HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第40話

Copyright (C) 1998-2007. Hayato KAGAMI

 自らが心を持って生まれてきたことの
 本当の痛みの意味も知らぬまま、
 なぜ人よ、私を創り、心など与えた?


 4日前――ガノリスの都バンネスクの近郊に位置する、ある街にて。
 もっとも、この時点では、すでにバンネスク自体は《天帝の火》によって跡形もなく消滅している。同王国特有の広大な森林に覆われた丘陵地帯を背後に従え、侵略者エスカリア帝国の旗のひるがえる建築群があった。煉瓦造りのその館は、これまでガノリス軍が使用していたものだ。
 建物の一室、革張りの表紙のついた仰々しい文書を手に、ひとりの中年紳士が歩き回っていた。壁の時計を何度も確認しながら、渋い顔をして何かを待っているようだ。青地に赤い襟、随所の縁取りに金モールも鮮やかな上着。白のズボンに革の黒いブーツ。彼の服装は、帝国軍の制服に他ならない。立派な肩章や、誇らしげに飾られたいくつかの勲章等からみて、おそらく上級将校クラスの軍人であろう。
 頭髪は薄いが、対照的に髭は豊かであった。見事に刈り込まれ、両端が勇ましく上向きに跳ねている口髭を、彼は落ち着かない様子で撫でる。そうかと思えば今度は背後の窓に歩み寄り、外を覗いては執務用の机にまた戻ってくる。
「遅い! 遅すぎる……。あの男、まさか今回の件で嫌気がさし、軍を辞めたのではあるまいな。謹慎中にもかかわらず、連絡もろくに取れないというではないか。まったくもって信じ難い!」
 彼は忌々しげに呟く。
 そのときドアがノックされ、同じく帝国軍の制服を着た男が入ってきた。ゆっくりとした、重々しい動作での敬礼。そして慇懃ながらも、上官に対して親しみも滲ませた口調で、彼は報告する。
「局長、ド・ランツェロー殿が到着されました」
 こちらは若干若く、三十代くらいに見える。例の青と赤の衣装の上に、彼は黒いコートをまとい、白の剣帯を掛けている。これが帝国軍の正装であった。
 局長と呼ばれた先ほどの男は、面倒そうに席を立つと窓から街路を見下ろした。帝国軍の一台の馬車が、いま着いたばかりのような様子で止まっている。長時間待っていたわりには、局長の表情は、待ち人と会うのが気に入らないとでも言いたげである。
 その微妙な表情から何か察したのであろう、もう一方の男が皮肉っぽく言った。
「《コルプ・レガロス》――白馬に乗った聖騎士様の登場というわけですか。いや、あの方はもう、《元》コルプ・レガロスでしたね」
 溜息とともに、局長はうなづく。
「困ったものだ。合理化された我が軍の階級制度にさえ、まだ《機装騎士(ナイト)》などという過去の遺物が残っておる。あの妙な称号や、それに伴う特別扱いの指揮系統があるために……時には佐官クラスの者でさえ、自分が彼らに対して上官として振る舞うべきか、同輩として接するべきか戸惑っておる。現場の混乱を考えると、百害あって一利なしだ。ライ・ド・ランツェローなど、その害悪の典型ではないか」

 ◇

 階下の馬車から誰かが降りようとしていた。茶色い髪、若い男のようだ。赤い襟と黒いブーツも見える。彼も帝国軍の制服を着用しているのだが、羽織っているコートは黒ではなく、白地に金という派手なものである。形状も異なっている。他国の機装騎士と同様、擬古的なサーコートを制服の上にまとっているのだ――ブーツの足首付近までが隠れてしまうほどの丈がある。
「どうも」
 素っ気ない声で、彼は御者に礼を言った。
「荷物を部屋までお運びしましょうか?」
「いや、いい。自分で持って行くから。大事な物も入ってるんでね、あまり他人にさわらせたくないんだよ」
 冷たくそう言われ、確認するように何度か相手の顔を見た後、御者は席に戻ろうとする。と、サーコートの男が、どういうわけか少し機嫌を損ねたような目つきになった。
「あ、俺さ、部屋まで運んでくれとは頼んでないけど……荷台から降ろすぐらいは手伝ってもらえると助かる」
 そう言われて渋々戻ってきた御者は、革張りの大きなトランクを慎重に運び出す。
 彼に続き、古典的な白の騎士装束を羽織った例の男が、馬車から降りてくる。二十代半ばかと思われる、短めの茶色の髪に眼鏡の青年だ――いや、彼の《眼鏡》は、旧世界の発掘品をまねて最近作り出された特殊なタイプであった。レンズの部分は透明ではなく真っ黒だ。いにしえの時代、真夏の海岸などに出かける際、目を日差しから守るために使われていたものだという。当時の事情を知らない現世界人にしてみれば、視界が悪くなるだけの目隠しだと思うことだろうが。丸い小さなレンズの付いたそれを、彼は鼻眼鏡風にずり下げて掛けていた。これではあまり日よけの意味を為さない。たぶん、単なるファッションなのだろう。
「では、お気を付けて。ド・ランツェロー様」
 御者からトランクを受け取ると、彼、ライ・ド・ランツェローはぶっきらぼうに答えた。
「はぁ? お払い箱になるヤツに、気をつけて行けも何もないでしょ。でもまぁ、そういうアンタの好意は受け取っとくよ」

