HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第26話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  過ぎ去った日々を――過去を変えることは不可能である。
  だが未来を変えることによって、
  失ったものを取り戻すことはできる。
  人という非力な存在も、
  そうすることで運命という化け物に立ち向かえる。



 夜の闇に濛々と立ち込める土煙。
 風に煽られて燃え広がる野火。赤々と空を染めて。
 炎と煙の間から、節くれ立った脚のようなものが伸びてくる。
 途方もない大きさだ。さらにもう1本、また1本……。
 その様子を遠巻きに睨みつつ、じわじわと後退するアルマ・ヴィオの列。議会軍の火力支援型ティグラーの群れである。通常のティグラーとは異なり、沢山の砲身を備えた多連式MgSを背負っている点が特徴的だ。
 ――駄目です、びくともしません!!
 エクターの一人が声を震わせる。
 彼らが強力な魔法弾の雨を降らせたにもかかわらず、爆煙の向こうにいる敵は何のダメージも受けていない。
 鋼の虎たちの警戒するような唸り声。
 突如、巨大な3本角が突き出され、数体のティグラーをひと振りでなぎ払う。凄まじい力で跳ね上げられ、弾き飛ばされ、議会軍の部隊はたちまち総崩れとなる。
 その角に続いて、視界を遮る山のごとき物体が現れた。
 金属的な光沢を放つ赤黒い表面。動く要塞とでも言うべき巨体だが、紛れもなくアルマ・ヴィオに相違ない。
 《スクラベス》――議会陸軍の誇る強力な陸戦型重アルマ・ヴィオだ。カブトムシを模した昆虫型の機体である。
 この特殊なアルマ・ヴィオが配備されている数少ない場所のひとつ、それが《レンゲイルの壁》だった。スクラベスの背後に遠く点々と連なって見える光が、まさにその要塞線である。
 レンゲイル軍団の切り札として、スクラベスはこれまでガノリス軍の侵攻を幾度となく食い止めてきた。だがギヨットが反乱を起こして以来、その力は皮肉にも議会軍に向けられることになってしまった。
 激しい砲火を物ともせず、スクラべスは敵陣地に平然と突き進んでいく。
 重々しい地響き、魔法金属の分厚い外骨格が軋む音。
 ――これ以上戦線を押し戻されてはならん! 第2中隊、前へ!!
 指揮官の命を受けて、白とブルーの汎用型アルマ・ヴィオ、ペゾンが横隊を組む。すらりとしたボディに胸当てを付け、背丈の倍近い長さのMTランスを装備している。軽装で機動性に富む槍兵というところだろうか。
 ――横列密集隊形、敵の進撃に対して構え!!
 方陣から横隊へと移行する各機の動きは、整然としてしかも素早い。
 槍の石突きの部分を地面に突き立て、そのまま腰を落とし、斜めに構えて槍ぶすまを作る。騎馬隊の突撃に対して歩兵が取る構えのひとつである。アルマ・ヴィオによる戦闘も、そのスタイルにおいては人間同士の戦いとさほど変わらない。
 だがスクラべスはペゾンの槍先など恐れることなく、悠々と前進してくる。
 ――駄目です。隊長、支え切れません!!
 ――何て馬力だ。こちらは10機以上なのに押し戻されているぞ!
 必死に立ち向かおうとすればするほど、繰士たちは力の違いを思い知らされるだけだった。

 スクラべスが敵の前衛を突破したのを見て取り、背後から反乱軍の部隊が突撃してくる。
 そこにも多数のペゾンの姿があった。同じ機体同士、以前の仲間同士が刃を交えねばならぬという現状を、その光景は露骨なまでに示している。
 反乱軍の機体には敵味方の識別のための旗印が描かれていた。黄色い下地に、オーリウム王国の紋章である孔雀。正規軍・反乱軍ともに祖国の旗を掲げて殺し合うという、悲惨な戦場……。
 敵部隊の激しい攻撃を受け、議会軍はあっけなく敗走し始めた。
 昨晩以来、レンゲイルの壁一帯で同様の事態が繰り返されている。これまで要塞線に立てこもっていた反乱軍だが――《黒いアルマ・ヴィオ》の攻撃により、正規軍の増援部隊が壊滅的な被害を受けたのをきっかけに、にわかに攻勢に転じたのだ。
 知将ギヨットの用兵は巧みであり、配下の部隊も付近の地理を知り尽くしている。反乱軍の神出鬼没の戦法に、《壁》を包囲する議会軍は右往左往し、次第に数を削られていくばかりであった。

 ――もはや引くしかないのか……。
 スクラベスの圧倒的なパワーと敵軍の猛攻の前に、議会軍側の指揮官が断念しかけたそのとき。
 突如として、反乱軍の側面に魔法弾が次々と炸裂した。
 夜気を揺るがすような猛々しい雄叫びが聞こえる。暗闇の向こうから、陸戦型アルマ・ヴィオの群れが物凄い速さで近づいてくる。
 その間、まさに一瞬だった。
 不意を付かれた反乱軍。新手のアルマ・ヴィオが野獣のごとく襲いかかる。
 ――レオネスだ。助かった、皇獅子機装騎士団が来てくれたぞ!!
 ライオンの姿をしたアルマ・ヴィオを見て、議会軍の繰士が歓声を上げた。
 王都近郊を守護する皇獅子機装騎士団は、レンゲイル軍団と並んで議会陸軍最強の部隊だ。名にし負う獅子の軍勢は怒涛のごとく敵方を打ち倒していく。
 中でも見事な活躍を見せるレオネスが1体。
 疾風さながらの速さで敵陣に突入し、その鋭い爪を振るい、輝く光の牙――MTファングを突き立てる。獅子というよりはむしろ豹を思わせる俊敏な動き。敵のMgSをひらりと回避し、寸分たがわぬ反撃によって瞬時に仕留めてしまう。
 だがそのレオネスは決して敵にとどめを刺さなかった。神業ともいえる腕前で相手の脚や武器のみを破壊し、戦闘不能に陥れている。
 ――お前ら、いい加減に目を覚ませ! どうして同じオーリウム人のオレたちが、争い合わなきゃいけないんだ!?
 反乱軍の繰士たちに向かって、レオネスのエクターは熱く叫んだ。
 ――オレたちの本当の敵は帝国軍だろ? なぜ分かろうとしない!?
 そう。あの噂のレオネス使い、クロワ・ギャリオンの声だった。
 ――勝手なことを! わが王国を連合軍と心中させるつもりか? オーリウムは帝国と共に生き残るのだ!!
 クロワの言葉に耳を傾けることなく、敵方のペゾンが突きかかる。
 レオネスは背中のMgSを素早く放つと、ペゾンの槍を弾き飛ばす。
 自らの槍が宙を舞うのを敵エクターが目にしたとき、すでにレオネスの牙は彼の機体に喰らい付いていた。
 ――ば、馬鹿な!?
 一瞬にして崩れ落ちるペゾン。

