HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第31話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  時には小さな塵が精密な機械を狂わせてしまうように、
  人間が偶然もたらしたに過ぎない些細なノイズが原因で、
  大いなる現世(うつしよ)のシステムに
  致命的エラーが生ずることもある。
  それゆえ御子たちの力は、
  《あの存在》にとって唯一の脅威となるだろう。
  御子の力、それは
   ――絶対者の引いた路線を白紙に戻し、
        新たな未来を作る不確定性の力。
  (リュシオン・エインザール)


 一面の草原の中、ミトーニア市から伸びる街道を目で追っていくと、やがてナッソス城のある丘が見えてくる。
 丘の周囲の土地は真っ平らではなく、多少の起伏を伴っている。上空からの眺めは、緑がなだらかに波打つ海のようだ。こうした緩やかな凹凸以外、見渡す限りの平原には、これといって目立つ地形的特徴はない。
 クレドールの《複眼鏡》を構成する多数の魔法眼のうち、いくつかの《目》が地上の様子を探っている。付近には特に遮蔽物も存在しないため、いったん夜が明ければ、ナッソス軍の布陣を明瞭に把握することができる。
 結局、昨晩も床の上では眠れなかったヴェンデイルだが、その疲れを見せる様子もなく、彼は歯切れの良い声を上げた。
「動きがないね――日の出前に、ナッソス家の一隊がミトーニアの方に向かい始めたのに、どういうわけか城と街の真ん中辺りでずっと待機したままだよ。残りの主力部隊は、相変わらず城の守りを固めて持久戦の構えだ。……で、どうすんの? もう太陽もあんなに高く昇ってしまったし」
 そうですね、とだけつぶやいた後、クレヴィスの言葉がしばらく止まった。
 彼はミトーニア市の方角に視線を向けたまま、じっと沈思している。地上からの魔法弾を避けてクレドールが高々度にいるため、いま肉眼でミトーニアを見たところで、緑の上の小さな黒い塊のようにしか感じられないであろうが。
「多分、今朝早くルキアン君とナッソス家のアルマ・ヴィオが交戦した際に、何かあったのでしょう。アルフェリオンの戦闘力を目の当たりにした結果、敵軍がとりあえず自重しているとも考えられます。あるいは……」
 何事かの策を背後に含み持ったような、穏やかではあれ怜悧な微笑を浮かべ、クレヴィスは言った。
「貴重な戦力を本当にミトーニア救援のために割くべきなのかと、ナッソス家の指揮官たちが今頃になって躊躇しているのかもしれません。先程のルキアン君の報告が正しいとすれば――ミトーニアの市民軍の一部がギルドの地上部隊と戦闘状態に入ったのは、あくまで市庁舎を占拠した抗戦派の指図による結果であって、本来、市当局には戦う意思は無いようですからね。もし現段階で抗戦派が鎮圧されたりでもすれば、ナッソス家の援軍は無駄骨ということになります。抗戦派とナッソス家とが通じているのは確かだと思いますが。……もう少し様子を見てみましょうか、カル?」
 クレヴィスとは対照的に、カルダイン艦長は厳しい顔つきで押し黙ったまま、ブリッジ最上部の席に鎮座している。彼が無言であればあるほど、重厚な存在感と近寄りがたい威圧感とが醸し出される。
 奇妙な二人……。
 クレヴィス副長ほど、戦場にはおよそ似つかわしくない物腰の人間も珍しい。ただ、常に絶やさぬ微かな笑みには、人ではない精霊や半神の英雄さながらの、周囲の事情から超然とした余裕が感じられるとでもいうべきか。それゆえ、生理的な次元において、見る者はかえって底知れぬ怖さを覚えるかもしれない。
 他方、カルダイン艦長は、華々しさや感傷的な情とはほど遠い、戦いを金で請け負う本物のギルドの戦士だ。戦うために必要でない心の揺らめきを、一切停止しているかのように見える。
 副長の呼びかけが耳に入らなかったのでは、と思わせるほど――いささか長い間の後、カルダインは頷いた。
「ミトーニアへの対応は、今しばらくお前の判断に任せる。だが、あまり悠長に構えていることはできない。ミトーニア市の開城に手間取れば、ナッソス城の攻略にも遅れをきたし、最悪の場合、《レンゲイルの壁》への議会軍の攻撃作戦にも影響が出てくる。時間がないのだ。もう《帝国軍》は間近まで迫ってきている」
 不動であった艦長は、懐から煙草を取り出し、ようやく姿勢を崩しかけた。が、彼は再び椅子に深く腰掛け直すと、重々しく腕組みする。
「とはいえ、ミトーニアへの総攻撃を避けられるのであれば、それに越したことはない。議会軍のお偉方にしてみれば、世間への大義や建て前というのも重要だろう。誰が敵か味方か分からんような今の不安定な情勢の中では、なおさらのことだ……」
「えぇ。正規軍と組んだギルドが多数の一般市民を戦闘に巻き込んだということになれば、世論が悪い方向に傾く恐れがあります。特に、他の自由都市からの反発は激しいでしょう。現在中立の都市までが、反乱軍を支持することにもなりかねません。かといって、このままミトーニアを放置しておくのも具合が悪い」
 クレヴィスは微かに首を振った。そして溜息を――そのわりに、彼の様子はさほど深刻そうには見えない。
「時間が許すぎりぎりまで、市街戦という最後のカードは手持ちの札に含まれないものと考えておき、戦わずに開城させる手だてを探すべきでしょう……。しかし、今の状態では相手は話し合いに応じない。本来なら手詰まりだというところですが、幸い、全く運に見放されたわけでもないようですよ」
 彼の眼差しには、何故か確信めいたものが浮かんでいた。
「敵地の真ん中で《彼》を自由に飛び回らせておくのは、無謀極まりないことではありますが、反面、危険を冒してでも試してみる価値のあることです――ルキアン・ディ・シーマーが、ある種の攪乱要因として働くことにより、思いがけぬ可能性が生じるかもしれません。私には、そんな気がするのです。事実、コルダーユでも、パラミシオンでも、彼は我々の予想外の結果を引き起こしました。どう表現すればよいのでしょうか、ルキアン君は、良くも悪くも場の状況を変える何かをもっている気がします。水面に投じられた石。因果の流れを二転三転させる賽子(さいころ)。いや、妙な例えですが、もっと違う言葉でいえば……」
 ゆったりとした大げさな身振りと共に、クレヴィスは語る。
「主役がいて、脇役たちがいて、形の上では筋書きも決まっているような、そんな《舞台》の上で――横からひょいと出てきた《端役》であるはずの人間が、いつの間にか物語全体を違う方向に持っていってしまう。予定調和的に何事かを成し遂げるというよりは、むしろ物事の所与の前提条件を根底から流動化させてしまうような、そういう不思議な力をあの少年は持っているのかもしれません」
「相変わらず彼に入れ込んでいるようだな。期待し過ぎるのもどうかとは思うが、可能性というものは、たしかに信じられない結果に結びつくことがある。……それでも、最終的にミトーニアへの総攻撃が必要となったとしたら、やむを得ないがな。そういう汚い仕事は、俺たち以外の誰の役回りでもあるまい。正規軍の奴らにしてみれば、エクター・ギルドなど、所詮、勝つためには手段を選ばぬ胡散臭い傭兵の群れにすぎん」
 割り切った口ぶりで艦長は告げた。その後のクレヴィスの返答を気にするわけでもなく、彼は煙草をくわえ、窓の向こうを見据える。
 拍子抜けするほど平然とした態度に、いや、不敵な態度に終始する艦長。船のすぐ近くで、レーイたちとナッソス家の空中竜騎兵団との戦いが、なおも続いているにもかかわらず。
 革命戦争の際に多くの修羅場をくぐり抜けたカルダインに言わせれば、今の状況など、遠くの火事程度の危険にしか感じられないのかもしれない。
「やれやれ。そうやって偽悪ぶるのは、貴方の良くない癖ですよ、カル……」
 苦笑いしながら、クレヴィスは話題を変えた。
「それはそれとして、まずは降りかかった火の粉を払っておくのが先決でしょう。じきにレーイが片づけてくれると思いますが、今すぐにとはいかない様子ですね。ナッソス家の繰士たちも、いずれ劣らぬ手練れ揃いのようですし、さすがに重飛行型が相手となると、汎用型のカヴァリアンやフルファーでは分が悪い。この際、相手方に揺さぶりをかける意味も込めて、敵のアルマ・ヴィオ部隊を一気に排除しましょうか。サモンの《ファノミウル》と、それからラプサーに連絡して、カインの《ハンティング・レクサー》にも支援に出てもらいます」

