HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第29話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  運命とは、
  放っておけばその通りになる「予定」のようなものだ。
  定められてはいるが、
  変えようとすれば、変えられぬものでもない。
  だが多くの場合、
  人はそれが絶対のものだと思い込まされている。
  (オーリウムのある冒険者の自伝より)


 薄暗い部屋の中で、時折、金属の小物を擦りあわせるような音がカチャカチャと鳴っていた。
 厚いカーテンは、陽光だけではなく外の世界のもの全てを遮っているようにみえる。
 個室として使うには、いささか広すぎる感のある部屋だ。
 天井を飾る豪華なシャンデリアには、わずか一本の蝋燭さえも灯っていなかった。贅を尽くしたガラス細工の数々も、それを輝かせる明かりが無くては意味をなさない。
 たったひとつ、部屋の隅の方にランプの灯火が揺れる。
 おぼろげな光を受け、キャンバスの白い色が妙に浮かび上がって見える。薄く下絵が描かれた画布は何カ所も切り裂かれていた。
 その前に座ったまま、彫像のごとく動かない者がある。服装から考えると女性らしい。暗がりに溶け込むような、簡素だが素人目にも生地の良い濃紺のドレス。精緻な仕立てによって、それは寸分の隙もなく体に合っている。
 何故かは分からないが、彼女は黒いヴェールを深々と被っていた。
 足元に転がる筆やパレット。その中に混じり、1本のナイフが冷たい輝きを放つ。
 床や画材、あるいは彼女の手指の所々に、筋を引いて黒くこびりついているのは、正直なところ、乾いた血のようにも……。

 扉をノックする音がした。
 だが彼女は無視している。
 そんなはずはないのだが、むしろ、聞こえていないようにさえ見える。
 何の反応も引き出せぬまま、やがてノックの音は止んだ。

 ◇

 ドアの外で、中年の婦人の甲高い声が聞こえた。
 へりくだった様子でそれに応対する、若い娘の声も。
「イアラお嬢様は、今日もご気分がすぐれないとおっしゃられて……」
「まったく、どうしようもない子ね。いいから朝食はいつものようにしておきなさい!」
 そう、いつものように――使用人らしき娘は、料理の乗った盆を扉の前に置くと、婦人の後を追って気まずそうに立ち去る。
 真っ赤な絨毯の敷かれた廊下に、ぽつんと残された朝食。ポットから立ち上る湯気が、次第に、次第に勢いを弱め、やがて消えていった。

 ◇

「イアラ、また眠らなかったのか。体に悪いぞ」
 それは部屋に居るはずのない別の人間の声だった。
 いつの間に現れたのか――暗がりの中に一人の若者が立っている。しかし窓にも扉にも鍵が掛かっており、どこにも開いた形跡はない。
 ヴェールを被った女性は、素っ気なく、蚊の鳴くような小声で答えた。
「……別にいいじゃない。あなたの方こそ無理に心配しなくていいのに」
 青年は微笑する。静かな入り江に寄せる波のごとく、ゆるやかにくねった青の髪。それを肩口まで指先で軽く流しながら、彼はつぶやいた。
 落ち着いた低めの声だが、奥底にある情熱を感じさせる響きだ。
「無理になど……。君を守るのが俺の使命――いや、存在理由だからな。お節介なようだが?」
 薄明かりに照らされた彼の姿は、見るからに現実離れしていた。
 髪の色と同様に青い、ゆったりとしたローブで長身を包み、輝く羽衣のようなものをその上にまとっている。だがそれは羽衣などではなく、実際には霧か煙を思わせる物質だった。それが宙に漂い、彼の上半身を取り巻いているのである。
 彼自身、ふわりと浮かんでいるように見える。その背後には、青白く輝く霊気が揺らめいていた。
「守る? 勝手に決めないで。私はあなたに協力するなんて言ってない」
 彼に視線も向けぬまま、イアラと呼ばれた女は腹立たしげにささやいた。顔は見えないが、その声質から察するに20代前後のようだ。
 不思議な青年は、《彼ら》の間でお決まりとなっている例の台詞を告げた。
「勿論。全ては君の――いや、あなたの自由だ。《わが主よ》」
 だが彼女は、興味なさげに話を打ち切ろうとした。
「私、いい……。もう放っておいてよ。そっとしておいて、アムニス」
 何かに疲れ果てたような無機質な口調。
 そして急に高笑いする。絶望的に引きつった声も。
「あはは。馬鹿みたい! どうなっても、別にいいじゃない……。だって私は関係ないもん。こんな世界――こんな世界なんか、滅びても困らないもん」
 突然、彼女は金切り声で叫び出した。床に散らかっているものを手当たり次第に拾っては、ただ闇雲に投げ捨てる。
「滅びたところで、そんなの自分たちのせいじゃない! みんな自分のことしか考えてなくて……他人のことも、そんなつまらない自分と同じなんだと思って軽蔑しているから、他の人間を見くだして、自分を中心に世界が回っているように振る舞って。そんな世界、一度終わらなきゃ変わらないんだわ!!」
 朝食に添えられていた白いティーカップが宙を舞う。それは大きな花瓶にぶつかり、どちらも無惨に砕けた。水が床に流れ出し、挿してあった花も乱雑に散らばってしまった。
「どうしてこんな人間たちのために、私が戦いなんかしなくちゃいけないのよ! 自分たちで守ればいいじゃない! そんなに大切なら!! 何で関係ない私に守らせるのよ。どうして、どうして……。私は、この世界から何も大切なものをもらってない! 私が守るものなんて何もないもん!! 何ひとつ……」
 彼女は息を切らせ、床に座り込んだ。
 なおも声にならない声でつぶやいている。
 ――私がいなくなったって、この世界は何も変わらないじゃない。私がいなくなったって、誰も悲しまないじゃない。
「……それは違う」
 青い髪の青年・アムニスは、そよ風のようなささやき声で、けれども力強く告げる。
 突然、イアラは幻の世界へと取り込まれた。

  銀髪の少年が、感情の失せた暗い表情で座り込んでいる。
  だが彼は、遠い目をしたまま、それでも懸命に空を仰いだ。
  おずおずと顔を上げると、丸い眼鏡の向こうに無限の青が広がる。

  場面は一転し、鋼の生き物たちの残骸が荒野に転がっている。
  黒く焼けた木々。焦土に立ちこめる煙。
  戦場のただ中で、白銀色の《巨人》が剣を振るう。6枚の翼を持つその姿
 は、さながら天が遣わした滅びの天使のようだ。
  銀髪の少年は叫んでいた。哀しそうな顔で、天の騎士に乗って戦っていた。
 それでも彼は、苦悩を振り払うかのように繰り返す。
  ――僕だって……僕だって、ただ黙ってうつむいているだけじゃないぞ! 
  まばゆい輝きを放ち、白銀色の巨人が俊敏な細身の姿に変わった。そして
 雷光のごとく駆け抜け、目にもとまらぬ速さで槍を繰り出す。

「……この子、馬鹿?」
 イアラは呆然と言った。
 少女のような顔をした、ひ弱な眼鏡の少年が、己に鞭打って立ち上がっていく。その様子は無様で、そして痛々しくて――見るに耐えない。
「何でそんなに無理するの? どうして、どうして起きあがってくるの?」

  敵に幾度となく打ちのめされても、翼を持った巨人はなおも別の姿に進化
 して反撃する。
  一面の猛火が襲いかかる中、重々しい甲冑に身を固めた天の騎士は、銀色
 の楯を炎に向かってかざした。青い閃光が一瞬にして火の海をかき消す。剣
 を抜いた騎士は、鈍い鎧の音と共に、地響きを立てて悠然と進んだ。

  少年は泣いているようにみえた。それでも彼は戦い続ける。
  巨人のまとう銀色の鎧が、今度は刺々しい形に変わっていく。肩や腕に刃
 物のごとき角を備えた姿で、白銀の騎士は突進する。鋭利な鉤爪が振り下ろ
 され、敵を一撃のもとに両断した。

  少年は激昂して叫んだ。
  ――僕は仕方がないなんて言わない、空しいなんて思わない! 僕は最後
 まで絶対に諦めない!!