 クロワのレオネスの姿を、はるか上空から捉えている者があった。
 反乱軍の飛行型アルマ・ヴィオが彼を狙っていたのだ。鷲をモデルにした最新鋭の機体、アラノスである。元々は対飛行型用の要撃タイプだが、その鋭い鉤爪は陸戦型アルマ・ヴィオにとっても脅威となる。
 ――まんまと誘き出されたな。しかもレオネスの群れとは大した獲物じゃないか。
 アラノスのエクターがほくそ笑む。
 他にも同じくアラノスが2機。ちなみに飛行型の場合、基本的に3機で一個小隊となる。
 地上では向かうところ敵無しのレオネスだが、陸戦型アルマ・ヴィオの常として、空からの攻撃には苦戦を強いられる。クロワたちを狙って猛禽たちが今まさに急降下しようとする。
 が……。降ってわいたかのごとく、アラノスの行く手を黒い影が遮った。
 アラノスは並みの飛行型など足元にも及ばぬ速さを誇る。にもかかわらず、黒い影は軽々と追いつき、抜き去ったのである。
 レオネスと同様、それは獅子の咆哮を轟かせた。
 《鳥》ではない。《獣》だ。
 大空を舞うための翼。それと併せて、空に生きる物には無いはずの4本の脚。
 しかし獅子でもない。頭部には鋭い2本の角。
 長い尾は蛇のごとく鎌首をもたげ――否、舌をちらつかせるそれは、本物の蛇だ。
 その異様な姿を目の当たりにして、アラノスの繰士たちは背筋を凍らせた。
 イリュシオーネの人々にとって、夜というのは《人の時間》ではなく《魔が支配する時間》に他ならない。漆黒の夜空に浮かんだ異形の影は、パラミシオンからさ迷い出た妖魔であろうか。
 いや、アラノスの乗り手が震え上がったのは、もっと別の理由による。目の前の相手が仮に異界の妖魔ならば、まだましだったろう。
 エクターにとって遥かに恐ろしい存在。
 反乱軍の繰士たちは戦慄した。
 ――まさかあれが、魔獣キマイロスなのか?
 ――ギルド最強の繰士。《緑翠の孤剣》カリオス……。
 3機のアラノスが威嚇するように鳴く。明らかに怯えていた。アルマ・ヴィオも生き物である。キマイロスの放つ凄まじい重圧感に、アラノスの群れは本能的に生命の危険を感じているのだ。
 ――分かっているのなら、話は早い。貴君たちの相手はこの私です。
 そう伝えたのは意外なほどに平凡な声だった。
 最強のエクター、カリオス。果たしてどんな荒々しい声が聞こえてくるのか、あるいはどれほど不気味な声なのかと恐れていた敵は、思わず耳を疑っている。
 拍子抜けしたのか、相手のエクターたちはわずかに勇気を取り戻した。
 ――いくらヤツが強いといっても、ここは空の上だ。飛行型でもないアルマ・ヴィオがアラノスに勝てるわけがない。
 ――そ、そうだ。こっちは3機だ。一斉にかかれば。
 アラノスが1機、突然、抜け駆けしてキマイロスに襲い掛かった。
 ――こいつを倒せば昇進も褒賞も……。もしかしたら勲章モノだぜ!!

 刹那、夜空を染めてかき消える炎。爆発。そして飛び散る破片。

 ◇ ◇

「もう、失うものが無くなってしまったね……」
 《彼》は哀しい夢を見るような目でつぶやいた。
 金の縁取りをあしらった純白の長衣と、その上に羽織った淡い水色のクロークが、そよそよと風に揺れている。
 涙……。霞の向こうに立つ不思議な少年を、カリオスは呆然と見つめた。
「僕を呼んだね? はじめまして、僕の名は《テュフォン》」
 見知らぬ少年。そして不可解な言葉。
 だがカリオスは地面に両膝を付き、絶望に身を震わせるのみ。
 彼に同情するように、少年は恭しく一礼する。その恐ろしいほどの崇高さたるや、神の御前に立つ天の使徒を思わせる。
「あなたは僕を見ても驚かないんだ。それとも驚く気力すらない、ということなのか……」
 少年からは、奇妙なことに人間の匂いが全く感じられない。一種の不気味さすら覚えるほど、超然として神々しかった。
 彼の周りには微かな風が渦を巻いている。風の精――だろうか? 中性的な外見は、どことなく精霊の類を髣髴とさせる。
 その揺れる髪は、宵はじめの空のごとき、どこまでも透き通った淡い空の色。
「どうする? あとひとつだけ残っているものも捨ててしまえば、いますぐ苦しみから解放されるよ」
 桜色の唇は、少年の外貌よりもずっと幼い声をもらす。そんな罪の無い声とは裏腹に、彼は冷酷な台詞を平気で口にした。
「そうすれば、悲しみのない国で家族が暖かく迎えてくれるのに。もう、十分頑張ったじゃない。誰も責めたりなんかしないさ」
 カリオスは拳を大地に叩き付ける。血のにじむ手を握り締め、彼は独り言のように吐き捨てた。
「馬鹿なことを。俺はあきらめない。生き続ける、たとえ憎しみを糧にしてでも……。そうしなければ、みんなの気持ちが全て無駄になる!!」
「聞こえてるんだね。だったら、ちゃんと返事をしてほしいな……。最初から分かってる。もし自分の生や未来への執着を捨て去っていたなら、あなたの声は僕に届かなかっただろうから」
 物憂げに目を細める少年。
 カリオスは徐々に我に返っていく。だが、表情を失ったままの彼の顔には、なおも涙が伝う。
「君は……何者だ?」
 黒目がちの少年は、不意に無邪気に微笑む。
「変わった人だね、今頃驚くなんて。さぁ、何だと思う? 案外、天使かもしれないよ。考えようによっては悪魔かな……。でも、どちらでも構わないよね? あなたの力になれるのなら」
 すべてを超越したような落ち着きの中に、どこかあどけなさの抜けきらぬ、子供じみた気色が時おり見え隠れする。
 それでいて永劫の時を生きた仙人を思わせる、深い理知に溢れた漆黒の瞳。

