HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第30話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  僕が、誰かのゲームの駒かどうか?
  そんなことは大した問題じゃないよ。
  だって僕自身、人生なんてゲームだと思っているから。
  (旧世界の映像記録より――ある若者の言葉)



 薄明かりの中、頭上高く広がり、長い残響となって漂う声。
 寒々とした音の余韻は、この場所の広さと、がらんとした構造とを物語る。
 漆喰塗りのような肌をもつ滑らかな丸天井。広大なドームは、底面付近から天頂部に至るまで、見知らぬ文字や幾何学模様で埋め尽くされている。
 高さ数メートルはあろうかという角錐状の水晶柱が、床のあちこちに立ち並び、緩慢なリズムで明滅を繰り返す。目の届く範囲一杯に、青白い光が点々と浮かんでは消え、暗赤色の暗やみに霞んで見える。神秘的な美しさの間から、底知れぬ不気味さが滲み出てくるような、空恐ろしい光景だ。
 ドームの中央には、冥府へと続く底無し穴を思わせる、巨大な闇が口を開けていた。その縁のあたりから、数人の男たちの声が聞こえてくる。縦穴のあまりの大きさに、人影など小石のようにしか見えないが……。
 この奇怪な空間とは不釣り合いな、あっけらかんとした無邪気な声が響く。
「溜息が出ちゃうな……。真に絶大な力というのは、本当に美しい。神に選ばれた者だけが創り上げることのできる、美の極致だね。きっと僕は、一日中眺めていても飽きないだろうね!」
 年齢を度外視してあどけないとすら表現しうる、汚れなく透き通った眼差しで、金髪の青年が穴の底をのぞき込んでいる。
 少年じみた高い声とは裏腹に、彼の出で立ちは知的な大人の気品を漂わせる。スモークグレーのフロックは、タロス共和国産らしき緻密な生地から作られており、不要な装飾や柄を徹底的に排することにより、高価な素材がもつ風合いを最大限に、かつ、さりげなく生かしている。身体の線に完璧にフィットした上着の胸元には、寸分の隙もなく巻かれた黒い無地のクラヴァット。まさに、憎らしいほど洗練されている。
 彼、ファルマス・ディ・ライエンティルスは振り返った。そして、幼子がお気に入りの玩具を手にしたときのように、満面の笑みを浮かべて言う。
「本当に美しい……。猊下もそうお思いになりますよね?」
 隣に居た初老の男が頷いた。
 その姿は様々な意味で常人離れしている。2メートル近い大柄な背丈と、高齢ながらもがっしりとした体格、そして完全に禿げ上がった頭――あたかも鬼族の亜人を、例えばトロールを連想させる。
 猊下と呼ばれているこの男は、驚くべきことに、例のメリギオス大法司である。が、人目を忍んで来ているのであろう。大法司の地位を表す黄金造りの宝冠や、宝石をちりばめた聖杖は持っておらず、彼は真っ黒な法衣のみを身につけていた。
 最高位の神官の地位を誇示する正装をしていなければ、メリギオスの体からは、むしろ通常の人間以上にどす黒い世俗臭が漂ってくる。今ここに居るのは聖職者ではなく、奸智に長けた老獪な一宰相に他ならない。落ちくぼみ、異常なほどに切れ長の目には、彼の本質を示す貪欲な眼光がありありと浮かぶ。
「大儀であったぞ、ファルマス。伝説の《大地の巨人》がこうして我がもとにあるのは、そなたたちパラス騎士団の働きゆえ……」
 勿体ぶった口ぶりでメリギオスは答え、ファルマスと同じく、足元に広がる大穴の奥に目を凝らした。
 もうひとり、彼らの傍らにたたずんでいる者がいる。パラス騎士団の一員でありながら、同時にオーリウム王国屈指の大魔道士でもある、アゾート・ディ・ニコデイモンだ。
 濃紺のローブをまとい、同色のターバンのような布を頭に巻いたアゾートの姿は、どことなく東方の苦行僧を連想させる。彫りの深い顔立ち、柔和さの中にも厳しさを持った眼差し。求道の末に悟りを開いた聖者のごとき彼の容貌は、ファルマスの場合とはまた違った意味で年齢を超越していた。少なくとも40歳は過ぎているのであろうが――ひょっとすると、この世の始まりの時から全てを見てきたかのような、そういう印象すら感じさせる。