 ◇

 来た道を戻ってゆく馬車の音。館内では、軍靴でカツカツと階段を上る足音。ほどなく局長の部屋がノックされ、ライの姿が現れた。
 敬礼した後、姿勢自体は正しつつも、ふてくされた顔で彼は突っ立っている。放っておいたら壁にでも寄りかかり始めかねない雰囲気である。
 そんなライに呆れた眼差しを向けると、局長は諭すように言った。
「若いな、貴殿も……。《コルプ・レガロス》を退団させられたからといって、そういう投げやりな態度はなかろう。気持ちは分からんでもないが、一体、家門にこれ以上の傷をつけて何の得がある?」
「そりゃどうも。別に、昔からこうなんですけどね」
 局長は心の中で忌々しげに言った。
 ――殿下の御学友だと思い、若造が調子に乗りおって。大人しく宮廷にでも上がっておれば良かったものを。ランツェロー家の息子が道楽半分でエクターに居座るなど、傍迷惑にもほどがある。
「それで。俺の処分について結論が出たというわけですか? ガノリス方面統轄人事局長殿……」
 長たらしい役職名をわざわざ全て口にしたところは、何やら皮肉のようにも聞こえる。淡々とした口ぶりながらも、その抑揚のない声が、かえって苦々しく響く。
 彼の挑発的な態度を無視して、局長はそそくさと用件を伝え始める。
「ライ・ド・ランツェロー、貴殿の新たな配置先が決まった。この部隊が本国から到着次第、そこでエクターとして活躍してもらいたい。詳しくは書類に目を通してくれたまえ」
「活躍……ね」
 ライはわざとらしく大きな声で言うと、そこから先の言葉は心の中に収めた。
 ――要するに左遷だろうが。何だこれは? 飛空艦たったの1隻で独立特務部隊とは、危なっかしいったらありゃしない。いくらヘボいガノリス軍の残党が相手だからって、これでは沈めてくださいと言ってるも同然だ。左遷どころか、敵さんに《処分》してもらおうって話かよ?
 咳払いが聞こえた。局長はわざとらしく身振りを交え、大仰に言った。
「ちなみにその飛空艦とは、先頃建造されたばかりの飛空戦艦、いや、空地両用艦《アプゾルス》だ。話には聞いたこともあるかと思うが。《絶対の》という言葉(エスカリア語)に由来する名前の通り、たった一隻でひとつの艦隊にも匹敵する力をもつ、わが軍でも最強クラスの新鋭艦だ」
 今までいい加減に話を聞いていたライ。だが、にわかに彼の目に鋭い光が浮かぶ。
「アプゾルスって、あの……。まさかもう完成していたのですか。そりゃ面白い。で、任務は?」
「現時点では極秘の任務だとしか言えない。ともかく艦に到着してから詳細を聞きたまえ。貴殿の新しいアルマ・ヴィオもあちらに配備済みだ」
少しでも早く厄介払いをしたいといわんばかりに、局長は告げた。
「では。貴殿の立派な後ろ盾にはせいぜい感謝するのだな……」

 ◇ ◇

 昼間の騒ぎは幻だったのではあるまいか。そう疑ってみたくなるほど、ただ静かに、ランプの炎だけが音もなく揺れる部屋の中――イリスはアレスたちの帰りを待っていた。
 夕食の準備までの仮眠のつもりが、病弱なミーナは、すっかり眠り込んでしまっている。賑やかな来客に半日振り回されたせいだろう。
 窓辺から宵の闇を眺めるイリス。
 地平線まで続くかのような広大な畑、また畑。点々と農家の明かりが見える以外、視界すべてを早くも漆黒が塗りつぶしていた。この郊外の集落の背後にある、賑やかなエルハイン市街とは、似ても似つかない侘びしい夜景だ。
 遠い目をしたイリスは、囚われた姉チエルのことを心配しているのだろうか。見知らぬ現世界にその身をひとり置いた自分の状況が、急に不安に思えてきたのだろうか。あるいは、旧世界のことを思い返しているのであろうか。無表情な彼女から、その内面を読み取ることは難しい。
 外の暗がりから、おぼろげな灯りに照らされた室内へとイリスは目を転じる。彼女が振り返ったとき、長い髪が揺れ、薄闇に黄金色の粉を撒くように、キラキラと輝きを浮かべた。見る者を幻想の世界に誘う、霊妙な光。

「うふふ。本当に綺麗な髪だねぇ」
 女の囁き声。突然、誰かがイリスの耳元で言った。
 ほぼ同時に、低いうなり声が聞こえた。イリスよりも先に異変に気づいたのは、テーブルの下で丸くなって寝ていたレッケである。《彼》は純白の毛を逆立て、牙を剥く。だが無闇に飛び掛かったり動いたりしないのは、目の前のイリスの身を案じてのことなのだろう。何かを威嚇しつつ、状況を冷静に読んでいる……。カールフは、犬や猿よりもずっと賢いのだ。
 ――誰!? どうやって入ってきたの? 気配さえしなかった。
 イリスは恐る恐る振り向こうとした。
 だが、反抗を許さぬ鋭い声とともに、首筋に短剣が突きつけられる。
「おっと。下手に動くんじゃないよ。いや、あんたにも分かるように言ってあげようか、旧世界のかわいいお嬢ちゃん」
 そして、意外にも流暢な古典語で女は告げる。祈祷や呪文の詠唱を想起させる重々しい雅語の響きは、それゆえにいっそう、脅迫の言葉を真に迫ったものにしている。
「声ヲ上ゲテハナラヌ。私ノ言ウ通リニセヨ。サモナクバ、汝ノ命ハ勿論、ソコノ女ト獣ノ命モナイ」
 革の手袋をした白い腕が、その見た目とは裏腹に、荒々しくイリスの口を押さえる。
「いいかい、言うことを聞かないと、外で剣を振り回しているお馬鹿さんたちも無事じゃ済まなくなるよ? 勘違いしてもらっちゃ困るね。あたしは、奴らがいなくなった隙を狙って来たわけじゃない。アレス君だったかしら。あの子も、あたしにかかれば、三秒であの世行きさ」
 再び現世界の言葉がそう告げる。黒いマントをまとった真っ赤な髪の女が、イリスの背後に立っている。それが誰かを知り、普段は感情を表さないイリスも恐怖に襲われた。指先が微かに震え始めた。そう、忘れもしない、ラプルスの地下遺跡で彼女たち姉妹を捕らえようとした張本人、パラス騎士団のエーマがそこに居るのである。
「不思議かい? こんなドア、何の役にも立たないよ。他ならぬパラス騎士団に追われてるんだ、せめて腕の良い魔道士を呼んで、家の周りを結界で何重にも囲んでおくべきだったろうに。それにあたしは、気配を消すことにかけてはパラス騎士団でも随一なのさ」
 イリスは悲しげな想いを、一瞬、目に浮かべた。
 ――アレス、ごめんね。お別れよ……。
 あまりにも諦めが早すぎるかもしれない。
 だが彼女の天性の直感は、自分が足掻いても無駄なことを――無駄どころか、いたずらに犠牲を増やすだけにすぎないことを――確実に把握していた。やはりパラス・ナイトは他の戦士とは次元が違いすぎる。仮に、今ここにアレスやフォーロックがいたところで、為すすべもなくエーマに倒されてしまうだけだろう。
 ――本来、私は現在の世界に居てはならない者。使命のために時を超えて生かされた命。そんな私のために、いま生きている誰かを犠牲にしてはいけない。
 ほんの最近のことにも思える遠い過去、あの日の光景がイリスの脳裏をよぎる。

