HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第35話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

  現実と夢想の狭間で、君の涙は無駄に流れ続けてきたのか?
    拓きたい未来を夢見ているのなら、
       ここで想いの力を私に見せてみよ、
  ルキアン・ディ・シーマー、いまだ咲かぬ銀のいばら!

  シェフィーア・リルガ・デン・フレデリキア
   (ミルファーン王国「灰の旅団」機装騎士)



 真昼の一瞬の静寂を切り裂き、鳥と獣のいずれともつかぬ声が古都の石壁に響いた。家々の窓は閉め切られ、日頃の賑わいも人の波もみられぬ大通り、2体のアルマ・ヴィオが睨み合い、鋭い鳴き声で相手を威嚇する。
 白銀の鎧をまとう、翼をもった竜の騎士、アルフェリオン。
 黒き蜥蜴あるいは竜の体に疾風のごとき速さを秘める、レプトリア。
 一定の距離を取ったまま両者は動かない。

 ――市庁舎周辺に不穏な動きがあると聞いて来てみたら、また君か。どうやって市街に入ったのかは知らんが、ことごとくナッソス家に刃向かうとはな。君は危険だ、今度こそ倒さねばなるまい……。
 冷たく険悪な口調でパリスが告げる。今朝の戦闘でアルフェリオンの力を知っているためか、いつもの気楽さのようなものが彼の言葉に感じられない。
 ――僕だって別に、ナッソス家に恨みがあるわけでも、そ、その、あなた方と戦いたいわけでもありません。
 ルキアンの心に不意にカセリナの姿が浮かぶ。
 初めて出会ったときの、凛とした印象の中に危うい儚さを漂わせる姫君。
 かすかに無邪気さを浮かべ、ルキアンの手帳に書き付けた言葉。
 そして広間での再会、憎悪の火をともしたカセリナの瞳。

  ――あなたも私の敵だったの。ギルドの艦隊の人間だったのね。

  ――私から大切なものを奪おうとする憎い敵なのね、あなたは……。

 気高くも冷え切った彼女の声。敵意をむき出しにした言葉が、次々と鮮烈によみがえってくる。それらをルキアンは必死に消し去ろうとした。
 かろうじて冷静さを保ち、彼はパリスに尋ねる。あまりにも愚直に。
 ――やっぱり……どうしても戦わなければいけませんか?
 相手の答えは決まっていた。レプトリアが、体側に生えた翼状の器官を広げ、けたたましく吠えたてる。
 ――今更、何を言うかと思えば……。すでに私は剣を抜いている。それを再び置くのは、敵をすべて倒すか、自分自身が敵に倒されたときのみ。
 無駄だということはルキアンにも分かっていた。
 もう後には引けない。自分の心を何度も確かめ、覚悟したはず。
 今にも刃を交えようとする2体のアルマ・ヴィオの後方で、シェリルたちの乗ったティグラー3体は依然として動かない。むしろ、これから起こる戦いを見届けようとしているかのようだ。
 ――僕は《いばら》になる。シェリルさんにもそう言ったばかり。
 ルキアンはついに決意し、ある提案をパリスに行った。
 ――分かりました。あなたがナッソス家のために戦わねばならないように、僕にも戦う理由があります。しかし、この場所で戦っては、市街に大きな損害を与えるばかりか、街の人々を犠牲にしてしまうことだって考えられます。それは、あなただって望まないでしょう? ナッソス家の誇り高き繰士とお見受けして、僕は乞います。市民を巻き込まずに戦える場所で勝負をしてください。この願いは聞いてもらえますか。お願いします……」
 迷いもなく一気に言ってのけたルキアンに、パリスも堂々と応じる。
 ――よかろう。良い気構えだ。そういうことだから、そこのティグラーたちは戦いに手を出してはならない。よいな?
 彼が念信を送ると、シェリルが答えた。
 ――もとより我らにそのつもりはない。ただ、私は、貴殿らの戦いを見届けたい。それはお許し願えるか?
 ――立ち会うと? よかろう。残りのティグラーに守備を任せ、君は我々と共に来たまえ。では白銀のアルマ・ヴィオのエクターよ、戦いの場所へ……。

