HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第36話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

 新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、
 汝の崇敬する、月と魔法の女神セラスに誓いを立てよ。
 小さき者たちの盾となり、あるいは優しき者たちを護る剣となり、
 その力を正しい道のために用いんことを。


 アルフェリオンがゼフィロス・モードから元の姿に戻るにつれて、今まで機体を取り巻いていた強大な魔力も、あたかも風が通り過ぎてゆくかのように何処へともなく消失していった。
 パリスの命を救えなかったことへの慚愧の念と、ともかく戦いを終えた安堵感とが入り交じり、ルキアンからも気力が急激に抜けてゆく。考えてみれば、昨晩からずっと、しかも徹夜でアルフェリオンに乗り続けていたのだ。その後、現在の時刻はとうに正午を過ぎている。特に戦闘の際にパラディーヴァの力を借りていなかったなら、これほどの長時間、連続でアルマ・ヴィオを操るのは不可能だろう。その過酷な事実を自覚できるだけの余裕がやっと生まれたせいか、ルキアンの中で緊張の糸がぷつりと切れてしまったらしい。
 すると、彼とひとつになっていたリューヌの意識も、一瞬、感じられなくなった。彼女が消えてしまったかのような錯覚に陥り、不安になったルキアンは思わず呼びかける。
 ――リューヌ、ちゃんと《居る》よね? 返事をして。
 いつもなら問いかけとほぼ同時に、彼女の声が自分の心の中に浮かぶはず。だが今回は返答が数秒間遅れた。
 ――大丈夫です。力を少し使いすぎただけ……。
 ――リューヌに頼ってばっかりで、ごめん。負担をかけすぎだね。
 やはり今までとリューヌの様子が違う。大丈夫だと言いながらも、彼女の心の声はみるみるうちに弱まり、精神を集中させないと聞き取れないほど小さくなっていた。
 ――しばらく休めば回復します。
 そう告げたきり、リューヌからの反応は、かき消えるように無くなってしまった。今も彼女の存在自体は感じられる。しかし呼びかけに対する答えは完全に途絶えている。おそらくリューヌは休眠しているのだろうが、ルキアンはとても心細く思う。
 闘技場の周囲に並ぶ観客席のひな壇に沿って、ぼんやりと流れていく彼の視線が、シェリルのティグラーの姿とぶつかった。鎧をまとった重装備のティグラーがゆっくりと地面にしゃがみ込む。背中のハッチが開き、ハシゴ状の足場を伝って一人の女性が降りてくる。
 金属板が擦れ合うような音、軽くぶつかり合うような響き。彼女は、いわゆるスケール・メイル――鱗状の鋼の板をつなぎ合わせた鎧――を思わせる胴着を身につけ、通常よりも丈の長い赤のエクター・ケープをその上に羽織っている。この独特の防具に加えて、銛(もり)のような形状をもつ短い槍を背負った彼女の出で立ちは、ルキアンにとっては見慣れないものだった。どこか別の国、異邦の戦士という印象である。さらには、かつてミルファーンやオーリウムの北洋沿岸に栄えた民族の戦士を連想させた。
 ――この人が、シェリルさん?
 こちらに歩いてくる彼女に向けて、ルキアンはアルフェリオンの魔法眼の倍率を上げた。
 午後の日差しに輝く黄金色の髪は、背中で一本に編まれている。整った鼻筋や引き締まった口元には、こざっぱりとした気品が漂う。それでいて彼女の全体的な容貌には、ある種の野性的な雰囲気も感じられる。
「君も降りてこないか、少年。いや、ルキアンと呼んだ方がよいか?」
 シェリルの実際の声や喋り方も、念信のときの《声》のイメージと同様に厳めしかった。だが、上目遣いにアルフェリオンの方を見ている彼女は、飄々とした笑みを微かに浮かべている。見た目の印象では20代後半くらいに見えるが、ちょっとした仕草や顔つきに一定の落ち着きが感じられ、声の質もそれほど若くはない。
 ――外国の人? そういえばミルファーンの話をしていたけど。
 彼女の生の言葉を耳にしてすぐ、ルキアンはそう思った。流暢で聞き取りやすいとはいえ、彼女の話すオーリウム語のアクセントやリズムは、ルキアンのそれとは明らかに異なる。

 言われるがままに、ルキアンもアルフェリオンから降りた。
 二人の視線がぶつかる。シェリルの青く澄んだ瞳は、これまでの間にルキアンの中に作られていた彼女のイメージよりも、ずっと穏やかな印象を醸し出している。
「さっきは、どうもありがとうございました、シェリルさん」
 ぎこちなく礼を言ったルキアン。
「なるほど……。こういう子だったか。大体、思った通り」
 シェリルは小さく頷いた。耳慣れぬ響き。言葉の意味までは理解できないにせよ、とりあえず彼女がミルファーン語を口にしたことは、ルキアンにも分かった。続いて、再びオーリウムの言葉が聞こえた。
「帝国軍は、次は間違いなくオーリウムに侵攻してくる。この国も君も厳しい状況に置かれるだろう。いよいよ困ったらミルファーンに来たまえ。王城に行き、シェフィーアという機装騎士を訪ねるといい。《灰の旅団》のシェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアの知り合いだと言えば、分かってもらえるだろう。オーリウムとミルファーンとの今後の関係にもよりけりだが、少なくとも個人的には君の力になってくれる」
 そう告げた後、彼女は指を立てて口元に当てる。
「君がミトーニアで会ったのは、ただの傭兵のシェリルだ。内緒だぞ」
 彼女はルキアンの頭に手を置き、彼の髪を軽く揺すった。
「今度会うときには、もっと強くなっているように。期待している、《オーリウムの銀のいばら》、ルキアン・ディ・シーマー」
 最後にミルファーン語の短い言葉が聞こえた。
「君のことを少しは気に入っているのだから。興味深い少年」
「え? 今、何て?」
「さぁ。こういう台詞は、わざわざ説明すると無粋になるものだ。君の国の言葉でどう言い換えたら一番適切なのか、私には分からないし」

