が出すぎて死んでしまうかもしれない……。どうしよう。どうしよう。
 動転しかけたルキアンだったが、そのときシャリオの顔が頭に浮かんだ。
 ――そうだ。シャリオさんに診てもらえば……。あの人は大神官だから、いざとなれば瀕死の人間を蘇生させる魔法も使えるかもしれない。トビーが生きている限り、シャリオさんなら何とかしてくれる!
 闇の中に灯る光のごとき、何ものにも代え難い希望。
 しかしシャリオにトビーの治療を頼むとすれば、新たな困難がルキアンに降りかかる結果となる。取りも直さず、それは――シャノンやトビーを、彼らの憎むべき敵であるギルドの船に乗せることを意味するのだ。そしてルキアンが自分たちの大切なものを奪う敵であるということも、彼らに公然と明らかになってしまうのだから。
 今までわざと隠していたわけではない。だがその事実が露呈することは、ルキアンにとってシャノンたちを裏切ることのように思えた。
 ――だけど、このままではトビーが……。
 ルキアンの腕の中で、少年の命の炎は次第に尽き果てていく。
 迷っている暇はない。
 ――僕がギルドの船に乗っていることは事実なんだ。理由はどうあれ、ギルドがナッソス家と戦っていることも、紛れもない現実なんだ。そして何よりも、今こうして、可哀想な1人の男の子が死んでしまうかもしれない……それは本当に起こっていることなんだから!
 ルキアンは覚悟を決めて、トビーを抱えたまま歩き出した。
 少女のように華奢なルキアンの体は、頼りなくふらついている。それでもルキアンは懸命に両手で支える。
「トビー……」
 あれ以来、初めてシャノンが口を開いた。聞き取り難いほど細い声で。
「大丈夫、生きている。だけどこの傷では……。シャノン、突然ごめん――あの、こんな酷い傷でも治してくれそうなお医者さんを知っているんだ。その人に診てもらえば、きっと……」
 猜疑の眼差し。シャノンはルキアンに頷かなかった。
 まだショックから到底抜け出すことができず、彼女には何もかも不審に思えるのかもしれない。今のシャノンには、目に映るもの全てが恐ろしいのだ。
「心配ない。本当だよ。そのお医者さんはとても優しい女の人で、おまけに偉い神官なんだから。僕もよく知っている。信じて! お願い、僕を信じて」
 《信じて》と言う自分が、実はもっと大きな裏切りを隠し持っていることに、ルキアンの胸は張り裂けそうになった。
 それからしばらく、ルキアンはシャノンを怯えさせないよう細心の注意を払いつつ、クレドールまでトビーと一緒に来てほしいと懇願した。
 ただし場所が《ギルドの船》であるとは、どうしても言えなかったが。

 シャノンたちをアルフェリオンの乗用室に乗せたあと、ルキアンは重苦しい心持ちで《ケーラ》の扉を開く。
 一刻を争う時であるにもかかわらず、ルキアンの動作はためらいがちだった。ケーラの底に敷かれた赤いクッションに、彼は悲壮な顔で横になる。
「結局、これで何度目だろう。このアルマ・ヴィオに乗るのは……」
 ルキアンは生身の《口》でその声を発した後、アルフェリオンの機体へと意識を乗り移らせた。
 そう言えば、何処へ去ってしまったのか、リューヌの声はもう聞こえない。
 呼べばいつでも現れる――そう告げた彼女。しかし今、敢えて呼び出してみる気にはなれなかった。
 ――念信、クレドールに届くだろうか? とりあえず呼びかけてみよう。
 昼間の戦いの最中、アルフェリオンがどこに墜落したのかは定かでない。現在、クレドールが何処に移動しているのかも不明だ。いや、クレドールがあの戦いで沈み、もはやこの世に存在しない可能性も(少なくともその後の経過を知らないルキアンにとっては)あり得る。
 電波による通信に比べ、念信の届く範囲は非常に限られている。遠距離から連絡を行う場合は、いくつもの受信地点を介してリレーのように中継しなければならない。
 ――ミトーニア付近にいるのなら、なんとか連絡できるはずなんだけど。
 ルキアンは、クレドールの白い船体を心細げに思い浮かべた。
 ――やっぱり無理なのかな。もしかして……。
 何かというと最悪の状況を連想してしまう自分に、彼は辟易する。
 だがそのとき、心の中に言葉が湧いて出た。
 ――こちらクレドール。そちらの所属と名前は?
 自らが還るべき船の名前を耳にして、ルキアンはひとまず安堵した。だが落ち着いて考えてみると、念信に出たのは全く聞き慣れぬ声である。
 セシエルのそれではない――初対面のときには冷たい事務的な口調に聞こえるのだが、それも慣れるとかえって彼女らしいと微笑ましく思えるような、あのセシエルの声音ではない。
 ――こちら、アルフェリオン・ノヴィーアのルキアンです。えっと、ギルドの正式なメンバーではありませんが。その、セシエルさんは……?
 相手は若い男らしい。今の状況が状況だけに、彼の声も険しい印象だった。だがルキアンの名を聞いた途端、堅苦しい口振りが不意に柔らかくなる。
 ル―ルキアン君? 君が、あの噂のルキアン君かい?
 ルキアン自身が返事をする間もなく、相手の男は続けた。
 ――《実物》、いや、失礼……《本人》と話ができるなんて嬉しいぜ! セシエルはいま、明日の戦いに備えて仮眠中だ。今晩は俺が代わりに念信を担当している。よろしくな。
 男はブリッジクルーの1人だったようだ。何某とかいう名前を告げられたが、早口でよく聞こえなかった。
 しばらく沈黙があった後、別の人間が――ルキアンのよく知っている声が応対に出た。
 ――ルキアン君、無事で良かったです。いや、あなたなら大丈夫だと信じていた、という方が適切でしょうか。すぐに救援を差し向けることができず、申し訳ありませんでしたね。
 ――クレヴィスさん! はい、大丈夫です。いま僕はミトーニア郊外の……座標は、えっと……。
 クレヴィスの声が無性に懐かしく思えた。ルキアンは少し涙ぐんでしまう。
 ――我々の艦隊は、ミトーニア市より少し南の上空にいます。そのまま接近して来てくれれば、改めて誘導しますよ。まぁアルフェリオンは良く目立ちますから、こちらの《複眼鏡》からもすぐ視認できることでしょう。
 ――ありがとうございます。急ぎます! それで、あの……。
 ルキアンは躊躇したが、シャノンとトビーのことをクレヴィスに伝えた。