 ◇ ◆ ◇

 白壁に開かれた窓を通じて、うろこ雲の浮かぶ青い空と、いっそう濃い蒼のレマール海が見える。それは簡素な土壁に掛けられた額と絵のようだ。
 かすかな潮の香りと湿り気を帯びた風が、コルダーユの港の方から流れてくる。体にまとわりつくような生ぬるさはいくぶん薄らいでおり、それと混じり合う心地よい冷たさが、じきに来る秋を予告していた。
 研究所の一室、二人の少年を前に、カルバ・ディ・ラシィエンの熱心な講義が続く。残暑にもかかわらず、カルバは敢えて額に汗を浮かべながら、胸元のクラヴァットをきっちりと締めている。さらに黒のベストの上に、魔道士特有の長いクロークまで羽織って正装していた。
「アルマ・ヴィオになぜ人が乗るのか。たしかに《繰士》とも呼ばれるけれど、エクターは単なる乗り手や御者ではない。もうひとつ、エクターには大事な役割がある。さて、まずは昨日の復習からだ、ルキアン」
 入門祝いにカルバが与えた革表紙のノートに、少年が懸命に羽根ペンを走らせている。先日、知人の紹介で半ば押しつけられるように弟子入りしてきたばかりの、地方の落ちぶれた貴族の末子。そう言えばまだ聞こえはいいが、実際には、貴族の体面を損なわぬかたちで親が《口減らし》を行ったも同然だ。
 気が小さく、人見知りが激しく、何をやらせても不器用この上ない。真面目さだけが取り柄。いや、頭はそれなりに良いし、魔道士に必要な直感や霊性も平均以上には備えている。しかしあまりにも、やることなすことすべて要領が悪すぎる……。ため息をつきながら、カルバは少年の名をもう一度呼んだ。
「ルキアン? ノートを取る時間は後であげるから、まず答えたまえ」
「え? は、はい、すいません……」
 蚊でももう少し大きな声で鳴くのではないかと思うような、小さな声。
「それは……人の《パンタシア》の力がないと、アルマ・ヴィオは、えっと、何だったかな……。そうだ、この世界に漂う魔力、《アスタロン》でしたか? そ、それを、動力に変換できないから、です?」
 彼の答えにカルバは途中までうなずきかけた。そして意味ありげにルキアンの顔をのぞき込み、首をかしげている。
「そうかな? パンタシアとエクターの役割の基本は理解できたようだが、今の解答にアスタロンは関係ない。惜しいな。アスタロンは、魔力そのものとは違うんだ。まだルキアンには詳しく教えてなかったが、ヴィエリオ、説明してみなさい」
 黙って座っていた長い黒髪の若者が、年齢の割に大人びた声で答える。
「はい、先生。魔力は、我々の現実世界およびこれと対をなすアストラル・プレーンの両側にまたがるような具合で作用し、効果をもたらします。たとえ魔力が何らかの《結果》を《表側》の世界で発生させる場合であっても、結果発生までの《過程》は、《裏側》の世界においてアスタロンまたは《霊子素》と呼ばれる媒介項を通じて進行します。勿論、アストラル・プレーンを人が物理的に知覚することはできず、修行を積んだ魔道士があくまで霊的次元でその存在を直感しうるのみです。ましてやアスタロンの存在を証明することは、現段階では不可能だと言われています。ただし、仮説の上に仮説を重ねることになりますが、アストラル界というものを仮定し、そこにおいて魔力を媒介するアスタロンの存在をさらに仮定すれば、魔法の発生と作用の基本的諸原理をひと通り整合的に説明できることも確かです」
「その通り。ルキアン、アスタロンの話はいずれ詳しく教える。先程の質問に話を戻そうか。自然界に満ちあふれている魔力は、敢えてたとえればアルマ・ヴィオの燃料のようなものだ。しかし、それだけではアルマ・ヴィオは動けない。魔力を動力に変えるためには、エクターのパンタシアの力が、いわば触媒として不可欠なのだ。だからエクターは、乗り手であると同時にアルマ・ヴィオの《器官》でもあることになる。では、ルキアン、パンタシアとは?」
 カルバは再び尋ねる。時々こうして質問を投げかけないと、この少年は書き写すことばかりに必死で、師の話を自分の頭で理解しながら聞いていない場合がある。
「えっと……。パンタシアとは、人間の……心の力、というか、妄想、いや、間違えました、《夢想》する力。《心の中に何かを思い描いて、それを現実にもたらそうとするほど強い想像――創造――の力》です。それが魔力をこの世の力に変える、そうだったと思います」
 緊張して妙な言葉も混じったにせよ、ルキアンは比較的正確に答えることができた。それというのも、この《パンタシア》という概念を、なぜかとても彼は気に入っていたからだった。
 ――夢に想うものを、現実にもたらそうとする強い想像・創造の力……。
 ルキアンは頭の中で繰り返した。
 少年の解答に満足げに頷くカルバ。彼がさらに講義を続けようとしたとき、部屋の反対側で声がした。
「お父様ったら、またお昼の時間になっても続けているんだから。みんな、そろそろお昼ごはんにしましょう? お腹を空かせたメルカが、半時間も前から文句ばかり言って、手が付けられないわ」
 ――ソーナ。
 ルキアンは遠慮がちに振り向いた。部屋の入り口に立っている娘と目が合い、彼は慌ててうつむく。強く、美しい眼――理知的な意志の光を瞳にたたえる娘に、少年は否応なく惹かれるものを感じていた。馴染みにくい新たな環境の中、彼女を近くで日々見られることは、ルキアンの生きる力の素にさえなっている。
 にっこりと笑って、片目を閉じてみせる金の髪の少女。
 だがそれはルキアンに対してではない。
 隣のヴィエリオが、ソーナの方へ微かに笑みを返す。
 ――想ったって、現実とかけ離れすぎていることばかりじゃないか……。
 ルキアンは背を向け、黙って意味もなくペンを走らせた。
 ――そう、想うところまでなら誰にでもできる。だけど、いくら想いを現実に変えようとしてみても……。結局、《想いの力》なんて、無力な場合の方が多いじゃないか。
 紙面に押しつけられたままのペン先が、インクの黒い染みを広げてゆく。
 揺れ動く、そよ風。
 銀色の前髪が弱々しげに揺れた。