 彼女はおもむろに右手を高くかかげる。すると突然、その手の指す方向、空の一角が陽炎のように揺らめいたかと思うと、蒼天と同様の薄いブルーの機体が姿を現した。
「《精霊迷彩》で姿を隠していた? いつから上空にいたんだろう。飛空艇、いや、あれは船ではなくて飛行型の重アルマ・ヴィオだ」
 先ほどまではゼフィロスの超空間感応の圏外に浮かんでいたのであろうが、大型のアルマ・ヴィオが気配すら微塵も感じさせず《潜伏》していたことに、ルキアンは少々驚いている。
 機体は再び精霊迷彩を展開し、二人の視界から消えた。その姿が次に現れたのは、遺跡のすぐ上空にまで高度を下げた後だった。動きの特徴からみて明らかに飛行型のアルマ・ヴィオなのだが、トビウオを思わせるその機体は、むしろ飛空艦のクレドールをそのまま小さくしたような形状である。
「す、すごい。さすがはミルファーンの……」
 ルキアンが感嘆を交えてそう言ったのも無理はない。ミルファーン王国は、飛行型アルマ・ヴィオに関してはイリシュシオーネ随一の技術水準を有するのだ。ちなみにサモン・シドーの愛機《ファノミウル》も、おそらく長期のミルファーン暮らしの間に彼が入手したものだろう。
「迎えが来た。そうそう、そのティグラーは借り物だから、ミトーニアに返しておく。なかなかよく調整されていたよ。ではルキアン、生きて再び会おう。死ぬなよ」
 背を向けて歩き出していた彼女は、振り返って片目を閉じた。
「今日の調子で、何があっても諦めるな」

◇ ◇

  ――ザックスの兄貴、すまねぇな。後のことは頼む。
 突然の念信。相棒のパリスから届いた心の声は、達観したかのように妙に澄み切った調子を帯びていた。あまりに静かな思念の波が、かえってただならぬ事態を思わせる。
 ――パリス、どうした? 応答しろ!!
 なおもレーイと戦闘中のザックスは、最悪の結果を直感的に予想せざるを得なかった。信じたくないが、パリスからの次の知らせは、その予感が的中したことを告げていた。
 ――例の白銀のアルマ・ヴィオは危険だ。高速型への変形に気をつけろ。俺はここまでのようだが、差し違えてでも、こいつを……。
 言葉の背後にあるのは、失われゆく命。長年の戦友からザックスへの返事は、それが最後だった。

 相手の動きが微かに鈍くなったことを見逃さず、レーイが鋭く斬り込む。手練れのエクター同士の戦いにおいては、刹那の隙によってさえ戦いの行方が大きく変わってしまう。カヴァリアンの手に輝く光の剣が、一振りごとにいっそう近く、レプトリアの機体に肉薄する。
 ――ちっ、ひとまず退くしかないか!?
 崩れた体勢のまま、今の攻防の流れの中でレーイの剣を受け続けていては、じきに回避しきれなくなる。ザックスは瞬時にそう判断した。驚異的な跳躍力でレプトリアが背後に飛び退く。
 ――あれほどの戦士が……いま一瞬だが、たしかに動揺した。
 レーイは敢えて深追いせず、周囲に気を配っている。この距離を一太刀で詰めて、ザックスに攻撃を浴びせるのは不可能だ。後手に回った後、かえって敵に主導権を与えることになる。カヴァリアンは悠々と光の盾を構え、敵に対して十分に優位な位置関係を築こうとしている。激戦の中でも我を忘れず、滅多なことでは熱くならないレーイらしい動きだった。
 頼みの先鋒を封じられ、一騎当千の繰士を失うことになったナッソス軍は状況を不利とみたのか、ザックス以下、いったん退却を始める。

 ――レーイ、無事か。それにしても、さっきの急襲も敵ながら見事だったが、引き際も整然としたもんだな。
 聞き慣れた声で念信が入った。クレメント兄妹の一方、兄のカインからである。
 ――ナッソス家の本隊を城門付近に到達させないよう、何とか押しとどめたよ。お前があの黒いやつを引きつけておいてくれたのと、サモンやプレアーが空から上手く援護してくれたおかげで、この大物を抱えて降下できたからな。
 銃身の長い巨大な魔法銃を担いで、後方から味方のアルマ・ヴィオが近づいてくる。その特別製のMgSドラグーンは、強固な装甲に身を包んだ陸戦型の重アルマ・ヴィオでさえ一撃で仕留めるだろう。他にも両肩に多連装のMgS、背中には口径の大きい長射程MgSが2門――普段にも増して火力を強化した《ハンティング・レクサー》だ。

