HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第37話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

 所詮、神の視点を持たぬ我々は、悲しき道化にすぎない。
 物語においても、現実においても。
 運命のいたずらの、からくりを見抜くことさえできないのだ。
 (前新陽暦時代。爛熟期のレマリアを憂う、ある作家の言葉より)


「嘘でしょ……。何言ってるの? 嘘よ、そんなの。何かの間違いよ」
 カセリナは呆然と繰り返す。広間の入口に立ちすくんだまま、彼女はしばらく中に入ることさえ忘れていた。
「ねぇ、どうして誰も……。違うと言ってよ。これは間違いよね?」
 彼女の靴音だけが、冷たく堅い響きで空気をふるわせる。城の控えの間に集まったナッソス家のエクターたち。居並ぶ戦士は、みな沈黙を守っている。
 色合いの異なる板が巧みに組み合わされ、幾何学的な模様を描く床の上を、カセリナは不安定な足取りでさまよった。そして一人のエクターの前に歩み寄ると、不自然な笑みを浮かべ、一転して明るい口ぶりで告げる。
「ねぇ、ザックス。パリスは強いものね! 必ず帰ってくるわよ。そうでしょ?」
 あまりにも無理に作られた朗らかな口調は、場の雰囲気をいっそう悲痛にしただけであった。
「カセリナ様……」
 眉間にしわを寄せ、ザックスは首を微かに左右に振る。その小さな反応以外には、彼は身じろぎもせず、慰めの言葉も敢えて発しなかった。
 大柄なザックスを見上げるように、カセリナが痛々しい視線を走らせる。無言で見つめ合う二人。ザックスの思慮深い目が伝えようとしていた――戦場では事実と冷徹に向き合わねばならないのだと。現実から逃げることは何の助けにもならないばかりか、心に隙や弱さを生み、新たな犠牲の連鎖にもつながりかねないのだと。
「何とか、何とか言いなさいよ! ザックス……」
 カセリナは一度は声を荒らげたが、途中で消えゆくように言葉を飲み込んだ。
 パリスの死を信じたくないのは、ザックスにとっても同じことである。いや、若い頃から共に戦ってきた相棒を失ったのだ、彼の悲しみはカセリナ以上かもしれない。だが幾多の戦場を生き抜いてきた老練なエクターは、ここで気休めを言うほど感傷的ではなかった。弟分の死を深く悼む自分が一方にいながら、それを第三者の目で常に冷静に見つめるもう一人の自分が、無意識のうちに彼の中には存在する。
 心を乱しながらも、そんなザックスの思いを理解したカセリナは、拳をザックスの胸にそっと押しつけ、うつむいて涙をこらえている。
「分かってるわよ。これは戦争なのだと。分かってるけど……」
 そのとき、静寂を破って、一人の若いエクターが口を開いた。
「お嬢様。俺も、とても悲しい。だけど俺たちには、もっと、やらなきゃいけないことがあるんじゃないか? それは、何て言ったらいいのか、パリスが……」
 声の主はそこで少し考え込む。ナッソス家の四人衆の一人、ムートだ。室内にいる繰士の中でも、彼だけが独特のいでたちである。赤い布を巻き付けたような衣装で上半身を包み、むき出しの肩や、いくつもの輪で飾った腕の上に、深い藍色のマントをまとう。そして三日月のように反った分厚い曲刀を携えている。
「そう、パリスがいま俺たちに一番望むことがあるとすれば、それは何なのか。そのことを今は考えて、次の行動をすべきじゃないか?」
 炎のごとく赤い髪に象徴されるように、ムートは本質的には荒々しい気性の持ち主だ。しかし、それでいて彼には冷静さも同居している。火と氷を同時に内に秘めたようなその心は、生まれついての戦士である彼の出自ゆえか――ムートは、東部丘陵の辺境に住む少数民族の出身である。軍神に最も愛されし者共。すでに前新陽暦時代から戦いを生業とし、今日も傭兵やエクターとして各地に散らばっている。時には賞賛を伴い、時には軽蔑や恐れを伴い、世間は彼らを《古き戦の民》あるいは《戦闘部族》と呼ぶ。
 カセリナは、ぼんやりした表情でムートの言葉を繰り返した。
「パリスが、私たちに、いま一番してほしいこと?」
「あぁ。そうさ。もしお嬢様がパリスの立場だったら、どう考えるか。そんなところだ」
 ひとすじの光。窓の向こうで傾き始めた陽を、ムートの耳で揺れる銀色の輪の飾りが反射する。
「ムートの言う通りです。カセリナ様。それが我々にできる、パリスへの最良の弔いでもありましょう」
 四人衆のリーダー、レムロス・ディ・ハーデンが、褒めるようにムートの肩をぽんと叩いた。丁寧に整えられた口髭と、櫛のよく通った黒髪。戦いに赴けば勇猛なエクターながらも、伝統ある騎士の家系出身のせいか、普段の彼は洗練された中年紳士という風情である。
「決して怒りや悲しみに駆られて戦ってはなりません。口で言うのはたやすいが、実際には困難なこと。だが、このようなときだからこそ冷静になるよう、常に肝に銘じておかねば……命を落としますぞ」
 レムロスからそう告げられ、カセリナは当然のように頷く。彼女は冷静さを取り戻したかのように見えた。しかしその様子とは裏腹に、カセリナの心の奥では、夜叉のごとく怒りが渦巻いている。

 ――許さない。仇は私が必ず取る。

 瞬間、彼女の瞳に狂気にも似た光が走った。

 ――翼を持った白銀のアルマ・ヴィオ、この私が討ち取ってやる! パリスの命を奪ったエクターよ、その死をもって償いなさい!! 

