HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第41話

Copyright (C) 1998-2008. Hayato KAGAMI

 悪夢に命を与え、現実の中に形として表現してみたいと思うこと。
 それは、ある種の人間のもつ本能なのだ。
 (ダイディオス・ルウム教授 旧世界の天才科学者)


 1.

「たっだいまー! それにしても腹減ったぁ」
 家のドアが開いたかと思うと、元気な声とともにアレスが飛び込んできた。まるでここが自分の家だと言わんばかりの勢いと口ぶりだ。
 その大声で目が覚めたのか、奥のベッドで眠り込んでいたミーナが上体をそろそろと起こした。
「あ、おかえり…。アレス、君? あ、フォーロックも。遅かったのね」
 彼女は寝ぼけ眼をこすりながら、しばらく周囲を見回していた。すでに窓の向こうには夜のとばりが降りている。玄関のランプの光に照らし出される二人の姿が、ぼんやりとしたミーナの視界に浮かぶ。
「あ、あら? 私、寝ちゃったのか。少し横になるだけのつもりだったのに…。いけない、晩ご飯!」
 彼女は慌てて飛び起きようとしたが、すぐに姿勢を崩し、二、三度咳き込んだ。ベッドに座って苦しげに息をするミーナを、フォーロックが手慣れた様子で支えている。
「さては、今日、アレスたちのおかげで楽しくはしゃぎすぎたんだな? 無理すんなって。料理ぐらい俺が何とかするからさ」
「ううん。ありがとう、もう大丈夫。それよりイリスちゃん、あたしが寝てる間、退屈だったでしょ。ごめんね」
 沈黙……。返事はない。気になったミーナは部屋の中を見回した。次第に彼女の表情が真剣になってゆく。
「イリスちゃん? どこにいるの?」
 虫の知らせとでもいうのか、ミーナは、不意に漠然とした嫌な予感を覚えた。
 レッケの低いうなり声がした。食卓の下にうずくまっていた《彼》は、何かを訴えようとするかのごとく、しかし戸惑った様子で声を上げている。すべてを知る者は、語ることのできない、この魔獣だけなのだ。
 幼い頃からの友であるアレスは、すぐにレッケの異変に気がついた。だが、何かあったという可能性は認めたくないものである。この期に及んでも。
「やだなぁ、ミーナさん。急に何を怖い顔してるんだよ。あいつは行儀が良すぎるっていうか、静かすぎて、居ても居なくても分かんないことがあるから。レッケも、吠えんじゃねぇってば。腹減ってんのか?」
 次いでアレスは脳天気にイリスの名を何度か呼んだ。しかし相変わらず答えはない。つい今まで笑っていたアレスの目つきも、さすがに険しくならざるを得なかった。
 フォーロックはずっと黙っていた。部屋の薄暗い明かりではよく見えないだろうが、彼の表情はアレス以上に急変し、わき起こる何らかの強い思いを押しとどめようと、固くこわばっている。
 そんな彼の様子に気づくこともなく、アレスは無理に笑ってみせる。
「あはは。なんつーか、ほら、あいつ……時々、不思議な行動するからさ。俺、ちょっと、そのあたりを見てくるよ。畑をフラフラうろついたり、星空に向かって一人で話しかけたり、どうせまたそんなところだよ。じゃぁ、晩メシ頼むぜ!」
 口では冗談を言いながらも、彼の手足は全力で動き出そうとしている。立ち尽くすフォーロックの傍らをアレスが走り抜ける。開いたままのドアから、獣顔負けの俊敏さで夜の田園に飛び出していった。
 レッケも素早く立ち上がり、後を追う。白い体が闇に浮かび、消えてゆく。

 彼らが入ってきたとき、家のドアには確かに鍵が掛かっていた。《開いていた》のではない。フォーロックが鍵を開けたのである。
 だが実際には、フォーロックとアレスの留守中、エーマがいったん鍵を外して中に入ったのは言うまでもない。一瞬の隙にイリスを連れ去る際、エーマは知らぬ間に鍵も再び掛けていったのだろう。事の露見を少しでも遅らせるために。
 音もなく忍び寄り、何の痕跡も残さず消え去ってしまう恐るべき能力――それは伝説に名高い、闇に潜む霧の魔物を思わせる。

 フォーロックは心の中で叫んだ。
 ――うかつだった! 跡をつけられていた? 気配などなかったぞ。
 後悔と自嘲、そして怒りの入り交じった何とも言えない顔つきで、彼は拳を震わせる。
 ――儲け話にひょいひょいと乗って、事情を知ったら心変わり……。馬鹿だった。だが、そのときにはもう、奴らに利用されてたってことか。本当に俺はバカだ!
 ただ事ではない様子をミーナも感じ取っていた。心配そうに見つめるミーナをなだめるように、フォーロックは彼女の肩を抱き寄せる。
「ばれちまって……るよな? そりゃそうだ、お前、カンはいいから。分かった、後で話す。今はとにかくアレスを連れ戻さないと、あいつも危ねぇ」
 フォーロックは、一度は腰から外しかけていた剣を急いで帯び、壁に掛かっている小銃を手に取った。
「俺はアレスを探す。いいか、俺が入ってくるまで、何があってもこのドアを開けるな」
「フォーロック……。気をつけてね」
 大柄な賞金稼ぎを、ミーナは弱々しく見上げる。フォーロックは少しかがみ込むと、無精髭だらけの顔をすり寄せる。触れ合う肌を通して、彼の低い声がミーナに心地よく響いた。
「必ず無事に戻る。なぁに、俺は不死身さ。たとえ地獄に落ちたって、地獄の鬼の首を狩ってこの世に舞い戻り、金に変えてやるよ」