 ◇

 上空に浮かぶクレドールでも、歓声の渦が巻き起こっている。
「ルキアン君が! 勝った……。アルフェリオンが勝ったわ!!」
 念信装置の前に座っていたセシエルが、ルキアンからの報告を受けて思わず叫ぶ。これほど興奮気味の彼女の姿を目にするのは、仲間たちにとっても珍しいことだ。単なる勝利ではなく、見るからにか弱そうな新参者の少年が強敵を倒したという状況に、彼女も多少なりとも感激したのだろうか。
「あぁ、勝ってもらわないと困るとは思ってたけど、本当に勝っちまうなんて。すごいな。敵のアルマ・ヴィオは、あのレーイが苦戦していた相手と同じ機体だろ?」
 敵軍が城の方に撤退してゆく様子を《複眼鏡》で追いながら、ヴェンデイルが言った。
 士気の上がる艦橋で、クレヴィスだけは普段と同じく微笑している。
「ふふ……。カル、私が言った通りだったでしょう。別の主役たちがいて、脇役たちがいて、形の上では筋書きも決まっているような、そんな《舞台》に横から出てきた彼が――本来なら《端役》であるはずの目立たない一人の少年が――いつの間にか物語全体を違う方向に持っていってしまう。そういった不思議な力がルキアン君にはある。結局、今回も彼によって《因果の流れを変えるダイス》が振られたのですよ」
 クレヴィスの言葉にカルダイン艦長が黙って頷いた。相変わらず言葉は少ないが、普段よりも幾分、その表情は機嫌良さげに見える。

 ◇

 同じ頃、勝利に沸くギルドの面々には知るよしもないところで……。
 音も光もない暗闇に、不意に鬼火と共に何者かの声が浮かんだ。
「《御子》の中でも最も小さき光でしかなかった者が、まさかこれほど急激に目覚めつつあるとは。やはり恐るべきは、エインザールを継ぐ《闇の御子》よ」
 地底の割れ目から吹き上げる風の音、あるいは竜の寝息を思わせる不気味な空気音と共に、しわがれた声がする。
「この18年の間、《予め光を奪われし生》の中で生ける死人も同然であったあの者を、何がそうさせた? なるほど、それが人の《想いの力》だとでもいうのか」
 宙に揺れる青白い炎を浴びて、鈍く光るのは黄金色のマスク。それがひとつ、またひとつ、不可思議な空間の中に姿を現す。
「だが、この戦いで、闇のパラディーヴァは相当に消耗した様子。あの《封印》を越えて召喚に応えることを何度も続ければ、あやつでも無事では済むまい。おそらく次で消え去るだろう」
「いかに《御子》とはいえ、所詮、《人の子》のあがきなど……我ら《時の司(つかさ)》の前では、塵が風に舞う程度の現象にすぎぬ」
 あやかしの笑い――餓狼の遠吠え、けたたましく鳴くカラスの声、悟りきった老賢人の高笑い、そして幼子のごとき声、あるいは伝説の魔女を思わせる冷たい微笑――それらがすべて混じり合い、木枯らしや地鳴りのような音と共に、がらんどうの闇に響いては消えてゆく。こんな声を立てるものなど、この世には、あるいは、あの世にすら居ないかもしれない。

 ◇ ◇

「シェリル様……いや、もう作戦は終了しましたから、シェフィーア様とお呼びして構いませんね。お帰りなさい」
 抑揚の無い声と共に現れたのは、透き通った微笑をたたえる長身の女だった。金属質な輝きをもつ銀髪と、不自然なほどに鮮明な青色の瞳は、どこか人間離れした冷たい雰囲気を漂わせている。
「ただいま、レイシア。いつものを頼む。いや、いつもよりベルリの実を少し多い目に入れてくれ」
 シェフィーアは質素な木製の椅子に座り、くつろいだ様子で吐息を漏らした。彼女は肩に背負った銛のような手槍を降ろし、出迎えた忠実な部下・レイシアに渡す。
「傭兵ごっこには疲れたよ。それでも今回のように《用心棒》というかたちで潜入できれば、下手に口で素性をごまかさねばならぬ場合より、相手の信頼を得るのはずっと楽なんだがな。ギルドに包囲されて猫の手も借りたいミトーニアが相手なら、なおのこと簡単だ」
 二人の居る場所、周囲には、ちょっとした応接室ほどの部屋が広がっている。アルマ・ヴィオの乗用室(ただし《操縦席=ケーラ》ではない)にしては非常に広い部類に入る。いかに飛行型重アルマ・ヴィオであろうと、これだけの内部空間を――しかも戦闘には直接関係のない、ある意味で無駄に広い空間を――有している機体など通常は見かけない。彼女たちの乗っているアルマ・ヴィオが飛空艇並みに大きいせいもある。飛空艇と同様、1体か2体程度のアルマ・ヴィオなら内部に格納することさえできるようだった。

