HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第38話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

 あまりにも早すぎた勇者の死。
 残されたものは、ただひとつ。絶望だけでした。
 それでも私たちは
 背負いきれぬ全てを代わりに背負うしかありませんでした。
 英雄ではない、この身に。


 エルハイン城の広大な敷地の外れ、点在する池や小川のような水路に囲まれて、王宮の東館が建っている。真白い壁に煉瓦色の屋根をいただいた姿は、こぢんまりとまとまった可愛らしいたたずまいである。王子や王女の住む宮殿であり、少なくとも表面的には浮き世の政務とあまり関わりのない場所であるせいか、城内の他の区域とは違った牧歌的な雰囲気も漂う。
 建物の端の方には、時を経て色褪せた空色の屋根をもつ、小さな塔が見えた。タマネギ型のその屋根は、細い塔が帽子を被っているかのようにも見えて面白い。多分、館に付属する礼拝堂のものと思われる。今日のような晴れ渡った日に塔に登れば、鳥の目でエルハインの街並みを俯瞰できるのみならず、郊外の田園地帯の果てに夕日が沈んでゆくところさえ、手に取るように眺めることができるだろう。

 そうした絶景を楽しめるはずの場所で、一人、溜息をつく者がいた。
 最上層に開いた窓のところに人影が――この塔の屋根と似た淡い空色の髪の女性の姿が、見え隠れしている。オーリウム人には比較的珍しい、クセのないサラサラとした真っ直ぐの髪質だ。
「どうして駄目なのかしら? あと少し……。たぶん、呪文のこの箇所さえ適切な文言に置き変えれば、効果が現れるかもしれないのに。いつも、あと一歩なのに!」
 机の上を覆い尽くすだけでは足りず、古びた図書が床にまでうずたかく積まれている。空色の髪の女は、今まで読んでいた本に付箋を挟むと、手近な本の山の上に乗せた。
「でもそのためには、また魔方陣の構造自体を構築し直さないと……」
 おそらく新陽暦初期の頃の文献であろう、羊皮紙を綴じ合わせた古びた本を彼女は開く。周囲には、かび臭い匂いのする巻物もいくつか転がっている。
 ここは展望のための部屋というよりも、奇妙なことだが、塔の屋根裏を利用した勉強部屋か何かのように見えてならない。天井も平らではなく、所々に太い梁がむき出しになっている。決して広くない室内は、大小無数の本であふれかえっていた。正確には、勉強部屋などというよりも――しばしばこの手の塔に籠もって研究する、占星術師や錬金術師の書斎に近い有様だと表現した方がよかろう。
 この部屋は、一応は、いや、一応どころか立派な神聖魔法の使い手である、ルヴィーナ・ディ・ラッソの事実上の《研究室》なのである。少女時代にシャリオと神殿で寝食を共にしていたということからも分かるように、もともと彼女はエリートの神官であり、特に治癒系の神聖魔法の秀才として将来を期待されていた。諸々の事情で王宮に来て《還俗》した後も、ルヴィーナは可能な範囲で研究を続けているのだ。
 彼女の研究は、近年までは、どちらかといえば個人的な知的探求という性格の作業であった。ちょうどシャリオが、王国各地の伝説やおとぎ話をヒントに旧世界の歴史を読み解こうと試みているのと同様に。しかし、身近に居る《不治の病》の人間のことを深く知るようになってから、ルヴィーナの研究の目的は変わっていった。そう、今や王宮でも数少ない王家の真の護り手であるレグナ機装騎士団長、ヨシュアン・ディ・ブラントシュトームを病魔から救うため、彼女は寸暇を惜しんで新たな魔法の考案に励むようになったのだ。

 ――ここ最近になって、ヨシュアン殿の病状が急激に悪化している。急がないと間に合わなくなってしまう。
 いにしえの呪文書を読み解くルヴィーナの作業にも、自然と力が入る。
 王国一の剣豪である堂々たる騎士ヨシュアンが、発作によって力無く倒れそうになる場面に、先日もルヴィーナたちは遭遇した。近頃、発作の起こる回数も増えている。
 彼女は部屋の中を行ったり来たり、机に向かったかと思うと、今度は立ったままで本を広げる。ときおり、床に座り込んで周囲の資料をかき回していることもある。その様子は、王女に対して学問だけではなく行儀作法をも教えている者らしくない。《研究》のことになると、格好も何も、とにかく我を忘れてしまう質なのである。普段は気品に満ちた貴婦人なのだが……。