 ◇

「……レーイったら、何を遊んでるのかしら」
 同じ頃、飛空艦ラプサーの艦橋でも、シソーラ・ラ・フェインが戦いを注視していた。棘のある批判的な口調とは裏腹に、彼女は何らかの点でレーイに同情するかのように、仕方なさげに首をかしげた。
「たしかに手間取っているようだが――本気を出していないと?」
 珍しくノックス艦長が尋ねる。軍士官あがりの彼にしてみれば、ある意味で当然なのだが、彼は戦闘中、必要以外の私語には一切応じない。たった今も、持ち前の厳格なまでの几帳面さをもって、刻々と変化する戦況を全て見逃すまいと構えていた。
 シソーラは人差し指を立て、意味ありげに左右に振った。ノックス艦長に向かって、貴方は何も分かっていないと言いたげである。
「彼が手を抜いているわけではないけどね……。むしろ本気よ、本気。レーイを真剣にさせるなんて、敵も相当の凄腕じゃないの。アルマ・ヴィオとの一体感といい、剣や槍の腕前といい、あれだけのエクターは滅多にいない」
 勇敢ながらも堅物の若き艦長ベルナード・ノックスは、いつもながら、姉御肌の(また実際、年上の)シソーラ副長に頭が上がらない様子で、話を聞いている。
 以前オーリウム議会軍の艦隊に所属していたノックスは、飛空艦の扱いには長けている。だがアルマ・ヴィオに関しては、全く知識がないわけではないにせよ、プロからみれば素人にすぎない。シソーラは、その気になれば自らアルマ・ヴィオに乗ることもできる。
「レーイは本気を出しているけど……。《全力》を出していないと言ってるの。いくら空中戦で不利だとはいえ、レーイが真の力を発揮していれば、この戦いはとっくに終わってるはずよ」
 金鎖で首にぶら下がっていた眼鏡を、シソーラはゆっくりと掛けた。
「でも今は、何だか試合でも楽しんでいる感じね。レーイも相手の実力を認めているのかもしれない。たぶん相手のエクターは女。それも、ウチのプレアーみたいな若い子。最初、レーイが戸惑っていたようだもの。そりゃまぁねぇ、あの人に、うら若き乙女の命が奪えるはずなどないでしょうけど……」
 彼女は不意に冷淡な口調になった。
「人の世の争いは醜い。純真そうな子供が暗殺の短剣を隠し持っていることもあれば、女や幼子を楯にしてくる卑劣な敵もいる。そこで剣を振るわないのは自由だけど――そうやって人の道をつらぬこうとするのであれば、代わりに自分の命を捨てる覚悟が必要になる。戦いというのは本質的に汚い。要するに殺し合い、つぶし合いなんだから、人間らしい感情を先に出した方が負けちゃうワケよ。良いとか悪いじゃなくて、許せるとか許せないとかじゃなくて、とりあえずそれが現実」
 彼女の言葉にはそれ相応の重みがあった。大規模な虐殺や粛正を伴う、あのタロスの革命戦争の渦中で生き抜き、全てを失ってオーリウムに亡命してきた人間の言葉だ。
 反対にノックス艦長は、職業軍人ではあったが、軍を辞めてエクター・ギルドに入るまでは実戦経験すら持たなかったのである。他の多くのオーリウムの軍人と同様に。
 シソーラが失った家族の話も知っているだけに、ノックス艦長は、黙って彼女の言葉に聴き入るしかなかった。
 祖国タロスなまりのオーリウム語で、シソーラはつぶやく。ノックスにとっては、余計にその言葉の響きが痛々しく感じられた。
「もしかすると、そんな現実は、戦いという特殊な状況だけに限らないかもしれないわね。人生という戦場で、人間的な《優しさ》を貫こうとする人は、自分の中のその優しさを守るために、自身の大切なものを犠牲にせざるを得なくなる。だって、人が生きるということは――特に、成功や幸福を味わうということは――自覚の有無にはかかわらず、必ずどこかで他人の犠牲を伴っているのだから。それに対して《痛み》を覚えてしまえば、そこから先には進めなくなる。だから人は無神経を装って、必死に言い訳しようとする。自分自身を正当化しようとする。私は努力したんだから。私には力があったんだから。他の人間ではなく、この私が選ばれたのだから。私は堂々と競争して勝ったのだから……。でも、それなら、人はどうして優しさなど持って生まれてきてしまったのかなって――時々思ったりするワケよね。違う?」
 ノックスもようやく口を開いた。
「確かに。いささか感傷的な言い方かもしれないが、笑わないで欲しい。今の世の中では、感じやすい繊細な心は、生きるための《足かせ》にしかなっていない。そんな優しい心を、真っ当に身に付けて育って《しまい》、それを失わずに生きてきて《しまった》人間は、その優しさゆえに生きづらくなっている。俺は思う――もしも《優しさ》が人として生きるために不都合なものなら、最初から人がそれを持っていなかった方が良かったはず。だが、そんなはずはないと思う。それが、優しさが人にとって大切なものだから、人はそれをもって生まれてきたのだと思う。そう信じたい……」
「でも現実には、貴方が言うように、《優しさ》は《足かせ》になっているかもしれないわね。こんな世界の中で人間が優しさを持っていることが間違いなのか、それとも、優しさを持つ人間が苦しまずには生きられないこの世界が間違いなのか、どちらが本当なのか私には分からない。だけど、ひとつだけ確かだと思うことがある」
 シソーラは顔を伏せ、いつもより低い声で言った。
「そうした矛盾を敢えて認めたかたちで、この世界が創られ、この人間という存在が創られたのだとしたら――そして、世界や人間をそういうふうに創った《創造者》が、万一、現に存在するのだとすれば――多分、それは《神ではないもの》ではないかと私には思える。もし本当の神であれば、そんなことはしないはず。全能であるにもかかわらず、間違ったものを間違ったままに創り上げるなど、永遠に終わらない人類の争いや苦しみの歴史を、最初から分かっていながら創り上げるなどということは、決してなさらないはず。でも、こう思ったりもする。それは《人間の基準》による勝手な考え方かもしれないって。つまり本来的には、この世界も人間も全て幸福であるように、真の神は創造したのかもしれない。その摂理を歪めたのが、私たち人間であるとしたら……。分からない。分からないけど、私は人間だから人間の基準でしか考えられないし、私たち人間がみんな幸せになれることが、一番正しい理想だと思う。それは仕方がない。何度も言うけど、結局、私は神でも獣でもなく人間だから」

