HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第32話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  善対悪の戦場であるというよりは、
  むしろ無数の主観的な《善》が
  ――それぞれの信じるものがぶつかり合うのがこの世界だから、
  それゆえ人間の争いはいっそう激しく、
  残酷で、終わりがない……。
  (シャリオ・ディ・メルクール)



 ルキアンは再びアルフェリオンに乗り込むと、立ち上がった巨人の視点から、ミトーニアの広場を一望した。
 広場という名に反してそれほど広いというわけでもない、むしろ小さく愛らしい街の《中庭》は、たちまち人だかりに覆われている。まるで、アリの巣の近くに角砂糖が置かれ、それを知ってアリたちが次から次へと這い出し、群れ集まってくるような、そんな光景だった。
 人垣の真ん中では、1人の男が大きな身振りで何か叫んでいる。多分あれが、さきほど駆け出していった市長秘書のシュワーズだろう。彼を飲み込まんばかりの勢いで詰め寄る市民たち。そんな人々を押し止めるように、白髪頭の神官が両手をかざしている。主任神官リュッツに違いない。
 上から冷静に眺めてみると、異様な有様だとルキアンは思った。
 戦闘の結果、広場の周囲の建物はあちこちで倒壊し、丁寧に敷き詰められた石畳の地面の上には、ミトーニア側のアルマ・ヴィオが3体、群衆の行く手を邪魔する壁のごとく横たわっている。その間を忙しく動き回る沢山の市民。
 およそ日常的とは言えない光景を平然と見つめている自分に、ルキアンはふと気付いた。そして、そんな自分自身に驚くのだった。
 ――よく分からないけど、僕は、何か変わってしまったのかもしれない。いや、《かもしれない》じゃなくって、実際、そうなんだと思う。
 彼は心の中で皮肉っぽくつぶやいた。
 ――こんな鋼の化け物に乗って、見知らぬ街にやって来て、そこで戦って。今までの僕には想像もつかなかった出来事ばかり。でも僕は、感情も理屈も置き去りにして、知らない間に状況に順応し始めている。人間って、こんなにも都合の良い生き物だったのかな。
 とりとめなく思いを巡らせながら、ルキアンは周囲を見渡し、警戒を続けた。一度は退却した抗戦派側の部隊が、増援を連れて反撃してくる事態も当然に予想されているからだ。
 ――嫌だな。また戦わなきゃいけないとしたら。本当は、自分には関係ないって、全部投げ出し、どこかに逃げてしまいたい。だって戦うたびに、僕は人を殺しているに違いないんだから。僕は敵の血も見てない、死体も見てない、だけど、敵のアルマ・ヴィオに乗ってた人は、死んでるはずなんだ!! 怖い。感覚が麻痺していくことが。平気で戦ってる僕は、おかしいんじゃないかって。争うのは嫌だ。人を殺すのはもっと嫌だ。でも僕が戦わなかったら、ギルドとミトーニアの間にもっと大きな戦いが起こり、沢山の人たちの命が犠牲になってしまう。だから……。
 何度目か、もう数えられないほど、生まれては消えた葛藤。
 覚悟というのは、必ずしも激しい決意として現れるばかりではない。痛々しい気持ちながらも、ルキアンはむしろ静かに誓った。
 ――たとえ僕が、泣きながら剣を手に取り、血まみれになって争わなければならないとしても……僕がその苦しみに耐えることで、他のみんなが血を流し合わなくて済むのなら、優しい人が優しいままでいられるのなら……争いなんて好まないのに、自分の心に反して誰かと争い、僕みたいに悲しい思いをする人が、そんな人が少しでもわずかで済むのなら。
 祈念のように、ひょっとすると呪詛のように、彼は繰り返した。
 ――僕は、逃げるわけにはいかないんだ。今の状況からも、戦いからも。そして、この世界でたった一人、アルフェリオンの繰士として予め定められた、自分自身の運命からも……。

 ◇

 シュワーズが沢山の人々に囲まれ、演説めいたことを続けているうちに、朝の太陽は、本格的な真昼の輝きで地上を照らし始めていた。
 もしこんな状況でなければ、広場はもっと違った形で賑わっていたのだろう。花や野菜を売る市が立ち、威勢良く客を呼び込む物売り。無邪気に走り回る子供たち。チェスに興じる老人。風に乗って流れてくる、辻楽師の笛やヴァイオリンの音。野外に開けたカフェで談笑する紳士。拍手を受ける大道芸人……。
 だが、そうした日常の風景は、ここにはもはやあり得なかった。
 広場に面した神殿の前では、この場所を二度と抗戦派に明け渡すまいと、銀の天使が翼を広げ、仁王立ちしている。
 他方、集まった市民たちの動揺は徐々に収まりつつあるようだが、市庁舎で起こったクーデターについて、事態は正しく伝わったのだろうか。
 シュワーズとリュッツが神殿の方へと引き上げてくる。
 人々もすぐには解散することなく、広場に留まったままである。
 そびえ立つアルフェリオンの足元で、シュワーズが手を振った。ルキアンに降りてこいと言いたいらしい。