 落ち着かないルヴィーナ。すると、部屋を遠慮がちにノックする者があった。実際には、すでに何度もドアを叩く音がしていた。だが今の彼女の耳には入らなかったのである。
 読みかけの文献を手にしたまま、ルヴィーナは扉を開けた。
「巡回中です。お邪魔をしてすいません」
 開かれたドアの先、かつての馬上の騎士がまとったようなサー・コート風の衣装に、黒いエクター・ケープを着けた男がそう言った。この出で立ちからして、ヨシュアンと同じく、王宮を守護するレグナ騎士団の者だろう。パラス騎士団も同様の任務を負っているが、特に東館はレグナ騎士団の《縄張り》である。
 ルヴィーナより多少若い、二十代半ばの機装騎士だ。精悍な短い青の髪、何本かの前髪を額に垂らしている。やや肌の色が濃く、はっきりとした目鼻立ち。耳のところで銀色に光る輪はおそらくピアスだろう。
「これは、ジェイド殿。ここのところ人手不足とはいえ、副団長自ら見回りをなさるとは、お疲れ様です」
 本を持った手を慌てて背中に回し、ルヴィーナは軽く会釈した。
「変わったことは? 無いようですな。例の治癒魔法のご研究中ですか。いつもヨシュアン団長のために……我ら団員みな、ルヴィーナ殿には感謝申し上げております」
 ルヴィーナの邪魔をしてしまったと思っているのか、ジェイド副団長は申し訳なさそうに一礼した。彼は手にしたランプをかかげ、苦笑いする。
「その、ルヴィーナ殿、もう部屋の中はこんなに暗い。そろそろ灯りを点けませんと、目を悪くしますぞ」
 冗談やお愛想があまり得意ではなさそうな、生粋の武人という性格が、彼の堅い笑顔に浮かんでいる。
「言われてみれば……。そうですわね。調べ物にすっかり夢中で」
 そう言って彼女が上品に口元を抑え、微笑んだとき。
 突然、ジェイドの後ろの暗がりの方で、何か大きなものの転がり落ちる気配がした。副団長が振り向いた先は、塔の狭い螺旋階段である。続いて、石造りの床に金属がぶつかる響き、その他にも色々な物が投げ出され、滑り落ちたかのような音が聞こえた。
「あ、あの、今のは?」
 ルヴィーナは怪訝そうに尋ねた。ジェイドがあまり心配そうな顔つきでもないため、いずれにせよ、彼女もさほどの大事ではないと理解しているようだが。
「やれやれ……。お騒がせしてすみません」
 副団長は敢えて下まで見に行こうとはせず、慣れた調子で何かに呆れている。

 やがて誰かが階段を登ってきた。
「い、痛いです……」
 勢いよく転げ落ちたにしては、案外落ち着いた声が聞こえてくる。薄暗い影から、本人の姿より先に大きな弓が見えた。
 そっと様子をうかがうように、レグナ騎士団の黒いエクター・ケープをまとった者が、すなわち機装騎士が顔を出す。若い女性のようだ。射手の割には目が悪いのか、目を何度も細めてルヴィーナの方を見ている。
「すみません、ジェイド隊長。それに、ルヴィーネ……様」
 緩やかに波打った黒髪から、ぴんと尖った両耳が顔を出している。彼女の容姿は最初は十代の娘のようにも感じられたが、ランプの明かりに照らし出された表情は、すでに成人は過ぎている程度の年頃のものに思える。
「その、わたくし……ルヴィーネではなく、ルヴィーナです」
 小さな咳払いをした後、ルヴィーナは彼女の言葉を訂正する。どういう顔をして良いものやら、困っているようにも見える。
「失礼であろう! それに、私も隊長ではなく副団長……」
 そこまで言いかけて、ジェイドはやれやれと首を振る。
 副団長たちの声が聞こえていないとでもいうふうに、女機装騎士は自分の弓を入念に点検し、壊れたりしていないことが分かると、嬉しそうに小脇に抱えた。
「あぁ、不幸中の幸い。良かった。これは大事な大事な弓なので……」
 塗装や装飾のあまり施されていない、森の野武士の持つ弓のような素朴な作りだが、こんな華奢な女性に引けるのかと思うほどの大きな強弓だ。
 彼女は、いつの間にか手にしていた眼鏡を頭の上の方にかかげ、光に透かした。そして、しょんぼりした顔でつぶやく。
「涙です。片方、割れちゃった」
 この世界で眼鏡というものは、特にレンズは、職人の丁寧な手作業によって磨かれ作り出される貴重な工芸品なのだ。壊れたから気軽に買い換えるというわけにもいかない、とても値の張る買い物である。
「せっかく貯めたお給金が……」
 ひびの入ったレンズを残念そうに指先でつついている彼女。お世辞にも機装騎士らしいとは言えないその姿を横目で見ながら、副団長は改めて溜息をつく。
「こいつは、リーンは、あれしか取り柄がないもので。許してやってください」
 割れた眼鏡を右手でつまんだ彼女が、左手で大切そうに抱きしめている大弓。それに向けて顎をしゃくり、ジェイドは肩を落とした。
「本来、一流の射手というのは、高度な集中力をはじめ、騎士としての優れた資質を持っているものです。しかしリーンは、弓以外のことになると、何をやらせても間抜けで……。まったく、こんな機装騎士は見たことがありません」
 なおも鍵を落としただの、小銭が一枚足りないだのと探しているリーンを無視し、ジェイドの目が急に真剣になった。彼はルヴィーナに黙礼して事前に詫びた後、耳元に顔を近寄せる。
「失礼、お耳を。実はメリギオス猊下とパラス騎士団に、いよいよもって不穏な動きがあるようです。今は詳しく申せませんが、大事が起こってもすぐに動けるよう、心構えはしておいてください」
 そう告げたジェイドは、部下に呆れていた今までとうって変わって、怜悧な騎士の顔になっていた。
 ルヴィーナは恭しく頭を下げる。それは同時に、不安げな面持ちを隠すという振る舞いも兼ねていた。
「陛下やジェローム様のことも心配ですわ。もはやあなた方、レグナ騎士団だけが頼りです。ヨシュアン殿は治ります、私も力を尽くします」