 ◇ ◇

 これまで多くの傷病者を癒してきたクレドールの医務室。戦うために生まれた飛空艦の中で、この場所だけが独特の安らかな空気に包まれている。
 医務室の入口となる、簡素ながらも落ち着きのある木造の扉は、来る者すべてに暖かい手をさしのべるかのような雰囲気を漂わせていた。扉の上の方には、医療の場として不謹慎にならぬ程度に、ささやかな飾りが付けられている。緑の細かい葉を茂らせた枝――それは北オーリウム海沿いの荒野に茂る灌木を思わせた――で出来た小さな輪に、野バラの実のような赤く堅い木の実が点々と飾り付けられ、仕上げにリボンが結ばれている。
 たぶんシャリオには、そのような趣味はない。その飾りを作ったのは看護助手のフィスカであろう。

「むぅ〜。シャリオ先生遅いですぅ……」
 頭から抜けるような、いつもの甲高い声ではなく、珍しく小声でフィスカはつぶやいた。向こうで眠っている者たちを起こさぬよう、気をつかったのだろう。彼女は椅子から立ち上がり、忍び足で背後の部屋を覗いた。
 二人の患者。昨晩、ルキアンによって運び込まれたあの姉弟がいる。一方は弟のトビー。シャリオの神聖魔法によって一命は取り留めたものの、いまだ昏睡状態にあり、延々と眠り続けている。本来なら多量の失血や、そのショックで死亡していてもおかしくない状況だった。だが今の彼の寝顔自体は、皮肉なほどに穏やかに見えた。
 もうひとつのベッドで眠っているのは、いや、ようやく先ほど眠りについたのは、姉のシャノンである。ならず者たちに暴行された彼女が、落ち着いた精神状態に戻る気配はない。シャリオとフィスカに看護されながら、シャノンは一晩中震え、時には泣き叫び、今日の昼過ぎになって疲れ果てて倒れるように眠った。
 寝息を立てるシャノンの傍らで、心配そうに見守るフィスカ。彼女もシャリオも徹夜明けである。姉弟が寝入って少し安心したせいか、フィスカは急に睡魔に襲われ、繰り返しやってくる眠気を何とかこらえている。
 と、医務室の扉が静かにノックされた。
 ドアの向こう――そっと小突くようなノックの音からは想像できないほど、緊迫した表情でシャリオが立っている。
「フィスカ、二人の様子に変わりはありませんか?」
 倒れるように医務室の中に入ってきたシャリオは、儀式用の立派な聖杖を文字通りの「杖」代わりにして、身体を支えている。慌ててフィスカが駆け寄った。シャリオを正面から抱き留め、しばらく無言でいたフィスカが、やがて微笑む。
「先生、医者と神官の二役って、やっぱり無理しすぎですよぉ……。あ、心配ないです。シャノンさんもトビー君も、よく眠ってますぅ」
「そうですか。ありがとう、私はもう大丈夫」
 シャリオは重々しい大神官の正装を脱ぎ、宝冠も机の上に無造作に置いて、いつもの白と青の法衣の姿になった。
「久しぶりにこんなものを着ると、余計に疲れます。でもルキアン君の大事な晴れ舞台のためでしたから」
「私もルキアンさんの儀式、見たかったかもぉ……」
 わざと頬を膨らましているフィスカ。
「ごめんなさい。フィスカに全部任せてしまって。本当は、私もこの場を離れるべきではなかったのですが。埋め合わせは、そのうち必ずしますわ」
 そう言ってフィスカの背中に手を当てた後、シャリオの表情が曇る。
「でも本当に大変なのはこれからです。シャノンさんが少し落ち着いて、状況を理解したとき、ルキアン君のことをどう思うでしょうか」
 悲痛な面持ちで頷くフィスカに、シャリオは敢えて単刀直入に言った。
「シャノンさんにしてみれば、私たちギルドの人間は、自分たちの穏やかな暮らしを破壊する敵です。ルキアン君が実は敵だったということになれば……。考えてもみてください、フィスカ。万が一ということはありえます。今日、ルキアン君が戦った相手は、シャノンさんのお父様だったかもしれないのですよ? あるいは明日にでも明後日にでも、戦うことになるかもしれません。こんなひどいことって……」
「そんなぁ……」
 目に涙を浮かべながらも、必ずしも深刻そうには見えないフィスカの顔。シャリオはうつむいたまま、フィスカの頬に手をやった。シャリオの表情は、長い黒髪に隠れて見えない。そして、いつもより低めの声で、感情をかみ殺すようにシャリオは言う。
「お互いに命を奪ったり、奪われたりするかもしれないんですよ? ルキアン君と、シャノンさんのお父様が……。あるいはカセリナ姫とだって、もし戦場で会ったら、ルキアン君は戦わないわけにはいかないでしょう?」
 シャリオの指先が震えている。
「それなのに、先ほど、ルキアン君本人は不思議なほどに冷静でした。私はむしろ心配です。彼の、あの、次第に迷いから解き放たれてゆく瞳が……」
 フィスカはシャリオを黙って見つめている。いつもの気丈さが揺らぎ、シャリオは急にフィスカの胸に顔を埋めた。そしてつぶやく。
「これは、わたくしの責任なのです……。ルキアン君をネレイの本部で戦いに引き込んだのは、結局、わたくしなのですから」
「シャリオ先生……。そんなに自分を責めるのは良くないです。きっと疲れてるんですよぉ」
 フィスカの呑気な声が、妙に救いのあるものに聞こえた。おそらく自分の倍近く年上であろうシャリオの頭を、フィスカは子供をあやすように撫でている。その無邪気な助手に抱かれたまま、シャリオは独り言のように繰り返していた。
「わたくし、強くならなくては……。気持ちを強く持たなくては」