 ファルマスは、悦に入った様子で言葉を続けた。
「なんて言うのかな、うん、究極の兵器に相応しい至高の機能美だね。この荘厳さ、まさに美の権化……」
 縦穴の底に眠る途方もない大きさの物体――ファルマスの目に映っているものは、考えようによっては美しいと言えなくもない。だがそれ以上に、見る者を戦慄させずにはいないであろう、禍々しい鋼の魔神像とも呼べる代物だ。
「こんなに素晴らしい作品を生み出した《ルウム教授》を、異常者呼ばわりするなんて、僕は天上界の人々の趣味を疑うよ。まぁ凡俗には、この美しさが理解できなくて当然かな? しかし、いくら教授の才能が理解できないからといっても――これほどの天才を地上に追放しちゃうなんて、天空人というのは、つくづくお目出たい人たちだったんだね」
 声を半ば裏返らせ、彼は大げさに笑った。
 深々と落ち込む不気味な空洞。その縁にある手すりに身を寄せかけて、ファルマスは勝手に笑い続ける。アゾートは勿論、メリギオスの存在すら全く意に介さぬかのように、独り芝居は演じられた。
「ルウム教授にしてみれば、かえって絶好の機会を得たと思ったかもしれないけどね。そう、《パルサス・オメガ》の力を十分に試す機会を……。結果的にテストに付き合わされた天上界の遠征軍は、ちょっと可哀想だったかも。だってそうでしょ? どう頑張っても勝てるはずがないんだから! おまけに、パルサス・オメガと唯一互角に戦えるはずの《空の巨人》まで、地上に寝返ったんでしょ? 要するに、身内のせいで滅びちゃったなんて。ふふ……。天空人っていうのは本物の馬鹿だね! いや、天空人の存在自体、壮大な冗談だったのかな」
 ファルマスは己の話に自ら頷きながら、心底楽しそうに微笑んでいる。
 その様子は滑稽どころか、異様以外の何ものでもない。彼の表情が無垢であればあるだけ、反対に冷酷さがいっそう際立つのだった。
 だが、そんなファルマスの言動に全く動じることのない他の2人も、それはそれで不可解な人々である。
 やっとファルマスが静かになったかと思えば、周囲の静寂の中へと自然に溶け込むような声で、アゾートが口を開く。先程からじっと目を閉じたままの大魔道士は、彼らの足元深く眠る《巨人》について語り始めた。
「猊下、この巨人は《生きた機械》なのです。アルマ・ヴィオと異なり、生命反応は全く感じられない。しかし鼓動が伝わってくるでしょう? 今もこうして……」
 鼓動といっても、それが明確な振動や音を伴っているわけではなかった。普通の人間には、何が起きているのか全く分からないだろう。いや、アゾート以外には――《神の目・神の耳》と呼ばれる彼の超感覚をもってしない限りは、大地の巨人は死んでいるも同然にしかみえない。
 にわかには信じ難いという態度で、メリギオスは眉を吊り上げた。
「機械、というと、これは《アルマ・マキーナ》なのか。ならば現世界人の我々には動かすことができまい?」
「いいえ、猊下……。乗り手による《操縦》を必要とせず、人間の思念によって自在に操ることができるという点で、パルサス・オメガは通常のアルマ・マキーナとは異なります。むしろアルマ・ヴィオに近い。しかし、これは生命体ではなく、あくまでも機械なのです。人間の頭脳を遙かに超える擬似的な知能を有し、さらには自己修復機能と自己進化能力をもつ、史上最強のアルマ・マキーナ。それが、このパルサス・オメガに他なりません」
 満足げな感情を目に浮かべながらも、メリギオスは表面的には冷静に言った。
「《帝国軍》は、予想外の早さで国境に迫っている。もはや一刻の猶予もならん。巨人を覚醒させるため、もう一人の旧世界の娘を今すぐ捕らえるのだ! 手段は問わぬ」
 2人のパラス・ナイトはひざまずいた。
 あくまで純粋な目をしたまま、頷くファルマス。嬉しくてたまらない様子で、彼は卑劣な策謀を披露する。
「すでに手は打ちました。あのアレスとかいう馬鹿みたいに単純な少年と、姉思いのイリスという娘、餌をまいたら簡単に針に掛かりますよ! ふふふっ、今から楽しみですね」