「何なの、何なのよ、あなたは……。そんなに孤独で惨めなくせに、どうしてそこまで強くなれるのよ!? なぜ誰も手をさしのべてくれなくても、それでも立ち上がってくるの!? そんなの、変だよ、空しいよ……」
 イアラの頬を涙が伝う。
 その冷たい感触が、彼女に気づかせた――あの銀髪の少年の境遇を、いつの間にか直感的に見抜いていたことに。
「私は彼に会ったこともないはず。でもどうして? 私は彼を知っているような気がする」
「君が彼のことを知っているはずはないが、同じ宿命のもとに生まれ、同じ光を瞳に宿した《彼ら》を身近に感じるのは当然だ」
 アムニスが告げた。
「宿命と――そう呼ぶに値するほどの力によって、《人間の力など到底及ばない存在》によって、《あらかじめ歪められた生》を負って生まれるよう呪いをかけられた者たち」
「あらかじめ、歪められた、生……」
 イアラは苦しげに反芻し、両手でヴェールを押さえてうずくまる。
 一見、同情などしていないかのように、アムニスは淡々と語り続けた。
「歴史のからくりを揺るがす《御子》たちを、己の力に気づかせぬまま自滅させるために――おそらく、そのために前もって手が打たれたのだろう。だがエインザール博士も、漠然とではあれ、将来現れる御子たちのことに気づいていた。そして《本当の敵》にも、《あの存在》のことにも気づいていたのだと思う。たとえ地上人が天空人に勝利したところで、それでは人間同士の果てしない憎しみの連鎖が続くだけだと、心の底では理解していたと思う」
 小さく震えるイアラの肩に、幻が――透き通った霧のような手が触れた。
「これだけは分かってほしい。たとえ呪われた生であろうとも、それは他の誰がたどる人生でもなく、君自身のものだということを。じっと堪え忍ぶにせよ、必死にあがき続けるにせよ、いずれにしても君が体験していくのはこの生ひとつだけしかないということを。そのかけがえのないものから希望の芽を摘み取ってしまうことなど、未来を閉ざしてしまうことなど、誰にも――いかに強大な《あの存在》であろうとも許されてはならないはずだと。だからイアラ、御子としての戦いは確かに世界すべてのためかもしれないが、何よりも君自身のための戦いだ……」
「ひとつ、聞いていい?」
 彼女のその言葉に対し、アムニスは無言の時間をもって返事の代わりとする。
 イアラは続けた。
「あなたが言っていた御子たち――歪められた生とか、運命って――だったら、私と同じような人がまだ他にもいるの? 例の少年も……」
「その通り。遠くない将来、きっと会える。いずれは星の導きが、御子たちを一所に集わせることになる。分かるだろう、イアラ……もしも君がいなくなれば、後で必ず彼らが悲しむ。そして君がいなくなれば、俺には存在する理由がなくなる」
「そう……」
 自分から尋ねておきながら、冷ややかに笑うイアラ。
「滑稽なおとぎ話ね」
 だが、無関心にそう言い放った彼女の心の内は……。

 ◇ ◇

 同じ頃。薄闇などではなく、真の闇の中――金属の扉の重く軋む音がした。
 真っ暗な空間は、容易には見渡せぬほど広大であり、見上げても限りがないほど高い天井を備えていた。まさに暗黒の大聖堂だ。
 堅い靴音を響かせ、誰かが中に入ってくる。
 それに呼応するかのように、突然、巨大なホールの中央に不気味な炎の列が現れた。向かい合った二列の炎の間を、黒い法衣をまとった男が歩いていく。
 彼は幾重にも重なった宝冠を被り、高位の神官を象徴する見事な聖杖を手にしている。
 男が立ち止まると、闇の奥から異様な声がした。吹きすさぶ木枯らしのような、あるいは亡者のうめき声のような、およそ人のものとは思えない響きだ。
「《大地の巨人》を覚醒させる手だてが分かったのですな、猊下……」
 猊下と呼ばれているのは、オーリウムの全ての神殿を束ねるメリギオス大法司に他ならない。
「旧世界の娘がとうとう口を割ったらしい。これで巨人の力は、もうすぐ我々の意のままとなる」
 宙に浮かぶ4人の《黄金仮面》たちは、メリギオスの言葉に怪しげな微笑をもらした。ひそやかな声が堂内の空気に染み通っていく。
 メリギオスは彼らを見上げて言った。
「巨人の《封印(プロテクト)》を解くためには、あの娘だけではなく妹の力も必要なのだ。だが無理に騒ぎを起こさずとも、近々向こうから飛び込んでくるだろう。あまり派手に行動するのは得策ではあるまい。議会軍がこちらの動きに気づき始めているようだ」
 途方もない魔力の高まりとともに、《老人》の黄金仮面が言った。
「しかしながら猊下、裏で予期せぬ事態が起こっていることをご存じか? エインザールがこんな小細工を残していようとは……。万一に備えて、できる限り急がれよ。必要であれば我らも力を貸しますぞ」
「問題のイリスという娘、すでにパラス騎士団に捜索させている。じきに見つかるだろう。話はその後だ」
 満足げにそう言い残し、メリギオスは立ち去った。

 ――全ては我らのもくろみ通りだが、ここにきて、エインザールのパラディーヴァたちが次々と動きを見せている。奴らのマスターの大半は、まだ己の力に気づいていないにせよ。
 《鳥》の黄金仮面が、異様に長いくちばしを光らせた。
 それに対して、《魔女》の黄金仮面は冷淡な反応を示す。
 ――エインザールの残した残骸ごとき、何を恐れている? 《パルサス・オメガ》は、休眠している間も延々と自己進化を続け、かつての比ではないほど強大な力を手にした。仮に《アルファ・アポリオン》が再び覚醒しようと、パラディーヴァ・マスターたちが力を合わせようとも、現在のパルサス・オメガの前では無意味なこと……。
 ――それはどうかな。エインザールのときも、取るに足らない塵ひとつだと見過ごしていた結果、あのような手違いを招いた。天上界の滅亡など、所詮は些細な事故にすぎぬが、あのおかげで大いなる計画に遅れが生じてしまったことは確かだ。人間ごときと侮ってはならぬ。……それにしても皮肉なものよ。かつてアルファ・アポリオンと共に天空人と戦ったパルサス・オメガが、今度は我らの手駒となるのだからな。
 《老人》の黄金仮面がそう告げた後、彼らは何処へともなくかき消えた。

 ◇ ◇

「へぇ、何か意外だなぁ……。あの勇敢そうなチエルさんが、あっさりと折れちゃったなんてさ。やっぱりエーマさんは凄いね! いや、ちょっと怖いかな。あははは」
 この無邪気な声を聞いている限り、陰惨な状況を前にしているとは到底思えない――年齢不詳の美青年が満面の笑みを浮かべていた。
 小天使のように純粋無垢な表情。
 だがこの男こそ、パラス騎士団を実質的に指揮する若き副団長、恐るべき天才繰士ファルマスだ。
 黒いレザーの服に身を包んだ真っ赤な髪の女が、得意げに頷いている。
「普通の人間よりは骨があったかもしれないけど、結局はただの小娘だね。あたしにかかれば簡単なことさ」
 濃いルージュを引いた薄い唇を、エーマは冷酷に歪ませた。
 四方の壁も床も全て石造りで、わずかな飾り気すらない。カビ臭い湿った部屋。そこに猛獣の檻のごとき分厚い鉄の扉がついている。
 外からは華麗な部分しか見えないこの城館にも、他の多くの城や市庁舎等と同じく、冷たい地下の拷問部屋が設けられていた。
 暗い闇の部分を持たぬ光などあり得ないのだろうか。いや、ある偉大な物書きが言ったように、光が強ければ強いほど、その影もいっそう色濃いのかもしれない。
 幾多の血の染み込んだ台が置かれ、見るもおぞましい道具が壁に掛けられている。普通の人間ならば、拷問以前にこの有様を見せられただけでも、言いなりになってしまう場合があるだろう。
「この娘を決して傷付けてはいけないなんて、無理な注文を付けられたもんだから、苦労したよ。まぁ、薬でも何でも、色々と手はあるんだけどね」
「分かる分かる。本当に悪かったね。でも猊下がそうおっしゃるんだもん。ともかくエーマさんのおかげで、《大地の巨人》はもうすぐ目覚めるよ!」
 あくまで天真爛漫に会話するファルマスの姿は、この戦慄すべき空間の中でも際立って不気味に感じられる。
 エーマは加虐的な笑みを浮かべ、足元に横たわる娘をつま先で小突いた。
「あんなに気の強そうな顔をしていたから、もっと楽しませてくれるかと期待してたんだけど。あんたには拍子抜けだったよ。でも思ったほど馬鹿でもなかったということなのかねぇ……。案外、物分かりがいい子じゃないか。ふふふ」
 チエルはうつ伏せに転がったまま、身体を起こすこともできない。
 見事な長い黒髪も乱れ、彼女の背中や床の上に這いつくばっていた。
 何の罪もない旧世界の娘をこのように虐げることに、ファルマスもエーマも、神官の長であるはずのメリギオス大法司さえも、罪悪感を覚えていないようだ。エーマに至っては露骨に楽しんですらいる。
 利発そうに整ったチエルの面差しは、涙や涎で惨たらしく濡れていた。
 それでも彼女は、意識を失いそうになりつつ、繰り返しつぶやく。
「イリス、逃げて。どこか遠くに逃げて……」