 ◇ ◇

 薄暗い階段を抜けると、目の前に空が広がった。淡い朱色を浮かべ始めながらも、まだ青の色が濃い、午後遅くの空だ。夕暮れまでにはもう少し時間がある。
 蒼穹の屋根、その下に広がる雲海。起伏に富む複雑な雪原を思わせる雲の絨毯に、手を伸ばせばあとわずかで届きそうに感じられる。だが実際に手を差し出しても、もちろん雲に触れられるはずもなく、透明な硝子の壁が指先に触れるだけだった。
 細い指をガラスに這わせ、ルキアンは思った。
 ――アルフェリオンに乗っていたときには、落ち着いて眺める気持ちの余裕が無かったけど……こうしてみると、きれいで、不思議な景色だな。
 ガラス張りの狭い回廊に囲まれた、クレドールの最上層。この場所にルキアンは初めて上がってみた。普段、特に昼時であれば、ここで乗組員たちが気分転換に空を眺めたり、雑談に興じていたりする。だが、臨戦状態である今は、人の姿もまばらである。おそらく交代の休憩時間を取っているのであろう、数名のクルーが点々と立っているだけだった。
 ルキアンは回廊の奥の方に歩いてゆく。途中、まだ名前を知らない乗組員の一人とすれ違ったとき、彼はルキアンに簡単な祝いの言葉をくれた。そう、ルキアンが先ほどエクターになったことに対する祝福だ。
 表面上はにこやかに礼を言ったルキアン。しかし彼は違和感を覚えていた。
 ――おめでとう、って……。これ、そんなにおめでたいことなのかな? 僕にも覚悟はある。だけど、もしアルフェリオンに乗る必要がなかったなら、繰士になろうとは思わなかったのに。
 ガラスの前にある手すりに寄りかかり、ルキアンは溜息をつく。