 ◇ ◇

 慌ただしく人の行き交う路上で、アレスは大きなくしゃみをした。
「おっかしいな……。風邪引いたかな? やっぱり、昨日、毛布一枚で寝たのがまずかったか」
 彼は鼻の頭をこすりながら、キョロキョロと前後を見渡している。
 その額には、植物の葉を模した小さな金属片やビーズ等を糸でつなげた、素朴な飾りが光っている。ラプルスの民の男が16歳になった日から身につける、伝統的な工芸品だ。中央部にはめ込まれた真っ赤な玉石が特徴的である。
 彼の服装も、典型的なラプルスの冬季の民族衣装――毛皮の襟の付いたコート、革製の胴着、防寒性に優れた分厚いブーツだった。
 こうした山の民の格好と、何かにつけて不慣れそうな振る舞いからして、誰が見てもアレスは、都に出てきたばかりの田舎の若者そのものである。
 朝市に買い物に行ってきたらしい中年婦人たちが、一杯に肉や野菜を抱えてアレスの側を通り過ぎたかと思うと、不思議そうな顔をして振り返っている。
 アレスとイリスの服装が周囲から浮いていることも、主婦連中の好奇の視線(あるいは親切にも、心配の眼差し?)を誘った原因のひとつかもしれない。だが何よりも目立つのは、一応は《モンスター》であるレッケを、つまり山岳地帯に棲む魔獣・カールフを連れていることだろう。
 都会の中だけで暮らしている人間は、普通はモンスターとは無縁である。魔物など、今ではせいぜい詩人の語る英雄伝説や、酒場でくだを巻くエクター連中の与太話に出てくるものであって、己の日常とは関わりのない世界の存在だ。そんな都の人々は、レッケのことを、何か珍しい外国の動物とでも思うのだろうか。
 今度はどこからともなく野良犬がやって来て、アレスの足元の匂いをかぎ回っている。ちょっとした仲間意識でも持ったのか、レッケがクンクンと鼻を鳴らす。だが薄汚れた白黒ぶちの犬は、角を生やした狼の姿に怯え、そそくさと逃げてしまった。
 入れ替わり立ち替わり、次々と流れていく通行人の行列。その数に圧倒され、アレスはぽかんと口を開けていた。
「にしても、すっげー人、人――人だかり!! どこからこんな沢山の人間が出てくるんだよ? それにこの、やたらとデカイ街。さすがは王様の都だぜ。今度、家に帰ったら、母ちゃんに自慢してやろっと」
 もう少し幅があれば、飛行型アルマ・ヴィオの滑走路にも使えそうだと――アレスが思わず考えてしまったような、やたらに広い大通り。
 道の両側の家並みにしても、ラプルスの谷間の寒村とは比較にならない。多くの建物は3、4階建て以上の高さを持ち、それを支える壁も、まばゆいばかりの純白色、派手な赤茶色、あるいはクリーム色、めまいがしそうな黄色等々、家ごとに様々な色で塗られている。
 時折、その壁を飾っているのが、等身大ほどもありそうな聖人の像や、奇妙な姿の魔物の彫刻、鋳物でできた看板などだ。窓辺には春の花々が丁寧に飾られ、街の風景に潤いをもたらしている。
 アレスの住んでいるアシュボルの谷一帯では、家というのは木と粗末な土壁でできており、普通は平屋か2階建てなのだと相場が決まっている。比較的大きくて立派な建物といえば、せいぜい神殿ぐらいのものだ。
 そもそも、これほど沢山の建物がひしめいている風景だけでも、アレスを当惑させ、それ以上に興奮させるには十分過ぎた。
「なんか、家の梁や壁に字が書いてあるぞ。時は金なり……。こっちは、何、1日幸せでいたければ、床屋に行きなさい? で、あっちは、沈黙は雄弁に勝る? 王国の未来は世界がうらやむ、だって。何かわかんないけど、すげぇ。これは意味不明だな。汝、コレコレセヨ?――読めないぞ、古典語のことわざか何かかな?」
 面白がって家々を観察しているアレス。よもや、本来の目的を早くも忘れかけているのではあるまい?
「それにしても広いな。歩いても歩いても同じような景色ばかり。というか、俺たち、迷ったかも……。ふぅ。こんなことじゃ、ブロントンって人を探す以前の問題だよ」
 王都エルハインは、ミトーニアやノルスハファーン等の大都市と比べてさえ、飛び抜けて広い街なのだ。10分も歩けば表門から裏門まで行けてしまうような、アレスの村と一緒にしてはいけない。
 途方に暮れたせいか、急に脚の疲れを感じたアレス。
 お世辞にも体力があるとは言えないイリスのことが、彼は心配になった。
「イリス、足、痛くない? もう少し歩いても大丈夫か?」
 彼女は黙って頷いた。いや、頷いたように見えた――だけかもしれない。イリスは相変わらず無表情に、どこが焦点なのかよく分からない目つきで、呆然と遠くを眺めている。
 ――コイツ、可愛いんだけど、何考えてんのか謎だよな。謎……。
 ほこりっぽい街の風に、イリスの金色の髪がふわりと揺れる。
 その様子を何気なく眺めながら、アレスは溜息をついた。