「市庁舎で起きた事件、なかなか本当だと信じてもらえなかったのですが……。いや、今でも街の人たちが信じているとは、必ずしもいえません」
 シュワーズは言う。思い出したかのように、額に流れる汗をぬぐいながら。
 声を枯らし、過剰なばかりの身振りと共に、荒々しく市民に訴えていたシュワーズ。だが今は、チーフを取り出して眼鏡を拭く彼の様子も、本来の上品な態度に戻っていた。
 彼の一端の雄弁家ぶりに感心しながらも、ルキアンには、市民たちの受け止め方が心配だった。
「シュワーズさん、それじゃあ結局、街の人たちは……」
「いやいや、そんな残念そうな顔をしなくても大丈夫」
 彼はルキアンの言葉に途中で割って入ると、力強くうなずいた。
 リュッツ主任神官が、広場の群衆の方を見ながら言う。
「街の皆さんは、とりあえずシュワーズさんの話が本当かどうか、市庁舎に出向いて確かめようと言っています。勿論、抗戦派の軍がすんなり通してくれるとは考え難いのですが、人々はそう主張して譲らないのですよ」
「そんな、危険じゃないですか? 相手は、市長さんに銃を向けるような人たちです。街の人にだって、必要なら力ずくで、発砲してでも言うことを聞かせようとするかもしれません!!」
 思わず声を裏返らせ、疑問を投げかけるルキアンに、シュワーズはごく冷静に応じた。
「あなたの言う通り、危険を伴う試みではあります。それでも実際に市長が監禁されているのだと分かったら、相当数の市民は、抗戦派に対して抗議行動を起こすと言ってくれました。すでに武装してきている人も沢山います。ことによっては、抗戦派との間で銃火が交えられるかもしれません。しかし、抗戦派の企みを阻止しなければ、ギルド側の総攻撃が始まり、ミトーニア全市民の生命が脅かされます。それは誰もが理解していることです。ギルドもさすがに、もう長くは待ってくれないでしょう? 私も知っていますよ、議会軍やギルドには時間がないのだと。帝国軍はガノリス王国を半ば制圧し、この瞬間にも、オーリウム国境に向けて迫っていますからね」
「それは、そうですが。でも……」
 ルキアンは言葉に詰まり、不安と希望、なおかつ諦めの入り交じった視線を向けた。
 彼も本当は受け入れつつある。現実というものを――《完璧な答え》など希であり、人は《少しでも間違いの少ない答え》を、《どれにも絶対的な正誤は付けようもない不完全な選択肢》の中から、それでも選ばねばならないのだと。そうした決断からは逃げられず、逃げるべきでもないということが、この世に生きる者に負わされた重い十字架、あるいは《責任》なのだと。あのときのクレヴィスやシャリオとの会話が、ルキアンの心によぎった。
「では、ともかく、ちゃんと市庁舎の様子が確認できたら、ギルドとミトーニアの市街戦は避けられるかもしれないんですね?」
 シュワーズにも、即答することはためらわれた。だが難しい顔つきながらも、彼は希望的な観測を示す。
「……念のため、最悪の事態を考えておく必要はあります。しかし、シュリス市長や市参事会の方々においては、エクター・ギルドの出した条件を受け入れるという意見が大勢を占めているのです。従って、抗戦派のアール副市長らと合意することができれば――いや、残念ですが、この期に及んでは、彼らを排除することができたとすれば。あるいは」
「分かりました。僕もギルドの飛空艦に、今すぐそれを念信で伝えておきます。こちらの事情さえ明らかになれば、きっと分かってくれると思うんです!」
 全面戦争を回避できる可能性があると知り、ルキアンは水を得た魚のように、アルフェリオンのケーラに乗り込もうとする。
 シュワーズは慌てて彼を引き止めた。
「ルキアンさん、待って下さい。あなたにもうひとつ、お願いがあります……。そう、実際問題として、抗戦派の部隊が市民たちに発砲することは十分にあり得ます。それ以前に、市庁舎周辺は抗戦派のアルマ・ヴィオが完全に封鎖しているのです。ですから、その……」
 言いにくそうに切り出すシュワーズ。
「万一の場合には、あなたのアルマ・ヴィオで街の皆さんを守っていただきたいのです。いや、必要とあらば戦ってほしいのです、あなたに」
 意外にも、ルキアンは即座に首を縦に振る。覚悟はできていた。
「僕自身はそのつもりでした。しかし街の人たちが、ギルド側の繰士である僕を信用してくれるなんて、考えにくいですよ? 一体、何を根拠に、市民の皆さんが僕を受け入れるのか……」
 シュワーズは笑いながら、手刀で自分の首を切るようなジェスチャーをしたかと思うと、すぐさま真剣な表情に戻った。
「それは《私の命で》――もしルキアンさんが裏切った場合には、私の命を差し出すと言っておきました。いや、あなたに助けてもらった命なのに、それを使ってあなたを困らせるというのは、いかに身勝手なことか、承知しています。それでも、私はミトーニアを、この大切な故郷を救いたいのです」
「シュワーズさん……」
「それに加えて、リュッツさんをはじめ、神官の方々が懸命に説得してくださったおかげです。だから、後はルキアンさん――申し訳ありませんが、あなたが街の皆さんの前で、貴族としての誇りに賭け、繰士の名に賭けて、誓ってくだされば」
 シュワーズに続いて、リュッツも深々と頭を下げる。
「お願いします。私たちが頼りにできるのは、あなたしかいないのです」
「そんな、どうか頭をお上げ下さい。僕なんかに……。でも、分かりました。ミトーニアを戦火から救うため、僕にできる限りのことをさせていただきます。それで、もし不幸にも、抗戦派との戦いになってしまった場合は」
 微かにうつむいた後、己の言葉を噛み締めるようにして、ルキアンは改めて顔を上げた。
「アルフェリオンの全ての力を使ってでも、街の皆さんを守ります」