 ◇ ◇

 平原に夜明けが訪れた。
 遙か彼方の地平から、遮るものなく差し込む朝の光。
 その光線を浴びて、春草の露が輝いている。
 一見、ごく自然な美しい夜明けであった。
 だがその中にひとつ、違和感のあるものが――王都を間近に臨んだ草原に、深紫色の山のような物体が横たわっている。
 こんな朝早くにもかかわらず、その傍らで大声を張り上げる者までいた。
「行くぞー!! 今日は都に行くぞー!!」
 ヤマアラシのような髪型の少年が、遠く太陽の方に向かって叫んでいる。
「おっし、今日も気合いばっちり。でも、腹減ったな……」
 今までの元気を急に失い、アレスは鞄を探って食べ物を見つけようとする。
「お前も腹減っただろ、レッケ。何か食い物でも獲ってきてくれよ。あぁ、食い物がほしい……」
 額に角を持った肉食獣、いや、カールフという種類の魔獣が、素知らぬ顔で彼に鼻先をすりつける。
「都に着いたら、きっと食べ物もどっさり、何でもあるんだろうな。ともかく父ちゃんの親友だっていう、ブロントンって人を捜さなきゃ。行くか!」
 旧世界の紫の超竜《サイコ・イグニール》のハッチを開くと、アレスはさっそく出発の準備に取りかかっている。
 ひとり騒々しい彼の声で、毛布にくるまっていた少女が目を覚ました。
 虚ろな目をしているのは眠気のせいではない。昼間でもずっとこの表情のままなのだ。心を閉ざした娘、彼女もまた旧世界の人間である。
 ――チエルお姉ちゃん、きっと助けに行くから。待ってて……。
 囚われの姉に届けと、イリスは何度も念じ続けた。

 ◇ ◇

 ひとたび日の出を迎えるやいなや、刻々と明るさを増していく早朝の空。
 中央平原の地平の彼方に、太陽が顔を出すのも間近だ。
 青白い世界はほどなく赤みを帯び始めるだろう。
 淡い光に満ちた天空では、いつの間にか星々の姿が消えていた。
 白っぽい月だけがぽつんと浮かんでいる。
 そして、もうひとつ――遙か上空に輝くものがある。星ではない。ミトーニア上空のアルフェリオンの姿も、もはや地上から視認できるようになっている。
 手をこまねいているうちに、結局、ルキアンは朝を迎えた。

 だが、そのとき。
 ――聞こえますか、聞こえますか? こちらミトーニアの……。
 不意に怪しげな念信が、ルキアンの意識に飛び込んできたのだ。
 おそらく出力が不足しているためか、それとも念信士が不慣れなためなのか、相手方の声は十分には届いてこない。
 同じ内容の話しが何度も繰り返される。
 それをしばらく聴くうちに、ルキアンにも内容が分かってきた。救助を求める類の、ともかく緊急の呼び掛けらしいが。
 無線に例えていえば、念信にも様々な周波数のようなものがある。そして、事故や災害等のため誰かに救助を求める場合には、いわば救難信号用として認知されている特定の帯域を用いるのが通例だ。
 しかしこの念信は、やや特殊な――エクター・ギルドのメンバーが仲間内の連絡に使うための――要するに、外部にはあまり知られていない波長のひとつを使って送信されてきている。
 ――おかしいな。ギルドの部隊はミトーニア市内にはいないはずだし、今のところ、ギルドの誰もミトーニア軍に加わっていないという噂だったけど?
 不審に思うルキアンは、いましばらく黙って様子をうかがっていた。
 相手は繰り返す。
 すると、今度は比較的はっきりと聞き取ることができた。
 その内容に慌てるルキアン……。
 ――私はミトーニア市長の秘書、シュワーズです。抗戦派によって市庁舎が占拠され、市長や参事会員の方々が拘束されています。市民軍も抗戦派が掌握した様子。ギルドの皆さん、総攻撃を行うのは待ってください!
 あまりのことに、ルキアンは無意識のうちに返答してしまっていた。軽率な反応だが、何しろ不慣れな彼のやることだから仕方がない。
 ――こちら、エクター・ギルドの……あ、えっと、違う、エクター・ギルドの船に……その、何ていうか、お世話になっているルキアン・ディ・シーマーです。シュワーズさん、いまのお話は本当ですか!?
 ――もしもし! 通じたのですか? よかった。本当ですとも! 私は運良く庁舎から脱出でき、ある場所に隠れています。早く、ともかくギルド艦隊に総攻撃を行わないよう、急いで伝えてください!! 市当局には戦う意志はありません。そちらへの攻撃は、反乱分子が勝手に行っていることなのです。
 ――わ、分かりました。いますぐギルド艦隊に連絡しますから! それで、あの、今のままじゃ、抗戦派の人たちに傍受される恐れがあります。ですから、僕の言う通りに……。
 とっさにルキアンは、シュワーズとの間に一種の暗号化された回線を開いた。エクターたちの隠語で《伝書鳩》と言われている念信形態である。これによって伝達される会話は、アルフェリオンの念新装置とシュワーズの使っている念信装置でしか受け取ることができない。
 ――それじゃあ、艦隊の方に伝えた後、すぐにまた連絡します。待っていてください。
 勿論、重要な連絡の際に《伝書鳩》を使うのは、繰士たちにとっては基礎の基礎に属する事柄だが、素人のルキアンがそれを知っており、なおかつ冷静に実行に移すことができたのは幸いだった。
 ――ふぅ。あの《伝書鳩》とかいう方法が、こんなに早く役に立つなんて。ガダック技師長さんに習っておいてよかった……。今の話が本当かどうかはまだ分からないけど、ひょっとしたら、総攻撃を避けることができるかもしれない。急がなきゃ!
 ルキアンの心の声が、クレドール目指して夜明けの空を駆け抜ける。

 ◇ ◇

 垂れ込めた朝霧が地表低くを這い、野を流れゆく。
 風は生々しく湿り気を帯び、さながら空気の微少な粒子が肌に染み通ってくるような、身体にまとわりつく白い靄。
 ミトーニアの市壁付近の大地は、草もまばらで、赤茶けた砂利が点々と顔を出している。緑豊かな中央平原にしては珍しく、高山を思わせるどこか荒涼とした光景であった。
 寒々とした雰囲気が漂う……。
 うっすらと霞んだ視界の中、街を取り囲む市壁が黒々とそびえ立っている。ひとたび門を閉ざしたミトーニアは、その連山のごとき防壁によって、今や商都ではなく一種の要塞と化している。
 昨日の深夜に始まったミトーニア攻防戦は、夜明けを迎えた頃から不意に小康状態を迎えた。
 それまで一貫して、ミトーニア市民軍の抵抗は粘り強かった。ギルド側は予想以上に攻めあぐね、いまだ市壁を突破するどころか、壁の外に築かれた塹壕や防塁さえも全て制圧するには至っていない。
 相手の守りの堅さに慎重を期したのか、ギルドのアルマ・ヴィオたちは攻撃をほぼ中止し、様子見に入っている。せいぜい相手からの攻撃があった場合に、威嚇まがいの砲弾を撃ち返す程度だ。
 いや、それ以上に――ギルド側がひとまず自重して慎重に体勢を整えようとしているのは、例のレプトリアの奇襲によって大いに攪乱され、いや、現実に多大なダメージを被ってしまったという理由によるのかもしれない。
 あるいは何か策を練っている可能性もある。