 ◇

 ルキアンは、仲間たちの待つミトーニア近郊へと早速向かうことにした。アルフェリオンのステリア系器官を起動すれば、ものの数分で到着できるだろう。
 そう、ステリアの力を使ったならば……。ルキアンは不意に考え込む。
 ――感じる。こうしていると、ステリアの力を感じる。闇の向こうで煮えたぎっているのが分かる。まるでステリアが待っているみたいだ。僕が憎しみに駆り立てられ、地獄の蓋を開けてしまうのを。そうなったら一気に溢れ出て、全てを飲み込もうと待ちかまえている。
 何気なく、それでいて重大な試みが彼の頭にひらめいた。
 偶然の思いつきのようであっても、それは、ある意味で必然の成り行きだったのかもしれないが。
 ――今までは僕が激しく感情を爆発させたとき、ステリアの力が発動した。コルダーユでも、パラミシオンでも、そしてさっきの戦いでも。だけど怒りに心を奪われちゃだめだ。
 気持ちを静めようと、何度も念じるルキアン。
 ――冷静に、冷静になるんだ。
 瞑想。カルバのもとで魔法の修行をしていた場面を思い出し、精神統一する。
 ――そうだ。いい感じ。もしかして、この自然体の心のままでも、ステリアの力を起動することができるんじゃないだろうか?

 紅蓮の甲冑をまといし巨人。輝く炎の翼を背負った死の天使。あの真っ赤なアルマ・ヴィオの獰猛な影が、脳裏によぎった。
 怒りと憎しみの象徴。おそらくそれはステリアの力の化身?

 ――いけない。ステリアの力に心を奪われれば、いつか僕もアルフェリオンも、あの《赤い巨人》のようになってしまうかもしれない。この世界に災いをもたらし、破滅に導く者に変わってしまうかもしれない。旧世界を滅ぼしたステリアの呪いに、僕らはもう魅入られてはダメなんだ。
 ルキアンは、精神の淵の奥底に怒りを封じようとする。
 けれどもそれは限りなく困難な業だった。
 ――闇を恐れるのでもなく、闇に身を委ねるのでもなく、暗黒と静寂の中へと冷静に自分を投げ入れ、僕の心の闇を飼い慣らすんだ。ひとつになるんだ。静かに、もっと静かに……。

 すると、アルフェリオンの機体がうっすらと光を帯び始めた。
 月光を浴びてきらめく銀色の鎧。
 その凍てついた輝きだけではなく、機体自体が淡い黄金色の光を放っている。

 ――その調子。もしかして、上手くいく? 落ち着け。焦っちゃ駄目だ。心の中を無に。憎しみを忘れ、だけど決意を胸に刻み……。

 ステリアの膨大な魔力が白銀色の装甲に満ちる。
 あまりに強い魔法力は、暗闇の中で火花を散らしそうなほどに高まっていく。

 ――今まで僕は、この世界が自分の理想とあまりに食い違っているために、現実をありのままに見つめることから逃げてきた。そして、ついに目を背けることができなくなったとき、僕はやり場のない怒りに身を委ねることによって、恐怖や困惑を押さえ付けようとした。だけど、それではダメなんだ。どんなに《あってはならないはず》のことであろうとも、目の前で実際に起こっている出来事ならば、それを現実として見据えていかなければ。

 ルキアンは自分に言い聞かせる。意外に気持ちは激昂しなかった。
 むしろ心地よい高揚感のようなものはあっても……。

 ――でも《現実を直視すること》と《現実を肯定すること》は、似ているようで全く違う。僕はもう、《仕方がない》なんて言って何もせずに逃げたりはしない。この現実が《それが現実だから》ということ自体で、それだけで正当化されるのなら、僕はおかしいと思う。だから……どんなに絶望的でも、どんなに怖くても、泣きながらでもぶつかってみせる!

 今までにステリア系が起動した時とは、機体の様子が明らかに異なる。
 どこまでも静かなのだ。
 強大な力を全身に漲らせ、恐ろしいほどの霊気の波をまといながらも、さながら静まり返った夜の海のように、神々しく穏やかそのものである。

 ――なぜなら僕にもクレヴィスさんの言うことが、ほんの少し分かったような気がするから。いつか……穏やかでありたいと望む人みんなが、ずっと優しく微笑んでいられるようになったら、どんなに素敵だろう。せめて、そんな小さな安らぎだけは誰にも奪われないような……そういう心ある時代が来てほしいと思うから。ただの夢でも、永久に絵空事でも構わない。結果なんて関係ない。その理想のために自分も何かすることができたという、一瞬一瞬の、単純な事実の積み重ねが僕には大切なんだ。だって僕自身、永遠じゃないんだから。そう、僕が戦うのは……。

 悠々と夜空に向かい、羽ばたき始める6枚の翼。
 最後に兜のバイザーが下に降り、アルフェリオンの顔を覆い隠す。

 ――優しい人が優しいままでいられる世界のためなんだ!!

