NAKAJIMA’S EYES |
中嶋 秀人 |
私は中学校を出てすぐ下賀茂の福祉センタ−へ行かされた。社会へ出る為の準備が始まった。ここで初めて寮生活をした。職業訓練{謄写筆耕(ガリ版や和文タイプ)・補装具作り・自転車修理}や社会マナ−、体育の時間もあった。立命館の体育の先生が来て、楽しく身体を動かそうと色んな工夫をしてくれた。ドッチボ−ル・卓球・糺ノ森(ただすのもり)で槍投げ・ソフトボ−ル・砲丸投げ等、その他も沢山あったが忘れてしまった。 この福祉センターが私の施設(職業訓練校や職業リハビリ施設)回りの始まりだった。其処の職員が仕事を探してくれた。最初の仕事はガリ版切りと和文タイプ・オフセット印刷だった。しかし運動神経が鈍く、タイプは普通の人の様には早く打て無い。其の次に就いた職業は、大阪職訓校の温室園芸科の出身だから園芸関係の仕事っていうフレコミだが、それは名前だけ、貸鉢屋だったので力仕事ばかり、庭石を持ち上げたり、30s以上もある鉢をトラックの荷台に運んだりしなければならなかった。腰を悪くしそうになった。 その次大変だったのは、漆塗りだ。お椀や茶道で使う棗(ナツメ)、茶甕(チャガメ)、皿、お盆、茶櫃(チャヒツ)、膳(敷膳)等に木地(木で出来た下地)の上から漆を何層にも塗っていく。漆にかぶれたり、シンナ−を吸い過ぎてボ−ッとなったり、漆は湿気(湿度85%で固まる)がなくては乾かない、仕事場は閉め切ってあるので滅茶苦茶蒸し暑い。 一番嫌だった仕事は、府立医科大学の屋上での実験動物の飼育をすることだった。飼育と云っても餌をやるくらいである。一番多い仕事は実験で死んだ動物の後始末だった。小さな鼠から1m50cm位の犬まで屋上に運ばれてくる。これを焼却炉で焼く、焼いた後の骨を細かく砕いて捨てる。可哀想だが医学の進歩上仕方がないとは思うが、出来ればやりたくない仕事だ。鼠の檻の修理が出来ないので、3ヵ月で辞めさせられた。 如何しても学校へ行きたくて、新聞配達をして夜間高校へ行く。重たい物を肩から首にかけたのも原因かも知れないが、脳性麻痺の宿命か頸椎軟骨症に罹り、京大病院で大手術。12月から4月まで入院する。 そして伏見区で手動写植機を社長に習い働く、やがて電算機写植の時代が来て、岡山県の吉備高原職業リハビリテ−ションセンタ−で電算機写植を習う。 和文タイプと違い、独特の欧文や和文の覚え方「一寸ノ巾方式」で大量の字を覚えさせられる。計算も36分の1oまでの植木算を覚えさせられた。 そして47,8歳までの大半を施設(主に職業訓練校)と仕事場へ通うこと、そして職業安定所への行き来で終わってしまった。 今から思うと仕事の面では、今の若者達よりも良い時代を過ごしたのかも知れない。中学出でも働き場所が沢山在ったのだから………………………………。 今の不景気な時代では、中学・高校はおろか大学出でも仕事場は中々見つけられないのでは無いかと思う。 |