 しばらく奥に行っていたレイシアが、湯気の立つポットを運んで戻ってくる。香りからして、野草と果実をブレンドした飲み物のようだ。
「しかし、お戯れが過ぎましたね。計画外の行動は、オーデボー団長にまた怒られますよ」
 そのように諫めつつも、レイシアは笑っていた。笑っていたといっても、目と口元のほんのわずかな変化に過ぎない、小さなものだが。
「分かっている。お望みならば、座敷牢にでも何にでも入るよ。ふふ。だが、わざわざミトーニアまで来て、遺跡見物だけで帰っては面白くないだろう。それに伯父上は、私に勝手な《戦闘》は許可しないとおっしゃったのだ。今回、私自身は誰とも剣を交えていないが?」
 シェフィーアは、だだっ子のように強引な理屈を並べている。呆れた顔でポットをテーブルに置くレイシア。
「すまないな。名にし負う《霧中の剣レイシア》に小間使いなどさせて。だがお前は何にでも有能だから困る。茶をひとつ入れるにしても、陛下のお付きの者たちより上手い」
「《霧中の剣》は貴女の剣でございます。いつでも何にでもお好きに使ってください」
 単調な声でレイシアは答えた。一見、感情のこもっていない声で二人がやりとりしているふうに聞こえるが、彼女たちの間には、言葉を越えた不思議な信頼関係があるようだ。
 野草と果実の茶が十分に引き出されるのを待ちながら、シェフィーアは呑気につぶやく。
「結局、私の気まぐれな行動は、抗戦派のボスたちにとっては降ってわいた災難だったか。たぶん今頃、共に市庁舎前を守っていた2体のティグラーは、押し寄せる市民に道を明け渡してほっとしているかもしれない。《邪魔》なお目付役の私も居なくなったことだし、心おきなく、己の良心に従ってな」
 そこまで言うと、シェフィーアはレイシアに向かって苦笑した。
「何だ、その疑わしそうな目は? ふふふ。私は別に何もけしかけてはいない。もともと、あのティグラーの繰士たちはミトーニアの市民。群衆の中には彼らの家族もいたようだ。ほどなく、例の市長秘書と神官は市庁舎開放の英雄になって、胴上げでもされるかもしれない。救出された市長らがギルドと予定通りに和睦すれば、市街戦も避けられる。あのルキアン少年の夢みたいな願いが、今回は本当に実現する、か……」
「それだけ結果を予想しながら、あの場をわざと離れて決闘の見物にお出かけでしたか。シェフィーア様も意外に意地悪ですね。それに今回の任務はあくまで情報収集。ミトーニアを内部から攪乱することや、ましてオーリウムのエクター・ギルドの手助けをすることは含まれていません。偶然の成り行きでそうなったとでも、団長には申し開きをなさるのですか。いつもの悪いくせです」
 レイシアには弱いのか、釘を刺されたシェフィーアは、子供のように笑ってごまかしている。
「だったらレイシアは、私があのまま傭兵という役柄を演じ続け、抗戦派を守って少年のアルマ・ヴィオと戦えばよかったと? 冗談だろう。いずれにせよ、ミトーニアの開城が早まることはミルファーンにとっても大いに好都合。その手柄でもって、伯父上にも、私の独断に対する責任を帳消しにしてもらいたいものだ。つまるところ、アール副市長をはじめ、抗戦派の者たちが甘すぎたのがいけない。自業自得だよ。いかに腕の立つ手駒が少ないとはいえ、得体の知れぬ私をあのような防衛の要に配置するなど、愚かしいこと」
「貴女の腕前を見せられれば、雇い主なら誰でも頼みにしたくなります。いかに《鏡のシェフィーア》の通り名は伏せていようと、手を抜いてみせても、実力は歴然ですから。もっとも、市長を裏切った抗戦派としては、ミトーニアの市民兵を身近に置くのが内心では怖かったのかもしれませんね」
 ふと、シェフィーアの脳裏に、ルキアンの姿が鮮明に浮かび上がった。
「だからこそ、ナッソス家にすがったのだろう。そこに選りすぐりの先鋒を送ってきたナッソスの読みは賢明だったが、これまた運悪く、あのルキアンという災難が降ってわいた……というわけだ」
「そろそ飲み頃です。どうぞ」
 カップに茶が注がれる。レイシアの手は機械のように整った動きをしているが、逆に言えばロボットを連想させてしまう。振る舞いといい、容貌といい、一風変わった女性である。
「ありがとう。レイシア、お前も飲め。しかし本当に《偶然》とは怖いものだ。そうは思わないか?」
 ミルファーンの首都近辺で焼かれた貴重な白磁のカップを手に、シェフィーアは自問する。
 ――人間には抗し難いその力は、むしろ《必然》か? あの場に居合わせた私さえも、ひょっとすると《偶然という名の必然》の実現に無自覚に力を貸した、単なるコマであったのかもしれぬ。あの少年……ルキアン・ディ・シーマーには、何かそういう不思議な力を感じる。考え過ぎか? いずれにせよ、思わぬ種を蒔くことができた。

 二人を乗せたトビウオのようなアルマ・ヴィオは、精霊迷彩でその姿を隠し、遠くミルファーン王国をめざして羽ばたいてゆく。イリュシオーネの旧六王国のうち、オーリウムと最も関係の良い国、北方の王者ミルファーンに。