 深刻な顔つきで階段を下りてゆくジェイド。すり減った石の階段は、確かに滑りやすいとはいえ――リーンが再び転びそうになり、慌ててしゃがみ込んでいた。

 ◇ ◇

 口笛を吹きながら、日没の迫る森の小径を行く一人の青年が居た。
 急に冷え始めた夜風に、ダークグレーの上着と柔らかな黄金色の髪をそよがせながら。夕闇に包まれてゆく道の先を、天真爛漫な笑顔で見つめる彼の表情は、穏やかながらも得体の知れない恐怖を感じさせる。
 美しくも狂気を秘めた横顔。パラス騎士団副団長――天才の名をほしいままにする機装騎士、ファルマス・ディ・ライエンティルスだ。
 木立が不意に開けた。
 野ざらしの白い石像を中心に、森の中にぽつんと存在する、小さな草の原。
 背後の木立の向こうにはエルハインの城がそびえている。さほど遠くはない。ここは、王城の建つ丘のすぐ裏手にある森なのだろう。
 周囲をよく見渡すと、建物の床石らしきものの名残が草の下から点々と顔を覗かせ、かつて柱を支えたであろう礎石もいくつか存在する。
 石像を挟んでファルマスと相対し、狭い野原の反対の端にも、もうひとつの人影があった。