 ルキアンの決意と共に、銀の天使の目に光が灯る。
 青白く……。
 憎悪に燃えるあの赤い眼光ではなく、それは透き通った青い輝きだった。

 ◇ ◇

「そんなことがあったのですか……」
 この短い言葉の背後に込められた底知れぬ思い。ルキアンの口から語られる今日の出来事を、クレヴィスはひとまず聞き終えた。
 クレドールに帰還したルキアンは、シャノンとトビーを医務室のシャリオのところへ連れていった。その後、彼はクレヴィスに呼ばれて艦橋付近の回廊に出向いたのである。
 丸い窓からは、エクター・ギルドの部隊に包囲されたミトーニア市が確認できる。同市では今、ギルドの要求を受け入れるか否か、まさに市民全ての命運をかけた議論が行われているはずだ。
 市内の家々の多くは、おそらく爆撃を恐れて明かりを最小限に絞っているのだろう。それでも漆黒の中央平原の真ん中では、街は蛍の群のごとく点々と輝いて見える。
 ルキアン自身は感情を露わにすることなく、なぜか淡々と話す。
「僕もクレヴィスさんのお話を聞いて納得がいきました。ずっと心に引っ掛かっていたんです。あの《真っ赤なアルマ・ヴィオ》のことが……」
 彼が幻の中で見た獰猛な赤い影。それはクレヴィスにも衝撃を与えないはずがなかった。そう、まさしくあの赤い巨人は――《沈黙の詩》に記され、さらに《塔》で発見された日記により実在のものと判明した――《紅蓮の闇の翼》、伝説の《空の巨人》、つまり《エインザールの赤いアルマ・ヴィオ》かもしれないからだ。
 アルフェリオンがエインザール博士によって作られた《空の巨人》であると、まだ完全に決まったわけではない。けれども何も知らないはずのルキアンが、翼を持った赤いアルマ・ヴィオの幻影を目にするなどとは、偶然にしてはあまりに話が出来過ぎていよう。
 ルキアンの方は予想外に落ち着いていた。
 彼が苦しんだり恐れたりすることを避けるために、クレヴィスたちは《赤いアルマ・ヴィオ》の話をルキアンに敢えて今まで告げていなかったのだが。
「それでは、エインザール博士というのは――敵であるはずの《地上人》を守るために、自分と同じ《天空人》に立ち向かった人なんですね。でもその結果、紅蓮の闇の翼と呼ばれるあのアルマ・ヴィオが、天上界の人々の命を数え切れないほど奪うことになってしまった……」
 ルキアンは無念そうに首を振る。だが彼の面持ち自体は冷静だ。
「博士は、天上界の何がそんなに許せなかったのでしょう? 何がそんなに憎かったのでしょう? でも僕には分かるような気がするんです。エインザール博士だって最初は本当に辛い気持ちで、大切な何かのために戦い始めたんじゃないでしょうか。それに、できることならステリアの力にも頼りたくなかったのかもしれません。だけど結局は憎悪に心を奪われてしまった。そしてステリアの暗黒の力に魅入られ、あの赤いアルマ・ヴィオによって旧世界を破滅に導いてしまった。そんな気がする。なぜか僕は感じるんです」
 多分に想像あるいは妄想を交えたルキアンの推理。興味深げに聞き入るクレヴィスに彼は言った。
「でも、あくまで直感です。本当のところはよく分かりません。他にも色々。あまりにも突然だったから、僕自身、まだ気持ちの整理ができていません。シャノンとトビーのこと、おばさんのこと、あのならず者たちのこと。そしてアルフェリオンとリューヌのこと……」
 小さめの声で、いつもの頼りなげな表情を見せるルキアン。
 だが彼はおもむろに顔を上げると、今度は明確な調子で語った。
「だけど、ひとつだけ決めたことがあります。これからは――何かの問題にぶつかったときには、まず、ともかく正面から見つめてみようと思うんです。そして諦めずにしつこく食い下がってみて、その時々に、僕なりの《答え》をできる限り出せるように頑張ろうと思うんです。そんなの当たり前だって、笑われるかもしれませんけど」
 クレヴィスは深く頷いた。
「たとえ何が正しくて何が悪いのか、私たちの限られた力では分からないとしても――つまり、人間に正しい答えなど出せないからといっても、そのことが《答えを出さなくてよい理由》になるわけではありません。現実と向き合って生きていく中では、無理にでも自分自身の答えを選び取らねばならない場面が出てきます。そこで自分なりに《決断》することは、己自身に対しての――同時にこの世界に対しての、私たち一人一人の《責任》です」
 夜が更けるにつれて、次第に消え始めたミトーニアの街明かり。それを見つめたままクレヴィスはしばらく黙っていた。
 彼はルキアンの肩に手を置くと、厳かな口振りで話を再開する。
「その責任を自覚しなければ、人は己を見失い、自分勝手に放埒や横暴を行ったり、あるいは日和見的な偽善や欺瞞に流れてしまい、真に《自由》ではいられなくなります……」
 クレヴィスの面差しは普段と同様に穏やかだが、それと裏腹に言葉は厳しかった。柔和さの中にも断固とした熱意が満ちている。
「たしかに私たちは、他人の様々な考え方に対して寛容であるべきですし、常に自らを戒めて偏見を廃し、即断を避け慎重でありたいものです。しかし自分自身の取るべき決断に関する限り、《終わりなき相対性の迷路》の中にいつまでも心地よく居座り続けるなら、それは結果的に無責任だと私は思います」
 目を丸くしたまま聞き入っていたルキアン。彼はつばを飲み込むような仕草をみせた後、どういうわけか茶目っ気のある様子で反応した。
「厳しい――ですね」
 奇妙な表情。少年は幼げな微笑を口元に浮かべている。だが彼の言葉は、落ち着いた雰囲気で紡ぎ出された。
「厳しいけど、そうなんでしょうね。《答え》が見つからない。だけど心の底では、完璧な答えなんて見つかりそうにないと感じている。それでも開き直って、ずっと答えを《探すふり》をし続ける。よく分かります、だって僕自身がそうですから。怠け者が求道者ぶって。そうすれば、現実からうまく逃げられたみたいな錯覚――都合のいい夢を見られるから。不条理な現実とぶつからずに済むし、それでいて自分にも他人にも理屈の上では顔向けできるから……」
 ルキアンは恥ずかしそうにうなずく。今までの自分の弱さを認め、クレヴィスにも同意を求めているように見えた。
「僕は怖かったんだと思います。甘えていたんだと思います。ずっと、そうしていたら楽だったかもしれない。《幸せ》だったかもしれません。だけど今は――答えというのは《向こうから現れてくるもの》ではなく、《自分の手で決めるべきもの》だと考えています」
「ルキアン君……」
「なんて、偉そうなこと言っちゃいましたけど……。僕、口で言うだけなら得意なんです」
 ――笑顔、ですか?
 初めてルキアンの笑顔を見たクレヴィスは、冷静沈着の権化のような彼には珍しいことだが、唖然として口を半開きのままにしていた。
 ルキアン自身、シャノンとトビーの件で深い心痛を抱えているはずなのに、自然と微笑んでしまっていたのだ。辛いからこそ、なのだろうか?
 悲しげに同情するような、それでいてどこか嬉しそうな微妙な顔つきで、クレヴィスは言った。
「今日の出来事は、永遠に抜けない棘を心に突き刺されたかのごとき、そんな酷い体験だったことでしょう。その結果、などと言うと随分冷たい表現かもしれませんが、ルキアン君は何かをつかんだようですね。今日の日のあなたの気持ち、忘れてはいけませんよ……」
 全くの偶然にせよ、クレヴィスの締めくくりの言葉は、あのときリューヌが口にしたそれと同じものだった。
「また後であなたに色々と聞きたいことがあります。申し訳ありませんが、私はそろそろカルと指揮を交代しなければいけませんので、これで……。あの頑丈な男にも少しは仮眠を取ってもらわないと、明日からの戦いに差し支えます」
 立ち去ろうとするクレヴィスに、ルキアンは一礼した。
「お忙しいところ、ありがとうございました。それでは僕も……。本当はシャノンやトビーと一緒にいてあげたいのですが、診察中に入ってきてはダメだと、シャリオさんがおっしゃってましたから」
 再びお辞儀すると、くるりと身を翻して駆け出すルキアン。
「僕、アルフェリオンのところに行ってきます。もっとあのアルマ・ヴィオのことを知りたいですから。中の仕組みとか、ガダック技師長に色々と教えてもらわなきゃ」
 少年のほっそりした背中を見つめ、クレヴィスは微笑をたたえている。