 《古の契約》――そんな言葉が聞こえたような気がした。

 ◇ ◆ ◇

 腹の底まで響く遠吠えとともに、切り裂かれる焔。
 あたかも火炎をまとっているかのごとく、角を持った獅子が姿を現す。爆炎をものともせず、凄まじい形相で猛り狂うキマイロスだ。
 魔法合金の装甲をも噛み砕くその顎には、首だけになったアラノスがくわえられている。牙の間から、鋼の潰れる音がなおも生々しく聞こえてくる。
 一般に魔獣型のアルマ・ヴィオは気が荒いと言われるが、キマイロスは群を抜いて獰猛なのだ。戦いの中でも恐れなど微塵も表さず、むしろ狩りを楽しんでいるようにすらみえる。
 それに比べてカリオス自身は平静だった。
 一流のエクターは、ほとんど無我の境地でアルマ・ヴィオを操る。わずかな空気の動きすら逃さずに映し出す、澄み切った湖面のような心で……。
 が、そんなカリオスの心の鏡に映ったものは、遠くて近い過去の光景だった。
 彼の手の中に残っていた最後の安らぎが、消え去った日のこと。
 その絶望が呼び起した哀しい奇跡――あの少年と出会った日のこと。
 ――償い切れないのは解っている。そんな俺が永久に癒されないことも承知している。しかし、俺がこうして生きている限り……生きて戦い、この世界を少しでも変えていくことができる限り……それは俺たちの勝利だ。そうだろう、キマイロス?
 彼の思いを感じ取り、キマイロスも答えた。
 夜の天上を揺るがし、大地の果てにまで届くような遠吠えで。

 ◇ ◆ ◇

「僕を憎まないの? 僕がもっと早く姿を現していたら、あなたは大切なものを失わずに済んだはずだから」
 穏やかな口調で少年は言った。
 しばらく押し黙った後、カリオスは忌々しげに首を振る。
「気休めなんていらない。何者かは知らないが、神でもあるまいし、思い上がるんじゃない。それに俺が君を恨むのは筋違いだろう。関係ない、君には関係ない。これは俺の問題、いや、戦いなんだ」
「関係、なくはないよ……。いつか分かる」
 少年はいつの間にかカリオスの目の前にいた。時間を飛び越えたかのごとく。あるいはふわりと風に舞うように。
 彼はカリオスの瞳を正面から見据えた。
 全身を何か霊的なものが通り抜けていったような、異様な感覚がカリオスを襲う。
「本当は、あなたの心は闇に満たされている。でもあなたは優しいから、口では何と言おうと、現実には憎しみを誰かにぶつけたりはしない。だから行き場のない闇が、心の中で光と同居している……。その闇を僕にくれればいい。僕はずっと待っていたんだ。あなたのような人を。このアルマ・ヴィオにふさわしい人をね」
 少年はにっこり笑って右手を高々と掲げた。
「戦うんでしょ? だったら、剣をあげる。全てを貫く天の獅子の牙を」
 大気が揺らぎ、にわかに吹き始めた風に木々がざわめく。
 いまだかつて感じたことの無い巨大な魔力のエネルギーに、カリオスは本能的に寒気を覚えた。
 少年の周囲は白熱する光に包まれ、彼の姿はもはや見えない。
 声だけが聞こえた。
「そして鎧をあげる。あなたの心は傷つき、血に染まっているから……。だけど誰もその声に答えてくれないから、苦しいけれど、自分で守るしかないものね。だから鎧をあげる……誰にも傷つけることのできない、あなたにふさわしい無敵の鎧をあげる」
 閃光の渦の中で少年はささやいた。
「目覚めよ、キマイロス。そしてわが主のために戦え。僕はもう少し《外》から眺めていることにする」

 少年の背後で得体の知れない獣の声が轟きわたった。
 突然、大地が裂け、翼を持った巨獣が堂々とした威容を現す。

 ◇ ◆ ◇

 無謀な抜け駆けを行ったアラノスを撃墜し、キマイロスは次の獲物に狙いを定めている。操るカリオスとも完全に同調しており、もはやどこにも隙がない。
 残った2機のアラノスは思うように手出しすることができず、遠巻きに周囲を旋回しはじめる。
 ――君たちの動きなど、手に取るように分かる。キマイロスの耳が、目が……風の囁きさえも逃さない。俺自身の感覚として。
 カリオスはキマイロスとの融合に心地良さすら覚えている。
 己の体の一部のように……。
 まるでカリオスのために作られたのではないかと思わせるほどに、完璧という言葉すら超えた一体感。
 あの日の少年の言葉が、さらにカリオスの心に浮かんだ。