 ◇ ◆ ◇

 ――なるほど、円形闘技場跡とは考えたな。
 ルキアンの言葉に従い、戦いの場である前新陽暦時代の遺跡に赴いたパリス。蛇のような首を伸ばしてレプトリアが周囲を見渡す。
 いま3体のアルマ・ヴィオがいるのは、市街の東の外れ、周囲の土地から盆地のように陥没した広い空間である。単に物理的に周辺と隔絶された様相を呈しているだけではなく、この場所だけが時間に取り残されているかのごとき、一種、不思議な空気の漂うところであった。
 前新陽暦時代の頃から、平時の貿易上の集積地としても戦時の要衝の地としても、ミトーニアは中央平原の中心となり栄華を誇っている。古代の繁栄ぶりの面影は、市庁舎に残された例のモザイクの壮麗な床からもうかがえるが、他にも大きな遺跡が同市の内外に多数残されている。この闘技場も遺跡のひとつだ。価値ある文化遺産を傷つけてしまうことは、ルキアンにも非常に残念である。しかし街の人々の命や安全には代えられないと、彼はやむを得ず決断した。
 シェリルのつぶやきが、ルキアンとパリスに念信で伝わる。
 ――旧世界が滅亡した後にどれほど経ってからのことか、我々の時代と直接につながる範囲での古代、つまり前新陽暦時代が始まった。極度に衰退した文明は改めて発展し始め、やがて《レマリア》の大帝国が、旧世界の《エルトランド》に変わる《新たな大地=イリュシオーネ大陸》における覇者となった。現在の《レマール海》という地名も、沿岸周辺国を統べたレマリアの名に由来する。
 ――エルトランドって、旧世界の《地上界》に当たる大陸のことですか?
 今、ルキアンは、特別な自覚のないままに《地上界》という言葉を使った。たしかにクレヴィスやシャリオとの会話では、この言葉がごく当然に用いられている。だが一般的には、旧世界が天と地の2つの世界に分かれていたことなど、果たしてどれほどの者が知っていようか。
 ――そうか。分かっているのだな……。
 シェリルは若干の感嘆を込めてそう言うと、何事もなかったかのように、古代世界の話に戻った。
 ――歴代の皇帝の治世が続くうち、レマリアの社会は爛熟し、やがては熟し過ぎた果実が腐ってゆくのと同様、人心は荒廃していった。レマリアの民は旧世界人の過ちを忘れ、異民族を支配しながら怠惰と悦楽に浸り続けた。このミトーニア、当時の言葉でいえばミソネイアに住むレマリア人たちも、安逸な日々の中で退屈しのぎの娯楽ばかりを求めていたらしい。アルマ・ヴィオを闘技場で戦わせたのも、娯楽の一環。そしてレマリア帝国も崩壊し、前新陽暦の時代も終わった。ここに残る苔むした瓦礫の山から、ミトーニアの人々は何を学んだのか。そう、何を。
 ――ほほぅ、一介の傭兵風情にしては、なかなか博識だな。
 冷やかしたパリスに対し、シェリルは面倒そうに答える。
 ――どうだかな。それより、この地に眠るレマリアの民たちも、貴殿らの戦いを草葉の陰から眺めているかもしれない。早く見せろと催促しているぞ。
 むき出しの地面では草が伸び放題だが、所々、赤茶けた土の間から石畳の一部が顔をのぞかせる。その空間の周囲をひな段状の観客席がぐるりと取り囲む。遺跡全体としては、鉢を思わせる形状であろう。壮大な規模の観客席、その最上層はちょっとした丘のような高さにまで達している。だが周囲の遺構は今ではかなり風化・倒壊しており、実際に残っている構造物は3分の1程度だろうか。
 それらの古代の遺産に見おろされ、アルフェリオンとレプトリアが地上で向かい合っている。闘技場の端、少し離れた場所にティグラーが立つ。

 ルキアンとパリス、両者はいつでも戦える構えである。
 この期に及んで、いま以上に時間を引き延ばす意味もない。先に動きを見せたのはルキアンの方だ。
 ――僕は戦います。本気ですから!
 アルフェリオンが一歩踏み出そうとしたそのとき。
 ――本気? そんな隙だらけでもか。
 何の前触れもなくレプトリアが跳んだ。両者の距離が瞬時に詰まる。

 ◇

 ――速い!?
 そう思ったとき、ルキアンは自らと融合した機体の《全身》に痛みを感じていた。続いて何かが頭に浮かぼうとする次の瞬間、そのまた次の瞬間、状況の理解もできないままに無数の攻撃が飛んでくる。
 ルキアンが気づいたときには、アルフェリオンが地面に仰向けに倒れてゆく途中だった。そこでようやく最初の回避行動が可能となる。背中に大地の衝撃を感じ、それから地面を転がるように機体をひねる。間一髪、アルフェリオンが一瞬前まで倒れていた場所で、土煙を巻き上げて大きな爆発が起こった。
 魔法弾の炸裂の名残、空気中にかすかに漂う電流のような感触を、ルキアンは金属の《肌》で感じていた。
 ――致命傷を受けるのは、かろうじてかわしたか。運だけは良いようだな。その機体がいかに堅固な装甲を持っていようと、ここまで近接してMgSを放てばさすがに風穴が開く。それは今朝の戦いでも実証済みだ。
 白煙と土煙の混じり合う視界の向こうから、パリスの声が伝わってくる。
 ルキアンは立ち上がろうとしたが、《痛み》のあまり機体がよろめき、アルフェリオンは片膝を着いてしまう。生身で負った傷でないとはいえ、ダメージは繰士本人にも相当の苦痛となって感じられる。
 ――何が起こったんだ? 敵のアルマ・ヴィオが飛んで、気がつけばこちらは地面に倒れて。いつの間にか、体中に傷。い、痛い……。
 姿勢を崩しながらも立ち上がったアルフェリオン。
 だがすでに、レプトリアの爪による攻撃が襲ってくる。黒い竜の前脚の残像が目に映った瞬間には、機体のまた別の部位に続けて打撃が。ルキアンは、もはや打たれるがまま、されるがままであった。

 ――苦戦どころか、これでは《戦い》のかたちにすらなっていない。決定的なダメージは受けずに済んでいるが、時間の問題だろう。もし少年が他のアルマ・ヴィオに乗っていたなら、今頃はもう12、13回程度は死んでいるところだ。これでは冗談にすらなるまい。
 シェリルはティグラーに乗ったまま、じっと様子を見守っている。
 ――だが、ここで手を出してナッソス家と事を起こすのもまずかろう。それに《機繰騎士(ナイト)》の建前から言っても、一騎打ちに介入するのは褒められたことではない。もし少年がここで命を落としたなら、所詮はその程度だったということで片付けるしかあるまいか。
 レプトリアの鋭い牙で腕に噛み付かれ、そのままの勢いでアルフェリオンは地に押し倒される。苦しむ白銀の騎士を視界にとらえつつ、密かにティグラーの目が光った。
 ――しかし、それはそれで、面白くも何ともない……。

 倒れたアルフェリオンに覆い被さるように、レプトリアが食らいつく。その深く切れ込んだ口には、肉食恐竜さながらに、槍先のような牙が並ぶ。凶暴なうなり声。強靱な顎の力によって、腕の装甲の一部が食いちぎられた。
 ――この場所では街全体を巻き込むゆえ、あの強大な光の《剣》を使うことはできないだろう。だが小さな危険でも封じておくのが闘いというもの。
 パリスは攻撃の手をゆるめない。
 苦痛に耐えられず、ルキアンは声もなくうめいた。声を出そうとしても出るはずはないが、さすがに自らの腕の肉を引き裂かれているのと同様の感覚、叫ばずにいられない。
 ――今朝のような《再生》の時間はやらぬ!
 素早く飛び退いたレプトリアが、再び飛びかかる。アルフェリオンの胸部を前脚で踏みつけ、右腕を破壊しようと食いついてくる。