 と、向こうの方から、ちゃかすような声で誰かが言った。
「浮かない顔だねぇ、ルキアン君。繰士の称号を受けたヤツってのは、普通、もっと晴れ晴れしい顔をしているもんだよ」
 聞き覚えのある声に、ルキアンは思わず答える。
「伯爵……じゃなかった、ランディさん!」
「あぁ、その顔さ。まだ、そういう顔つきの方がいい。ちっとは明るくなったねぇ」
 琥珀色の蒸留酒で満たされているであろう、銀のピューターを手に、ランディが笑っている。彼は乾杯をするようなそぶりをして見せた。
「君も飲めよ。俺からのささやかなお祝いだ」
「あ、あの、そんなに強いお酒……。僕は……」
 ルキアンは遠慮するが、何となく断りにくかったので、ランディの手からピューターを渋々受け取った。勿論、この世界では、麦酒程度なら、大人だけではなくルキアンのような少年も普通に口にしている。ただ、ランディの愛飲するような火酒は、さすがに大人の飲み物だと相場が決まっているのだ。
「では、いただきます……。うわっ!」
 喉を刺す強烈なアルコール。強い酒を不用意に流し込んだため、ルキアンはむせてしまった。苦しげに何度も咳が続く。
 最初から予想されていたかのような、いわば「お約束」的なルキアンの振る舞いに、無頼の伯爵は大げさに声を立てて笑っている。
「おいおい、そんな、水みたいに飲むから……。少しずつ、舌で転がして味わうつもりでやってみなよ」
「す、すいません」
 むせびながらも、照れ笑いをしているルキアン。その表情をみてランディが頷いた。
「それでいい。で、クレヴィスに勧められたんだって? 今後、なし崩し的にアルマ・ヴィオに乗り続けるのもなんだから、ともかくエクターになっておかないかと」
「はい。そんなところです。エクターになるだけなら、それは必ずしも戦士になることを意味するとは限らないですし。運び屋や発掘屋を専門にするエクターも、ギルドに沢山いると、そんな感じで……。でも僕にも、戦う覚悟はあります。その覚悟を確認するために、エクターになることを受け入れたんです」
「なるほどねぇ。コルダーユからここまでの君の功績を考えると、エクターとしても立派に通用するさ。そりゃ、クレヴィスでなくとも、君に繰士になるよう勧めるだろう。で、どうしたよ? 暗い顔して、こんなとこまで来て、何か悩みでもあるの?」
 深刻そうに心配されるよりも、ランディのあっけらかんとした軽薄な口ぶりの方が、今のルキアンの耳には心地よかった。うなだれたのか、それとも頷いたのか、いずれとも解せるような動きで頭を垂れると、少年は曖昧につぶやき始めた。
「あ、その……何だか、じっとしていると、いろんな変なこと考えてしまって。だから散歩に来たんです。ちょうどクレドールの中でも、まだここには来たことなかったですし」
「そうかい。俺もここは好きな場所だ。昼間っから酒を飲んでいても、ここなら迷惑がられない。それに、この景色。いいもんだよ」
「えぇ。僕も驚きました」
 どこか遠い目で空を眺めるランディ。ルキアンも同じように外に視線を向ける。しばらく二人は言葉を発せず、徐々に暮れかかってゆく春の空を見つめていた。
 やがてルキアンが、ぽつりと言った。
「静か、ですね」
「あぁ」
「その……。世界も、いつもこんなに穏やかだったらなって。僕は」
「そうかい? 俺は、もうちょっと刺激があっていいと思うがねぇ」
「そ、そうですか」
 他愛もない会話が途切れ途切れに続く。
 不意に、自分が繰士になると決めた理由を、ルキアンが独り言のように語り始めた。
「このイリュシオーネが、今日の空みたいに穏やかな、《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》になってほしいと僕は願っています。僕が繰士になったのも、その願いのためです。自分自身、何かできないかと、僕なりに悩んで考えたんです」
 黙って聞いているランディ。少年のか細い声がさらに続いた。
「《完全に正しい選択肢》や、何の《犠牲》も伴わない理想や未来なんて存在しないと……分かってるんです。それでも、出来る限り悪くない、今の自分に考えられる範囲での最善の《答え》を選び取ってゆくことが、この世に生きる者の背負った《責任》なんだって、頭では分かってるんです。だけど……」
 ルキアンの声が重くなり、口調にも若干のわななきが混じった。
「覚悟したはずなのに。でも、自分の選択の結果として生まれる《犠牲》の重さに、僕は耐えられるのかなって……そう考えだしたら、また不安になってきたんです。自分の守るべきものや大切な人たちのために戦えば、相手の命を奪ってしまうことも出てくる。しかも、その相手だって、僕と同じように守るべき何かのために戦っているし、本当は戦いたくないのかもしれない。独りでじっとしてると、そういう不安ばかりが頭に浮かんで、決心が揺らいでしまいそうなんです。だから、こうして気持ちをまぎらわせて……。それは《逃げてる》ことになるのかもしれませんけど、でも、僕は……」

 言葉をつまらせ、うつむく少年に、ランディは淡々と尋ねた。
「そういえば、君は人間だよねぇ、ルキアン君?」
「えっ? それは、はい……」
 不意に投げかけられた奇妙な問いに、ルキアンは慌てて口ごもるだけだった。酒を一杯あおった後、ランディは肩をすくませ、今度はおどけた雰囲気で言う。
「真面目すぎるヤツはこれだから困る。お前さんも、そう、クレヴィスもだ。他人の《犠牲》を償う? 一人の人間の命や人生……そんな途方もないものを償えるとしたら、君は一体何なんだ。神なのか?」
 返答できないルキアンに、ランディは話を続けた。
「まぁ、人間ってのは、つくづく矛盾に満ちてる。《人の命は世界よりも重い》と語ったのと同じ口から、今度は、その《世界よりも重い》はずのものに対する償いを、ちっぽけな人間である自分ひとりで果たすことができるかのように、言い出すんだからねぇ」
「そ、それは……」
「ましてや、何人、何十、何百もの人の犠牲を、たった一人が、あるいは何人かかっても、背負えたり償えたりするわけなんてないんだよ……我々、人間ごときに。だから《神》とかそういったものが、必要なんだろうさ」
 ランディは、何か言いたそうなルキアンに、再びピューターを差し出した。
「勿論、背負えないものを背負おうとし、償えないものを償おうとし続けるのなら、それは好きにしたらいいと思うよ。個人の気持ちの問題、ま、お堅く言えば、良心の問題だからね。ただ、それを一度始めたら《終わり》なんてない。《永遠に解き放たれることのない贖罪の鎖》で自らを縛ることになる。まぁ、もう一杯飲みなよ」
 今度は慎重に銀の入れ物を傾け、ルキアンは火酒を徐々に口に含む。
 ランディは雲海の彼方に目をやり、声を落としてつぶやいた。
「どれほど頭をひねってみても、理想を成し遂げるためには、その理想が大きければ大きいほど、他人の犠牲はつきもの。避けられない。だったら、せめて償いたい。が、それは不可能を棚に上げた偽善や自己満足じゃないのか? なぁんて、そういうことを考え出すと、怖くて一歩も前に出られなくなっちまう」
 そう言った後、伯爵は寂しげに尋ねる。
「ルキアン君と初めて会ったとき、俺は『新たな共和国について』の続編を書かないと言ったろ? 今ならあの理由、分かるかもねぇ……」
 そう告げたきり、ランディは窓外の風景を見つめたまま、何も言わなくなってしまった。
 姿勢を正したルキアンは、黙礼してゆっくり歩き去ってゆく。