 艦橋に戻ろうと歩き始めたクレヴィス。
 すると彼に後ろから追い付き、並んで話しかける者がいた。
 その素っ頓狂な声はメイだった。彼女はルキアンの方を顎でしゃくる。
「何、あれ?」
「さぁ……。どうしたのでしょうね」
 クレヴィスは意味ありげに笑っている。
「全然違う人みたい。変だと思わない?」
 メイは自分の頭を小突きつつ、大げさな身振りで言った。
「墜落したときに頭でも打ったのかな?」
「ふふ。それはいけませんね。では彼もシャリオさんに診てもらわないと」
「何だかなぁ……。妙にハキハキしてるし。ルキアンのくせに!」
 悠然としたクレヴィスとは対照的に、メイは盛んに喋り立てる。
 クレヴィスはにこやかに同意するのみ。
 と、メイが急に真顔になった。歩幅の違うクレヴィスをせわしく追いかけ、彼女は腕を引っ張って止める。あの彼に対してこんな乱暴な振る舞いをするのは、たぶん世界中でもメイぐらいのものだろう。
 立ち止まって小首を傾げるクレヴィス。
 メイは彼を見上げて懇願するような目をしている。
「正直、ちょっと不安なの。あの子が物凄い早さで変わっていくのを見ていると……。だって、あたしたちがコルダーユでルキアンと初めて出会ってから、まだ1週間もたってないんだよ!?」
 メイはさらに続ける。
「最初に会ったとき、なんて分かりやすい子だろうと思った。真面目で、引っ込み思案で、神経過敏で、思い込みが強くて。でも今じゃ、あたし分からない――これからのルキアンの姿が」
 べそをかいているような顔つきで、メイは態度に困ってうつむく。
 クレヴィスが優しく告げた。
「彼自身にも、誰にも分かりませんよ。未来のことなど……。ルキアン君を心配してくれてありがとうございます。これからも彼をよろしく頼みましたよ」
 彼は少し姿勢をかがめ、目を細めてメイを見た。
「それにメイ、あなたもそろそろ休んでおかないと。こんなところで油を売っていてはいけません。今日もよく頑張ってくれましたから、疲れたでしょう?」
 どことなく、ふてくされた子供を思わせるメイの様子。
 彼女は心の中でクレヴィスに向かって問いかける。
 ――どうしていつも誰にでもそんなに優しいの? だけどあなた自身は、この世界の中でひとり、舞い降りた天使のように超然として透明な存在……。
 離れていくクレヴィスを一瞥し、メイはうつむく。
 震える肩先。彼女は小さな声でつぶやいた。
「でもあなただって、心に深い傷を抱えているのに……」