 ――そこで抱きつけ! そして頭突きだ!!
 ――えっ?
 痛みで意識がぼやけていたルキアンは、何も考えられず、急に飛び込んできた念信に反射的に従った。牙をむいて見下ろすレプトリアに対し、その脚も胴体も構わず、アルフェリオンが力任せにしがみつく。
 ――離せ!!
 ルキアンが今までとは全く違う動きに出たことに、パリスは予想を外され、急いで敵の腕を払いのけようとする。だがスピードでは劣っていても、パワーならアルフェリオンの方が上だ。
 無我夢中のルキアン。アルフェリオンの上体が急激に起き上がり、敵の細い顎すれすれを兜の先端が通り過ぎる。たしかに歴戦の強者であるパリスに対し、いかに不意打ちとはいえルキアンの攻撃など当たりはしない。だがレプトリアの姿勢は崩れ、足元がふらついた。
 そのわずかな隙にルキアンは立ち上がる。
 ――そ、そうか。こうなったときは、組み付いてしまえばいいんだ。どんなに動きが素早くても、一度つかまえれば、ともかく敵の動きを止めることはできる! いや、あ、あの、シェリルさん?
 我に返ったルキアンは、念信が彼女のものであることに気づいた。いつの間にか、呆気ないほど素早く鮮やかに、他者には感じ取れぬ一対一の念信の《回線》が二人の間に開かれている。
 シェリルは答えず、鋭く指示を出す。
 ――まず、アルマ・ヴィオの性能には頼りすぎるな。《乗って》いるという気持ちだからそうなる。それは君自身の《身体》だと思え。基本だ。
 ――は、はい!
 ルキアンの先ほどの攻撃を受け、レプトリアは速さを生かした本来の戦い方に切り替えた。距離を取って攪乱しながら一撃を与えて離脱、その繰り返しで、相手にダメージを蓄積させてゆく戦法である。
 ――ぼやぼやするな! 剣でも槍でも、装備されている武器を出して間合いを稼げ!
 不慣れな戦い、強敵の猛攻。ルキアンは気が動転し、武器を使うことを忘れていた。いや、相手のあまりの速さに、使いたくても使えなかったのかもしれない。
 ――わ、分かりました。
 腰の収納部からMTランサーのシャフトが飛び出す。アルフェリオンはそれを引き延ばして構える。柄の先端部分にまばゆい光が輝き、斧槍のような複雑な刃が形作られた。
 ――ひどい構え方だが、いま教えている暇はない。大振りしても外すだけだ。とにかく相手に当てろ、引っかけるつもりで脚を狙い、まずは少しでも動きを封じろ!
 だが、あのレーイの剣をもかわすレプトリアの俊敏な動きに対し、ルキアンの腕ではかすりもしない。狙うどころか、MTランサーを振り回して相手を寄せつけないよう、それだけで精一杯だ。
 パリスはそれを嘲笑する。
 ――長物を装備していて助かったな。何とも無様な闘いぶりだ。
 ――無様でも何でもいい。僕のやることはみんな、もともと格好良くなんかないんだ! とにかく必死で戦う、それだけです!!
 ルキアンはそう叫んで、相手の足元をなぎ払おうとした。
 攻撃は読まれており、レプトリアは流れるような動きで回避する。
 ――そうだ、少年。最初より動きがましになってきている。
 ルキアンには、シェリルの声がとても心強く聞こえた。的確な指示以上に、心理的な支援の効果の方が大きいのかもしれない。
 瞬間、瞬間、彼は必死に次の手を読もうとする。そのたびにレプトリアの牙や爪がアルフェリオンに傷を与えるが、今度は武器を構えているため、簡単に懐に飛び込まれることはない。
 ――考えろ、考えろ、止まるな、考えろ!!
 ルキアンは自分に言い聞かせた。
 ――僕の身体。これは僕の身体。そう思えば、どうすればいいか、もっとよく分かるはずだ。
 彼は自らの心の中を探った。それは、いま自分と一体化しているアルフェリオンの能力を探るということ。己の力に気づくということ。
 ――アルフェリオンは、翼を持った竜の化身。そう、白銀の竜だ。
 すぐにルキアンはイメージをつかみ取った。彼はそのイメージを広げ、想像する。膨らむ幻想。
 ――白銀の竜は、雪と氷の谷の果てに住むという、氷の竜。だから、アルフェリオンにも……。そうか、これがある!
 ルキアンは武器を大きくかざしてレプトリアに真正面から突っ込む。
 ――少年、何を馬鹿な!?
 シェリルが止めるのも構わず、ルキアンはMTランサーを力一杯振り下ろした。その衝撃で大地に地割れが走り、沢山の土や砂が舞う。
 ――上を取られた、上だ!
 シェリルが伝えたときには、レプトリアはバネのような身体を生かしてアルフェリオンの頭上に飛んでいた。
 ――この時刻、太陽も真上、かわせまい!!
 とどめの一撃を狙い、レプトリアの爪から、さらに長い刃のような光の爪が伸びる。だが……。
 ――かかった!
 突然、兜が開いてアルフェリオンの口が現れ、凄まじい雄叫びとともに突風が吹き抜ける。それは、白く輝く極低温の吹雪。
 ――これは、凍気の息(ブレス)!?
 レプトリアの動きが宙で一瞬止まった。アルフェリオンにあとわずかで必殺の一撃を加える距離にあったが、突然もがき、落下するように地面に降りる。さすがにパリスは上手く着地した。だがレプトリアの首や脚や胴、あちこちが凍結し、白い霧氷がこびりついている。
 ――空振りして武器を地面にめり込ませたように見せかけ、わざと大きな隙を頭上に作ったか。素人だと思っていたが。
 ――僕は連想したんです、竜の力を。そして上空に向けての攻撃なら、強力なブレスを放っても街を巻き込む可能性は低い。
 相手の被害の状況を確認しながらルキアンは言う。
 若干、レプトリアの動きが重くなっている。本来の竜の場合であっても、炎の息や電光の息と比べれば、凍気の息それ自体の威力は劣る。だが本当に恐ろしいのは、敵を凍結あるいは麻痺させ、動きを奪う効果の方なのだ。
 アルマ・ヴィオでの戦いの基礎さえ知らないにもかかわらず、ルキアンは機体を己の身体同様に扱い、一流のエクター相手に奮闘している。その戦いぶりに、シェリルは彼のエクターとしての才能を垣間見た。
 ――先ほどの一瞬、あの少年は《竜》のイメージと自らをひとつに重ね、人ではなく竜と化し、機体と完全に一体になっていた。驚くべきは彼の想像の力、いくら魔道士の卵であるとはいえ、ここまでとは。それに、受けたダメージは積み重なる一方だというのに、彼の《パンタシア》の力は逆に高まり続けている。
 レプトリアの身体からゆるやかに蒸気が立ちのぼる。機体の発する熱を一時的に上昇させ、内部にまで入り込んだ氷を溶かしているのだ。
 ――ドラゴンブレスとは油断した。だがそんな手は何度も通用せん!
 地を蹴ってレプトリアが反撃に転じる。回避すらできずに倒れるアルフェリオン。とうとう衝撃に耐えかね、甲冑の右肩にひびが入り、音を立てて砕け散った。
 ――駄目だ。強すぎる……。これが本当のエクターなのか。
 降りそそぐ流星のごとき敵の攻撃は、さらに同じ箇所を正確に狙ってくる。ルキアンは機体を動かすことすらできない。
 ――何をしようと、力の差は埋めがたいぞ!!
 パリスの攻撃が続く。このままでは、アルフェリオンが破壊されるよりも先に、乗り手のルキアンが苦痛で気を失ってしまう。
 ――身体が砕けたみたいだ。痛くて、何も感じられない。もう僕は……ダメかもしれない。
 ――右腕部の動力筋、第一、第二、断裂。右肩の伝達系組織、中枢ラインの反応がありません。補助系統のラインも途絶えれば、腕は完全に制御不能になります。
 非常事態であるにもかかわらず、アルフェリオン・ノヴィーアの声は滑稽なほど平静であり、感情の起伏にまったく欠けている。そんな奇妙な警告に違和感を覚えることさえないまま、ルキアンの意識は急激に薄れてゆく。
 ――胸部装甲に亀裂、《ケーラ》に攻撃が達する危険があります。脱出してください……。脱出してください。