 ◇ ◇

 ――メイ! 危ない、後ろ!!
 自らも敵の猛攻を受ける中、プレアーは半ば反射的に飛び出していた。
 プレアーの思念に反応し、飛行形態のフルファーが大鹿の角を振りかざす。牡鹿の頭とコウモリの翼を持つ異形の巨人は、物凄い勢いで突進しながら、強引に人型への変形を試みる。その変化もまだ途中のまま、フルファーは片腕を伸ばし、光の楯・MTシールドを張り巡らした。
 同時に、メイのラピオ・アヴィスが紅の翼を羽ばたかせ、反転した。その機体の通った軌跡を貫き、敵方の放ったMgSが走り抜けてゆく。
 対する敵のアルマ・ヴィオ、空の巨竜ディノプトラスは、怒りの雄叫びを上げ、次なる攻撃に入ろうとする。
 ナッソス家の《空中竜騎兵団》とギルド艦隊のアルマ・ヴィオとの戦いは、双方とも互角で勝負のつかぬまま、なおも繰り広げられていた。
 メイは辛くも危機から脱したが、その直後、背後で別の衝撃を感じるとともに、プレアーの悲鳴を心にとらえる。
 ――しまった! プレアー!!
 急旋回したラピオ・アヴィスの魔法眼に、姿勢を崩し、落ちていくフルファーの姿が映った。
 ラピオ・アヴィスの後ろから迫っていた敵のMgS、切り裂くような風の精霊魔法の攻撃を、プレアーの機体が代わりに防いだのだ。だが、追いつくのに精一杯だったフルファーは、シールドの展開が遅れ、運悪く機体にもダメージを受けてしまった。
 ――大丈夫? 返事して、プレアー、しっかりして!!
 必死に呼び掛けるメイ。だが返事はない。
 その間にも敵の追撃が容赦なく迫る。
 メイはラピオ・アヴィスのスピードと小回りの良さを生かし、襲いかかる2匹の魔竜と、その上から刃を繰り出す《竜騎士》の間をすり抜けようとする。
 ――どけ! これでも、落ちないかっ!!
 赤き鋼の猛禽が正面を向いたまま回転し、3門のMgSが次々と火を噴いた。今回の作戦に備え、ネレイのギルド本部で新たに取り付けた武装である。
 手応えはあった。
 だが間髪おかずに、煙の中から分厚い曲刀が振り下ろされる。
 ――なんてヤツ? 今のをかわした!? いや、プレアーを早く!!
 メイは急いで離れようとする。が、先程から対決し続けている手強い敵は、彼女を逃さなかった。
 ――どうした、お前の相手は俺だ。
 天翔ける竜を駆り、ラピオ・アヴィスの行く手を阻む相手。そのエクターは、まだ少年臭さが抜け切らぬ心の声で、挑戦してきた。
 ナッソス家四人衆の若き勇士、ムートの操る《ギャラハルド》だ。攻撃する敵からすれば嫌になりそうなほど、見るからに頑丈な黒と青紫の鎧。それ以上に強固な丸楯と、巨大な刀。兜の頭頂部では、鎖を下げたような、弁髪を思わせる飾りが音を立てて揺れている。
 ――忌々しいガキだね。あんたの相手をしている場合じゃないんだ!!
 必死のメイ。本気で頭に来たらしい。
 しかしこの強敵、そう簡単に片づけることもできそうにない……。
 幸いにもプレアーは無事で、彼女からの念信が飛び込んできた。
 ――メイ! 大丈夫!! ゴメン、いったん離れる!!
 フルファーは翼に敵弾を受け、機体のバランスを取るのが困難なようだ。
 だがディノプトラスは他にもいる。ムートにメイとの勝負を任せ、残りの2機がフルファーを追って降下していく。
 今の状態では、プレアーに勝ち目はない。
 とどめとばかりに槍を構え、一挙に落とそうとする2体の空中竜騎兵。