   ――翼が欲しいんだね。だったら、大空を鳥よりも速く飛ぶことのでき
  る翼をあげる。哀しみすら追いつけないほど、高く高く飛べる翼をあなた
  にあげる……。

 アラノスの前からキマイロスが《消えた》。いや、そのように見えたのだ。
 ――何!?
 瞬時にして敵の姿が視界から失せ、アラノスの操士は目を疑う。
 一瞬、遥か頭上に影がちらつく。
 さすがに最新鋭機アラノスのエクターだけあって、彼も少なくとも並大抵の腕前ではないのだ。
 キマイロスの機影を察知して鋭くかわす。
 間一髪のところで、アラノスの鼻先をキマイロスが突っ切る。
 しかし、それはカリオスも読んでいた。わざと回避させたのだ。
 地表に激突しそうな速度で降下したキマイロスが、鋭角的に反転して翼を広げた。強靭な山羊の脚があたかも空を蹴るように動く。重々しい機体が意外なほど素早く一回転し、急上昇する。宙を駆け登るかのように。
 さきほどのアラノスを襲うかと見せて、カリオスはもう1機の背後を取った。
 が、アラノスも驚異的な旋回性能を生かし、即座にキマイロスに向き直ると、至近距離からMgSを叩き込む。
 風の精霊界の力によって、大気の渦がキマイロスを取り巻いた。目に見えない刃が無数に襲い掛かる。

   ――鎧をあげる。何者にも傷つけることのできない鎧をあげる……。

 ――無駄だ!!
 カリオスの叫びに呼応して、キマイロスが鋭く吠えた。その声に吹き飛ばされるように、機体を取り巻いていた竜巻は一瞬でかき消される。
 瞬間、付近一帯を膨大な魔力が走る。
 まばゆい光が夜空に満ち、その輝きを宿らせたキマイロスの翼がアラノスを両断する。
 ――強すぎる。こんな恐ろしい奴が本当にいるとは!
 最後の1機が不利を悟って逃げ出したとき、キマイロスの背中のMgSが火を噴いた。
 勿論カリオスが狙いを外すはずはない。敵機は炎の尾を引いて落ちていく。
 ――負けられないんだ。俺は常に勝たねばならない。そうすることでしか、俺は、俺は……。

 カリオスは心の中でそう繰り返した後、いつもの平凡な声で念信を送った。
 眼下で戦っているもうひとつの獅子、レオネスに向けて。
 ――久しぶりだな、クロワ。上の敵は私が片付けた。君の腕なら後は簡単だろう。
 反乱軍の部隊と交戦を続けるクロワたち。彼ら皇獅子機装騎士団の活躍により、さしもの強力な重アルマ・ヴィオ《スクラベス》もひとまず撤退を始めている。
 思わぬ相手からの念信に、クロワは声を弾ませた。
 ――カ、カリオス? 久しぶり、もうこっちに着いてたのか!! それより恩にきるぜ。アラノスは速いからな。下から落とすのはまず無理だ。
 ――やはり気づいていたか。さすがだな、クロワ。
 カリオスとクロワ、そしてレーイ・ヴァルハートの3人は、実力を認め合う友であると同時に、競い合うライバルでもあるのだった。
 ――いや、なぁに、上から焼き鳥が落ちてきたから。それで分かったというワケさ。お前じゃあるまいし、背中や頭の上にまで目は付いてねぇよ。
 ――ご謙遜を。じゃあ、またな。どうせすぐ会えるだろう。
 カリオスは静かに応えると、キマイロスの翼を羽ばたかせ、母艦ミンストラへと帰還していく。