 ◇ ◇

「困ったことです……。こうなってしまうと、ミトーニアはそう簡単には落ちないでしょう。逃げ場を失った普通の人間というのは、時に、どんな戦士よりも手強い敵に変わりますから」
 視線のみを地上へと走らせ、クレヴィスは溜息をついた。
 話し終わったかと思うと、顔を正面に向けたままであった彼は、すぐに前方の空へと目を転じる。
 そう、ミトーニア郊外の上空では、ナッソス家の空中竜騎兵団とギルド艦隊のアルマ・ヴィオがなおも交戦中なのだ。
「とりあえずは、目の前に降りかかった火の粉を払うのが先決ですか」
 のんびりとしたテンポで紡ぎ出される彼の言葉とは裏腹に、クレドールは激しい動きを繰り返す。船酔いするような不慣れなクルーはいないであろうが、内蔵が裏返りそうな強烈な揺れが、立て続けにやってくる。
 クレヴィスは自分の席に深く腰掛け直した。
 彼の隣ではセシエルが、椅子から振り落とされないよう身体に力を込めつつ、引きつった顔で念信装置に手を当てていた。
 だが誰にも増して決死の状態であったのは、船の運命を一手に握る男――操舵長カムレスは、腕まくりして鬼のような形相で船を操っている。
 舵輪が激しく回されたかと思うと、すぐさま反対側へと滑るように舵が切られる。敵の飛行竜、重アルマ・ヴィオ《ディノプトラス》の突撃を避け、クレドールは、巨大な船体からは想像も付かない身軽さで宙に軌跡を描く。
「お互いに近づきすぎないよう、ラプサーとアクスに言っておけ! 何かの拍子に接触するかもしれんぞ!! こっちは自分の船を守るだけで精一杯なんだからな」
 誰に言うともなく、カムレスの怒号が飛ぶ。
 それを受けてカルダインがおもむろに手を挙げ、セシエルに指示した。カムレスとは対照的に、いつものことだが、艦長はじっと押し黙っている。
 今度は甲高い声が聞こえた。
 《複眼鏡》で敵アルマ・ヴィオの動きを追いながら、ヴェンデイルが叫ぶ。
「何とかなんないのか!? あのデカブツ相手じゃ、レーイもプレアーも、1対1で戦うのが精一杯みたいだ。メイが2機いっぺんに面倒見てるけど、ちょっとキツいよ、あれは!!」
 やや情けない声になったヴェンデイルに対し、カムレスが大声で応える。
「そうだ。メイが持て余しているもう1機の敵が、さっきからしつこく仕掛けてくるんで困ってる!」
「んなこと俺に言われても。知るかよー! わかんないけど、艦長、ルキアン戻せば!?」
 投げやりな調子でヴェンデイルが言った。
 レーイとプレアーがそれぞれ1機ずつ敵を撃墜したものの、相手の方は依然として4機残っている。
 重飛行型のディノプトラスとそれに騎乗した汎用型――他方、いかに飛行能力が高いとはいえ、所詮は汎用型のフルファーとカヴァリアンでは思うように戦えない。機体のパワーについても、やはり敵の重アルマ・ヴィオは段違いである。しかもナッソス方の繰士たちは、カセリナは別格としても、いずれ劣らぬ優れた腕前だ。プレアーと五分に戦っている時点で、敵も一流であることが明らかだった。
 と、クレヴィスが苦笑いした。同時にセシエルが彼に何か伝えている。
「そのルキアン君からですよ。セシー、続きをお願いします」
 アルフェリオンからの念信を受け、セシエルは慎重に聞き入った。

 ◇ ◇

 昇り始めた朝日を浴びて、流星のごとき2つの機体が衝突を繰り返す。
 青白い光の槍が雷光さながらに空を裂く。
 黄色く輝く剣が、それを受け流して弧を描いた。
 飛行竜ディノプトラスが雄叫びを上げ、濃紺の巨躯を見せつけるかのように宙を舞う。
 その上から繰り出されるのは、稲妻にも喩えうる戦乙女イーヴァの槍。
 だが驚くべき速さと正確さをもつカセリナの攻撃を、対するもう一方のアルマ・ヴィオも見事に受け切っている。左腕にMgSドラグーン、右腕にMTサーベルを携えたカヴァリアンだ。
 スピードでは圧倒的に不利ながらも、レーイは巧みな戦い方によって速度の差を埋めていた。
 剣と槍が火花を散らし、時折MgSドラグーンの光弾が走る。
 ――強い! こんなに強い繰士がこの世にいるなんて……。
 刹那、カセリナは相手の力に驚異を感じたが、たちまちその恐れは吹っ切れる。
 ――でも私は負けない。みんなやお父様は、私が守ってみせる!! 
 ディノプトラスを駆って、MTランスを構えたイーヴァが突進する。
 だがカヴァリアンは、昆虫のそれを思わせる光の羽根を煌めかせ、ひらりと身をかわす。まともに正面から打撃を受ければ、勿論レーイは致命傷を避けられないだろう。しかし彼は風に揺れる柳の枝のように、極めて柔軟な動きでディノプトラスのパワーを殺していた。
 ――《助走》が短い!? 懐に張り付かれていたか!
 カセリナは、レーイとの距離を詰め過ぎていたことに気づいた。
 いったん勢いに乗ってしまえばディノプトラスは速いのだが、重アルマ・ヴィオの常、最初の加速は必ずしも良くない。もっとカヴァリアンと離れなければ、初速が十分に出し切れないうちに攻撃の間合いに入ってしまう。
 ――やっと分かったか。頭を冷やすんだな、お姫様。
 レーイがわざと煽るように、だが淡々と言った。
 鬼神のごとく突きかかり、レーイを防戦一方に追い込んだかのように見えていたカセリナであったが……。彼女は接近戦に持ち込み《過ぎて》しまったのだ。遠距離から高速で突撃しては離脱、それを繰り返し、カヴァリアンに追いつかせないままスピードとパワーの違いを生かして攻撃すれば、カセリナに分があったかもしれない。
 ――お黙りなさい!!
 カセリナの声と共に、今度はディノプトラスの口に仕込まれたMgSが放たれる。まさしく火を噴く竜だ。
 ――逆に、この距離では避けられないはず! 何!?
 カヴァリアンの周囲を輝く球体が覆った。
 ディノプトラスの吐き出す火炎は、その光の壁に阻まれる。炎の激流にわざと押し流されるように、カヴァリアンは相変わらずふわりと受け流している。
 カヴァリアンの誇る、全方位からの攻撃に効果がある結界型MTシールドだ。
 が、その結界が消えるか消えないかの瞬時に、イーヴァが再び猛襲する。
 MTサーベルで払ったレーイ。
 カセリナはいったん突き出した槍を、気合いと共に横になぎ払った。
 ――やるな!!
 レーイはその2発目も受け止めたが、カセリナの動きがあまりにも速かったため、サーベルでの防御が間に合わず、左手の魔法銃・MgSドラグーンで受けてしまった。
 銃身が真っ二つに切れ、後方に飛んでいった。
 しかしレーイもただ者ではない。後方に飛び退き、素早くMgSドラグーンを背中に戻すと、それと入れ替わりに左手でもMTサーベルを抜いた。イーヴァとの距離も一瞬にして詰め直している。
 2本のMTサーベルを機体の前でクロスし、イーヴァの出方をうかがうカヴァリアン。
 ――惜しいな。それだけの若さで、それだけの力がありながら……。
 わざとカセリナに聞こえるよう、レーイが念信で告げた。
 なおも両者の武器がぶつかり合う。
 無言で睨み付けるようなカセリナに、レーイはさらに言った。
 ――あなたは何のために戦う、カセリナ姫?
 一瞬、考え込んだ彼女であったが、返事よりも先に槍を振るう。
 そして答える。
 ――知れたこと、私の大切な人たちを守るために!!
 カヴァリアンのサーベルの輝く刃の上を、イーヴァの渾身の槍先が滑る。
 MT兵器を構成する魔法力の束が互いに干渉し、火花のごとき閃光が散った。
 だが、もう1本のMTサーベルを手にしたときから、レーイの攻撃は以前の比ではないほど強烈なものに代わった。
 2本の剣で槍の柄を巻き込むようにして、カヴァリアンが敵のMTランスを叩き落とす。
 激昂したレーイの口調。
 ――誰だってそうだ。戦う者は……。愛する者のためになら、誰だって戦士になれる。大切な人を守りたいのも、人間の当然の心だ。
 一転して彼は、思わぬ言葉で続けた。
 ――《だから》戦いはなくならない。互いの愛する者を守るために、本来は望まなかったはずの争いを、いつの間にかそれが絶対に正しいと思い込んで……いや、そう信じなければどうしようもない……。
 イーヴァもMTサーベルを抜き放ち、カヴァリアンと対峙する。
 カセリナが言葉を返すのを待たぬまま、レーイは言った。
 ――だから俺は、愛のためには戦わない。まして恨みや怒りのためになど戦わない。そう、俺は血の通わぬ《大義》や《道理》のために、金で雇われて平気で戦う。それでも、俺は……。
 カヴァリアンの二刀が、イーヴァに向かって旋風のように襲いかかる。先程までとは完全に動きが変わった!
 ――自分の愛する者を守るために戦って、何がいけないのよ!? 誰だって、誰だって大切なものを失いたいなんて思わないはず!!
 必死で防戦するカセリナ。下手をすると、イーヴァが倒される前にディノプトラスが落とされる可能性すら出てきた。
 ようやく本気を出したのか、レーイの凄まじい力。
 ――思わないさ。思わないから、大切な者を守るために敵を殺す。するとその敵を愛していた者が、今度は憎しみに駆られて復讐する。そしてまた……。
 ――知らない! 理屈なんてどうでもいい!! 私は戦う。誰が何と言おうと、私は守ってみせる。
 2体のアルマ・ヴィオが振るう剣。そのぶつかり合いによって、閃光が絶え間なく空に煌めく。レーイとカセリナの戦いは、見る者に恐怖を、いや、それを越えた畏敬の念すら感じさせずにはいられないものだった。