 そのとき、遠く離れた艦隊の方から青白い閃光が放たれた。
 強大な破壊力からして味方飛空艦の主砲かと思われたが、あの距離から、こんな針の穴を通すような砲撃は不可能に近い。
 それができるのはただ一人、そして、ただひとつのアルマ・ヴィオ……。
 ――お兄ちゃん! お兄ちゃんだね!?
 プレアーは、感極まって半泣きで叫んだ。
 そう。カイン・クレメントの乗る《ハンティング・レクサー》は、その名に違わず、ディノプトラスの翼を正確に射抜いた。
 通常の呪文砲ならば、発射と発射との間にある程度の時間がかかるのだが、ナッソス家のアルマ・ヴィオ目がけ、立て続けに第二、第三の攻撃が続く。
 命中しそうもない距離から確実に狙い撃ちしてくる相手に、空中竜騎兵団の猛者たちも、不意を突かれて守勢に回ることを余儀なくされた。
 常に慣れ親しんでいる心強い声が、プレアーの胸に響いた。
 ――今のうちに戻れ。無理するな。
 ――うん! ボク、絶対お兄ちゃんが助けてくれるって信じてた!!
 帰還しようとするプレアーを、見事に援護するカイン。空中戦の能力をほとんど持たない彼の機体は、クレドールの飛行甲板に立ち、そこから狙撃を行っているのだ。
 甲冑姿の騎士をそのまま大きくしたような外見は、確かに《レクサー》タイプの汎用型アルマ・ヴィオに違いない。だが近衛機装隊の重装型シルバー・レクサーや、議会軍の高機動型ブラック・レクサーとも違い、迷彩のような深緑と黄土色の機体である。
 特に目立つのは、左右の肩から1門ずつ伸びる、長射程MgSの砲身だ。脚部にも多連装MgS。手にしているのは、通常より2倍以上も銃身の長い、銃座付きのMgSドラグーン。汎用型にもかかわらず、これでもかというほどの火力を備えている。アルマ・ヴィオ改造に偏執的なほどのこだわりをもつ、カインらしい。
 それだけではない。クレヴィスの提案により、一挙に敵を蹴散らすべく、さらなるアルマ・ヴィオがギルド艦隊から飛び立っていたのだ。
 不意に音もなく、高空から急降下してくる何かがあった。あくまで静かに、気配を悟らせず、それでいて驚くべき速さで。
 ハンティング・レクサーに翼を撃たれ、力を削がれたディノプトラス。その上に乗った《騎士》めがけ、頭上から鋭い鉤爪がつかみかかる。
 見事な奇襲だった。舞い降りた空の狩人は、刃物のような爪を持つ両足で、空中竜騎兵を鷲掴みにした。フクロウのごとき重飛行型アルマ・ヴィオ、ファノミウルだ。
 練達の繰士サモン・シドーは、いつも通りの寡黙さで、無言をもって終わりを告げる。相手をとらえたままファノミウルの腹部の広角型MgSが白熱化し、近接距離から魔法弾を直撃させ、あっという間に飛び去った。ディノプトラスもろとも、これでは助かりようがない。

 ――形勢逆転ね。どうする?
 挑発するようにメイが言った。
 ラピオ・アヴィスとギャラハルドが対峙する。
 敵に突然の援軍が現れ、さすがのムートも不利を悟っただろうか。
 見る者が見れば、彼の風体から明らかなのだが――もともとムートは、好戦的なことで知られる辺境の古き戦闘部族の出身だ。そんな環境で育った彼も、敗北よりは死を選ぶという恐るべき戦士である。しかし、このまま戦い続ければ、カセリナまで命を落とす可能性もあった。
 もはや彼に残された味方は、そのカセリナと、もうひとりのエクターのみ。
 ――くっ。新手が居たとはな。そろそろ、潮時か。
 何故か意外なほどあっさりと、勇猛果敢な繰士は退却を認める。
 その言葉に過剰に反応したのはカセリナだった。
 ――まだよ! ここまで来たのに、あと一歩じゃないの……。
 戦士としてのムートの誇りを、誰よりも知っているのは他ならぬ彼女である。彼がこれほどあっけなく敗北を認めることは、考えもしなかった。だが、彼にそのような決断をさせたのは――否、彼をそうした人間に変えたのは、カセリナ自身であるということを、彼女は十分には理解していない。
 ――何を言ってんだ、お嬢様。冷静になろうぜ。俺たちが命を賭してでも戦い抜かねばならないとすれば、それは城を枕に討ち死にするときだ。こんな空の上でくたばるのは、どうも気持ちが悪いだろ?
 戸惑うカセリナ。
 と、地上から別の念信が入った。同じく四人衆のザックスからである。
 ――お嬢様、いったん引いて下さい。これは殿の直々の御命令ですぞ。状況が変わったのです、さぁ!
 ――ザックスか。しかし……。分かりました。お父様がそこまでおっしゃるのであれば、何か事情があってのこと。悔しいが、やむを得ないわね。
 父の、そしてムートやザックスの気持ちも考え、カセリナも渋々承知した。
 イーヴァを乗せたディノプトラスが、口から猛烈な火炎弾を吐いて敵を威嚇したかと思うと、素早く退いた。
 他方、イーヴァと剣を交えていたカヴァリアンも、敢えてその場から動かなかった。左右の手で構えたMTサーベルから、黄色い光の刃が消えていく。
 レーイは無言で敵の撤退を見つめる。