 ◇ ◇

 トビーの容体が気がかりで、ルキアンは夜半前に医務室を見舞った。
 困難な手術を――正確には神聖魔法の儀式を――終えたばかりのシャリオが、部屋の隅の机で書類に目を通している。恐らくカルテのようなものだろうか。紙面に並ぶ丁寧で柔らかな文字に、彼女の人柄がよく現れている。
 傍らの書棚には旧世界の書物が詰め込まれていた。古典語で書かれたそれらの文献は、つい先日までシャリオの机の上を埋め尽くしていたのだが、今は彼女も船医としての役目を果たさねばならない。古文書の解読はひとまず後回しというわけだ。
「あ、あの。もう、いいですか?」
 邪魔をしないようにと遠慮しながら、ルキアンは小声で尋ねた。
 彼に手を引かれ、メルカも一緒に入っていく。眠気も手伝ってか、むすっとした顔で彼女は熊のぬいぐるみを抱いていた。
 ――そうだね、いつもはもう寝てる時間だもんね。でも……。
 メルカがこうして不機嫌な顔を見せているのは、ルキアンにとって、ある意味で嬉しいことだった。ネレイの街を発って以来、メルカは虚ろな目でふさぎこんだまま、喜怒哀楽の表情らしきものを持たなかったのだから。
 ――怒ってても泣いててもいい、感情が戻っているのなら。笑顔だって、いつかきっと。
 反応が無いのを知りつつ、ルキアンはメルカの髪を撫でる。夜気を吸い込んだかのように、少しひんやりと冷たい感触だった。
 白衣のフィスカがそっと駆け寄ってくる。本当は彼女も疲れているのだろうが、そんな様子は微塵も見せず、いつもの呑気な口調で言う。
「メールーカーちゃーん、今日はこっちの部屋で一緒に寝ましょうねぇ」
 少しずつではあれ、フィスカには心を許しているのだろう――メルカは黙ってうなずいた。
「ほぉら、お人形がいっぱい。わたしの部屋ですぅ!」
 向こうの方で調子外れなフィスカの声がする。それを耳にしながら、ルキアンはシャリオに一礼した。
「大丈夫。2人とも奥の病室で眠っていますわ。いま、お茶を入れますからね」
「あ、そんな、お構いなく」
「遠慮しないで。ささやかなお礼です。眠気が覚めるものと、眠気を妨げないものと、どちらがいいかしら」
 そう言いながらもハーブの入った小瓶をいくつか開けて、シャリオは手早くポットに湯を注いでいた。
 ルキアンは、どちらかと言えば居心地の悪そうな様子で椅子に掛けている。
 彼の気持ちを察してシャリオが告げた。
「あなたも、さぞや辛いことでしょう。でもルキアン君が手早い対応をしてくれたおかげで、トビー君の身体は元通りに回復しそうです。はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます。いい、香りですね……」
 茶を一口含んだ後、ルキアンは答え難そうに応じる。
 普段よりも妙にがらんとした雰囲気の医務室。
 淡々としたシャリオの声だけが、部屋の空気を静かに揺るがせた。
「自分がギルドの船に乗っている人間だということが――つまりシャノンさんたちの敵だということが明らかになってしまうのも構わず、もしかしたら、ずっと憎まれることになるかもしれないのに、あなたは彼女たちをここに連れて来てくれましたね。誠実で堂々とした振る舞いだと、わたくしは思います」
「いえ、そんな。その……」
 沈鬱な表情のまま、頬を朱に染めるルキアン。
 何とも複雑な顔つきだ。彼は二の句が継げずに口ごもっている。
 ルキアンを褒めるかのようにシャリオは優しくうなずく。だがその微笑みも長くは続かず、彼女は悲しげに目を伏せた。
「ただ、残念ですが――今のシャノンさんたちには、ルキアン君のことを冷静に受け入れるのは難しいと思います。それは分かってあげてください」
「そうですね。僕のことはいいんです。シャノンとトビーが早く元気になってくれさえすれば、僕はそれだけで……」
 以前に朝食を取ったことのある簡素なテーブルに、ルキアンはティーカップを置いた。しばらく黙っていた後、空になった手を握り締める。
 拳が震えた。いかなる心持によるものだろうか。
「仕方がなかったなんて、言いたくないのですが――あのとき僕は戦うしかありませんでした。でもどうせ戦うより他になかったのなら、なぜもっと早く戦わなかったのかと後悔しています。そうすればシャノンたちはあんな目に遭わずにすんだかもしれません。なのに、僕の決断が遅かったために……」
「そんなに自分を責めないで。ルキアン君は、最後まで暴力や流血を避けたかったのでしょう? 無闇に力に訴えることは、必ずしも勇敢な行為や正しい行為ではありません」
 大げさに首を振って、ルキアンはシャリオの言葉を遮った。
「でも……。僕、今までの自分の考え方に疑問を感じています。分からなくなってきました。暴力によって争い、血を流し合うことは勿論いけないことです。だけど、どんなときにも最後まで戦いを拒否し続けるとしたら、誰かが犠牲になるのを黙って見過ごさなきゃいけない場合もあるんじゃないかって。ちょうど、僕がシャノンとトビーを守れなかったように」
 ルキアンは自分が声のトーンを上げすぎたことに気づき、慌てて声をひそめる。そしてまた続けた。
「誰かの犠牲に見て見ぬふりをしてでも、それでも戦いは避けられれば避けた方が良いものでしょうか? さらなる争いを招かないために……。理不尽な暴力を野放しにしておくことになっても、それでも非暴力を貫いて穏便に済ます方が正しいんでしょうか? 多少の道理を曲げてでも。だけど、それが本当の《平和》だと言えるのかって、僕には――僕には分からなくなってきたんです。戦うのも戦わないのも、どっちも正しくて、どっちも正しくないような。どうなんでしょう?」
 カップを手に、しばらく宙の一点を見つめていたシャリオ。
「そうですね、私自身の答えにはならないかもしれませんが……。イリュシオーネの神々は、人間たちが争うことを決して望んではおられません。しかし何の罪もない人が傷つけられ、不当に暴力によって虐げられているにもかかわらず、その横暴を行っている者たちが話し合いには全く耳を貸そうとしないとき、それを放置しておくことが神の御意志にかなうのか? これもまた私には肯定できません。それでは一体どうすれば、どちらを選べば……」