 ◇ ◇

 背丈ほどの高さの生け垣に挟まれた、心地良い緑の小径。
 丁寧に手入れの行き届いた庭園の一角に、その場所はあった。
 進路は右手に折れていた。ほどなく、再び曲がり角が。
 木立によって仕切られた、ちょっとした迷路だ。上から見れば、四角い渦巻き状の回廊が幾重にも形作られているのであろう。
 地面に敷き詰められた白い砂利。
 それを静かに踏みしめる音が、木々の壁の向こうから聞こえてくる。ゆったりと、極めて整った調子の足取り。
 その神妙な響きに混じって、かすかな声も。
「人は苦しみから逃れるために救いを求め、救いを求める試みそれ自体によって、また新たな苦しみをその身に背負うことになる……」
 女の声である。その話しぶりは、上品ではあれ、ともすれば軍人を想起させるほど厳格だ。やや低めの美しい声は、呪文のごとく感情に乏しかった。
「結局、苦しみは以前よりも大きくなり、それゆえに人は、さらに強く救いを求め、いっそう苦しみにとらわれる。そう、人の世の様々な《救い》というものは、いわば魔性の美酒に等しいのかもしれぬ。一度その味わいを覚えると、それなしでは生きられなくなるからだ。それを知る以前には、別にそんなものはなくても、心を痛めずに生きてこられたものを……」
 木々の壁が織りなす渦巻きを辿り、再び逆回りして外に戻るという――この迷路のような庭園の造りは、一節によれば《前新陽暦時代》の宗教的観念に由来するという。すなわち螺旋状の道は、死と再生とを暗に表現しており、あるいは輪廻を象徴するものだと。多分、現在のイリュシオーネでは、そのような意味合いは忘れ去られているにせよ。
「たとえば愛とはそういうものであろう? また多くの人にとっては、宗教かもしれぬし、別の人間にとっては、成功や名誉がそれに代わるかもしれぬ……。そうではないか、《フォリオム》」
 フォリオムと――その名前が呼ばれたとき、別の声が応じた。
「……そうじゃのぅ、あるいは《旧世界の使い古された観念》でいえば、己の《存在意義》、生きることの《意味》、自分の《価値》ともな」
 しわがれた老人の言葉だった。
「まぁそれとも、《理由》とでもいうのじゃろうて。ほっほっほ」
 古老らしき声はごく穏和で、快活な感すら漂わせる。一言でいえば好々爺だ。
 比較的限られた広さの場所ではあれ、この迷路状の庭の奥まで足を踏み入れると、再び入口に戻ってくるためには多少の手間がかかる。趣味が良いのか悪いのか。敢えて間延びした散歩だ。好むと好まざるとにかかわらず、ここでは時がゆっくりと流れていく。
 苔むした小さな空間が、樹木の迷宮の奥に開けている。
 いつ作られたとも分からない古びた砂岩の天使像が、素朴な笑顔で突っ立っていた。像の傍らには、濃い紫色のテーブルクロスのかかった机がある。そこに置かれた大きな水晶玉。
 日傘を差した一人の女性が、木々の間の道から現れ、テーブルに着いた。モノトーンの法衣の上に、対照的な深紅のケープを羽織っている。
 目尻に細い皺が刻まれ始めており、落ち着いた身のこなしにも一定の年齢が感じられるが、金色の髪を背後で一本に結んだ彼女の姿は、どこか少女のように若々しい雰囲気を残していた。
「理由か。そうだな……。人が生まれてきたことの《意味》というのは、人為的な《解釈》を通じて後天的に付与されるものだ。我々の生は、それ自体としては単に裸の因果連関の積み重ねにすぎず、そこには先天的な意味など無い。《だからこそ》人には生の《理由》が必要なのだ。しかし、その事実を《いったん受け入れる》のが怖くて――何と言えばよいのか、人間存在の足元に横たわる《暫定的な虚無》を乗り越えて先へと進むための、ある種の楽天性を欠くがゆえに、人はしばしば己を滅ぼす」
 周囲には誰もおらず、彼女は一人で話しているように見えた。そして中空に向かい、口元にだけ笑みを浮かべて言った。
「……旧世界人の生き方というのは、その点で興味深い。自らの生の《本来の意味》とやらを、彼らはあまりに都合良く理想化し、あたかもそれが最初から自分の生に備わっているものだと思い込み続けていた。その《代償》として、少なからぬ数の旧世界人たちは《本来あり得ないはずの大きな幻滅》をも、現実の生に対して感じなければならなくなった。旧世界人とは――いや、以前にも《ご老体》に指摘されたのだったな――正確には《天空人》とは、まるでこの世界が自分の幸福のためだけに作られているかのごとく、勝手に思い込んでいたようだな。愚かしいという以前に、信じられない……」
 突然、どこからともなく例の老人の声がした。
「ご老体、とは嬉しくないのぅ。パラディーヴァの外見や性別など、あくまで見かけ上のものだと、いつも言っとるのに。生まれ年で言えば、わしはテュフォンやフラメアと同じ歳じゃぞ。失敬な」
「そうだった。まぁ、気にしないでほしい。私もあくまで便宜上、ご老体と呼んでいるだけだから」
 彼女は水晶玉に手を添え、黒い瞳を鋭く輝かせた後、目を閉じた。
「人間が生を受けたことに先天的な理由はない、という真実を受け入れることができてこそ、人は強く生きていける。つまり生の理由というのは《自分で設定しない限り元々は存在していない》のだと気づけば、むしろ《無いはずのものを探し求める》という無限地獄に陥ることもなくなる。理由を《探す》などといって、何かや誰かに自分を委ねていては、長い目で見れば苦しみが増すだけだ。それならばいっそ、理由など持たない方がまだよいかもしれぬ。理由などなくても人は生きていける」
「いかにも。実際、《地上人》たちの多くはそうじゃった。理由をもつ《余裕》がなかったというのが本当のところだがのぅ。《永遠の青い夜》がもたらした《汚染》のために魔の世界と化したあの惑星(ほし)で、彼らは、明日の命の保証すらおぼつかない毎日を過ごさねばならなかった。彼らにとっては《理由》云々など問題ではなく、《いま現に生きていること》が、それだけで尊いことじゃった。他方、そんな地上人を力ずくで支配し、彼らの犠牲のもとで豊かな生を満喫していた天上人たちはといえば、《幸せに日々を過ごせるのは当たり前。ましてや生きていることなど無条件の前提。しかし自分には、そうして生きていることの理由が分からない》などと言って《苦しんで》いたのじゃから。まったく、人間という生き物は……」
 相変わらず声はすれども姿は見えぬ老人に対し、女は皮肉っぽく告げた。
「しかし、ご老体。あのエインザールでさえ――本音のところでは、そういう天空人の一人だったのだろう?」
「ほっほ。手厳しいのぅ。お主にはもっと可愛げがないといかん」
「悪いが、いまさら可愛げなどという歳でもない。それで?」
 即座に突っぱねた彼女に、得体の知れない老人は言った。
「わしは今でも時々思うんじゃが、博士が本当に求めていたのは、自らの存在理由を《実感》することだったのかもしれん。たとえささやかでも、もしも日々の営みの中で、彼がそれさえ肌で感ずることができていたならば――天上界のどこかに彼の《居場所》があったなら……」
 女は微妙にうつむき、声を落として老人の言葉を継いだ。
「そうだとすれば、博士が地上界の側へと走ることもなかっただろうに……」
「その可能性も無かったとはいえまい。博士もまた天空人として生まれ、良くも悪くも《豊かな社会》の恩恵に浴して育った。地上界に対する天上界の支配がいかに非道なものであったとはいえ、さすがに同胞と戦ってまで地上人たちを救おうとは、博士も考えなかったかもしれん。しかし現実には、自分が天空人の一員であるという意識は、博士にはなかった。その代わりに彼の心に刻み込まれていたのは、天上界に対する違和感、あるいは《疎外感》じゃったろう」
 背筋は伸ばしたまま、眠っているような様子で聞いていた女は、何の情動も見せずに機械的につぶやいた。
「そしてエインザールは、天空社会の中で疎外されていた自らの状況を、天空人に迫害される地上人たちの姿に重ね合わせたとでも? 皮肉なことだな……。そんな個人的な、必ずしも肯定し難い動機から始まったエインザールの行動が、どこでどうめぐったのか、結果的に天上界の支配を打ち破り、地上人たちを解放したと。しかしその直後、天上界はおろか地上界も含め、旧世界全体が何らかの原因で滅亡し、全ては無に帰した……。けれどもそこで《物語》が終わったわけではなかった。旧世界の存亡を左右するであろう《あの存在》のことに、漠然と気づいていたエインザールが、因果の流れを後の時代へと結びつけておいたからだ。彼は未来の《御子》たちに賭けたのだと、ご老体は言ったな。全く荒唐無稽な話だが、ともかくその結果、私はご老体・フォリオムと出会うことになり、そして《彼》も……」
 深い呼吸の後、彼女が水晶球に念を込めると、その表面がうっすらと輝き始めた。
「そう、エインザールを継ぐ者。このか弱い少年の苦しみも、場合によっては無かったかもしれない。彼が本当に望んでいたのも、大抵の人間が多かれ少なかれ味わうような、《生の喜びに対する平凡な実感》だったはず。にもかかわらず、彼はエインザールと同じく、自らのことを世界の中の異物だと感じ、疎外された孤独な人間として生きてきたのだろう。それもまた選ばれし者の苦悩であると、知ることもなく……」
 彼女は半開きの唇で、独り言のように、いや、まさに独り言を口にした。
「……ただひとり地上に堕(お)とされた、清らかな闇の天使」
 驚くべきことに、水晶玉の中には、朝日を受けて煌めく白銀のアルマ・ヴィオの姿が――ミトーニア上空のアルフェリオンが映し出されている。