「見ぃつけた……」
 普段よりもゆっくりした口調で、ファルマスが言う。その目は爛々と怪しい光を浮かべている。獲物を狙う、魔物のように。

 ◇

「自分から呼び出しておいて、約束の時刻をとうに過ぎているぞ、ファルマス……。さて、話とやらを聞かせてもらおうか」
 向かい側の小径から現れた男の声が、日の落ちた暗い森に響いた。茶色いマントを風になびかせ、隻眼の大柄な騎士がゆっくり近づいてくる。髭を伸ばした野性的な容貌に、優雅な金の長髪。ヨシュアン――レグナ騎士団の若き団長に他ならなかった。
 片目には黒い眼帯、もう一方の目が鋭くファルマスを見据える。さすがに王国に並ぶ者なき剣豪と言われるだけあって、静寂の中にも強烈な威圧感を漂わせる。
「いやだなぁ、ヨシュアン団長。大方の用件は分かってるくせに。だからわざわざ来てくれたんでしょ?」
 ファルマスは小馬鹿にするような顔で笑う。
 対するヨシュアンは、憮然とした表情で腕組みしている。そんな彼の姿を指さし、ファルマスが素っ頓狂な声で言った。
「睨まないでよー! ヨシュアン団長、ただでさえ怖い顔なんだから」
「くだらぬ遊びに付き合っている暇など無い。そういう態度を続けるなら、帰るぞ」
 声を落とし、ヨシュアンは汚物を見るような目でファルマスを睨んだ。
 双方とも何食わぬ顔をして、一寸の隙もない。さすがに達人同士、見事に殺気を抑えているのは分かる。が、それでも微かに漏れ出してくる怒りの気は、ヨシュアンのものだ。
「あははは。怒った? ごめんね。じゃぁ、本題に入るよ」
 両手を広げ、踊るようなステップでくるくると回りながら、ファルマスが近づいてくる。
「僕も回りくどいことが嫌いだから、単刀直入に言うけど……ヨシュアン団長ってさ、もう、先、長くないんでしょ?」
 小首を傾け、片目を閉じてみせるファルマス。
「ふん。独りよがりの、相変わらずの天才馬鹿ぶりだな、ファルマス。意味不明な妄言などやめにして、相手にも明確に分かる言葉で、言いたいことをはっきりと言ったらどうだ?」
 まともに取り合おうとしないヨシュアン。
 わざとらしく何度も大げさに頷いて、ファルマスは告げる。
「実はね……。僕、これでもヨシュアン団長のこと、尊敬してるんだ。王国一の剣の使い手、いや、多分、イリュシオーネでも五本の指に入るだろうね。でも、そんな憧れの人が、じきに病の床に伏して武人らしくない最後を遂げるなんてさ、僕の美的感覚が許さないんだよ。今のあなたを見ていると可愛そう。嫌で嫌でたまらないんだ!」
 どこまで本気なのか、ファルマスは真に迫った悲しそうな顔で言った。
「団長のように英雄的な剣士は、やっぱり、伝説を残す義務があるもの。ベッドの上で死ぬなんて本望じゃないでしょう? 僕は優しいんだ。だから、憧れの団長のために考えたんだけどね……」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、にこやかに細められていたファルマスの目が、かっと見開かれた。何かが弾けたかのごとく、どす黒い巨大な殺気が辺りの木立を覆う。肌を刺すような、おぞましい気だ。
「《決闘》しようよ。分からないかな? 英雄としての死に場所を、花道を用意してあげようって、僕は親切に言ってあげてるんだけど」
 ファルマスの言動が常軌を逸しているのはいつものことだが、さすがに出し抜けに決闘などと言われては、ヨシュアンも面食らっているようだ。ただし《決闘》という表現自体はともかく、ファルマスの狙いを最初から予想したうえで、ヨシュアンもこの場所に来ている。
「決闘だと? 戯れ言もいい加減にしろ。はっきり、《暗殺》とでも言ったらどうだ」
 鼻で笑うヨシュアン。
「王キから議会軍が離れたら、何か大きな動きが起こるだろうとは思っていたが……。なかなか尻尾を出さなかった狸たちが、こんな短絡的な方法で仕掛けてくるとは落ちたものだな。メリギオスの命令か?」
「だぁかぁらぁ、団長さん。僕の美的センスが許さないからだって、さっきから言ってるでしょ。ま、どうしても何か聞きたければ、僕を倒して力ずくで聞き出せばいいじゃない」
「そうか。だが、わざわざ話を聞く必要など無い。俺もこういう機会を待っていたのさ」
 ヨシュアンの手が剣の柄にかかる。彼も凄まじい闘気を解放したかと思うと、裏腹に淡々とした声で言った。
「貴様たちの野望は俺が潰す。生きて帰れると思うなよ……」