 ◇ ◇

 エルハインの王城の東館――といっても、そこは本館から半ば独立した別の城であって、広大な敷地内にぽつんと離れた形で建っている。かつては夏の王宮と呼ばれ、文字通り避暑用の宮殿だったらしいが、現在は王子や王女の住む建物だ。
 その一室、中庭に面した比較的小さな広間から、澄んだ笛の音が聞こえてくる。贅沢な宮廷の常、名のある音楽家を呼んで演奏会を催しているのかと思いきや、そうではないらしい……。音そのものは、名演奏家レベルなのだが。
 実は、様々な楽器の達人として知られるフリート王子による、中でも彼の得意中の得意、横笛の演奏である。
 きらびやかに着飾った若い女官たちが、王子の周囲で、その見事な奏者ぶりに聴き入っている。いや、聴き惚れている。
 王子は今年で18歳。美人の誉れ高い王妃に似て、細面のすっきりとした顔立ちだ。これといって政務に関わるわけでもなく、毎日こうして楽器を奏でたり、絵を描いたり、馬に乗ったりしながら、退屈だが平穏な日々を送っている。
 少し離れたところで、楽器遊びに興じる王子の姿を見ている人々がいた。こちらは必ずしも平穏な心持ちではないようだ。
「陛下の御容態は日増しに悪くなるばかり。だがこの大変なときに、フリート王子といえば、いつもあの御様子……。まったく、朝っぱらからお戯れを」
 白い髭で覆われた顎を押さえながら、恰幅の良い貴族がつぶやいた。国王が最も信頼を寄せる側近、ジェローム内大臣である。
「これだから、古狸がますます付け上がるのだ!」
 大臣は声の震えを抑えようとする。それでも押し止めることのできぬ憤りが、宮廷人としての上品かつ鉄面皮な表情の裏から滲み出ている。
 現国王が病に倒れたのを良いことに、メリギオスが権力をほしいままにしている現状について、ジェロームは日頃から不満を抱き続けているのだ。彼は王の片腕と呼ばれる人物であるだけに、メリギオスの専横に対し、他人以上に怒り心頭なのだろう。
 内大臣の傍らでは、30歳前後の婦人が一人、ゆったりとした言葉で相づちを打っている。見目麗しい女性の目立つ王宮の中では、彼女は年齢的にも容姿的にも見映えがするとは言い難いが、気品ある立ち振る舞いと知性的な顔立ちは、それを補って余りあるものだった。
 彼女は、王子の妹のレミア王女に学問や行儀作法を教えている、ルヴィーナ・ディ・ラッソである。ルヴィーナには若くして高位神官への道が約束されていたが、希に見る才媛ぶりを王家に認められ、お抱えの教育係という形で城に招かれたのだという。
 ジェローム大臣の苦々しげな表情とは対照的に、ルヴィーナは王子の方をさりげなく見つめ、むしろ表情を和らげた。
 彼女の言わんとするところを読みとって、大臣は渋々同意する。
「分かっておる。あの方がお世継ぎでいらっしゃらなかったら、ああいった御様子でも一向に構わぬのだが。しかし……」
 内大臣を真ん中に挟んで、ルヴィーナの向かい側には、数名の機装騎士らしき人々が謹厳なたたずまいで立ち並ぶ。彼らはみな、昔の騎士が鎧の上に羽織っていたような、白いサーコート風の擬古的な衣装の上に、エクターの証、薄い生地を三重に重ねたエクターケープを羽織っている。
 黒いエクターケープと、肩に掛かった青と金の剣帯、コートに描かれた《塔》の紋章、という彼らの装束は――パラス聖騎士団と並んで近衛機装隊の双璧をなす《レグナ騎士団》のものである。
 内大臣の手前に居る男が、レグナ騎士団を率いる若き団長ヨシュアン・ディ・ブラントシュトームだ。生身での立ち会いであれば、王国中にかなう者なしと言われるほどの剣豪。緩やかに波打った金色の長髪、片目には眼帯、うっすらと伸ばした髭。野性的な雰囲気と貴族的な優雅さとが溶け合って、独特の風貌を生み出している。
 忠臣たちの心配を全く知らないかのように――実際、さほど理解していないのかもしれないが――フリート王子は、相変わらず女官たちの前で横笛を吹いていた。
 素朴でありながらも、どこか物悲しく、高度な技巧に裏打ちされた音。確かに王子の演奏とは思えぬほど卓越しており、内大臣ですら、一瞬、胸の内の憤りを忘れかけてしまうほどの妙技だった。ある意味、神業に近い。
 その繊細な音色に頷きつつも、ヨシュアンは表情を崩していない。目元は微かに笑みを浮かべているようにも見えるが、全体として複雑な面持ちだ。
 一曲終わって、王子は大臣たちに向かって遠くから手を振った。
「おや、ジェローム、来ていたのか。今朝は早いね。どうだい、もし良かったら一緒に」
 王子はひょろりと背が高く、元々細い目をさらに細め、朗らかに笑っている。サラサラとした金髪をおかっぱ風に刈り揃えた髪型と相まって、華奢な首筋を背後から見ると、まるで少女のようだ。美少年だといえばかなりの美少年だが、頼りないといえば全く頼りない……。
 フリート王子は音楽や絵画に並々ならぬ関心を示し、その芸術的才能については、専門家たちも舌を巻くほどである。反面、彼は政のことには興味を持たず、国政を動かし臣下を統率する能力にも全くといってよいほど欠けていた。人柄は明るく穏やかだが凡庸で、君主に必要なカリスマや威厳は持ち合わせていない。
 王になるのでなければ、実に愛すべき人間なのだが。そう、現実には――彼は大国オーリウムの王冠という非常な重圧を、近い将来、独りで担わねばならない人物として生まれてきてしまった。
 何に対して、あるいは誰に対してなのか、ジェローム大臣は溜息をつく。
「過ぎたことを悔やんでもどうしようもないが、もしも今頃、エルツ王子が御存命であれば……。いや、本当なら今頃はエルツ殿下が王位を継いでおられたはず。殿下さえいらっしゃれば、あの腹黒い坊主に王国を牛耳らせたりなど、させぬものを」
 無言のヨシュアンとレグナ騎士団の面々。それぞれ思うところがあるようだが、敢えて多くを語ろうとしないようだ。
 王子に聞こえぬよう気遣いながら、ルヴィーナがささやく。
「その頃のことは、詳しく存じませんが――あの一件は本当に残念な、不幸な事故でございましたね」
「事故? 事故などではない! 殿下はメリギオスに……」
 鋭く言った内大臣を、ルヴィーナは嫌味のない素振りで静止する。
「お声が大きゅうございます。この東館に居る者たちとて、全てがお味方とは限りませんわ」
「そうだな。わしとしたことが。今ここで信用できるのは、ルヴィーナとヨシュアンだけだというのに」
 彼女にしか聞こえない小声で言うと、大臣はばつが悪そうに苦笑いする。
「ヨシュアン、頼むぞ。万一の事が起こった場合、お前たちは命に代えても、陛下と妃殿下、フリート王子とレミア姫をお守りするのだ」
 そしてジェロームは心の中で嘆いた。
 ――パラス騎士団は、今やメリギオスの手先に成り下がってしまった。
 ヨシュアンの肩に手を置いた後、ジェローム大臣は表情を曇らせる。
「近衛隊の半数以上はファルマスの言いなりです……。国王軍の他の部隊にしても、次々とメリギオス大師に忠誠を誓っている様子。少なくとも王国北部・中部の各師団は、大師の手兵に等しいと考えざるを得ません」
 淡々と現実を見つめるかのごとく、ヨシュアンが耳打ちする。