 ◇ ◇

 薬品臭の漂う白壁の空間を――痛みが静かに支配していた。
 重々しい空気が医務室に垂れ込め、圧倒的なまでの悲壮感は、中にいる者たちの心を押し潰そうとする。
 だが、その重圧と必死に対峙する2人の女性がいた。ここはまさしく彼女たちにとっての戦場だ。
 白衣がわりの簡素な僧衣をまとったシャリオが、目を見開いたまま立ちすくんでいる。見事な黒髪を結い上げ、露わになった首筋や横顔からは、多分に血の気が失われていた。
 フィスカの声も今ばかりは重く沈んでいる。看護助手の彼女は、シャリオの傍らで薬や器具の準備に忙しい。
 診察台に寝かされた血だらけの少年は、ぐったりとして身動きひとつしない。半死半生の状態でクレドールに収容されたトビーであった。
 明るい室内で見ると、少年の無惨な姿は、練達の戦士でも目を覆いたくなるような変わり果てたものだった。
 獣が人間を襲うときには、獲物の息の根を少しでも早く止めるために、致命的な箇所を狙って襲いかかるという。だが、あのならず者たちは正反対だった。逆に獲物の死の苦しみを長引かせることこそ、彼らにとっては楽しみを長持ちさせることに他ならないのだから。
 時に人間は野獣よりも遥かに冷酷な生き物となる。あの傭兵たちも、自らの残忍な喜びを満足させるため――たったそれだけのために――人の皮を被った魔獣の群れと化したのである。
 トビーをここまで運び込んできたルキアンは、もちろん彼の酷たらしい有り様を直視できなかっただろう。だがシャリオは医師として、あるいは神聖魔法の施術師として、その地獄と向き合わねばならないのだ。

 沈鬱な雰囲気の中、シャノンのすすり泣く声が背後から聞こえてくる。
 時折、フィスカが心配そうになぐさめるが、効き目は無に等しかった……。
 虚ろに怯えたシャノンの目には、ルキアンに見せたあの生き生きとした光はもう戻らないのだろうか? 悪漢たちからの陵辱によって受けた心の傷は、底知れぬほど深く、癒え始める気配すらなかった。

 長い溜息の後、不覚にもシャリオは目まいを感じ、がっくりと肩を落とす。
 そのまま倒れかねない様子だったため、フィスカが慌てて支えた。
「シャリオ先生、お顔の色が……」
「大丈夫です。すみません、フィスカ。弱気なところを見せてしまって」
 シャリオは悔しそうに首を振った。彼女はフィスカに耳打ちする。
「わたくし、神殿にいた頃には、主に病気にかかった人の治療を担当していたものですから。暴力によってこれほど酷たらしい姿にされた身体を目にしたことは、あまり……。でも、いけませんね。仮にも飛空艦の医師が、こんなに情けないありさまでは」
 シャリオの指先はなおも震えている。長衣の胸元が上下するのが分かるほど、彼女の息も荒い。正直な話、驚きと怖気で頭の中が真っ白になっているのだ。
 ――まだ若いフィスカのような子でさえ、必死に冷静さを保っているのに。いい年をした神官の私が取り乱してしまって。情けない!
 いかに神殿で施療に携わった経験があるとはいえ、シャリオは、ずっと聖域の中で書物に埋もれて過ごしてきた純粋培養の人間である。何の因果かクレドールに乗り込むことになるまで、彼女自身は俗世の汚れとは無縁の存在だったろう。
 そんな彼女にとって、ならず者たちがトビーやシャノンに行った暴虐の数々は、おぞましさのあまり口にもできないものだった。
「でも負けられません。これは私の戦いですもの。争い事をあれほど避けていたルキアン君だって、どんなに心を痛め、悲しい思いをしながら悪人たちと戦ったことか……」
 決意の表情。両手を胸に当て、シャリオは大きくうなずいた。
「頑張りましょう、フィスカ。私たちは私たちにできる方法で、信じるもののために手を尽くさなければ」
 シャリオは首から下げた聖なる護符を握り締める。いついかなる時も彼女が慣れ親しんできた、その冷たい金属の肌が、半ば条件反射的に正気を取り戻させた。
 ささやくような祈りの後、彼女は毅然とした声で言う。
「少し手の込んだ儀式魔法を使います。フィスカ、私の指示に従って下さい」
「ま、マホウですかぁ? 手術じゃなくて……」
「ほらほら、早く。遊びではありませんよ」
 気を取り直して聖杖を構えると、そのまま目を閉じるシャリオ。
「まずは下準備として、この部屋の中を清め直します」
 シャリオは杖の先で床に円を描く仕草をした。その輪の中にフィスカを押し込むような身振りをした後、彼女は小瓶を手に取り、聖別された水を何度か振り撒いた。
「わたくしが合図するまで、このサークルの中から決して出てはいけません。しばらく辛抱してください」
「はい?」
 フィスカは興味津々でシャリオに近づこうとするが、鋭くたしなめられてしまった。当然と言えば当然だ。素人が魔法の儀式に関わる場合、何事にも慎重に振る舞うに越したことはない。
 シャリオの使う術は神聖魔法なので、滅多な危険はないはずだが――ある種の系統の呪文を用いる場合であれば、術の最中に魔法陣から一歩でも出てしまったが最後、召喚された霊的存在に魂を持っていかれてしまうこともあり得る。
 精神を集中し、呪文の詠唱に入り始めたシャリオは、普段とうって変わって恐ろしいほどの威厳に満ちている。やはり《準首座大神官》の位は伊達ではない。その神々しさには身震いしそうだ。
「あ、あのぉ、今の先生、何だか怖いですぅ。いつもと違うんですけど……」
 あのフィスカでさえもシャリオの崇高なオーラに圧倒されてしまい、息を飲んで突っ立っている。
 トビーの吐息が苦しげに聞こえてくる。その弱々しい呼吸さえ、今にも途絶えそうな姿……。
 シャリオは眉間に皺を寄せ――おぞましき虐待の跡も生々しい少年の身体を、いまだに目を反らしそうになりつつも、必死に見つめようとする。トビーの傷に自らも痛みを覚えるような気持ちで。
 ――どうしてこんな酷いことを? 人間を、他人を馬鹿にしないでください。このように自分勝手な横暴がまかり通る、現在のオーリウムを変えるために、そして穏やかな毎日や秩序を取り戻すために、私も私なりのやり方で全力を尽くします。それが無意味で孤独な試みではないということを、思い出させてくれたのが……あきらめを熱意に変えてくれたのが、このクレドールです。今、船のみんなも精一杯に頑張り、自分自身の戦いを貫いている。
「だから、私も――負けません!」
 シャリオが決意を込めて手をかざすと、膨大な魔力が光となって集まり、さながら黄金色に輝く霧のようにトビーに降り注いだ。
 凄惨な状況とは裏腹に、神聖魔法の慈悲深き恵みは、あくまで穏やかだった。
 聖なる癒しの光。シャリオの静かな戦い……。