 ◇ ◇

 王キエルハインの郊外で、フォーロックの家からイリスが消えた晩――街を見おろす丘の上にそびえる王宮は、不思議なほどの静穏につつまれていた。
 夜空から降り注ぐのは、現し世の月《セレス》の放つ優しげな輝きだ。もうひとつの月、歓迎されない闇の青い月《ルーノ》は当分は姿を現さない。
 王の城の本館と東館の敷地の間には、自然の川を利用した堀が流れている。黄金色の月光をゆらゆらと映す水面。清流のせせらぎが、身震いするほどに美しく、安らかに聞こえてくる。
 川に架けられた橋の上、一糸乱れぬ隊列を組み、靴音も整然と、数名の警備の近衛隊士がやってくる。その先頭に立つ一人の騎士、白地に金の縁取りも鮮やかな胸甲が輝く。純白のマントが微風に吹かれ、生地に描かれた黒き竜の紋章が揺らめく。これは、パラス・テンプルナイツの装束に他ならない。
 騎士は橋のたもとまで来ると、何者かの姿を認め、隊列の動きを止めた。部下たちを待機させたまま、美しきパラスナイトは石造りの橋の上を歩んで行く。肩口で丁寧に切り揃えられた金色の髪が、サラサラと夜風に遊んでいた。
 橋に立つ先客の影は、彼女の足音を聞き、静かに振り返る。
 続く沈黙。やがて口を開いたのは、パラスナイトの方だった。
「たしか、貴女は……。レミア王女の指南役のディ・ラッソ殿?」
 名を呼ばれたディ・ラッソ、すなわちルヴィーナは穏やかな表情で微笑み、さらに目を細めて相手を見やった。
「これはこれは。パラス聖騎士団の、セレナ・ディ・ゾナンブルーム殿」
 穏和な笑みの向こうに、隙あらば相手の心の奥底までも射貫くような眼差しである。東館に居る内大臣派の人々と、メリギオス大師の懐刀も同然のパラス騎士団とは、普通に考えれば犬猿の仲であろう。静けさの中に、火花散るような状況になっても不思議ではない。
 だが、セレナの表情は意外にも柔らかであった。生ぬるい気温、独特の妖艶な空気感をまとった春の夜風を、胸一杯に吸い込むように大きく呼吸すると、彼女はルヴィーナの方に歩み寄った。
「月を、ご覧になっていたのですか?」
「はい。今晩は雲ひとつ無く、月の輝きが見事ですわ。これで満月であれば……。惜しくも端が欠けていますね。残念ですこと。お役目、お疲れ様です」
 そう告げて品良くお辞儀したルヴィーナ。
「ありがとうございます。お役目? えぇ、まぁ、そういうところでしょうか」
 ルヴィーナの側に近づいたとき、セレナは不思議な感覚にとらわれた。ふと気がつくと、全身が何か暖かいオーラに包まれているように感じたのだ。
 ――柔らかく、優しい感じだが、強い力……。以前は神官だったと聞いていたが、これほどの術者だとは。
 自らも魔法の使い手であるセレナは、ルヴィーナのまとう霊気を感じ取り、思わず一歩退いた。
 流れるような空色の髪を揺らし、ルヴィーナはセレナを見つめる。
「ご心配なく。私は神聖魔法の術者ですから、他人に危害を加えるような呪文は知りません。それに……」
 ――心を読まれている? そんなはずはないが。
 ルヴィーナの瞳が目の前で自分を凝視しているような錯覚に、セレナは陥った。
「セレナ殿。貴女のようにお美しい方を傷つけることは、どんな術者でもためらうことでありましょう」
「いいえ。お戯れを……」
 我に返ったセレナは、無意識に鋼の胸当てに手を当てた。その冷たい感触が、彼女の心を澄み渡らせた。
 ――何というのか、近づいてはいけない気がするのに、引きつけられてしまう。たおやかで生真面目な神官だが、得体の知れない影、闇を感じる。
 橋の欄干に手をかけ、ルヴィーナはしばらく夜空を見上げる。そのままの姿勢で彼女はつぶやいた。
「かのパラスナイトともあろうお方が、自ら巡回に出てくださるとは。勿体ない、ありがたいことです」
「いや、これには色々と……。貴女に言っても仕方がないのでしょうが」

 そのとき、橋の反対側から駆けてくる者がいた。手に弓を携え、甲冑を鳴らし、いや、甲冑の重さのため、右に左に揺れながら走ってくる女性が。見るからに、鎧を着て走ることにまだ不慣れな有様だ。それでも、長い黒髪をなびかせて懸命に走っている。
 見覚えのある姿に、ルヴィーナは心の中でつぶやいた。
 ――あの娘は、夕方の……たしか、リーンと言いましたか?
 ルヴィーナとセレナが何事かと見つめる中、リーンは足元の石につまづき、勢いよく前に転がった。カエルをつぶしたような情けない格好で、弓を握ったまま地べたに伏している。
 言葉も出ず、顔を見合わせたセレナとルヴィーナ。
「あいたたた……」
 リーンは目に涙を溜めて起き上がり、片方のレンズがすでに割れている眼鏡を掛け直した。そしてルヴィーナの姿を見た途端、ただ事ではない様子で叫んだ。
「ル、ルヴィーナ様! 大変です、団長が、ヨシュアン団長が!!」

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