 シャリオは襟を正して言った。
「ルキアン君。この世の中には、単純に是非や善悪の区別が付く選択など、私たちが思っているよりもずっと少ないのではないでしょうか。実際には、《どれも正しいとは言えない選択肢》の中から《よりわずかにしか誤っていない答え》を選ばねばならなかったり、逆に《どれも間違ってはいない選択肢》の中から《より正しそうな答え》を探さなければならない――そのような、判断に困る場面の方がむしろ多いのではないでしょうか」
「そうですね。たぶん僕はそのことを理解していなかったんです。今まで僕の目に映っていた現実は、何て言うのか、もっと紋切り型で、何でも白黒はっきりしているはずの世界だったんです。だから、単純に善悪の区別の付かない選択を迫られたとき、僕の思考はいつもそこで停止してしまっていたんです。もしも自分が間違った答えを選んでしまったら、それが途方もない過ちになるような気がして」
 ルキアンの話しぶりが以前よりも力強くなったことに、シャリオは複雑な思いを感じた。
 声を落としつつも、しっかりとした調子でルキアンは語る。
「でも、さっきクレヴィスさんに言われて目が覚めました。正しい答えを選ぶことができないからといって、それは決断しなくてよい理由にはならないと。無責任だ、って……。そうですよね、僕らが生きていく毎日の中では、正しい答えが分かる場合の方がずっと少ないかも。それなのに、正しい答えが選べない限りは決断しなくて構わないとしたら、僕らはほとんどの場合に自分自身の判断を下すことなく、あやふやな態度でその場をやり過ごしていればよいことになってしまいます。確かに、無責任――いや、僕の今までの生き方は、まさにそうでした。本当のところは、ただ流されてただけ。そのくせ自分が流されているということを認めたくないから、色々と言い訳を考えて、さも慎重に答えを《探している》ような顔をしていました。他人に対しても、自分自身に対しても、ごまかすっていうか、面目をとりつくろうことに躍起になっていました。あんなに弱い心なのに、自意識だけは過剰だというのか」
 赤裸々に己の本心をえぐり出すような独白。
 それが終わって急に恥ずかしくなったのか、ルキアンは頬を紅潮させ、シャリオに背を向ける。そして長いため息の後、振り向いて言った。背筋を伸ばし、懸命に顔を上げて。
「こういう言い方ってイヤですけど、はっきり言えば、要するに甘えてたんですよね……」
 シャリオは敢えて言葉を差しはさまず、少年の語るに任せた。
「平穏な毎日の中では、それでもどうにかやってこれました。だけど、その甘えが極限状態で通用するはずなんてなく、僕の甘えのせいでシャノンたちが犠牲になってしまったんです」
 ルキアンは語り続けた。
 痛々しいほどに、容赦なく、今までの自分にメスを入れていく。
 それでもこうして話を聞いてくれる人間の存在が、ルキアンにとっていかに尊かったか。もちろん、苦しみ迷う者の声に耳を傾けることは、神官としてのシャリオの仕事でもあるのだが。
「己のいたらない点を厳しく見つめ直し、素直に自分を変えていくことができるというのは、ルキアン君のとても優れた資質です。ただ、あなたはとても若いのですから、そんなに自分の過ちを責め過ぎるのもどうかと思いますよ。失敗するからこそ、人はそこから学ぶことができるのです。どうか、気づくのが遅すぎたなどとは考えないでくださいね」
 シャリオは不意に笑ってみせた。
「ルキアン君にそんなことを言われては、わたくしなど立つ瀬がないですわ。偉そうに大神官の位をかかげていながらも、この年になってやっと、自分を変えられることに気づき始めた程度なのですから」
 こうしてシャリオが冗談混じりに微笑むたびに――そんなときの彼女の表情に、ルキアンはいつにも増して好感を覚える。謹厳な神官と落ち着いた大人の女性の雰囲気に混じって、どこか少女のような純朴さと可憐さが漂うのだ。崇高で、それでいて親しみやすい、アンバランスな表情……。
 慈母のような暖かさでシャリオは告げる。
「少し文脈は違いますが、ネレイの街でも似たようなことをあなたと話しましたね。ルキアン君は、こう言いました――本当は《答え》など最初からどこにも《ない》かもしれないのに、自分たちはそれを認めるのが怖いのではないか、と。覚えていますね?」
 あの晩、ネレイの街でシャリオと語り合ったのは、ほんの数日前のことだ。
 にもかかわらず、毎日があまりに目まぐるしく移ろいすぎて……。ルキアンにとっては、遠い過去の出来事のように感じられた。
「そうです。シャリオさんのあのときの言葉、もっとちゃんと心に刻んでおくべきでした。《答え》が《ない》とは言い切れないけれど、《ある》とも言い切れない。というか、人生の真理みたいなものを明らかにすることは、それ自体、僕らの力を越えた行いなんだと……。だから結局は答えを《見つける》のではなく、自分で《考え出す》しかない。そして、ただ主観で思いついただけのものを信じるなんて難しいから、人はそれに自分なりの《意味》を与えることによって、信じ抜こうと試みるのだと。でも、それは旧世界人のような振る舞いだと、シャリオさんはおっしゃいましたね。僕にはその意味が分かりませんでした。ですが……」
「そう。私のちょっとした謎かけの答えが、あなたには分かってきたようですね。正しい《答え》が分からないということは、私たちの行動に付きまとう大前提なのです。そして、この不条理な前提にもかかわらず、人は生きるために決断していかなければなりません。それは、明かりも持たずに暗い道を行くがごときものです。だからこそ――この世の理を完全には見極められないからこそ、人は信仰に救いを求めるのです。これはあくまで、神に仕える者としての見解ですが。しかし旧世界人の多くは、本心では神を信じていなかったといいます。それゆえ《信仰》の対象を何か別のものに求めるしかなかったのです。ある人にとってそれは愛であり、また違う人にとっては思想であり、あるいは富であり、力でした。しかし、果たして彼らは救われたのでしょうか?」