 ――逃げる? 今のうちに一気に!! レーイ、サモン、何してるのよ!
 メイがすかさず追撃にかかるが、それを予想していたかのように、クレドールから念信が入る。
 ――メイ、深追いは好ましくありません。戻りなさい。
 ――でもクレヴィー、いま攻めたら勝てるのに!?
 柔らかな溜息とともに、クレヴィスは告げた。
 ――あの奇襲を防ぎきり、全員が無事だったというだけでも、我々は十分な戦果を上げたことになりますよ。おまけに手強いディノプトラスを3機も落とした。何が不満ですか?
 ―――それは、そうだけど……。あんな強いヤツらをみすみす逃したら、後でまた厄介なことにならないかと思って。
 メイが周囲を見回すと、レーイとサモンはすでに帰途についている。変に熱くなって我を忘れたりせず、程良い引き際をわきまえた彼らは、さすがに戦いを生業にする者らしかった。
 仕方なく2人を追って戻るメイに、クレヴィスが優しく諭すように言った。
 ――ふふ。あなたの勇敢さは大したものですよ。しかし、カルの言いぐさではありませんが、我々は軍や機装騎士ではありません。結局ギルドの戦いは商売です。被害を最小に抑えつつ、確実に最大限の成果を手に入れること。むやみに命を賭してまで、勝利の名誉など追究する必要はないのです。いいから、帰還して下さい。分かりましたね?

 《商売》などという似合わぬ口上を述べたせいか、クレヴィスは苦笑いしている。彼は艦橋の窓際に立ち、地上のミトーニア市を見やった。
「とはいえ、飛空艦3隻がまんまと立ち往生させられ、結果的に向こうの作戦に余裕を与えてしまったのは確かですね。その間、ミトーニアの情勢がどう変わったか。ナッソス家もあの街を黙って手放すはずはありません。相手の出方次第では、我々も勝負に出ることを余儀なくされるでしょう。ルキアン君、あなたの思いが届くかどうか……」

 ◇ ◇

 ミトーニア市庁舎は、神殿からほど近い距離の所にある。
 庁舎前からは、細長い公園といっても誇張ではないほどの、一見すると街路とは思えない規模の大通りが延びる。日頃は多数の市民たちで賑わうこの場所も、今日は死んだように静まりかえっている。いつもと変わらぬたたずまいを見せているのは、通りを飾る季節の花々や緑の木々だけだった。
 そして、平和な商業都市ミトーニアにはまさに《場違い》であるはずの構造物が、我が物顔で大通りの真ん中を遮っている。それは、木材や土嚢、瓦礫、家具等々の雑多なものを積み上げて築かれたバリケードだ。
 その周囲では、抗戦派の兵士たちが数十名、いつでも発砲できる状態で銃を構えている。彼らの背後にそびえ立つのは、恐らくティグラーと思われる陸戦型アルマ・ヴィオが3体である。
 そこから7、80メートルほど通りを下がったところに、多数の市民たちが群れ集まっている。ときおり大声を出して気勢を上げながら、彼らは抗戦派のバリケードと対峙する。
 張りつめた空気の中、白と青の長衣をまとった白髪頭の男が一人、群衆の間から歩み出た。リュッツ主任神官だ。彼は両手を上げたまま、ゆっくりと、堂々とした態度でバリケードの方に近づいてゆく。
「我々は、争いをするために来たわけではない。同胞同士で銃火を交えるのがいかに空しいことか、それは誰もが知っていること」
 必ずしも通りの良くない、しかし誠実さに満ちた声でリュッツは叫んだ。
「ミトーニアの紋章の意味を知らぬはずはあるまい……。2匹の獅子が互いに手を携えるあの紋章は、かつて血で血を洗う争乱が続いていた中央平原の歴史を、二度と繰り返さぬようにとの、平和への誓いが込められたもの。このミトーニアの紋章を旗印として戦いをするようなことは、愛すべき故郷に対し、恥ずべき行為。今ならまだ間に合う。市長や参事会の方々を解放し、武装を解くのです!」
 ミトーニア神殿の長は、バリケードを守る兵士に向かって説得を始めた。
 反応らしい反応は無いが、相手もとりあえず黙ってリュッツの話に耳を傾けている。いかに抗戦派の者であろうと、神官に軽々しく発砲するような真似はしないだろう。
 リュッツを見守る市民たち。その前方には、自らの身を楯とするかのごとく、アルフェリオンの白銀の巨躯が。万一のことがあれば、文字通り楯となり、人々の命を護らなければならない。
 ――まずいな。この、眠気みたいな……気を抜くと倒れそうな感覚。かなり疲れてる。こんなに長い時間、アルマ・ヴィオを使いっぱなしだなんて、初めてのことだし。でも、頑張れ。僕がみんなを守らなきゃ。
 ルキアンは己の心に檄を飛ばした。早朝からずっとアルフェリオンを操っており、しかもレプトリアとの戦いで一度大きなダメージを被ったため、彼の精神的疲労は極度に高まっているはずだ。
 それでもルキアンは大きな使命感に支えられていた。自らの望み通り、人間同士の醜い争いを止めさせることに、いま彼は協力しているのだから。
 ルキアンの気分は高揚すらしていた。ある意味、不謹慎ではあろうが、それは彼の偽らざる気持ちだった。
 ――僕は、良い意味で、みんなの役に立てている、のかな? あんなにどうしようもなかった、《いらない人間》の僕が、必要、なんだよね……。
 だがその高まる心に水を差すように、不意に、あのときナッソス公の言い放った言葉が思い浮かんだ。