 ◇ ◆ ◇

「チエル、イリス、後は頼む。我ら《地上人》の末裔のため、時が来たら、後の世で《パルサス・オメガ》を目覚めさせるのだ。相応しくない者の手に渡る事なきよう、それまで《巨人》を守り抜け。任せたぞ。お前たちは私の誇り、きっとやり遂げると信じているよ……」
 天井が崩れ、折れ曲がっていく柱。燃え盛る炎の向こう、なぜか彼女たちの父は笑っていた。
「《さよなら》とは言わないからな。お前たちは遠い未来に再び目覚める。そのとき、私の魂もきっと側で見守っている。だからまた会う日まで、《おやすみ》と言おう」
 日頃はずっと気難しかった彼が、皮肉なことに、最後の別れの瞬間に最高の笑顔を見せた。
 ――パパ! 嫌だ、こんなの嫌だ!!
 煙に巻かれながらも引き返そうとするイリス。そんな彼女の手をチエルが引っ張った。
「駄目よ、イリス! 私たちが生き延びなくてどうするの? そのために、みんなも、お父様も……」
 何度もぐずり、決して言うことを聞こうとしない妹の頬を、チエルが泣きながら張り飛ばす。だがチエル自身も混乱してわめき、叫んでいた。姉としての責任も感じ、かろうじて正気を保っている状況だ。
「来なさい! いいから、行くわよ! 生きるのよ、早く!!」
 もはや手のつけようもないほど、火はますます燃え広がる。充満する煙の向こう、二人の娘の、長い黒髪と同じく金の髪が揺れ、やがて見えなくなった。

 ◇ ◆ ◇

 ――再び目覚めてから、ほんのわずかだったけれど、楽しいこともあった。アレス、会えて良かった……。
 イリスは悲しい決意をする。その身を犠牲にすることによって、彼女はアレスたちを守ろうとしているのだ。恐怖に震えかけていたその表情から、いつものように感情が消失する。
 ――私は、この全てを賭けてでもパルサス・オメガを守らねばならない。場合によっては、《大地の巨人》の覚醒の《鍵》である私自身の命を絶ってでも、悪の手には渡さない。
 イリスはレッケに向け、無言で首を振る。その目が訴えかけていることを、白い魔物は正しく受け止めたようである。《彼》は寂しそうに鼻を鳴らした。
 奥のベッドでは、このやりとりに気づかず、ミーナが心地よさそうに寝息を立てている。
 素直に従う様子をみせるイリスに、エーマは言った。
「そう、良い子ね。あたしは別に強盗でも山賊でもない。こっちだって、無意味な血は流したくないからねぇ。黙って着いてくれば、他の者に手出しはしない。それにあんたも、そろそろ姉さんに会いたいだろ、えぇ?」
 急に目を細め、優しげな笑みを浮かべたエーマ。
 姉という言葉を耳にした途端、イリスは過剰に反応し、声の出ない喉を絞って必死に何か叫ぼうとする。
 エーマは、白々しい作り声で穏やかに告げながら、イリスの髪をそっと撫でる。
「さぁ、一緒に来てもらうよ。姉さんも会いたがってる」
 イリスを引き立ててエーマが向かった先、なぜか家の扉が開いたままになっていた。頑丈な扉に、鍵まで掛けてあったはずなのだが。不似合いなほどの静寂と、極度に張り詰めた空気の中、夜風がそよそよと部屋に入り込んでくる。
 にわかに強くなり始めた風に、暗い情念のこもった言葉が流れゆく。
「結構な姉妹愛だこと……。ハァ? 兄弟とか、家族の絆とか、そういうのには反吐が出るんだよ。気に入らないねぇ!」
 憎しみと狂気に満ちたその現世界の言葉は、残念ながら、いや、幸いなのか、旧世界人のイリスには全く聞き取れなかった。
 なおもイリスの髪を不気味に撫でまわし、エーマは口元を歪める。
 ――大事な姉さんの次はあんたの番さ、イリス。チエル同様、涙も枯れ果てるほど可愛がってあげるから。ふふ、楽しみ……。