 ◇ ◇

 ――もしもし、こちらルキアンです。シュワーズさん、聞こえますか? 大丈夫ですか?
 例の《伝書鳩》という特殊な方法を用い、ルキアンは、ミトーニアの市長秘書と極秘裏に連絡を交わしていた。
 ――ルキアンさん? 大丈夫です。構いません……もうすぐ私の居場所が抗戦派に見つかってしまうかもしれませんが、それでも私は伝えねばならなかったのです。それより、ギルドの司令官の結論は?
 もはや開き直った様子で、シュワーズ秘書は切々と応える。
 とはいえ、やはり彼の不安は暗いイメージとなって、念信の声と共にルキアンの心に流れ込んでくる。気持ちの良い感覚ではない。
 ともかくルキアンは、今しがたクレドールから送られてきた艦長の――今回はギルド側の総指揮官でもあるカルダインの――回答を伝える。
 ――ミトーニア市への総攻撃については、ギルド艦隊は今しばらく待機し、様子を見るとのことです。抗戦派が市長さんたちを監禁していることについても、状況を理解してもらえたと思います。
 確かにカルダインは総攻撃を《中止する》とは言っていない。しかし降伏の期限である夜明けをとうに過ぎた今も、ギルド側は攻撃を始めておらず、予告に反して慎重な態度を見せている。
 クレヴィスの熱心な提言のせいもあって、艦長はルキアンの働きに多少の期待を寄せているのかもしれない。無駄な戦闘が回避できれば、ギルド側にとってもそれに越したことはあるまい。
 これからどうすべきか、とルキアンが戸惑い始めたとき、シュワーズが有無を言わさぬ切実な調子で告げてきた。
 ――遅かれ早かれ、私たちの隠れ家は見つかってしまうでしょう。その前に、抗戦派による暴挙を街の人々に伝えなければなりません! 市長たちが監禁されていることを、一般市民はまだ知らないのです。しかし私はここから一歩も出られません……。我々の隠れ場所のある中央広場一帯に通ずる道が、現在、抗戦派の軍に封鎖されており、ネズミ一匹行き来できない状況だからです。あなた方の手を貸してください、ルキアンさん!
 ――ぼ、僕たちの、ですか? 一体、何をすれば?
 怪訝そうに聞き入るルキアン。
 そうしている間にも、シュワーズの言葉は悲痛な雰囲気を強めていく。
 ――ギルドの方から市民たちに伝えることはできませんか? 市民の多くは市長を支持しているはずです。抗戦派の行っている行為を知れば、人々は彼らに対して何らかの抗議に出始めるでしょう。
 ――でも僕たちの言葉を、街の人たちが信じてくれるでしょうか? こんな状況です。ギルド側の策謀だと思って、取り合ってくれないかも……。
 ――しかし、今はそれしか手がありません! 駄目で元々です。お願いします!! 私にはもう時間がないのです。
 だがやはり、ルキアンにはシュワーズの身の安全も気がかりであった。
 ――分かりました。でもシュワーズさん、何とかそこから脱出できないのですか? 見つかったら、もしかしたら、殺されてしまうかもしれません!
 ――えぇ。恐らくは……。私は、市庁舎のすぐ近くにある神殿に匿われています。ですが、外では抗戦派の兵士が必死に捜索しており、たとえ運良く見つからずに神殿から抜け出せたとしても、その先では軍のアルマ・ヴィオが道を封鎖していて、この一角からは到底出られないのです。
 ――そんな!!
 ――構いません。愛するミトーニア市を守るために死ねるのなら、本望です。
 その言葉に偽りはなかった。
 一度も顔を合わせたことのないシュワーズだが、ルキアンは彼に尊敬の念を覚えた。彼を救いたいという気持ちが、ルキアンの心を一杯に満たしていく。
 ――僕は……僕は、もう嫌なんだ。戦いは絶対に悪いことだと思うけど、だけど……だからといって、誰かが犠牲になるのを黙って見過ごすのは、もっといけないことだと思う。
 ルキアンの心に浮かんだ光景が、迷いを打ち消し、彼の答えを決定づけた。
 昨晩の悪夢のような出来事……。
 あの純粋で勇敢なシャノンが、悪漢たちの薄汚れた手でなぶり者にされ、助けを求めて泣き叫ぶ姿。ルキアンの名を呼ぶ彼女の壮絶な悲鳴が、残酷なまでに生々しく反響した。そして目を覆わんばかりの傷を負わされた、瀕死のトビーの姿も。
 ――僕は、シャノンやトビーを守れなかった。
 ルキアンはぼんやりと繰り返す。
 ――戦うのが怖かった、嫌だったから。自分の中にある憎しみの影に怯えていたから。でも、もし僕がもっと早く戦っていれば、シャノンたちを救えたかもしれなかった。それで後悔したばっかりじゃないか! 馬鹿だな、本当にどうしようもない!!
 彼は思い出したかのように、言葉を噛み締める。
 ――そうだ。クレヴィスさんも、シャリオさんも、言っていたじゃないか。正しい答えが分からなくても、それは決断しなくていい理由にはならないって。僕たちは、少しでも正しいと信じることを、選び取って生きてゆかなきゃいけないって……。僕が戦い続ければ、いつかステリアの力に身も心も魅入られてしまうかもしれない。でも戦わなければ、今ここで目の前の人を守れない……。
 そしてルキアンは、思ってもみなかったような結論に達した。
 揺れ動く決意に対し、また何度目かの誓いを立てる。
 ――シュワーズさん、僕が戦います。広場の付近のアルマ・ヴィオは任せて下さい。それさえ片づければ脱出できるのでしょう?
 ――しかしルキアンさん……。そんなことをしたら、あなたの方が危険です。ただ一人で敵軍の中に飛び込むなんて! それに万が一、大規模な市街戦にでも発展すれば、ギルドとミトーニアの和平の可能性は今度こそなくなってしまいます。私のことはいい、ルキアンさん。もう充分だ。ありがとう……。
 けれどもルキアンは、妙な冷静さと共に言った。自分でも信じられないほど落ち着いた心持ちで。
 ――大丈夫です。このアルフェリオンは普通のアルマ・ヴィオとは違います。みんなが言葉で理解し合おうと、懸命に流血を避けようと努力しているのに……それに耳を貸そうとせず、身勝手に自分たちの考え方を押し通そうとする人たちなんて! 抗戦派の人たちのことを僕は許せません。いや、もし僕がここで何もしなかったら、結果的にその無茶苦茶な人たちの振る舞いを認め、その手助けをしてしまっていることにさえ、なりかねないと思うんです。もう、そういうのは嫌なんです。黙って見ているだけなんて、もう嫌なんです!!
 ――しかし……。何?
 戸惑うシュワーズだったが、突然、彼からの念信が途絶えた。
 ――いけない! シュワーズさんの隠れ場所が見つかってしまった!?
 ルキアンは彼の名前を繰り返し呼んだ。だが返事は二度と戻ってこない……。