◇ ◇

 すでに夕刻に向けて傾き始めているとはいえ、午後の太陽は、まだ思ったより高い位置で輝いている。長い冬が終わり、本格的な春の訪れたオーリウムでは、最近、日毎に夕暮れの時刻が遅くなっている。
 クレドールの艦橋――窓際で中央平原を見下ろしながら、クレヴィスとバーンが何か雑談をしている。バーンは珍しくエクター・ケープを羽織っていた。緻密な刺繍入りの生地を幾重にも重ねたケープは、バーンのたくましくも無骨な後ろ姿には、残念ながらあまり似合っているとはいえない。
 彼の隣に立つクレヴィスは、床に付きそうなほど丈の長いチャコールグレーのクロークに身を包んでいた。黒っぽいマントを着けた彼の姿は、魔道士を絵に描いたようであった。これで眼鏡を外し、杖でも手にしていれば、あたかも伝説の物語の中から現れた魔法使いといったところだ。その衣装の上に、彼もエクター・ケープをまとっている。
「何だか肩がこりますね。魔道士の正装をするのは、その昔、魔道士の称号を授けられたとき以来かもしれません。エクター・ケープを着るのも何年ぶりでしょうか」
 クレヴィスは苦笑いしている。実際、彼がエクター・ケープを着ている姿など、付き合いの長い仲間たちでさえ、カルダイン艦長をのぞけばほとんど見たことがなかっただろう。
 エクター・ケープは、いわば繰士にとっての晴れ舞台の装束である。かつてイリュシオーネの騎士がまだ鋼の鎧と兜に身を固め、馬上で手柄を競っていた時代、出陣する騎士たちが武勲を祈願して誇らしげにまとった衣装に、エクター・ケープは由来するという。メイのように、出撃の際には毎回のようにエクター・ケープを身につける者もいる。しかし格式を重んじる機装騎士の間ではともかく、何か特別なことでもない限りケープを着けないエクターが近年では増えているらしい。
「あいつ遅いな。何を手間取ってんだ?」
 先ほどから、艦橋の入口の方をバーンが何度も振り返っている。
「まぁまぁ、まだ夕暮れまでに時間はあります。ただ、ミトーニア市との会談までに、一応、こちらの打ち合わせももう少し詰めておきたいところですが」
 クレヴィスは愛用の懐中時計の蓋を開けたり閉じたりしていた。手持ち無沙汰なときの彼のくせだ。
「もっとも……よりによってこんなときに、今回の話を持ち出したのは私です。後で日程が窮屈になっても、その原因は私自身にあるのですけどね」
 いつも通り眼鏡の奥に涼しげな微笑を浮かべているクレヴィス。彼に向かって、バーンが不思議そうな顔で尋ねた。
「でもよ、クレヴィー。この話をルキアンがよく受けたもんだな。俺は意外だよ」
「えぇ。私も無理を承知で持ちかけてみたのですが。多分、いまルキアン君の中で何かが変わり始めている、あるいは目覚め始めているのかもしれません」
「その、なんだ、心境の変化……ってやつか?」
「そんなところでしょうね。おや、来たようですよ」
 クレヴィスの視線の先で、艦橋の入り口が開いた。

 わざとらしい咳払いの後、まだまだあどけなさの残る少年が姿を見せた。ノエルである。クラヴァットをおそらく初めて巻いたのであろう、彼の首や襟元はとても窮屈そうに見える。このやんちゃな少年には、本格的な正装はいまひとつ不似合いだった。大人用の衣装を子供が着てみたという感じの、滑稽な様相だ。
 彼は両手に短剣を持ち、予めどこかで教わったような大仰な動作で刃をゆっくりと合わせ、打ち鳴らしている。剣の先は丸く、鍔や束には込み入った装飾が施されている。実戦用ではない儀式用の物だ。
「え〜、オーリウム・エクター・ギルドの誇り高き、白き翼の船……白き……あれ? 何だったっけ?」
 頭をかいて笑っている彼の背後、入口の奥から、メイが声を抑えて叱っている。
「あんたね、あれだけ教えたのに! 《大空の神アズアルから白き翼を賜りし伝説の魚――フォグ・フィクスの似姿にして、かの争いでの猛々しき戦船(いくさぶね)の名を受け継ぐもの、誇り高きクレドール》の諸君。だってば。いや、そうだった、かな。あはは」
「へいへい。大空の神……」
 メイから告げられた長たらしい言葉を、少年はオウムのように繰り返す。要するに、この船に与えられている格式張った舞台での称号のようなものらしい。艦橋のクルーたちは思わず爆笑し、ヤジや冷やかしが方々から飛び出した。
 そこで大きな咳払い。今度はノエルではなく、メイが彼に続いて艦橋に入ってきた。
「うるさ……いや、諸君、静粛に!」
 似合わない口ぶりで彼女が叫ぶ。それが余計に仲間の笑いを呼んでいる。艦橋の席の方からカルダインが一声かけ、ようやく周囲は静かになった。

 ――かの争いでの猛々しき戦船の名を受け継ぐもの。
 艦長は心の中で繰り返す。

 ◇ ◆

「だったら、カルダイン! あなたの船の名前は私が付けてあげます。クレドール、そう、《クレドール》というのはどうかしら? 《希望》を意味する、この国の古い言葉です」
 若い娘の声。元気に弾んだ口ぶりだが、そんな気さくさの中にさえ、優雅な空気が漂っている。
 記憶の向こうに、今も鮮明に刻まれている笑顔。
「勿体ないお言葉。このカルダイン、エレア様のお言葉、謹んでお受けいたします」
 青年カルダインは、レマールの海で日焼けした顔を伏せ、深々とお辞儀をした。
 ゼファイアの王女エレア・ルインリージュは、身体が弱く病気がちであるにもかかわらず、今日、ここでは快活さに溢れていた。決して大きくはないが、見事な調度品や天井画に彩られた広間。そよ風に栗色の長い髪を揺らし、王の座のある一段高いところから姫君が降りてくる。
 エレア王女は不意に真剣な面持ちになって告げる。
「カルダイン。この国は小さく弱い……。オーリウムとタロスという大国に囲まれ、それらの国から少し風が吹けば、消し飛んでしまいそうに見えます。そんなゼファイアを支え、広大なレマール海での貿易を担う国として発展させてきたのは、あなた方のような勇敢な冒険商人たちです。そう、あなたの新しい船は、私たちゼファイアの《希望》です。これからも頼みますよ。これは私からのささやかなお祝いです」
 彼女は再び、たおやかな笑みを浮かべる。その白い手には銀の腕輪があった。
 背後にいた部下の者たちとともに、カルダインは王女に――いや、正確には、国王の急死を受け、じきに女王として即位するであろう人に――ひれ伏した。
「このご恩は生涯忘れません。世間では海賊呼ばわりされる私たちのような者にさえ、いつもこのようなお心遣いを……」
 そう言い終わるが早いか、彼は機敏な動作で立ち上がり、鞘に入ったままの短剣を胸に当てた。ゼファイア海軍の敬礼か、そんなところであろう。
「この命、すべて姫様のために! ゼファイアに栄光あれ!!」