 ◇ ◇

 地平線の彼方が白み始め、徐々に薄赤く染まりつつあっても、まだ朝日が昇るまでには少し時間がある。春とはいえ氷点下に達する朝の寒さの中、通り過ぎる風を切り裂くように、灰白色の断崖が麓の森からそびえている。
 ここはガノリス王国と隣国のアディーエ公国との間に位置する山脈である。屏風のごとく林立する切り立った岩山は、芸術を志す者にとっては格好の題材となっている。反面、旅人にとっては難所である。だが現状では、ガノリス王国に南から陸路で入ろうとする者は、眼前に広がる奇岩地帯を越えて行くしかない(*1)。
 それでもガノリスとの貿易のため、この山脈を通る旅人は後を絶たない。そこで峠越えの前に装備を調え、英気を養うための宿場として、山間の小国にすぎないアディーエも、それなりに豊かな発展を遂げてくることができたのである。

 連なる岩山のひとつの影に隠れるようにして、巨大な鋼の異物が夜明けを待っていた。それは飛空艦……だろうか? 規模からすると、飛空戦艦クラスであり、クレドールよりも一回り大きい。艦橋のそびえる本体は、左右にある短い翼も含めて見ると、三角形に近い形状である。その裏面には橇(そり)を思わせる脚部があり、大地の上でしっかりと艦体を支えている。さらに本体から前方に向け、砲台を備えた首のような部分が伸びている。その底面にも、艦を支える脚上の構造物がみられる。巨体を彩るのは主に二つの色合い――黄土の大地の色と、濃い木々を思わせる色。
 首の長い鳥が地表すれすれで羽ばたいているかのような、独特の形状をもつ船。その艦橋の窓辺に二人の男が立ち、朝焼けの外を眺めていた。
 一方は四十代、中背だが筋肉質、いかにも闘士という体格だ。おそらく無精髭であろう、あまり手入れのされていない口元と顎の髭。大雑把に後ろで括った赤茶色の髪。帝国軍の制服の着こなし方も、何やらいい加減である。男の面構えは精悍で眼光も鋭い。数々の戦いをくぐり抜けてきた、海千山千のやり手なのであろう。帝国の士官というには野暮ったく、荒々しく、むしろ山賊や海賊のボスといった風貌である。
 懐から、へこみだらけの使い古したピューターを取り出し、彼は朝っぱらから火酒をあおった。そして、耳ざわり良く響く低い声で、呆れたふうにつぶやく。
「しかしさぁ、カノン君よ。こんなんでいいのかねぇ。まだお仲間同士の顔見せすら、ろくに済んでいない状態で、いや、まだ艦に来てねぇ奴だっているってのに、いきなり実戦とはよ……。俺らって何なんだろうなぁ」
「はい、我々にそれだけ期待が寄せられているのであると、私は考えます。失礼ですが、艦長、作戦中に酒は控えていただかないと困ります。軍紀が……。なお、私はカイノンであります」
 隣に立つ長身の男が、いささか真面目くさった口調で答える。もうすぐ三十代に手が届く年代であろうが、彼の表情には、いまだ少年を思わせる初々しさが時折見て取れた。控えめながらも強い精神力をうかがわせる、鋭い目つき。多少、つり目気味だ。ひょっとすると新調したのであろうか、黒いコートの生地には仕立てたばかりのような張りがあり、襟もきっちりと立っている。剣帯の白の色も、本当に真白い。
「お堅いねぇー、カノン君は。これは酒じゃねぇ、命の水、目覚めの良くなる霊薬さ」
 艦長と呼ばれた髭の男は、取り澄ました青年の背中を親しげに叩いた。そして、不意に真面目な表情に代わり、青年の顔を見上げるようにのぞき込む。
「この仕事は手強い。頼むぜ? 我が片腕のカイノン・デミアーノ副長」
 整った顔つきだが、あまり表情豊かでないクールな副長は、声を抑え気味にうなずいた。サラサラとした金色の髪を額で二つに分けている。
「勿論です、カトローン艦長。《荒鷲》と勇猛を轟かせる艦長のもとで、こうして初めての副長の職務を果たせるとは、光栄の極みであります」
「俺と同じ船に乗ってみて、光栄というより、呆れたんじゃねぇか。噂のライ・ド・ランツェローといい、俺といい、この艦はヤクザもんが多いぜ? 君のようなヤツが、しっかりと手綱を握ってくれねぇと困る」
 酒臭い顔をすり寄せ、艦長はデミアーノ副長と肩を組んで豪傑笑いをした。ただの酔っぱらいの親爺のようだが、この男、エスカリア帝国の飛空艦隊の中でも、常勝不敗といわれるほどの勇将であった。そんな彼、アルトリオ・ド・カトローンが主力艦隊から外され、新たに一特務部隊の長とされたときには、帝国軍人の中でもちょっとしたニュースになるほどであった。カトローンは優秀だが、服務態度にあまりに問題があったためではないか、と。だが実際には、勿論、左遷ではない。彼は――帝国軍の今後の新兵器開発の鍵を握る大いなる野望のため――そう、《プロジェクト・ゼーレム》の最終的な実地試験のために抜擢されたのである。
 そして、帝国軍の最新技術を惜しみなくつぎ込んだ新造艦《アプゾルス》が、彼らの任務のために投入されたのであった。