 ◇ ◇

「腹減ったよー。何か食いてぇ……」
 2、3時間前に早めの朝食を済ませたばかりだというのに、アレスが情けない声で言った。
 彼の気持ちは分からなくもない。ちょうど街の人々は今が朝食時である。先程からひっきりなしに、こんがり焼けたパンの匂いや、何ともいえない旨そうなスープの匂いが漂ってくるのだ。
「おっ!? あんなところに食い物が!! ほら、イリス、こっちこっち」
 気力を失って力無く歩いていたアレスが、急に元気になった。彼はイリスの手を引っ張り、物凄い勢いで進んでゆく。
 イリスにしてみれば迷惑だろう。いや、迷惑かどうかは、彼女の表情からは見て取れない。例によって、感情のない人形が手を引かれていくような様子である。
 行く手に広場が見える。ちょうど市が開かれているようだ。しかも今日は、街の外からの行商人も加わる大市の日らしく、北オーリウム海から運ばれてくる魚介類や、中央平原北部の豊富な野菜や果物、あるいはイゼール森近辺の村々で作られる木彫りの工芸品まで売られている。
「すっげー! でっかい腸詰め!! あれ1本欲しいな。イリスも食う?」
 白い煙をもうもうと漂わせ、アレスと同じ年の頃の少年が、炭火で腸詰めを焼いている。たとえ空腹でなくても思わず引き寄せられてしまうような、ましてやアレスにとっては涎が止まらない光景である。
「ごめん。もー我慢できない。限界。俺、ちょっと買ってくる」
 アレスはそう言って、腰の革袋に手を突っ込んだ――が、突っ込んだはずの手が、空を切った。あるべきところに、あるべきものが無いのだ。
「あれ? おかしいな。俺の財布……」
 彼は青くなって、懐やポケットやらを引っかき回す。
「あれ、あれ、あれ!? さ、財布がない!!」
 思わず叫んでしまう。たぶん人混みの中でスリにやられたようだが。
 見るからに財布だと分かる皮の巾着を、目立つところにぶら下げておくなど、盗ってくださいと言っているようなものである。おまけにスリの方から見ても、街に不慣れで、かつ警戒心の全くないアレスは絶好のカモに違いない。
「ど、どうすんだよぉー。余計に腹減った……」
 がっくりと肩を落として座り込むアレス。自分の住んでいた村と大都市エルハインとの違いを、早くも思い知らされる彼であった。

 ◇ ◇

「申し上げます!」
 広間の入口にレグナ騎士団員とおぼしき青年が現れ、ジェローム内大臣の側へと足早に駆け寄った。
「ジューラ少将がご到着です。会談の間にお通し致しました」
 その名を聞いたヨシュアンの目が、一瞬、鋭い光を帯びる。
 ジェロームは待ちかねていたかのように、深々とうなずいた。
「よく聞き知っておろう、マクスロウ・ジューラの名は。議会軍の水面下での作戦を一手に取り仕切っている男だ。ナッソス公爵家との戦いにエクター・ギルドの艦隊が参戦したことも、彼の働きによるところが大きい。油断ならぬ切れ者だが、味方に付けておけば何かと役に立つ。向こうも今回の話には関心があるようだ……」
 大臣の口をついてギルドの艦隊という言葉が出たとき、ルヴィーナの肩がぴくりと震えた。彼女は胸の奥で、思わぬ人物の無事を祈る。
 ――今頃はあの船も、クレドールも戦っているのかしら……。イリュシオーネの神々よ、どうかシャリオ姉様をお守り下さい。
 少女時代からずっと同じ神殿で暮らしていたため、シャリオとルヴィーナは親友、いや、それ以上に姉妹も同然の関係だった。
 ――手紙でも教えてくれなかったわね。どうして、わざわざそんな危険な船に身を置こうとするの? それに、毎日毎日、野卑なギルドの戦士たちと一緒に居るのかと思うと、私は姉様のことが心配で……。
 思い詰めたルヴィーナが立ちすくんでいる間に、ジェロームはすでに部屋から立ち去っていた。
「何か心配ごとでも? ルヴィーナ殿」
 彼女はヨシュアンの声で我に返る。
「あ、いいえ。その、遠くにいる友人のことを、不意に思い出したものですから。何でもありませんわ」
「きっと大切な方なのでしょう。しかし、ルヴィーナ殿がご友人の話をなさるのも珍しい」
 そう言ってヨシュアンが微笑んだ。と……。
 突然、彼の頑強な身体がよろめいた。
「ヨシュアン殿!?」
 隣にいたルヴィーナが血相を変えて支える。
「どなたか、手をお貸しくださいませ!」
 彼女とレグナ騎士団の仲間たちに抱きかかえられ、ヨシュアンは立ち上がった。やつれた様子で垂れ下がる髪。そして沈黙。
「大丈夫だ。いつもの軽い発作にすぎない」
 数度、ヨシュアンは不自然に咳き込む。
 ――私の体は、もう長くは保つまい。だが今しばらく生き抜かねば……。この国をメリギオスの好き勝手になどさせてたまるか。それに、私がいなければ、誰がジェローム様やフリート王子を、姫を、お守りできる!?
「心配は要りません、ヨシュアン殿。以前に私が居た神殿で、旧世界の強力な治療呪文の書かれた古文書を解読中だそうです。それが使えるようになれば、どんな病も治るはずですわ」
 見込みのないことを、さもあり得るかのように主張する言葉に、ルヴィーナは自責の念を覚えた。
 神聖魔法の知識を持つ者として、彼女はよく知っている――理屈の上では、魔法はあらゆる傷病を癒せるはずなのだが、現実にはいかなる呪文を用いても治療できない病が、少なからず存在することを。
 ちょうどヨシュアンの場合のように……。