 ◇

 ルキアンもまた、己自身の戦いを続けていた。
 シャノンとトビーを医務室に託し、後は祈ることしかできない彼だったが、哀しみに打ちひしがれている場合ではない。
 現実には戦争の最中なのだ。その戦争を、少なくとも内乱を終わらせない限り、かりそめの安らぎすら王国にはあり得ない。明日にもナッソス家との決戦が始まるかもしれない今、ルキアンが為すべきことは……。

 クレドールの格納庫でルキアンはアルフェリオンを見上げていた。
 他にもデュナ、ラピオ・アヴィス、アトレイオス、リュコス、ファノミウルの姿がある。幸い、いや、奇跡的にも――昼間の艦隊戦で大きな損傷を受けたアルマ・ヴィオはひとつもないため、ガダックをはじめとする技師たちもいくらか手が空いている様子だった。
 むしろ《墜落》したアルフェリオン・ノヴィーアの点検の方が、クレドールの技術陣にとっての急務である。銀色の機体に作業台が据え付けられ、沢山の整備士たちが行き交う。
 今ではルキアンも、自らの手足となるアルフェリオンのことを少しでもよく知ろうと考えている。エクターとして……。
 アルフェリオンのことを人殺しの道具だと思い、内心では嫌い、避け続けてきた彼であったが、少しずつ変わり始めていた。

 ルキアンの隣には、薄桃色の可愛らしいドレスを着た娘が居た。もう1人の哀しみの少女、メルカである。
 凄惨なトビーの姿を幼い彼女に見せるべきではない、というシャリオの配慮により、メルカはしばらく医務室から離れることになった。
 トビーを医務室に運び込んだルキアンは、自らメルカを連れ出した。彼女との間にできてしまった心の溝を少しでも埋める機会になれば、と思ったのだ。
 相変わらずルキアンに口をきこうとしないメルカ。
 けれども――彼女の片方の腕は熊のぬいぐるみを抱きしめていたが、もう一方の手はルキアンの手を大人しく握っていた。許したわけではないが、許さないわけでもないという、微妙な意思表示かもしれない。幼い彼女なりにも、きっと他人との距離を複雑に考えていることだろう。
 メルカの小さな指をそっと握りながら、ルキアンは思った。
 ――差し伸べた手を途中で引っ込めることが、どれだけ酷いことかって……それはよく知っているよ。僕自身、今までずっと傷つけられる役ばかりだったから。だからメルカに許してもらおうなんて思っていない。だけど、メルカとの距離を少しでも引き戻すことができれば、僕はこの子の力になれるかもしれない。力に、なりたいんだ……。