 突然、夕暮れの微かな残り陽に二つの剣がきらめく。次の瞬間には彼らは再び離れた。刃にかすめられた髪の毛が数本、宙を舞い、風に流されて飛んでゆく。
 剣を握る手を下げ、隙だらけの様子でファルマスが笑っている。
「うわぁ、危ない危ない。もうちょっとで死んじゃうところだった。やっぱりヨシュアン団長はすごいなぁ。あんなに鋭い斬り込み、生まれて初めて見たし、これからもたぶん見ることはないだろうね。今のは何とか受け流せたけど、次は無理かもー」
「本気でかかってこい、ファルマス。天才と呼ばれる貴様の力、実は俺も、一度は手合わせ願いたかったものだ」
 普通より分厚く重い刃のサーベルを軽々と構え、ヨシュアンが近づく。
「天才? 何か勘違いしてない?」
 ファルマスは、慌てて逃げるように一歩退いた。勿論、わざとだが。
「今のは本気だってば。僕の剣の腕なんて、せいぜい、あなたの剣を必死に受ける程度で精一杯だもん。それにしても、団長は世間のお馬鹿さんたちとは違うと思ってたんだけど、残念だなぁ……。僕を《天才騎士》とか《天才エクター》なんて呼ぶ人がいるけど、そんなの《不正確》な表現だから、やめてほしいんだよね。まぁまぁ、そう慌てないで、二人でゆっくり楽しもうよ!」
 今にも斬りかかろうとするヨシュアンに対し、ファルマスは無邪気に手を振っている。
「だってね、聞いてよ。僕、たまにダリオルさんに剣の練習に付き合ってもらってるけど、今まで一本も取ったことがないんだ。ラファールとも、たぶん10回やって1回勝てる程度なのかなぁ。神様みたいな剣聖ばかりのパラス騎士団の中では、僕なんて、ぱっとしないな。あ、でもアゾートさんは一応は魔道士だし、エーマさんやエルシャルトさんも、剣とは別の武器を使って戦う方が得意な人たちだから……数に入れちゃいけないか。あはは、だったら僕は、剣士としてはパラス騎士団で最弱だね!」
 気の抜けた声でぺらぺらと喋るファルマス。すぐにでも倒されそうに見えるが、実際には細かいところで巧みに距離を取ったり牽制したり、そう簡単にはヨシュアンを近寄せないのだった。
「たしかに剣術にしても、少しコツを覚えたら、すぐに上の下か上の並みぐらいの腕には達したんだけどね。さすがに本物の天才剣士と僕を比べるのは無理があるよ。じゃぁ、僕が何に優れてるのかって? えへへ、教えてほしい?」
 そこでファルマスの話が止まり、声が凄みを帯びる。
「なぁんて、ちょっと喋りすぎちゃった。口で説明するより、そろそろ、親切ついでに見せてあげた方が分かりやすいよね……」

 ◇ ◇

 珍客との会話に夢中であったミーナは、話疲れて再び横になった。彼女の側にイリスとレッケを残し、アレスは庭を借りて日課の剣の練習を始めている。
 暮れなずむ夕空。どことなく間の抜けた声で鳴きながら、鳥が群れをなして飛んでゆく。それ以外には音を立てるものもない静かな田園に、少年のかけ声だけが響いては消える。
 気合いと共に剣を振り降ろし、続いてなぎ払い、あるいは斬り上げる。鋭い突き、さらには惰力を利用して巧みに剣を振り回す。時折、蹴りも入れてみたり、背後に飛び退く動作を混ぜたりしている。雨の日も当然、いや、冬のラプルスに荒れ狂う厳寒の吹雪の中でさえ、毎晩欠かさずにアレスは鍛錬を続けてきた。日々の努力の積み重ねと、抜群の運動神経のおかげもあって、いまや一端の使い手である。
 持て余しそうなほどに立派な剣をじっと眺め、彼は一息ついている。
「父ちゃんの剣……。こんなに、ごつくて長い剣だと、実際に振り回してみるとかなり重たく感じるなぁ」
 村を出るときに母が手渡してくれた、父の形見だ。巻き貝を思わせる流麗な鍔が、まず見た目には特徴的である――優美な外見と同時に、敵の剣から手を確実に護り、受け流しもしやすいという機能性を兼ね備えている。そこから伸びる刀身は頑丈で、突くにも斬るにも向いた片刃の形状である。世界を股にかけた繰士の相棒だけあり、立派なものだ。
 普段と比べ、練習による疲労感がとても早く訪れた。だが、形見の剣を少しでも早く使いこなしたいと願うアレスは、再びそれを構える。
 すると、後ろで拍手が聞こえた。
「やるじゃないか、アレス。それだけ使えれば、少なくとも剣士としては一人前だ」
「あ、フォーロックさん! やっと帰ってきたか。遅いからミーナさんが心配してたぞー」
 にっこり笑って握手するアレス。
 だが、お互いの手も離さぬうちに、アレスは心配そうな顔でフォーロックの方をしげしげと眺め始めた。
「疲れてるのか、フォーロックさん? 何だか昼間よりも顔がちょっと暗くない?」
「……そ、そうか。込み入った仕事の話で、気が滅入っちまったのかもな。気を使わせてすまなかった」
「ふぅーん。俺も難しい話は苦手だし、分かるような気がする」
 そう言ってアレスが練習を再開しようとしたとき、フォーロックが思い出したかのように呼び止めた。
「ちょっと待った、アレス。お前、突きに入る前に、わずかだが動きにいつも変なクセがあるぞ。手練れの相手には、あれだとすぐに読まれちまう」
「へぇ、そうなんだ。俺、剣の基礎ぐらいは父ちゃんに習ったけど、後は勝手に考えてやってたから。なんだっけ、自己流ってやつ?」
 答えるよりも早く、フォーロックは先ほどのアレスの練習をまね、手本のようにやって見せた。アレスとは比較にならない、自然で素早い身のこなしだ。
「こんな感じかな。ほら、やってみな」
「……って、ひょっとして教えてくれるのか?」
「あ? まぁ、構わないぜ。夕食が待ってるから、少しだけだぞ」
 目を輝かせて頷くアレス。フォーロックは周囲を見回している。
「二人で稽古するには、うちの庭じゃ狭いな。あぁ、あそこでやろうか」
 彼は家の裏を流れる小川の方を指さし、アレスを誘った。