 妙に威勢の良い艦長と、対照的に冷めた副長の姿とを背後から観察しつつ、艦橋の奥から、白衣の女が溜息混じりに言った。
「艦長、ご機嫌ですね、この朝早くから。私も個人的には嫌いじゃありませんが、副長も指摘されたとおり、このお酒臭いのはちょっと……。艦長が率先して風紀を乱すというのは、示しがつかないのでは?」
 《ゼーレム》開発主任の魔道士、ジーラ・ド・エンドゥヴィアだ。
「ま、朝から煙草臭いアタシが言っても、説得力ゼロか…。ところで艦長、ランツェロー殿は、まだ到着されませんか? 作戦の実施前に、最低限の打ち合わせはしておきたいと思いますし」
 ジーラの言葉にも全く遠慮を見せず、カトローン艦長は敢えてもう一杯、錫製のピューターから喉に酒を流し込んだ。それを見てデミアーノ副長が、隣で固まっている。
「あぁ、なんせ、あのひねくれ者のお坊ちゃんだからな。腕は確かだが、念には念を入れて打ち合わせしておかないと、何をしでかすか分かったもんじゃない」
 艦長は口元でニヤニヤ笑いながら、切り立った山脈の彼方を見つめた。
「だがよ、ジーラ博士。帝国軍きっての厄介者、面白いじゃないか。早く会ってみてぇと思わないか?」
 わざとらしく、ジーラが咳払いする。彼女は話題を変えた。
「それで、艦長。単刀直入にお尋ねしますが、早々にアプゾルスが《ブレニエル・パス》に向かわされたのは、本当はどういう裏があるんです?」
 ブレニエル・パスというのは、アディーエ公国から山脈を越えてガノリスに至る峠道のことだ。ジーラの問いにしばらく黙っていた艦長は、デミアーノ副長と顔を見合わせ、やがて声を落として語り始める。
「ま、いずれ分かることだ。極秘事項だがよ、一蓮托生の博士には話してもいいだろう。実は、明日に峠を通る輸送部隊の荷には、《あれ》が紛れ込ませてあるってことだ。アルマ・ヴィオ担当ではないにせよ、軍の研究者のあんたなら知ってるだろ? 《パ・シヴァー》のことは」
 《パ・シヴァー》という言葉を聞いた途端、ジーラの表情が真剣味を帯びる。いや、彼女の後ろに遠慮がちに立っていたマテュース・ド・ラムリッツの方が、いっそう表情を変化させた。細い黒縁の眼鏡を光らせ、半ば反射的に口を突いて言葉が出た。
「パ・シヴァー。PT兵器を装備した次世代の汎用型のプロトタイプ。あれは《ルガ》タイプのアルマ・ヴィオとも、互角に戦える性能だと聞いています」
 アルマ・ヴィオ開発の専門家・ラムリッツには、よほど思うところがあったようだ。指先が微かに震えてさえいる。武者震いの類であろうが。
 何とも言えぬ表情の研究者二人。彼らを前に、艦長は語り続ける。
「最近、ほら、軍でも噂になってるだろ? 帝国軍、それも上層部に、ガノリス連合と通ずる裏切り者がいるんじゃねぇかって話……。《パ・シヴァー》の件も、ガノリスのレジスタンスに筒抜けになってる可能性がある。奴ら、パ・シヴァーを前線配備させないために、いや、あわよくば強奪しようと、奇襲を掛けてくるかもしれん。もし俺がレジスタンスだったら、必ず狙うね」
 デミアーノ副長が、説明口調で艦長の言葉を継いだ。
「その場合、最も奇襲に適している場所が、ブレニエル峠というわけです。ガノリス本土への攻撃の際にも、ブレニエル越えで進軍した部隊は、複雑な地形を知り抜いたガノリス軍の攻撃に攪乱され、結局、突破自体には成功しませんでした。王キが落ち、背後から包囲され、ようやくブレニエルの守備隊も降伏したものの」
 眠そうな薄目の表情のジーラ。彼女も仕方なさそうに肯いた。もともとクセの強い黒髪が、寝ぐせのせいか、さらに乱れている。
「そうね。あの細い街道、両側の崖から待ち伏せされれば、厄介だわね。何かあった場合には近隣の部隊から援軍は来るのでしょうけど、不測の事態ということもある。そのために、アプゾルスが遊撃隊として臨機応変に備える……か。まぁ私としては、かわいい《ゼーレム》の、ヴィアちゃんの実戦データがさっそく取れそうで好都合なんだけど」
「ガノリスのレジスタンスは、見た目よりずっと手強いぜ? なんせ、あいつが健在なんだから。《デツァクロン》の中でも屈指の機装騎士、レオン・ヴァン・ロスクルスがよ」
 敵ながらも天晴れとでも言いたげに、ある種の敬意を込めて艦長がつぶやく。
 それに対し、しばらく静まりかえった艦橋。やはりロスクルスの実力は、帝国軍といえども皆、認めるところのなのであろうか。朝の静寂も手伝い、張り詰めた空気。

 そのとき、背後で大げさに拍手する者があった。
「はぁ? そのロスクルスさんとやらが居たって、何だかんだでガノリスは帝国に負けたわけでしょ」
 帝国軍の制服をまとった茶髪の青年が、白いサーコートを肩に引っかけ、艦橋の奥の方へとゆっくり歩いてくる。彼の後ろには、艦のクルーが困った顔で付き添っていた。
「まさか、あれがランツェロー?」
 ジーラの耳元でマテュースがささやく。同じく艦橋内もざわめいた。
 鼻眼鏡の向こうから上目遣いに睨むように、不敵な表情でライは言う。
「こんな大層な船に、《荒鷲》様を筆頭にご立派な人たちが集まって、何びびってんです? やれやれ。こっちは夜中に馬を飛ばしてきたんで、正直、眠いんですけど……。しばらく仮眠させてもらっていいですか?」
 そう言いつつも、すでにライの足は艦橋の外へと向かっている。
 突然の登場と高慢な言動に、周囲の人々は言葉も出ず、呆然と見つめていた。
 艦長は鼻で笑い、口元を緩めて頷く。なぜか楽しそうな表情である。
 新しい煙草に火をつけ、ジーラ博士が言った。
「私も失礼して、一本だけ。まぁ、お手並み拝見といきましょう? 我らの帝国きっての機装騎士、ライ・ド・ランツェロー様の……」

