HYBRID-FANTASY A L P H E L I O N アルフェリオン

 

 第42話

Copyright (C) 1998-2008. Hayato KAGAMI

「私が思うに、あなたの心の変化が、力の発動の引き金になったのではありませんか?」

  3.

 白日夢から現実に引き戻され、慌てて部屋に飛び込んできたルキアン。彼に着席を促すかのように、クレヴィスは黙ってうなずいた。
 他方のルキアンは、どぎまぎした有様で突っ立ったままである。
「あ、はい。その、ぼ、僕……ぼんやりしてて。すいません」
 少年の視線は、室内を曖昧に泳ぎ、天井のシャンデリアや床の絨毯などに無秩序に向けられた。しばらく間があった後、ルキアンの眼差しは、目の前に座っているクレヴィスの向こう、壁に飾られた一枚の絵に引き寄せられた。
 見事な色づかい、特に黄金色の淡い光の描写にルキアンは感銘を受けた。この絵が、本職の、しかも一流の画家によるものでなく、趣味の絵描きが片手間に仕上げた作品だと知ったなら、ルキアンの驚きはさらに大きくなるであろうが。キャンバスに表現されているのは、少し高いところにある白い小窓から、光の差し込む部屋。そこには、ヴァイオリンに似た楽器を大事そうに抱えた童女と、恐らくその楽器を弾くためのものであろう弓を、無邪気に頭上にかざしている童子とが描かれていた。
 いかにも何らかの寓意を思わせる、奇妙な題材の絵に興味をそそられるが、今はそれに見とれている時ではない。ルキアンは視線を元に戻し、椅子に腰掛けた。
「あぁ、あの絵は、ソル・アレッティン卿が描いたものです」
 二人の目が再び合う。事情が分からず、きょとんとしているルキアンに対し、クレヴィスは表現を変えてもう一度告げる。
「ですから、あれは、アクスのディガ副長の作品ですよ。驚きましたか?」
 アクスの副長と言われてルキアンも理解した。彼が話しているところを、ルキアンはほとんど目にしたことがない。優雅ながらも少し辛気くさい、知的ながらも神経質な感じのする三十代くらいの貴族だ。彼とは対照的に野卑で荒っぽい元海賊のバーラー艦長の隣で、ディガ副長は、いつも黙って座っている。そんな様子を見て、ルキアンは何となく親しみのような気持ちを覚えることがあった。自分に少し似ている、とでも。
「本当ですか。すごいですね! でも、僕、聞いたことがあります。都市国家マナリアは、芸術の都と言われていて、あそこには絵や彫刻のパトロンになる豪商も沢山いるんですよね。ディガ副長ほどの腕があれば、絵で十分に生活していけそうですが……」
「いや。彼はマナリアの都市貴族、それもかなりの門閥家の生まれですから、わざわざ絵で生計を立てる必要なんてありませんよ」
 呆れたように笑って首を振るクレヴィスに、ルキアンは途中まで言いかけ、言葉を飲み込んだ。
「それなら、どうしてわざわざ」
「彼にも《理由》があるんでしょう。あなたにも、私にも、それがあるのと同様に」
「僕の、理由……」
「そうです。そして私が確かめたいのは、ルキアン君の《理由》なのです」
 しばしの沈黙。クレヴィスは、唐突に、明日の天気の話でもするようにあっさりと、根本的な問いをルキアンに投げかけた。
「ルキアン君。あなたは、この《世界》が美しいと思っていますか。それとも醜いですか。あなたにとって、この世界とは何ですか? そして《人間》については、いかがです?」
 クレヴィスが目を細めて見つめている。こうして彼が意味ありげに微笑んでいるとき、それはルキアンの僅かな経験からすれば、決まってクレヴィスが大事な内容の話をするときだ。
 あまりに軽く発せられたわりには、話の中身が不釣り合いに観念的で、むしろ悪い冗談かと思えてくるような質問だった。普通の人間ならば、いや、ルキアンも、少し考え込まざるを得なかった。その一方で、ルキアンの心の中では、実は即座に答えが出かかっていたのである。しかし彼はそれを取り消したのだ。

 ――世界も、人間も、美しくない、かもしれない。僕にとって、本当に美しいものは空想の中にしかなかった。これまで、僕はそう思っていたし、これからもその気持ち自体は変わらないかもしれない。だけど……。