 ◇ ◇

「ここも駄目か……。こんな小さな基地まで徹底的に潰してゆくなんて」
 木立を抜け、森の外れに開けた空間を前にして、グレイルは無念そうに天を仰いだ。
 あるべきものが無いのだ。ここには本来、ガノリス軍の《念信》の中継施設が存在するはずなのだが、グレイルが見いだしたのは、黒々と焦げ付いた窪地のような場所だけだった。
 彼は地面に屈み込み、炭化した柱の破片をつまみ上げた。
「多分、たった一発でやられたようだな。新型のMgSか。帝国軍の奴らときたら……」
 恐らくは愚痴であろうか、二度、三度と肩をすくめて独り言を口にしながら、グレイルは辺りを調べる。焼けただれた瓦礫を踏みしめ、何かを探しているようだが。
 独り言。それは彼の子供の頃からの習慣である。
 ただ、今とは違って、幼年時代の彼には感じることができた――他愛のない言葉に耳を傾けてくれた、何か、あるいは誰かを。

 ◇ ◆ ◇

「ママ、僕ね、妖精を見たんだよ。本当!」
 幼いグレイルは母親の腕を引っ張った。
 優しい目をして息子を見つめながらも、母は話半分といった調子で、取り合おうとしない。いつものことだと言わんばかりに、彼女は息子を抱き寄せ、仕方なさそうな顔で頷いた。温かい手が、濃い金色の髪を撫でる。
 だがグレイルは彼女の手から身体を引き離し、頬をふくらませた。
「本当だもん! 妖精いるもん!」
 それでいて再び、甘えるように母の腕の中に飛び込むと、彼は繰り返し言う。
「妖精ってね――あのね、知ってる? 赤い服を着て、髪の毛も真っ赤なお姉ちゃんなんだ。昨日、見たんだもん」

 ◇ ◆ ◇

 グレイルの脳裏に、幼き日々の記憶が不意に蘇る。
「妖精か。そんなのは、今どき、森の奥の奥にでも迷い込まない限り、出会うこともないだろうが」
 白けた口調でそう言うと、彼は軽く頭を抱える仕草をした。
 《妖精》らしきもの。小さい頃のグレイルは、後にも何度か、その存在を感ずることがあった。だが彼が少年になり始めた頃、それは彼の側から姿を消してしまった。いや、《見えなくなった》という方が正しいのかもしれない。
「それより、使えそうなお宝のひとつでも回収しないと。だが駄目か。こんな酷い有様では、弾薬や食糧はおろか、紙切れ一枚すら手に入らなさそうだ。当てが外れて、なんか余計に腹が減ってきたな」
 もはやガノリス軍の補給線は帝国軍によって各地で寸断され、おまけに手近な部隊とも離ればなれになってしまったグレイルたち。彼らの手元には、あとわずかな物資しか残されていなかった。
 帝国軍の追撃をようやく振り切った今、グレイルは付近の村や軍の施設を巡り、何か使えるものがないかと物色中である。その間、残りの2人の仲間たちはアルマ・ヴィオの《修理》――《手当て》と表現した方が良いかもしれないが――を行っているところだ。
 グレイルは、小高く積もった煉瓦の山に腰を下ろした。
 連日の戦闘と逃走の繰り返しのせいか、彼は妙にやつれて見え、肩を落としたその姿は、何となくみすぼらしく、ちっぽけにさえ思える。
「妖精を見ることができる子供ねぇ。末は立派な精霊使いか、天才魔道士か、なんて言われてたけど。今じゃぁ……」
 赤茶けた煉瓦をつかんで、遠くに投げる。
「ケチ臭い三流魔道士か。二十歳過ぎればタダの人って。それどころか、明日のことすらどうなるか分からない、こんな毎日ときたもんだ」
 良く晴れた空が、何故か忌々しい。ずいぶん自分も焼きが回ってきたかと、グレイルは自嘲気味に口元を緩めた。

 そんな彼の様子を見守るように、木々の向こうで揺らめくものがあった。
 ――あたしは妖精じゃないよっ。パラディーヴァだってば! それにねぇ、今のアンタには、あたしが《見えない》んじゃなくて、《見ようとしていない》だけだろうが。この、間抜け魔法使い! こっち向け!!
 森の中に浮かぶ炎は、鬼火でも幻でもなく、炎のパラディーヴァ・フラメアに他ならない。しかし、自らのマスターにここまで無礼な口を聞くパラディーヴァなど、彼女の他には居ないだろう。
 ――大人になるにつれて、あんたは自分の《パンタシア》の力をどんどん眠り込ませてしまったんだよ。だから、あたしのことが見えないんだって。でも、ずっとむかし、小さな頃のアンタは違っていた。見えていたんだ。偶然だけど、本当にあのとき、あたしはすぐ近くにいたんだ。一瞬、この子がそうかもしれないと思った。とっても大切な、小さな王子様。古の契約に従い、あたしのマスターになるべき《御子》かもしれない、たったひとりの……。
 宙に舞う炎は、寂しそうに風にそよいだ。
 やがて、森の暗がりに吸い込まれるようにして消えていく。