 ◇ ◇

 迷う間もなく、アルフェリオンの機体は大地めがけて急降下していた。
 点々と漂う雲を突き抜け、地表が見える。
 そびえ立つ市庁舎の姿が。石畳に覆われた広場が。
 そして神殿らしき建物と、それを包囲する数体のアルマ・ヴィオが!
 魔法眼によって増幅された視界が、刹那の間に、ルキアンの心の目に次々と飛び込んでくる。
 燃え盛る炎のイメージがその風景と混じり合う。敵を見つけた彼が、反射的に火の精霊魔法をMgSに込めようとしたためだ。
 しかし、ほぼ同時に彼は気づいた。装填寸前のところで魔法弾のカートリッジが戻される。
 ――いけない。ここで撃ったら周りの建物まで巻き込んでしまう!
 一瞬の判断だった。敵機の姿が見る見る大きくなる。
 身体にひびが入りそうな衝撃。自らと一体化しているアルフェリオンの機体を通じて、ルキアンは大地を生々しく感じ取る。
 天から投げ落とされた雷光のごとく、銀の天使は瞬時に地表に達していた。地震のような揺れと、耳をつんざく轟音。土煙。
 ――動かなきゃ! どうする?
 時が止まったような心境。
 言葉に置き換える余裕すらない。本能的な直感が彼を突き動かした。
 ルキアンは絶叫しながらMTランサーをかざす。
 その光の刃が敵機をとらえた。鋼同士がぶつかり合い、擦れる音。
 無我夢中の攻撃の中にも何度か手応えがあった。
 わずかな間をおいた後、足元から伝わってきた振動。それによって初めて、ルキアンは敵の1体が倒れたことに気づく。
 地面の上、鮮やかな白と青とが目に映った。この2色を基調とするアルマ・ヴィオといえば、最も一般的な汎用型の《ペゾン》だ。攻撃よりも拠点防衛に重きを置いた重装タイプなのだろう、軍に属する同種の機体よりもひと回り大きい胸甲を付けている。そのど真ん中に、MTランサーに貫かれた跡が無惨に口を広げている。
 ペゾンの傍らに転がる楯には、2匹の獅子をあしらったミトーニア市の紋章が描かれていた。
 その図柄の意味を、いつかどこかでルキアンは聞いたことがある。かつて中央平原の諸都市が長く悲惨な戦争を行っていた時代があった。その戦いが終焉を迎えたとき、ミトーニア市は平和への誓いを込めて、この紋章を新たに採用したのだという。獰猛な戦士であるはずの2匹のライオンが、まるで手を取り合っているように見えるのは、無益な戦いを避けて和を重んじる精神を象徴したものなのだと……。
 何という皮肉。ルキアンは、やるせなさのあまり、心の中で叫んだ。
 ――どうして仲間同士で争う!? ミトーニアの紋章に対して恥ずかしくないんですか! なぜみんな巻き込んで、犠牲にしようとする? 街のみんなを守るのがあなたたちの役目でしょう。それなのに何で……分からないのか!!
 猛然と翼を広げ、アルフェリオンは空に向かって咆吼する。
 慣れない得物を闇雲に振り回し続けるルキアン。しかし槍斧状の先端を備えたMTランサーは、切ろうが突こうが、とにかく相手に当たればそれなりのダメージを与えることができる。ルキアンの乱撃によって、敵のアルマ・ヴィオの甲冑から激しく火花が飛び散った。
 残っている敵のアルマ・ヴィオは2体。先程と同型のペゾンがMTソードと楯を構え、その一方で、狼の身体をもつ俊敏な陸戦型《リュコス》が牙をむいて突撃してくる。
 敵もさすがにMgSを使うのは避けている。手持ちの武器での戦いなら、間合いの広い槍状の武器が有利だ。まともに刃が相手をとらえているのか、それとも柄の部分が当たっているのかよく分からないまま、ルキアンは必死にMTランサーで応戦する。
 その最中、アルフェリオンに突き飛ばされたペゾンが広場の脇に倒れ、近くにあった数階建ての住宅を倒壊させてしまった。
 ふと我に返ったルキアン。その視界の中で、建物がさらにいくつか崩れ落ちた。広場を取り囲むようにして並ぶ家々が、戦闘の巻き添えになり始めている。すでに避難済みだったのか、それとも軍によって強制的に他の場所に移されたのか、幸いにも付近の建物に住民は居ないようだが。
 ――駄目だって! このままでは本当に街中を巻き込んだ戦いになってしまう。落ち着け、落ち着くんだ……。いいか、ルキアン!!
 ルキアンは自分に向かって怒鳴りつけた。何度も言い聞かせるが、気持ちは全く着いていかない。心を静めようとすればするほど、かえって焦りが増していく。
 ――だから、よく見て戦わなきゃ! 冷静になるんだ!!
 アルフェリオンの左腕から黄金色の光が、ぱっと広がる。MTシールドを構え、ルキアンは敵とにらみ合う。
 しかし相手は2体いる。ペゾンの剣を避けようとすれば、今度はリュコスの鋭い爪や牙が襲ってくるのだ。
 勢いにまかせた戦いで敵をねじ伏せていたルキアンだったが、ここにきて冷静になったのが災いし、逆に押され気味になってしまう。
 特にリュコスの俊敏な動きには苦戦していた。限られた範囲の広場で、小回りの利く鋼の狼は緩急自在の攻撃を仕掛けてくる。
 新たな一撃をMTシールドでかわしたルキアン。だが、背後に注意を払う余裕がなかったため、アルフェリオンの翼が近くの家にぶつかり、真っ二つに切り崩してしまった。
 ――この羽根が邪魔なんだ!! それに、身体が重くて小動きができないよ。くそっ、これじゃあ、リュコスの動きに着いていけない。
 大空では圧倒的な力を発揮する6枚の翼も、街の中での戦いでは、かえってお荷物になってしまう。頑強な装甲ゆえに、見た目よりも遙かに重量のあるアルフェリオンは、地上での移動速度に関しても、基本的には他の汎用型と大差ないのだ。むしろ全体的に動きが重いとさえ言える。ステリアの力を発動させない限りにおいてだが……。
 動揺しながらも、ルキアンはかろうじて相手の攻撃を受け止める。彼は苦し紛れに自問した。
 ――もっと身軽に動けない? 使い勝手が悪いな……。周囲に被害を与えずに、しかも敵を殺してしまうことなく、素早く動きを封じることができたら! 無理か、そんなことは!! シュワーズさんには勇ましいことを言っちゃったけど、駄目だ! 駄目だよ、どうすれば? リューヌ!?
 たまりかねた彼は、黒き翼の守護天使、自らのパラディーヴァに呼び掛ける。
 即座に彼女は答えた。
 機械仕掛けで喋っているのかと思われるほど、あまりに無感情に。
 ――わが主よ。現在の形態、すなわちステリアン・グローバーを発射し得る《フィニウス・モード》は、地上での接近戦には不向きです。それゆえに……。
 ――でも、何か手はあるだろ!? 早くしないと……。うわっ!!
 ルキアンの隙を突いて、ペゾンが体当たりを仕掛けてきた。そのまま羽交い締めにしようと、相手は腕に力を込める。
 それを無理に振り払おうとするルキアンに対し、リューヌは場違いな冷静さで告げた。
 ――あの陸戦型・《レプトリア》と戦ったときにも言ったはず。アルフェリオンは様々な形態に変化できるのです。
 ――そんなこと言ってる場合じゃないよ! この、離せ!! どうだ!!
 ――地上用の高機動形態としては、《ゼフィロス・モード》が……。
 リューヌの言葉を聞く暇もなく、ルキアンは咄嗟の判断で勝負を決めていた。
 敵のアルマ・ヴィオは急に腹部から白煙を上げ、アルフェリオンを両手で締め上げたまま、なぜか動きを停止する。
 その機体を何かが貫通していた――MTランサーだ。しかも、銀の天使の右手に握られているそれとは、また別物である。
 アルフェリオンの腰部にあるランサーの収納装置から、あたかも飛び道具のような勢いで、一気に突き出されたのだ。
 ゼロ距離から計算外の直撃を受け、相手は戦闘不能となり果てている。
 ――危なかった。でも、これなら周りの家にも被害はなかったか……。
 やっとのことで我に返ったルキアンに、リューヌは呆れもせず、静かに言う。
 ――ゼフィロス・モードは地上での速度が最も速く、また超空間感応により、全モード中、最高の索敵能力を有する。すでに貴方には、ゼフィロスのイメージがつかめているはずです。
 ――イメージ? そんなこと言われても……。分からないよ!
 悠長なことを言っている時ではなかった。まだ敵は残っている。ルキアンは光の楯と槍とを構え、リュコスの素早い襲撃に備える。
 ――心を鏡のように研ぎ澄ませ、そこに映るものに従うのです。そして私を呼び、ゼフィロスに変わるのです。わが主よ。
 胸の奥に浮かぶリューヌの姿。長い睫毛を伏せ、彼女はうなずいた。
 緊張が走る中、リュコスの遠吠えが轟き渡る。
 魔法金属の牙が顎の内部に収納され、それに代わって輝く光の牙が現れる。リュコスのもつ一撃必殺の武器、MTファングだ。
 ――心を鏡のように研ぎ澄ませて……。そこに映るもの。
 突然、《あの言葉》をルキアンは思い出す。夢うつつの表情でエルヴィンが告げた、例の謎めいた言葉を。
 ――大地を走る疾風(はやて)が、扉を開く。
 そしてエルヴィンが最後に言ったこと。
 ――強く願えば必ず応えてくれる。あれは、そういうものだから。
 天の騎士と鋼の狼とが対峙し、広場の端を、円周に沿ってじりじりと移動する。リュコスのスピードならば、一瞬にして間合いを詰め、アルフェリオンの首筋に牙を突き立てることができる。おそらく勝負は電光石火のうちに決まるだろう。
 ――願えば、答えてくれる。願いを……。
 ルキアンは呆然と繰り返す。
 ふと、幻影の中でリューヌが微笑んだような気がした。
 その瞬間、鋭く地を蹴る響き。
 リュコスが一気に飛び込んだとき、ルキアンは。
 ――見えた!
 召喚。闇の中に浮かぶ炎を凝視するかのごとき、極度の精神集中。
 ――ゼフィロス!!
 駆け抜ける閃光。
 リュコスの視界からアルフェリオンの姿が消えた。
 両者が空中でぶつかり合ったとき、優美な流線型の翼を持つ何かが、宙返りして槍を振るった。
 何が起こったのか、相手には全く理解できていない。そう、気づいたときには全てが終わっていたのだから。
 リュコスは脚を破壊され、身動きできぬまま、地に突っ伏していた。
 たたずむ勝者の姿は、以前と同じアルフェリオン・ノヴィーアのそれだった。
 ――変わった? 一瞬、今のがゼフィロス、なのかな……。
 高揚した気持ちを抑えつつ、ルキアンはつぶやく。