 《救われたのだろうか?》

 ルキアンの脳裏をよぎったのは、あの破滅的な戦争の幻だった。
  大地に降り注ぐいかずちの雨。
    ――天空人による衛星軌道上からの無差別攻撃は、地上界を死の世界
   に変え、数え切れないほどの地上人を殺戮した。
  輝く炎の翼を持った真紅の巨人。
    ――地上人の反撃、エインザールの赤いアルマ・ヴィオは、天空植民
   市を次々と破壊し、無数の天空人たちを果てしない闇の空間に葬った。

 ルキアン自身は、あれが天空人と地上人の最終戦争、後に地上人たちの言う《解放戦争》であることを知らない。そしてあの無限に続く、星をちりばめた《闇の空》と、そこに浮かぶ巨大な《青い球体》が何なのかも、彼の理解を超えている。
 ――救われてなんかない! もし救われたというのなら、ただひとつ、旧世界は自分たちの歴史を終わらせることでしか、苦しみから解放されなかったのかもしれない。でも、そんなの悲しすぎるよ……。

 シャリオの声がルキアンを現実に連れ戻した。
「地を這う虫の見ている世界は、私たち人間の見ている世界よりもずっと単純で狭い。しかしそのことが分かるのは、私たちが虫ではなく人間だからです。きっと虫たちには分からないでしょう。彼らにとっては自分たちの見ている世界が全てなのですから。それと同じです。人間のすることなど、人間の尺度では完全に測れるものではありません。私たちの行いが本当に正しいか否かは、さらなる高みから世界を見ることのできる存在のみが、ただ神のみがご存知なのです」
 神――ルキアンが当然のように思い浮かべたのはあの女神だった。
 翼を持った魔法神、そして月の女神、闇の中の光、セラス。
 イリュシオーネの神々のうち、どのような神をどの程度まで信じるかは人それぞれだが、ルキアンも常人並みの信仰は持っていた。
 信じている。しかし神は答えないようにみえる。
 あの記憶。
 夜の暗闇の中でセラスの石像にすがりついたとき、ルキアンの現実の中にあ
 ったのは、象牙色をした石の肌の、酷薄なまでの冷たさだけだった。
「それでも僕たちは生きるために、正しいと思うことを選び取っていかなきゃならないですよね。辛いです。自分が正しいと確信できないのに、それでも疑心暗鬼のまま、少しでも間違っていなさそうな方へと進んでいかなければならない。でもわかんないんですよね、分かれ道に立っている時には、まだ。その先が行き止まりかもしれないし、迷路かもしれないのに。それでも道を信じるしかないなんて。でも自分が正しいって信じなきゃ、やりきれないかも」
「そう。やりきれない。人はそんなに強くはありませんから。そんなやりきれなさ、不安定で寄る辺のない生の苦痛を少しでも和らげるためには、ただ、自分のした選択が正しいのだと信じるしかありません……。しかし往々にして人は、己の心の苦痛を少しでも軽くしようとするあまり、自分の選んだ答えが絶対に正しいのだと盲信し、極端な自己正当化を行いがちになるものです。その結果は、どうでしょうか?」
 突然、ルキアンの顔から血の気が引いた。
 それを前にしてシャリオはうなずく。
「例えば、いかに正しい動機から出た行動であろうとも、自らの正義が絶対だと盲信してしまったとき、それは歯止めを失って暴走する危険があります。そのとき人は、自らの正義の名の下に別の正義を否定するため、あらゆる手段を用いることを正当化して疑わないようになってしまいます。善対悪の戦場であるというよりは、むしろ無数の主観的な《善》が――それぞれの信じるものがぶつかり合うのがこの世界だから、それゆえ人間の争いはいっそう激しく、残酷で、終わりがない……」
 シャリオの言葉はルキアンの心を貫き、その奥底にまで響き渡った。
 ――僕はあのならず者たちと戦ったとき、たとえ一瞬であろうと、彼らを全て殺すべきなのは当然だと思ってしまった。優しい人が優しいままでいられる世界のためなら、それを妨げる悪い奴らをすべてこの世から消してしまうことも許される、と恐ろしいことを考えてしまった。でもおかしいよ。シャリオさんの言う通りだ……。
 赤いアルマ・ヴィオの幻夢が鮮明に蘇る。
 鳳凰の翼のごとく空に広がる、あの鮮血のような毒々しい炎を背負い、真紅の甲冑をまとった巨人が――クレヴィスの話によって知ることになった、恐らくは《紅蓮の闇の翼》、エインザールの赤いアルマ・ヴィオの姿が。
 理由も分からず、虚無のこもった涙が目に溜まる。
 ルキアンは呆然と言う。
「何となく、でも確かに感じたんです。古の時代にアルフェリオンで戦った人だって――多分それがエインザールという人なのだとは、後でクレヴィスさんに聞いて知ったのですが――そのエインザール博士だって、本当は優しい人が優しいままでいられる世界を作りたかっただけなんだと思います。小さな安らぎを守りたかっただけなんだ、って。でも憎しみに心を奪われて……」
 今までの苦悩の表情を必死に拭い去ろうとするように、ルキアンは顔を歪め、引きつらせ、それでも渾身の笑みを浮かべた。
「だけど僕は信じることにしました。僕は最初、あの赤いアルマ・ヴィオの幻から、単に凄まじい憎悪しか感じませんでした。でも次第に、戦いが終わってから気づき始めたんです。憎しみ以上に深い哀しみに。あの獰猛さと残酷さの背後に隠れた、痛々しいほどの諦めの気持ちに……。そして《願い》にも」
「願い――ですか?」
「えぇ。ただ、僕お得意の思い込みかもしれませんが。でも思い込みでもいい、信じたいんです。エインザールは、自分の犯してしまった過ちが二度と繰り返されることがないようにと、最後に祈ったんじゃないかって。そして今度こそ、自分が真に望んでいたようなかたちで、アルフェリオンの力を役立てて欲しいと――その思いを僕たちの時代に託したんじゃないかと思うんです。もしかしたらアルフェリオンは、旧世界を滅ぼした邪悪なアルマ・ヴィオかもしれません。だけど世界を終わらせたいなんて、本当は誰も望んではいなかったはずです!」
 長い沈黙の後、シャリオはポットを手に取り、おもむろに立ち上がった。
「よろしかったらもう一杯いかがですか? それにしても、あなたは不思議なことを言いますね。まるでエインザールという人のことをよく知っているみたいに」
 ルキアンは顎を押さえ、具合が悪そうにうつむく。そして苦笑した。
「変――ですよね。でも直感というか、どう説明したらいいのかよく分からないんですけど、確かに感じることがあるんです。何ていうのかな、僕と似たような《におい》がするというか……」
「そうですか。エインザール博士がどんな思いで天空人と戦ったのか、私には分からないにせよ、あなたの信じていることが本当であるよう願いたいものですね。いいえ、結局のところ全てはあなた次第かもしれません、ルキアン君」
 大切なものを慈しむように、シャリオは少年の肩に優しく手を置いた。
「たとえどれほど邪悪なものと戦うためであろうと、憎しみの心で剣を振るえば、その刃は沢山の罪無き人々を巻き込み、最後には自分自身をも傷つけるでしょう。だからルキアン君、決して憎悪に負けないで――そう、自分に負けないでください……」