 ◇ ◇

 都に到着して早々、財布をすられて意気消沈のアレス。
 がっくりと肩を落とし、彼は広場の真ん中にある泉の傍らに腰掛けている。
「歩いているだけで財布がなくなるって、何なんだよ? まったく、信じられないところだな。都会っていうのは……」
 彼のぼやき声がかき消されるほどに、周囲の市場はますます賑わいをみせる。何やら、たたき売りのようなものも始まって、威勢の良い掛け声がそこかしこで飛び交う。雑多な音が混じり合い、全体としてひとつの音の塊、いや、独特の場の空気を作り上げていた。
 アレスとは対照的に、イリスはあくまで平然と――落ち着いているというよりも無感情な態度で、行き交う人たちを見ていた。興味深そうに、などといった形容はおよそ的外れだろうが……。
 自然の中で生まれ育ったアレスにとっては、めまいがしそうな数の人間で埋め尽くされた景色だ。しかし、イリスはごく慣れた様子である。
 もしかすると旧世界の街にはもっと多くの人間がひしめいていたのかもしれない、とアレスは思った。違う世界の人間、いや、《異なる時代》の人間であるはずのイリスが、都の中に自然と溶け込んでいるようにさえ感じられる。
 これからどうしようかと尋ねかけ、アレスは慌てて口をつぐんだ。
 ――いや、俺がしっかりしないと。イリスを守ってやらないといけないんだからな。
 話しかけても言葉を返さないであろうイリスの横顔から、アレスは泉の周辺へと目を転じた。
 この泉は、街の人々の手頃な休憩場所なのだろう。若い男女が肩を抱き合い、朝っぱらから熱っぽく語っているかと思えば、軽やかな音と共に、辻楽師が竪琴の調弦をしていたりする。
 鳥に餌を投げ、その様子を眺めている老人。たぶん日がな一日、彼はこうして鳥たちを見ているのかもしれない。
 泉の周りにそって、くるくると追いかけっこをしている子供たち。
 誰一人としてアレスの様子に気を止める者はいなかった。
 むしろアレスの方が、辺りの人間たちを見ているうちにふと思った。
 ――こんな町の真ん中に平気で泥棒が出たりするわりには、平和な風景だな。でも戦争が本格的になれば、みんな、こんな感じで暮らしていられなくなるのかな。もし《帝国軍》が攻めてきたら……その前に、ここでも反乱が起こったとしたら、どうなっちゃうんだろうか。
 アレスは珍しく哀しい気分に取りつかれた。だが目先の現実が、諸々の空想から彼を引き戻す。
 ――というより、お金、どうすんだ? まずそれだよ、それ。
 彼の身に起こった出来事を察し、レッケが同情するかのように頭をすり寄せる。信頼できる相棒に向かってアレスはつぶやいた。
「でも変だな。お前がスリに気づかないなんて、あり得ないのに……。あ!?」
 鈍いアレスもようやく気がつく。そう、逆に言えば、レッケが近くにいない時に盗られたということなのだ。《2人》はずっと一緒にいた――アレスがレッケから離れたのは、先ほど腸詰めを買いに出かけたときだけだ。
「それって、ついさっき、そこで盗られたってことじゃないか!!」
 あまりの大声に、落ちている餌をついばんでいた鳥たちが一斉に飛び去る。この辺りの鳥は人間を恐れないので、少々のことでは驚かないはずだが。
 アレスは背伸びしながら人混みを盛んに見回し始める。しかし、いくら探したところで、見ただけでは誰がスリか分かるわけがない。
「そうだよな。もうちょっと早く気づいていれば」
 再び落胆し、うなだれるアレス。似合わないだけに、余計に惨めさが漂う。
 と、不意に彼の後ろで声がした。
「痛ぇな、離せよ! そんなに引っ張らなくても自分で歩くから」
 アレスが振り返ると、2人の男が立っていた。
 騒ぎ立てている方は30歳くらいの小柄な男だ。貧相な顔つきは、取り立てて悪人には見えないが、どことなく小ずるい雰囲気かもしれない。言葉に南部地方の訛りがあるので、恐らくエルハインの住人ではなく余所者だろう。
「ちっ。今日はさい先良く儲けられると思ったのに。大体、財布をこれ見よがしに、ぶらぶらと下げている奴の方が悪いんじゃないか」
 背後で彼の腕を取り押さえている若者は、見た目には細身だが、筋肉質の精悍な体つきをしている。腰には拳銃と共に剣を帯び、その鞘もよく使い込まれた風合いである。飾りではない。他方の男を慣れた手つきで捕らえている様子からして、格闘術か何かの心得がありそうだった。
 全体的にみて、普通の市民や行商人ではないようだが。
「それは盗っ人の屁理屈だ。黙れ。ところで、そこの君……」
「俺?」
 突然語りかけられ、きょとんとしているアレス。
「そう。さっき、こいつが君から盗んだだろう? ほれ」
 若者はにこやかに笑って、革袋をアレスに投げてよこした。無造作に散らかした茶色の髪と無精髭がいささか野暮ったい雰囲気ではあれ、きりりと引き締まった顔つきは、よく見ると結構男前だ。
「俺の財布!」
 たちまちアレスの声に元気が戻る。分かりやすい。
「取り返してくれたんだ? ありがとう! ありがとう!!」
 嬉しさのあまり、何度も感謝の台詞を繰り返すアレス。
「礼には及ばない。こいつは、こう見えてもその筋では名を知られたスリで、わずかだが賞金もかかっている。こちらこそ、出かけるついでに《仕事》ができたというものだ」
「仕事?」
 アレスは直感する。この手の人間は父親の知り合いに沢山いた。幼い頃から幾度となく見てきている。
「ひょっとして賞金稼ぎの人? それも、もしかしたらエクターとか?」
 若干驚いたような表情で若者はうなずく。彼が賞金稼ぎだとは、言われてみれば風体からも納得がゆくが、エクターかどうかまでは、普通なら見ただけでは分かるまい。
「勘がいいな。どうして分かった?」
 アレスは得意げに、少し照れながら答える。
「何となく。その、雰囲気ってやつかな。俺の父ちゃんもエクターだったんだ。だから……」
「そりゃ奇遇だ。俺はエクターも一応やっているし、賞金を掛けられているヤツがいれば追いかけもするが、どちらかといえば本業は《発掘屋(ジャンク・ハンター)》かもな。旧世界の遺跡に潜って、邪魔な魔物が住み着いていれば、ぶった切って、お宝を掘り出して。そんな毎日さ。アルマ・ヴィオに乗るよりも、この腕とコイツで商売をしていることの方が多い」
 そう言って若者は腰の剣を叩く。
 彼がエクターだと知り、アレスは親しみをもって手を差し出した。
「俺はアレス・ロシュトラム。本当にありがとう!」
「アレスか。いい名前だ。俺は発掘屋の、というより、便利屋と言った方が良いかもしれないが、フォーロック……」
 2人が握手した隙に、スリの男が逃げようとするが、フォーロックは素早く彼の脚を引っ掛けて倒した。さすがにプロだ。
「おっと。逃げられては俺も困る。早い話、あんたは銭になるんだ。エクターが大物の賞金首ばかりを狙っていると思ったら大間違い。俺みたいなセコい賞金稼ぎもいて、不幸だったな」
 あっさり笑っているフォーロックだが、スリの男は役人に引き渡された後、罰として要塞の建築現場にでも送られ、過酷な強制労働を強いられることだろう。戦時中だけになおさらだ。
 悪人とはいえ、あくまで小悪党にすぎない。アレスはスリが可哀想な気もした。勿論、そんな同情をしていてはエクターなどできないと彼も知っている。そもそもアレスがこうして大きくなることができたのも、父親がエクターとして賞金を稼いでいた結果なのだから。
 自分の父――そこからの連想で、彼は大切なことを思い出した。
「そうだ、フォーロックさん。ちょっと聞いてもいいかな?」
 ジャンク・ハンターなら知らないはずはないだろう。この都のハンター・ギルドに属する腕利きの発掘人、ブロントンを。
 そう、アレスが母から教えられた人物、父の旧友である男のことを。