 シュワーズの籠もる神殿を背に、アルフェリオンは、その建物を守るように振り返った。
 残された敵方の歩兵が、広場の向こうへと蜘蛛の子を散らすように逃走してゆく。生身でアルマ・ヴィオと戦うなど、素手でドラゴンと戦うよりも分が悪いだろう。当然の退却だった。

 ◇

 神殿の前方に折り重なって倒れている、抗戦派のアルマ・ヴィオ。
 賢明にもルキアンが魔法弾を使用しなかったため、小規模な炎上は起こっているものの、爆発が生じるようなことはなかったらしい。
 その光景が、アルフェリオンの姿と共に水晶玉に映っている。
 遠見の水晶の映像を見つめながら、あの赤いケープの女は語り始めた。
 およそ抗し難い、何か神秘的な説得力を伴って彼女は断言する。《沈黙の詩》の言葉を引きつつ。
「少年――やがて彼は《真紅の翼》を羽ばたかせるだろう。今は決して望んでいないにせよ、遠くない将来、必ず……。星はそう告げている」
 彼女は溜息をつく。それは落胆を表すものには見えない。
 微妙な哀しみを漂わせる横顔に、不似合いに涼しげな笑みが浮かんだ。
「誰かに強制されるのでもなければ、不可避の偶然によるのでもない。《自分自身の意思》によって、この少年はエインザールの使徒であることを選び取り、炎の翼をもつ終焉の騎士を――そう、紅蓮の闇の翼・《アルファ・アポリオン》を呼び覚ますだろう。そして《終末を告げる三つの門》は開かれる……。どうした? 今まで私の言葉が外れたことがあったか」
「お主の予言は必ず当たる。いや、そうでなくてはなるまい?」
 正体を見せぬまま、姿なき老人は応える。
 彼の言葉をさほど気に留めない様子で、女は水晶球の表面をそっと撫でた。
「その後のこと、終末の時に関しては、私にも何も見えない。これは予言ではなく、単なる可能性――あるいは希望の提示に過ぎないが、《沈黙の詩》の告げていることは、その最後の時点で大きく変わるかもしれない。たぶんその理由は、この少年の心にあるのだろうな。移ろいやすく、脆くて、不安定な、心のあり方に。光と闇と、強さと弱さと、平凡さと狂気と――そして彼の優しさと、同時に鬱屈した憎しみと。そんな不確定性が、エインザールの予想した物語の結末を変えるかもしれぬ。また、そうした予測不可能性だけが、我々人間にとって唯一、《あの存在》に対抗できる手段……」
「そうじゃの。最後の最後の部分は、誰にも予測がつかぬ。可能性は限りなくゼロに近く、しかし決してゼロにならず、最後まで残されている。まぁ、それは《ノクティルカの鍵》の秘密を解くことができれば、の話じゃが」
 老人が最後に告げた謎の言葉。
 それを耳にした途端、理由は分からないが、女の表情がこわばった。彼女が初めて見せた動揺だった。
「初耳だな。しかし、その響きには何か……」
 とぼけるような茶目っ気と共に、老人の声は白々しく答える。
「は? そんなこと言ったかのぅ? ほほ。わしもボケてきたか。年寄りの冗談じゃて」
「都合の悪いときだけ老人になるものではないぞ、フォリオム」
 女は仕方なさそうに笑った。唇だけが微笑んでいる。
「ノクティルカの鍵。それが何なのか、わしにも意味は分からん。さすがに、お主の力でもその謎を見通すことはできまい――いや、誰にもできん。エインザール博士にも結局は分からずじまいだったし、《あの存在》の力を持ってすら無理かもしれん……。それより、このルキアンとかいう少年。なかなかよくやっておるわい。彼とお主を除けば、他の者は自分の役割に全く気づいておらん。中にはフラメアのマスターのように、まだパラディーヴァの存在すら知らぬ者もいる。困ったことだのぅ……」
 溜息と共に、不意に何かが、まるで地面から生え出るように姿を見せた。
 魔法使いのような出で立ちの、長い顎髭を生やした老人が立っている。緑色のローブから延びる細い腕は、枯れ枝のように乾き、あたかも古木を思わせる。だが小柄で華奢な外見にもかかわらず、付近一帯の大地が震え始めそうなほど、とてつもない魔力が彼の足元から発せられている。
 《地》のパラディーヴァ、フォリオム。
 彼は手近な木陰に腰を下ろすと、詠嘆を込めた口ぶりで、ゆっくりと語り始めた。
「《御子》たちには、いまだ導きの星が見えぬらしい……。だからこそ、お主の力が必要なのじゃろうて。《紅の魔女》アマリアよ」
 彼女――地のパラディーヴァ・マスター、アマリア・ラ・セレスティルは、相変わらず淡々と、水晶の中の幻像を見つめながらつぶやく。
「運命の星々を一所に呼び集めよと?」
「いや。他人の運命を変えることなど叶わぬ話。全ては本人の意思次第……。じゃが、きっかけを作ることは、お主にならば可能かもしれぬ。そして、きっかけがなければ、人は結局、自らの意思の力を呼び起こすことができぬもの」
 堅く冷たいクリスタルに、銀髪の少年、ルキアン・ディ・シーマーの横顔が浮かんだ。同様にカリオス、グレイル、イアラと続く。移り変わるマスターたちの肖像を見つめ、フォリオムは目を細めて頷いた。
「賽を振るのじゃ、わが主・アマリア……。始まりの火花を放て」
 しばらくの間、彼女は言葉を返すことなく沈黙したままだった。
 その眼差しは水晶玉から離れ、庭園の木々の彼方の風景に向けられる。
「分かっている。しかし、今さらながら重いものだな。選ばれし者の使命とは」
 アマリアはおもむろに立ち上がり、流れゆく雲を目で追った。

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