 ルキアンの隣――メルカと反対の側には、ガダック技師長と1人の若手の技師が立っている。
 広い庫内に向かって大声で指示を飛ばすガダック。巨体と太鼓腹によって繰り出される声は、人間離れした音量をもつ。破れ鐘か、さもなくば砲声のようだ。隣にいたルキアンは耳が痛くなりそうだった。
 技師長とは対照的に、甲高く神経質な声で若い技師が言う。
「化け物ですねぇ、ほとんど……。あの高さから地上に激突したのに、へこんだ跡すらない。普通のアルマ・ヴィオなら木っ端微塵だったところですよ」
 ガダックが技師の背中を叩き、アルフェリオンのことを褒めちぎった。
「あたぼうよ。コイツはただのアルマ・ヴィオじゃないんだ。旧世界の――それも旧陽暦末期の機体を復元したんだからな。こんなすごい機体、滅多にお目にかかれるもんじゃない。お前らは運がいい。しっかり見ておけよ!」
 あたかも自分自身のことのように、ガダック技師長は妙に嬉しそうである。芸術家にとっての名画や名曲と同じく、優れたアルマ・ヴィオはガダックの技術者魂を揺さぶるのだろうか。
 しかし若い技師の方は、ガダックのいかつい腕で何度も背を叩かれ、迷惑そうな顔をしている。彼は手慣れた様子でそそくさと距離を取った。
 2人の様子を苦笑いしながら見ていたルキアン。
 と、今度は、ガダックの出っ張ったお腹が彼の背中に当たった。
「よぉ、ルキアン君。とんでもないことになってるぞ! わしのガキの頃からの技術者生活でも、こんなことは初めてだ」
 人懐っこいガダックは、さほど面識のないルキアンにも屈託なく話しかける。見た目には荒っぽそうな親爺だが、性格はとにかく陽気だ。
 最初のうちはメルカも、見上げるような巨漢のガダックを怖がっていた。
 ルキアンの背後に隠れる神経質な少女を、ガダック技師長は無骨な態度で懐柔しようとする。逆効果である気もしないではないが……。
「おいおい、これでもわしは女の子には優しいんだ。はっはっは。そんな顔するなって。で、あぁ、そうだ――ルキアン君、驚かないでくれよ。さっき少し調べたんだが、実はアルフェリオンの内部に異変が起こっている。中に乗っていて何も感じなかったか?」
 突然、不可解なことを言い出す技師長。そのわりに彼は、鼻歌を歌いながら点検表を眺めている。
「と、特には……」
 ルキアンには彼の言葉の意図がつかめなかった。
「コイツの中の様子、前と全然違うんだってば。ルキアン兄ちゃん!」
 ぱっちりとした大きな目の少年が、いきなり飛び出してきた。技師見習いのノエルである。
 やんちゃな少年の姿がルキアンの瞳に映る――人見知りしないノエルの明るさが、元気だったときのトビーと重なって見え、ルキアンの心は痛んだ。
 年齢的にもノエルはトビーより2、3歳年上という程度なので、余計に2人が似ているように感じられる。
 不意に表情を曇らせたルキアンに、ノエルは怪訝そうに尋ねる。
「どうかしたの?」
「うぅん。なんでもないよ……。そう、アルフェリオンに、何?」
「なんか顔が暗いよ。どうした?」
「そ、そうかな? 大丈夫、僕が暗いのは今日に始まったことじゃないし……。だからね、元気なときでもこんな顔なんだって。本当だよ。それよりアルフェリオンが?」
 苦し紛れに、ルキアンは冗談のような本当のような意味不明の理屈をこねる。
 すると、ぼんやりと宙に視線を走らせていたメルカが、その場の誰にも分からぬほど小さな変化を見せた。一瞬ではあれ、目つきが微かに和らいだ。
 ――ルキアン、笑ってる……。あんなに辛そうな顔ばかりしていたルキアンが笑ってる。こんな顔、初めて見た。どうしたのかな……。
 勿論そんなメルカの心境は、ルキアンには届いていないにせよ。
 折良くガダックが説明を始める。
「詳しく調べないとよく分からんが、見たままを言うとだな。機体の中心部にある《黒い珠》から、極めて細い糸状の組織が内部全体にくまなく伸び――まるで各器官が黒い玉っころに《乗っ取っられた》も同然の状態なんだ。クモの巣みたいなものは、今も物凄い速さで成長している。わしがこんなことを言うのも無責任な話だが、もはや除去するのは不可能だ。そのクモの糸は、伝達系や動力筋の繊維1本1本にまでも絡み付き、自分の組織と融合してしまう力を持っているらしい。ともかくエラいことになっちまってるのに、中に乗っていた君が特に変化を感じなかったなんて、にわかに信じろという方が無理な話だ。あの真っ黒な謎の器官について、お師匠は何か言ってなかったかい?」
「多分、その黒い珠のことだと思うのですが、カルバ先生は正体不明の器官をこの機体に移植したとおっしゃっていました。アルマ・ヴィオの能力を増強するためのものらしいとか、何とか。でも先生も十分にご存じではなかったようです。そもそも、というか、その《謎の器官》がどんな機能を持っているのかを解明するために、僕がテスト操縦をすることになっていたんです。あの事件が起きなければ……」
 師・カルバの名前は、近くて遠い記憶を否応なく呼び戻した。
 今では幻だったようにすら思えるコルダーユでの日々。その情景がルキアンの脳裏を足早に通り過ぎる。
 カルバは本当に死んでしまったのだろうか? そして彼の娘・ソーナは、ルキアンが儚い思いを寄せていた美しき人は、今、どこでどうしているのだろうか? さらに、ここにいるメルカの未来は?
 さしあたり自分の力ではどうしようもない心配だけが残った。
 どうしようもない? 空虚なイメージ。
 冷たい自分。そんなものか、所詮? いや、違う……。違うのか?
 だが中途半端な妄想は一気にかき消されてしまった。
 《黒い珠》の話からリューヌの姿が連想され、否応なく、彼女の謎のことでルキアンの心の中が一杯になってしまったからである。
 ――あのときリューヌは、アルフェリオンと一時的に《融合》すると言った。そういえば、ならず者たちと戦っている間、ノヴィーア本来の声は全く聞こえなかったな。ノヴィーアはリューヌに乗っ取られていた? いや、最初の融合の時点で完全に乗っ取られた?
 何故か他人に教えるのがはばかられ、ルキアンは、現段階ではリューヌのことを技師長に告げなかった。クレヴィスだけには先ほど話したのだが。
 黙り込んでしまった彼をしげしげと眺めながらも、ガダックは話を続ける。