 ◇ ◇

 広場の周辺に生々しく残る戦いの跡を、ルキアンは複雑な思いで目に焼き付けた。理由はどうあれ、ここで直面している状況は、自分が招いた結果には違いないのだと、半ば己を責めつつ……。
 中央平原の華と称されるミトーニア市。その富裕で華麗な街並みの中でも、神殿前の広場の一角は、とりわけ美しい場所であった。だが今では、あたかも激しい地震に遭ったかのように、家々が随所で倒壊している。
 アルフェリオンに敗れた敵のアルマ・ヴィオが、その巨体を派手に地面に投げ出していた。それらの鋼の屍の下敷きになった建物も少なくない。
 ――甘かったんだろうか。MgSを撃たないようにとか、一生懸命に気をつけたつもりだったのに。でも、いったん戦いを始めてしまえば、結局、こうなっちゃうのかな。火事が起こらなかったのは不幸中の幸いだったけど、そういう問題じゃ、そういう問題じゃない……。ここに住んでいた人たちが家に戻ってきたら、自分の住むところが無くなっているのを見てどう思うだろう。
 抗戦派の部隊は広場からいったん撤退したようだが、とりあえず周囲の安全を確認するルキアン。
 ふと、瓦礫と化した一軒の家が視界に入った。
 崩れた壁や折れ曲がった柱の間に、不自然なほど色鮮やかなものが見える。窓辺を飾っていた花が、粉々になった鉢の上に散らばったまま、なおも咲き誇っていたのだ。素知らぬ顔で――それはそうだ、花に感情はないだろうから。
 破壊された建物と美しい春の花とのコントラストは滑稽ですらあったが、その奇妙な様相は、痛ましげな状況を余計に強調する。
 自責の念にかられ、ルキアンは家々から目をそらした。

 ともかく、勝利の喜びを感じられない戦いだった。
 敵を倒した快感に酔うどころか、気持ちが落ち着くに従って、ルキアンの胸の内では悲しい思いが広がっていくだけであった。
 敵の3体のアルマ・ヴィオがもはや動けぬことを、改めて確認した後、アルフェリオンは神殿の前に屈み込む。
 幸い神殿は無傷である。高い尖塔を備えた、すらりと細長い優美な建物だ。
 ハッチを開き、ルキアンは急いで機体から降りる。