 下の階層へと戻る途中、階段の踊り場でルキアンは立ち止まる。そして、ふとポケットに手を入れた。
 柔らかな手触り。取り出されたのは、薄汚れてしまった子豚の小さなぬいぐるみ。あるいは布製の玩具。粗い縫い目は、お世辞にも上手だとはいえないが、素朴な手作りの味わいを醸し出している。
 ――僕は、どこから来たんだろう。そして、どこに向かっているんだろう?
 子豚のぬいぐるみを掌の上に乗せ、ルキアンはぼんやりと考えた。
 未来も分からないが、それと同様に、彼がどこから来た何者かも実は分からない。本人にさえ。両親も実の親ではなかった。そんなルキアンが、物心ついたときから手にしていた唯一のもの――それが、この子豚のぬいぐるみであった。

 ◇ ◇

 ルキアンの手にある古ぼけたぬいぐるみが、水晶玉にぼんやりと映っていた。薄暗い部屋の中、ランプのおぼろげな明かりが水晶の冷たい肌を照らす。
 さきほど眠りにつこうとしていた一人の女が、不意に何かを思い出したかのようにベッドから起き上がり、この場にやってきていた。クリスタルの輝きを夢うつつの目で見つめているのは、《地》のパラディーヴァ・マスター、《紅の魔女》アマリアである。
 就寝用の薄い衣の上にケープを羽織り、彼女は、机の上の大きな革張りの本――いや、ノートに掛けられた鍵を外した。
 天の啓示か、あるいは魔のささやきか。水晶玉の力を借りて、彼女は心に浮かんだ予言を分厚い冊子に書き付ける。
 羽根ペンがなめらかに文字を綴った。優雅だが、力のある筆跡だ。

  引き裂かれし二人。
  その本来の思いが、両者の邂逅によって取り戻されるとき、
  だが新たな悲劇が、たちまち二人をまた引き裂くだろう。
  再びの別れは永劫の別れとなる。
  そのとき青き淵に輝く光は潰え、憎しみの翼は羽ばたく。
  闇は解き放たれ、三つの凶星は滅びの天使を呼ぶ。

 ――やれやれ、夢の中でも未来が見えれば、さっそく書き残しておくとはの。おぬしの先読みの力も、因果なものじゃて。わが親愛なる主(マスター)は、落ち着いて眠れもせぬわ。
 暗闇の中から老人の声が聞こえた。彼自身は眠りを必要としない、人ならぬパラディーヴァだが。
 フォリオムの冗談を聞き流し、アマリアは真剣な表情で言った。
「あの少年から目を離してはならない。彼に関しては、良いことも悪いことも、我々の想像を超える早さで推移している。近いうちに、私も出向かねばなるまいな」
「分かっておるよ。リューヌもあのような状態じゃ。このままでは、ちと荒療治が必要かもしれん。お主には迷惑を掛けるが……」
 ただ、神秘的で端正な女性であるアマリアも、さすがに眠りの出鼻をくじかれては、気分がよいものではない。彼女にしては珍しく、少し不機嫌そうな――裸の感情のこもった顔つきで――つぶやいている。
「構わない。《闇の御子》は、我らエインザールの使徒の長(おさ)。彼を守護するパラディーヴァ、リューヌとやらは救わねばな。だが《封印》をいま解いてしまっては、すべては終わる。少し変則的な次善策を用いねばなるまい。それにしても、いい歳をした女の寝入りを邪魔するとは、あの少年もいささか無粋だな。いや、彼のせいではないか。彼の未来を勝手に幻視したのは、この私か……」

 ◇ ◇

 正午を過ぎた後、午後2時、3時――時計の針が毎正時を指すたびに、柱時計の鐘の鳴る音も繰り返された。そして今も数度目の鐘が響いている。くぐもった音が、石造りの部分の目立つ壁や床に染み通ってゆく。
「遅いなぁ、フォーロックさん。もうすぐ日が暮れちゃうよ!」
 アレスはそう言うと、椅子に座ったまま、勢いよく伸びをした。
 食卓の向かいの席では、ミーナが申し訳なさそうに微笑んでいる。
「ごめんね、待たせちゃって。フォーロックがごちそうの材料を買ってきてくれたら、さっそく夕食の準備をするわ。もしかしてアレス君、お腹減った?」
「え? いや、俺は平気。へへ。えへへへ」
 ヤマアラシのように逆立った赤い髪をかきながら、照れ笑いするアレス。だが、間の悪いタイミングで彼のお腹が鳴った。絵に描いたようなお決まりの場面に遭遇し、ミーナも声を立てて笑う。一緒になって笑うアレスの声が、家中に響いている。
 そのとき急にミーナが咳き込み、苦しそうに胸を押さえた。
「やっぱり寝てなきゃ。無理しちゃだめだよ。のど、痛くない? 水か、お茶、飲むか?」
 心配そうに見つめるアレスに対し、ミーナは弱々しげに首を振る。
「ありがとう。でも今日は楽しい気分だから、ちょっと無理をしてでも起きていたいわ。もう大丈夫……」
 なおも数回、彼女の咳は続き、ようやくおさまった。
 二人の他にイリスも同じテーブルを囲んでいるのだが、ほとんど気配がしない。アレスとミーナの会話を聞いているのか、いないのか、もう何時間も似たような姿勢で行儀良く座ったままだ。目の前に出されたお茶とケーキにさえ、イリスはほとんど手を付けていない。
 イリスの足元では、アレスの相棒の魔物カールフ、レッケが床に伏していた。丸くなって目を閉じている姿は――額に角がなければの話だが――大きな犬に見えなくもない。ここ数日間の急激な環境の変化に《彼》もそれなりに疲れているのだろう、さきほどから眠そうな目を閉じたり開いたりしている。
 イリスはテーブルの下にそっと手を伸ばし、レッケの頭をなでた。