 ◇ ◇

「俺の守るべき《お姫様》も、これがまた、なかなか世話が焼ける……」
 すっかり陽は昇ったというのに、依然として薄暗い室内で、アムニスはささやいた。
 風もない部屋の中、神秘的な輝きをまとったアムニスの黒髪が、そよそよと揺らいでいる。長身のパラディーヴァは、実体なき霧のような姿で窓際にたたずむ。
 全て締め切られたカーテン。本来は燦々と日の光が降り注ぐはずの、贅沢な作りの窓も、今では無用の長物だった。
 もう長いこと、食事の出し入れの時以外には滅多に開かないドア。
 床に散乱した紙くず。油絵の具の匂い。
 何の欠乏もない、この豪華な個室は、本来の立派さとは裏腹に、いまや陰惨で重苦しい空気に支配されている。
 周囲よりもいっそう暗がりの濃い、部屋の隅で――ぼんやりとしたランプの明かりのもと、うずくまるようにして絵を描いている娘が居る。
 イアラ。彼女は何も喋らない。
 時折、嗚咽ともすすり笑いともつかぬ声を、微かに発するだけだ。
 水のパラディーヴァ・アムニスは、来る日も来る日も、イアラの姿をじっと見守っている。
 変わらない日々。
「俺のマスターは半ば《壊れて》しまっているかもしれない。だが必ず、彼女が再びこの窓を開いて、自由に外の世界を飛び回る日が……。その時がそう遠くないうちに来ることを、俺は信じている。彼女には《御子》の力がある。お仕着せの宿命の糸を断ち切り、自らの手で紡ぎ直すことのできる、可能性の力が宿っている。それは、彼女が自ら捨て去らない限り、《あの存在》の手によっても決して奪えないものだ」
 人の心を惑わせる美しい妖魔のごとき、この世ならぬ魅力をもつ横顔。
 だが美しさ以上の何かが、アムニスの全身を包んでいる。あたかも永遠の哀しみを思わせる、吸い込まれるような、切々とした物寂しい雰囲気が。
 それでいて彼の瞳の奥には、強い情熱の光が見て取れる。
「君がどんなに孤独(ひとり)でも、俺は最後まで君を信じ、いつも側にいる。たとえどれほど君の心の闇が深くなっても、俺はいっそう強い明かりをかかげて、君の行く先を照らし続ける。《予め歪められた生》に負けてはいけない。強く生き、倒れずに立っていること、抗うこと――それもすでに、君と俺にとって、《あの存在》との戦いの一部なのだから。わが主、イアラよ」

 ◇

 姿なき絶対者の手によって、歴史のからくりが着々と進行していく一方で、いまだ目覚めの時を迎えぬ御子たち。
 彼らは自らの運命を、そして使命を知らない。
 ましてや、己の運命を変えるすべを知るはずもなかった……。

 ◇ ◆ ◇

「それでは、わがメデティティア魔道学院より王立中央魔道研究院へ推挙されることになった、名誉ある諸君の名を発表する」
 この式典のために、漆黒の長衣と黄金造りの宝尺で正装した院長が、堂に入った声で読み上げる。外貌の点から言うと――神秘的な眼光を別にすれば、日頃は地味な初老の男にしか見えない院長だが、今日は格別の威厳を漂わせていた。
 院長と同じ舞台上に、同じく学院所属の魔道士たちが居並ぶ。
 他方、緊張と興奮の入り交じった眼差しで壇上を凝視しているのは、彼らの弟子たち。おおむね16、7から20歳くらいまでの男女だ。彼ら、学院の若き魔道士たちは、揃いの制服を、紺色の長衣に鮮やかな朱の帯とケープを身に付けている。
 ところでイリュシオーネの魔法学者の間では、人は誰でも魔法の源となる《パンタシア》の力を持っている、というのが通説である。そのくせ、己の内に潜むパンタシアの力を実感し、自在に制御できる者の数となれば、急激に限られてしまうことになる。パンタシアを意のままに操るために必要な、天賦の感性を備えた人間だけが、魔道士になれるのだ。
 仮に天才というものが、世間的に言われているように《天性の能力》であるとするならば――本来的にはむしろ《環境の産物》だと思われるが――魔道士というのは、その意味において確かに《天才》であろう。
 しかし現実は厳しい。それらの天才たちの中でも、現実に一流に、いや、二流も含めて一応真っ当な魔道士となれるのは、ごくわずかだ。が、今ここに集まっている青少年たちには、大なり小なり可能性が残されている。
 そして、将来を夢見る魔道士の卵たちの中には、まだあどけなさの残るグレイル・ホリゾードの姿もあった。

 ◆

「私はいまだに理解できんよ……。どうして君ほど優れた成績の者が、あんな初歩的な呪文を、よりによって本試験で間違えるなどとは。誠に残念なことだ、グレイル君」
 後日、院長はいつもの平凡な表情に戻って告げた。
「君を推している先生たちも、少なくなかったのだがね。まぁ君は、実力さえ出せれば、本当は才能があるのだから。諦めずに頑張りたまえ」
 諦めたくはないが、しかし――とグレイルは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。現在と同様、少年時代からおよそ整っていたとは言えない頭髪を、無意識に掻きながら。
 イリュシオーネでは、大学や魔法院への入学試験というのは、事実上存在しない。かつての時代とは違って誰でも入れるのだ。入る資格だけならば……。ただし裕福な貴族や大商人の師弟をのぞけば、実際には推薦試験が、つまり学費を免除してもらうための試験が、入学テストのようなものである。そう、一介の職人や小農民の子の場合、たとえ入学はできても莫大な学費が払えないからだった。
「いや、すいません。あははは。本当は、俺、いや、僕は王都バンネスクのような都会の暮らしは苦手ですからね。それに王立研究院ってのも、本当は堅苦しそうで、どうも。そんな気持ちでいましたから、思わず集中力が抜けてミスっちゃったのかもしれません」
 予想外の言葉に、院長は低くうなった。
「グレイル君……」
「大丈夫ですよ、先生。修行は続けますよ。自分で。当面は《拝み屋》でもやるか、それともエクターになろうかと考えてます。親戚に(※ガノリス王国の)エクター・ギルドの繰士がいるんですよ。実は、今までも見習い兼助手をして、小遣いを稼いでいました。不器用そうに見えても、これで結構、小器用なんで」
 彼はわざと茶目っ気を出して笑った。
 《拝み屋》というのは、要するに金で雇われて悪霊払いをしたり、呪いを払ったりする祈祷師のことだ。何しろ善悪様々な魔法の渦巻くこの世界、需要は多い。占いとならんで、悪霊・悪魔払いは、駆け出し魔道士の重要な収入源である。
 ルキアンの師匠カルバのように、まともな研究所を構えて日々研究に励むことができる魔道士など、全体から見れば少数なのだ。それこそ一流といわれる魔道士だけだろう。
 それでも拝み屋や占い師として働く者は、真っ当な魔道士の部類に入る。中には詐欺師同様の振る舞いに及んで、例えば《自分は錬金術にあと一歩で成功するから、少し研究資金を出してくれませんか?》などと嘘を付き、人の良い金持ちから金を騙し取ったり、もっと酷い場合には、殺し屋まがいの《呪い屋》になったり、野武士や山賊にまで身を落としたりする者もしばしば見られる。