 ◆ ◇

 ――エレア様、私は貴女との約束を守れませんでした。タロスの飛空艦隊を追い詰め、勝利を目前にしながら、最後の最後で敗れてしまった。ゼファイアの《希望》を守り抜くことができなかった……。
 しばし目を閉じ、カルダイン艦長は、そんな感傷など微塵も起こさなかったかのように、いつも通りの厳めしい顔つきに戻った。

 そう、《クレドール》というのは、元々はカルダインがゼファイア時代に有していた飛空艦の名前なのだ。その旧クレドールは、貿易用の船ではあれ、空の海賊の出没するイリュシオーネでの広範な航行にも耐えうるよう、最初から多少なりとも武装を備えた船だった。そして革命戦争の勃発以降、何度も武装を重ねて軍艦同様の船となり、タロス新共和国の大艦隊を相手にレマール海一帯で神出鬼没のゲリラ戦を展開することになる。《ゼファイアの英雄》の指揮した飛空艦に他ならない。
 革命戦争の一応の終結の後、オーリウムのエクターギルドは、亡命したカルダインを組織に迎え入れようと躍起になった。その際、彼は次の2つの条件を主張して決して譲らなかったのである。《ひとつ、自分の乗るべきギルドの新造飛空艦にはクレドールという名を付けること。ふたつ、同艦の副長への就任を、魔道士クレヴィス・マックスビューラーが承諾すること》というものだ。
 双方の条件が満たされ、カルダインはギルドの飛空艦の長となった。

「準備は整ったな。時間のない折、略式ではあるが、これよりルキアン・ディ・シーマーを繰士と為すために式を執り行う」
 カルダイン艦長が重々しい声でそう告げると、艦橋の面々は、真ん中の通路の左右に整然と並び始めた。だが、若干心配そうな表情の者もいる。それを目ざとく見つけたカルダインは、上機嫌そうに言った。
「かまわんよ。もうナッソス軍には、高空にいる飛空艦を攻める手だてはほとんど残されていない。いま動くことは奴らにとっても好ましくないだろう。それに……昔は、戦いの最中に騎士が多数討ち死にして足りなくなり、見習いを慌てて戦場で騎士に任じたことも、希にあったと聞いている」
 艦長はクレヴィス副長を伴い、通路の奥に臨時に設けられた段の脇に立った。クレヴィスの合図により、ノエルが再び剣を打ち鳴らしつつ、両側に分かれた人の壁の間をおもむろに進んでくる。ちょうど先払いのような具合だ。
 それに続いて廊下から艦橋に姿を見せた者がいた。周囲からざわめきが起こり、嘆息が漏れる。
 しきたりに従い、神官が入ってきたのだ。勿論、シャリオ・ディ・メルクールである。王や諸侯の臣下が繰士になる場合には、自らの主君によって任ぜられるのが常である。しかしギルドの繰士の場合、そうもいかないので、手近な神殿の聖職者に叙任の役を委ねるのが慣例になっている。
 ただしシャリオは普通の神官ではなく、準首座大神官という極めて高位の聖職者である。彼女自身も最初は遠慮したのだが、周囲にせがまれ、大神官の正装でこの場に姿を現すことと相成った。
 その壮麗な姿は一同を驚かせ、水を打ったように艦橋が静まりかえった。シャリオは大神官の位を表す黄金作りの二重の宝冠をいただき、普段の白と青の法衣の上には、赤地にこれまた黄金色で刺繍の施された長衣をまとっている。裾を床の上で静かに滑らせながら、彼女は儀式用の聖杖をかざして前方の段に歩み寄ってゆく。先端が渦巻きのように大きく湾曲し、玉石の散りばめられた巨大な杖だ。小柄で細身のシャリオには、少し重荷に過ぎる感さえあった。だが、そこはさすがに手慣れた様子である。
 列に加わって見守るベルセアが、隣にいるサモンに耳打ちする。
「おいおい。俺のときは、田舎のしみったれた坊さんが出てきただけだったぞ。これじゃ戴冠式みたいじゃないか。すげぇな」
 侍女を思わせる出で立ちのレーナが、長剣を重そうに両手で抱えてシャリオの後に続く。どうやら、先ほどのノエルの場合といい、この儀式の補助は年若い少年少女が行う習わしのようだ。
 カルダイン艦長、クレヴィス副長となにやら簡単にささやき合った後、シャリオは段に立って厳かに告げた。儀式が始まるらしい。
 が……。艦内が微妙にざわめいた。
「ルティーニ、いま、彼女は何て言ったんだ?」
 ウォーダン砲術長が怪訝な顔で口髭をなでている。いまばかりは彼も砲台から艦橋に上がり、ミルファーン海軍の制服で正装していた。彼をはじめとして、かつて所属していた組織の衣装を今でも式典の際には利用するという者が、ギルドには多い。そのため室内は様々な格好の人物であふれている。奇妙な眺めだった。
 傍らにいたルティーニが小声で彼に教える。
「あれは古典語ですよ。大きな神殿の儀式では、普通はオーリウム語ではなく古典語を使いますからね。たぶん《それでは新たな繰士にならんと欲する者、進み出よ》と言ったはずです。でも全部は聞き取れませんでした」
 周囲の雰囲気の変化に気づき、シャリオは頬を少し染めた。
「あら、いやですわ。わたくしとしたことが」
 段の脇に立つクレヴィスが、そのまま続けて構わない、と彼女に頷いている。
「分かりました。では、皆さん。神殿の正式な作法に則り、儀式の進行は古典語で行いますが、大切な部分はオーリウム語でも繰り返します」
 シャリオはそう言い、深く息を吸い込んだ。古典語の荘重な響きの後、同じ意味のオーリウム語が繰り返された。
「神の御名において、汝を祝福し、繰士に任じます。ルキアン・ディ・シーマー、入りなさい……」