「でも、たしかに、ちょっと帰りが遅い。昨日もだったけど……」
 ミーナは不安げに窓の外を見つめている。もう、少し薄暗い。田園の上に広がる空の色は濃さを増し、青から濃紺へと近づいている。家の周囲の木々も、遠くの森も、黒々としたかたまりのように見え始めた。
「フォーロックったら、また真っ直ぐ帰らずに、ハンター・ギルドの人たちと飲んでるのかしら。今日はアレス君たちがいるのに、困った人なんだから」
 仕方なさそうにミーナはつぶやく。
「あの人ね、一杯だけ、一杯だけって言いながら、気がつくとビンを1本空けていたりするの……。あら? アレス君、どうしたの?」
 アレスはなぜか嬉しそうな顔つきで、黙って聞いていたのだ。
「あぁ、何でもないよ。ただ、あのさ、そうやってフォーロックさんの話をしているときのミーナさん、とても楽しそうだなって思ったんだ」
「そうかしら。そうかな。ふふふ」
 一瞬、恥ずかしそうに微笑んだ後、不意にミーナの表情が陰りを帯びた。彼女は再び目を外の風景に転じ、寂しげに言う。
「そう、楽しい……。私はフォーロックと一緒にいられるだけで、今の暮らしで本当に幸せよ。でも彼は、いつも私を《もっと幸せにする》と言ってばかり。大きな仕事で儲けて、病気も必ず治すからって。でもハンターやエクターの仕事は危険なんでしょ? 無理ばかりしていないかと、最近、特に心配なの」
 ミーナが真顔で尋ねたため、アレスは返答に迷う。困って天井を見上げている。
「そりゃ、危ないと言えば、普通の仕事よりは危ないかもしれないけど。でも、フォーロックさん、強そうじゃん! だから平気だよ。俺の父ちゃんも、冒険や戦いで怪我したことはほとんど無いとか言って、威張ってた。大丈夫さ!」
 ともかく思いつくことを並べ、彼女を安心させようとしたアレス。だが効果のほどは疑わしい。むしろ、普通は冒険や戦いの中で傷を負うことが多いからこそ、アレスの父の自慢が自慢になり得るのだが。
 ミーナは今度はイリスの方を見ながら、独り言のようにささやく。
「一緒にいられれば、それだけでいいのに……」