  要するに君というのは、具体的な目的もなく……ただ自分が必要とされた
 からといって、それに喜びを感じて暴徒どもに力を貸す、いわば《理由を持
 たぬ抜き身の剣》のような人間だな。戦う理由を、いや、自分の存在意義と
 やらさえ、結局は他人に預けている。

 ルキアンは公爵の言葉を反芻し、改めて応える必要に迫られた。
 いま、彼は一瞬忘れかけてしまったのだ。誰かに必要とされることによって己の存在意義を実感するためになど、もはやそんなことのために戦っているのでは、ないはずだったということを。
 《戦う理由を得た》今の自分が、《戦うことで理由を得ようとしていた》あの日の自分に、戻ってはいけない。そう戒しめつつ、ルキアンは自答する。
 ――たしかに僕は、必要なら《剣》にでも何にでもなる。でもそれは《剣》となることによって自分の存在意義を得るためじゃなかったはずだ。僕が戦うのは《優しい人が優しいままでいられる世界》のためなんだ。みんながそんな世界で穏やかに笑っていられたらいいなって、僕もそんな世界で暮らしてみたいと思う、《願い》のためなんだ。忘れちゃいけない。戦いの中で進む道を見失ったら、僕はきっと《ステリア》の力に魅入られてしまう……。
 こうした思いを巡らせながらも、ルキアンの視線は、地上の神官リュッツと抗戦派の動向とに注がれていた。

 そのとき、付近がにわかに騒がしくなった。
 リュッツの説得に全く応じようとしない抗戦派の兵士に対し、待っていられなくなった市民たちが、声を荒らげて詰め寄り始めたのだ。市壁の外で飛び交う砲弾の音が、彼らの神経をなおさら苛立たせている。
「期限の夜明けはとっくに過ぎているんだぞ!! もしギルドの飛空艦が街を破壊しにやってきたら、どうするつもりだ?」
 市民たちは口々に怒鳴る。何人かの男が、鞘に入ったままの剣を高く掲げ、ガチャガチャと派手に揺らして勢いを付けている。
 ホウキを手にした中年婦人も、大声で騒いだ。
「あたしたちは戦争なんか嫌だよ! アールと一緒に心中なんて馬鹿らしい!」
「そうだ、アール副市長を出せ! 反逆者アールを引きずり出せ!!」
 誰かがこう言ったのを皮切りに、人々は抗戦派の首領アールの名を連呼して走り出した。
 いったん動き出した人の波は、凄まじい速さで流れる。ただでさえ異常な状況の中、些細なことから、たがが外れた群集心理は、その獰猛さを刹那のうちに露わにした。
「待ちなさい! 無茶をしてはいけません!!」
 必死に押し止めようとするリュッツだが、もはや彼の言葉に聞く耳を持つ者はいない。一触即発どころではなかった。このままでは流血の惨事もあり得る。
 ――こんなにも、あっけなく……。冗談だろう?
 一瞬の暴走に、同行していたシュワーズ秘書も目を疑う。凶暴化した人々に押し倒されないよう、道の端に身を寄せ、さすがの彼も呆気にとられていた。
 バリケード目がけて殺到する市民たちを、ルキアンもアルフェリオンを動かし、無理矢理にでも止めようとする。
 ――ダメだ! いけないよ、こんなの。こんなの!!
 だが、気が付くと銀の天使の足元近くを、いましも多数の人間が通り過ぎてゆく。下手に動いたら踏みつぶしてしまうだろう。どうしようもない。
 ルキアンは捨て鉢になって祈った。
 ――頼む。早まらないで、抗戦派の人たち!
 彼の声が伝わるはずはなかろうが、抗戦派の兵士たちは幸いにも発砲を差し控えた。やはり同じミトーニア市民なのだから、躊躇は当然あるのか。
 市民の最前列が兵士たちともみ合いになる。銃剣をかざして威嚇する兵士。投石する人々。石に混じって野菜くずや木切れも飛び交っている。
 下手にどここかで銃声でもしようものなら、間違いなく銃撃戦が始まりそうな雲行きだ。
 それだけは避けたい、と、ようやくアルフェリオンが動き出したとき……。