 ◇

 《機体=仮の我が身》から受ける激痛に苦しむあまり、もはやルキアンの中では、朦朧とした意識に浮かぶものと現実との区別が曖昧となっていた。
 ――結局、何もできなかったじゃないか。やっぱり僕は駄目なんだ。
 自らの身体の存在する感覚すら失い、ルキアンの心だけが冷たい精神の谷底に落ちていった。
 ――でも僕だって、それなりに頑張ってる、はずでしょ?
 何故か、幼い頃からこれまでの記憶が鮮やかに浮かび上がる。過ぎ去った経験は憎々しいほどに明確なかたちをとり、ルキアンの辿ってきた仄暗い心の旅路が、残骸の山のように次々と重なって現れる。

  そこに光はなかった。
  少年の瞳から無邪気な輝きが失われたのは、
  いつのことだったろうか。
  思い出の中の時間が、新しい記憶の方へと巻き戻されてゆく。
  時が辿られるにつれ、夕暮れの道を行くように、
  記憶の中の風景を包む翳りは次第に深くなるばかり。

 ◇

 ――どうした、少年? 早く立て、立って戦え!!
 念信。音としての声にはならないが、激しい思念でシェリルが呼びかける。だがルキアンからの正常な返事は完全に途絶えている。
 本人の意思によらず、いや、本人が拒否したいにもかかわらず、めくられてゆくルキアンの記憶のページと、それに対する彼自身の解釈のページ。それらは、開かれたままの念信を通じてシェリルの心へと漏れ伝わってくる。
 ――何という、孤独で、暗いあきらめに満ちた心。
 少年の精神に巣くう虚無の果てしなさ、魂の奥底まで伸びた自己否定の根深さに、彼女は言葉を飲み込む。

 《どうせ》、どうせ僕は。僕なんか……。
 思っても、願っても、そんなの何の力にもならない。
 《やっぱり》、また駄目だった。

 だがシェリルは敢えて問う。
 ――そんなに駄目だというのなら、やめてしまえばよかろう?
 ルキアンの心が微かに反応した。彼の意識を現実の世界に引き戻そうと、シェリルは続ける。
 ――やめられまい。いま、君の心をのぞかせてもらって……いや、成り行きで否応なく見せられたというべきか……それで私にはようやく漠然と分かった。どうして君にそこまで強いパンタシアの力があるのか。少年、君自身、気づいているか? 自分は駄目だと思いこんでいながら、それでも今まで立ち上がって生きてきたのは何故だ? 何度倒れても、懲りずにまた、あきらめを深めるだけのために、失敗するだけのために、そのたびに起き上がって手を伸ばし続けてきたのは、どこの誰だ!?
 再び目覚め始めたルキアンの心を、シェリルの声が揺さぶる。
 ――君はあきらめたくなかったのだろう? 現実がどうあろうと、せめて想いの中だけでも……。それが無意味な空想だとは、むなしい妄想だとは、認めたくなかった。なぜならその想いの世界だけが、君のたったひとつの自由の場であり、君の帰れる、君が安らいでいられるところだったから。だからどうしても失えなかったのだろう?