 ◇ ◇

「一緒にいられれば、私はそれだけで良かった。だけど、いつもあなたは、もっと遠くの方を見つめていた」
 淡い光をまとった金色の髪。そのしなやかな流れと同様に、ソーナの声もまた繊細だった。窓から差し込む夕日が、胸元の赤いスカーフの色を周囲の影から浮かび上がらせている。ほっそりとした体を包む黒い衣装。一見、彼女の眼差しは穏やかだが、その瞳に宿る普段の理知的な光は、今は感情の波に揺るがされている。
「置いていかれるのが怖かった。だから私も一緒に、遠くの同じ理想を見つめると決めた。でも……」
 外の方へ張り出した頑丈な二重窓。それを通して見えるのは、夕闇、その下に広がる平原。そして、点々と現れては消えてゆく赤い光、いや、それらは炎だった。立ちのぼる煙。多くの出城や塔を伴い、切り立った山脈のごとく延々と連なる巨大な城壁――見まごうはずもない、それは、オーリウムの誇る要塞線にして、現在は反乱軍の本拠となっている《レンゲイルの壁》だ。
「その理想のために、多くの人たちが犠牲になっている。お父様の造り上げた《アルフェリオン》が沢山の命を奪ってしまった。しかし、その手がどれだけ血に染まろうと、あなたの心は揺るがない……」
 彼女がそこまで言ったとき、背後から別の声が聞こえた。低く穏やかな響きでありながらも、確固たる意志を感じさせる。
「そう。揺らぎはしない。もし私がここで手を引いてしまったら、犠牲にした多くの命はすべて無駄になる。もはや取り返しがつかない以上、それらの犠牲に報いるためにも、私は同士とたち共に、この世界を必ず変えなければならない」
 落日が始まり、すでに室内を闇が支配し始めた。暗がりと溶け合う紫のフロック、背中まで届く藍色の長い髪。長身の男が立っている。
「ヴィエリオ!」
 すすり泣くような声を立て、ソーナは背後の影を抱きしめた。飛び込むように。
 ヴィエリオ・ベネティオール――ルキアンの兄弟子は、ソーナを優しく受け止める。彼女はヴィエリオの胸に顔を伏せたまま、声を震わせた。
「私もあなたと一緒に進む。でも、メルカやルキアンには何の罪もないのに……」
 かすかな溜息とともに、ヴィエリオは残念そうに言う。
「いや、ルキアンは……。彼には、どこか遠いところで静かに暮らしてほしかった。しかし今はもう、彼は私たちとは違う道を歩き始めている。ルキアンは《敵》になった」
「ルキアンが? それは、どういうこと!?」
 驚きのあまり、思わず顔を上げたソーナ。答えるヴィエリオの口調には、対照的に微塵の乱れもない。
「敵の戦士となった。そういうことだ。あの後も彼は《アルフェリオン・ノヴィーア》の乗り手にとどまり、エクター・ギルドの飛空艦と行動をともにしているらしい。彼自身はともかく、君も知っての通り、ノヴィーアは恐るべき兵器だ。我らの理想を脅かすほどに」
「まさか、あのルキアンが……。あんなにおとなしくて、争いを好まない人が。どうして」
 ソーナの動揺を静めようとするかのように、彼女を抱きしめるヴィエリオの腕にも、いっそう力が加わる。だがその腕のぬくもりとは裏腹に、彼の口調は氷の刃のごとく冷ややかだった。
「ルキアンにも彼自身の譲れない思いがあって、戦いの道を選び取ったのだろう。もし彼と戦うことになったとしても、私は躊躇せずに倒す……」
 ヴィエリオの物静かな横顔は、窓から差し込む残照の影となった。
 一転して、怜悧な光が瞳に浮かぶ。

 ◇ ◇

 今度の夢の中でも――あの荒野は炎に包まれていた。

 乾いた草むらや立ち枯れた木々を舐め尽くし、風のような速さで燃え広がる火焔。みるみる勢いを増し、渦を巻いて荒れ狂う炎の様子は、あたかも自らの意志を持ち、命を宿している化け物にさえ見えてくる。
 鋼の巨人や巨獣の残骸。傷つき、血を流し倒れた兵士たち。持ち主を失い、地面に刺さったままのサーベル。うち捨てられた背嚢や小銃。
 多くの者が力尽き果てた凄惨な戦場で、見上げるように大きな二つの何かが、なおも敵意をむき出しにして対峙している。
 双方とも翼をもった、黒い影と白い影。

 両者が何なのか。両者の戦いの結末は……。
 そのすべてを《彼女》は理解し始めていた。もう何度も、この同じ場面を見たのだから。そして回を重ねるたびに、恐ろしい夢の中身は明確になっていった。

 ◇

「大丈夫ですからね。何があっても、私たちが必ずあなたを守るから」
 優しくささやくように、それでいて力強い思いを込めた言葉で、シャリオは言った。白い僧衣をまとった彼女の胸に、一人の少女が顔を埋めたままで震えている。少女の顔は見えないが、亜麻色の豊かな巻き髪とピンク色の大きなリボンから、それがメルカだと分かる。
「もう、やだよ……。こんなの、やだ……」
 メルカは、小さな手でシャリオの法衣にすがりつき、ほとんど聞き取れないほど弱々しい涙声で繰り返す。
「ルキアンが……」
 単なる夢・幻とは言い難い、抗し得ぬ現実感と明瞭さとをもつ何らかのヴィジョンを通じて、彼女には見えたのだ。

 全身を損傷し、大地に崩れ落ちた銀の天使・アルフェリオン。
 引き裂かれるように散り、風に吹かれる無数の黒い羽根のイメージ。
 そして、うつ伏せに横たわるルキアン。
 息絶えたかのごとく、彼の身体は微動だにせず、起き上がることもない。