 数名の人々が彼を出迎えた。
 1人の男が待ちきれない様子で走り寄ってくる。面長な顔に、細めの眼鏡。意外に強い朝の陽光が、楕円形のレンズに当たって反射していた。
 街を傷付けてしまったことを何と詫びようかと、ルキアンが言葉に困ったとき、男は感極まった声で告げた。
「あなたがルキアンさんですね? 私です。シュワーズです!」
「あ、お、おはようございます……。そうです。その、僕、ルキアンで……」
 ぎこちない口調でうなずくルキアン。
 シュワーズは親しげに彼の手を取る。細身の青年だが、握手する手に込められた力は、痛いほど強かった。
「ありがとう!! 何とお礼を言ったらよいのか。あなたの活躍のおかげで希望が出てきました。今ならまだ、抗戦派の暴挙を封じ込められるかもしれません。ルキアンさん――念信の《声》から想像していたより、ずっとお若いですね。にもかかわらず、あの戦いぶり。ベテランの繰士も真っ青の、機体との見事な一体感でしたよ。凄いですね」
 神経質そうな市長秘書は、普段の慇懃な口ぶりとはうって変わって、いささか興奮しているようだ。
 ルキアンが照れていると、シュワーズは真顔に戻って言った。
「……申し訳ない。今はゆっくりお話ししている時間がありません。抗戦派が増援を連れて戻ってこないうちに、大至急、私は街の人々に真実を伝えに行きます」
 ルキアンは呆気にとられて見ていたが、今にも駆け出しそうな市長秘書に慌てて尋ねる。
「あの、僕にも何かお手伝いできることはありませんか? 僕だって、この街を戦火から救いたいんです」
 恐らく神官たちであろうか。シュワーズの背後にいる3人がルキアンを見た。知らず知らずのうちに、ルキアンは彼らの方に向かって真摯に語り始める。
「僕は戦いを望んではいません。いや、エクター・ギルドだって……。信じてください。本当はギルドの人たちもミトーニアと争いたくないんです!」
 一瞬、戸惑うように顔を見合わせた神官たち。
 そのうち最も年上の白髪頭の男が、柔和な笑みを浮かべてうなずいた。他の神官の態度から考えると、彼がこの神殿の長らしい。
 ちなみに、《前新陽暦時代》の異教の伝統が根強いミトーニアは、古くから神殿の影響力の弱い街であった。それゆえ現在でも他の大都市とは異なり、神殿の伽藍は比較的小さく、格から言っても地方の神殿より少し上という程度にすぎない。
 そのせいか、神殿の長の衣装も、通常の《正神官》――世間で最も普通に神官と呼ばれるのはこの位階の人々で、平均的な規模の神殿の主任神官を務めていることが多い――のものだと思われる。純白の下地に、袖や首まわりを飾る青という色彩は、大神官のシャリオの場合と同じだ。しかし彼女のように立派な長衣を重ね着しているのではなく、至って簡素な服装である。また四角い神官帽の高さも低めで、聖杖も手にしていない。
「我々も貴方の思いを信じたいものです……。同じオーリウム人が、いや、共にイリュシオーネに生きる人間が血を流しあうのは悲しく、愚かなこと」
 白髪頭の神官は、シュワーズの隣に来てルキアンに手を差し伸べた。厳めしい神官というよりは、人の良さそうな普通の小市民という雰囲気である。
「私はミトーニア神殿の主任神官、リュッツと申します。ギルドの若きエクターよ、どうぞよろしく」
「いえ、その、僕はギルドに属してはいません。ただギルドの飛空艦に――何て言ったらよいのか、えっと、居候しているんです」
 うつむき加減の姿勢で、少し頬を赤らめてルキアンは言った。
 リュッツ主任神官は不思議そうな顔をして尋ねる。
「ギルドの飛空艦に居候? 本職のエクターではないのですか? これは驚いた。貴方は一体……」
 話の途中で、リュッツは周囲を見回した。
「ご覧なさい。今の騒ぎを聞きつけて人が集まってきたようです。大変な騒ぎになっておりますな」
 彼の言葉通り、いつの間にか広場の周囲に人だかりができている。今まで抗戦派の部隊によって、広場に入る道は封鎖されていたのだが、その封鎖が解けたせいもあるだろう。
 事情を知らない市民たちは、自分たちの軍のアルマ・ヴィオが倒れているのを見て騒然としている。それにも増して、正体不明の白銀色のアルマ・ヴィオが神殿の前に鎮座している様相は、野次馬を引き寄せずにはいなかった。
 シュワーズは手を打った。
「今がチャンスです。抗戦派が市庁舎を占拠し、市長や参事会員の方々を監禁しているということを、みんなに伝えましょう!!」
 言い終われるが早いか、彼は広場の群衆の方へと走り出す。
「そう慌てずとも! いや、待てと言っても待つはずがないですか」
 リュッツは彼の後ろ姿に向かって手を振るが、それは無駄な試みだった。
「あの、僕は、どうしましょう……」
 ルキアンは、いったん主任神官に問いかけるも、思い直したかのように背後のアルフェリオンを指さす。
「いや、抗戦派のアルマ・ヴィオがまた来るといけませんから、僕はここを守ります。構いませんか?」
「え、えぇ。そうしていただけると助かります。しかし、むやみに動き回らないようにして下さいよ。ここに集まった人々にも誤解を与えかねません」
「はい、気をつけます。リュッツさんたちも、頑張って街の人を説得してください!」
 何かが吹っ切れたような勢いで、ルキアンは、アルフェリオンに駆け寄ってゆく。
 ――何とかなる? まだ間に合うかもしれない!!
 いつもは自信なさげな少年の目が、強い意思の輝きを帯びていた。自分にも何かができるはずだということを、心の奥底で見いだしたかのように。

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