 ◇ ◇

「もうすぐ夜が明けますか。周辺の地理に暗いこちらが夜襲を避けたことは、ナッソス家の計算通りといえば計算通りでしょう……」
 今の時刻を確認し、クレヴィスは懐中時計の蓋を閉じた。
 その姿を誇示するかのごとく、ミトーニア市上空に巨大な翼を広げるクレドール。同じくギルドの飛空艦、ラプサーとアクスの姿もあった。もはや同市からの攻撃を受ける恐れはない。
 昨日の夕方、ギルドとミトーニア市との講和会議が開かれ、ミトーニアはギルド側の要求を全面的に受け入れた。同市は武装解除し、議会と国王への忠誠を改めて宣言。同時に、ナッソス家への人的・物的支援すべてを停止したのである。これと引き替えに、条件通り、ミトーニアの自治権は従来通り認められ、市長や参事会をはじめ当局の関係者も責めを問われぬこととなった。
 市街から伸びる幾つもの塔や、街を守る城壁が、夜明け前の闇の中に黒々とそびえている。その堂々とした姿は、遥か高空にあるクレドールの艦橋からでも見て取れる。
「ミトーニアの街、こうして見る限り、ほとんど以前のままですね。良かったです」
 窓辺に身を乗り出すようにして、ルキアンがミトーニアを眺めている。眠そうに目をこすりながらも、彼の表情はいつもより少し嬉しそうだ。
「そりゃ、おめぇが頑張ったからだぜ!」
 分厚い手でいきなり背中を叩かれ、ルキアンは驚いて振り返った。
「……バーン? お、おはよう」
「よぉ、ミトーニアの救世主殿!」
 そこで言葉を飲み込み、豪快にあくびをしたバーン。徹夜同然で任務に当たっていた艦橋のクルーたちから、無言の圧力がかかる。特にセシエルが眉をつり上げてこちらを見ている。
「わ、悪ぃ。あはは。セシー、ま、まぁ、朝からそんな怖い顔すんなって」
 気まずい雰囲気に苦笑いすると、バーンはルキアンに言った。
「正直、すげぇよ。たった独りでミトーニアを戦火から救ったようなもんだ。おまけにあのレーイでさえ苦戦したっていう、ナッソス家の黒い恐竜みてぇなヤツまで倒したんだろ。お前、本当にルキアンなのか?」
「い、いえ、その……。僕じゃなくって、アルフェリオンの性能のおかげですよ。それに、いろんな人が沢山助けてくれたから」
 恥ずかしげにうつむくルキアン。声がだんだん細くなってゆく。
 そんな彼の様子に大げさに頷くと、バーンは大笑いした。いや、再びセシエルに睨まれ、途中で笑い声を落とした。
「今の様子で、やっぱりルキアンだって安心したぜ。アルフェリオンの性能って……それを言っちゃおしまいだが、いや、なに、俺が褒めてるのは、そんな凄いアルマ・ヴィオを自由に操れるっていうお前の腕だよ」
 早朝から独りで元気をふりまくバーンの姿に、クレヴィスは呆れた様子で微笑んでいる。
「バーン。そろそろアトレイオスに乗って待機していないと、メイやベルセアに叱られますよ」
「いやぁ、それがだ。あいつらさ、昨日の戦いでナッソス家の黒いヤツに手も足も出ずにやられちまったせいか、妙におとなしくてよ。まぁ、俺だって、わざわざ馬鹿でかい《攻城刀》を持って出たわりには、結局役立たずだったけどな」
 なぜかクレヴィスは窓の外を見つめながら、意味ありげな調子で答える。
「攻城刀は今日の戦いで必要になります。必ずね……」
 肩をいからせ、大股で艦橋から去って行くバーン。
 苦笑しながらルキアンが彼の背を見送っていると、クレヴィスが、同じく意味深な調子で尋ねてくる。
「ルキアン君。あの《柱》の並び方をみて、ちょっと気になりませんか?」
 ツーポイントの眼鏡の奥から、クレヴィスの鋭い視線が眼下の大地を射た。薄明の中、彼方まで広がる、緑の大海のごとき中央平原――ミトーニア市の郊外に小高い丘がひとつ、ぽつんと取り残されたようにそびえている。
 丘の中腹には、ナッソス家の城があった。昼間であれば、鮮やかなオレンジ色の屋根と白亜の城壁が見事に目に映るはずだ。単なる城壁だというよりも、堅固な建物が壁状に本館の周囲を囲んでいると表現した方が正確であろう。城壁をなす建物には多数の窓があり、そのいくつかには明かりも灯っている。ランディやシソーラとともにルキアンが訪れた城の本館は、城壁の内側にある。いくつかのドーム状の建造物や沢山の尖塔を備えた本館のシルエットは、壮麗であった。
「柱って、あ、あれ……ですか?」
 まだ外は薄暗くてよく見えないため、ルキアンは眼鏡を少しずらしたり目を細めたりして、クレヴィスのいう《柱》をようやく発見した。
「かなり、大きいものですね。城壁よりも高いみたいですけど、1本、2本……4本、ありますか?」
 天を突くような石柱が4本、丘の周囲に立っている。まだ陽は昇っていないとはいえ、柱の質感は多少なりとも把握できる。黒曜石を思わせる、冷たい漆黒の肌だ。
「あれって、何でしょう? 窓も屋根もなく、塔でもないようですし。記念碑にしては大きすぎますし。いや、そういえば、並び方が……乱雑ですね」
「そう。もし4本の柱が何らかの装飾のためのものならば、一定の規則性をもって――例えば丘の四隅に立てられたり、整然と並べたられたりしているのが普通です。それが、位置がまったくバラバラですね。その不規則さがかえって不自然なのですよ。よほど変わった美的センスの持ち主が作ったのなら、話は別ですが」
 首をかしげるルキアンだったが、クレヴィスの次の言葉で何かを理解したようだ。
「冗談はさておき、仮に最も都合の良い場所、あるいは《効果の高い場所》を選んで一本一本立てていった結果、あのような配置になったのだとしら、どうです?」
「そうか、もしかして。大地の《霊脈》ですか!?」
 急にルキアンが珍しく大きな声を出したため、ブリッジの人々の視線が彼に集まる。セシエルは人差し指を立て、形の良い唇に当てている。
「ルキアン君ったら……。でもさすがに魔道士の卵ね」
 幸い、先ほどのバーンの場合とは違い、彼女の目は笑っていた。何事もなかったかのように、セシエルは艦の念信装置に再び意識を集中する。
 慌てて頬を真っ赤に染め、あちこちに頭を下げているルキアン。
 そんな彼の姿をよそに、クレヴィスの声が艦橋に淡々と響いた。
「そう。あの《柱》は、大地を走る霊的な力の流れを見定め、それを吸い上げるために打ち込まれている可能性が高いのです。あの丘自体、地形的にみて自然力の守護を強く受けています。まぁ、気の利いた設計者なら、地霊の加護も計算に入れ、つまり対魔法防御の効果の高い場所を選んで城を立てるのですが」
 窓辺を後にし、席に戻るクレヴィス。カルダイン艦長と目が合う。
「カル、昨晩の会議でも言った通り、うかつには城に近寄れません……。特に空からの接近は危険です。結界を発生させるためのものか、あるいは攻撃兵器、一種の要塞砲か、あの柱の正体が分からない限り」
 無言で肯いた艦長に、クレヴィスは不敵に微笑んだ。
「しかしあれが何であろうと、まぁ、何とかしますがね」