 ◇

 どのくらい経ったのか、メルカは医務室のベッドで再び眠りについた。閉じられた目からは、なおも涙が流れ、頬を伝う。
 ベッドの傍らの椅子に腰掛け、シャリオはずっと見守る。ただ、時おり、彼女は部屋の奥の方にも目を向け、何か変化がないかと慎重に様子をうかがっている。現在、シャノンとトビーも、彼女の患者としてこの部屋で休んでいるのだ。
 音を立てぬよう、そっと近づいてきたフィスカ。彼女に向かってシャリオは頷いた。
「気持ちが安静になり、眠りも深くなるよう、薬を調合して飲ませました。でも果たして、これは薬でどうにかなる類のものでしょうか」
「えぇぇ? 薬、効かないんですか……。でもメルカちゃん、寝るたびに恐ろしい思いをするなんて、可愛そうですよぉ」
 さすがのフィスカも深刻な表情で答える。口調は相変わらず少し奇妙だが、それが彼女本来のものだから仕方がない。
 眠っているはずのメルカに遠慮するような様子で、シャリオは溜息を抑えた。
「何と言えばよいのでしょうか。彼女の繰り返し見ている《悪夢》は、疲れや不安のせいでもなければ、心の病などでもないかもしれません。端的に言えば、それがもしメルカちゃんの《力》のせいなのだとしたら?」
 フィスカは意味が分からず、首をかしげている。
 沈黙。白っぽい光で室内を照らす《光の筒》が、二人の頭上で不安定にちかちかと瞬き、また元の明るさに戻った。そろそろ交換しなくてはといった顔つきで、シャリオは天井を見上げた。そのまま天を仰ぐような目で彼女は語り始める。
「気になるのです。メルカちゃんは普通では考えられないほど直感の鋭い子だと、時々まるで未来が分かっているようだと、ルキアン君が言っていました。そのことは、ネレイで私自身も見知っています。何も知らされていなかったにもかかわらず、メルカちゃんは、ルキアン君がクレドールに乗ることになると明らかに予見していました。そう、《未来》を……」
 ベッドの傍らの椅子に腰掛け、シャリオはメルカを見守る。フィスカが話を理解しているか否かは問題でないといった調子で、自分自身に問いかけでもするように、シャリオはつぶやいた。
「ラシィエン家は代々続く優れた魔道士の家系。この子に特別な力があっても不思議ではありません。そして、その種の力というものは、しばしば何らかの《きっかけ》により、突然に本当のかたちで目覚めるもの。もしかすると、メルカちゃんを襲った今回の不幸が……」
 シャリオの胸元では、神々の力を象徴する聖なるシンボルが光っている。メダルのような形状をしたそれを彼女は握りしめた。
 ――これが試練であったとしても、オーリウムの神々よ、罪なき清らかなこの子をお守りください。どうか、あのときの私のような思いなど、決して……。
 彼女の白い首筋には急に鳥肌が立っていた。背後にいるフィスカには分からなかったが、シャリオの表情は何かを怖れ、あるいは憎悪に歪み、唇は震えている。

 ◇ ◇

 ほぼ、日も暮れた時刻。エルハインの都の背後の丘に、広大な市街を見下ろして黒々とそびえ立つ王城にも、点々と灯りが輝いている。相次ぐ増築で複雑に連なる城郭のうち、奥まった建物にある一室から、窓の光だけではなく、不可思議な楽曲も周囲に漏れ出していた。ハープシコードを思わせる音色の独奏だ。だがその曲が普通ではないのだ。
 細かな音符の群れが狂ったように踊る楽譜を、機械仕掛けのような、あるいは魔法の技のごとき超絶的な指使いがひとつの曲として再現している。蔦や唐草を模した黄金色の化粧漆喰に飾られた《円卓の間》の白壁に、その人間離れした演奏が響き渡る。
 まさに無心という態度で、ひとしきり曲を弾いたかと思うと、演奏の主は急に笑い出した。誰もいない広間に子供のように無邪気な――ということは、子供ではないということに他ならないが――声が反響する。聞いているのは、天井のフレスコ画に描かれた巨大な神々ぐらいなものだろう。
「さて! 今晩も楽しい夜になりそうだよ。僕も仕事、仕事……」
 独り言というにはあまりにも大きな声で、彼は満足げに言う。男は立ち上がると、ビロードのような艶やかな光沢を浮かべるグレーのフロック・コートを、洗い立てであろう真白いシャツの上から羽織った。
 広間の一角、鏡面仕上げの壁に向かい、彼は首に巻いた漆黒のクラヴァットの具合を丹念にチェックした。そして腰に帯びた白と黄金色の派手な剣に触れる。瞬間、刃がきらめき、再び鞘に戻された。彼が抜刀して一振りしたその様子は、正面に向けて水を打ったかのように、スムーズで素早い。
 独りでにこにこと笑いつつ、彼は円卓の間を出た。
 同じく過剰な装飾で埋め尽くされた廊下。別の部屋から出てきた人影が、こちらを見て言った。
「ファルマス、お出かけですか?」
 大きな縁のついた帽子を小脇に抱え、落ち着いた声で尋ねたのは、同じくパラス騎士団のエルシャルトだ。薄暗い廊下では、長髪の彼の横顔は美しい女性のようにも見える。
 しばらく無言でにんまりしていたファルマスは、いたずらっ子のような調子で答えた。
「うーん。内緒!」
「おやおや……。珍しく副団長殿がわざわざ出向くとなると、例の旧世界の少女とあの少年の件でもないようですね」
 感心しているようでいて、少し呆れているようにも見える表情で、エルシャルトは微笑んでいる。仮にも王国最強、あるいは世界でも屈指の機装騎士団の者とは思えないほど、この《音霊使い》の表情は物静かで柔和だ。
 おもむろに、すれ違う二人。
 そのときファルマスはエルシャルトの耳元でささやいた。
「例のイリスちゃんと、あの誰だっけ……単純な子、そうそう、アレス君のことは、手配は済んでいるから。僕の仕事は、もっと手強い。そして、もっと楽しい。いわゆるこれは……」
 口元は笑ったまま、ファルマスの目は虚ろになり、狂気じみた殺意を帯びる。
「決闘。かな」

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