 ◇

 そんな二人の様子を、遠くの木の陰から見つめる者がいた。
 すでに夜風と呼んでもよい、ひんやりとした空気の流れに、長い髪が揺れている。暗がりの中では黒っぽく見えるが、実際には赤だ。真っ赤に染めた髪……。
 黒のマントが風に吹かれるたび、その下から薄闇に白い肌が浮かぶ。夜気に晒した両の腕と脚は、女性のものだ。ヴェストと短いスカート、ブーツ、二の腕より下の部分を覆う長い手袋、すべて真っ黒な革製の衣装を身につけている。
 一見、彼女は、無造作に木にもたれかかっているだけのようだ。しかし、それでいて気配を完全に消していた。姿が見えないのではない。たとえ視界に入ったとしても、見えていることを相手に感じさせないのである。普通の人間にできる芸当ではないが、あのパラス騎士団の一員にとっては――中でも隠密行動を得意とするエーマにとっては――ごく簡単なことにすぎない。
 畑道を歩き、小川の岸辺に降りてゆくアレスたち。彼らの姿が小さく見えなくなるまで、エーマは鷹を思わせる視力で追った。
「おいしい話に飛び付いてみたものの、捕まえた獲物が可愛くなって、こっそり隠れて飼うことにしたっていう? そこそこ腕の良い便利屋だと聞いていたけど、こんな甘ちゃんだったとはねぇ」
 こぢんまりとしたフォーロックの家、窓の奥に淡い灯りが点っている。絵本に出てきそうな穏やかな眺めだ。そんな平穏な空気を切り裂くように、シャドー・ブルーの瞳から鋭い視線が走る。エーマは口元を緩め、声を立てずに笑った。
「ま、情が移ったかどうかには関係なく、あの子たちを見つけて連れ帰った時点で、あんたの役目は終わってたのさ。お馬鹿さん……」
 酷薄そうな細い唇を染める、鮮血のごとき紅色のルージュ。
 舌なめずりした後、彼女は動いた。いや、一瞬で視界から消えていた。

 ◇ ◇

 それぞれの夕空。
 残照の果てに馳せる各々の思い。
 だが誰にでも同様にやがて訪れる――夜。

 アレスがフォーロックに剣の手ほどきを受けていた頃、なおもルキアンは同じ場所に立っていた。クレドール最上層の回廊には、いつの間にか、もう誰もいない。ランディも下に降りていってしまったが、酒の臭いが微妙に漂う。
 ガラスの向こうをぼんやり見つめるルキアン。銀髪の少年は手すりに両手を乗せ、細い顎を支えている。正面の景色に残るほのかな明るさに意識を奪われ、自らの周囲がすっかり暗くなっていることにも気づいていないかのようだ。
 いや、むしろ暗がりが心地よいのであろうか。回廊の奥、天井、足元、いたるところに夜の影が静かに迫っている。だが、いつもと違い、ルキアンは闇の奥底に何も感じなかった。
 ――おかしいな。こうしていても、リューヌをほとんど感じない。
 彼は周囲の暗闇を見渡してみた。そのような即物的な方法で探しても無駄であると知りつつ。
 ――まだ《回復》していないのかな。ずっと眠ったままみたいだ……。
 ルキアンは自分自身に問うてみた。
 ――もしリューヌがいなくても、僕は戦えるのだろうか? 今日だってリューヌがいなければ、僕は死んでた。いま、ここに、こうして立っていることもあり得なかった。
 そう考えると心細くなったルキアン。不意に、昔どこかで同じような気持ちを感じたことがあったと彼は思った。いや、思い出したのだ。彼の忘れていた記憶を、夕暮れが微かに呼び覚ましたのである。
「そう、夕暮れだ! 何で、これまで一度も気づかなかったんだろう?」
 空っぽの廊下にルキアンの独り言が響いた。
「今みたいに、もうすっかり暗くなった夕方、心細い気持ちで歩いていたとき……。ずっと昔、いつ? 思い出せないほど前、僕が本当に幼かったとき?」
 彼の口から、途切れ途切れに言葉が漏れる。
「そのとき、僕は……。僕は、そのとき……独りでは、なかった?」
 はっきりとしたものが何もない、黄昏色の虚ろな記憶の中に。
 隣に誰かがいる。
 小さな手を、しっかりと握る、もうひとつの小さな手……。
 失われた幼き時代。ルキアンは無意識に懐に手を差し込み、例の子豚のぬいぐるみに手をふれようとした。そのとき。