「いや、内部だけじゃないぞ。アルフェリオンの両手付近の装甲に至っては、昼間のときと外形そのものが変化している。少しゴツくなったような感じだ」
「それは……。僕が今晩、暴漢たちと戦ったときに変化したんです。本当です。すごく腹が立って、むちゃくちゃな話ですが――この手であいつらを引き裂いてやりたいと思ってしまったときに、変わったんです。腕全体の形が今よりもっと刺々しい形に。爪も刃物みたいになって」
 ルキアンは自分の手を握り締め、じっと見つめた。
 ガダックは意味ありげに苦笑いしている。よく観察してみると、以外にも的を射たりという表情だ。
「腹が立ったら、アルマ・ヴィオの姿が少し変わっただって? ふぅむ。それから、後でおおむね元の形に戻った? そいつは突拍子もないことだ。しかしまぁ、分からんでもない。たまにではあれ、《変形》するアルマ・ヴィオを見かけるだろ? ほれ、飛空艦ラプサーのあの子――プレアーちゃんの乗っている《フルファー》な。それからルキアン君も戦っただろ、あの《アートル・メラン》もだ。これらのアルマ・ヴィオは、飛行モードと人型モードを持っている。その他に陸戦型と人型の姿を使い分ける機体も、世の中にはあるぞ」
「……なるほど。そ、そう言えばそうですね。プレアーさんって、よく知りませんけど」
 ルキアンは曖昧に同意した。
 すると謎解きの糸口を披露し始めたはずのガダックが、今度は難しい顔で溜息をつく。先程の自分自身の発言に対して、大いに疑問が残ると言わんばかりに。
「しかしだ、ルキアン君。予め決められている別形態への《変形》ならともかく、あのクモの糸のことは説明がつかん。勝手に《成長》するアルマ・ヴィオなんて聞いたことがないぞ……。例のプレアーの愛機も旧世界のものらしいが、変形前の基本形態は、以前からずっとどこも変わっていないらしい」
 と、技師長の立派なお腹を押しのけるようにして、ノエルが急に横から顔を出した。
「知ってる、ルキアン兄ちゃん? プレアーって、めっちゃ可愛いだろ。でもアイツ、いーっつも兄貴にべったりくっついてんだぜ。なんかヤバくない? 兄妹なのに。あ? 痛いってば! 何すんだよ、おっちゃん!」
 ませた口調で得意げになって語る少年を、ガダックが小突いた。
「無駄口たたく暇があったら、こいつの腕の1本でも調べてろ」
 技師長は呆れ顔でアルフェリオンの方を指す。
 ルキアンは適当な言葉が見つからず、白々しい作り笑いを浮かべてごまかしている。
 それにしてもガダックとノエルは、まるで賑やかな親子のようだ。
「え、えっと。プレアーさんはともかく。いいじゃないですか、まぁ。それで、少なくとも、どうにかすればアルフェリオンがもっと別の姿に変形したり、新しい能力を発揮したりできるということですか?」
 強引に話を元に戻したルキアン。
 彼の必死な様子が可笑しかったので、ガダックは笑いをこらえながら答える。この技師長も相当に呑気な男、いや、楽天家だ。
「はっはっは。すまん。歳取ると口元の締まりが緩くなってしまっていかんな。あぁ、その可能性もあり得る。なんだ、その――さっきの、腕にトゲが生えたり、ブレードが出てきたりするというワザは、少なくとも使えるはずだろ? だが今の段階では何とも言えんよ。わしは基本的に修理屋だからな。その手のややこしい理屈は、クレヴィス副長にでもに聞いた方が早いと思うぞ。それより、アルフェリオンの内部をもう少し調査させてもらって構わんかね?」
「はい。よろしくお願いします。僕もご一緒して構いませんか。邪魔しないように見てますから……」
 途中まで話しかけて、急にルキアンは、恥ずかしそうにぺろっと舌を出した。遠慮がちに照れ笑いしつつ彼は言い換える。
「じゃなくって、僕もお手伝いしますから――ですよね。すいません。いつも言われるんです。気が利かないって」
「いや、気にすんな。ルキアン君は、お宝の天使様を世界でただ1人扱うことのできる、いわば一騎当千のエクターだ。もしここで君がケガでもして動けなくなったら、わしのせいで王国が滅んだ――なんてことにもなりかねんからな。はっはっは。ここで黙って見ててくれ。何かあったら質問するから!」
 ガダックはおどけた調子で肩をすくめると、大きな体を揺らしながら、側の階段を下に向かって降りていく。
 格納庫の壁から突き出たバルコニーのようなところに、ルキアンはメルカと共に残された。恐らくここは、格納庫での作業全体を監督するための場所なのだろう。
「ほら、メルカちゃん。メイやクレヴィスさんの乗っているアルマ・ヴィオだよ。沢山あるね……」
 気まずい沈黙を破って、階下を指差すルキアン。
 それに気づいた1人の技師が手を振った。
 しばらくして、この技師に向かってガダックが指示を飛ばし始める。そうかと思うと、ノエルがまた何か騒いでいる。
 仲間たちの働く様子を眺めるうちに、ルキアンは自然とつぶやいていた。深い感謝の念を込めて。
「僕、ここに居てもいいんだよね? ありがとう……」
 その答えはルキアン自身にも分かっている。
「もう迷わない。僕の帰るべき場所は他のどこでもない、この船なんだもの。みんな、ありがとう。僕を受け入れてくれて」
 ルキアンのつぶやきを、メルカは黙って聞いていた。微かにその小さな体が震えているような気がする。
 やりきれない心持ちで、ルキアンの口から言葉が溢れ出た。こんな台詞を吐いても何も変わらないと彼は思ったが、言わずにはいられなかったのだ。
「ごめん、メルカちゃん――この船に乗るために、僕は君を置き去りにしようとした。すごくショックだったよね。もう、僕の顔なんか二度と見たくないと思ったかもしれないよね……。謝りようもない。僕はひどいヤツだ。何と言ったらいいのか分からない、分からないけど――だけど、この船は僕にとってそれほど大切なんだ。わがままで、すまない。でも僕の未来は、この船に……。僕は全てを賭けたんだ、クレドールに!!」
 様々な思いを心に秘め、ルキアンは指先に力を込めた。
 メルカの華奢な掌も、心持ち、それに答えてくれたような――そんな気がした。ルキアンの身勝手な空想かもしれないが、それでも確かに……。

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