 ◇ ◆ ◇

「それで結局のところ、ジャンク屋兼エクターだもんな……。ま、占いや拝み屋よりは儲かる稼業だけど、何せ命を張る商売ときたもんだ」
 本人だけではなく、聞いた者まで脱力させられるような、大きな溜息。
 不信心者なのだろうか、いい加減なのだろうか、グレイルは、馬鹿にするような調子で神の名を口にする。
「あぁあ。いと高きところにまします神さんよ、どうか明日も俺らの命がありますように、頼むぜ、っと」
 彼は無言で空を見つめ続ける。特に何を眺めているわけでもなさそうである。

 ……と、不意にその目つきが鋭くなった。
「あれは?」
 そう言うが早いか、グレイルは動き出していた。煉瓦の山の上に呆けて座っていた今までの様子が、嘘のようである。何だかんだ言っても、本業の繰士だ。
「ヤバイじゃないか。帝国軍の部隊!!」
 ジャンク・パーツを集めた例のアルマ・ヴィオに駆け寄り、大慌てでハッチを開く。
「痛てっ」
 棺桶のようなコックピット、いや、《ケーラ》の中に勢いよく飛び込んだまではよかったが、グレイルは角に頭をぶつけてしまう。
「とにかく、早くこの機体を隠さないと」
 のっそりと起動した汎用型アルマ・ヴィオ。もともと、背後の森の中に隠してあったのだが、もう少し本格的に姿を潜めることが必要らしい。
 アルマ・ヴィオの魔法眼を通じて、上空の敵機の様子が目に映る。まだ距離がありすぎて正確な形を認識できない。とりあえず、翼の他に、手と足と人型の身体を持つシルエットだ。ずんぐりした大きな翼が左右に広がる。それらの下から、さらに細い翼が、吹き流しのように後方へと伸びている。
 翼を持つ汎用型。天使のような、いや、むしろガノリス人にとっては悪魔としか言いようのない姿だ。飛行型ではないにもかかわらず、見る見るうちに接近してくるほどの速度。その事実が、すでに帝国軍の技術力の高さを物語っている。
 空中に浮かぶケシ粒のようだった敵の影は、グレイルが呆気にとられている今、この瞬間にも、はっきりと形をとらえることができるほど大きくなっていた。敵のアルマ・ヴィオの肩から腕にかけて伸びる筒のような物体――長射程MgSの砲身まで判別できる。さらには色までも。ダークグレーの機体をベースに、肩当てや籠手、胸甲等の部分は銀色や紫色らしい。
 ――ツイてない! こんな時にかぎって、《ヴェ・デレス》じゃないか。それが1、2、3……おい、8、9体も……1個中隊!? どこを攻撃しに行った帰りなのか知らないけど、俺たちみたいなザコの敗残兵なんて相手にせず、さっさと戻って寝てろ!!
 もし《生身》の状態であれば、グレイルは舌打ちしたい気分だった。
 《ヴェ・デレス》は、汎用型とは思えない機動力の高さゆえに、帝国軍の先鋒隊の主力アルマ・ヴィオとなっている。群れをなして空から急襲し、強力な火力でたちまち相手を撃破する。それによって、ガノリス王国の重要な都市や城が一体いくつ奪取されたことか。
 ――前に俺たちが居た部隊も、あのアルマ・ヴィオたった数機のせいで、全滅させられたっていうのに……。しかも今度は数が違う。一対一でも勝ち目は薄い。それがあんなに沢山来られたら、逃げるが勝ちだ。
 苛立ちながらも、グレイルはともかく森の奥深くへと後退し始める。
 木々の中で息を潜め、じっと耐える。
 時間の流れが変わった。時の刻みがあまりに遅く感じられる。
 だが、無事に敵をやり過ごせつつあると彼が思ったとき、最悪の事態が発生してしまった。
 空中から一斉に火を噴く敵のMgS。幸い、それらはグレイルのアルマ・ヴィオに向けて発射されたものではなかった。が……。
 9体の敵機から放たれる閃光が、次々と大地に突き刺さる。
 冷たく乾いた気候のせいもあってか、たちまち森に火が付いた。さらには火炎弾まで投下され、火勢はますます激しくなった。赤く揺れる不気味な炎は、じわじわと広がり、一面の深緑の樹林を舐め尽くそうとし始めている。
 ――ルージョ! キリオ!!
 グレイルは、丘の上に残してきた友たちの名を叫んだ。
 地べたに屈み込んでいた自機を反射的に起こし、彼は一歩踏み出した。しかし、続く二歩目がすぐには出ない。
 勝てるわけがないのだ。
 ヴェ・デレスと比べれば、グレイルのアルマ・ヴィオなど動く鉄くずにすぎない。反撃もままならないまま、跡形もなく破壊されるだろう。昨日までの戦いを通じて、彼は身をもって理解している。
 一瞬、迷いが生じた。
 が、グレイルはすぐに仲間のところへ急いだ。それは恐らく、勇気ゆえではない。投げやり、破れかぶれ、と表現した方がよいかもしれない。
 何かを考える余裕など今のグレイルにはなかったが、無意識的にも――友と生き延びるために戦いに向かったのではなく、共に死に花を咲かせるために戦う、という気持ちの方が強かったに違いない。
 それほど絶望的なのだ。この戦いは。
 ――だが俺は、ここで逃げるほど、そこまで落ちぶれちゃいない。
 地響きを立て、必死に林道を走るグレイルの機体。
 ――そうか? 本当にそうなのか? 俺は、単に俺は……捨てるものが無いだけじゃないんだろうか。ここで全てが終わってしまっても別にもういいか、なんて思ってるから、こうやって無謀な戦いに向かうことができる? 明日も明後日も、来年も、どうせ何も変わらないって……そう思っているから、未来を、命を、捨てることに恐れを感じないだけなのかもしれない。
 突然に心に生じた動揺を、グレイルはすぐさま振り切った。そんな暇があったら、一歩でも早く仲間たちのところに行きたかった。
 ――分からない。分からないけど、とりあえずあいつらだけは、唯一、俺が失いたくない仲間だ。ずっと一緒にやってきた、信じ合える奴らだから。
 敵から身を隠すことなどもはや考えず、グレイルのアルマ・ヴィオはひたすら急ぐ。距離的には、あの丘はほんの目と鼻の先なのだ。