 ◇ ◇

 昼なお暗い底無しの樹海。
 目の前を霧が流れていくたびに、妙な震えを感じる。
 異様なまでの静寂の中、霊的な力を帯びた森の気が、ひんやりと肌に絡み付いてくる。
 この世であってこの世でないような、外界全てから隔絶された世界。
 一面に漂う濃い緑の匂いは、肺臓にまで染み渡るかのようだ。

 かき分けるのも困難なほど繁茂した木々の間、忽然と開けた空間があった。
 下草と落葉に埋もれた地面の至るところに、微かな水流が走っている。地表の所々に濡れて光るものも見える。明らかに人の手によって磨かれたであろう、平らな大理石の床面が露出していた。
 虫食い状に並ぶ石碑の群のごときものは、すでに崩壊して久しい壁の跡だ。場所によっては相当な高さでそびえている。
 折り重なって倒れている巨大な石柱。おびただしいツタがその上を覆う。
 散らばる白い石の破片。

 時の止まったような空間の奥に、いくぶん倒壊を免れた壁がぽつんと残っていた。長い年月を経て色褪せた壁画が見える。そこに表現されているのは、意味不明であると同時に、いかにも何かを暗示するかのような様相だ。
 よく似た2人の若い女性が描かれている。
 どちらも真っ直ぐに立ち、胸元で両手を重ね、天上を仰ぎ見ていた。全く同じ格好だが、鏡に写った像のごとく左右反対だった。一方は純白の長衣を身に着けており、太陽を模した紋章を頭上に従える。他方は三日月の紋章を伴い、漆黒の長衣をまとう。
 他にも4人の人物の姿があった。色落ちが激しく、皆、顔つきはおろか性別すら判別し難いが。彼らもまた、それぞれ不可思議な紋章と共に描かれている――燃え盛る炎、サラサラと流れ落ちる砂、水滴、そして竜巻のような渦。
 以上の6人は規則的に並んでいた。よく見ると、消えかかった線で六角形が印されており、その6つの頂点に各人が位置する構図である。
 最初の2人の女が見上げている先には、雲間に漂う人のようなものが居る。その数は4人。翼を持っているわけではないにせよ、どことなく天使を思わせる一群だった。
 さらに上の方にも何か描かれていたようだが、壁面が剥げ落ちているため、もはや確かめることはできない。
 壁画の下に古典語で次のように書かれている。神官か魔道士の手によるものか、あるいは旧世界の人間によるものだろうか。

   最も恐るべき真の敵が、
   我らの手の及ばぬところに居るかもしれぬ。
   それゆえ、恐らく我々の勝利は虚しく、
   むしろ破滅を意味するであろう。

 続きの文章は消えてしまっている。数行下に至って、再び読むことのできる文章が現れた。

   光の……をもつ御子が戒めを解き放つとき、
   御使いたちは星を一所に導き始めるであろう。
   だが人馬は目覚め……たとえ業火がその身を焼き尽くそうとも、
   勝利は一時のものでしかない。
   やがて日は落ち、力を欠いた御使いたちの苦しみが続く。
   痛ましき戦いの果てに、彼らは真の敵の姿に恐怖するであろう。
   そのとき世界は無に帰し、新たな偽りの時代が幕を開ける。
   心せよ。我々の最後の救いは、閉ざされた……の並びにある。
   すなわち……。

 それ以降の部分、最後の一行は、壁面の風化によって全く判読できない。
 歴史に忘れ去られ、時の止まったような場所。
 この建物がこうしてうち捨てられてから、どれほどの時間が流れたのであろうか。そもそも何のために建てられたのだろうか。

 不意に木々の間を風が吹き抜けた。
 降ってわいたかのごとく、廃墟の中央に何者かが姿を現す。
 淡い空色の髪をもつ、神々しいまでに美しい少年。
 あのテュフォンだ。
 彼が優雅に歩むと、後に続いてそよ風が巻き起こり、周囲の草花を揺らす。その様子は、植物までもが彼の秀麗な姿を讃えているように見える。
「久しぶりだね。また来たよ」
 話す相手など居ないはずなのに、彼は穏やかにつぶやいた。
 声は幼げだが、話し方は落ち着き払っており、ある種の威厳すら感じさせる。
 次の瞬間、テュフォンは奥の壁の手前に立っていた。
 彼は例の壁画に手を触れ、撫でるように指を動かす。
「信じられなかったけれど、本当だった……」
 今まで微かな笑みを浮かべていたテュフォンが、表情を曇らせた。
「あのとき僕たちは負けたんだね。負けたということさえ、僕には分からなかった。目が覚めたら誰も居ないし――地上の何もかもが全く違うものに変わっていて、状況を把握するのにずいぶん時間がかかった」
 彼は壁に頬を寄せ、目を閉じる。
「みんな待っていたんだよ。あなたが絶対に勝つと信じて。いや、確かに勝ったはずだよね。それなのに、どうして?」
 しばし静寂の時が流れた。
 壁に溜まった埃を静かに払い落とすと、テュフォンは元のように柔和な笑みをたたえた。
「悪いことばかりでもないよ。カリオスは前と比べ物にならないくらい、強くなってきたし。今も過去の中で生きているようだけど、そのうち元気になってくれると信じている。もう少し、気が済むまで好きなようにやらせてみるよ。それで、実は僕、楽しみにしているんだ。カリオスがいつ笑顔を取り戻してくれるか……。結構近い将来かもしれないね。僕が手を貸すのは、それからでも十分かな」
 テュフォンは一輪の花を壁に添える。鬱蒼とした森に違和感なく溶け込みそうな、神秘的な青の花だ。
「問題は他のマスターのことだね。特にリューヌの――早く《あなたの代わりのマスター》が見つかればいいのに。でもあなたの代わりになれる人間なんて、どこにも居ないと思う……。じゃあ、また来るから。さよなら、《博士》」
 一陣の風と共に落ち葉が舞い散った。
 気が付いたときには、テュフォンの姿はもうどこにも見当たらない。
 いにしえの遺跡は再び静寂に包まれる。

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