「あ、あの……」
 声を詰まらせたルキアン。クレヴィスは彼の心の中を見通したかのように頷いた。
「今の質問に対して自信を持って断言しようとするのは、特別に幸福な人と特別に不幸な人――もちろんそれは本人の《主観》においてという意味ですが――だけかもしれません。大半の人間にとっては、世界も人も、美しくもあれば醜くもある。同じ人間の目にとってさえ、その時々の境遇に応じ、世界も人間も、美しく見えることもあれば醜く見えることもある」
「えっ?」
 戸惑いながらも、ルキアンはクレヴィスの話に惹き付けられてしまった。クレヴィスの瞳が、なお柔和さを漂わせながらも、併せて鋭い光を放つ。
「つまり、人間も世界も《捨てたものではない》というところなのでしょう。《人生についての常套句》としては、いささか使い古された感もありますが、大筋では外れていないと私は思いますよ。多くの人間は、適当なところで世界や他者と《折り合い》を付けざるを得ない。世界や人間が美しいか、醜いか。いずれにせよ、《私たちは、この世界だけの中で、この人間たちと共に生きてゆくしかない》のです。これは動かし難い事実、人間の生の大前提です。ならば……」
 クレヴィスの言葉をルキアンが、おずおずと継いだ。
「すべて醜いと思って嫌悪しながら、いやいや諦めの中で生きるより、世界も人も美しいんだと思っている方が、とりあえず《楽》かもしれないです。その方が、普通は幸せだと思います。それを前向きって呼ぶのは、ちょっと違和感がありますけど」
 彼の言葉を受け、クレヴィスの口元が緩んだ。その表情の意味は、ルキアンには計りかねるものだった。
「では、あなたにそれが出来ますか?」
「えっ? 僕、ですか」
「この《世界》と《和解》しようと思いますか、あるいは《妥協》点を見いだせますか? それとも、もっと別なことを、あなたは……。どうですか、ルキアン・ディ・シーマー君」
 クレヴィスの言葉が、ルキアンの心に突き刺さる。口ごもったまま返答出来ずにいる少年の前で、クレヴィスは両手を組み、その上に顎を軽く乗せた。
 じっと黙って、ルキアンの答えを待つクレヴィス。だがルキアンには、同様に沈黙し続けることしかできなかった。静寂を破り、クレヴィスの声が、静かに、だが力強く部屋に響いた。
「《旧世界の遺産》として、現世界においては比類のない力をもつアルフェリオンは、いわば人間界に投げ降ろされた《天の剣》のようなものです。《ステリア》の恐るべき力は、かつて旧世界を滅亡させ、今後、現世界の行く末をも左右するでしょう。その《剣》を手にした人間が、どういう理由でそれを振るうのか、この世界と自分との関係をどのように考えているのか、私も関心を持たざるを得ないでしょう。違いますか?」
「そ、それは……」
「ネレイのギルド本部で私が言ったことを覚えていますね、ルキアン君」
 今でもはっきりと覚えている。自らの運命の転機となったあの言葉を、このか弱い少年は心の中で反芻した。

 ――あなたは現実の中で疎外感を覚えていたかもしれません。繊細な心が欠点や邪魔物にしかならないようなこの世界を、無意識のうちに憎んでいたかもしれません。けれどもルキアン君、あなたはこの世界とはまさに異質であるがゆえに、この世界にとってなくてはならない人なのです。

 クレヴィスの意図を徐々に理解し、頷いたルキアン。
「そうですね。幼い頃から、僕には本当の居場所がないと感じていました。そんな現実から逃げ、空想や妄想の世界に閉じこもっていました。そして僕がアルフェリオンの乗り手となった理由も、最初は、これまでの《日常》が何か大きく変わって新しい世界が広がるんじゃないかと漠然と思ったからでした。あの事故をきっかけに、結局、僕はそれまでの現実から《新しい現実へと逃避》しただけだったんです」
 ルキアンはさらに続けた。
「いま考えてみると、アルフェリオンに初めて乗った頃の僕は、それまでの現実から逃げただけじゃなく、《空想の世界からも逃げた》んです。あの頃、僕は、現実離れした妄想にも――例えばソーナのこととか――飽き飽きしかけていて、悶々として居場所が本当に無くなっていたんだと思います」
 彼の言葉に同意するかのごとく、クレヴィスが再び口を開いた。
「現実に疲れて空想の世界に逃げた人間が、もし空想の世界にも居られなくなったら……。待っているのは破滅のみです。そのような人間は、大変危険なものです」
 ルキアンは、その言葉に恥ずかしげに頷く。だが彼の瞳に、ふと明るい光が浮かんだ。
「でも、クレドールのみんなと出会って、クレヴィスさんに出合って、僕にも《夢》ができました。僕の夢、その《想い》は、たしかに今の世界の現実とは食い違っているかもしれません。だけどそれは、現実に背を向けた単なる空想でもないんです。現実とは違う想いの力で……その、理想っていったらいいんでしょうか……現実と向かい合い、現実とは違うからこそ、現実を変えられるかもしれない。争いばかりの世界が、矛盾に満ちた世界が、別に天国や楽園になんか変わらなくったっていい、ただ《優しい人が優しいままで笑っていられる》ような、そんな世界が当たり前になればいいなと、僕も思うんです」
 不意にルキアンは我に返り、赤面した。
「あ、あの、すいません。僕ばかり喋って」
 クレヴィスは穏やかに笑みを返し、ルキアンに話の続きをするよう求めた。
「あ、ありがとうございます。その、以前の僕は、空想の世界に逃げているだけでした。でも気づいたんです。現実が変だと思ったとき、ただ逃げたり心を閉ざしたり、運が悪いとか不幸だとかあきらめたり、何でも自分が悪いんだと悲観したり、逆に何でも世の中やまわりのせいにして憎んだりするんじゃなくって……上手く言えないんですけど、その……現実に対して疑問を感じたとき、どうして僕は、それを誰かに問いかけてみたり、身の回りのほんの少しのことからでも変えてみようと挑戦したり、そうしなかったのかなって。気づいたんです」
 ルキアンは頬を上気させながら言った。
「何となくは、気づいてたんですが……。あの人に、《シェリル》さんに言われて、僕はやっと分かったんです」