 そして、ついに。
 ――大丈夫か? 返事をしてくれ!!
 坂道の先、森が切れた。
 ――キリオ!?
 聞き慣れた念信の声は、帰ってこなかった。
 ――ルージョ? おい、生きてるか? 大丈夫だろ!?
 グレイルの心には何の反応も浮かばない。
 凍り付いた湖面のごとく、静かで、無情なほどひっそりと。
 ――こんなときに、悪い冗談、だよ、な……。緊急事態なんだぞ。おい。
 自分の視界に何が映っているのか確認できぬまま、もしかすると眼前の光景を映像として認識せぬまま、彼は繰り返し呼び掛けた。

 ようやく魔法眼が、グレイルの脳裏に像を結ばせる。
 人のかたちをした影が、視界を遮るものが、目線の高さには見当たらない。
 もっと地面の方、猛火の海の中に、鋼の塊が2つ転がっていた。
 仲間のアルマ・ヴィオが2体。変わり果てた姿で。
 グレイルはそれを直視するのが怖かった。怒りで哀しみを打ち消そうとするかのように、彼は上空に向かって絶叫した。

 ――嘘だろ……。こんなのありか?
 アルマ・ヴィオの腰の左右に付けられた箱状の装置が、ゆっくりと開いた。それらの中から、発光する小さな物体が、点々と空中にこぼれ出てゆく。
 ――どうして。どうして、こうなる?
 無感情につぶやくグレイル。
 その痛ましい気持ちを慰めようとするかのごとく、雪のようにふわりと、ぼんやりと青白く輝きながら、周囲に流れ去ってゆく光の群れがあった。
 蛍さながらに。
 そう、それは《蛍》だった。魔法戦用の《ランブリウス》だ。
 ――道連れにしてやる。一矢も報えずに、ただ死んでたまるか!
 グレイルは呪文の詠唱を始める。残る魔力の全てを込めて。

 ◇ ◇

「このままで良いのかの、わが主よ?」
 しわがれた、穏やかな老人の声が言った。だが姿はない。声音だけが宙を漂っている。
「聞いておるのか、アマリア。あの男は死ぬぞ……」
 差し迫った会話の内容とは裏腹に、《地》のパラディーヴァ・フォリオムの口調はあくまで落ち着いていた。まさに夜明けの大地のごとく。全てを包み込む静けさで。
 紅の魔女アマリアは、何の返事もせず水晶球を見つめたままだ。透明な球面には、勝つ見込みのない戦に身を投じたグレイルの姿が映っている。
 瞬きもわずかに、夢うつつで心はここにあらず、魂だけが異界に吸い込まれるているような眼差し。アマリアは水晶を凝視する。
 水晶球に映るグレイルのアルマ・ヴィオの様子を見て、フォリオムは溜息を付いた。多分、わざと大きく。彼なりにアマリアを急かしているつもりなのだろうか。
「哀れなことじゃて。あれしきの呪文、唱えるだけ無駄なのにのぅ……。敵と差し違えようとしているつもりでも、自滅するだけだろうよ。通用せん」
 なおも身じろぎひとつせず、一言も発しないマスターに対し、フォリオムはやっと声を大にした。それは柔らかではあれ、断固として有無を言わせぬ口ぶりである。
「いま《御子》を失うわけにはいかぬ。一人たりともな。……それは十分理解しておろう? まだ今なら間に合う。なぜ彼に救いの手を差し伸べぬ、紅の魔女よ? お主の《ノヴィム・アーキリオン》なら、一瞬であの国まで転移できるものを」
 小さく首を振り、フォリオムの言葉を押し止めるアマリア。彼女はやっと口を開いた。
「確かに。造作もないこと……。しかしな、フォリオム。私がここで手を出したら、彼個人は生き延びることができるにせよ、《御子としての彼》は今後ずっと眠ったままになるだろう。運命を変えるのは本人だと、ご老体も言ったではないか?」
「この状況で何を! もはや一秒を争う。わが主よ、早くアルマ・ヴィオを!」
 アマリアは頑として動こうとしなかった。
「パラディーヴァ・マスターとして覚醒できなければ、グレイル・ホリゾードはただの人間だ。御子としての役割も期待できなくなる。彼が置かれているこの状況は、まさに星の導きによるもの。もし彼が目覚められるとすれば、今しかないのだから……。そのためのきっかけとして、用意された舞台。いかに残酷であろうとな。だから私が手を貸すわけにはいかない」
 周囲の空気に冷たく染み通るような声で、彼女はつぶやく。
「そういうものだ。御子の宿命とは」

 ◇ ◇

 帝国軍のヴェ・デレスの一隊は、余裕の様相で地上のグレイル機を見下ろしていた。
 ――まだ1体残っていたか。わざわざ倒されにやって来るとは、ガノリスの奴らめ、森の猪のようだな。
 ――猪か。だが魔法を使う猪とは珍しい。見ろ、《蛍》を放ったぞ。
 冗談交じりの《念信》をかわす帝国のエクターたち。彼らは、魔法による攻撃など恐れていないようにみえる。普通の繰士なら、敵が《蛍》をばらまいただけでも、その後の呪文を恐れて逃げ出してしまうかもしれないが。
 ヴェ・デレスの右肩から右腕に沿って、長大なMgSが伸びている。各機ともその砲門を地上に向ける。
 大きく膨らんだ肩当て付近にも、多連式の速射型MgSが装備されている。重アルマ・ヴィオでもない限り、これだけの火力を持っている機体はそうそう見かけない。
 またヴェ・デレスは左腕の方が不自然に太いのだが、これは、何らかのシールドまたは結界の発生装置を内蔵しているためらしい。