 ◇ ◆

 暗闇の中、幼い姿をしたルキアンがしゃがみ込んでいる。
 ――こんなの違う。何で僕だけ、だめな、いらない子なの? 何で僕だけ、どこにいてもうまくいかないの? 僕が本当に帰っていいところって、どこなの?
 銀の前髪の奥に表情を隠し、引きつるような、かすかな声ですすり泣いている。
 ――《おうち》に帰りたいよぅ……。

 今度は成長した少年ルキアンが、深くうつむき、握りしめた拳を振るわせながら立ちすくんでいる。
 ――帰る? 僕の本当の《家》なんて、この世界のどこにも無かったじゃないか。

  そう、気がつけば居場所はひとつしかなかった。
  手も届かぬほど果てしない闇の底に向かって
  僕は転がり落ちてゆくしかなかったのだ。
  でもそれ自体は苦痛ではなかった。
  この漆黒と静謐だけが、僕を受け止め、抱きしめてくれた。
  魂の深き淵。
  この無限のくらやみの中でだけ、
  僕の想いの翼は
  本当に自由に羽ばたくことを許された。

 ◆ ◇

 ――そう。この世でただひとつ、君の帰れる場所であった空想の世界。たとえそこが美しい光の園ではなく、どれほど暗い影につつまれていたとしても、虚ろな夢の庭であったとしても……その中で羽ばたく想いの翼は、唯一、君が手にした自由への大切な鍵だったのだろう?
 ――空想の世界。自由への鍵。この世界で僕がたったひとつ手にしたもの……。
 うわごとのように答えたルキアンに対し、シェリルは力強く断定的に言った。

  人にはみんな、見えない翼がある。
  夢や空想という名の、どこまでも飛べる羽根がある。
  それこそがパンタシアの力。
  現実への絶望が深いほど、
  あるいは現実が理想を失って著しく歪んでいるときほど、
  内なる幻想の翼は、いっそう大きく羽ばたこうとする。
  まずは君自身が認めることだ、己にその翼があることを。

 ――僕の、つばさ……。そ、そうだった!
 正気に返ったルキアンに向け、待っていたかのように彼女は叫ぶ。
 ――現実と夢想の狭間で、君の涙は無駄に流れ続けてきたのか? 《拓きたい未来》を夢見ているのなら、ここで《想いの力》を私に見せてみよ、ルキアン・ディ・シーマー、いまだ咲かぬ銀のいばら!!

 ◇

 鼓動……。ルキアンの胸の奥で何かが脈打った。

 突然、パリスは自分の身体を不可思議な力が通り抜けていったように感じた。何が起こったのか分からないうちに、透明な恐怖が指先から頭まですべてに染み渡っている。
 ――これは。全てを飲み込もうとする、この冷たく暗い妖気は……。
 巨大な黒い魔物が目の前にそびえ、こちらに迫ってくる。彼にはそう思えた。

 ◆

 ルキアンの記憶の中、いや、現実の記憶と空想とが入り交じったイメージの中。薄暗い深緑につつまれた森の奥に向かい、一本の小道が伸びる。苔むした老木の根元に銀髪の子供がうずくまっていた。小さい身体、華奢な背中いっぱいに、あどけない男の子が背負うには重すぎる孤独が、影のように染みついている。
 弱々しい、かすれた声で、幼いルキアンはつぶやく。
 ――おうちに帰りたいよぅ……。
 いつの間にか、黒い衣装に身を包んだ女が彼の前に立っている。腰まで届く長い髪も同じく闇の色、彼女の背中には漆黒の翼があった。
  ――私と一緒に、本当の家に帰りましょうね。
 翼をもった黒衣の女は、そっと手をさしのべる。
 みじめな幼子は不意に顔を上げ、何かに気づいたかのように周囲を見回した。しかし、誰もいないことを知ると、再びうつむいてすすり泣き始める。
 黒衣の女は血の気のない真白い手を伸ばし、彼の頭をなでた。だが彼女の手はルキアンの身体を通り抜ける。指先は、むなしく宙をつかむ。
 ――もう泣かないで。私の大切な……。
 ルキアンの額に、彼女は届かない口づけをした。ガラス玉のような瞳に感情の光を見て取ることはできなかったが、その背中には一抹の寂しさが漂っているようにもみえる。黒き闇の天使は翼を開き、いずこへともなく消え去った。

 ――リューヌ。あの頃からずっと見守ってくれていたんだ……。
 心象の世界の中に立つルキアンが、瑠璃色のフロックをまとった現在の彼の姿に変わる。いま再び、恭しく差し出された白い手を、ルキアンはしっかりと握りしめた。
 ――すべては御心のままに。《我が主(マスター)》よ。
 闇を司るパラディーヴァは、厳かにひざまずく。

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 周囲に重い魔力が満ちあふれ、冷たく息苦しい霊気が渦を巻いてアルフェリオンに流れ込んでゆく。地面の砂や木の葉が舞い上げられ、古びた遺跡の壁から剥がれるように石粒が落ちる。
 ――この毒々しい力、先程までと大きさも桁違いだ。これが同じ人間から発せられているとでも?
 目に映る風景がたちまち色を失い、どす暗い闇の色に塗りつぶされたようにシェリルには思えた。彼女は直感的に感じ取る。
 ――違う。こんな途方もない妖気が人間のものであるはずはない。精霊や妖魔の類か? 何か強大な力を持った存在が確かに居る。どうした、この私が震えているとは。
 この場に降臨した恐るべき何かを、彼女の心や体が知覚している。得体の知れない寒気がする。
 ――ルキアン? この感じは彼の霊気だ。あの絶大な闇の力の中に、小さい点のようだが、確かに感じられる。取り込まれず、それでいて完全に融合している。
 にわかに空が暗くなり、立ちこめる黒雲。気圧が急変し、周囲の気温も異常な速さで低下する。自然界の霊的バランスを狂わせるほどの巨大な力が発生しているのだ。
 ――あの白銀のアルマ・ヴィオの様子が急に完全に変わった! 理由は分からんが、今朝と同じか。
 あまりにも濃い魔力、いや、暗い情念に満ちた妖気の渦に巻かれ、パリスは吐き気すら感じる。