  現実への絶望が深いほど、
  あるいは現実が理想を失って著しく歪んでいるときほど、
  内なる幻想の翼は、いっそう大きく羽ばたこうとする。
  まずは君自身が認めることだ、己にその翼があることを。

「《それが現実だ》という理由だけで現実が正しいとされるのなら、そんなの間違ってると僕は思います。そうじゃなくて、善いから、美しいから、面白いから……そういう理由があってこそ、初めて現実は正しいって言えるんだと思うんです。そして、善いとか、美しいとか、面白いとか、それは現実に対する《人の想い》です」

  ――現実と夢想の狭間で、君の涙は無駄に流れ続けてきたのか?
  《拓きたい未来》を夢見ているのなら、
   ここで《想いの力》を私に見せてみよ!

 シェフィーアの言葉を胸の内に改めてよみがえらせた後、猫背気味に座っていたルキアンは姿勢を正し、クレヴィスを正面から見つめて言った。
「夢や空想というのは、《現実から逃げるためのものじゃなくて、現実を変えるためのもの》だと思います。矛盾に満ちた《世界》の中で、その矛盾と戦いながら自分らしく生きてゆくために、ひとりひとりの人間に備わっている、えっと……。あれ、その……」
 途中まで勢いで説明し出したものの、的確に表現できる言葉を見いだせないルキアン。そんなルキアンの肩にクレヴィスは優しく手を置き、代わりに自分の言葉で続けた。
「そう、《己の想いを描き、自らの意思によって現実に働きかけ、今の現実とは異なる未来を創造しうる力》です。あなたにも分かったようですね。それが《人》の力、《パンタシア》の本質」

 クレヴィスは、ゆっくりと席を立った。
「この現実とは異質な者だからこそ、現実に対し、これを変え得るほど強く切り結ぶことができる。しかし、一歩間違えば、その異質さゆえに疎外感に苛まれ、現実を憎み、その者の怒りは世界や人々すべてに向けられてしまいかねない。諸刃の剣――はからずも天は、旧世界においても、現世界においても、そういう種類の人間に二度もアルフェリオンの力を委ねた。興味深いことです」
 ルキアンを部屋に残し、クレヴィスは満足げな表情で出て行こうとしているかのように見えた。と、彼の歩みが止まった。
「これは私の直感ですが、リュシオン・エインザールは剣の諸刃の一方……つまり、己の《想い》を現実の中で形にするために《いかなる手段を用いるか》ということと、それを《何に向けるか》ということ、その二点において決定的に誤ってしまったのかもしれません。ルキアン君は、もう一方の刃となれるのか、それとも新たなエインザールとなるのか。おそらくエインザールも、あなたとよく似た想いから、ひょっとするとよく似た境遇から、この世界の矛盾や歪みに気づいた。問題は、そこから先です」
 本当はそこで、《僕はエインザールにはならない》と言いたかったルキアン。しかし、結局、単純にそう言い切る自信は無かった。
 だが、困惑した面持ちの彼に、クレヴィスがにこやかに片目をつぶってみせた。
「安心してください。私も、そしてシャリオさんも、あなたを信じています。ルキアン君が憎しみにとらわれて《紅蓮の闇の翼》を再び目覚めさせることはないと。そう信じているからこそ、私たちは、ルキアン君の手に《天の剣》アルフェリオンを委ねることができるのです。いま、改めて問います。その《剣》を手にする覚悟が、つまり、あなた自身の《理由》をもって明確に自覚したうえで《戦う》という覚悟があるのなら――それを我々に示してください。いつまでも《巻き込まれた者》として、今後もなし崩し的に戦いに加わってゆくことは、何より、あなた自身のためになりません。このあたりで、一定のけじめが必要です。厳しい言い方のようですが……」

 ◆ ◇

 ――そして僕は《繰士(エクター)》になることを選んだ。自らの決意と共に。

 クレドールの艦橋、ルキアンは今、ナッソス城を目の前にしている。クレヴィスの指示があれば、いつでも出撃する心構えが出来ていた。しかし、別の思いが、やはり彼につきまとって離れようとはしなかった。
 ――カセリナ。僕は君と戦いたくない! 誤解を解きたい。もう一度、会って話し合えば……。どうして僕らが戦わなければいけないの? そんなの、悲しすぎるよ。

 だが少年のそんな願いは、これから始まる戦いの苛烈さを、この世の不条理を、あまりにも甘く見た夢想にすぎなかった。

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