 魔法を放った時点でグレイルはお終いだ。間髪を入れずに、MgSの雨が彼に降り注ぐだろう。それでも彼は攻撃を止めようとしなかった。逃げたところで、どのみち助かりはしまい。
 ――炎の精霊よ、我が魔弓となりて、灼熱の矢を……。
 呪文の詠唱が残り一言で完成しようとする、そのとき。
 極限状態の中で、何かがグレイルの心に繰り返し引っ掛かる。精神集中が乱れた。
 ――何だ、この感覚は? 大事なときに!!
 時が止まっているかのような意識のうちに、彼は不意に思い出す。
 ――そう言えば、似たような感覚を覚えた。昨日の深夜……。俺は、誰かのことを、いや、遠い昔の友人のような人々のことを、忘れている気がしてならなかった。それは誰なんだ? この感じは、いったい何なんだ!?
 しかし迷っている暇はない。グレイルは急いでもう一度呪文を唱え直そうとする。が、何かが依然として妙に気に掛かる。
 ――なぜ迷ってる? 未練だぞ。今さら、過去や未来などと。
 自分にそう言い聞かせるも、彼の胸中には生理的に引っ掛かるものがあった。どうしようもない。この奇妙な気分がいかなる理由によるのか、それが分からないことが余計に苛立ちを煽る。
 彼の意思とは半ば無関係に、様々な連想が脳裏を駆けめぐる。その中には、あの《妖精》についての幼年時代の記憶もあった。いや、他の何にも増して、その光景が何度も心に立ち現れるのだ。
 ――妖精? どうして? いや、俺がいま必要としているのは、炎の精霊の呪文。無駄なことを考えるな。もう一度、呪文を!!
 そして彼は、最後の魔法を一気に解き放った。はずだったが……。

 直後、叩き付けるような衝撃とともに、グレイルの目の前は真っ暗になった。
 頭が、腕が、全身が痺れている。痛みのあまり身動きが取れない。
 ――動け!! くそっ、何も見えない。魔法眼も完全にイカレたか!
 グレイルは重心を維持することすらできなかった。
 ヴェ・デレスの雷撃弾の斉射を喰らい、彼のアルマ・ヴィオは黒焦げになって煙を上げている。やがて片脚が膝の部分から折れ曲がり、機体はあっけなく背後に崩れ落ちた。地面に衝突した際、腕も外れてしまった。
 もはやアルマ・ヴィオは完全に沈黙した。
 自らの《身体》が、つまり機体が大破したショックにより、グレイル自身も気を失った。

 ◇

 ――俺、死んだ? 死んだのかな。
 グレイルは身体の感覚をすべて失い、虚ろな意識のままで、果てしない暗闇に包まれていた。
 ――あっけないもんだな。こんなのか、人生って? 笑っちゃうよな。ちょっと終わりが早すぎる気もするが……。
 様々な出来事が心に蘇る。これぞ、死の直前に人が見るという記憶の走馬燈なのかもしれない。じきに己の魂は天に召されるだろう、と彼は思った。ということは、まだ自分は生きているのだろうか?と考えもしたが、彼にはもう起きあがる気力すらなかった。
 ――でもさ、どうしてあのとき、あんな失敗したのかな?
 真っ白になった彼の頭に浮かんだのは、《あの日》のことだった。少年から大人へと移り変わろうとしていた頃、王立研究院への推挙を決める試験のとき、なぜか簡単な呪文をしくじってしまったことを。
 ――天才とか言われていたのにな。どうして、あんな間違いを? でも、考えてみれば、あれから良いことひとつもなかったか……。
 あのときの失敗が、今から思うと何かを象徴しているように思われた。それは運勢、いや、運命――人の力では抗い難い、因果律のようなもの。
 グレイルの唇は、気の抜けた笑みをたたえていた。
 ――へへ。たぶん、あのとき俺は何かに《選ばれなかった》んだよな。そう。それから、何かが壊れて、どんどん崩れ落ちていったような気がする。一体、どうしちまったんだろ?
 あれこれ思いを巡らせているうちに、彼は不思議と安らかな気分に包まれた。
 ――まぁ、いっか。何かに見放されたのかもしれない。そう言えば、《妖精》も、いつからか見えなくなってしまったし。突き放されたって感じだったな。俺は、何かに負けたんだ。《選ばれなかった者》なんだ。
 強烈な眠気がグレイルを襲う。おそらくここで目を閉じれば、永遠の眠りにつくことになるのだろう、と彼は思った。
 ――さよなら……。って、何に、誰にさよならなんだ? 別に何もないじゃないか。馬鹿みたい。最後まで。

 黄泉の国への扉に手が掛かったそのとき、漆黒の闇の中に《炎》がぱっと浮かんだ。そして、破鐘のような大声がグレイルの頭の中で響く。
 ――待ちなさいよ、ふざけるな!! 起きろ、この軟弱魔法使い、こら!!
 あまりの騒々しさに、グレイルはめまいがした。だがその突き刺すような感覚が、間一髪のところで彼を現世に連れ戻したらしい。
 ――この声は? うるさいヤツだな……。
 何が何やら理解できないグレイルの手に、誰かが噛み付いた。
 痛い。現実なのだろうか?
 ――おい、ちょっと! 人の話聞け! バカー!!
 聞き慣れぬ若い娘の声に、グレイルが顔を上げると、そこには……。
 幼い頃に見た、あの《妖精》が居た。
 火炎を思わせるような縁取りやフリルの付いた、ヒラヒラした真っ赤な衣装。
 すらりと伸びた、長くて華奢な腕と脚。
 これまた燃え盛る焔のごとく、大きくうねった赤い髪。
 無邪気で、やんちゃな、それでいて全く正反対の、異様な威圧感を秘めた目。
 ――やっと聞こえたか、この鈍感!
 彼女は口をとがらせ、グレイルの背中を小突いた。
 ――幻なのか? あのときの、妖精……?
 ――違う。あたしは妖精じゃない、パラディーヴァだよ。フラメアって言うんだ。
 ――パラディーヴァ?
 フラメアは、ぶんぶんと音がしそうなほど、何度も大仰に頷いた。
 ――いいかい、根性なしの魔法使いさん。アタシはねぇ、アンタのために今日まで待ってたの。古の契約によって、アンタの剣となって戦い、楯となってアンタを守るために。ワカル?
 ――お、俺は悪い夢でも見ているんだろうか?
 怪訝そうなグレイル。フラメアはわざと彼の耳元で大声を出した。
 ――また噛み付いて欲しい? さっき痛かったでしょ、本当だってば。
 と、彼女は急に真剣な表情で告げる。
 ――時間がないの。よく聞いて。アンタは間違ってると思う。基本的な、重大な間違いを犯したまま、今日まで生きてきて……その間違いに気づくことなく、無謀な戦いを仕掛けて死んでいこうとした。あと一発、敵のアルマ・ヴィオがMgSを発射したら、アンタは本当に死ぬよ。了解?
 半信半疑のまま、グレイルは機械的に頷いた。
 ――分かった。で、あたしのマスター様、アンタの間違い、教えてあげようか? もしこれを聞いて、それでもアンタに立ち上がる気がなかったら、そのときは本当に死んじゃえばいい。
 強引に話を進めるフラメア。
 だが彼女の次の言葉は、グレイルの心を揺さぶり、長いこと彼の気持ちに取りついていた黒い霞のようなものを、無理矢理に吹き払うのだった。
 ――あなたがずっと《選ばれなかった》のは、何かに見捨てられたからでもなければ、あなた自身にその資格がなかったわけでもない。後で《もっと大きなことのために選ばれる必要があった》から、選ばれないままだったの。
 ――もっと大きなことのために?
 ――本人の意思に反してでも、宿命はあなたの進む方向を変えたの。それを今日まで不本意だと感じてきただろうけど、今になって運命の歯車は動き始めた。考えてもごらんなさい……本当の切り札っていうのは、他よりも後になって使われるからこそ切り札なんじゃない! あなたは落伍者ではない。自分でそう思い込んでしまっただけ。さぁ、目を覚ます時間よ。悪い夢から覚めて。
 フラメアは無垢な男の子のような笑顔で頷いた。
 ――俺が、本当に為すべきこと……。それが始まろうとしている今まで、俺はずっと選ばれないままだった。いや、だからこそ、俺はいまここに居るわけだし、ここでフラメアと出会い、俺にしかできない何かに取りかかることができる。それは、確かに……。
 彼女に手を取られ、ぼんやりと立ち上がるグレイル。だが彼の目の輝きは、半信半疑ながらも、今までとは全く違う強さを見せている。
 ――そうかもしれない。何のことはない、物は考えようってワケか。
 彼の言葉を待っていたかのように、フラメアは一転して恭しく跪いた。
 ――承知しました。私の親愛なる主(マスター)よ、御心のままに。
 幻の中、彼女は激しい炎の姿となって宙に消えた。