 ルキアンの《目》が不意に見開かれた。実際の彼の身体は《ケーラ》の中に横たわって動かない。開いたのは彼の心の目である。
 アルフェリオンに流れ込む霊気の渦が、さらに風を呼び起こして竜巻のように成長する。
 ――目覚めよ、呼び声に答えよ、僕のパンタシア。思い浮かべるんだ、あれの姿を。《風の力を宿した飛燕の騎士》を。そして力を貸して、リューヌ!
 突風の壁の向こうで機体が青白く輝き始める。白銀のアルマ・ヴィオの姿がみるみるうちに変わってゆく。まず頭部から、兜の両脇に伸びる角のような部分が小さくなるに連れ、額の部分が光り、そこから翼を思わせる飾りが左右に伸びる。頑丈な肩当てや分厚い胸甲は縮み、甲冑全体のシルエットがずっと細身になりつつあるようだ。
 ――シェリルさん、これが僕の《想いの力》です。見てください、僕がずっと心の奥で育てていた《銀のいばら》を!
 激しい気流の壁を切り裂き、光が一閃する。途端に竜巻は天に昇ってゆくかのように消え去った。姿を現した《それ》の手に握られているのは、輝く三つ叉の刃を持った槍。
 そして最後に、背中の6枚の翼が2枚の流線型の翼に変わった。流れるような形の羽根は、まさに燕を思わせる。

 ――無駄なことだ!!
 竜巻が消え、アルフェリオンの姿が再び現れるやいなや、パリスはレプトリアを駆って突撃した。今度こそ勝負を決しようと全身の力をこめたレプトリアの攻撃は、たしかにアルフェリオンを正確に狙って繰り出されたはず。しかも、人の目ではとらえられぬ刹那の間に。
 だが手応えは無い。光の爪、敵を引き裂く必殺のMTクローは空を切っていた。
 ――まさか、かわしたのか?
 パリスが焦っているのは、単に渾身の一撃が当たらなかったからではない。
 ――どこにいる? 今の攻撃を回避することなど不可能なはず。それを、かわすどころか、一瞬で俺の間合いの外に出ただと。あり得ない、あんなところに!?
 闘技場の端、観客席のある古びた石積みの斜面の前に、彼は白銀色の機体を発見した。

 ――あ、あれ? 攻撃を避けようとしただけなのに、ひとっ飛びでこんなところまで……。どうなってるんだ?
 先程までと全く異なる機体の具合に、ルキアンの方も戸惑っていた。
 ――これは何、リューヌ? 分かるんだよ、何でか分からないけど、全部分かるんだ……。僕の周りに何があるか、どんな大きさの建物がいくつぐらい、そして何が動いているのか。これって、目で見てるんじゃないよね? 左右、上、いや、後ろの方まで手に取るように分かる。気持ちが悪いよ、落ち着かない。
 動揺気味のマスターに対し、リューヌはいつも通りの口調で静かに告げる。
 ――我が主よ、それがゼフィロスのもつ《超空間感応》による感覚です。今、あなたは自分の周囲の空間に存在するものを個別に把握しているのではない。空間そのものを丸ごと認識しているのです。そこに存在するものは、たとえどれほど速きものであろうと、姿なきものであろうと、ゼフィロスの《眼》から決して逃れることはできない。
 超高速の己をさらに凌駕する速さを誇り、しかも底なしの妖気をまとう敵を前にして、レプトリアもわずかに後ずさりする。
 ――怯むな! これしきのこと!!
 自らの機体に鞭打つかのように、パリスは意を決してなおも先手を取った。瞬間移動さながらに、広場の端まで一気に跳躍する速さだ。
 だが……。レプトリアの輝く光のかぎ爪を、白銀の騎士の手にした三つ叉の槍が受け止めている。
 ――見切られただと。いや、人の目では追い切れない速さだったはず。まさか、当てずっぽうか?
 互いの刃が火花を散らすせめぎ合いから、パリスはさらに一撃を繰り出す。だが、機体の触れ合うほとんどゼロ距離からの攻撃が、またもや外れてしまった。しかも、アルフェリオンは敵の爪を武器で受け止めたのではなく、身体をひねる動きだけでかわしたのだ。
 ――これは何だ。これは! こんなことがあるか!?
 一瞬、練達の繰士パリスも我を忘れ、力任せに相手を押し倒そうとする。アルフェリオンは、あっけなく弾かれるように後ろに飛んだが、翼を開き、ひらりと宙で一回転して後方に着地する。
 その様子をじっと観察していたシェリルは、ルキアンの操る機体の特性が、速さ以外の点でも大きく変化したことに気づいた。
 ――おそらく今の形態に変わってからは、運動中枢や全身の伝達系、あるいは感覚器などにほとんどの魔力をつぎ込んでいるというところか。その分、装甲や結界などの守備力は下がり、パワーも格段に落ちた。先ほどまではルキアンのアルマ・ヴィオの出力の方が上回っていたが、今では反対に押し負けている。すべては、あの圧倒的なスピードと鋭敏な感覚を得るための代償だというわけか……。
 だが彼女は満足げに言った。
 ――それにしても、あれほどの《変形》を経た後の機体であるにもかかわらず、彼は何とか上手く使いこなしている。恐るべき共感レベルの高さ、いや、エクターとしての才能?