 ◇

 シャリオの言葉を受けて、艦橋にルキアンが入ってくる。正装した他のメンバーに比べ、彼の出で立ちは普段と変わらない。瑠璃色の生地に金の縁取りの入ったフロック。その胸元を飾るのは、朝の高原に漂う霧を思わせる、非常に淡い青の――よほど注意深く観察しない限り白にしか見えない――いつもと同じ色のクラヴァットである。もっとも、普段着としてはいささか堅苦しいその服装自体は、このような場にも相応しいものであろう。
 艦橋入口から両側に並ぶクルーたちの間を通って、ルキアンは、臨時に設置された正面の祭壇へと進んでゆく。ブリッジの一番手前で待っていたバーンが、ルキアンの肩を揺すりながら言った。
「よぉ、ルキアン! これでお前も正真正銘のエクターだな。これからもよろしく頼むぜ!!」
 ただ、口ではそう言いつつも、ルキアンが繰士になる決意をしたことに対し、彼自身は少なからぬ違和感を覚えていた。
 ――でもいいのか、本当に? たとえ王国のためでも正義のためでも、不本意ではあろうとも、エクターってのは、戦ってりゃ結局は人を何度も殺すことになるんだぜ……。それを誰よりも嫌っていたのは、お前自身だったろ。
 バーンは心の中でルキアンに語りかける。勿論、それはルキアンには聞こえない、胸の内での独り言だったが。
 ルキアンの頼りなさげな表情や、居並ぶ面々に向けられる彼の穏やかな笑顔、華奢な肩や腕などは、以前と何も変わらない。遠慮がちな足取りも同じ。だが、いつもうつむいてばかりであった彼の顔は前を見ていた。これまでのルキアンとはどことなく雰囲気が違うことに、その場の何人かは気づいている。
 ベルセアは、敢えて無言のまま、にこやかにルキアンに手を振っている。ベルセアの隣に居たサモンの前を、ルキアンが通り過ぎてゆく。一瞬、サモンの瞳の奥に強い意志の光が浮かんだ。
 ――なるほど。以前より目に迷いが無くなったな。何かをつかみ始めたか。
 緩慢な口調と飄々とした風貌からは想像できないほどに、鍛え抜かれた精神をもつ剣士、サモン・シドー。今は無きナパーニアにかつて存在したという《兵(つわもの)》の魂を現世界に受け継ぐかのような、恐るべき剣の達人だ。その黒い瞳は、ルキアンの戦士としての微かな目覚めをも見逃さなかった。
 だがルキアンの変化を最も明確に意識しているのは、正面の壇上にいるシャリオと、その傍らに立つクレヴィスに他ならない。二人とも淡々と式の進行を司っているにせよ。
 ゆっくりした足取りで、シャリオの前までやってきたルキアン。彼は片膝を突き、神官のシャリオに向かって恭しくひざまずいた。彼女は問う。
「まずは尋ねる。ディ・シーマーよ、汝の守護者たる神は?」
 イリュシオーネは多神教の土地柄である。その中でも、本人の身分、職業、居住地、あるいは人生観等の違いによって、いかなる神を信仰の中心とするかは人それぞれだ。ただし、いかに見習いであるにしても、魔道士の卵であるルキアンが守護者とあがめるべき神は限られてくる。なおかつルキアン自身が、幼い頃から《翼》のイメージに自分の夢や救いを重ねていたことから、彼の守護者たる神は明らかだ――月と魔法の神、翼を持つもの、闇の中の光、すなわち女神セラス以外にはあり得ない。
 ルキアンは信仰する神の名をシャリオに告げた。勿論、すでに例のパラミシオンの《塔》での一件以来、彼女はそのことを熟知している。あくまで儀式なのだ、これは。
 今まで大儀そうに抱えていた長剣を、レーナがシャリオに手渡す。意外にも手慣れた様子でシャリオは剣を鞘から抜き放ち、自らの胸元に引きつける。彼女の細腕では、こうして長剣を支えていることは、本当はかなり大変なことかもしれない。しかしシャリオは平然とした表情で、そして厳かな古典語とオーリウム語でルキアンに告げた。
「新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、汝の崇敬する、月と魔法の女神セラスに誓いを立てよ」
 ひざまずいたままのルキアンは、黙って頷く。
「小さき者たちの盾となり、あるいは優しき者たちを護る剣となり、その力を正しい道のために用いんことを」
 シャリオが言ったその表現は、エクターの叙任式にしばしば登場する文言に彼女が多少アレンジを加えた程度のものにすぎない。と、続けてシャリオは、ささやくように言葉を付け足した。彼女はルキアンに視線を合わせ、本当に小さな笑みを目に浮かべた。
「誓ってください。《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》のために……」
 静かに息を吸い込んだルキアンは、普段より大きな声で答える。
「はい。私は、貴族の誇りと、この一命をかけて、セラス女神に誓います」
 その言葉に頷いたシャリオは、手にした剣の峰の部分をルキアンの肩に当て、そのまま、祝福の祈祷を手短に行った。全員の拍手が巻き起こる。歓声と拍手の渦の中、シャリオは壇から降り、真新しいエクター・ケープを携えたカルダイン艦長と役目を交代した。
 カルダインは普段とあまり変わらない口ぶりで、ルキアンに尋ねる。
「これで君はエクターになった。勿論、エクター・ギルドに加わるかどうかは、これからゆっくり時間をかけて決めればよい。ただ今回のような場合、たとえ居候であろうとも君が共に旅をしている飛空艦クレドールの長として、私がエクター・ケープを君に掛けるというしきたりになっている。構わないか?」
「はい。ありがとうございます。艦長」
 しかしカルダインの次の言葉は、ルキアンには初耳だった。おそらく事前にルキアンに儀式の進行について説明したメイあたりが、教えておくのを忘れていたのだろう。
「繰士としての、この場での君の《称号》を自ら定めたまえ。一応、儀式の際に必要なのだ。勿論、ここでの称号なんてものは形ばかりで、本当に優れた繰士には、放っておいても後から勝手に世間が《通り名》を付けてくれるものだがな。たとえば《緑翠の孤剣カリオス》だとか。あるいは昔、《地獄の猟犬》などと物騒な名で呼ばれていた奴もいたっけな……」
 彼の傍らで、クレヴィスが苦笑いしている。
「カル……。こんなときに、それは趣味の悪い冗談ですよ」
 ルキアンは慌てて考え込む。今までとひと味違う雰囲気だったルキアンが、いつもの頼りない彼に戻ってしまったような気がする。
「そんな、急に言われても、適当な名前が浮かびません……困ったな」
 彼の横からシャリオがそっと助言した。
「どうしても思いつかなければ、代わりに艦長に考えてもらうというのも、儀式の流れとしては構いませんのよ」
 だが、急にシャリオの目が真剣さを帯びる。
「難しく考えなくとも、ルキアン君、あなたが掴んだ何かを、そのまま言葉にすればよいのです。それは何ですか? 私も知りたいですわ」
 そう告げたシャリオの顔が、ルキアンにはなぜか不意にあの女性のイメージと重なって見えた。ミルファーンの機装騎士、シェフィーア・デン・フレデリキアだ。
 シェフィーアの言葉がルキアンの胸の奥で繰り返される。