「いけない」
 突然、通廊の向こうから声がした。
 ルキアンは驚いて大声を上げ、尻餅をついてしまう。
「それ以上、思い出してはいけない」
 硝子の鐘の音色を想起させる、透き通った少女の声が静寂を貫いた。
「エルヴィン?」
 寒気を感じながらルキアンは名を呼んだ。
 逢魔が時をさまよう、現世(うつしよ)ならぬ者のごとき、白いドレスの少女。普段以上に巨大な霊気のうねりをまとい、エルヴィンがルキアンの前に立っている。
 ――なんて霊気の強さなんだ。人間とは思えない。
 ルキアンが身動きできず、身体をこわばらせていると、エルヴィンは青白い手をすぅっと伸ばした。
「な、何を?」
 出し抜けに、頬に痛い感触を覚えたルキアン。
 つねっているのだ、エルヴィンが。
 無表情にルキアンの頬をつまんだまま、彼女は言った。
「まだ思い出しては駄目。ものごとには、そのために予め定められている《時》がある」
 漠然とした夕暮れの思い出に残る、手のぬくもり。それが再び記憶の淵に沈もうとしていたとき、ルキアンは別の新たな感触を手に感じた。
 手を握っているのはエルヴィンだった。
 声にならない叫びを上げ、ルキアンは身震いする。冷たい。単に、あるべき体温の暖かみが感じられないのではなく、明らかに冷たかったのだ。
 彼女はルキアンを引っ張って促す。
「帰りましょ。こんな時間に、そんな気持ちで、こんな場所にいると、戻ってこれなくなるかも……」
 薄気味の悪さと何とも言えない胸の鼓動を感じながら、ルキアンは黙って従うのだった。