 ◇

 轟く砲声のごとき爆音で、《獣》の雄叫びが耳をつんざいた。
 市民と抗戦派の兵士との小競り合いにより、騒然としていた大通りが、一瞬、凍ったように静かになった。
 鋼の猛虎・ティグラーの雄叫びだ。
 抗戦派のバリケードの背後に待機していた3体の陸戦型が、威嚇するようにその巨体を誇示しつつ、ゆっくりと進み出てくる。
 些細な動きにさえ威厳と品格があった。乗り手もただ者ではないだろう。
 逞しい四肢に十分な力を感じさせながらも、虎たちはやや重そうに足を運ぶ。それもそのはず――本来の装甲の上に、金色の縁取りも勇壮な、分厚い魔法合金の甲冑をさらに装備しているためだった。
 それだけではない。これらのティグラーは、生来の武器である牙と爪に加えて、接近専用の様々な武装を備えていた。背中や肩の部分には、サイの角のように頑強な突起物が生え、胴体と前足には、緩やかなカーブを描く抜き身の刃が、陽の光を反射して生々しく輝いている。
 こうした重装備ゆえに、3体は通常のティグラーよりもひと回り大きく見えた。一歩一歩のあゆみにも重アルマ・ヴィオ並みの地響きを伴い、ミトーニアの守護獣はじわじわと前進してくる。
 兵士たちともみ合い、罵声を上げていた街の人々は、3体の巨獣を前にして、冷水をかけられたかのように勢いを失っていた。
 急いで次の行動に出るべきなのだが、ルキアンの中では、冷静な判断よりもある種の感嘆の方が上回っている。
 ――こ、これって、これも……ティグラーか!?
 戦場慣れしているはずもない少年が一時の驚きに心を委ねてしまったのは、仕方のないことだろう。
 バリケードの向こうに身構える敵。その強固かつ絢爛な姿と相応に、機体は見事なまでに手入れされ、磨き上げられている。一介の在野のエクターから国王の近衛隊に至るまで、あらゆるところで用いられるティグラーではあれ、これほど立派なものを有する部隊は、数えるほどしか存在しないだろう。
 ――感心している場合じゃない! だけど、どうしよう……。
 戸惑うルキアン。ここで衝突でもしたら、足元にいる市民たちを完全に巻き込んでしまうことになる。暴動どころではない、大惨事だ。
 幸い、相手も性急な行動は慎んでいる。そうでもなければ、機敏さを欠いたルキアンは、すでに2、3発の攻撃を受けていただろう。他方、市民たちが今以上に進もうとするなら戦いも辞さぬという、断固たる姿勢も敵側には見て取れた。
 低くうなったかと思うと、鋼の牙をむき、吠えるティグラーたち。
 乗り手の意図によるものというよりも、アルマ・ヴィオ本来の、多分に動物的な反応だ。目の前に立つ未知の存在――アルフェリオン・ノヴィーアに警戒心を抱いているらしい。元々の虎よろしく、ティグラーは獰猛ながらも慎重な性向をもつ《生き物》なのだ。
 それに対し、もっと冷血的な、竜のごとき咆吼が轟いた。それでいて鷲や鷹のような猛禽を想起させる、高くて鋭い鳴き声……。アルフェリオンだ。時には《人》の身体を有しながらも、やはり獣的な性格をもつのがアルマ・ヴィオである。人に化身した魔竜、荒鷲の力を具現した天使。
 その間にも抗戦派の兵士たちは、銃口を向けて人々を威嚇しつつ、整然とした動きでバリケードの背後に退いた。これと入れ替わりに、ティグラー3体が前に出てくる。
「同じミトーニア市民の血を流すつもりか!? 戻れ! 帰れ!!」
 誰かが叫んだ。ヤジに混じって、《帰れ》という声が斉唱される。
 ティグラーに乗っている繰士が誰なのか、知っている者も当然いるようだった。一人の中年の婦人が、そのエクターの名前らしきものを狂ったように叫びながら、地べたに座り込んでいた。
 抵抗の意思を示しながらも、市民たちは少しずつ押し戻されざるを得なかった。が、このままで済みそうにもない。
 アルフェリオンのわき、大通りの傍らに退避していたシュワーズ秘書が、ルキアンに懸命に何か伝えようとしている。
 ルキアンは《耳》をすませた。魔法眼による視力と同様、感度を上げれば、アルマ・ヴィオは生身の人間とは比較にならない聴力も発揮できる。
 ――ルキアンさん! 聞こえますか、ルキアンさん! あなたの《念信》で、ともかく話し合いになるよう、抗戦派のアルマ・ヴィオに連絡してみて下さい。駄目でもともとです!!
 返事の代わりに、アルフェリオンの顔がシュワーズの方に向けられた。
 ――えぇ、やってみます。あちらのエクターも、そんなに無茶苦茶な人たちじゃなさそうですし。えっと、とりあえず、これで……。
 独り、そうつぶやいた後、ルキアンは可能な限り汎用性のある《帯域》を選んで語りかける。