 地平線の向こうから、平原を経て次第に丘の方へと、明けの白い光がいつの間にか達していた。城の丘一帯に展開するナッソス軍の陣容も、次第に露わになる。丘の周囲には水堀や空堀あるいは塹壕が走り、にわか作りとは思えぬ、小規模な城にも比肩する砦が立ち並んでいる。MgSの重砲を備えた砲台も、あちらこちらから敵を狙い打つ構えである。
 やがて登り始めた太陽。
 煌々たる朝日に照らされ、小山のごとき人の影や獣の影が無数に浮かび上がる。敵軍の侵攻を阻むための杭や柵の向こう、温存されていたナッソス軍の主力部隊のアルマ・ヴィオが、整然と配置についているのだ。
 その中に、一段と白く輝く機体が見えた。仮面を思わせる顔は、優美にして怜悧。鋭く切れ込んだ目が赤く光る。装飾であると同時に首の部分を保護するためのものであろうか、後頭部から魔法合金製の曲線的な垂れが幾重にも折り重なり、背中へと伸びている。女性の髪を連想させる造形だった。
 ――ギルドの者たち、どこからでもかかって来なさい。ナッソス家の力を見せてやる。
 その美しきアルマ・ヴィオ、イーヴァを操るエクターが言った。
 ――パリスの命を奪った白銀のアルマ・ヴィオ、私が必ず倒す!
 ナッソス家の勇ましき姫君、戦乙女の化身ことカセリナが、いまルキアンたちの前に立ちはだかるのだった。

 ◇ ◇

 空陸両用艦《アプゾルス》は、もちろんエスカリア帝国にて、つまり現世界において建造された船に他ならない。そのわりに同艦の内部の雰囲気は、いわゆる《旧世界風》の淡泊な様相である。
 旧世界風――装飾過剰の傾向のある現世界の様式に比べ、ひとことで言えば、色合いも装飾もシンプルなのだ。いま目の前に伸びている廊下にしても、床から天井まで一様に白っぽく、飾り気もなく、平板な箱の中に居るような気分になる場所だった。鮮やかな色つきの壁紙が貼られているわけでもなければ、緻密な寄せ木細工の床板が敷き詰められているわけでもない。現世界の建物や艦船の内部であれば、例えば金色の化粧漆喰のツタが壁を這っていたり、得体の知れない獣や小天使の彫刻が天井の片隅でしかめっ面をしていたり、といった風景のひとつぐらいあってもよさそうなものだが。
 旧世界の技術に入れ込むあまり、エスカリアの人々の美的感覚までもが、いまや旧世界人のそれに近づきつつあるのだろうか。
 そんな殺風景な廊下に、ジーラの甘ったるい声が響いた。
「さぁ、ランツェロー殿。ここですよ」
 彼女より何歩か後ろの方に、ライ・ド・ランツェローが、半分寝ているような顔つきで突っ立っている。あまりに返事が遅いため、ジーラは思わず振り向いた。
 話半分で生あくびしているライ。エスカリア人の男性としては、彼の背丈は平均的だ。それに対して背の高いジーラ。ちょうど二人の目線が同じ高さでぶつかった。
 ジーラの鳶色の瞳を面倒くさそうに見つめた後、ライは鼻メガネを指で少し押し上げた。わざとらしく、黒いレンズで目を隠そうとするかのように。
「はいはい。ガキじゃないんだから、いちいち返事がなくても聞いてますって……。別に任務は明日なんでしょ? もう少し寝かせてくださいよ。それに、俺のことはライでいいです。ランツェローって呼ばれるの、あんま好きじゃないんで」
「あら。実は、名門ランツェロー家という響きが、お気に召さないとでも?」
 ジーラもジーラで、遠慮というものを知らない大胆不敵な性格のようだ。ほとんど初対面かつ名家の誉れ高き機装騎士に対し、高飛車な目線でからかうように皮肉を言っている。
「……さぁね」
 ライは小声で吐き捨てるように言った。名門や御曹司という言葉は、本人としては癇に障るようだ。
「早くしてくださいよね。俺、もう少し寝たいし」
「まぁまぁ。眠気も吹き飛ぶような可愛い娘を、これから紹介してあげようって言ってるんだから」
 呪文鍵で何重にも封印された分厚い金属の扉を前にして、ジーラはライに向かって余裕げに笑っている。その様子は、年下の子供を軽々とあやしているかのようだ。彼女も相当の曲者である。
 ジーラが素早く何節かの呪文をつぶやき、指を中空に走らせて図形を描く。軋むような音とともに、扉はおもむろに開いた。