 ――《拓きたい未来》を夢見ているのなら、ここで《想いの力》を私に見せてみよ、いまだ咲かぬ銀のいばら!!

 ――今度会うときには、もっと強くなっているように。期待している、《オーリウムの銀のいばら》、ルキアン・ディ・シーマー。

 ルキアンは、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……。ちょっと偉そうな名前で、僕には似合わないんじゃないかと、恥ずかしいんですけど。みなさんも笑わないでくださいね」
 彼は艦長とクレヴィス、シャリオの表情を順番に見つめ、その後、艦橋に居並ぶ仲間たちを見回した。
「構わんさ。新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、告げてみよ」
「はい、艦長。では……。僕は、そのぅ……。銀の……。銀のいばら。オーリウムの《銀のいばら》と、この場では名乗ります」
 ルキアンは恐る恐るそう告げた。その途端、艦橋全体に再び大きな拍手がわき起こる。
 カルダインはルキアンの肩にエクター・ケープを掛けてやった。
「よし。オーリウムの銀のいばら、ルキアン・ディ・シーマー。汝の誓いを受け、繰士の証を与える」
 艦長がそう言い終わるか、まだ言い終わらないかのうちに、儀式的な雰囲気は一挙に崩れた。ブリッジにあふれかえるほど集まっていたクレドールの乗組員たちが、我先にルキアンめがけて押し寄せ、思い思いに祝い始めたのだ。飛び付いたり、抱きしめたりするのはもちろんのこと、中にはルキアンに頭から酒をかけたり、自分まで頭から酒をかぶって踊り出す者もいる。この場ばかりは何でもありだと、カルダインもクレヴィスも敢えて止めずに見守っていた。

 だが、そんなお祭り騒ぎに、艦橋の外から凍り付いた眼差しを向ける者がいた。
「水さえやらなければ、暗闇の奥で眠っていた種が芽吹くことはなかったのに。もう遅い。銀のいばらは目覚めてしまった。くすくす……。これからどうなるのかしら」
 薄暗い廊下に純白の衣装が怪しく浮かぶ。その色が本来は崇高さや清純さを表す色であることを疑わせるかのごとく、不気味な闇の光を放つ白……。同じく影の中で爛々と輝いているように見えたのは、美しくも呪わしき少女の瞳。
「銀のいばらは、血にまみれた蔦(つた)で終焉の門を飾り、すべての終わりのときを真っ赤に彩るだろう」
 エルヴィン・メルファウスは目を大きく見開き、何かに乗り移られてでもいるかのように、あるいは預言者のように語り始めた。

  暗き淵に、すなわちその蒼き深みに宿りし光が
  憎しみの炎となりて、真紅の翼はばたくとき、
  終末を告げる三つの門は開かれん。

 そう。シャリオとクレヴィスのいう《沈黙の詩》のあの一節だった。

戻る | 目次 | 次へ