 彼の行動を予見、いや、まるで期待していたと言わんばかりに、即座に敵方からの答えがあった。
 出し抜けに返されてきた念信。ルキアンはつい唖然としてしまう。
 ――見慣れぬ機体だが、貴君の所属を言いたまえ。
 乗り手の心の声には、ティグラーの印象と同様、厳かな気品があった。極めて冷静だが、それでいて穏やかさや柔らかさというものは、あまり感じられない。もとより好意などは期待できないにせよ、むき出しの敵意も伝わっては来ない。
 明らかに自分よりも上手だと、ルキアンは感じた。少なくとも魔道士の卵である彼には、念信から相手のイメージや人柄を感じることぐらいはできる。
 気後れしたのか、しばらく無言のままのルキアン。
 3体のティグラーのうち、真ん中の1体が軽く身体を振るわせる。これに乗っている者が、今の念信の相手に違いない。
 ――どうした、少年。私の声は聞こえているのだろう?
 そこでルキアンが思い浮かべたこと……。
 それがそのまま、向こうに伝わってしまった。意識的に《声》を送ろうとしたわけではないのに。念信に不慣れな者にありがちなことだ。
 敵方の繰士は、丁寧にもそれに答えた。
 ――いかにも私は女だが。それを理由に貴君が遠慮することなど微塵もない。
 彼女は毅然と言った。
 練達の繰士が持つオーラのようなものに、ルキアンは圧倒され始めた。
 ――何を謝っている? 変わっているな、君は。いや、まだ子供か……。
 相手が淡々としているだけに、ルキアンは余計に自分が不格好に思えてくる。このままではいけない、と彼も必死に答える。
 ――ぼ、僕は、ルキアン、そして、その、僕は……。
 ――心の内を漏らしすぎだ、少年。念信の使い方ぐらいまともに覚えておくのが、繰士の心得というものだろう。まぁいい、貴君はギルドのエクターではないが、ギルドの船に乗っているのだな。嘘ではあるまい。
 今度は彼女が名乗った。
 ――私はシェリル。ミトーニアの防衛のため、雇われた傭兵のようなものだ。だがギルドとは関わりがない。当然、私はこの街の人間でも、市民軍の兵士でもない。それゆえ、市民たちがこれ以上騒ぎを続けるというのなら、私は彼らをためらわずに撃つことができる。
 冷たく言い放つ声。
 シェリルは比較的若いようだが、世慣れた雰囲気からして、うら若き乙女という年頃でもなさそうだった。
 ――メイよりも、かなり年上かな。シソーラさんぐらいか?
 今度はうっかり相手に伝わらないよう、ルキアンは慎重に心の中で思った。
 ――でも傭兵にしては何か違う。どちらかというと、宮廷の貴族みたいな感じで。分からないけど、荒々しさがない。でも物凄く強そうだ。何だろう、この人は一体……。

 そのとき、戸惑うルキアンに、別の波長で念信が入った。
 これでは心が混乱する。実に不可解なシステムだ、と彼は改めて思う。
 ――ルキアン君! 聞こえる? 緊急事態よ、ルキアン君!
 クレドールからの念信。例によってセシエルからだ。
 ――今朝から城と街の間で待機していたナッソス家の部隊が、急に動き出したわ。そっちに向かってる! ねぇ、聞こえてる?
 ――は、はい、聞こえています。
 ルキアンの脳裏に、例の黒き疾風の竜、《レプトリア》との戦いが露わに蘇った。あのときは出鼻をくじかれ、いったん様子見に入ったナッソス軍だったが、とうとう本格的な攻勢をかけてくるのだろうか。
 ――暴動が起こるかもしれないって、連絡してくれたわよね。実際、抗戦派も焦っているみたいよ。恐らくアール副市長は、破れかぶれでナッソス家に助けを求め、ミトーニア全体をナッソス軍の手に委ねようとしているのかもしれない。そうやって、是が非でもギルドの地上部隊に対抗し、また、市民たちの反抗をも封じ込めようという魂胆……。
 ――でも、それじゃあ、抗戦派は、市門を開いてナッソス軍を引き入れるつもりなんですか? そんな無茶苦茶な!!
 誇り高き自由市、それも王国随一の古都ミトーニアが、街を他の君主の支配下に委ね、ましてや軍隊を踏み入れさせるなどと……。こんなことは、オーリウムの貴族の――それゆえルキアンの――普通の感覚からすれば、本来あり得ないはず。彼は呆れるばかりだった。
 唖然とする彼の胸の内に、セシエルの声が響く。
 ――とにかく距離はわずかだから、ナッソス軍の……陸戦型、足の速いリュコスやティグラーは、もうすぐミトーニアに着くわ! いま、メイが空から追跡している。クレドールを近づけようにも、ミトーニアからの対空砲火が激しくて危険……。できるだけ急いでバーンとベルセアを地上に降ろすけど、ルキアン君も援護をお願い! 特に、あなたが早朝に戦ったという旧世界のアルマ・ヴィオを、何とかしないと!!
 ――そんなこと言ったって! あの、その、こっちでは……。
 ルキアンは、今度は慌ててシェリルとの念信に切り替えた。すっかり気が動転してしまい、2つの念信に応ずるだけで精一杯だ。
 ――何なんだ、何なんだ、これは!!
 ルキアンはただ無闇に、無意味に叫ぶのだった。
 そして痛恨の思いでわななく。
 ――どうして、何で……そんなに、戦いがしたいんだよ? 何で。

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