 ◇

「何なんです、この悪趣味な部屋は?」
 昼間の陽光が差し込む廊下に比べ、そこに入ると急に薄暗くなった。足元に横たわる太いコードかパイプらしきもので、ライは爪先を引っかけそうになる。気のせいか、その何かの感触は、ヌメヌメとして生き物のようでもあった。思ったより広い室内、触手のごとき気味の悪い管が床面を縦横に走っている。
 ライは呆れた様子で、目線を足元から徐々に上げていった。と、一瞬、彼の背中がぴくりと微動したかのように見えた。
「こいつ……ですか。もしかして」
 ライは黒眼鏡を再びずり下げ、不可解そうに正面を見つめている。
「そう。これが《ゼーレム》、名前はヴィア。さぁ、マスターにご挨拶なさい」
 天井に届くほどの高さの巨大な硝子製のカプセル。それに向かってジーラが片目を閉じてみせる。
 硝子の中に何か靄のような、影のごときものが漂っていることは、ライにも分かっていた。その影はみるみるうちに濃くなり、淡い光を放ち始める。呆気にとられている間に、影は光へ、さらには人のような姿を取っていた。
「妖精? いや、これがゼーレム、か」
 透き通った青白い輝きを放つその存在には、ある種の幽遠な美しさが感じられた。だが見とれる間もなく、同時に不気味で邪悪そうな印象をも、ライは目の前のゼーレムから受け取った。幻灯に映し出される像さながらに、実態なき体がふわふわと浮いている。白い衣をまとっているようにも見えるが、どこまでが衣なのか肌なのか、区別が付かない。
 その異様な存在は、カプセルをのぞき込むライの方に近寄り、彼と同様に相手を硝子越しに見つめている。血の気のない、のっぺりとして能面を思わせる表情。よく見ると、うら若い娘を模したようにも感じられる容貌だ。だが人間の顔には有るものが、《彼女》には無かった。
 ライの顔つきをニヤニヤと観察しながら、ジーラが言う。
「ゼーレムに口はない。もっとも彼女は物を食べたりするわけじゃないから、口を付けるか付けないかは、見ている方の気分の問題にすぎないけど」
 ジーラは不意にライに背を向け、目の前の机に置かれていた書類を事務的に手に取った。
「本当はね、口がないのは、ゼーレムの設計思想の象徴なのよ。兵器に意思など必要ない、無駄口は叩かなくていいってね。ゼーレム開発の模範とされた旧世界の《パラディーヴァ》のこと、少しぐらいは知ってるでしょ? パラディーヴァが一種の《人格》や《感情》を持っていたことは兵器としての欠陥だったという仮定のもと、ゼーレム計画は出発した……」
 無言のライをよそに、ジーラは淡泊な口調で続けた。
「でも、その仮定が正しいとは言えない可能性も残っている。そうねぇ、もし《心》が無意味なものだったり、生き残るために邪魔になるものだったなら、なぜ私たち人間は心をもっているのかしら……なんてね。だから、最終的な実験体のひとつであるこの子、ヴィアには、敢えて少しだけ《心が与えられている》のよ。勿論、当初の計画通りに心を全く持たない実験体も別に何体かいて、他の場所で今頃はテストが始まっている。比較のためにね」
 ジーラの冷淡な口調と対照的に、なぜかライは複雑な面持ちでヴィアを見つめている。つい先ほどまでは白けたような様子で、いい加減に話を聞いていたにもかかわらず。

 静寂を破り、出し抜けにヴィアが声を立てて飛び回り始めた。
「キャハハハ! ワタシハ、ヴィア。テキハ、カンゼンニマッサツスル。オマエハ、テキカ? イヤ、オマエ、ワタシノマスター。メイレイシロ、メイレイシロ。ヒャハハハハ!!」
 さすがのライも言葉を失っている。いや、この傲慢な若き機装騎士ですら、いくらかの恐怖を本能的に感じ取っているのだ。
「何なんだよ、こいつは……」
「あら、ずいぶんな言い方ね。今日から、この子はライの分身なのに。まだ今はこんな感じだけど、どこまで育つか。それはあなた次第よ、ライ・ド・ランツェローさん」
 ジーラは悠々と椅子に座り、足を組むと、ライを値踏みするかのようにじっと見ている。
「ひとつだけ忠告しておこうかな」
 彼女の声が、いっそう冷たい響きを帯びた。
「矛盾してるような言い方だけど、この子にあんまり思い入れを持ちすぎない方がいいかもね」
 ライは素っ頓狂な声で返答した。
「はい? 何かと思ったら、そんなこと。誰がこんな《化け物》に……」


【注】

(*1) いったんオーリウムを経てガノリスに入国する方が、たとえ距離的にかなり遠回りになるとしても、結果的にずっと安全かつ容易に旅ができる。だが、紛争の絶えない両国の関係は近年ますます悪化しているため、オーリウム当局もガノリスへの国境をそう簡単には開かないのが現状なのである。

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