 ◇ ◇

 夜の暗闇に広がる木々の海。その上空に、アルマ・ヴィオらしき影がひとつ、ぽつんと浮かんでいる。月明かりを反射し、硬質な冷たい光を放つ羽根。同様の堅牢な質感をもつ身体。節くれ立った手脚。その姿は甲虫が羽ばたいているかのようだ。それでいて、ハサミの付いた巨大な腕をも備えた様は、カニやエビのような甲殻類を連想させる。
 だが、この機体の全体的な形状は、昆虫型や魔獣型のアルマ・ヴィオではなく、人間を模した汎用型のそれに近い。人ではなく、人に似た妖魔をモデルにしたものであると表現する方が恐らく正確なのだろう。これこそ、異形の姿ゆえに、それ以上に恐るべき性能ゆえに、旧世界の時代に《魔界の重騎士》と呼ばれていたアルマ・ヴィオ――エクシリオスに他ならない。
 その乗り手であるグレイルは、現在、広大なガノリス王国をフラメアの指示に従って移動していた。漆黒に塗りつぶされた森林地帯が、ひたすら続く眼下の光景。まだ宵の口なのだが、人家の明かりは見当たらなかった。こんな場所に大きな街などなく、村や集落さえ、ごく希にしか存在しない。アルマ・ヴィオの魔法眼の暗視力によっても、闇の中に続く広漠とした木々の絨毯が見えるのみである。
 ――それにしても、本当に同じような景色ばかりだな。一面に木、木、木……。しかも夜だろ。《場所》が確実に分かるのか? そもそも、人なんて本当にいるのか?
 いい加減に飽きたという様子で、グレイルが尋ねた。いや、尋ねるというよりも、単に《思った》だけかもしれない。それに対し、もう一人の自分が自分の中で思考するかのように、パラディーヴァの声が心に浮かんでくる。
 ――大船に乗ったつもりでフラメア様に任せなさい、マスター君! ほら、感じるわよ、怪しい呼び声がザワザワだわさ。おまけにこの思念波、何かの力で増幅されているみたい。
 ふざけた調子でフラメアが答えた。
 ――《こいつ》ねぇ、ずっと前から、こうやって夜空に《電波》を送ってくる。誰なのかは分かんないけど。
 ――何だそりゃ……。お星様の世界と交信ってか?
 ――違うよ、マスターじゃあるまいし。どうやって知ったのか、あたしたちパラディーヴァにしか分からない特殊な波長の思念を、この辺りから広範囲に飛ばしてる。偶然ではあり得ない。旧世界の関係者様だってことは間違いないよ。敵意は伝わってこないし、むしろ歓迎されてるみたいかな。でも、向こうの正体を突き止めるまで油断は禁物ね。
 とはいえ、仮にも魔道士の端くれであるグレイルにすら、霊気の波動やテレパシーのようなものは何も感じられない。いまだ彼は半信半疑だ。
 ――大丈夫なんだろうなぁ。それ、ただの危ない人じゃないのか。
 ――あんたが言う? 電波の主、ひょっとしてマスターの同類かもよ。ふふふ。
 ――どういう意味だ! いや、待て。今のは……。
 何の前触れもなく、グレイルも変化を感じた。周囲の空よりも冷たい、ふわりとした空気の層を突き抜けたような感覚。いや、それは物理的な感触ではなく、霊的な次元で把握された印象だが。
 ――気をつけろ。何かを通り抜けなかったか。この感じ、結界?
 ――げっ、これは《そよぎのエオレウス》、偏向性閉鎖歪空間……。
 フラメアが素で慌てたのと同時に、突然、下方の森一帯が赤い光を放った。
 ――何だよ、その、容赦なく怪しげなものは!?
 エクシリオスと一体化している繰士のグレイルには、身体が金縛りにかけられたように思えた。抗し難い力に引き寄せられ、機体が制御不能となり、急激に落下し始める。
 ――旧世界のバカ高い空間兵器! 今頃、どうしてこんな所に?
 ――解説はもういい、何とかしろ、フラメア!
 ――無理! ひぃぃぃ、落ーちーるー!!
 不格好にもがく姿勢で固まったまま、なおも落下してゆくエクシリオス。ぼんやりと赤みを帯びて光る森に吸い込まれるかのように、物凄い勢いで地表に接近する。
 ――油断するなって言ったヤツは、誰だーっ!
 いや、本当に吸い込まれたのだ。森の木々と衝突するかに見えたとき、《魔界の重騎士》の姿は一瞬でかき消えた。地表の不思議な光も、その直後に消滅する。そして夜の森は、何もなかったかのように静寂と暗黒を取り戻すのだった。

 ◇

「何か飛んできて、引っかかりましたかね? ククク……」
 そう言って頭上を眺めると、白と紫のクロークをまとった青年は前髪をかき上げた。彼の長い金色の髪が、滑るようななめらかさで指に絡む。そして鈍い光を放ちながら、白く細い手から流れ落ちる。
 《鍵の守人》の魔道士、ウーシオン・バルトロメアが、広間の床一面を使った魔方陣の中心に立っている。現世界の通常の魔道士には全く縁が無いであろう、見たこともない記号やシンボルが描かれ、それらが薄暗がりの中で青白く輝く。魔法陣の円周に沿って連なる文字列は《力の言葉》、すなわち呪文であろう。その文章は荘重な古典語で記されている。だが、これまた現在の世界ではもはや使われていない、失われた表現や語彙が目に付く。
 しかも無数のケーブルが天井から床へと垂れ下がっている。地下室らしき、窓の無い箱の中のような広間。その壁や天井のあちこちには、明滅する光の玉と共に、時計や何らかの計器を思わせる不可思議な装置が埋め込まれている。同じく壁際には、人の背丈ほどもある正体不明の機械が並び、静かではあれ、ファンの回るような音を立てて作動していた。
 魔法と科学の融合――これは旧世界の科学道士の用いた高度な儀式魔術の類であろう。表面で小さな光が星屑のごとく明滅する丸い装置を、ウーシオンは片方の掌に乗せていた。普通のリンゴ程度の大きさである。その奇妙な物体は、数本の細いケーブルで床や天井とつながっていた。彼は古典語の呪文を何度か唱えた後、ケーブルを一本一本外してゆく。ビロード風の生地で出来た黒い巾着の中へ、ウーシオンは謎の球体を大事そうにしまい込んだ。
「まずは《御子》の一人目をご招待。それに炎のパラディーヴァのお嬢さんですか。クククク、賑やかになりそうです……」
 やがて部屋の灯りが消え、美しくも不気味な青年魔道士の笑い声だけが残された。

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