 その間にも、ゼフィロス形態のアルフェリオンとレプトリアは、ぶつかり合う二つの疾風のごとく、常識を越えた高速の戦闘を繰り広げていた。いずれの動きも肉眼ではとらえきれない。両者が激しく衝突する音で、位置がかろうじて分かる。だが音のしたときには、その場所にはもういないのだ。
 シェリルの目をもってしても、しかもティグラーの魔法眼を通して強化された動体視力であるにもかかわらず、闘技場を縦横無尽にふたつの影が飛び交っているとしか把握できない。
 空中で両者が交差した後、地上に降りたレプトリアが急旋回し、振り向きざまに背中のMgSを放った。青白く輝く雷撃弾が飛来する。だが炸裂するはずの魔法弾はアルフェリオンを通り抜け、奥の遺跡の壁に激突してようやく発動した。
 ――残像か? さすがに速い。だが!!
 MgSを放つと同時に、魔法弾にも劣らぬ速さで突進していたレプトリアは、弾を回避したばかりのアルフェリオンに飛びかかった。
 ――雷撃は、おとり? くぅっ、パワーが足りない……。
 レプトリアの爪をかろうじて受け止めるも、勢いに乗った敵に押され、アルフェリオンは地面をすべるように後退する。
 ――速くなったのはいいが、腕っ節は弱くなったようだな!
 素早く飛び上がったレプトリアが、機体の重さを乗せてMTクローを叩き付ける。地面が割れ、砂や石が舞い上がった。
 後ろに飛び退いたアルフェリオンの方で何かが光った。土煙を貫いて光の筋が宙を走り、レプトリアの足元に突き刺さる。光は鞭のようにうねり、なおもレプトリアを追う。魔法力で形成された鎖・MTチェーンだ。
 輝く鎖の先端には同じくMT兵器の刃が付いている。生き物のように襲いかかる鎖を、レプトリアは巧みに回避する。
 だが2本、3本、鎖の数は次々と増えた。
 ――同時に4方向からだと!?
 さすがにかわしきれず、MTチェーンの一本がレプトリアに命中した。
 鎖に気を取られていると、今度はアルフェリオンの本体が攻撃を仕掛けてくる。絶叫しながら槍を振り下ろすルキアン。飛燕の騎士の槍先は次第にレプトリアに近づき、直撃はしないにせよ、機体をかすめるようになり始めていた。繰り出される高速の突きは、一撃ごとに鋭さを増してゆく。
 全力を出しているとはいえ、パリスは徐々に追い詰められつつあった。
 ――負けられん。ここで勝たねば、ナッソス家の勝機が!!
 だが相手のルキアンは、今この瞬間にもゼフィロスとの交感レベルを爆発的に高め、すでに従来のフィニウス・モードのときと遜色ないほどにゼフィロスを操れるようになっていた。アルフェリオン自体も、パラディーヴァと融合したため、今までとは比較にならない膨大な魔力を宿している。
 ――とらえることのできないものを狩る者。風の力を宿した、飛燕の騎士。
 ルキアンはその姿をイメージし、自らの身体と同様に白銀の機体を動かす。
 ――行け、《縛竜の鎖》よ!!
 彼が念じると、4本のMTチェーンが不規則な軌道を描き、レプトリアに向けて殺到する。繰り出される鎖の動きも矢のように速い。
 ――くっ! 地面すれすれか!?
 光の鎖に足元をすくわれ、レプトリアが初めて倒れた。
 動きが止まったが最後、他の3本の鎖もたちまち飛んでくる。今の状態では回避できず、チェーンの先端に付いたくさび型の刃先が、レプトリアの脚に突き刺さった。さらに一本が首に絡みつき、最後の一本も後ろ脚をとらえる。
 たった一瞬の隙が、状況を大きく変えた。これではパリスは完全に動きを封じられたも同然だ。光の鎖を引き絞りながら、ルキアンが念信で伝える。
 ――降伏してください。もう勝負は付いています……。僕は相手を殺すために戦っているのではありません。

 ――ザックスの兄貴、すまねぇな。後のことは頼む。
 別の念信でパリスはそうつぶやいた。
 ルキアンは、自分に対しては無言のパリスに、もう一度呼びかける。
 ――これ以上の争いは無意味です。降伏してください。
 レプトリアがふらふらと立ち上がる。軽量化を最優先した高速型のため、その機体は意外なほど華奢な作りである。脚にまともにダメージを受けてしまっては、もはや動くことさえ困難らしい。
 パリスはなぜか微かな笑いとともに答えた。
 ――いいか、若造。最初に言ったろ、俺が剣を置くのは相手を倒したときか、相手に倒されたときだけだと……。
 次の瞬間、レプトリアは不自由な動きでアルフェリオンに飛びかかろうとする。だが四肢に絡みついた細い光の鎖が、恐るべき強靱さでその動きを封じている。あとわずかのところで、レプトリアの牙は届かなかった。
 ――お願いです。もう戦いをやめてください。僕はあなたを……いいえ、誰も、もう誰も殺したくない!!
 悲壮な声でルキアンが言った。
 しかしパリスは怒号を上げて彼の言葉を遮る。
 ――甘い、甘すぎる。素人同然の相手に無様に敗れ、しかも敵から情けをかけられるなどとは、機繰騎士として俺は死ぬよりも苦痛だ。そんな屈辱を受けるならば……。今すぐ俺を殺せ! 殺さぬなら、こちらが君を殺すぞ。
 ――そんな、命を失ってまで守る名誉なんて……。
 わずかな隙を見逃さず、残る全力をかけてレプトリアが襲いかかった。ゼフィロスの装甲は薄く、黒い竜の牙が肩に食い込む。ルキアンは慌てて突き放そうとするが、レプトリアは決して離そうとしない。
 ――本当の繰士とはこういうものだ。よく見ておくがいい!!
 パリスがそう叫ぶと同時に、リューヌがルキアンに警告する。
 ――我が主よ、敵は自爆する気です。ゼフィロスの防御力では、こちらも大破を免れません。とどめを刺すのです、早く。

 ――申し訳ない、カセリナお嬢様……。ナッソス家に勝利を!!
 パリスの最後の言葉が終わろうとするとき、ゼフィロスの手にした槍がレプトリアを深々と貫いた。
 ――えっ?
 何が起こったのか分からないルキアン。
 彼の心の中にリューヌの冷たい声が浮かぶ。
 ――お許しください、マスター。しかし、たとえどのような手段を使ってでも、あなたを守ることが私の使命です。
 ルキアンの意思に反し、リューヌがアルフェリオンを動かしたのだ。
 三つ叉の槍は敵の《ケーラ》を完全に貫通していた。乗り手が即座に息絶えたため、自らも《命》を失ったレプトリアの機体は、急に力が抜けたように地に崩れ落ちる。
 ――そんな。そんなのって……。
 ルキアンは言葉を失う。彼は呆然と宙を見つめたままだ。アルフェリオンも地面に膝を付き、動きを停止した。ゼフィロス・モードは解け、白銀の騎士は元の姿に戻ってゆく。

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