 ◇

 ――誰かが俺を呼んだのか? いや、気のせいか……。
 カリオスは、何かが胸の奥を走り抜けるのを感じた。
 彼の気持ちに感応した魔獣キマイロスが、地平の果てにも轟けと、ひときわ大きく遠吠えする。
 反乱軍の籠もる要塞線《レンゲイルの壁》を遠く望みつつ、カリオスとキマイロスは再び戦場に躍り込んでゆく。

 ◇

 見るも哀れに被弾し、地面に横たわるグレイルのアルマ・ヴィオ。
 帝国軍のMgSが、今にもとどめの一撃を放つべく、狙いを付けている。
 そのとき急にハッチが開き、転がるようにしてグレイルが這い出してきた。
 ふらふらと立ち上がったかと思うと、また前のめりに倒れそうになりながらも、髪を振り乱して彼は身体を起こした。

 ◇

「……何?」
 暗い部屋の隅で、イアラは身を起こした。
 彼女は彫像のように身体をこわばらせ、宙の一点を――いや、カーテンの向こう、窓の向こうに意識を向けている。
 涙で赤く充血した目は、遠くのどこかを確かに見つめていた。

 ◇

 酔っぱらいのようによろめき、肩で息をして、グレイルは荒い声でつぶやく。
「運命だか天の采配だか知らないが……。心を――なめんなよ!!」
 忘れていた本気。凄まじい形相だ。
 気迫のままに、腕を天空にかざして《召喚》の呪文を唱え始める。

  我は汝の名を呼ぶ。
  いにしえの契約に従い、竜王の門より我がもとに出でよ。
  炎を司りしパラディーヴァ、烈火の乙女……。

「フラメアー!!」
 グレイルが召喚呪文を唱えたかと思うと、一瞬、真っ赤な閃光が空を覆い、揺らめく炎のごとき光が天空から大地を貫いた。その光景は、あたかも雲間で竜が身をくねらせ、大地に舞い降りるかのようだった。
 付近の空気が一変する。
 刺すように乾いた霊気の波動が空を埋め尽くし、見渡す限りの森の木々は、巨大な魔力に共鳴してざわめき始めていた。

 ◇

 アマリアは椅子から立ち上がると、白いショールを肩に掛けた。
 おもむろに二、三回、凛々しい面差しで彼女は頷く。
「当然だ。これは定められていたこと……」
 庭園に設けられた緑木の迷路の中、彼女は、館に続く小道に足を向けた。

 ◇

 帝国軍が異変に気づいたとき、グレイルの姿はどこにもなかった。
 何かが太陽の光を遮る。
 上空には気配すら無かったにもかかわらず、視界の彼方、遙か雲海の果てから瞬時に飛来したものが。
 風を切るように巨大な鉤爪が現れ、ヴェ・デレスの1機を鷲掴みにしたかと思うと、物凄い力でそのまま握りつぶした。
 ――ガノリス軍の新型? 重アルマ・ヴィオか!!
 残りのヴェ・デレスは、突然現れた敵に魔法弾を浴びせかける。
 だが帝国軍のエクターたちは、戦慄すべき結果に直面した。
 ――まさか、これだけの集中砲火を、こんな至近距離から受けて無傷だと!?
 何発打ち込んでも同じだった。一切の魔法は無効化されている。
 ――敵の機体は、レベルA+以上のとてつもない結界を展開しているぞ! どの魔法弾も全然歯が立たない!!

 爆煙が消えていくに従って、謎のアルマ・ヴィオが姿を現す。
 不気味な影。
 それは人のような形をしながらも、人間そのままの似姿ではない。
 空中に悠然と浮かぶ機体。その側面で大小様々の《腕》がうごめく。本来の2本の腕よりも遙かに大きく、ハサミ状の鉤爪を備えた腕が、左右の肩の後ろから伸びている。さらに、鋭利な一本爪の付いたムチのようにしなやかな腕が、横腹付近に2、3対。
 何とも表現し難い。敢えて言えば、蟹の化け物を背負った鎧の騎士だ。
 しかも翼が生えている。だがその翼も――鳥や蝶など、空を飛ぶ生き物本来のものというよりは、甲殻類の器官を思わせるような、頑丈で節くれ立った異様な造りだった。

 フラメアが勝ち誇ったように笑う。
 ――ナメてもらっちゃ困るよ。《アスタロン速度干渉結界》を展開した機体には、魔法力による攻撃は通用しないの。もう何をしたところで無駄だって。
 突然ケーラの中に転送されたグレイルは困惑している。
 ――こ、これは……。
 恐るべきパワーが彼の魂に伝わってくる。底無しの魔力の渦に取り込まれているようで、思わず震えが出そうだった。
 ――魔界の重騎士《エクシリオス》よ。乗り心地はどう?
 フラメアの声がグレイルの心に浮かぶ。
 自分の中に、別の誰かの声。それはアルマ・ヴィオの伝えてくる意思よりも、もっと直接的で、グレイル自身の心との境目が曖昧だ。この不慣れな感覚にも、彼は戸惑いを隠せない。
 無邪気な冷酷さでフラメアは言った。楽しそうにすら。
 ――さっさと片づけちゃおうよ。あたしたちには、もっと大事な用がある。

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